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碧海 ユリカのコラム掲載。
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第311回 「奇跡のコース」 用語集6 

6 聖霊とは

聖霊は形を持たないが、形を持たないゆえにいろいろな姿となって現れる。必要とされればいつでもどこでもあらわれる。聖霊は常にあなたのマインドに在るのだ。 たとえば、イエスは聖霊でもあった。そして、イエスが復活したのち天に昇るとき、イエスは途方に暮れる使徒たちに「これからは父なる神が自分の代わりとして聖霊・・真理の御霊を遣わす」と約束した。復活日から40日目が昇天日、ここでイエスは完全に「神のひとり子であるキリスト」となり、神に造られたままの状態に戻った。復活日から50日目が聖霊降臨日とされており、ここで聖霊が実際に使徒たちのところに降りてきたのである。聖書によれば、急に激しい風が起こり火のように熱い舌みたいなものが現れて、それが分かれてそれぞれの上にとどまった。使徒たちは聖霊に満たされ、突如いろいろな国の言語を自在に喋れるようになり、完全なる自信に満ち溢れてイエスの教えを伝えるべく活動し始めた。

聖霊は、唯一の創造主である神によって、神に似せて造られたものであり神の御心の一部であり、聖「霊」と言うからにはスピリットでもある(sanctus spiritus)。神と同じ性質を持っているのだから、永遠に不変で限りなく、また神と同じように創造する。聖霊が遣わされたとは、地上で生きる私たちが天上の神とのパイプを与えられたということである。地上でバラバラの個として生きている私たちは、自分のなかの「神(とひとつ)」がわからなくなってしまったのだ。だからこそ、それに気づけるよう助け導いてくれる存在が必要になったのだ。聖霊は神に代わって語るものである。神の言葉を伝えるものである。しかし!神はどこか遠くに存在するのでなく、私たちとともに或いは私たちの中に在る。本来の私=本来の自己は神とひとつなのだから、本来の自分の声・考えは神の声・御心であるはずだ。それがわからなくなっているから聖霊が必要なのである。聖霊はいろいろな形を取ってあらわれるとはいえ、別に自分の外側にあらわれるとは限らない。自分の中で聖霊が働くような感じになることも少なくないのだ。何らかの形を取ってあらわれた場合であっても、それは仮の姿みたいなものであって、聖霊の実体ではない。とにかく、神も聖霊もキリストも自分の外に在るのではないということを憶えておいていただきたい。

聖霊は「コース」全篇にわたって登場する。神から分離してしまった(と思い込んでいる)私たちに「本当はそうではないんですよ」という答えを与えてくれるものとして、またあがないをもたらすものとして、更にそのあがない=救いをもたらすことにおける私たちそれぞれの役割をその都度示してくれるものとして描かれている。イエスは象徴的な存在だ。何故なら、イエスは「世に救いをもたらす」という聖霊の計画において完璧に自分の役割を果たしたからである。イエスにおいては自分の思い・意志がそのまま神の御心だったのだ。言い換えれば、何もかも完全に聖霊に委ね切っていたのだ。ならば、イエスは聖霊の化身だったとも言えるだろう。全てを委ねていたからこそ、神と同じ限りない力がイエスには与えられた。いや、その力は実のところ誰にでも与えられているのだが、自分をすっかり聖霊に委ねていない限りそれを完全に用いることができないのだ。もし、あなたも聖霊に自分をすっかり委ね、自分に与えられた役割を完全に果たすならば、あなたも限りない力を完全に用いることができるだろう。イエスは歴史上の人物、つまり身体を持った時間軸上の存在だが、聖霊はそんなものではない。言うまでもなく、イエスが登場するよりずっとずっと前から、世の初めから聖霊はいたのである。救いの基本方針を与えられて遣わされていたのである。

聖霊は、神から分離してしまった(と思い込んでいる)マインドと神とをつなぐただ一つのもの、神と(間接的にだが)交流するためのただ一つの媒介である。真理とつながるための唯一の手段と言っても良いわけで、だからこそ私はテキスト篇で「聖霊は純粋理性とも言える」「聖霊をより一般的な言葉で表すと純粋理性になる」と書いたのだ。キリスト教によらずに真理を知った人も当然いるわけだし、別に「聖霊がどんなものかわからない限り、真理に触れることはできない」なんてことはありえない。

とにかく、神から離れてバラバラになってしまった(と思い込んでいる)私たちに神の御心=真理を伝えるという役割が聖霊には与えられている。だから、聖霊は「神」と「個であるマインド=エゴ」の両方にまたがっているみたいな感じで、たとえば聖霊は「神=真理を直接知っている」一方で知覚認識もできるのである。ただし、聖霊は歪んだ知覚認識をしない。神の御心を反映したような正しい知覚認識だけを行うことによって、私たちの間違い或いは間違った知覚認識を正して浄化するのである。キリストのヴィジョンと言っても聖霊による知覚認識と言っても同じことだ。聖霊は光でもある。ゆるされた世界はその光の中で知覚認識される。私たちの中にある光、それは聖霊でもあるのだ。その光の中では誰もがキリストのように見えるのである。聖霊は、造り主たる父なる神もそのひとり子も決して忘れることがなく、従ってあなたのことも決して忘れない。見放したり見逃したりすることはありえない。そして、聖霊はとこしえに変わることのない神の愛をあなたにもたらしてくれる。普遍の真理をあなたに垣間見せてくれる。

聖霊はエゴの存在(と言ってよいものかどうか)をわかっているが、同時に「エゴなどない」とハッキリ知っている。エゴと聖霊とは混ざり合うことがない、何故ならエゴは「ない」からだ。存在しないもの・無と混ざり合ったり共存したりすることは不可能だからだ。聖霊は、あなたのマインドの(中の)スピリットの部分、あるいはキリストであるあなたのマインドに存在する。当たり前だが、神と一つであるところに存在するわけだ。聖霊においては神とそのひとり子は「ひとつ」である。ゆえに、聖霊が伝える神の声は真のあなたの声と同じものなのだ。言い換えれば、聖霊は真のあなたに代わって語る者、真のあなたの声をあなたの身体を通して伝えたり語ったりする者なのでもある。ここにおいて神とあなたは「ひとつ」であることがハッキリするのだ。このことは、あなたが聖霊に全てを委ねていれば次第にわかってくるだろう。聖霊はあなたにとって最もわかりやすく説得力のある形をとってあらわれる。というか認識される。だから、何かしらの声として聞こえてきたり、誰かの姿を取ってあらわれたり、書物の中にあらわれたり、光に見えたり、あるいはただ純粋理性として働いてくれたりする。とにかく「あらわれた形」は聖霊そのものではないのだ。いくら「聖霊が見えた!」「聖霊の声が聞こえた!」と思っても、それによってあなたの知覚認識が正され浄化されなくては何の意味もない。逆に言えば、見えたり聞こえたりしなくても自分の間違いに気づいて正せれば、そして知覚認識が正され浄化されればちゃんと聖霊が働いていたことになる。目的はそこにあるのであって、聖霊の「声」「姿」を見たり聞いたりすることじたいは目的にならない。

また、ここが結構重要なのだが、聖霊は決してあなたのエゴに騙されないのだ。つまり、あなたがエゴによって聖霊に何かを求めてもダメだということである。聖霊はあなたが本当に必要としているものが何なのかわかっているが、あなた自身はそれがわからなかったりする。だからこそ、自分で考えて判断しようとせずに聖霊に丸投げしてしまえばいいわけだ。たとえば「恋人さえあれば幸せになれる」と思い込んでそれを聖霊に求めてもそれは得られないだろう。何故なら、それはエゴの願望に過ぎないからである。あなたは自分で「これがないとダメだ、自分にはこれが必要だ」と思い込み、そこに囚われて苦しんでいる。聖霊は、あなたをその思い込みや囚われから解放するのである。あなたをそこから救い出すのである。

ものすごく平たく言うと・・聖霊に全てを委ねる・丸投げしてしまえばもうあなたには心配することがなくなるはずだ。その時点であなたは既に半分は救われているのである。そして、その安心感や充足感が投影されるからこそいろいろな奇跡が現象としてもたらされるのだ。

あなたもまたこの世界の中で聖霊の化身となることができる。他の人々に神の声・真理を伝えるための手段になることができる。誰だってたった一人では何もできない。特に、いろいろな思い込みを現実と取り違えて苦しんでいる人ならなかなか自力ではそこから抜け出すきっかけをつかめない。しかし、聖霊があなたの身体を通して語り掛ければそういう人々もまた救い主としての役割を果たせるようになるのだ。あなたはその人を通して自分の間違いに気づき、正せるかもしれない。そうすればその人はあなたにとっての救い主になるのだ。人を見たら聖霊と思え!そう思って見るあなたもまたその時には聖霊になっているはずだ。こうして私たちは聖霊に導かれつつ世界に救いをもたらすのである。自分に与えられた役割を果たすのである。この人は聖霊だけどあの人は違う、などと考えてはならない。あなたにもっとも苦しみを与えているように見える人をこそ、聖霊だと思って見るのである。

