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第200回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 80・81

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 80

第10章 その6

私たちが病や死を怖れるのは、それらが自ら作り出した偶像だからである。なぜなら、偶像とは真理の神及び私たち本来の姿を否定したところから生まれるものであり、それらが愛や平和や喜びである以上、それらを否定すれば即ち恐怖や攻撃にならざるを得ないからだ。ここまでは前回見たとおりである。

病や苦しみは「浄化」と捉えられることも多いと思う。しかし、浄化がなぜ苦しみによらなければならないのか?これはやはり「罪」という考えのせいではないか?私たちは「神から離れる」というひどい間違いを犯した、と思い込んでいる。本当に離れてしまったのならまだしも、ただの思い込みなら罪でも何でもない。間違った思い込みを正すなら、ただそうすればよいだけの話であって何もわざわざ「罪をつぐなう」ような苦しみを経験する必要はないのである。神を冒涜しようが、やはり実際には冒涜などできるわけはないのであって「冒涜したという思い込み」つまり勘違いなのだから、ただ正せばよいだけなのだ。この「正す」ことを「コース」ではあがない即ち浄化と呼んでいるのだが、これは別に苦しめという意味ではないのである。

ただし、「教師用マニュアル」にも書いてあるように学びの過程でさまざまな苦しみが気づきのきっかけになったりエゴの抵抗として現れたりするのは非常に良くあることなのだ。しかし、だからといってそれらが「必要」なのでもないし、ましてや「神の御心」でもないということに変わりはない。

ところで、以前「本当の現実や自分の本来の姿を忘れた」とは「かつて知っていた」ということだ、と述べられていた。これと同様、否定もその前提として「否定されるもの」があるということになる。否定は、聖霊によって有効利用されることも可能だが元々本来の状態にはあり得ない機能である。そこには否定されるべきものなど何もないと知られているからだ。更に、聖霊による有効利用でもない限り、何かの存在を否定したところでそれがなくなるわけでもない。なくなるとしたらそれは元々実在しなかったということになる。

整理すると、本当に存在するものはいくら否定してもなくなることはなく、本当は存在しないが「存在する」と思い込まれているものはその思い込みが否定されれば消えてしまう、ということなのである。ただ、厄介なのは私たちが「何かを否定した」ことさえ忘れている場合がある、という点である。

そういう事情に留意してお読みいただきたい。私たちが神あるいは本当の現実を否定できるのは実際には神や本当の現実の存在を知っているからである。この場合の「知る」とはその中に愛するということが含まれている。ならば、神を否定したつもりの私たちは実は神を愛している、ということになる。上述したように私たちは神を否定したという認識さえないので、その前に神を知っていたということもますますわからなくなっている。しかし、あらゆる偶像が「神の否定」だということを思い出していただきたい。偶像あるいは幻想を作り出した時点で、私たちはその自覚はなくても神や本当の現実を否定していることになってしまうのだ。

要するに、私たちはまず自分が神あるいは本当の現実を否定したのだということを自覚し認めなくてはならないのである。その事実を認め受け容れることが全ての始まりになる。間違いは、それが間違いだと分からない限り正すこともできない。否定したということを認め受け入れなければ否定という思い込みをなくすことができないのである。

このあたりはわかりにくいように思うかもしれないが、よく考えれば単純なことである。「コース」以外の通常のスピリチュアル系でも「自分の本当の気持ちを知りなさい」みたいなことを言っているではないか。ワタシは今までこうなんだと思ってたけど本当は違ったんだわ、本当はこうしたかったんだわ、という気づきが大きな解放をもたらす、これはよく理解できると思う。まず自分の本当の思いを自分が否定していた、と自覚しているわけである。ここで「コース」が言うのもそれと同じで、私は今まで神を否定しているつもりだったけど本当は愛していたんだわ、とわかれば私たちは癒されるのである。

否定は必ず投影される。私たちが自らを否定していれば、他者から自分が否定されていると感じる経験をするようになっているのである。

以前、私たちは気づいていなくてもスピリットの部分は絶え間なく創造し続けており、創造されたものはそのまま残されていると述べたことがある。更に、実は私たちは神から離れてなどおらず神を愛してもいるのだということがここで明かされた。実際にはそんなにちゃんとしているのなら、どうして私たちは相変わらず苦しんだりしなくてはならないのだろう?

それは「投影」のせいなのである。投影されたものは本当の現実ではないが、投影した当人にとっては現実そのものとして経験される。私たちは「本当の現実」にいるのにもかかわらず「自分が投影によって作り上げた仮想現実」を経験しているのである。実際の世界は平和なのに悪夢を見てうなされているようなものなのだ。注意して読むと「コース」はたとえば「神を愛しなさい」ではなくて「神を愛していることに気づきそれを認めなさい」というような言い方をしていることが多い。まどろっこしく感じるかもしれないが、より正確を期すならばそういう言い方になるのである。

その考え方に沿って言うならば、私たちが自分をどういうものと見なしているかによってどんな経験をするかが決まるのだ。他人とは違うこの私、自分ではどうにもならない怖ろしい運命、この身体などを「わたし」だと信じていれば恐怖や苦しみは免れずなかなか健康にもなれないのは必定である。マインドには思い込みを投影して現実のごとくにする力があるからだ。一方で、神は自分に似せて私たちを創造したのだから、私たちは完全な存在であって苦しんだり病んだりするようにはできていないのである。それが本当にわかれば今度はそれが「投影」され経験されるわけだ。正気でいるというのはこういうことである。

さて、神が自分に似せて私たちを創造したなら、あらゆる人々が罪などというものとは初めから無縁なのである。原罪が単なる間違った思い込みに過ぎないことは以前に述べられている。となれば、自分自身あるいは誰かのことを「悪い人だ、罪深い」「あんなに苦しんで気の毒に」などと思ってしまえばそれは図らずも「冒涜」になる。神に対する冒涜ではなく本来の私たち・本当の現実に対する冒涜なのだが、本来の私たちが神と一つであることを考えれば結局神への冒涜と同じことになってしまう。これはよく考えるとちょっとすごいことで、たとえば戦禍にあって命を落としたとか家族全員殺された、みたいなニュースを聴いて「なんと気の毒なことだ、悲惨なことだ」と思うのはごく当たり前の感情だが、それが「冒涜」になってしまうのだから。しかし、気の毒がったり怒りに震えたりするよりも、それらを引き起こしたのは「間違った思い込み」であり、それが自分の中にも同じようにあるからこそ自分にそう見えたのだという事実を知って浄化するほうが良いのではなかろうか?「見ない振り」をするのではない。他のことは一切考えず、ただひたすら愛と慈悲心で満たすのである。

また、単に「落ち込んだ」だけでもやっぱり冒涜になってしまうのだ。神の子なら落ち込んだりすることはあり得ないからである。全く落ち込まなくなる、というのはいくら何でも難しそうだが、落ち込んでしまった場合にそれがどれほど間違ったことなのか、そういう自分がいかに間違いに陥っているのかという認識を持てれば今までよりはたやすく回復できると思う。

神を否定するというのは普通に考えても傲慢なことである。神が愛であるならば、神を否定するのと愛を否定するのは同じことになる。他人に対する非難や批判だけではなく、自己卑下や自己嫌悪なども実際にはこの上なく傲慢なことなのである。私たちはしょっちゅう「傲慢な状態」に陥ってしまうのだが、実はその都度「愛か、愛でないか」を選択しているのである。選択とは以前にも述べられているように「この世のもの」である。時間もまた同様なので、選択すべきものがあるうちは私たちは永遠でなく時間の中にとどまることになる。しかし、いずれは「無時間・永遠」のほうこそがより現実的だと感じられるようになるはずである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 81

第11章 その1

神かエゴか?エゴは、神から離れてバラバラになったという思い込みから作り出されたものなので、その基盤に「神の否定」を持っている。神が在ればエゴはなく、エゴあるところに神はない。あるいは、どちらかを「まとも」だとすればもう片方は「まともではない」ものにならざるを得ない。何かが同時に「ちょっとだけ神的でちょっとだけエゴ的」というようなことは絶対にありえない。神=スピリットの思考システムとエゴのそれとは全く重なるところがない、とは既に述べられている。いくら神のことを考えたってそれがエゴの思考システムの中でなされているならば神のことなんか全くわからないままであろう。一方「神」なんて概念を知らなくても純粋精神あるいはスピリットの思考システムの中で考えられたものは普遍的・本質的な即ち神的なものにならざるを得ないのだ。

ゆえに、私たちは常に自分の存在基盤を問わなければならない。スピリットかエゴか?問うのは簡単なようだが、スピリットがどんなものだかよくわからないのにどうして選べるのか?これは「選んだ結果」を見れば良いのである。つまり、スピリットを選んでいれば私たちは迷いなく平和で静かな喜びに満たされている。怒りも不安も恐怖もない。逆に言えば、それらネガティブな思いに囚われているとき私たちはエゴのシステムを選んでしまっていることになる。

とにかく、私たちは常に「どちらか一方」だけを選んでいる。両方少しずつというのもどちらも選ばないというのもあり得ないのだ。そしてどちらを自分の存在基盤とするかによって経験するものが決まるのである。

ところが、エゴの思考システムというのはその基盤の内部に既に「不信」「不安」があるので、いくらそれを全面的に信じ忠誠でいようとしても、或いは信じているつもりでも常に不信や不安がつきまとうこと必定なのである。肯定的なものを信じれば心が安定しブレないのだが、否定的なものを信じても否定的な感情しか生まれないのである。これは普通に考えてもわかるはずだ。怖ろしいことが絶対に起こる!と信じればますます怖ろしくなるではないか。

エゴの思考システムの中で何かを誠実に信じようとしても、必ずどこかに「・・・?」という感覚が残ることになる。これを「コース」は「隅の親石の後ろの暗がりに何かが隠れている感じ」と表現しているが、「隅の親石」とは聖書に出てくる言葉である。従って、エゴの思考システムの中で「自分を知りたい!」なんて追求し始めてしまったら必ずやこの「暗がりに隠されている何か」に行き当たり、じゃあ今度はそこに隠されているものを探ろうなんて思ったらもう収拾がつかないことになる。どこまで行っても底なし沼だからである。無意識を探ろうなどという試みが「悪無限」にしかならないのも同じ道理である。

この「暗がりに隠されている何か」は簡単に言えば「正体不明の恐怖」であり、更に言うならば「神に背いてしまったことによる恐怖と罪悪感」なのである。あまりに怖ろしいので私たちはその正体を忘れることにした、何もなかったことにした、だから正体不明になったのだ。多くの人々はこの「隠された何か」を「ないもの」と見なして避けて通ることで普通に生活できているのだが、時々「何かあるぞ」と気づいてしまう人もいるし、この「隠されたもの」を探求し理解しなければ本当の自分がわからない!と考える人も少なくないのである。が、それが不毛であることは先に述べた。この「暗がりに隠されたもの」を何とかするには光を持ち込むしかないのだが、これはエゴの思考システムの中にあっては不可能なことなのだ。光はスピリットにしかないからである。

エゴの思考システムの中で探求を始めるとどんどん暗がりにハマってキリがなくなるのだが、スピリットの思考システムは光でできているようなものなのでどこもかしこも明るく何ひとつ隠されていない。真理が隠されていないのと同じである。それどころか、スピリットの思考システムの中に入れば入るほどエゴのそれとは正反対にどんどん明るさが増すのだ。もともとの基盤である「神の偉大な光」を感じられるようになるからである。

暗がりに隠されているもの、とは得体の知れない恐怖でありその正体は「神に逆らった」という恐怖であると先ほど書いたが、繰り返し述べられているように私たちは「神に逆らった」と思い込んでいるだけで実はそんなことしていないしできるわけもないのであった。ならば、そこには実は何も隠されていないということになる。いかにも怖ろしい或いは自分探しや真理の探究のキモであるかのような、意味ありげな「暗がり」には実際何もないのである。以前にも述べた通り、光を持ち込めば闇の中に隠されているように見えるものも闇ごと消える。スピリットの光を持ち込めばよいのだが、それほどおおげさに考えなくても「コース」の言うようにエゴの思考システムを外側から冷静に眺めるだけでも良いのである。これは要するに理性的な状態を意味している。あーだこーだと分析する悟性ではなく、ものごとをあるがままに眺めることのできる理性の力を持ってすれば一見怖ろしげだったり神秘的だったりするものも「何だ、そんなものだったのか」と一気に化けの皮が剥がれるのである。

さて、私たちは癒しを必要としている。これについてはまあ大抵の人が自覚をもって感じ、苦労してあれこれ試みているのではないかと思う。実践書である「コース」が提唱するやり方はまず原理に関する理解を深め、日常生活の中でどんどん使うというものである。たとえば、解放されるべく自分の中にあるブロックを外そう!などと思ってその「ブロック」なるものにフォーカスしてしまえば、今回出てきた「暗がりに隠されているもの」の罠にハマってしまいあまり効果は期待できなくなる。それより「全ては一つである」ことを活用し、あるいはそれをハッキリ認識するためにも、自分自身よりむしろ他者に向かうアプローチが薦められている。

といってもわざわざ誰かに何かしろ、というのではないのだ。他者とはどこまで行っても自分の中にしかないものである。あの人はこうだ、世の中はこうだ、と認識している(と思う)とき、それらはあくまで貴方が投影したものに過ぎない。ゆえに「他者を癒す」というのはこれもわざわざ出かけて行ってヒーリングを施せというわけではなく、やはりあくまで「その他者に対する自分の認識を癒す」ようなことであり、これがすなわち「ゆるし」になるのである。すべては一つであるから、他者をゆるし癒せばそれはそのまま自らに対するゆるしや癒しとなるのだ。極端に言えば、毎日の生活で起きるちょっとした「面白くないこと」を浄化し続けていれば、貴方の「トラウマ」になっていたような過去の大きな傷もいつの間にかゆるされ浄化されてしまうのだ。

エゴの思考システムにおいては、私たちはバラバラの存在だと認識されているので、時として孤独になるのを免れない。当たり前だが孤独とはそもそも神から離れてしまった(と思い込んだ)ことに起因する、これまた「思い込み」なのである。

私たちは本来一つの存在なので、孤独はありえない。これもまたエゴの思考システムの中で解釈されるととんでもないことになってしまう。私たちみんなつながっているのよ〜スバラシイでしょ!みたいに、何かちょっと??なテンションの人っていますよね。

孤独という言葉にはネガティブなイメージがつきまとうが、「ひとりきりであること」とすれば多少はニュートラルになると思う。神は孤独だったか?神の定義からしてそれはありえない。神が孤独や退屈を感じたために私たちを創造したという考えもあるようだが、孤独も退屈もやはり定義からして神のものではない。そのような考えを抱く人々にとっての神は存在ではなく存在者なのであろう。

しかし、神はひとりきりだったか?となると、ある意味においてはそうだったんじゃないのかと私は思っている。ひとりきりといってもその中に全てがあって欠けるものなく満ち足りており他のものは何もないわけだから、そうなるともはやわざわざ「ひとりきり」と言うことさえできないのである。

私たちにおいても同様なのだ。神という概念なしでも「真理を知った」というような状態になった人は言ってみれば「宇宙=わたくし」みたいな感じを経験する。この場合の宇宙とは無論二つも三つもないものだから、尚且つ「他者」などというものもないのだから、その宇宙であるところのわたくしは「ただひとりきり」みたいなものなのである。が、そこには全てがあるのだから孤独はあり得ない。壮大なひとりきり、である。その時、自分が経験している「これ」はあらゆる人においてもやはりそうなのだ、という事実も明白に了解されている。そこにおいて全ては一つであることもまた知られるのだ。

こうなると、人は謙虚にならざるを得ない。そのようにできているのである。

 
第199回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 78・79

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 78

第10章 その4

いつものことだが、「コース」は私たちに「永遠のものだけを求めなさい、永遠に不変・不滅のものだけを受け容れる意志を持ちなさい」と言っている。なぜなら私たちは本来そのようなものであり、そのようなものを求めるのがもっとも自然=ナチュラルな生き方だからである。

逆に言えば、苦しんでいるときの私たちは何か永遠でないもの、本当には存在しないものを求めてしまっているわけだ。それがここでは「自らが作り上げた偶像を崇拝している」という言い方で表されている。本当にはないものなのだから実際には何の力もなく、崇拝するどころか怖れることさえ不可能なのだが、それが可能になってしまうのがエゴの思考システムなのである。偶像を守るとは即ち「愛を否定する」あるいは「愛を怖れる」ことでもある。癒しも奇跡も愛から生じる。従って、偶像を守っているうちは癒しも奇跡ももたらせないことになる。これは「恐怖があれば癒しも奇跡も起こらない」というのと全く同じことである。

前回までにも述べたようにあらゆるものが偶像になりうるのだが、何かを偶像に仕立てて祭り上げるのは当人を措いてなく、従って偶像に逆らうことや偶像から痛めつけられることを怖れるのは「そもそもそれを造った当人」だけなのだ。たとえば私たちは病気を怖れるが、それは私たちが「病気」を「怖ろしいもの」だとして力を与えたためである。神か、病んだ偶像の神々か?どちらを選ぶかによってどのような現実を認識・経験するかが決定される。つまり、簡単に言えばこういうことになる。もしも私たちが「病気」の存在を信じるのであれば「完全なる神によって造られた完全な自分」という本来の姿を否定することになり、ひいては神を否定して別のものを信じたことになる。病気を怖れたり闘ったりするのは私たちがそれを「現実のもの」だと信じているからに他ならない。にわかに信じられないことではあるが、「病」という考えを捨ててしまえばそれがいかなる形をとっていようとも消えてしまうという道理になる。というか、もともと「ない」のだから本来の姿に戻る=なくなるというわけである。

「コース」流に考えれば病を治す(癒す)のには大きく分けて「魔術」か「奇跡」という二つの方法しかない。魔術については以前にも説明されていたが、これは簡単に言えば「病」という不完全さと「健康」という完全性を、すなわち本来全く相容れない二つのものを無理やりつなげようとする試みである。不完全なものはどこまでいっても不完全であり、完全なものに変容することはあり得ない。この世の考え方だと不完全なものに手を加えたり進化させたりして完全なものにすることが可能なのだが、「コース」つまりこの世を超えた考え方によれば、何かを不完全にしている「間違った思い込み」を外すことによってもともとあった完全さが顕現するというふうになる。

つまり、奇跡とはこのように不完全さの向こうに完全さを見ることで「不完全」という思い違いをなくしてしまうやり方だ。広義の、あるいは本来の意味におけるあらゆる宗教は(スピリチュアルを含む)「調和しないものはどこまでいっても一致しない」という事実を認識させるものなのだが、どうもそのようにはなっていないようである。だいいち、従来のキリスト教なんて「怒れる神」「罰する神」「裁きを与える神」「試練を与える神」などという具合に神そのものを偶像にしてしまっているくらいなのである。神とは「存在そのもの」であって「存在者」ではないのです。存在そのものは多分どうやっても偶像にはなりえないのだが、その分わかりにくいので「わかりやすさ」を狙って神を「存在者」のごとく表しているうちに私たちの「投影」と相俟ってどんどんおかしな方向に走ってしまったような感じがする。

本当の現実を見えなくしてしまっているのは私たちのマインドの曇りである。マインドが雲で覆われている限り私たちは現実を受け容れることができない。現実を知りたい、受け容れたいという強い意志があれば、現実でないあらゆるものをあるがままに見る、すなわち「単なる思い込みに過ぎず本当には存在しないもの」だと判断し手放すことができるはずなのだ。本当の現実と仮想現実とは相容れないどころの話ではなく、仮想現実が消えたところにのみ本当の現実が立ち現れるのである。

一つの完全なる神があってそこから一人の子が「神に似せて」創造されたのなら、その一人の子もまた完全でなければならない。私たちのうち誰かが病んでいるとしたら「神の子の一部が病んでいる」すなわち神の子が完全ではないことになってしまう。しかし、神の子は完全なのであるから、「病んでいる」と見るならばそれは知覚認識が間違っていることになる。

ちょっと整理してみよう。誰かが病んでいるとすればまずその当人のマインドが分裂しており自分自身に関する知覚認識が間違っていることになる。それを見たあなたが「この人は病んでいる」と認識するならばあなたはその人の「間違い」に同意したことになり、言い換えればその人の作り出した「偶像の神」をあなたもまた同様に信じて崇拝したということになるのである。「コース」以外のスピリチュアル系でも「心配はいけない」と言うことが多いのだが、それも同じ道理である。誰かのことを心配するとは取りも直さず「その人が病んでいる、苦しんでいる、困っている」と見ているのであって、やはり同じ「偶像の神」を受け容れていることになるからである。

分裂したマインドは神の御心を遠ざけてしまうので、その結果ますます分裂に拍車がかかる。こうなるとマインドは制御不能になり、理性もへったくれもあったものではなくなってしまうのだ。この「制御」を抑圧と混同しないでいただきたい。制御とはたとえば常に聖霊による「正しい判断」を行ってエゴの侵入を許さないようなことである。マインドが理性的ならわざわざ自分を傷つけるようなものを選んだりはしないのである。

神の諸法則とは完全なる秩序であり、平和や自由をもたらすものである。翻って、エゴあるいは偶像の世界には秩序がなく、従って自由もなく不可避的に私たちは束縛されるばかりになってしまうのだ。というより、私たちは神と神の諸法則を否定することによって自ら自由でなく束縛を選んでしまったわけである。

私たちは神の御心によって神の法則に従って創造されたのであるから、神の御心も法則もそのまま私たちに与えられていることになる。私たちそのものだと言っても良い。従って私たちは否定することはできても無くすことはできないのである。自分がそれによって造られているところのものを否定する、これは普通に考えてもかなりとんでもない状況を引き起こすに決まっている。これを「コース」はカオスと呼んでいる。しかし、その一方でエゴの思考システムはその中に「神の法則と同じようなもの」を持っており、それらは似て非なるものとして本来とは全然違う働きをする。簡単に言えば、本来私たちを平和で幸せにしかしないような神の法則が謂わばエゴの思考システムの中で換骨奪胎されて、私たちを不自由で不幸にするように働いてしまっているのである。これについては今までにも見てきたとおりであるが、たとえば本来なら「与えればますます受け取る」はずのものが「与えればそれだけ減る」「与えることは奪われることである」のようになる。

カオスとは、法則=秩序がない状態を言うのであって「カオスの法則」などとは全く意味を成していない言葉である。

「神の御心によって神の秩序に基づいて造られたもの以外は本当には存在しない」という「コース」の教えの根幹がここでもしつこく繰り返されている。私たちが自ら勝手に作り出した偶像にいくら力を与えたつもりでいても、実際にはそれらは「存在しないもの」なのだから何も与えたことにはならないのだ。つまり、私たちは何も失わず何も奪われていないのである。ただ、私たちが「自分は無力で偶像は力がある」と思い込んでいるのでそれに相応するものが外部に投影され、あたかも現実のごとくに映っているだけなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 79

第10章 その5

私たちが自分勝手に何をどうしようとも、本当の現実はびくともしないでここにある。私たちが本当に受け容れる意志を持ったとき、それは姿を現す・・・というより私たちが正しく認識したり知ったりできるようになるだけなのだ。

私たちが作り上げた偶像は何の力も持っていない。カオスをもたらすことさえできない。実際には存在しないものだからである。私たちのほうが、神から与えられた創造力を誤用してそれらにおかしな力を与えてしまった、自分のマインドの中にあるカオスを投影した(と思い込んでいる)だけなのである。自分がいかに神によって守られているかがわかればわざわざ偶像など作る必要はなかったのだ。

さて、奇跡とは何かすごいことを改めておこなうわけではなく、ただ私たちのマインドを曇らせているあれこれの思い込みをなくせば「自然に」もたらされるものだ。言い換えれば、まず自分が偶像を捨て去り兄弟姉妹も同じようにできるのだとハッキリ認めてやることによって、その当然の帰結として奇跡がもたらされるというふうになっている。偶像あるいは幻想なき本当の現実を証するものが奇跡なのである。

本来スピリットである私たちだが、その本来の姿を忘れ果てていてもスピリットはなくなるはずのないものである。それは火花のような感じで残され輝いているのだと「コース」は言う。その火花の存在がわかるときに私たちは癒されるのだが、おおもとの神の偉大な光線を知ればその時には創造がなされる、そういう語り方をしているがこれは要するに「自分が神と一つであり全てでもある存在だ」と疑いなく了解している状態を指すものである。ただ、いきなり偉大なる光線を知るというのはいささか過激で危険すぎるからか、たいていは花火あるいは小さな光を認めるところから始まるようなのだ。

この「光」の喩えはなるほど、と感じさせる。一つの大きな光からいくつもの光を採取してもおおもとの光が減るわけでもなく、分かたれた光はおおもとの光と全く同じ性質を持っている。神あるいは神の御心と私たちのスピリットあるいはマインドとの関係もこれと同じなのである。

偶像の神についての考察に戻ろう。偶像の神々をいま一度定義するなら「私たちが本来の姿を忘れて勝手に作り出したもの」であり「私たちとは別の何かで、私たちを支配する力を持っているとされるもの」のようになると思う。こういうものは概して私たちを「タダでは」幸せにしないようにもされている。すなわち、幸せになりたければ、神の国に入りたければ「犠牲を払え」「苦しまなくてはいけない」「全財産を捨てろ」みたいな、まあとてもじゃないが大変な要求をしてくるわけである。それらに従わなければ神の国に入れないどころかバチが当たると言わんばかりである。『エゴを捨てろ』というものもあるが、これも「コース」の教えによれば「思い込みを捨てて今ここで幸せになりなさい」のような意味であるのに対して、偶像の神々は「エゴを捨てろ=全財産を出せ」であったり「あれをするな、これもしてはいけない」のような禁止事項であったりするのである。「コース」の語り方も少々紛らわしいところがあるかもしれないが、「神と神の御心を怖がる」気持ちを持たずに素直に読めば、「コース」の教えがいわゆる「宗教」と全く違うということは簡単にわかると思う。「コース」が幻想を捨てよなどというのは別に「バチが当たるから」という理由で禁止しているわけではなくて、幻想など後生大事に抱えていても全く意味がないことを知れといっているだけなのである。要するに、「コース」における神を偶像の神にしてしまう危険性も十分にあるので注意しなくてはならないのだ。

いずれにしろ、偶像の神々を崇拝するのは真理の神を否定することに他ならず私たちの存在の基盤を否定することでもあるので、当然の帰結として真理の神の性質である喜びや平和などなども一緒くたに否定することになる。ついでに、真理の神を否定すれば私たちはそれに伴う恐怖や罪悪感や攻撃などを外界に投影してしまうことを免れない。かくして、更なる偶像の神々が作られる。私たちは「自分以外の何か」が自分に対して力を及ぼすと信じ続けることになるのである。苦しみや怒りや攻撃などなど、相手が私たちに与えていると思われるものは、実は私たちが相手に与えているのだ。この人がいなかったら死ぬわ、と思うならその相手は貴方にとって偶像の神であると簡単にわかるのだが、この人は自分に苦しみを与えるとかあの人には全く頭にくるわなどというのもまた相手を別の意味で偶像化していることになるのである。偶像はいろいろな形を取って現れるが、要するに神を否定したことにより正しい知覚認識がなされていない状態であることは間違いない。神を否定するのは私たちの存在基盤を、あるいは私たちそのものを否定することなのだから、これはどう見ても正気ではない。以前述べられていた「全ては考えである」という事実と考え合わせれば、偶像とは単に「正気ではない考え」であることになる。

言うまでもないことなのだが、真理の神を否定するのはエゴにとっての宗教みたいなものである。エゴはそこから生まれたのだから無理もない。たとえば、病という「偶像の神」は生を或いは健康を否定することを求めている。「コース」によれば、病むというのは「病気という神」を崇拝するのと同じことであるらしい。確かに「病は神が与え給うた試練である、ありがたい」などと考える人たちもいる。

しかし、実際には病気の時こそ私たちは救いを求めて訳のわからないようなものにさえすがりつくではないか。治りたい一心で偶像の神を崇拝しようとするではないか。これはいったいどういうことか。

まあ単純な話なのだ。先に述べたように、偶像の神を一つ作り出すと投影が生まれるのでそれに応じて更なる偶像の神を作らなくてはならなくなる、その繰り返しなのだ。かくしてエゴは無事安泰となる、という仕組みになっている。

偶像崇拝とはごく普通に考えても神に対する冒涜に他ならないのだが、いくら冒涜しても神はびくともしない。これは冒涜している私たちのほうに跳ね返ってくる、というか本来の自分自身に対する冒涜が外部に投影されて偶像の神を作り出したというほうが正しい。いずれにせよ、この冒涜によってダメージを受けるのは神ではなく、また神が私たちに罰を与えるのでもない。本来の自分を冒涜すればその結果私たち自身がダメージを受けることになるのである。

本来の私たちとは、神の御心により神に似せて造られたものであり、ゆえに苦しむようには造られていないのである。「コース」はやはり過激で、病も死も神の御心ではなく、神の御心に背いた私たちが作り出した幻想だと言っている。このあたりが一般的な宗教やスピリチュアルの考え方と異なる点である。たいていは「病は神・宇宙から与えられた試練、チャンス」だとか死を「神に召される」ことだとか、そういうふうに言うものである。これは、「コース」が徹底して「身体は実在しない、私たちは身体ではない」という考えというか事実に立脚していることによる。しかし、私たちは病まなくても試練を受けなくても目覚めるチャンスをつかむことができるし、この世に生きたままでも神のもとに帰ることができる。その方法を「コース」は教えてくれようとしているのだ。

実在しないはずの身体が病むとはどういうことか?身体を作り出したのがマインドであり、マインドが身体を規定していることを思い出してほしい。身体が病むとき、実際に病んでいるのはマインドであり、それ以前に「マインドの歪みを現す」機能をマインドが身体に与えているのである。じゃあ、生まれつき病気の子はどうなるの?とかいろいろ疑問が出てくると思う。ここではいちいち説明しないが、それもマインドの力と機能、身体とマインドとの関係を「コース」によって徹底的に学べばおのずと答えは出てくるようだ。

これは私見だが、精神あるいは心の病というのはマインドの歪みがマインドにそのまま現れているという点において却ってわかりやすいというか正直なのではないかと思う。精神や心が病んでしまったら「コース」学習などとてもじゃないがおぼつかない。ということは自力で、文字通り「このワタシ」だけの力で自らを癒すのはほぼ不可能だ。そういうときのために「奇跡」があるのである。

 
第198回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 76・77

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 76

第10章 その2

真理は直接知られるものであって認識できない。しかし、知覚認識作用が正されれば私たちはあらゆる事象を或いは事物を「正しく」認識することができる。これが直接知にジャンプする土台になるのであった。正しく認識するとは、簡単に言えば「全てのものの中に神を見る」とか「相手を聖霊だと見る」などということと同じなのである。つまり、ここまでくれば私たちが神を思い出すところまであと一歩になるのだ。

ところで、今まで攻撃と怒りと恐怖と罪悪感は三つ巴ならぬ四つ巴みたいなものだと説明されてきたが、ここで改めて「コース」における攻撃の概念を整理しておこう。

私たちは通常、攻撃と言えば相手を責めたり非難したりすることだけを想像する。定義を広げるとしてもせいぜい「自分を責め非難する」あるいは「心の中で相手を責め非難する」「私の気持ちをわかってほしいの、向き合いたいのと言いながら実はそうしてくれない相手を責めている」くらいのものであろう。ところが、「コース」によれば不安も怒りも恐怖も憎しみも、落ち込みも不満も単なる不快感までが全て「攻撃」だとみなされることになる。なぜならば、これらは全て「神に造られたとおりの真実の私たち」の姿を、ひいては神や真理を否定するものだからである。たとえばあなたが何らかの不満を抱いたなら「神に造られたところの本来の自分」つまり本当のアイデンティティを否定し、ゆえに神も真理も否定してしまうことになる。従ってこのときあなたは本来の自分も神も真理も「攻撃」したことになってしまうのである。

全てはひとつである。私たちがそのように認識できなくてもこれは「事実」であり「真理」なので、「政府がバカだ」「あの人が憎い」「仕事がどうなるのか不安でたまらない」と思っただけでまず「自分自身」を攻撃したことになってしまう。更に、その自分と神とも一つなわけだから、私たちは自覚しないままに神まで攻撃したことになる。分裂したマインドのうち表面的な部分では自覚しなくてもいわゆる潜在的な部分ではわかっているので罪悪感が生じ、それに見合った結果を自分に引き寄せることになるとも言えるし、愛や平和や喜びや健康であるところの「真理」を否定したことによって結局は自分自身に対して愛や平和や喜びや健康を拒絶することにもなるのである。これは「引き寄せ」の観点から見ても間違いないことだ。

愛や平和や喜びや健康を求めているのに、不安や怒りや落ち込みや非難や憎しみなどを自分自身に「与えて」しまうなどよく考えればサルでもわかるような矛盾である。これら否定的な感情に襲われるとき、自分がいかに理不尽なことをしているのか良く考えろ、正気の人間がやることではないと「コース」は言う。そりゃあその通りなのだが、やっぱりなかなかできないのよねえ、と普通はそう思う。なぜなら私たちはそういう反応に慣れすぎているからだ。何かあれば否定的な感情を抱くのは当たり前だと思ってしまう。しかし、その「何かあれば」の部分が問題なのだ。ここで例の「正しく知覚認識できているか」が問われるわけである。正しく認識できていればそもそも私たちには何一つ否定的な感情をもたらすことなど起こっていないはずなのである。「コース」学習を進める上で動機付けになるのが「平和な気持ちになること」であり、目標とされるのが「知覚認識機能を正すこと」だと繰り返し言われるのももっともなのである。

ところが、ここでまた事態がひっくり返される。「攻撃」とは神のものではなく真理ではない。ならば本当には存在しない、幻想なのである。ということは、私たちは本来の自分や神や真理を「攻撃した」と思うことはできるが、実際に攻撃することなどできないのである。どこに怒りをぶつけようが本当に相手を殴りつけようが、それらは全て幻想の中で行われていることであり、実際のところ神も真理も本来の私たちも攻撃などされていないのだ。

それらが本当には攻撃されていないのなら、否定的な考えや感情を抱いたことによってなぜ「実際に」愛や平和や喜びや健康が損なわれてしまうのか?