こういうふうに過ごしていれば、あなたは次第に幻想の世界から抜け出すだろう。そして、自分があらゆる人々と「ひとつ」なのだとわかってくるだろう。誰を見てもキリストに見えるようになるだろう。それが「本当の世界」である。前にも出てきたように、本当の世界はすぐに消え、「とこしえに変わらぬ本来の状態=天国」があらわれる。そこに至ればもう聖霊の存在も不要となる。というか、あなたも聖霊も神もキリストも何もかも「ひとつ」になってしまい区別などなくなるのだ。形というものが一切消えてしまうのだ。もちろん、時空間も消滅する。そして、全ては直接知られるだけで知覚認識はなくなる。

この「直接知」とか「純粋精神の直接経験」「純粋経験」などと呼ばれることは、この世で身体を持っていても可能である。古今東西、そう多くもなく一般的でもないがこの種の経験をした人々はいたのだ。しかし、誰だってずっとその状態ではいられない。何故なら、この状態にあるままで日常生活をおこなうのは不可能だからだ。ずっとその状態にある人は、いわゆる「行きっぱなし」、傍から見れば「発狂」か「こん睡状態」でしかないだろう。これでは世界を救うことができない。「コース」はそんなことを薦めたりしない。そこに至る経験をしてもまた戻ってきて世界を救う役割を果たし続けるほうが良いのである。

第310回 「奇跡のコース」 用語集5 

5 イエスとキリスト

あなたが天国に入るのに助けは要らない。何故なら、あなたはずっとそこにいたままなのだからであり、そのことに気づきさえすればよいからである。しかし、そのことに気づくための助けは必要だ。言い換えれば、自分が身体を持った個であるという間違った思い込みを捨てるための助け(学び)は必要だ。あなたは本来の自己を見失い、身体とか個などといった限定的なものを自分だと思い込んでいるからである。その助けとなる存在は神の御心によって与えられている。それらは便宜上さまざまな形を取って現れ、いろいろな名称を与えられているのだが、結局はひとつのものである。その都度、学ぶ本人がもっともわかりやすく受け入れやすい形をとって現れるだけで、その形も名称もシンボル=記号に過ぎず、どんな形や名前を持っていてもその向こうにはただひとつの「神の思い=エネルギー」しかないからだ。たとえば「コース」なら聖霊やキリストなどが出てくるが、キリスト教の枠組みを用いないのであれば他にいろいろな形や名前のものだってあるだろう。形や名前なんかどうでもいいのだが、ここではとりあえずキリストと聖霊(次章)についてのみ説明しておく。

神じしんが直接私たちを助けることはない、というよりそんなことはできない。神の御心に映る(という語は正確ではないが)私たちは「神と同じひとつのもの、神のひとり子」であり、何らかでも助けを必要とするような状態にはないからだ。簡単に言えば、神の御心にはスピリットとしての私たちしか映っていない。しかし、同時に神の御心は常にそのひとり子が「完全であること」を望んでいるので、私たちが「不完全」という幻想を真実だと思い込んでいる間は、私たちに真実を思い出させる方向にその御心が働いていることになる。その中で自然に「助けてくれる存在」が神の御心から生じるのである。
さて、イエス(ジーザス、イエズス)という名前は、2000年以上前のナザレにいた一人の男の名前である。彼は「人の子として生まれ」=一人の人間ではあったが、あらゆる人々の中にキリスト=神のひとり子・救い主を見た、あらゆる人がキリストに見えた。そして、神を憶えていた。ゆえに、イエスは自らを神のひとり子・救い主であるキリストだと自覚した。イエスはもはや「一人の人間」ではなく、神とひとつの存在だった。イエスは依然として「他の人々とは別の身体を持った一人の人間」のように周囲には映っていたが、もはや人間ではなかったのだ。イエスには他の人々が現実だと思い込む幻想も見えていた。だからこそ、「それは現実じゃない、幻想ですよ。あなたの勘違いですよ」と教え示して癒しの奇跡をもたらすことができたのだ。イエスは、間違い・ウソを看破しそれを現実・真実だとしなかった。だからこそ、イエスは救い主だったのだ。言うなれば、神のひとり子・救い主としてのキリストは、この世においてイエスという人間の形を必要としたのである。キリストは、イエスという一人の男の身体を借りたようなものなのだ。そうしないと、普通の人々にはキリスト=救い主の姿が見えず、それでは何も教え示すことができず、従って幻想から救い出すこともできなかったからである。

しかし、このイエスだけがキリストなのではない。私たち全てがそれぞれキリストでありキリストであるべきなのだ。つまり、自分の本性が神によってつくられた神のひとり子であると自覚し、とこしえに変わることなく神と一つである存在だ。イエスは私たちが歩むべき道を示してくれた。神のみもとに帰る道を示してくれた。イエス自身がそこを通っていったのだ。テキスト篇ではイエスのことを「お手本、先輩、おにいさん」みたいなものだと述べてあった。また、イエスは真偽について明確な区別を示してくれた。私たちにとってはいまだにこの区別が明確でないままである。更にイエスは極めつけとして「神のひとり子を殺すことなど不可能だ」「神のひとり子は死なない」ことを実際に見せてくれた。神のひとり子のいのちは罪や悪によって、また恐怖や死によって何ら変化するものではないことを実際に見せてくれた。
一般的なキリスト教の教えだと、まるでイエスひとりが私たち全員の「罪」をかぶって、本人は完全に潔白なのにもかかわらず私たちの代わりに罰を受けて苦しんで死んだ、みたいに思えてしまう。しかし、これは罪悪感を持つ者が自分の罪悪感を投影して作り出した解釈である。このあたりの事情もテキスト篇に詳しく書かれている。が、実際にはイエスは「神のひとり子には罪などないんだから、苦しみも恐怖も死もない」ことを教え示したのだ。私たちの罪は全てゆるされたこと、つまり「実際には何も起きていなかった」ことを(復活によって)見せてくれた。罪だと思われていたものは全て夢に過ぎなかった。イエスは私たちを夢から覚まさせるためにまず私たちと一緒の夢を見ていてくれたのだ。もちろん、夢だとわかったうえでそうしていたのである。そして、2000年以上昔のイエスだけでなく、いまこの時にあってもキリストは同じことをしてくれている。

イエスはその短い生涯の間だけでは十分なことができなかった。普通に考えれば十分以上のことをしたのだろうが、いまだに私たちは救われていないではないか。イエスは私たちに救いをもたらすために多くを学んだが、その教えはあまりにも偉大過ぎて十分には伝わらなかったと言ってもよい。だから、キリストはこれからもいろいろな人の姿を借りてその都度あなたの前にあらわれてくれるだろう。乗り移る、憑依するというのとは違う。あなたがキリスト(あるいはイエス)と思いを一つにすることによって、キリストのヴィジョンが与えられる。キリストを通して見聞きすることができるようになる。キリストとともに歩むとは、本来の自分とともに歩むのと同じことだ。あなたをもっともよく知っていて、もっとも愛してくれているような存在とともに歩むのである。キリストは神のひとり子であって人間ではないのだから、誰か特定の人々の身体の中に限定されることはない。いつだってキリストはあなたの中に、またあなたの眼の前の誰かの中に見いだせる。これからもあなたはキリスト(救い主)でもあるような誰かを「ひどい人、悪い人」だと思い込んでしまうかもしれない。自分のマインドの思いを投影してありもしない偶像を作り出してしまうかもしれない。そういう幻想から彼(女)を解放するのだ。それが「ゆるす」ということだ。自分のマインドの間違いを正すのである。そうすれば、彼(女)はこの上なく大切で素晴らしい存在としてあなたの眼に映るだろう。彼(女)はあなたのマインドに安らぎを与えてくれ、ついには神のもとに連れて行ってくれるような存在となる。

キリストはあらゆるところに、いろいろな形を取って現れる。この人こそ現代のキリストだ!みたいな人がひとりだけいたりするのではない。そして、イエスはキリストのメッセージ「神は愛なり」を実際に多くの人に、直接ではないがほぼ世界中に伝えてくれた人なのである。あなたにとって必要なのは「神は愛なり」これだけなのだ。イエスはこのことをいろいろな形で語ってくれたのであり、それらは新約聖書として残されている。テキスト篇では「聖書は間違いだらけ」と言っていたのだが、間違いだけでなく真理の言葉もたくさん書かれている。ここまで「コース」を学んだ人なら、聖書を読んでもその区別はつくと思う。ただ聖書を読んでも十分にその恩恵を蒙ることができるのだが、一歩進んでもっと踏み込めばよりキリスト=イエスはあなたを助けてくれるだろう。喜びも苦しみも全てキリスト=イエスとともにする、そして喜びも苦しみも全てキリスト=イエスに捧げれば神の平安が見いだせる。自分の中にキリストが在る、と言われても今一つピンとこないうちは特にいわゆる「イエス様」を頼りにするという方法が有効なのだと思う。神に直接祈りを捧げたって別に構わないし、げんに「ワーク」はそのようになっていた。が、同時に「ワーク」はキリストあるいは聖霊とともにおこなうものでもあったのだ。