これが「投影」「創造力の誤用」なのである。私たちは自分が「そのようである」と信じ思い込んだことを外界に投影してそれを「現実」だとして経験するようになっている。思い込みの世界では思い込んだことが知覚認識可能な現実になるのである。これを裏返すと、思い込みをやめれば思い込みによってできていたさまざまな仮想現実は消え去り、本当の現実だけが残るということになる。私たちが目指す地点はここなのである。

容易なことではないのだが、ともかく否定的な考えや感情に襲われたら「自分自身と神を攻撃しているのだ、とんでもないことをしてしまっているのだ」と思うようにしてみよう。

潜在意識の中にあるような、つまり自覚できない否定的な考えは自分の力ではどうにもならない。しかし、そういうものも自覚できる範囲内で知覚認識を正しているうちに聖霊が働いて浄化してくれるのである。

さて、本当の私たちは神を攻撃などせずに愛している。私たちが自分自身を攻撃している(と思っている)とき、攻撃されているのはいわば自分自身による「想像上の自分」、あるいは自分が作り上げた自己イメージである。神に造られ神と一つであるような本来の自分ではなく、個としての「このワタシ」など本当には存在しないのだから、私たちが攻撃しているのも実は「無いもの」だということになる。これを「コース」では「偶像」と呼んでいる。自己イメージに限らない。現実にはないのに現実だと思い込んで対象化している全てのものが「偶像」だと言える。偶像だからと言って軽くみるわけにはいかない。現実だと思いこんでいる限りにおいて偶像は現実のごとくになるからだ。

通常の意味で偶像崇拝している人々は「病んでいる」ように見える。が、私たちとて同じ穴のムジナなのだ。偶像崇拝は、偶像に自分の力を与えてしまうので結果的に私たちは力を奪われることになる。これが本当の神との大きな違いなのである。本当の神なら崇拝する必要はなく、ただ知ればそれで済む。そうなれば私たちは神を愛さないわけにいかなくなり、その結果更にたくさんの力を与えられるのである。

たとえば、本当に病気になってしまったとき私たちは「病気」を偶像化しそれを崇拝していることになる。病気なんか後生大事に拝むわけないでしょ!と思うかもしれないが、上の文章を読み返してほしい。病気を現実のものとしそれに力を与えてしまっているという点において、更に病気という偶像によって自分の力を奪われているという点においてこれはもう「崇拝」と同じことになるのだから仕方がない。

ここでは、誰か他の人が病気であるような場合を考えてみよう。まあご病気なのね、お気の毒に。病気なのに頑張ってて偉いわ。早く治ってね。そういうふうに見て考えてしまうならあなたは「彼(女)が病んでいる」と認めたことになり、彼(女)が神の一部ではないと認めたことになる。教えたことを学ぶという法則から考えればこれは「そのように見た自分自身もまた神の一部ではない」と認めることになる。「コース」の言い方に従えば「相手が崇拝している病気という偶像を自分自身も崇拝する」ことになるのである。

あらゆる存在が神の一部であり神が完全無欠なものであるなら、そのどこをとっても病むはずがないのである。病んでいるように見えるのはそこに愛が欠けているからだ。もちろん、愛が欠けるなどということも本来ありえないのだが、愛ではない何かを偶像化して崇拝してしまえばそれがその人にとっての現実にはなる。そのように知覚認識されるわけである。でも、そんなふうに見たくないといっても現にここに腫瘍が、炎症ができているじゃないの!熱があって咳が出るじゃないの!と思うだろうが、身体はマインドが作り出しマインドの指令に従う一種のツールか装置みたいなものだということを思い出してほしい。(こういう事情については詳しく後述されるのでここではあまり触れないでおく。)

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 77

第10章 その3

「病んでいる」人をどう見てどう接するか?相手と同じ偶像を崇拝してはいけない、つまりどんな状態に見えてもやはり相手を「神によって造られた完全な存在だ」と見なくてはならない、愛を持って接しなくてはならないのである。でないと自分自身においてさえも神や真理を否定することになってしまうのだ。愛があれば傷つくことはない。世の中では「愛しているからこそ傷つくのよ」などというのが当たり前のこととしてまかり通っているが、そんなものはせいぜい「情念」であって、愛でも何でもないのである。私たちが愛を持って相手を完全な存在だと見れば相手が忘れてしまった神や本来の姿を思い出させることができるし、それによって私たちもまた神や自分の本来の姿を思い出すことができるのだ。

このあたりは癒しの極意ともいえる。誰かがどこかで神を思い出し神の力を受け容れたなら、それは神の子全てに対して作用するのである。神による癒しのチャネルはあの人この人それぞれに対して開かれているのではなく、ただ一人の「神の子」に対して開かれている。その「ただ一人の神の子」が「ひとつ」であるところの私たち全てなのである。もちろん、そういった癒しを受け容れるかどうかはその都度その人次第ではあるのだが、原理はこういうことになっている。

病気とは「病んだ神」という偶像を崇拝していることだ、と「コース」は言っている。そもそも「力を奪われる」という考えそのものが間違いなのだ。病んだ神とは不完全な神であり、それこそが病んでいるときの私たちの自己イメージなのだ。不完全な神というものは定義からしてあり得ない。不完全ならそれは神ではない。ところで私たちは神の一部なのだった。ならば私たちもまた不完全ではありえない。

偶像は、これもまた定義からいって私たちが勝手に作り上げて力を与えたものに過ぎない。更に、偶像には私たちの考えが投影されている。作り上げるとはそういうことである。いずれにせよ、これは疑いようもなくエゴのしわざである。あのエゴを守ってこのエゴだけを捨てる、などということは不可能だ。「このワタシ」という自分を守ろうとすれば必然的にそれはエゴを守ることにしかならない。エゴを守ればどうしても偶像ができてしまうのだ。「このワタシ」と思っている自己イメージそのものが既に偶像なのである。私たちは知らないうちに自分でいろいろな「怖ろしいもの」を作り上げてしまっているのだが、それらから身と心を守るためには偶像が必要なのだ。言い換えれば、エゴが「見せかけの平和と自信・安心」のために提供してくれるものは基本的に全て偶像である。一つの偶像でダメならまた別の偶像を与え、それでもダメならまた別の・・という繰り返しになる。

いずれにせよ、これらは全てエゴの思考システム内のものであり、そのシステムが神からの分離による恐怖を土台として作られているからには、その中にいる限り私たちは何をどう求め或いは「実際に」得てみても完全な平和やよろこびを得ることはできないようになっている。ゆえに、エゴの思考システムの中では「神」さえも偶像になるのである。

一方、スピリットの世界においては初めから恐怖を与えるような要素が存在していないため偶像など必要とされない。神の国に偶像崇拝はない。自分にすばらしい父親がいればわざわざ父親代わりのアイドル(偶像)を求めたりしないというようなものである。

「コース」によれば、私たちは自分を価値あるものだと認めないから病気になるのだそうだ。自分の価値を正しく認めていればそこには必ず愛と平和がある、そういうことになっている。キリストは何があっても私たちを価値ある存在だと見てくれる。それが「現象の向こうに本来の姿を見る」ことであり、愛であり、癒しをもたらすものなのである。

たいていの人は病んでいるとき平和な気持ちにはなれないものである。まあ、あまりにも忙しくて苦しかったので病気になってやっとゆっくり休めて楽になったという人も現代には少なくないと思うが、それでも身体に不快な症状があれば「ああ楽だ」とノンビリしてもいられない。

本来の意味においては、マインドが分裂していないとき即ち幻想がなくなっているとき私たちはもっとも平和なのである。ところで病とは幻想である。ゆえに、真に平和を求めれば病はないという道理になる。これがわかりにくければ逆から考えれば良い。つまり、本当に心が平和な状態が続けば私たちは病んだりしない。普通に考えてもストレスが全くなければ病気にはなりにくいはずである。病からの解放は幻想からの解放に他ならない。

スピリットである私たちには癒しの力がもともと備わっているのだ。言い換えれば、幻想を否定して平和を得る、というか「本当は平和だったのだ」ということを知る力が備わっている。

キリストの愛とは、私たちの本来の価値を教えてくれることにより私たちのマインドを分裂のない丸ごと完全なものに修復してくれるものである。この愛は常にあらゆるところにふんだんにあるのだが、私たちは自分が受け容れようとするだけのものを受け取る。意志の問題なのだったら、私はたくさん受けいれるつもりなのにどうしてそうならないの?と思うだろう。この章のテーマに沿って説明するなら、あなたには失いたくない偶像があるからだ、ということになる。今の苦しいコレは手放したいけど、あっちは手放したくないのよね、と思っているのかもしれない。幻想や偶像の中には今の自分にとって「価値があり、役に立っている」と感じられるものもあるのである。が、前に述べたように偶像は偶像なのであって、アレは捨ててコレは残そうなどという芸当はできない。幻想の中に失いたくないものがあればそれだけ本当の現実を受け容れる意志が少ないということになってしまうのだ。神は一つ(というか私たちも神の中にあって一つなのだが)であるのに、そのほかに自分なりの「偶像の神」がいくつもあれば、いったいどれが本当のメッセージなのかわからなくなるのは当然だ。

偶像の神、というのは怪しげな宗教(スピリチュアルを含む)や霊能者などを指すと考えていただいても良いのだが、私はそんなもの一切興味ありませんという人も安心できないのである。エゴの思考システムにおいてはあらゆるものが偶像になりうるからである。家族、お金、仕事、パートナー、学歴、身体などなど何でも構わない。前述したようにまともな宗教でさえ偶像になりうる。自分の価値を規定するものを自分の外側に求めてしまえばあらゆるものが偶像崇拝の対象になると言っているのだ。

「コース」によれば病も偶像崇拝によって起こるものなのだが、だったらその前提としてまず身体を偶像としていなくてはいけないような気がする。身体を軽視したために病気になる場合もあるから「崇拝」とは限らないのだろうが、とにかくどこかで身体に間違った意味と機能を与えてしまうことが前提だ、とまあ筋道としてはそうなるのではなかろうか。

偶像崇拝をしている当人にとってそれはもはや偶像ではないのだから、自分で見極めるのは難しいかもしれない。しかし、先に述べたように「自分以外のもの」で「これがなくなったら私はおしまいよ」「あれに見放されたらどうしよう」と思えるようなものなら大抵の人に一つか二つくらいはあるものであって、それらを偶像だと考えて差し支えないようである。

そういうものを後生大事に抱えながら病だけを治すというのはかなり難しい、というか原理としては不可能だ、くらいの勢いで「コース」は語っているのである。

かといってそれらのものを今すぐ捨てろ、捨てなくては病気も治らないとはさすがに言われていないので安心なされたい。とにかく、偶像を失うことや偶像の怒りをかってバチがあたるなどということを怖れずにただ聖霊の声だけに耳を傾けろと言っているわけである。なぜなら、それら偶像は偶像であって現実のものではないから、本当には存在しない幻想だからであり、もともと「ない」ものなら失うこともできず、また「ない」ものを怖れることは不可能だからである。この気づきによって私たちは癒されるのだと「コース」は言っているのだ。

 
第197回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 74・75

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 74

第9章 その9

価値や自信の問題を考えるにあたり、「コース」は「偉大さ」と「大仰さ」を対比させて解説している。偉大さというのは神のものであり、それゆえにスピリットである私たちに備わったものでもある。それに対して「大仰さ」はエゴのものだ。これはまあ簡単に言えば自惚れであり「オレはすごいんだ!」みたいなことである。他の人たちより自分のほうが優れているとか、あるいは自分を鼓舞するために半ば無理やり思い込むとか、現れ方はいろいろあると思う。が、基本的には全て「実は絶望を隠し誤魔化すためのもの」なのである。ゆえに、ちょっとしたことが起きればすぐに挫折して「ああ、やっぱり私はダメだ」に早変わりしてしまうのだ。そうなりたくなければとんでもないエネルギーを使って必死で自惚れ続けなくてはならない。それも結構大変そうだ。この「極端から極端に」移行するというのはエゴの思考システムの特徴なのであり、変化といっても同一平面上の平行移動みたいなもので変容に至ることはない。「コース」では、「私はダメだ」のような自己評価は「矮小さ」と呼ばれている。聖霊あるいはスピリットの思考システムの中にそういうものはない。ここにあるのはただ「偉大さ」だけなのだ。

大仰さ、矮小さなどと訳すとわかりにくいので、ここでは「自惚れ」「自己卑下」というようにしておこう。

私たちが絶望に耐えられなくなれば、それをもたらしているエゴごと放り出してしまうかもしれないので、エゴはその危険を回避するために「オレはすごいんだ」のような自惚れを提供してくれる。これは真の偉大さの代用品だとあるが、エゴはそもそもホンモノの存在すら知らないのである。自分のシステムの中にあるもので代用しているということにさえ気づいていないのだ。

とにかくこれは代用品であり要するに実体を持たない幻想であり、そこには必ず攻撃と恐怖がつきまとう。自分より優れたものを見れば「何よ、あんなもの」と思うか「ああ、やっぱり私はだめだ」と落ち込むかどちらかである。何気ない指摘を自分に対する批判や攻撃と思い込んでしまうこともある。

いったい、あらゆるものに対するエゴの反応は常に恐怖・攻撃とそのヴァリエーションである。選択肢があるとすれば「今すぐ」攻撃するか「一旦は撤退して後回し」にするか、くらいのものなのだ。自惚れてしまえば私たちは攻撃を選んだことになる。

もっとも私たちとて、何かの拍子にスピリット主導になっていて真の偉大さを感じることがないわけでもないのだ。しかし、これはエゴにとって「未知の脅威」であり存亡の危機にもなるものだ。即座にエゴは「傲慢になるんじゃないよ、間違ってるよ」と囁いて私たちをハッとさせる。まったく巧妙なことだが、私たちがエゴによって自惚れている時も同じように「アンタなんか大したことないんだよ」と囁いてくるのである。エゴ自ら「ワタシはエゴでございます」と名乗っているわけではない。スピリットに従おうとする私たちを引き戻すためには「それ、間違ってますよ、あなたのその考え方はエゴですよ」とさえ言ったりするのである!エゴは良くない!とわかっている私たちはそう言われれば簡単にこちらに従ってしまい、かくしてエゴは保全される。

このように、エゴが「道徳的・倫理的」なことを囁いて私たちを真理から遠ざけておくというケースは少なくない。神に、あるいは聖霊に従いなさいとエゴが囁いてくることさえあるのだ。それなら私たちは本物とニセモノをどう区別したら良いのだろうか?