以下は、キリスト=イエスがあなたにとりわけ学んでもらいたいと思っている教えである。
「死は存在しない、何故なら神のひとり子は神に似せてつくられたものだからである。あなたはとこしえの愛を変化させることなど絶対にできない。どんなことをしたとしても、とこしえの愛を変えることはできない。あなたの罪ととがの夢をゆるしなさい、そしてその代わりに私=キリストとともに神のひとり子に救いをもたらそう。私=キリストがあなたの世話をするのと同じように、あなたが世話をするために神があなたのもとに遣わした全ての人々をあなたと一緒に連れてきなさい。」

第309回 「奇跡のコース」 用語集4 

4 真の知覚認識と直接知

あなたに今見えているこの世界は、世界という名の幻想・まぼろしである。宇宙全体まで含めてみても、それが物理的なものを意味する限り神によってつくられたものではない。形あるもの、変化するものを神はつくっていない。神は形を持たず変化もしないのであり、神は自らの一部としてしか創造することはない。神によってつくられたものはとこしえに変わることがないのだが、そんなものはこの世界やこの宇宙の中にひとつとして存在しない。少なくとも、3次元に生きるいまの私たちに知覚認識できるものはみな変化を免れない。何故なら、そこには「時」があるからだ。

3次元宇宙に生きているこの身体は、3次元の時空間を超えることができない。身体の眼が見るものは、身体の眼に見えるものだけなのだ。身体の眼では本当の世界を見ることができない。物質宇宙でさえ全く正確には見ることができないのである。何故なら、身体の眼は簡単に欺かれるからだ。脳が判断したとおりのことが目に映る、と言っても良いのだが、とにかく自分のマインドにおいて「現実だ」と思ったことが目に映るのである。間違ったことでも現実だと思ってしまえばそれがそのまま目に映り耳に聞える。さっきは赤く見えたものが今は青く見えたりする。空気の状態によって色が違って見えたりもする。また、あなたのマインドにおいて罪や“とが”が「現実」だと信じられているならば、あなたは外界にも罪が見える。怖いものや悲惨なものが見える。そういうもの全て、神はつくっていないのだ。神によってつくられていないものは本当には存在しない、実在しない。完全性を保ち、とこしえに変わらないものだけが「実在」と言えるのである。これが「コース」の基本姿勢、というか「コース」は「実在」をこのように(まあ言ってみれば)定義づけているのだ。

間違った知覚認識は、直接知によって「直接」正されたり癒されたりすることはない。知覚認識と直接知は次元が違い過ぎて何の接点も持たないのである。地続きではないのである。間違った知覚認識はまず「真の・正しい知覚認識」に取り替わり、そうやって正され癒される。どんなに正しい知覚認識・聖霊による知覚認識であっても、それが知覚認識である限り「永遠に不変」ではありえないし、やはりその時々のものに過ぎない。が、正しい知覚認識は「救い」という目的に即した一貫性を持っている。ある事柄が今は青く見え、明日は赤く見えるかもしれない。しかし、それらがともに「救い」をもたらすことにつながるのであれば「その都度どう見えるか」など些末な問題なのだ。間違いを正される必要があるたびに正しい知覚認識が役に立ってくれる。真の・正しい知覚認識、これは聖霊による知覚認識であり、キリストのヴィジョンであり、ゆるしであり、救いであり、あがないであり、奇跡の癒しである。これらはみな結局同じひとつのことを表しているのだ。どれも、それじたいには直接至ることのできない、それじたいをはるかに超越した状態・・完全に一つであること・・・に至るという目的を持っているからであり、同じ一つの目的を持っているものは形が違っても「同じ」、だからである。真の知覚認識は、罪(という考え)から世界を救うための手段である。罪が「実在しない」という「事実」を実際に知覚経験するわけだ。罪がなければそれに付随して生じる恐怖も不安も怒りも憎しみも攻撃も、喪失も病も死もない、このことが実際に知覚経験される。つまり「本当にそうだとわかる」のだ。

誰もが救い主であり、実際にそう見える。そういう世界が「救われた、本当の世界」「正しく知覚認識された世界」である。その「本当の世界」の前に立ちふさがっているのが「この世界=幻想の世界」なのだ。たとえ一瞬あなたの眼に何が映っても、あなたの耳に何が聞こえても、それらを「間違い・幻想」だと正しく看破して相手にしない、それらを現実だと信じてしまうことがない、正しい知覚認識とはそういうものである。それを経てあなたは「神の愛と平安以外は何もない」ところに出るのだ。これは日常生活の中でもしばしば起こり、そしてついにはもっとも完全かつ究極的に起こるのだろう。私たちは毎日少しの間くらいは「ゆるすべきものが何もなくなった」状態、完全に「ひとつ」になってしまった状態、時間を超越した状態を経験できる。真の知覚認識ができればそれに引き続いてここまでのことはたいてい必ず起こる。この世界は「何もないところ」に映し出された蜃気楼のようなものなので、「そうなのだ」と正しく知覚認識されれば当然の帰結として「消えて」しまうのである。が、通常それは長く続かず、また「ゆるすべきものが見つかる」状態に戻る。この繰り返しであり、そうやって私たちは「救いをもたらす」という役割を果たし続けるのだ。

ゆるされた世界は長続きしない。また元の「ゆるされていない世界」に逆戻りする、という意味ではなく、それが専ら「暫定的な段階」に過ぎないからである。乱暴に言えば「幻想の世界から天国」への、あるいは「間違った知覚認識から直接知」へのジャンピングボードみたいなものだからである。ジャンピングボードは目的地でなく、手段に過ぎない。単なる手段に長いことしがみついている人はあまりいないだろう。

ゆるされた世界は、まだ「とりあえずは身体をもって生きる」ためのところなのだ。誰を見てもキリスト=救い主に見える、としてもまだそこにはとりあえずのものとして識別できる「個人」があり、いろいろなものごとの区別・差異もある。しかし、ゆるしゆるされればそういうもろもろは重要性を持たなくなる。とりあえずは「ある」ようだけれども、あくまで「とりあえず」のものとしてしか認識されない。たとえば、誰かを見るときあなたは「識別できる個人=身体性」でなく聖性を見るようになる。そうすることによって身体は癒され解放されるのだ。個人であることに起因するあらゆる問題が癒されるのだ。

身体が実在する世界は、罪のある世界・・・身体が作り出された状況を思い出してみればわかることだが、間違い=幻想が「ほんとう」のことだと信じられている世界、存在し得ないものが存在すると信じられている世界である。罪があるのなら罪悪感もあり、懲罰の恐怖もあり、それが投影・転嫁された怒りや攻撃や落ち込みもある。罪がなければ罪悪感もないので、それに付随するあれこれも一緒になくなる。そもそも、この世界は「罪がある」という間違った考えから生じたものなのだから、罪がないとわかればもう存在する(と思い込む)理由がないのだ。身体もまた同様である。身体が「ある」なら、時間も空間も「ある」わけで・・・いうまでもなく身体は空間性を持っている!「物質としての」身体が同時に二つの場所に存在できないこと、身体そのものが常にそこの空間を占めていることなどを考えればわかる・・身体が「ない」ことになってしまえば時間も空間も「ない」ことになる。だからこそ、遠く離れたところに在るものや過去のあれこれを癒したりできるわけなのだ。

身体はひとりひとりを分かつためのものであり、時間も空間も「分かつ」ことによってのみ意味をなしている。この「分かつ」=分離こそが全てのおおもと、核心にある勘違いなのだった!そして、(神からの)分離など到底不可能なことなのだった。私たちはこの絶対に不可能なことを「可能である。実際にそうなっている」と思い込んできたのである。ゆるしによって、このことが正しくわかるようになる。ゆるしゆるされたものには「分離」「分割」が見えない、少なくとも「とりあえず以上のもの」「本当の現実」としては知覚認識されないからである。とりあえず以上の意味も価値も見いだせないようなものごと、相手にしないで済むようなものごとは、ただ「それだけ」のものである。それについて考えたり理解したりするような何かではない。以前は「疑うまでもない明らかな現実・真実」だと思えたことが今では何のこともない。その代りに、聖霊によって知覚認識されるものごとだけが「疑うまでもない明らかな現実」になる。無理やりそういうふうに見てみる、などではなくもう「そうとしか見えなくなる」のである。

正しい知覚認識によってこのような変容が起こる。スピリチュアルの世界でよく「シフト」と言われているようなことでもある。かつて、自分の外側に(起こっているように)見えていたあれこれが全て自分の内側にあるとわかる、実際に自分の内側にそれらを「見る」ことができるのだ。従って、あなたはもう自分の外側にあるあれこれを何とかしよう、変えようなどとは思わない。投影によってそれらを作り出してしまった自分の内側=マインドを正すだけだ。つまり、ゆるし手放し浄化するのである。ここまでくれば、あなたのマインドには神のひとり子がその父なる神を思い出すための祭壇が用意されたことになる。この祭壇に幻想が捧げられれば、どんな幻想でも消え失せ真実があらわれる。

今更言うのも何だが、ゆるしは「自分の外側の何か」に対してなされるものではない!他人であれ、ものごと=現象であれ、自分以外の何かに対してなされるものではない。ゆるしとは「正し浄化する」ことに他ならないのだから、常に「自分のマインド」において「自分の間違った思い」に対してなされるほかないのだ。自分の外側に何か正すべきものがあるように見えるなら、つまり「自分以外の何かが間違っている」ように見えるなら、そう見えることじたいが既に大間違いなのだ。そう見せているあなたのマインドが間違っているのだ。自覚はなくてもあなたは「罪を犯した」と思い込み、自分を罪深い者だと思い込んでいるのだ。それに気づけないうちは正すこともできない。自分以外の何かが原因であなたが苦しんでいるのなら、どうやってその原因を取り除くことができるだろう?どうやって救われ癒されることができるだろう?あなたにはなすすべがない、救われる希望など持てるわけもない。せいぜい「自分よりも強大な力を持った他者にすがって何とかしてもらおう」と考えるわけだが、それが絶対確実だという保証はどこにもない。たとえそこで何とかしてもらえたとしても、また同じような苦しみに遭わない保証はどこにもない。

しかし、自分のマインドの中のことであればどうにでもなる。その気になりさえすればどうにでもなる。正し、ゆるして浄化すれば済んでしまうのだ。病はこうして癒される。罪深さはこうしてゆるされ浄化される。自分の間違いを認めて聖霊に委ねること、そうすればそれは自動的に神の御心の中にかき消えてしまう。あなたは「ゆるすべき、正すべきもの」を見つけて、ゆるし正した。しかし、いまや「ゆるすべきもの」などなかったことがわかる。「あった」と思ったのは単に自分の勘違いだったのだとわかる。何も起きていなかったのだとわかる。ここにおいてゆるしは完成するのである。

そしてようやく神が直接知られるようになる。とこしえに変わることなく、絶対に確かで、何一つ混ざり物のない状態である。説明することはできないが、その代りまるごと理解されてしまうような状態である。つまり、疑問の余地が一切ないのだ。あなたは「完全である」ということを完全に!理解(この「理解」も通常の意味での「理解」とは別ものだ)するだろう。ここに至れば知覚認識は消えてしまう。間違った知覚認識だけでなく、正しい知覚認識も消える。ゆるしも消える。何故なら、ここには認識すべきものもされるべきものも、ゆるされる必要のあるものも存在しないからである。そして、もちろん身体もまた消え失せる。「コース」の表現によれば「神のひとり子に捧げられた祭壇の上できらめく光」になるそうだが、要するに「消える」のである。神のひとり子のための祭壇は、神のための祭壇でもある。言い換えれば、マインドのなかの「神のひとり子」は神じしんでもある、ということだ。「ひとつ」なんだから当たり前である。最後に目に映る(耳に聞える)のは救い主の姿だけ、それを経て世界は存在目的も存在理由も失って消滅する。幻想の世界だけでなく、本当の世界もまた消滅する。その存在目的も存在理由・・救い・・も既にないからだ。もはや救われる必要のあるものがないからだ。
神を思い出したとき、あなたはもう旅をする必要がなくなる。罪という概念さえ思いつかなくなり、「ひとつ」であることを崩す分離はなくなり、分かつための身体もなくなり、罪悪感に引っ張られることもなくなり、そして「死」はやはりその概念さえも存在しなくなる。

兄弟姉妹よ。神の平安があなたを包み込み、神の御心の中でとこしえにあなたを守り、清らかで幸せな状態に保ってくれていることをあなたが知りさえすれば、あなたはすぐにでも自分のマインドにおいて「神とひとつ」
になれるだろう。神と一つであるところに行かれるだろう。そのほかのことには見向きもしないだろう。
神の御名は聖なるかな。そしてあなたの名前(=存在)もまた聖なるかな。神もそのひとり子も同じく聖なるものだからであり、ひとつだからである。あなたのマインドが浄化されオープンになれば神とひとつの自分が動き出す。「コース」は「神があなたを引っ張り上げてくれる」と表現しているが、要するに幻想が落ちて聖性に至るのである。この世を超えて永遠に至るのである。全ての恐怖から解放されて愛に立ち帰るのである。

第308回 「奇跡のコース」 用語集3 

3 ゆるしと「キリストの面影(顔)」

ゆるしは、神のために神に向けてなされるものであって、神からなされるものではない。神にとって、そもそもゆるすべきもの・・・間違いなどあり得ないからである。今までにも述べられてきたように、ゆるしはこの世ならではのものである。幻想=間違いが知覚認識されてしまうからこそゆるす必要が生じるからだ。しかし、ゆるしはエゴでなく聖霊から来るものであり、ゆえに「救い」という目的を与えられているところが他の全ての幻想と違う点なのだ。他の幻想は全て、幻想が幻想を次々に生み出すことになり、言ってみれば間違いが次々上塗りされていってしまうのだ。ゆるしは、ゆるすたびに間違いが正される。

ゆるしは、言ってみれば「幸せな虚構」みたいなものである。それはいまだ「知覚認識」という夢・幻想の領域内にとどまっているものの、真理を直接知ることにつながる手段である。私たちはたいてい、知覚認識を捨てていきなり直接知に至ることを求めてはいない。本来の私たち・・・神のひとり子としての思いは「神・真理・愛が直接知られる」という本来の状態に戻ることなのだが、普通それは自覚されない。むしろ、そうなることに恐怖を感じるだろう。すると、神は恐怖の対象となり、敵とみなされる。だから、私たちはただ神のもとに帰ることをためらい恐れるのである。神の平安を恐れるのである。ときたま神の平安が訪れたとしてもすぐに元に戻ってしまうのはそのためである。幻想からなかなか抜けきれないのもそのためである。
幻想を捨てるのが怖いのなら、幻想を有効利用するしかない。なかなか捨てきれないなら、少しずつ馴らしていくしかない。そこで出てくるのが「ゆるし」なのだ。神はあなたが頼む前からあなたに必要なものをご存じだ。というか、そもそも神には「自分と同じ完全な存在、罪も穢れもない存在」のあなたしか知らないのだし、それを創造した神の御心だけであなたには必要十分なのだ。その時々であなたが具体的に何を必要としているか、そんなことは神にとっては問題じゃない。それはあなたの側の問題であり、その時々のあなたの状況によって与えられる答えの形は変わってくる。しかし、その本質はひとつ・・神の平安なのである。

キリストの面影(顔)についてもこれまでに何度か触れてきたが、実際にイエスキリストがどんな顔をしていたかなどということではなく、ましてやいろいろな聖画に描かれたキリストの肖像とも関係がない。これはあくまでも象徴なのだ。あなたがゆるし、ゆるされたとき今まで「他者」だった人がまるでキリストのように見えてくる、そういうことなのだ。だから、これは別にキリストでなくても御釈迦様でもマリア様でも何でもいい、とにかく「完全に清らかで罪も穢れもないもの」として見えれば同じことなのだ。つまり、これは聖霊による知覚認識であり、キリストのヴィジョンによって見える姿、浄化された姿なのである。あなたが神を思い出す前にこういうものが見える、即ち浄化された知覚認識という段階を経て直接知に至るわけだ。だから、私たちはとりあえずここを目指せばよいのであって、それが救いであり、その救いはゆるしによって得られるのである。
直接知は「真理・神・愛」を文字通り直接経験するわけだから、何かが目に見えたり聞こえたりするわけではない。そこに至る前に、ゆるしの偉大なシンボルとしてキリストの面影が見えるのだ。罪も恐怖も一切ないような世界があらわれるのだ。ここまで来たら「神と一つ」まであと一歩、世界の消失まであと一歩である。天国の門のまん前と言っても良い。そして、いつも言われているようにここからの「一歩」は学びとも努力とも関係なく神によって・・自然の流れとして運ばれるのだ。
ゆるしは幻想の領域内にとどまっていると言ったが、ゆるしはあくまで「手段」なのである。ゆえに、ゆるしはシンボルの一種だとも言える。ただ、他の全てのシンボルと違ってこれは神の御心・御旨をあらわすシンボルなのである。だから、他のものと違ってゆるしはいつでも一種類しかない。いろいろな種類のゆるし、なんてことはありえない。ゆるしはこの世ならではのものである一方で、この世を超えるためのものでもある。