これは案外シンプルなことなのだ。そこに愛があるかどうか、深い部分から安心できるような喜びがあるかどうか、何ものにも縛られない自由な感覚があるかどうか、感謝と祝福の気持ちがあるかどうか。これらをチェックすればよいだけなのである。まあ、言い換えれば真の偉大さは、エゴを初めとするあらゆる幻想から解放されることによって感じられるものなのだ。

このような感覚があるかないか、それは明白にわかるはずなのである。更にこれらは他の人たちにもシェアできるものであり、それも明白に現れると「コース」は言うのだが、真の自信に満ち溢れた人もエゴまみれの人の目から見れば「何よ、エラそーに」「きっと何か下心があるはずよ」としか映らないこともありそうな気がする。

真の意味で自信に溢れていることと自惚れが別物であるように、謙虚さと自己卑下も全く別のものだ。自信に溢れていればそれをわざわざアピールすることもない、というかそういう人においては主張すべき自分などとうになくなっている。それで周囲から見れば謙虚に映るのである。自惚れは容易に自己卑下に移行するが、真の自信が謙虚さに移行するなどということはありえない。この両者は同じものであり、常に同時に存在するからである。

偉大さとは、私たちが神から受け継いだ神の資質である。ゆえに真実であり不変であり永遠のものなのだ。私たちが日常生活でいくら失敗しようとも間違いを犯そうとも、そういうことに一切関わりなく在り続けるものなのだ。失敗しても、あるいは自分の不甲斐なさに嫌気がさしてしまうことがあっても、自己卑下に陥らず聖霊の導きに従ってまた頑張ればよいだけの話ではないか。ちょっと何かあったくらいで揺らいでしまう自信やプライドならニセモノに決まっているのである。

ところで、この「プライド」という言葉も要注意だ。「コース」でもこれは否定的な意味に使われている。本当の自尊心というのは、神に造られ一つであるところの全ての自分に対してのみ抱かれるものであって、他の人と違うこの自分・他でもないこの自分に対して抱かれるものではないのである。

全てが一つであり、真理はどこを取っても真理であるということを今一度思い出していただきたい。愛や喜びや感謝・平和・祝福などは真理の一部であり、別の言い方をすれば真理に付随するものである。ゆえにこのようなものは真理のあかしだと言うこともできる。

前回「私がいなければ神は不完全である」と「コース」に言われたばかりだが、今回は「神の御心の中であなたは取替えのきかない存在である」ときた。ここも注意して読まなくてはならない。「一」である神の御心の中に私たちそれぞれという「多」があって、その一つ一つが取替えの利かない、かけがえのないものだと読まれてはマズイ感じがする。まあ、そう読んだところで別に構わないのだが、あくまで「コース」に即して考えるとやっぱり違うんじゃないかと思うのだ。だって、全てが一つ・一つである全てなのだから取替えも何もないではないか。とにかくここでは「私なんかいなくたっていいのよ」みたいな自己卑下が否定されているのである。いなくたってよい存在などない。何しろ神の一部として神の資質を分け与えられて創造されたようなものは偉大であり重要に決まっているのであって、「いてもいなくても同じ」などということはありえないのだ。完全なる神の一部なのだから、いなくなっては困る存在なのだ。というより、いなくなるということ自体が不可能なのだ。ゆえに「私みたいな人なんかいなくたっていいのよ」という自己卑下は「不可能なことを可能だと思い込んで」いるのに過ぎない、自己卑下も自惚れも自己欺瞞であるとわかればよいのである。

仕事を解雇されたり左遷されたり或いは失恋したりすれば大抵の人は「私なんかいなくたって」と感じるかもしれない。が、それはせいぜいその会社や仕事あるいはその人間関係においてそうだというだけの話であって、基本的な価値には全く関係がない。そもそも会社だの仕事だの他人だのというものが本当は幻想なのだ。会社や他人に見放されることはあっても神に見放されることはありえない。そして会社や他人は幻想だが神は真理である。

まあ、自分がかけがえのない或いは取替えの利かない存在だなんて一度も思ったことはないが、それで自信を失うでもなく別に困りもしないという私のような人も少なくないと思うのだが・・・。

話を元に戻すと、自惚れが傲慢なのはよくわかるが実は自己卑下も同じように傲慢なのである。なぜなら、自分が神に造られたとおりのものであるという事実を否定し神の御心とは違うものを現実だと言っているからであり、神の御心よりも自分の思い込みのほうが正しいと思い込んでいるからである。幻想を現実だと思い込むことは全て自己欺瞞であり、あらゆる自己欺瞞は神の御心よりテメエの思い込みを優位においているという点で傲慢なのである。

貴方の価値は貴方が自分で決めるのではない。かといって他人や世間が決めるのでもない。神によって既に決まっているのである。あらゆる兄弟姉妹がみな同じく偉大である。それは永遠に変わることがないものだ。貴方はただそれを受け容れればよいだけなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 75

第10章  その1

恐怖と時間、愛と永遠というのは対になっている。恐怖がある限り「時」から自由になることはできず、愛は常に永遠の中にしかない。恐怖があるとき、私たちは神から離れてバラバラの存在になっている、というかそう思い込んでいる。「全てが一つ」ではない状態である。自分とは別の何かが自分に影響を及ぼすことがありうる、と思っているのである。だったらせめて自分の身に起きること全てが自分の外側からくるものなんかではない、ということくらいはしっかりアタマに叩き込んでおこう。それも無理なら、少なくとも私たちの身に起こることがどのような経験になるかは、私たちがそれらをどう知覚・認識するかにかかっている、全ては知覚・認識と判断次第だということだけでも了解しておいてほしい。私たちがそう思えなくても実際には「全てが一つ」であり「自分の外側」などというものはないのだ。少なくとも私たちはその都度、恐怖を感じるか或いは愛を感じるか自分で選んで決めているのである。

私たちの幸せも喜びも神の御心であり、神の御心は永遠に不変である。更に、本来私たちの意志は神の御心と同じである。この事実をよく覚えておきたい。もしも恐怖や不安を感じることがあったらこれを思い出そう。これは神が与えたものではない、神が望んだものではない、私が勝手に選んでしまったものなのだ。そのようにしてマインドを立て直そう。

というわけで、私たちの人生(過去世も含めて)と思えるものは全て夢なのであった。「コース」によれば、いや別に「コース」に言われるまでもなく、夢なら「本当には起こっていない」のである。これは私たちが普通に夜見る夢も同様である。どんなに怖い夢でも或いはどんなに素敵な夢でも目覚めてしまえば「何だ、夢だったのか」でおしまいである。目覚めた瞬間に全て忘れてしまうことさえある。二本立てで怖い夢と素敵な夢を見ることもあるが、これも目覚めてしまえば両方とも「何だ、夢だったのか」であり、どちらが本当なのかなどとは誰も考えない。もっとも「どちらかが正夢なのかしら」と悩む人ならいるかもしれない。

夢から覚めれば昼間の現実はそのまま手付かずに残っているものである。夢から覚めてみたら何もかも違っていた、というのはファンタジーの世界にしかありえない。これと同様に、私たちが「神から離れてしまった」という夢を見ている間も神とともにある本当の現実は手付かずのまま続いているのである。

ところで、夜に見る夢も昼間の生活と同様に一種の現実なのだと考える人々もいる。これは「両方とも同じようなものだ」という点においては「コース」と共通しているが、「コース」の教えはこの裏返しである。つまり、夜に見る夢も昼間の生活も同じように幻想だ、ということだ。この世においては夢も現実も違うレベルにあるように見えて実は「この世」という同一レベルにあるものに過ぎない。それらを経験する意識のレベルが違うだけなのだが、意識にレベル=層があるという点においてそれらはまさに「分離以前の本来の現実」ではないのである。

このように、スピリット以外のあらゆる分裂した意識は神も創造も締め出してしまっているのである。ゆえにこれらの部分は「知る」ことができない。スピリットは休まず創造し続けているわけだが、そうして創造されたあれこれを知ることもできない。

しかし、締め出したのは一体誰だろうか?当の本人以外にそんな芸当ができるものだろうか?締め出すとはそこに愛がないことを示している。ならばこれは神のすることではない。従って「本当は起きていない」ことなのだ。締め出すことも、それ以前にマインドが分裂することも全て「神から離れた」という「思い込み」から派生して生じた(ように見える)ことであって、どれも本当には起きていないのである。言い換えれば、夢の中の出来事に過ぎないのだ。

じゃあ、人を殺してもそれは夢の中の出来事に過ぎず本当には起きていないのか?このあたりが「コース」を学ぶ際にもっともつまずく部分だと思うが、それについてはまた改めて詳しく解説する機会があるだろう。

創造し続けること、新たに創造することは完全であり続けることである。これは以前にも述べられている。そして、これがまたちょっとわかりづらいかもしれないのだが、だからといって何一つ「新しいもの」は創造されないのである。以前のものとは別の新しい何か、などは創造され得ない。そういう意味では「新しいもの」など何一つないのである。同じものがその都度「新たに」創造される。そこがこの世のいわゆる「創造」と違う点である。

「コース」は、そのあたりのことを「あらゆるものは常に存在してしまっている」と述べている。この文章をよりスピリチュアル&引き寄せ的に解釈すれば、あらゆるものは外在化あるいは現実化する前から考えやエネルギーとしてマインドの中にもともと存在する、50年後、100年後に現実になるようなあれこれも全て既にマインドの中に存在してしまっている、というふうになる。誰も見たことのないような新しいものを作り出す、というのは「コース」的に見れば創造なんかではないのだ。

真理は常にここにあって、私たちに思い出されるのを待っている。真理を思い出すのもまた創造の一種であると「コース」は言う。一意専心にそう望むとき、つまりマインドが分裂をやめて一元化されているときには何をしても創造になるからだと思う。

思い出すというのは「かつて知っていた」ということである。分裂するというのも「かつては一つであった」ことを示している。当たり前だ。では、これらを裏返すとどうなるか?私たちは「忘れよう」と、もちろん自覚はなかったにせよ、そう決めたということになる。へえ、それじゃあ「あれ、何ていう名前だったっけ?「そんなことあったかしら、忘れちゃったわ」などというのも「忘れようと決めた」からそうなったのか?これはまあ、反射的にどんな感情が沸き起こってくるように思えても実はその都度それぞれの感情を私たちが「選んで」いる、というのと同じ消息だと考えれば良いと思う。だいいち、それらが全てこの世のことなのであればどちらにしろ「幻想」であり「実は存在しないこと」「どうでも良いようなこと」なので、忘れるのが当然ではある。目覚めれば夢を忘れるのと同じ道理だ。

しかし、真理を忘れるというのは事情が違う。これはやっぱり「忘れよう」と決心でもしない限り忘れられるものではないのである。あるいは「他のもの、たとえば怒りとか不安とか、を選んでしまう」ことがそのまま「真理を忘れる決心」を意味する場合もある。

それでもピンと来ないかもしれないが、それは私たちがエゴの思考システムにあまりにも慣れ親しんでしまっているからである。その中にどっぷり浸かって生きていれば、かつて真理を知っていたこともそれを忘れる決心をしたことまでも忘れてしまうからである。

神からの分離とは真理に対する攻撃だ、と「コース」は言う。攻撃と恐怖とは表裏一体の関係であるため、分離してしまった私たちは常に何かしらを怖れることになる。が、よく考えてみよう。かつて知っていたもの、それも全然危険なんかではないと知っていたものを何故怖れるのか?以前は「あまりにも忘れ果てて未知のもののごとくになってしまったために」真理を怖れるのだと「コース」は言っていたのだが、今回はまた違った角度から語っている。すなわち、真理を怖れるのは「それを攻撃してしまった」からに過ぎない、ということだ。攻撃してしまった対象ではなく、攻撃したという事実(というか思い込みなのだが)が恐怖の原因なのだ。真理に対する攻撃は神に対する攻撃に他ならない。これも以前、神なしでいられると思い込んだ=神に逆らったことが罪悪感になり恐怖を生み出したと述べられていたのと同じことである。ともかく、攻撃してしまったからには逆襲されたりバチが当たったりするかもしれないではないか!そう考えてしまうのである。

思い出すためには聖霊の助けを借りればよいのだが、その方法というか秘訣については以前詳しく述べたとおりである。あらゆるものを、日常生活で接するあらゆる人を聖霊だと見るという例のあれである。そうすればどんなものでも私たちに神を、真理を思い出させてくれるようになっているのだ。

 
第196回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 72・73

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 72

第9章 その7

もちろん、悩みを抱えてきた人に「それは全て幻想です」とだけ伝えても何を言われたことにもならず何も解決しないに違いないので、どんな方法であれそれを扱う人の意識のあり方によって何かしらの癒しをもたらせるように用いられればよいわけである。このあたりについては「奇跡のコース」付録の「心理療法」に詳しく書かれている。

要は、癒し手が「自分も相手もひとつのもの」であり「神に造られたままの完璧な姿を見る」という視点を維持できていれば良いのである。自分がすっかり癒されるまでは他人に対して何もできない、という意味ではない。癒しは双方向的なので両者に同時に生じるものなのである。

とにかくこのあたりではこの世の人間関係をどのように生かすか、ということが徹底的に語られているのだ。与えたものが返ってくる。与えたものを受け取ることになる。相手に示したことを自分が学ぶことになる。相手にしたことは自分自身にもしているのである。相手をキリストだと思え。キリストはあなたの祈りを神に取り次いでくれる存在である。だったらあなたはキリストに対してどのように振舞うだろうか?

おまけに、神には本来一人の子しかいないのである。「一人の子」であったものが勝手に分裂して「多」=個々人に分かれたものが私たちなのだが、神の目には今でも「一人の子」として見えているのだ。しかも神とその子とは本来「ひとつのもの」なのであれば、あなたであれ他の誰かであれ全てが「神の一部」になる。更に神においては一部と全体が同じなのであった。神にあるものは私たちすべての中にある、ということになる。

完全性も限りなさも、自分の中だけに見えるということはあり得ない。自分の中に見えればあらゆるところに見えるようになる。逆もまた真なり、知覚機能が正されるとはそういうことだ。私たちが「あの人ってまだまだダメよね」と思うときには自分自身も「まだまだ」なのである。断っておくが、ここで言われているのは「現時点における達成度」のことではない。現時点においてどんな状態であろうとその向こうに完全性や無限さを認める、それこそが「神に造られたありのままの姿を見る」ということなのである。

「コース」いわく、聖霊は目覚めを学ぶ方法を私たちに教えてくれるのだが、これが「まず他人を目覚めさせよう」となっている。私たちが惜しみなく相手に与えることによって相手が目覚める、つまり「教えた」ことになる。教えたものを学ぶというのが「コース」によれば神の法則なので、今度はそれを見た私たちが目覚めを学べるというわけなのだ。

たとえば、相手に何かしてあげて本当に感謝されたとき「そんなに喜んでくれてこちらこそありがとう」と心から感じられるような場合を考えてみてほしい。あるいは、本当に文字通りヒーリングなどの現場で「与えたことがそのまま返ってきて」自分も癒され真の現実に気づくようになる、と捉えても良い。しかし、これをあまりにも文字通りに、「相手を覚醒させなくては自分も目覚めることができない」みたいに捉えてしまうとちょっとまずいことになりそうだ。

とにかく、人間関係において真の意味でのコミュニケーションがなされるなら即ち分かち合いがなされるならそれこそが創造であり、そこに生じた喜びや平和などなどは端的に「神と同じようにして創造されたもの」なのだ。本当の現実はこれらによって「証しされる」と「コース」は言っている。ただ、これらはシンボルではないので形がない。戸棚にしまったり保存したりしておけるようなものでもない。永遠のものなのだがそれはこの世の時間軸上にあるものではない。この世の感覚からすれば「短時間で過ぎ去ってしまう」ように思えるものでもあるのだ。だから、私たちは日常生活で何気なく本当の現実を垣間見るような形で経験したりしているにもかかわらずそれを自覚しないままに過ごしてしまっているのである。本当の現実は未知のものだから怖い、などと書いてはあるが、実際には私たちのおそらく誰もが知らぬ間に経験しているはずなのだ。ただそれと認識できないままに他のことに取り紛れて忘れてしまう。

奇跡もまた「本当の現実」の証になるものなのだが、逆説的なことにただ本来の状態になってしまえば奇跡の居場所はなくなるのである。何か好ましくない状態がまずあり、それが完璧な状態に修復されるのが奇跡である以上、そこには「時間差」が存在する。ところが本来の状態においては時間そのものがないのであった。つまり「永遠」の中においては奇跡などあり得ないわけである。

また、奇跡とはたった一人で自分のためだけにもたらせるものではない、とも述べられている。これは文字通り「具体的に誰かに与えることによってのみ」奇跡が生じるとは受け取らなくても良いと思う。自分のほかに誰もいないようなところで自分のために祈るとしても、それが真の祈りになるときは知らぬ間に「自分」が消えているのである。誰かのために祈ったとしてもやはり「祈っているこの私」も「個人としてのその人」も消える。奇跡が生じるときそこに分離も分裂もない。「この私」がひとりで奇跡をもたらすことができない、とは要するにそれが他人とは別個の、他のものと分離した「この私」のままでは無理だよということである。

さて、この世において永遠を知るのは「今ここ」しかないと以前述べられていたが、ここでは「常に」が加えられている。永遠に神と共にある、とは「この先も、いつまでも」というより「いつも、常に」ということだ。絶対普遍なのだからもちろん過去・現在・未来においてどこをとっても「常に」神と共に・神の中にあるのだが、それでいてやはりこの世の時間軸ではないのである。

限りあるこの世において限りある身体によって生きているように見える私たちも、そのスピリットの部分は常に変わらず創造し続けているのであった。心を開けばそれがわかる。創造したものを認めることができ、更にそれはたった一人のものではなく他の全ての人たちと共有されていることもわかる。知らなくてもちゃんと創造できているんなら別にそのままでもいいんじゃないの?何も苦労して「わかる」ようにならなくてもいいんじゃないの?と思うかもしれない。が、それではあまりにも勿体ない。まるで本当は宮殿に住んでいるのにそれを知らず、宮殿の中の汚い物置であれこれ苦しみつつ夢を見て一生を終わるようなものである。それに、こちらのほうがもっと大切なのだが、心を開いてスピリットたる自分やそれと一つであるほかの人々の存在に気づけば私たちは他の人々とより良い関係を築けるし、お互いに助け合うこともできるようになるわけだ。以前にも見たように、もともと完全な存在である神は私たちを創造してなお完全である。完全以外のものにはなれないからである。私たちも実は同じく、スピリットとして創造しつつあることによってなお完全なのである。そのことに気づけばより積極的に創造することができ、より大きな喜びが得られるのだ。別にそんなことしなくたっていいわ、と言うならそれはそれで仕方ないのである。真善美?けっ何だそんなもの、と思うならそれも仕方ないのである。このあたりは善悪などの問題ではないからだ。しかし、スピリチュアルな生き方とは煎じ詰めれば「魂を養う」ような生き方なのであり、もっと平たく言えば「魂レベルにおいて良い人になりたい」と努力することであり「コース」によれば「完璧な幸せを得る」ということでもある。この世的な善悪の問題ではないのだ。

単純に、貴方は完璧な幸せがほしいのか、ほしくないのか?去ってはまた現れるような苦しみから解放され救われたくはないのか?