本当に存在するのは神の御心だけである。それ以外のものは「ない」。「ない」ものを「在る」と信じて右往左往しているところから、あらゆるものが確実にかつとこしえに変わらずに存在するところに私たちは行こうとしているのである。それは旅のようなものだろうか?いや、そうではない。私たちはどこにも行きはしない。どこにも行かなくてよかったのだと気づくだけなのだ。目的地に到達したとき、実は一歩も動く必要がなかったことに、あるいは自分は一歩も動いていなかったことに気づくのだ。全ては今ここにあったと気づくのだ。しかし、そこに至るまでは学びは旅のようなものに感じられる。もちろん、象徴としての旅であって、本当は時間とも空間とも関係がない。最後の一歩は「幻想から真実への移行」であり一種の変化でもある。しかし、私たちが通常考える「変化」「移行」とは一つの夢から他の夢に乗り越えることでしかない。同じ平面上で平行移動しているようなものでしかない。学ぶにつれて変化は平行移動でなく次元の移行になるが、最後の移行はもう「変化する主体」であるこの自分が完全に消えてしまうものなのだ。認識するものもされるものもなくなるのだ。そこにあるのは神の御心ととこしえの平安だけである。

当然のことながら、ここに至れば願望などというものは一切なくなる。願望する必要がなくなるからであり、また願望とは何であれ今の状態からの変化を求めることに他ならないのだから、完全な平安だけという状態にあれば変化を求める必要もないはずではないか。

エゴは「求めよ、されど見出すな」だから、完全に満たされることがない。ゆえに、変化を求め続けるのである。望んでいたものが得られた場合でさえ満足できないことも多々ある。しかし、神の御心・御旨はいつも変わらない。神の賜物も同じく、いつでも変わらない。それを求めればいつも必ず確実に同じものが与えられる。それだけを求める、私たちの願望は基本的にこれだけになる。キリストのヴィジョンを求めたり救いを求めたりするのもそれと同じことなのだ。キリストの面影は、神がそのひとり子を救うために与えて下さった賜物である。誰を見てもキリストに見えてしまう、誰を見ても救い主に見えてしまう、これが救いでなくて何だろう。

キリストの面影を見るあなたもまたキリストになっている。自分の中のキリストが目覚めたからこそ、それが外界に投影されて知覚認識されるのだ。そして、これが本当のあなたなのである。罪も穢れもない自分に目覚めれば、あなたは至るところに同じものを見る。あなたが自分の聖性に目覚めれば、あなたは聖なるものだけを見聞きするだろう。あなたのマインドは、それを創造した神のもとに帰るのだ。そして、創造されたものと創造したものはひとつになる、というか、元々ひとつなのだ。完全なる「一」だけがそこにある。

神は目に見えないが、理解することはできる。あなたは本来の自己である神のひとり子をもはや攻撃したりしない。自分と同じ神のひとり子である人々を攻撃したりしない。自分のことも、誰のこともみな「神のひとり子」だとわかるようになる。

第307回 「奇跡のコース」 用語集2 

2 エゴと奇跡

幻想は必ず変化を伴う。逆に言えば、変化を伴うものは全て幻想である。どんな幻想も最後には消える、つまり「死ぬ」。これは絶対確実なことだ。まさか幻想だとは思えないこの「身体」だって最後には「確実に死ぬ」のであり、まさにそのことが身体の幻想性を示しているのである。身体が本当の実在ではないことを示しているのである。

さて、エゴとは何か?ひとことで言えば、自分についての間違った思い込みである。間違いを真実に、夢を現実にしておこうとする願望である。狂気のもとであり、同時に狂気の産物である。本来は名づけることさえもできないような「ありえない」ものである。便宜上、「コース」でも「エゴが・エゴはどうのこうの」などと書かれているが、これではまるでエゴというのが何か実体のあるものみたいに感じられてしまう。これは仕方ないことなのだが、本来は実体もなければ存在不可能であるようなものなのだ。ややこしいが、そもそもは私たちが「神から離れてバラバラの個になった」と思い込み、その「バラバラの個」あるいは身体を本当に存在するもの=実在だと思い込んだことから始まっている。その間違った思い込みを「ほんとう」にしておくための仕掛けがエゴなのだが、幻想から生じたものは必ず消える=死ぬに決まっている。実在できるわけがないのだ。
エゴは、実際には存在しないくせにあたかも実在するように感じられ、そのためにいろいろな形をとってあらわれる。エゴに支配された私たちは、形が見えれば「実在する」と思ってしまうからだ。形や現象があって五感によって認識されれば実在する、それが当たり前とされているのがこの世界だ。神のひとり子がありのままの姿=スピリットとしてこの世界で生きていくことはできない。だからこそ聖霊が必要になるのだが、それに気づかないうちはエゴに支配されたままである。エゴとは何か?を正確に知る必要などないのだ。それがどうやって生じたどんなものなのか正確に知ろうとする人もいるだろうが、そんなことをしたところで何にもならない。実体をもたない、妄想であるような何かについてそこまでこだわるなど時間とエネルギーの浪費にしかならない。そんなことは放っておいてただゆるせばよいだけなのだ。エゴの正体を正確に知らない限りゆるしも奇跡ももたらせない、なんてことは絶対にありえない。

ウソを本当にしておくためのウソ、なんてものにそれ以上の定義が必要だろうか?それ以上の定義が可能だろうか?あるいは、ウソによって簡単に誤魔化されるような真実などあるだろうか?たとえば、私たちが「神から離れてバラバラの個」だというのは「ウソ」なのだが、それを他のいろいろなウソによっていくら誤魔化して現実らしく見せてはいてもよくよく注意すればいくらでもほころびが見つかるはずだ。エゴの非実在性を言葉によって証明するのは難しい。場合によっては、言えば言うほど却ってエゴが「実体を持っている」かのような印象を与えてしまう。かといって、ただ「ないものはないんです」だけでは誰も納得しない。ここが悩ましいところなのだ。「コース」もエゴについてはテキスト篇からずっと丁寧に説明してくれているが、その中にはまるでエゴが何か人格を持っているかのように読めてしまうものさえある。
もともと定義することさえできない、それがエゴの正体だ。ズバッと定義はできないが、その代り「エゴではないもの」を示すことはできる。エゴには絶対にできないことを経験すれば、あなたはそこからエゴの正体を見抜くことができるだろう。(ちょっと脱線するが、愛や真理もまた言葉では表せず定義もできない。これは実在しないからではなく、言葉というシンボルによってあらわすことができない、つまり言語以前の状態であるものだからだ。)エゴとは対極にあるものを経験すれば、あなたはエゴがどんなものであったか、あるいは「なかったか」がわかる。エゴの対極にあるもの、それは「奇跡」だ。奇跡はエゴのないところから生じ、奇跡によってもたらされる現象はエゴによっては絶対にもたらされないものである。普段、エゴに支配されているのが当たり前の人々にとっては本当に「いたい何が起こったの?」という感じなのだ。
簡単に言えば、エゴは「神から離れてバラバラの個」というところから発生したものであり、奇跡は「神において神と一つ」というところからもたらされる。原因と結果が完全に一致しているのである。奇跡がもたらされたとき、暗闇は消えてあなたは光を見るだろう。だったらエゴとは何だったのか?エゴは暗闇だったのだ、その中には何もないただの暗闇だったのだ。エゴはどこにあったのか?暗闇の中に、というより暗闇のあったところにエゴもあったのだ。というか、実はなかったのだ。暗闇の中にあるように思われていただけだったのだ。じゃあ、今エゴはどこにいってしまったのか?どこにもない!光がもたらされれば暗闇は跡形もなく消えるだけである。邪悪さがあったところにはいまや聖性がある。その邪悪さがエゴだったのだ。エゴは私たちが現実だと思い込んでいた悪夢の中にあった、というか悪夢そのものだった。夢から覚めて「夢はどこに行ったの?」と探すのがナンセンスであるのと同様に、夢から覚めれば「あれは夢だったのか」とわかるのと同様に、エゴは消えてしまった。苦しみがあったところに今や完全なる神のひとり子がいる。もうあなたは「エゴって何?エゴはどこにあるの?」などと尋ねないだろう、尋ねる必要を感じないだろう。夢から覚めて「夢はどこに行ったのか」探し求める人は普通いないからである。
じゃあ「奇跡」とは何か?それもまた一つの夢である。しかし、それは限りなく真実に近い夢であり、真実を映し出す夢である。そこから別の夢の中に逃げ出す必要がないような夢である。何の抵抗も恐怖も感じることなく、安心して前に進んでいかれるのだ。進めば進むほどますます喜びと平安に包まれるのだ。振り返ってみようとしても昔の自分がいったい何をどうして生きていたのか思い出せないくらいになる。夢から覚めてしばらくすればその夢の内容を、あるいはその夢を見ていたことじたいさえすっかり忘れてしまうのに似ている。奇跡という夢から覚めるときが最後の目覚めになる。
エゴに支配されている限り、生きることは苦労と苦悩の連続になる。死ぬのは怖いが、その一方で死によってしか解放されないように思えてしまう。エゴは罪悪感と恐怖の副産物だからである。自分以外は全て「他者」であり、いつ裏切られるか去られるか、あるいは死なれるかわからない。ここには「自分というものについての大きな勘違い」があるわけだが、奇跡はその間違いを正してくれるものなのだ。あるいは、今までの自分は間違っていた!ということに気づかせてくれるものなのだ。ここにおいて、かつてあなたが抱いた全ての疑問が消え失せる。よくもまあ、あんなことを思いついたものだ、問うことさえバカバカしかったな、と気づくのだ。ああ、こういうことだったのか!と身をもって「わかる」からである。
もちろん、学び始めの頃はいろいろな疑問が生じるだろうし、それはそれで構わないと思う。学んでいくにつれてわかってくればいいのだし、どんな問いでも本当に本気で追求すればだいたい同じようなところに行きつくものだからである。(手前味噌ですが、碧海ユリカの奇跡のコース個人セッションではその手の疑問にも丁寧にお答えするようにしております)。しかしキリストによれば、本当に意味のある問いとは「あなたは私=キリストが世界に救いをもたらすのを手伝うつもりがありますか?」だけなのだそうだ。