こんな私にも救いの道はあるのかしら?というなら全く心配ご無用だ。なぜなら、私たちが救われるのはそれが神の御心なのだから、ということは私たちの本来の意志でもあるのだから、そうなって当たり前なのである。

言っておくが、救われるのは「本当はスピリットである私たち」であり、エゴではない。エゴは決して救われない。エゴたるワタシ、のままで救いを求めても絶対に得られない。神の御心はエゴたる人間を救わない。悪い奴だから救ってくれない、のではない。エゴは実在しないのである。「ない」ものを救うことなど不可能ではないか。

ところで、それじゃあどうすれば救われるのか?その方法は今までサンザン述べられてきたのだが、ここでまた繰り返されている。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 73

第9章 その8

救われるためには何かとんでもないことをしなくてはならないのではないか、と私たちは考えがちだが何のことはない、救いのチャンスは日常生活のあらゆる場面とあらゆる人との出会いの中にいつもごろごろ転がっているのである。今までにも述べられたように、誰に会ってもその中に聖霊を見よ、キリストを見よ、いちいち「聖なる邂逅」だと思え、というのが基本である。日常生活のいろいろな場面でムカついたり落ち込んだりしていては救いのチャンスを逃していることになってしまう。

そこで必要とされるのが「あがない」である。すごく簡単に言えばとりあえず不快な気分を浄化して平和な状態になる、ということだ。ムカついたり落ち込んだりしたときこそ、あがないのチャンスがあるとも言える。愛のないところに平和はない。平和になりたければ愛をもたらすしかない。これはあまりにも明白なので却って見過ごされやすい事実であり、明白だからこそ「そんなのわかってるけど、できないのよ」と言われてしまいやすいことでもある。

幻想の中のあれこれをいくら調べても意味がないというのは以前にも見た。ならば、いまあなたを不快にさせている「原因」と見えるものについてあれこれ検討しようが分析しようがやはり意味はない。なのにどうして皆わざわざそういうことをしてしまうのか、それは「コース」いわく「私たちに明白なものを見させないようにする」ためのエゴの罠であるらしい。本当の現実においては何一つ隠されていないため、全てがすっかり明らかなのである。

明白と言えば、私たち自身の「価値」なるものも本来これ以上ないほど明白なのであって疑う余地すらないのだ。神によって神に似せて造られた私たちは尊く完璧な幸せに値する愛すべき存在に違いない。聖霊は私たちをこのように評価する。私たちが何をしようがそんなことには惑わされないで、本来の変わらぬ姿だけを見て評価するのである。

一方エゴはまず私たちを愛していないし、更にその時々でどうにでも変わる知覚認識に基づいて評価を行うので、私たちの自己評価はころころ変わる。良いときでさえ聖霊の評価には遠く及ばない。それどころか、意識の底の部分に「神から離れてしまった、ダメな存在だ、罰が下ったらどうしよう」というような、つまり「愛すべきでもなく幸せにも値しない」という評価がある場合が多い。聖霊は私たちの真の姿を評価しているのに対して、エゴには「真の姿」なんかわからないのだから今まで私たちがしてきたこと、あるいはしてきたと思っていることについて評価するわけである。対象からして既に違うのだ。

どちらにせよ、エゴは常に不確実な評価しか下せないのだから私たちはそんなものを信じる必要はないのだ。上記の、聖霊による評価以外のものは受け容れてはいけないのである。聖霊による評価は私たちが何をして何をしなかったかということとは全く無関係なものなのだ。エゴの評価とは言い換えればこの世においての評価である。この世でどんなに素晴らしいことを成し遂げた聖人も大量虐殺をおこなったような極悪人も聖霊は全く同じように評価する。だったらこの世においてはどんな悪いことをしても良いのかと思う人は、そんなことを考えてしまった時点で既にエゴにやられているし、またその時点で聖霊の評価も信じていないはずである。何故ならば、聖霊による評価は「他の人たちとは違って私だけが愛すべき存在だ」ではなく「私がそうであるならば他の全ての人たちも同じように愛すべき存在だ」というものであり、それを信じるなら自分と一つであるような存在に危害を加えることなど考えられるわけもないからだ。逆に、私たちが聖霊によって認識するならば、どんな人に対してもやはり同じように尊く愛すべき存在だという評価を抱くはずなのである。これは確かに容易なことではない。私たちにはまだ本当のところは理解できないだろう、と「コース」も言っている。しかし、例のごとく「わからなくても受け容れられなくても前に進め」である。聖霊による評価がピンとこないからといって否定し捨て去ってはならない。それこそがエゴの仕業だからだそうだ。私が、あるいはあの人が尊く愛すべき存在だって?まさか、そんなことあるはずないじゃない!と攻撃を始め、ついには自分にあるいは誰かに対してたいそう意地悪な気持ちを抱くようになってしまうのだ。ああ、これは良くあることではないか。しかし、これを認めてしまったら私たちは聖霊でなくエゴを選んだことになる。

私たちが何とか自己評価を高くしようと思ってもなかなかうまくいかないのはエゴの思考システムの中で考えているからである。ここには常に「間違った知覚認識」による比較や攻撃や罪悪感などが存在し、正しい評価など初めからできないようになっているのだ。それどころか、エゴによる自己評価の「自己」とは神からも兄弟姉妹からも分離した個体としての「この私」なのであり、それじたいが本来は「ない」ものである。「ない」ものを評価して得意になったり落ち込んだりするなど、考えてみれば滑稽以外の何ものでもない。「コース」学習における私たちの目的はエゴを消滅させることなのだから、当然エゴによる自己評価からも解放されて然るべきである。というかエゴによる評価を捨て去るためにはまずそれを生み出しているところの「狂った思考システム」を捨てなくてはならないのだ。思考システムは土台なので、そこから生じたあれこれだけを取り出して何とかするなどということはできない。何とかしたければシステムそのものを転覆させるしかないのである。つまり、まず土台から疑えということだ。もちろんこの部分を疑われたらエゴは存亡の危機にさらされるので、私たちにそんな疑問を抱かせないようにしておくのは当然のことである。しかし、ここまで「コース」を学んだ私たちならもうその手には乗らないで済むだろう。

さて、真理とは知ることはできるが認識はできないものだった。知らない状態というのは明らかに苦しいことであり、苦しさから逃れたい私たちは「知りたい」と真摯に望んで然るべきなのだが、繰り返されているようにエゴ支配下の私たちには「真理はなお怖い、なぜならよくわからないものだから」という誤解がある。エゴ的人生においては「知らないほうが幸せだ」ということさえある。また、自分では「知りたい」と思っているつもりでも実際には知るのが怖い、知りたくないと思っていることが多々あるのだ。それどころか真理でも何でもないものを「知った、わかったわ」と思い込んで束の間偽の安心を得ることもある。だからこそ、もっとも疑問に感じるはずの肝心なことを不問にしてしまう。エゴの思考システムは勘違いに立脚しているので、その中で考えられるあれこれも全て無意味なものにならざるを得ないのだ。自分の価値について考えるとき、間違いに陥らないために「私がいなければ神は不完全だ」と言いなさいと「コース」は勧めている。もちろん、定義により神が不完全なことはありえないので、これを裏からいえば「私がいるから神は完全である」となる。私がいてもいなくても、もともと神は完全じゃないのか?と思うかもしれない。しかしこれも繰り返し述べられているように、いったん私たちを創造してしまった神がなお完全であるからには、やはり私たちは神の完全性にとって欠くことのできない存在になっているわけだ。

それともう一つ、「私がいなければ神は不完全だ」と言うときの「私」は貴方や彼(女)と別物である個体としてのワタシではないことにも留意していただきたい。言い換えれば、あらゆる人にとってこの文言が真実なのだ。あなたはいなくてもいいけど私がいなければ神様は完全じゃないのよ、という意味では全くないのでくれぐれも注意してほしい。

誰だって自己評価を高くしたいと思うものだし、殆どの人が自信を持ちたいと願ってあれこれやっては挫折しているのではないか。これもやっぱりエゴの仕業で、エゴの思考システムの中で「自信をつけたい」と考えればどうしても他人や過去の自分との比較が絡んできてしまう。あれができないとダメだ、これができなかったからダメだなどと考えている限り、完全な自信を持つことなど死んでも無理なのだ。できないものをできるようにしようと努力するのは「コース」学習においても大切なことだが、私たちの基本的な価値はそういうこととは全く別次元のところにあるのである。

ここも誤解を生みやすいので更に補足しておく。「コース」に即した学びの実践がなかなかできなくてもだからといって「私はダメだ、価値がない」と思うのは間違っている。しかし、だからといって「私には価値があるんだ、カンペキなんだからこれでいいんだ」と努力を放棄するのはもっと間違っている。

 
第195回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 70・71

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 70

第9章 その5

間違いを正すとはまず第一に自分において認識を変えることであり、行為として表されるのはその次の段階だ。行為の部分は現象なので、現象に惑わされやすい私たちにはうまく伝わらないこともある。たとえば、「何くだらねーこと言ってんだ、このバカ者が!」「こんなことも分からんならもう死んじまえ!」と怒鳴りつける人には溢れる愛情があって、あなたを輝ける神の子だと見ているかもしれないのだし、美辞麗句を連ねてあれこれ気持ちの良いことを言ってくれる人が実はエゴまみれということもありうるわけである。もう死にたいんです、と泣きながら言う人にニッコリ笑ってうなずいただけで相手が癒され、死ぬ気持ちなどすっかり失せてしまうということもある。言葉の問題ではないのだ。そこに囚われると今度は別の問題が生じる可能性が出てくる。つまり、批判的・否定的な言葉を吐いたというただそれだけで「この人はエゴだ」と決め付ける危険が生じる。「バカもの!」「それは違うっ!」とか言われてもこのように「判断」しないで頂きたい。厳しいことを言われたり怒鳴られたりしただけで萎縮するのは当人の中にもともと恐怖があるからに過ぎないのである。

間違いを正す行為が必ずしも言葉によるものである必要はない。誰かが「私たちは身体なんですよ、生まれた瞬間から死刑台に向かって歩いているようなものです」などと言うとき「そうじゃありませんよ!あなたね、本当は云々」などと返さないで、ただ黙って相手の中の聖霊と向き合うつもりで耳を傾けてみてほしい。言葉にではなく、相手の存在そのものに耳を傾けるのだ。

とにかく、「この人は間違っている」と相手に対する批判が、特に感情的な批判が生じるとき私たちは間違いなくエゴになっており、実は自分自身のことを批判し非難しているということだけは覚えておいてほしい。同じ穴のムジナになるとはそういうことだ。このあたりは私自身、鏡現象の説明として以前のコラムにかなり詳しく書いている。

ところで、正されるべきは「間違い」なのであって「人」ではない。前回も述べたことだが繰り返しておく。私たちは全てもともと完璧に造られているので正しようがないのである。間違いを正すとは要するに自分自身や周囲のあらゆるものを「ありのままに」見て、本来の何一つ欠けるもののないその在りようを認め受け容れることなのだ。間違いを正すというよりむしろ「勘違いに気づく」といったほうが正確な感じがする。真理が歪曲されて間違いになるということはあり得ず、間違いが起きているとは単に真理を見ていないだけのことなのである。

しかも、この勘違いに「気づく」という事態は自分の努力によって得られるようなものではない。エゴたる自分を放棄したときにのみ、自然にもたらされるようなものである。これを「コース」は「間違いを正すのはあなた自身ではなく神である」という言い方で述べている。ついでに、「ゆるし」も聖霊の機能なので私たち自身にはできないことだと「コース」は言う。聖霊と私たちが一体であることに留意しつつ考えてみよう。つまり私たちが「ゆるす」とき、それは私たちの中の聖霊によってなされているという意味であることがわかると思う。言い方を変えれば、ゆるしを学ぶことはできないのだ。学び自体が「ゆるし」とは別次元のこの世のものだからである。しかし、ゆるしが起こるために必要な条件を学び身につけることはできる。学ぶのも能力のうちである。これを最大限に活かすためにはやはりエゴたる自分を放棄して聖霊に委ねることが一番なのだ。エゴによる無意味なことばかり学んだって仕方がないではないか。聖霊は、私たちが作り出したあれこれの有効な利用法を知っているのである。

さて、私たちは実は既にゆるされ浄化されあがなわれているにもかかわらずそのことに気づいていない、と繰り返し述べてきた。しかし私たちがひとつのものであって尚且つゆるされあがなわれているのなら、当然あらゆるものが既に隈なくゆるされあがなわれていることになる。ここはゆるされたけどあそこはまだあがなわれていない、などということはあり得ない。そういう意味において、あがないは個別を対象とするものではない。全てに対していっぺんになされているものなのだ。しかし悲しいかな、気づきとは啓示と同じく個別のものなのである。真に気づいたならその気づきは瞬時に受け容れられる。ゆえに、あの人は浄化されているけどこの人はまだダメ、みたいに見えるとすればそれは単に「あの人はあがないを受け容れたがこの人は受け容れていない」という意味に過ぎない。あがないが為された、とは既に浄化されているという事実を確認するようなものなのだ。

ともあれ、ゆるしもあがないも「私だけ」に起きるようなものではないので、「あの人には起きたのにどうして私には起きないのか」と思うならそれは単にあなたが気づかず受け容れていないだけの話なのである。

しかも、気づきとは「もたらされる」ものであって努力によって直接得られるものではないので、これもゆるしやあがないと同様「聖霊によって」為されるという言い方ができる。

私たちが神から離れて個別になったという思い込みを放棄して本来の状態に戻るのが「あがない」なのだが、これも悲しいかな私たち殆ど全てがこの思い込みによって生きているので、いきおいこの「あがない」プランは壮大なものにならざるを得なかった。私たちひとりひとりがこのプランの中での役割を担っている。それは端的に「相手をありのままに見る」ことなのだ。自分の間違いを相手に投影して認識してしまえば、当然のことながら相手もあなたも「個別の考えや認識」という枠の中に押し込められてしまう。分離とはすすなわち制限された状態を示している。分離しているなら必然的に境界線が存在するはずだからだ。一方、真理は無限で永遠である。相手をスピリットだと見れば自分も相手も制限を持たないような、つまり無限で永遠の存在になるわけだ。

気づきだけではない。理解もまた努力によって得られるものではないのである。もちろんあるところまでの努力は必要かもしれないが、おかしな言い方をすれば理解とは「向こうからやってくる」ようなものなのだ。エゴがなくなって純粋理性のみが働いているときに起こることでもあり、また聖霊によってもたらされるものだと言ってみても構わない。