エゴとは何か?などと問う代わりに、この問いを自分に投げかけてみよう。そして、「はい、手伝うつもりがあります」のであれば、それに従ってゆるし続けてみよう。そのほうが余程早くて確実なのだ。何故なら、そうしていれば誰にでも奇跡が開かれるからである。そして、世界はあなたの思い込みから解放され救われる。あなたがかつて作り出し、現実だと思っていた世界はいまや全く新しいものに生まれ変わる。罪も非難も恐怖もなく、完全に清らかなものに生まれ変わる。
奇跡はゆるし、エゴは非難する。詳しい定義など必要ない、これだけで十分である。奇跡は救いにつながり、エゴは救いから遠ざかると言い換えても同じことだ。当たり前過ぎて何を言ったことにもなっていないようだが、実際にそれほどシンプルなことなのである。原因と結果が同じところにあるように、問いと答えは同じところにある。それがわかれば事態はずっとずっとシンプルになる。これを選べば地獄だとわかっていたら誰もそんなものを選びはしない。また、これを選べば簡単に救われると理解していればわざわざ他のものを選んだりしないはずだ。わかっちゃいるけどできない、というのは、本当にはわかっていない証拠なのである。わかったつもり、と本当にわかっているのとは天地以上の差があるのだ。

第306回 「奇跡のコース」 用語集 

奇跡のコース 用語集 初めに

この用語集は本来「教師用マニュアル」の巻末についているものなのですが、こちらのミスでガイド解説が今になってしまいました。申し訳ありません!
さて、用語集といっても「簡単に説明」なんてされてないのである。そもそも「奇跡のコース」は、基本的には「自分を救い世界を救うべくマインドを変容させるための・知覚認識を正し浄化するための実践ガイド」なのであって、学術書ではないのだ。
だから、この本の中で使われている基本的な用語も厳密に定義づけられているわけではない。神、という語でさえ人によっていろいろな使われ方をしているではないか。キリスト教に詳しい人が「コース」を読んで「聖霊はそんなものじゃない!間違っている!」と思うことだってありうる。この本の用語や内容について論争するのは各人の勝手だが、そして論じようと思えばいくらでもそうできるだろうが、それでは「コース」の目的である救いもあがないも得られないだろう。用語や考え方が正しいか、間違っているかというのもまた「そう信じたいかどうか」に過ぎないのだ。正しいかどうか証明できるまでは「コース」を学べない、というのではあまりにバカバカしい。ただ「コース」を読み、学習する際には「コース」の語の用法に従えばいいだけのことではないか。

普遍的に絶対正しい神学、などというものは存在しない。これまでも存在したためしはないし、これからも存在しないだろう。しかし、真に目覚めた人々はその文化や宗教にかかわらずたいてい同じような経験をすることになっている。同じような気づきや認識に至るようになっている。それこそが「コース」の目指すところなのである。
いくつかの基本的な用語については、テキスト篇でもワークブックでも折に触れて何度も説明はされてきているのだ。一般的な使われ方とかなり違った使われ方をしている語が「コース」には結構ある。この用語集もあくまで「〜という語をコースではこういうふうに使っています」という説明であり、通常の意味での定義づけとは微妙に違う。それどころか、場合によっては「定義できません」とハッキリ書かれているものもある。いずれにせよ、内容をより理解しやすくするための用語解説なのであって、それ以上の意味はないのだ。

たとえば、「個人の意識」「自我」などは「神から離れてバラバラになったという思い込み」つまり「原罪」「おおもとの間違い」から生じたものなのであって、そんなものについていくら学ぼうが調べようが探求しようが何にもならない。「コース」が目指すのは「間違いを正す」ことであり、それは言い換えれば間違いを間違いだと認めて「だったら要りません」にすることである。間違いから生じたものは間違いに決まっている。そんなものをいくらどうこうしたところで間違いは正されない。むしろ、強化されてしまうだろう。

「コース」を学ぼうとする人は救われてもいないし目覚めてもいないし、知覚認識機能は歪んでいるし、まあたいてい自分を「個人・人間」と思っているはずである。そうでなければ「コース」を学ぶ必要がないからだ。ゆえに、「コース」は「目覚めていない、歪んだ知覚認識機能を持っている」人を対象にして書かれている。もちろん、正しい理性を使わなければ正しく読んで理解することはできないが、基本的には「わかってない人」のための本なのだ。言葉はシンボルに過ぎない。真理は、そして愛はシンボルによっては表せない。しかし、マインドを開いて正しく理性を使って読むならば、言葉によって表された以上のことがわかる。一方で、エゴのままで読めば言葉につかまってしまう。いちいち疑問を抱き、「本当にそうなの?」と疑いを抱いてストップしてしまう。マインドが開かれるにつれて、これらの疑問や疑いや自然に解消するのである。つまり「わかる」のだ。エゴが抱くいろいろな疑問に対して「コース」は答えを与えてくれる。これは「説明を与えられる」こととは限らない。ましてや、こじつけめいたことを言ってあなたを納得させようというものでもない。「コース」が与える答えとは、「理解できなくても受け入れられなくてもとにかく学びを進めていく」ことにより、マインドが正された結果として得られるものである。つまり、「わかるようになる」状態に導いてくれるわけなのだ。一番最初の序文にもあるとおり「コース」は真理を教えるものではない。そんなことは不可能だ。その代わりに「コース」はあなたのマインドを真理に、あるいは救いやあがないに向けようとする。この点において「コース」は徹頭徹尾一貫している。つまり、どこをどう読んでも同じことだけしか書いてない、これ以上ないくらいシンプルな本なのだ。結局は「救いをもたらすためにはゆるすしかない」に尽きる。この一言だけをあなたに理解させるために膨大な言葉を用いて説明してくれているのだ。

エゴは自分が質問していることの意味さえわかっていない。それが問いとして成立しうるのか、問うとしてもどう問うべきなのか、そういうことさえわかっていない。その手の問いについては答えなどありえないのだ。ゆえに、あなたの抱く疑問について「コース」がいちいち答えてくれることはない。しかし、正しく読んでいれば必ず答えは得られる。というか、あなたは答えを見いだせる。言葉によってではなく、気づきによってである。
エゴの抱く疑問は無数にあるが、基本形は「起こるはずのないことが何に対して、どうやって起きたのでしょうか」である。時間も空間も個人も身体もみな実在しないのであれば、それらに関する問いなど無意味に決まっているではないか。


1 マインドとスピリット

マインドとは、スピリットがその創造力(エネルギー)を用いて実際に働くための主体・動作主体のようなものを意味している。神のマインドという場合には便宜的に「御心」と訳したのだが、マインドは心や意識という語ではうまく表せない。 スピリットとは、言ってみれば「神の御心から生じた考え=エネルギー」であり、神の御心が創造したもの、神の御心の一部である。これについてはもう「そうなってみなければわからない」ので、言葉で理解しようと思わないほうが良さそうだ。とにかく、「ひとつ」であるスピリットを「神のひとり子・キリスト」と言う。スピリットは一つに決まっているのだが、いまのところ私たちは「バラバラの個人」であり、それぞれのマインドがあってそこにスピリットがあるように見えている。だから、わざわざ「ひとつになる、ひとつである」という言い方をしなくてはならないのである。しかし、少なくとも「間違いを真実と思い込んだうえであれこれやる」のだけはやめなくてはならない。つまり「個人のマインド、個人の意識、自我」について云々するのは全くの無意味なのである。そんなものを延々と探っているうちは救いなどもたらされないだろう。もっとも、探っているうちに「こんなものはないんだ!」と気づければ別で、実際そういうこともあり得る。

とりあえず、今の私たちにはマインドの中にスピリットとエゴという二つの部分があるように見えているので、「コース」も便宜的にそのように書いている。実際にはエゴなど「ない」のだが、最初からそういってしまってはミもフタもない。 スピリットは、聖霊を通じて神との交流を保っている部分、神とひとつである部分だ。聖霊もスピリットも神(の御心)から生じたものだから、聖霊はスピリットのなかにある。あるいはスピリットと一緒にある。スピリットはエゴの存在(という言い方も変だが)を知らないが、聖霊にはエゴもそしてエゴがやっていることもちゃんと見えている。つまり、私たちが現実だと思い込んでいるところのいろいろな幻想を、聖霊は「幻想としてありのままに」見ているわけだ。

ところで、スピリットを「魂」と訳さなかったのは「コース」がsoulという語を敢えて用いていないからである。聖書の引用句でもない限りsoulという語がつかわれていないのは、soul=魂という語がかなり誤解を招きやすいためだ。ソウルメイトということばからもわかるように、私たちはたいてい「個人の魂」というものがあると思ってしまっている。苦しんでいる魂、救われない魂、なんて言い方も普通にされている。「コース」のいうスピリットは苦しんだり救われなかったりすることなどありえないのだ。ただ、soul=魂を「神そのもの」であり、生まれたり死んだりするものではなく永遠に不変不滅だと捉えるならば、それはスピリットと等しいものとなる。

スピリットじたいは「何もしない」のだ。少なくとも、通常私たちが考えているような意味においては「何もしない」。神もまた同様なのである。もちろん、神もスピリットも無限の力を持って創造し続けているわけだが、その「創造」という語じたい既に私たちが普段用いているような意味では用いられていないのだ。スピリットじたいは形も現象もない世界のものである。個人も人間もないところに在るものである。

マインドの中のもうひとつの部分であるエゴは、それじたいが幻想の産物であり、それゆえに次々と幻想を作り出す。何であれ、マインドが何かを作り出せるのはスピリットに神と同じく創造する力が宿っているからだ。しかし、エゴ主体になったマインドはその創造エネルギーを誤用してしまっている。神の御旨(=意志)に従っていればそれを反映したものだけが作られる(投影される)のだが、エゴ主体のマインドにおいて神の御旨=本来の自分の思い(=意志)は封じ込められてしまっている。というか、封じ込められたのと同じ状態になっている。スピリットは実在するものであり、無くなることは絶対にありえない。ゆえに、エゴが出てきたマインドというのは常に二つの方向に引き裂かれ、意志が統一されない状態となる。エゴが引っ込めば、マインドは神の御旨と同じただ一つの意志=思いだけを持った状態、統一され一貫した状態になる。完全に純粋な、混ざりものが一切ない状態であり、変化せず、程度の違いも対立概念も一切存在しない。こんなものはこの世界においてはあり得ない。何故なら、この世界は「差異・対立」によってのみ認識可能なところだからである。ゆえに、この世界で・・いや、ゆるされた本当の世界であっても、「世界」のうちに在る限り、純粋にスピリットだけで生きることなど絶対に不可能なのだ。それだけでは世界に救いをもたらすことさえできないだろう。かといって、エゴが必要というのではない。だからこそ、聖霊なのだ。聖霊の知覚認識が必要なのだ。スピリットだけでは知覚認識ができないのだ。エゴの部分や幻想の部分も見えたうえで、それらをありのままに即ち「ウソ、間違いだ」と見抜くのは聖霊の部分なのだ。スピリットと一緒にいる聖霊、それも当然私たちのマインドの中に在る。スピリットと聖霊は「ひとつ」、ワンセットなのである。ただ、聖霊は「この世ならでは」の存在というか、私たちが神から離れてしまった(と思い込んだ)からこそ必要とされてあらわれたものなのだ。

マインドは、正しいか間違っているかのどちらかである。常にどちらかの状態に在る。常にエゴか聖霊か、妄想か理性か、を選んでいるわけだ。正しいマインドなら聖霊=純粋理性に耳を傾け世界にゆるしをもたらし、キリストのヴィジョン(あるいは聖霊の知覚認識)を通じて本当の世界を見ている。ここが知覚認識の行き止り、最終段階である。これ以上のものは知覚認識によってではなく直接知られるしかない。そこにおいて時間は消失し、あらゆる幻想が消滅する。この状態は努力や学びによって得られるものではない。神によって、あるいは自然の流れとしてもたらされるものである。しかし、そこに至るまでは学びによってマインドの準備を整えなくてはならない。

一方、間違ったマインドはエゴ主体であり、次々に幻想を作り出してはそれを現実だと思い込み、あちこちに罪が見えてしまい、怒りを正当化し、「わるいこと・いけないこと=罪」や病気や死が現実のものに見える。それがいわゆる「この世界」の在り方だ。正しいマインドが見る「本当の世界」もまた、形や現象がある(ように見える)という点において、更に知覚認識によって捉えられるという点においていまだ幻想・夢の域を出てはいない。たとえあなたがどんなことでも即座にゆるせるようになったとしても、ゆるすべきものが(一瞬でも)見えるうちはまだ夢の領域にとどまっているわけだ。スピリットならば人間の姿さえ認識できないだろう。人間の姿が見えるということは既に「間違いが見えてしまっている」のに他ならないからだ。だからダメだ、と言っているのではない。ただ、この点をわかっておかないとせっかくある程度目覚めたのにそこで勘違いして舞い上がってとんでもないことになる可能性がある。何でもゆるせる正しいマインド、というのはまだ本当の「ただひとつしかないマインド」ではないのだ。つまり、神の御心やキリストの御心そのものにはなっていないのだ。純粋にスピリットだけ、という状態ではないのだ。

この世界に本当の自由はない。この世界に残されたただ一つの自由は「選択の自由」だけである。即ち、私たちは常にエゴか聖霊か、恐怖か愛か、どちらか一つを好き勝手に?選べるわけだ。ワークなどには「神の御心を選びます」みたいな書き方がしてあるのだが、実のところ神の御心や御旨を「直接選ぶ」ことなどできない。それは知覚認識できないものだからである。しかし、選んだ「結果」は即座に知覚認識される。その自分の知覚認識を見て感謝したりゆるしたり、自分の間違った選択に気づいて正しく選び直したりするわけだ。ゆえに、神の御心を選び、神の御心に従うとすればそれは「聖霊を通して」でしかない。聖霊を介さずに、というのは直接知に他ならないのだが、直接知の段階になればもう知覚認識はできない。ゆるしさえ超えてしまった状態なのだ。このあたり、厳密に言えばそうなるというだけのことであって、普段は「神の御心に従います」「神の御心のままに過ごします」と思っていて構わない。

ところで、一般的によく使われている「意識」という語は「受容する」イメージである。聖霊であれ、エゴであれメッセージを受けとり、受け入れたり拒絶したりするところが「意識」なのである。そして、みなさんよく御存じのように、意識には「潜在意識」「無意識」「顕在意識」「集合無意識」などいろいろな層がある(とされている)が、どの層もそれぞぞれのレベルで知覚認識をおこなっているのであり、知覚認識の域を超えることはできないのだ。もっとも高度な意識なら「本当の世界」を受容できるだろう。そうなるべく意識を訓練づけることもできるだろう。が、このようにいくつかの層があり、訓練次第でいくらでも変容することができ、そして知覚認識の域にとどまっているという点において「意識」はやっぱりスピリットではないのだとわかる。「意識」は、神から離れてバラバラになったマインドにのみ生じたものだとわかる。つまり、どんな「意識」であれ、直接知に至ることはできないのである。

第305回 「奇跡のコース」 ワークブック 第30課〜第32課

ワークブック 第30課〜第32課

「奇跡のコース」 ワークブック 第30課から32課を更新しました。
http://ameblo.jp/eurekamoureuse

第304回 「奇跡のコース」 ワークブック 第23課〜第25課

ワークブック 第23課〜第25課

「奇跡のコース」 ワークブック 第23課〜25課を更新いたしました。
http://ameblo.jp/eurekamoureuse

第303回 「奇跡のコース」 ワークブック 第12課〜第18課

ワークブック 第12課〜第18課

ブログにて更新いたしました。
http://ameblo.jp/eurekamoureuse

第302回 「奇跡のコース」 ワークブック 第5課〜第11課

ワークブック 第5課〜第11課

ブログにて更新いたしました。
http://ameblo.jp/eurekamoureuse

第301回 「奇跡のコース」 ワークブック 序文

ワークブック序文

このワークブックは、テキスト篇で学んだ原理原則と理論に基づいて新たな思考システム・正しい知覚認識機能を得られるように私たちのマインドを訓練するためのものである。テキスト篇を読んだだけでも世界が一変してしまうような人もいるのだが、たいていの場合は一定期間集中的にトレーニングしてマインドを訓練づけしていないとテキスト篇の原理原則を実践に生かすのは難しい。ワークブックはそのために、とりわけ「歪んだ知覚認識機能を正す」ために体系づけられた訓練プログラムなのである。