このように見てくると、分離してしまったところの私たちが自力でできることは本当に少ないのである。ゆるしもあがないも間違いを正すことも聖霊に頼むしかないのだが、聖霊に頼むとは「委ねる」ことであり、委ねるからにはエゴたる自分を放棄しなくてはならないということにもなる。その方法についてはこれまでにも教えられたし、またこれからもいろいろ教えてもらえるので安心していただきたい。

分離してしまった私たちは幻想の自分を守るための能力ばかり開発してきた。しかし、聖霊はそれを「分かち合うための能力」に変換してくれるのである。他のいろいろなものと同様、能力もまたこの世のものなのでツールとしては両刃の剣なのだ。エゴの判断で使われればろくなことにならないのは自明である。

怒りや罪の意識などに囚われるのは苦しく、苦しみが臨界点を越えればエゴもろとも放棄される可能性もある。ということはエゴもその自己保全の目的から「ゆるし」だの「解放」だのを推奨しなくてはならないわけだ。ただしこれらは絶対に達成できないことなので私たちは手を変え品を変えて永遠にあがき続け、果たしてエゴは無事に保全されるという構図ができあがる。

これは、たとえば自分の問題点を徹底的に詳しく調べて分析して原因を探れ、みたいな方法を指している。幼児体験やら過去世やら霊障にまで及ぶことも少なくない。無意識を探れというのもある。注意していただきたいのは、こういうもの全てがそれ自体エゴだということである。子供の頃あるいは過去世において傷ついたのはあなたのエゴの部分であり、よからぬ霊=つまり肉体を失ったエゴに反応したのはあなたのエゴの部分であり、無意識を探って出てくる魑魅魍魎は全てエゴである。これらをいちいち「実在」したものだと見るのがエゴの方法の特徴なのだ。やってみればわかるが本当にキリがない。これは前回に見た「エゴによるエゴの問題解決」と全く同じであって無意味以外の何ものでもなく、下手すれば却ってエゴが強化される結果に陥る。(下手しなければ効果がある場合もないではない。これらを単なるきっかけ、入り口として使えば良いのである。)

これらの方法の中には、キリストの名を騙った「神秘的」なものもある。呪いを解いたりするとか?そもそも「呪い」を実在のものだと認めたところが既に間違っているのであるが、一般大衆にわかりやすいように敢えて「呪い」「祟り」というような言葉を用いることによって相手が癒しを受け容れやすくする、などというケースもあるので一概には決め付けられない。虚構を虚構と知りつつ方便として利用するわけである。つくづく、言葉は象徴であって実体ではないのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 71

第9章 その6

エゴによるゆるしや解放の方法は、まあ言ってみれば苦しみの原因になっている仮想敵をわざわざ作り出し、しかもそれを現実の敵にした上で克服という形で粉砕する、というようなものである。このやり方だと仮想敵はモグラ叩きのモグラのごとく、次々にもういくらでも出てくる。だからこそエゴは安泰、保全されるという仕組みになっているのだ。逆に言えば「コース」が画期的なのは、こういう不毛な努力がいかに無意味で不要かということを私たちに教えてくれているからである。

勘違いだったと気づくのに構える必要もないし恐怖も要らない。それどころか気づきのためには身構えや恐怖が障害になる。これがまずキリストによる、あるいは「コース」による間違い正しの特徴である。しかし、ここでは「あなたは自分では間違いを正すことができない、できると思うならそれも間違いである」と繰り返し述べられているので「ええっ」と思う方もいるかもしれない。これは単に今までのこの自分では無理ですよという意味である。当然だ。間違った思考をその間違った思考システムの中において正せるわけがないではないか。だからといって「聖霊を呼び出して間違いを正してもらうワークショップ」なんかに行く必要はない。聖霊はいつだって私たちの中にいるからである。神から分離してしまったという間違った思い込みを抱いたそのとき、神の一部が聖霊となって私たちに送られたのだ。聖霊に間違いを正してもらうとき、私たちには例えば「何これ?どうしてこんなこと信じてたんだろう!」みたいな気づきがもたらされるので、聖霊という言葉を知らなければ別に「聖霊が正してくれた」などとは思わない。何だかわからないけどわかっちゃった、という感じになるのである。

同様に、ゆるしも聖霊の役割であっていまの私たちに与えられた役割ではない。これも要するに分離してしまったマインドにはゆるしなど不可能だという意味である。

つまり、ここで言われているのは「自分で何とかしようとしないで聖霊に委ねなさい」ということなのである。よくわからないようなものに自分を委ねるなんて難しいかもしれないが、天使でも宇宙でも何でもあなたにわかりやすいものに置き換えてしまって構わないと思う。とにかく高次のもの、普遍的なものに委ねるということがポイントなのである。やってみた方はお分かりだと思うが、ゆるしが大切だからといって「さあ、ゆるそう!ゆるしたい」といくら力んだところで何も起こらないのである。ゆるすとは手放すことに他ならないのだから、エゴの努力とは逆方向のものになる。むしろ努力を放棄して聖霊に委ねることが大切なのだ。委ねれば論理的帰結としても事実としてもエゴは消えるわけである。その状態にならない限り奇跡ももたらされない。奇跡は自然なことだ、と「コース」が言うのは、妨害するものが何一つない元々の自然な状態にあってこそ生じるものだという意味でもある。

がっくりするようなことなのだが、ゆるしもあがないも癒しも奇跡もみんな「この私」の使命だ!役割だ!だからその能力を開発しようなんて考えたら、それこそまさにエゴなのである。もともとエゴには「すごいことをしたい」「自分を立派に見せたい」という願望がある。その部分が現れると、聖霊の役割も何もかも自分が独り占めしようと思うようになるのだ。そもそもエゴには役割も何もないのだが、ここまでくるともう本当にハタ迷惑としか言いようがない。何故ならば「オレはすごい、お前らとは違う」とか「あの人にはできるのに私はダメだ」などという「エゴを強化する」方向に走るのは間違いないからだ。

だいいち、繰り返し述べられているようにエゴは究極の無知!なのであるから、いま何が起きているのか、これからどうなるのか、どうすれば良いのか、などなど全くわからないわけである。正しい判断ができる保証などどこにもないのだ。これがまあ通常の私たちの在りようでもあるわけだが、とにかくそういうエゴが全ての役割を担ってしまったらどういうことになるのか考えただけでも怖ろしいではないか。かくしてエゴを導き手とするゆるしや解放のプランは必然的に挫折する。というかそもそも初めから挫折するようにできているのである。まあ、このことは多くの人がわかっていて、だからこそ守護霊やらインナーガイドやらハイヤーセルフやら「この自分とは違う」何かを導き手として求めているのだろう。しかし、それでも「コース」の教えの原理がわかっていないと今ひとつうまくいかないのではなかろうか、とも思う。たとえば、「この私」は、他の目覚めていない人たちとは違うすごいことをしている!などと思ってしまったらもうアウトなのである。

以前にも述べられていた通り、分離の終焉すなわちエゴの終焉が「最後の審判」なのである。もちろんそれは時間軸上のいつか、に起きるものではない。しかしエゴは時間によって生きており何でもかんでも時間軸上において見ることしかできないので、「自分の滅亡」が時間軸上のいつか、に起きると思って怖れているのである。エゴなんて要らない!という私たちにとって「最後の審判」は怖ろしいどころか大いに歓迎すべきものだ。そのときこそ本来の分別が回復されるからである。

なのに、私たちの殆どがなかなか幻想の世界から抜けられないのは、「本当の現実」がどんなものだかすっかり忘れているためにそれが「今の仮想現実より良いものだ」と思えないでいるためである。本当の現実はエゴにとっては未知の怖ろしいものだが、スピリットにとっては旧知のものなのだ。本当の現実に気づきそれを受け容れるとき、既にエゴはない。ならば私たちが新しい世界で右往左往する可能性は皆無である。もっとも、エゴもそれなりにしぶといので、本当の現実に気づいた直後に「何これ?いったいどうなってるの?こんなのあり?」という混乱として戻ってくることは大いにある。

それでも「いや、今のこの現実こそ本当の現実よ!」と思うならあなたは間違っている。間違っていてよかったね、喜びなさいと「コース」は言う。今の、今までのあなたが正しいのなら神が間違っていることになり、もはや救いはないからである。

幻想とは夢であり、実体を持たない。幻想の世界のあれこれは全て実体を持たない「シンボル」に過ぎないのだから、それらを取り出してどうこうしようとしても意味がない。たとえばお金などシンボルの最たるものである。シンボルなのだから私たち個々人がいかようにも意味づけできるのだ。そのくらいに考えておけば何に対してもそれほど深刻にならなくて済む。この程度では「コース」学習のゴールに達したことにならないのだが、それでもより幸せに生きるための助けにはなる。

さて、エゴによる救済プランは大昔から世の中に跋扈している。つまり「癒されない癒し手」が沢山いたし、今もいるということだ。癒されない癒し手とは「自分が受け取ってもいないものを相手に与えようとしている人」だと定義されており、その例としてキリスト教神学者(多分、聖職者なども含まれる)と心理療法家が挙げられている。両方とも「怖ろしいものや苦しみを現実だと考えている」点で共通しているのだが、前者は「私たちは罪深い存在で、罰を受けるのが当たり前、神を恐れて当たり前」であり「苦しみは神が与えた試練」と捉えている。後者は、私たちの苦しみは「現実」のものでありその原因も「現実」の中にある、私たちの心は複雑かつ繊細なのだから、つまりそんなに強くはないのだからひどいことが起これば影響を受けて当たり前だと考える。しかし、苦しみを「克服」するには心が強くなくてはならないはずだ。複雑かつ繊細な心をもっと強くしよう!これは、ものすごく当たり前のことを言っているように見えてかなり不可能なことを言っているのである。だからそういう試みはたいていうまくいかないのだ。

私たちが苦しむのは心が弱いせいではない。それは原因なんかじゃない。

以前、私たちの世界で「原因」だと見えるものは実際には全て「結果」だ、と述べられていたが、癒されぬ癒し手はそれがわかっていないのだ。

 
第194回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 68・69

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 68

第9章 その3

何かを求めて祈り、それが叶わなかったという経験を持つ人は少なくないだろう。それどころかたいていは「祈ったけどダメだった、神も仏もあるものか」なのではなかろうか。間違ったものを求めた場合はいざ知らず、「コース」に即したような祈りであってもダメだったときはどうなのだろうか?なぜ、正しいものを求めて祈っても失敗するのだろうか?

これはひとえに祈りが叶えられることを私たちが怖れているからなのである。癒しにおいても事情は同じなのだが、身体が癒されることを怖れる人はあまりいない。健康な状態に戻るとわかっているから、健康がどういうものか知っているからである。もっとも、自覚はなくても病を何かの隠れ蓑に使っている人はそれが治って消えてしまうことを怖れる。

思考システムを逆転させるということは予想以上に恐怖をもたらすのである。病んだ思考システムが身体に表れていれば、表れたそこだけを消してほしいと思うのが普通なのだ。このような場合には恐怖があるので、他の条件が全て満たされていても癒しが起こらないことがある。

聖書にもあるように、全ての祈りは聞き届けられる。聖霊に求めたものは全て与えられる。なのにどうして「効果」がないように見えるのか?これは言ってみれば宅配便が来たのに気づかず受け取らなかったのと同じことなのだ。あなたは他のことで忙しくしていた、つまり聖霊やスピリットを忘れてエゴにつかまってしまっていたのだ。

おかしな話に聞こえるかもしれないが、別に大したことのない癒し手であっても受け取り手が完全に彼(女)を信頼して自分自身を開いていれば癒しは起きることがある。ましてや相手がキリストなら間違いの起ころうはずもない。鰯の頭も信心から、とは良く言ったものである。祈りも癒しも、完全なる信頼がなければその結果を受け取ることができない。言い換えれば、コミュニケーションが起こらなくなってしまうのだ。以前にも書かれていたが、エゴによらずスピリットどうしで交流することこそ癒しが起きる条件なのである。相手が何を話そうともこちらがスピリットとして、スピリットである相手に向き合っている限りそこでは真理だけが語られるということになる。どんな相手であれ、相手の中のキリストと向き合うつもりでいることだ。

これは全くその通りなのだが、スピリットのつもりで実はエゴのままという状態だったりした日にはもう目も当てられない悲惨なことになる。そこをどう区別するか?少なくともそこに恐怖とそこから派生する怒り・罪悪感などなどが生じていないかどうかが最大のポイントである。

まあ、癒しに限らず普通の人間関係でもこういうことは重要だと思う。こちらがねじくれていれば相手がどんなにスバラシイ素敵なことを言ってくれても絶対にそのようには聞こえないからだ。あなたはあなたが聴きたいことだけを聴くわけである。これをぜひ覚えておいていただきたい。

何と素晴らしく驚くべきことに、聖霊のメッセージなど日常の会話の中のどこにでも転がっているのである。とは言っても、相手に聖霊が乗り移って何か天からのメッセージみたいなものを降ろしてくれる、というような意味にも取らないで頂きたい。「コース」は、相手があなたに何を話すかはあなたが相手をどう見るかにかかっている、と言うがこれもエゴ的な願望を満たすような嬉しいことを言わせるという意味ではないので注意してほしい。

通常の言葉で言うならば、とにかくいかなる場合でも相手に敬意を払って接することが大切なのだ。何気ない会話の中にあなたの助けになるようなとんでもなく重要なメッセージが混じっている可能性も大いにあるのである。相手が一見エゴまみれのような人であっても、全ての人がそうであるようにその人の中にも聖霊がいるのだと思えば敬意を払わずにはいられないはずである。じじつ、本人が全く目覚めていなくても何も考えていなくても私たちが相手に聖霊が宿っていると見れば、その人は少なくとも私たちにとってはそのようなメッセージの送り手になってくれるのだ。これは日常生活の中の人間関係で非常に役に立つ教えなので、早速実践してほしい。

もちろん、相手の言うことを全て素晴らしいものだと思って受け容れろというような意味ではない。「コース」は、相手をスピリットとして見れば真実のみが語られるというが、真実は言葉ではないことを思い出してほしい。相手はおかしなこと、間違ったことをいうかもしれない。しかしそれを批判したりするのでなく、たとえば「ああ、私にもこういうところがある、ここが間違っていたのだわ」という気づきになればそれは確かに聖霊からのありがたいメッセージなのである。それを伝えてくれた相手にも当然感謝の気持ちが起こるはずなのだ。

聖霊はいろいろなものに姿を変えて現れると前にも述べられているが、なくなった家族とか聖人とかそういうものばかりではないのである。ちょっと立ち話をする近所のおばさんが聖霊のメッセージの送り手になるかもしれないのだ。その時、あなたとおばさんのマインドは聖霊を通じてまさに一つになっている状態なのである。

このように祈りは一人きりでは為されないものだと「コース」は言うのだが、キリスト教徒はよく一人きりで祈っていて非常にスッキリ静かな満たされた気持ちになったりしているではないか。これは、彼らの祈りが常にイエスキリストの御名によって捧げられることを思い出していただければわかることだ。祈っているときの彼らは一人きりではない、キリストと共にあるのである。たとえばたった一人の病室でも独房でも私たちは一人きりではなく、キリストと共にあるのだ。誰の声もしなくても、ただ静かで平和な気持ちになったならそれこそが聖霊のメッセージなのだし、たまたま目にした本や新聞の中にも祈りに対する答えが見つかることがある。

日常生活でいろいろな人と接する機会のある私たちは、その気になればいつだって祈りに対する答えとしての聖霊のメッセージを受け取ることができるし、そのたびに自分も相手も間違いなく神に造られた一つのものだと確認できるのだ。更にここで相手を聖霊の宿し手だと見ることは取りも直さず相手を神に造られたままの完璧な存在だと見ることにもなるので、当然相手も同時に癒される。また、私たちはキリストに聴いてほしいことを目の前の相手に伝えることもできるのだ。これは「お願い事」というより感謝や喜びの気持ちや敬意を表すことだと思う。こういうことをされて気分が悪くなる人はいない。真理の目覚めがどうの、なんて全く興味がない人でもこれはいわゆる「気持ちの良いおつきあい」の秘訣として大いに役立つことだろう。

ところが、気持ちの良いおつきあいどころの話ではないのである。上記のようにしていれば、何と素晴らしいことに日常生活でかかわる全ての人が私たちに救いをもたらしてくれる存在になるのだ。「コース」が実践書を自認するのも尤もなことである。

私たちがエゴまみれになっているとき私たちは自分自身を欺いているわけなのだが、キリストはいかなる時も決して欺かれず私たちの真の姿だけを見てくれる。キリストが直接お告げのような形で、つまり聖霊がそのような形を取って私たちにメッセージを送ってくれることもないではないが、そんなことは考えなくても良いのである。ここで「コース」はかなりすごいことを言っているのだ。即ち、ひとを見たらキリストと思え!ひとを見たら聖霊と思え!ということである。まさかそんなことは思いも及ばずにいい加減な気持ちで、あるいはエゴまみれで他人と接しているから私たちは祈りに対する答えを聞き逃してしまうのだ。

全ての人のなかに聖霊がいると知りなさい、そして聖霊に何かを求めるときはまず与えなさい。これが「コース」の教えである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 69

第9章 その4

私たちはみな神の子として本来一つの存在である、と言われてもなかなかピンと来ないのは仕方ない。ピンとくるまでは何もできないというのではあまりにも時間がかかりすぎて勿体ないので、とにかく日常の人間関係を最大限に活用しよう。相手の中のキリストに接するつもりで、スピリットどうしとして相手に接するように心がければ自然に真のコミュニケーションが行われる。それを経験することによって私たちは一体感や喜びや感謝をも経験できるという道理なのである。これは一種の鏡現象だと言うこともできる。

へえ〜と思うだけではなく是非やってみてほしい。実際に経験すれば「なるほど」と信じるしかなくなり、感謝しないわけには行かなくなるのだ。

わざわざどこかで修行をしたりワークショップに行ったりしなくても、常に「今ここ」において全ての存在が師になってくれるのである。すると全ての存在を心から感謝すべきものとして受け容れることができるのだ。時間もお金もかからない素晴らしい方法である。

感謝という対価を支払えば支払うほど私たちは平和と喜びに満たされる。批判的な判断をするのはエゴの作用だが、そのように「何だ、この程度なのか」と思ってしまえば大したありがたみも覚えず感謝という対価を支払わないので、結果としても大したものは得られないのだ。私たちは自分が与えた分しか受け取れないようにできている。だったら大いに与えようではないか。以前にも見たように、与えたらその分だけ失うというこの世のエゴの思い込みに惑わされてはいけないのである。なお、この場合に受け取るとは「獲得する」のではなく、「受け容れる」ことである。私たちは聖霊やキリストから答えを「受け取って」いても「受け容れて」いないことが多いのだが、そういう場合私たちの認識としては「与えられなかった、受け取らなかった」というふうになってしまう。

ついでに言えば、この世の常識では「自分にとってはもう価値がないから、自分には要らないから」という理由で「与える」「あげる」ことが多いのではないかと思う。この世においては寄付などの形で役に立つこともあるのだが、本来の状態においては事情が異なっている。即ち、自分にとって価値があると思うものこそ大いに与えなさい、そうすれば同じだけ価値のあるものを受け取るだろうというふうになる。たとえば愛がほしければ愛を、感謝がほしければ感謝を与える。そのときあなたは愛や感謝で自分が満たされているとわかるだろう。これは、誰かに感謝すれば例外なくその人からも感謝されるというような意味とは限らない。「和尚」は、「愛は与えた瞬間に返ってくる。返ってこなければそれは愛ではなかったのだ」と言っている。このようなものは放射した瞬間に自分に返ってくる、というかもともと自分がそれを持っていたことに気づくのである。そのとき既に彼我の区別はなくなっている。愛や感謝と見えていたものが実は単なるエゴ的な感情であればこういうわけにはいかない。エゴに支配された私たちはいわゆる「見返り」を期待する。見返りがなさそうだったらこちらもケチってあまり出さない、というのがまあこの世の常識ではある。

「コース」の教えをもう一度繰り返そう。全ての人の中に聖霊がいると知り、聖霊に頼みがあるならまず与えなさい。で、これである。

「私自身を知りたいから、あなたのことを神の子であり私の兄弟だと見ています」

そうすれば私たち自身が神の子であり、全てのものとひとつの存在だとわかるのである。

さて、私たちの学習目標の一つが「間違いを正す」ということであった。しかし、エゴだって間違いを見つけるし、見つければ正すことをしているのである。ただ、聖霊の観点からすれば完全にズレている。

まず覚えておいてほしいのは、エゴの分別は意味をなさないということである。そもそもエゴは間違いの産物なのだから、本来の意味において間違いを正すならエゴは放棄されるはずなのだ。しかし、エゴの「教育的指導」は常にエゴを強化する方向にある。ここでは主に兄弟姉妹=他人の間違いを指摘して正すことについて述べられているが、自分自身の間違いについても事情は同じだと考えて良い。

エゴは私たちの「間違い」の産物であるため、エゴのすることは全て間違いにならざるを得ない。従ってエゴによる「間違いの修正・教育的指導」もまた間違っているということになってしまうのだ。

このあたりは非常に誤解を招きやすい部分なので、くどくなるのは承知の上で少し細かく解説していきたい。

誰かが明らかにエゴ的な言動をとっているのを見ても私たちは別にそれらを「間違いだ」と見るとは限らない。政府はけしからん、あの人はバカだ、世界は今に滅亡する、やっぱり見た目が全てよね、などということを聞いて「そうよ、そのとおりよ」と大いに共感するかもしれないのだ。これはエゴがエゴに同意している姿である。ここには間違いの指摘も訂正もない。

次に、誰かのエゴ的な言動を見聞きして「それはおかしいんじゃないの」と思う場合がある。その上で、また別のエゴ的見解をもって相手の「間違い」を正そうとするなら、これはエゴどうしのぶつかり合いであってエゴは却って強化されることになる。だいたい「私の意見・考え」「あなたの意見・考え」なんてものはまずエゴ的だと思って間違いはない。「コース」に、あるいは真理に則して考えればそもそも「誰かの意見・考え」などというものじたいが無意味なのである。真理は普遍的であって「個別」など相手にしないのだし、個別であるものが真理であるわけもない。とすれば、個別の意見とは文字通り真理ではない、つまり間違いなのである。そんなものに何の価値や意味があるだろうか?従って、このレベルにおける間違いの指摘や訂正は不可能である。指摘するものもされるものも両方間違っているからだ。

さて、問題は次である。「コース」学習者ならびにスピリチュアル学習者がもっともつまずくところがここである。私たちはいろいろ学び、一応ある程度のことがわかるレベルまでこぎつけた。誰かがエゴ的な言動をしていれば「あれは間違いだ」とわかることもできるようになった。しかし、ここで「ちょっとあなたねえ、間違ってるわよ」とか「あの人はエゴ的だからおかしい、目覚めてない」なんて考えたり言ったりしてしまえば、そのとき私たちのほうこそがエゴになってしまっているのである。聖霊は間違いを選り分ける働きがあることを思い出してほしい。たとえて言うなら、間違いをあたかもただの「ゴミ」か鏡の曇りのように見て、ただ拭き取るだけなのである。それをいちいち調べたりしないし、ゴミを持っているその人自身までゴミ扱いすることはない。エゴ的に反応する場合、ゴミだけでなくゴミをもっている人までもゴミのように批判してしまうことになる。ゴミを払うのも鏡の曇りを拭き取るのも相手に対してではなくまず「自分において」なされなくてはならない。

この人が考えていること、言っていることは真実ではない。にもかかわらずこの人自身は神の子ゆえ常に正しいはずである。そういう認識を常に持っていなくてはならないのである。相手のエゴに反応するのは常に自分のエゴなのだ。聖霊やスピリットとはエゴに何の接点も持ち得ないのである。

相手を「自分と同じ神の子だ」と見た上で「本当はこうなんじゃないかしら」と言うのであればこれは単にゴミをよけようとしているだけであって、相手をゴミ扱いして批判することにはならない。相手のことはいつでも聖霊を宿したスピリットだと見て接するべきなのは前回までで見たとおりである。その上で以前にも書いたように相手にではなく自分に対して間違いを正し、相手に対しては「ああ、本当はこうじゃなかったのよね、気づかせてくれてありがとう」という気持ちを持てばよいのである。

 
第193回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 66・67

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 66

第9章 その1

私たちが神の御心を怖れていることは以前にも何度か述べられているが、これは即ち真実を怖れていることに他ならない。真実ほど怖くないものはないのだが、幻想にとって真実はもっとも怖ろしい敵である。なぜなら真実によって幻想は滅びてしまうからである。幻想に生きている私たちは、それがいくら苦しいものであろうとも自分たちの「現実」を壊すものを怖れるのである。

ところで、私たちは神の御心が分かち与えられたことによって造られたのであり、私たち自身が神の御心であり、神の御心は私たちの意志でもあるのだった。となると、神の御心=私たちの意志あるいは本当の私たちを怖れている「私たち」って一体何もの?一体どの「私たち」?ということになるが、これはやはりエゴに支配されたところの自己に決まっているのである。

さて、繰り返し語られているようにエゴは何も知らないもの、究極の無知なのである。エゴの支配下にある限り私たちもまた無知を免れない。私たちは自分の本当の姿、本当の現実を知らないのである。これはソクラテスも言っていることだが、よくよく考えてみれば知らないものを怖れることはできないはずである。全く知らない・分からないものに判断を下すことなどできる道理がないではないか。しかし、往々にして人は知らないもの・分からないものを怖れる傾向がある。死がこれほど怖れられているのも一つにはこのためである。ゆえに、幻想であるところの今の現実なんて壊れたほうがよっぽど幸せかもしれないのに、幻想を壊すような真実をただ「未知のもの」というだけで「もしかするととんでもなく怖ろしいものかも」と思ってしまうのだ。

この説明はもっともだが、どちらかというと「神に背いてしまったという思い込みのために神の怒りを怖れている」から神の御心も怖れているという以前の説明のほうがよりわかりやすい感じがする。まあどちらにしても「神の御心がどんなものか本当にはわかっていない」という点では同じなのであるが。

知らないものを怖れることはできないと同時に私たちは知らないものを求めることもできない。しかし、スピリットであるところの私たち、本来の私たちは本当の現実を知っており尚且つそれがどれほど素晴らしく愛と恵みに満ちているものかも知っている。ただ忘れてしまっているだけなのだ。エゴは知らないがスピリットは知っている、そういうものはただ思い出しさえすれば良いわけで、それを助けてくれるのが聖霊なのである。

私たちが本当に求めているのはこれなんでしょ、と聖霊は示してくれるのだが、それはあくまでも私たちが受け容れられる範囲内においてである。いっぺんに何もかも全て与えてくれないのではなく、それどころか本当は全てがここにあるのだが、そんなに急には私たちのほうが受け容れられないのだ。無理にやろうとすれば恐怖が増す。「コース」が常に言うように、少しずつ目覚めていくほうが楽だし安全なのである。

私たちが少しでも真実に目覚め本当の現実に気づくとき、言い換えれば神の御心を認めるとき、それは聖霊が私たちのマインドの中で選別作業をして正しいもの・真実であるものだけを選り分け認識してくれているということなのだ。こういう気づきはスピリットを通しておこなわれ、スピリットは聖霊とつながっているからである。

こうして言葉で説明するのは実にまどろっこしい。まるで聖霊や神が私たちとは別の何かであるような印象を与えてしまう。聖霊に頼め、キリストに頼めと言ったってそれらは私たちと別の何かではない。しかし自分が自分自身に頼むわけにはいかない。だからどうしてもそういう書き方になる。一方で「コース」は、本当にしつこいくらい「聖霊は私たちの中にいる」とか「私たちは神の中にいる」「ひとつである」と繰り返すことによって、聖霊もキリストも神も私たちと別の何かではないことを確認させているのである。

聖霊による、あるいはスピリットによる気づきに対して私たちが恐怖を抱くとすれば、「それと引き換えに何かを失うのではないか」と考えるためである。まあ、確かに失いますね。ただし元々なかったようなもの、不幸の原因になるようなものを失って不都合なことがあろうか。夢の中で得たものは目覚めればなくなるのが当然だが、そのとき私たちは何かを失ったと思うだろうか。もともとなかったものは失いようがないのではなかろうか。聖霊が私たちに何か犠牲を求めるようなことはありえない、とはこのような意味においてである。通常の意味で考えても、喜んで犠牲を払っているその当人においては既に「犠牲を払っている」などという意識さえなくなっているものなのである。

このあたりについては全く心配無用なのだ。というか考えるだけ無駄である。本当に目覚めてしまえば何も失っていないと、それどころか全てを得たのだとわかるに決まっているのであり、何かを失った、あるいは失うのではないかと思っているうちはまだ目覚めていないのだ。無意味で無駄な考えを起こさせるのもエゴの抵抗の一つである。

ところで、神の御心と私たちの意志とは同じものなのであった。それらが異なると思ったときに神からの分離が始まり、それらが異なると思い込んでいるうちは分離が続くのである。神と私たちとの意志の疎通が可能なのは、両者が同じものだからである。ここが通常のコミュニケーションと真の意味におけるそれとが異なる点なのだ。スピリットはいつでも、いつまでも創造によって神とのコミュニケーションができているのだが、マインドが分裂していればマインドまるごと全体としてはコミュニケーションが不可能になる。

こういう状態をも聖霊は理解できるので常に私たちにメッセージを届けてくれるのだが、あるいはスピリットは常に真理を知っているのだが、私たちの顕在意識がそれに気づけず、それを読み取ることができない。

聖霊に頼んだけど別に何も起こらなかった、祈ったけどダメだったという経験をお持ちの方も多いと思う。絶対に確実なのは、私たちの願いが聖霊に届かないことも、聖霊が答えを与えてくれないこともありえないという点である。聖霊には間違いなく届いているのだが、自分が一体何を求めたのか肝心の私たちがよく分かっていないことが多いのだ。エゴの願望をそのままの形で聖霊が受け取り答えを与える、ということもまたありえないのである。このあたりは少しわかりにくいかもしれないが、たとえば「お金がほしい!」と望んだのに一円も入ってこなかったとか「恋人がほしい」と頼んだのに出会いさえなかった、などというのは、本当は「豊かさ」「愛」を望み求めていたのに自分がそれをわかっていなかったのである。聖霊やスピリットはこれらを正しく解釈する。そして、必ず!自分が豊かであり愛に満ちていると気づくようなことが、小さなことであっても起きているはずなのである。ところがあなたは「お金」「恋人」を求めたつもりなので、そんなことが起きても大した価値も見出さずにそのまま見逃すのだ。ここで本当に気づいて意識が変わっていれば、そこからお金やら恋人やらも引き寄せられたかもしれないのである。エゴ的な願望や感情の裏にはたいてい欠乏感があり、それが投影されて更なる欠乏を生み出し続けていれば聖霊が「豊かさ」を示してくれていても私たちにはわからないのだ。

また、聖霊は常に私たちの許容範囲に応じて働く、というか私たち自身が設けた限度の中でしか私たちには受け取れないという事情もある。期待もエゴのものであるため、期待してしまえばそれ自体が限度として作用する。もう何もかも諦めたようなときに驚くべきスバラシイことが起きたりするのは、期待も何も手放して許容範囲が最大限になっているからである。

更に、初めのほうで見たように、恐怖があれば聖霊やキリストのメッセージは届かなくなる。これら諸々の事情により私たちは聖霊の教えや導きを受け取りそこなっているのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 67

第9章 その2

とにかく、真実がどんなものかわからなくても、少なくとも私たちが現実だと思っているものよりははるかにマシでありそれどころか真実ほど安全なものはないのだということだけはしっかり覚えておきたい。

ところで、普通に考えても私たち自身の意志は神の御心・御旨よりも強力なものだと言える人がいるだろうか?そうだ、と言うなら既に神の定義からして違ってしまっていることになる。

神の御心と自分の意志は違うんだ!という考えは突き詰めれば「神などいない」「神の御心は怖ろしい」という二つのものに行き着く。前者は無神論者であり後者は殉教者であると「コース」にはあるが、私としては前者はどちらかと言えば唯物主義者ではないかと思うし、後者については単に分離状態におかれたまま神を自分と別の強大かつ怖ろしいものだと定義づけている一般の人々だと思う。殉教者というものは大抵「試練や受難こそ神の御心」だと考えてそれらをありがたく受け容れているものであって、別に怖れているわけでもないようだからだ。殉教者というよりただ常に苦しんでばかりいる人のことを指していると考えたほうが良さそうである。いずれにしろ、絶対的な信頼をおくものがなく孤独であるという点において両者は共通している。「コース」に即して考えれば、両方とも「無知」だということになる。神の御心と私たちの意志が同じものだと認め、あるいは本当にそれが事実として分かれば、信じないことはできないし犠牲などありえないことも分かるのである。恐怖とは真理を否定するところにしか生じない。これは以前にも述べられていることである。

さて、私たちは既に自分の中にあるものしか得ることはできない。逆に言えば、正しく求めれば必ず与えられる、というか既に与えられていることを知るのである。もっと言えば、自分の中にないもの、神によって既に与えられていないもの即ち真実でないものは求めても得ることができない、というか厳密に言えば求めることさえできないのである。それがわかっていないのが私たちの悲劇の元であり間違いなのだ。ありえないもの、存在しないものを求めて得られずに苦しむ、今度こそは頑張ろうと更に努力していっそう苦しむという繰り返しの中にいるのだ。ありえないものとは、私たちを苦しめ傷つけるものや私たちを幸せにするように見えて実は苦しめるものなどのことである。幸せになるためにはあれやこれがなくてはならない、と勝手に決め付けそれらを得ようとして苦しむケースは多々あるが、なぜダイレクトに幸せを求めないのか?これについては私自身のコラムでも書いたことがある(「シアワセになりたい!」をご参照ください)。

もっと端的に言えば、エゴが求めるものは得られないようになっているのである。なぜならエゴは私たちを本当に幸せにするものを求めないから、それ以前に幸せがどういうものか知らないから、知らないものは求めようがないからである。だからエゴであるところの私たちが聖霊に頼んだってダメなのだ。聖霊が厳しいからではなく、私たちを不幸にするようなものを与えるはずがないからである。何よりも、聖霊は私たち自身でもあるのだ。自分を不幸にするようなことを誰が与えるだろうか?