ワークブックは二部構成になっていて、まず「従来のものの見方・捉え方を解体して手放す」訓練、その後に「正しい知覚認識機能を身につける」ための訓練がなされる。全部で365課、一日一課で365日=一年かかって完了するようになってはいるが、もっと時間がかかっても構わない。「最初から順番通り、一つも飛ばさずに最後までやること」が大原則。テキスト篇同様、わからなくても受け入れられなくてもイヤでも抵抗を感じても飛ばしたり抜かしたりしてはいけない。とにかく「指示されているとおりにやってみる」のだ。これだけは絶対に守っていただきたい。でないとワークブックをやる意味がなくなってしまう。

また、一日一課の構成を取ってはいるものの場合によっては一つの課に2日以上かかってしまうかもしれない。前の課程を繰り返したくなるかもしれない。それらについてはまったく問題ない。しかし、一日に2つ以上の課程をやってはいけない。つまり、ワークは「最短で」1年かかるということだ。

ワークブックのそれぞれの課程では、まずその日に学ぶべきテーマが示され、それに続いてテーマの説明と実践の具体的な方法などが記されている。

ワークブックについて決まったやり方は特にないのだが、まず問題になるのが「テーマについての説明部分」である。最初のほうはともかく、だんだん長くなってくるのだ。これはザッと読んで済ませられるようなものではない。とてもじゃないがそんなことはできない。それなりに時間を割いてじっくり取り組む必要がある。私の場合は、毎朝その日の課程をしっかり読んでノートを取り、本を持ち歩いて一日中その日のテーマを指示に従って(できるだけ)実践してみるというふうにしていたが、毎晩寝る前にやっておいてそれを翌日に実践するという方法もあると思う。課程によっては説明部分がかなり長く、読んで理解するのに時間がかかるものもあるのでうっかりしているとそれだけで一日が終わってしまう危険がある。その場合はワークの実践部分を翌日に回しても構わないと思う。急いでやってもしょうがないし、それでは身につかない。説明部分を読んで理解しただけではワークブックの意味がないのであって、ワークというからにはとにもかくにも実践第一なのである。これについてはその都度指示されるが、基本的には「短いものを何度も何度も繰り返す」ようになっている。序文には「大して時間もかからず、いつでもどこでもできる」と書いてあるが、逆に言えば(忘れてしまわない限り)いつでもどこでも一日中ひっきりなしに!やらなくてはならないわけである。私も、ワークをやっていた年はもうワークをするために生きているんじゃないかというくらいワーク漬けだった。どうせやるなら徹底的にやらないと却って勿体ないのではないかと思う。

ワークを毎日必死でやっていても、ちょっと前の内容がちゃんと身についているかどうか不安になるものだ。この点についてワークブックは至れり尽くせりで、50課ごとに復習期間を設けてくれている。

普遍的な教えに共通する特徴は「例外なし、制限なし」「基本をマスターすればどんな場合にも全く同じように適用できる」ということである。ワークブックも同様で、どの課程もあらゆる人間関係について、またどんな状況や問題についても等しく適用できるものになっている。ひとつの課程を完全にマスターできれば、ところ変わって相手が変わってもあなたは以前と全く違う見方や捉え方ができるようになっているはずだ。ひとつひとつの問題を個別に何とかしようというアプローチなど全く意味がないのであって、それらを作り出しているマインドの側を変化させることが肝要なのだ。帰納的かつ演繹的。あるワークを実践するにあたって誰かひとりを例に挙げて徹底的にその日のテーマをマインドに叩き込み、マインドがそれを受け入れてそのひとりに対する知覚認識が変化すれば、あなたはその他のあらゆる人についても新しい知覚認識ができるようになる。このワークブックのすごいところは、私たちそれぞれの個別の問題や人間関係を訓練の題材として用いさせながら実はそれによってあらゆる状況をも網羅できるようになっている点である。そういうふうに作られているのだ。

ゆえに、私たちの側で例外や制限を設けることは絶対に厳禁なのである。ひとつの課程をやっていて、「あ、これはワタシとは関係ないわ」「ワタシには必要ないわ」とか「これをやってもあの問題は解決しないわ」「いまはそれどころじゃないわよ」なんて絶対に考えてはいけない!ま、考えてしまってもとにかくちゃんと「やれば」いいのだが。課程によっては誰か特定の人や問題を取り上げる形になっているが、その時も「あの人、あの問題はこれとは関係ない」などと決めつけないで、とにかく思いつくままに全部やるという姿勢が求められている。そして、このように特定の人間関係や問題を取り上げるよう指示されたなら全くその通りにやらなければならないのだ。細かく具体的にやる、というのが重要なのである。何となく読んで「あ〜なるほど」で終わってしまうのではワークじゃないし、具体的な対象をイメージしないでワークをしても効果はない。

要するに「例外を設けず、指示されている通りにやる」ことだ。その心づもりさえあればワークは難しくない。あまり考えずただひたすら「やれば」良いからだ。むしろ、あれこれ考えて立ち止まってしまうのは妨げになるような気がする。何故ならそうやってあれこれ考えているマインドこそエゴなのであり、あなたがワークによって変容させるべきものだからだ。

これは知覚認識機能を正すためのものなのだから、四の五の考えないで黙ってさっさとやればよい。やってみないとわからないからだ。ひとつのテーマを練習して、それがどうやってあらゆる状況に適用されるのか?そんなことを考える必要はない。上にも書いた通りワークブックじたいが「そうできるように作られている」からだ。初めは限られたところでしかできなかったことでも、次第に適用範囲が広がってくる。

先ほども書いた通り、テキスト篇と同じく「理解できなくても同意できなくても受け入れられなくても抵抗を感じてもイヤでも何でも」とにかくやってみることが重要である。この練習にはどういう意味があるんだろうとか、きのうあれをやったけど効果がないのはどうしてかしらとか何とか、そんなことは考えないほうがよい。ワークの内容についてあなたが判断したり評価したりすべきではないのだ。効果の出方にも個人差があるのだから、すぐに大きな変化が見られないように感じても気にしないこと。むしろ、そういうマインドをなくすためのワークなのだからそれでいいのである。

言われたとおりにただやってみる。それだけでいいのだ。イヤだなと抵抗を感じてもそれはそれとして措いて、ただ実際にやってみる。理解しなければできない、なんてことはない。理解していなくてもできるように、それどころか嫌々ながらやってもちゃんと効果があるように作られているのだから心配は無用である。

これはちょっと無理だから飛ばして、というのも先に書いた通り絶対に厳禁。きょうのはあまりきちんとできなかったなと思ったら明日また繰り返しても良い。また、その日のワークをやって「すごい手応え」を感じなかったとしても気にせず翌日は次のワークをやっても大丈夫である。この「すごい手応え」というのも結構クセモノで、それにこだわり過ぎると却って妨げになるからだ。

とにかく「黙ってただ実際にやってみる」これだけがポイントである。 毎日休まずにやるのが原則だが、数日間抜けてしまってもまた再開すれば問題ないと思う。ただ、気が向いたときだけとか思いついた時だけにやる、という方法はお勧めできない。

また、「コース」によるとこれらの実習は「とにかくやる」のが重要なのであって、それらの意味するところについて理解する必要はないそうだ。だからこそ「誰にでもできる」わけだが、そう言いつつもワークブックには実習ごとに解説がついているのであって、それを誤読し曲解してしまったらかなり悲惨なことになるだろう。そう思って私はローバ心というかお節介からこのガイドを書いているのである。ガイドを読んでもわからない人は、わからないことを気にせずに「ただやってみて」下さい。

ワークは365日毎日なので敬遠されがちだが、決して難行苦行ではない。私は1年間1日も休まずにやったが、毎日ワークをするのが楽しみで仕方なかった。もう大変よ〜とか言いながら本当に楽しかったのだ。終わってしまうのが惜しいと思うくらい楽しかった。だから、あなたもきっとできます!

原書や日本語訳を読まずにこのガイドだけを読んでもちゃんとワークができるように書いていますので、是非日々の習慣にしてみてください。1年後には世界も人生も一変することでしょう。

ワークブックはブログにてお読みいただけます。
http://ameblo.jp/eurekamoureuse

   
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