だから「コース」は言う、エゴでなく貴方自身が聖霊に求めなさい、と。言うまでもなくエゴでない私たちとはスピリットなのだが、そもそもスピリットが忘れ去られているからわざわざ「求める」なんてことをしなくてはならなかったのではないだろうか?うーむ。まあ、以前見たように、恐怖などがあっては聖霊も手出しができないというのと同じことではあるのだが・・・。

何となくまとめると、聖霊に何かを求める際にはまず自分の心がそれなりにはきれいになっていなくてはならない、ということだと思う。そのやり方は前に出てきたはずである。まず気分をチェックして不快なものを捨てるというものだ。そうすれば、それまで不快なものだと認識されていた事柄が実はそうではなかった、というふうに見えてきたりするのだが、まあ言ってみればこれが聖霊による知覚認識なのである。

本来は当たり前のことでしかないような本当の現実を否定しつつ生きるには多大なエネルギーが必要なのである。真実を否定することはできるが変化させることはできない。存在しないものをあるようにすることも、その逆もできない。目を塞いで見ないようにしても、あるものはある。そういうわけで私たちは大変なエネルギーの浪費をしているのだ。不可能なことを可能だと思い込んでそれを求めて頑張る、など普通に考えればとてもやっていられないような徒労である。よく考えてみれば私たちが本当に求めているものは余計なことをしなくても容易に得られるのだ、というより何度も繰り返されているようにそれらは既に与えられているのだ。目の前の冷凍庫に氷があるのに気づかず、わざわざ南極まで行かなくては!そのためにはまず身体を鍛えて冬山訓練をしなくては!と考えたりするようなものだと思う。

「コース」は、まず絶対普遍の存在である神がありその喜びのうちに創造されたのが私たちだという大前提から始めているが、ここをどうしても信じられないという人もいるかもしれない。それでも構わないのである。これは「真理」なので本来信じる必要はなく、分かるときにはただ分かるというだけのことだからである。「コース」の言うとおり、わからなくても受け容れられなくても信じられなくてもただやってみているうちにだんだん、或いは突然「コース」の教えを受け容れ「わかった」という状態になるものなのだ。

喜ばしいことに、真実は常に変わらず在り続け神の諸法則は永遠に有効なので、私たちが目を開きさえすれば幸せはいつでも私たちのものなのだ。但しこの法則によれば、自分が否定したものを知ることはできず、歪めてしまったら本当の現実を見ることはできないのである。

存在するものを否定し現実を歪めることには恐怖がつきまとう。なぜなら、自分たちの見ているものが実は嘘っぱちだとどこかでわかっているからだ。嘘が暴かれるのは怖ろしいことだからだ。たとえ嘘っぱちの現実がどんなに苦しいものだろうと、未知であるところの本当の現実は更に怖ろしいものだと思い込んでいるので、幻想の中で別のものを得ようとする。しかし、ありえないものを求めるのは、実は「欲しくないもの」を求めていることに他ならないのである。本当に存在するものの中にしか愛も幸せも喜びもないのなら、幻想の中に何を求めたって愛や幸せや喜びを得ることなどできず、不安や恐怖や落ち込みやパニックしか得られないという道理なのである。私たちはそんなものを求めているのではないはずだ。存在しないものに心血を注ぐなんてどう考えてもバカバカしいのではなかろうか?

幻想の中には何もないが、現実の中には全てがあり、現実とは「神によって神と同じように造られた、全てであり一つであるところの私」である。全く正反対の現実が二つあるなどということはありえない。定義により神の愛と喜びのうちに分かち合うことが創造ならば、恐怖は創造され得ない。であれば、恐怖に基づき恐怖を伴う「現実」とは私たちが作り出した仮想現実に過ぎないということになる。

真理はどこか遠くではなく私たちの中にある、ということで、さあこう言いましょう。

「キリストは我の中にあり。キリストあるところに神はまします。キリストは神の一部であるが故なり」

それなら、私たちの中に神もあり、神の中に私たちがあるということになる。

 
第192回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 64・65

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 64

第8章 その9

身体は手段か目的か?「コース」によれば、エゴは身体を目的だと見なすのに対して聖霊は手段だと見なしているらしい。これはちょっとわかりにくい。そもそもついさっきは「身体は攻撃のための手段である」と言われたばかりなのに、今度は目的でもあると言っているのだ。もちろんエゴ的な目的のための手段には違いないが、エゴだって身体を手段として見なすのではないか?たとえば、前述のように身体は攻撃のための手段になっているのではないか?

そうなのだ。エゴは身体を手段と目的の両方にしているため常に混乱しているのである。たとえば、聖霊にとって健康(な身体)とは手段に過ぎないが、エゴにとっては目的になってしまう。なぜなら「不健康」「病気」があるからである。

この「身体を目的だとみなす」とは、別に脳や顔や手足などを目的にするというのではなく、ただ「個体を象徴するもの」と捉えることではなかろうか。「個であることを証明する」目的としての身体、というような意味である。それに対して聖霊は、身体が「今の私たちには個別に見えるけれど、全てが一つであることを示すための手段として用いられる」ものだと捉えているのである。

また、身体を目的だと見なすというのは身体そのものが自律性を持ち独立しているものだと考えることでもある。「コース」によれば、身体それだけでは何の機能もない、ただの物質なのである。物質などというものが本当にあるわけではないのだが、まあとりあえずそうなのである。マインドに指示されて始めて何らかの役割や機能を持つことができるのだ。

あるいは単純に生存そのものを目的にして生きるという意味に捉えることもできる。ソクラテスは「みんなは食べるために生きているが、僕は生きるために食べている」と言ったが、ただ生存するために生きるのか、より良く生きるために生存という状態を手段として使うのか、このあたりは「コース」の教えとほぼ同じである。

もともとマインドは攻撃する・されるという考えを抱くことはできても実際に或いは直接に攻撃したりされたりするものではないのだった。となれば、身体は攻撃の手段であると同時に対象でもあり、なおかつ「自他の区別を明確にする」目的として使われるものでもある。身体を傷つけられれば私たちはそのことによって「自分が他の人と違う」とハッキリ感じてしまうではないか。自分が怪我をしているのにこの人たちはしていない、自分はアタマが痛いのにあの人たちはそうじゃない、どうして私だけがこんな病気になるの?などと思うではないか。心を傷つけられてひどい目にあった、こんな不幸なのは私だけよ、と思うのであってもそれはあなたの身体の感覚器官を通して、ああされた、こうされたとまず目で耳で知覚した結果「ひどい目」だと認識したのである。

攻撃は目的や対象を必要とするものだが、それらも常に身体なのである。身体は攻撃の手段であり目的であり対象であるという点で、エゴにとって身体と攻撃はかくも密接に結びついているのだ。

病が生じるためには二つの前提が必要だと「コース」は言っている。すなわち、「身体は攻撃のために用いられる」「私は身体である」従って「身体であるところの私は病に攻撃される」ことが成立するというわけだ。

言うまでもなく、この前提は二つとも間違いである。ゆえに病気は間違った信念を証明するような現象、「コース」によれば何と「偽証」である。私たちが病気になるのは、あるいは他の人を病気だと見るのはエゴのために偽証しているということになるのだ。私は他の人と違うんです、だってこんな病気なんだから!というのは「私は神からも離れ他の人たちとも違う、一人きりの存在でしかも無力で傷つきやすいんです」と言っているのに等しいわけだから、真実ではないことを述べているという点で明らかに偽証ではある。

なお、「コース」にはwitnessという言葉が時々出てくるが、これは聖書から取られているもので日本語訳聖書では「証しする」となっている。

病気や病人を「忌むべきもの」だとする見方はさすがに少なくなってきたが、その代わりに病気と仲良くやっていこうとか病気も自分の個性だと見ようとか、病人は闘っているんだからエライ、強いなどという考え方が出てきているようである。また、病気を罰だ、試練だとする見方もまだまだ健在である。これらは「コース」の教えによるならばすべて間違いだということになる。

そのほかにも、身体は病んでしまったが私は身体じゃないのだから病んでいない、マインドである私は健康だという考え方もある。または、病気なのに素晴らしくスピリチュアルに生きていて、周囲の人々に「人間、身体じゃないんだなあ」と教えているかのような人もいる。が、これもマインドの問題・歪みを身体に出して、というか投影してしまった可能性があるという点で、あるいはマインドが身体を攻撃してしまったという点でやはりちょっと違うのである。身体がマインドの一部であり、そのマインドがwhole=丸ごと一つのものである状態ならば、マインドが健康なのに身体が病むはずもないわけだ。なぜならこのときマインドは「心であるマインドと身体であるマインド」に分裂しているからである。

抑圧された怒りが病を引き起こすという考え方は最近珍しくもなくなったが、これは怒りが攻撃を喚起してそれが自分の身体に向けられてしまった結果である。悲しみや苦しみなども本人が自覚していないだけで実は抑圧された怒りが伴っている場合が多々あるのだ。罪悪感も然り、このあたりは全てつながっているので列挙していたらキリがない。ネガティブな考えが病気を引き起こすということは昨今常識になりつつあるが、病気がエゴを擁護するための偽証になっているとまではなかなか言われない。

「コース」によれば「病んだ身体」というのは何の意味もなさない。確かに「病む」ことも「身体」もそれぞれ真実ではない、私たちの間違った思い込みや幻想の産物なのだから当然と言えば当然だ。身体を聖霊の目的のために用いるという考えに則れば、何よりもまず身体は病むためにあるものではない、即ち自らが傷つき得る脆弱な存在だと示すためのものではないとわかるのである。

エゴは病を引き起こすだけでなく、生じた病を最大限に利用する。私たちは病むとあらゆるものに頼って何とかしようとする。神や聖霊にもすがろうとするかもしれない。但しそれらは自分とは別の何かであって、自分とひとつであるところの神や聖霊ではないのである。こうしてエゴは私たちがますます分離状態を促進するように仕向けられるというわけだ。

病気になればその症状を分析しデータを集めて研究し、それ以上悪化したり死んでしまったりしないようにするわけだが、これらが無意味なのは例えば一冊丸ごとウソしか書いていない本を勉強するのが無意味であるのと同様なのだ。

私たちが通常「身体の声」だと思っているものは全てマインドの声である。その中でも不快なものについては間違いなくエゴの支配下にあるマインドの声である。これらに従えば私たちは自分が身体であると見なすことになってしまうのだ。エゴの支配下にある限り私たちの知覚機能は歪んでしまっていることを思い出して欲しい。だいたい身体の痛みなど人によって、或いは時と場合によって感じ方が全く違うという点において真実でも何でもないものだとわかるではないか。痛みを忘れるという事態がある、まさにそのことが痛みは幻想だと示しているではないか。

別に「痛がってはいけない」と言っているわけではない。ただ、病んでいるとき或いは不快感や苦しみを感じるとき私たちはエゴ=身体に支配されてしまっており、身体を学習装置ではなく教師か導き手にしてしまっているのだ。何も知らないただの物質を教師や導き手にできるわけがないではないか。感覚は脳も含めた身体から来るものだと私たちは信じて疑わないのだが、上述したようにこれは知覚機能が歪んでいるせいでそうなるだけであって本来身体は何ものでもないただの物質なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 65

第8章 その10

もともと身体の「存在」(はしないのだが)そのものが分離状態の象徴なのだから、病気というのはその分離状態を更に強調するような現象であると言える。もちろん本人がそのように自覚していることは少ないと思うが、私たちが病気になるのは分離状態を望み欲しているからなのである。というか、怒り・悲しみ・攻撃・罪悪感などなどを抱いているとき私たちは要するにより一層の分離状態を望んでいるということになるのだ。マインドの力がいかに強大かを思い出してほしい。私たちが抱いたあれこれは外部である身体に投影され、認識せざるを得ない現象になってあらわれるのである。悪いことを心で思っただけでも罪になると聖書に書いてあるが、これはつまり思っただけで投影されて現象として認識される羽目になるというような意味だろう。

一方でスピリットは神に創造されたままの完璧なものであり、決して変化することがない。身体を介してスピリットを表現するように生きていれば病むことなどありえない、というわけである。これが正しく身体を手段にのみ用いた生き方だ、ということになる。

だから聖霊に従って身体を良い目的のためにのみ用いなさい。身体を聖霊の教えを映す鏡にしなさい。そうすれば貴方も、兄弟姉妹も癒されるであろうと「コース」は言う。聖霊によるならば私たちはいかなるところにも攻撃を見なくなる。攻撃がなくなればあらゆるものにとって健康だけが自然な状態になるのである。攻撃、と書いてはあるが、攻撃と怒りと恐怖と罪悪感が不可分であることを考えれば、どれを持ってきても結果は同じことになる。多くの人にとって、つまりエゴにとって健康とは望んでもなかなか得られないようなゴールだが、聖霊にとってはむしろ真に生きることのスタートに過ぎないものである。

私たちは健康を損ねたとき、聖霊に癒しを求めるかもしれない。しかし「この身体を癒してください」という求め方をしてはいけないのである。以前にも述べられている通り、癒されるのは身体ではなく常にマインドでしかないからだ。従って、正しい癒しの求め方は「身体を正しく認識させてください」あるいは「現実をありのままに見たい」というものになる。認識が歪んだためにそれが投影されて外在化されたものが病だからである。神から離れてしまった、という思い込みが現実のごとくに感じられるのも専ら認識の問題なのだから、歪んだり間違えたりするのは常に知覚認識の部分であり、要するにものごとをありのままに見ていないのである。それだけ?と思うかもしれない。ただ見方が変わるだけでしょ?そんなことで現実も変わるのか?それはやってみなくてはわからないが、実際にキリストの癒しとはそういうものだったのである。

ものごとをありのままに見ないのは、そのように見たくないからなのだ。そんなことを望んだ覚えはないわ、と言ったって無駄である。私たち自身がそう望まなければ誰も私たちに間違った見方や感じ方を強制的に押し付けることなどできないからである。まあこれも自由意志を間違って用いたからなのだが、とにかくこの事実は認めなくてはならない。

ありのままの現実は全く無害なものとして常に変わらずあり続け、隠されてなどいない。私たちがそれに気づかないだけなのだ。気づかないのは気づきたくないからであって、要するに目覚めたくないということなのである。今の「現実」がいくら悪夢であってもなぜか本当の現実には目覚めたくない、なぜならそれはもっとも怖ろしいもののような気がするからだ。それで私たちは少しだけマシな悪夢に移行し続けるのがせいぜいなわけだが、言うまでもなくこうしていればエゴは安泰なのである。

病とは、目覚めることに対する恐怖の身体的あるいは物理的表れだと「コース」は言う。眠っているほうが起きている時よりずっと平和で楽だと思いそうなものだが、それこそ認識が歪んでいるからそう思うのであって本当は目覚めていなくては平和も何もないのである。当たり前だが、眠っていれば私たちは兄弟姉妹と交流したり一体化したりすることはできない。眠っているとき私たちは完全に自分の中に閉じている、つまりは引きこもっているのである。私たちが何らか苦しんでいるなら、それはありのままの現実を見ず引きこもって夢を見ている、自ら作り出した幻想の中にいるということなのである。病んでいるなら引きこもりどころか眠り=悪夢に引きずり込まれているのである。

かといって悪夢から一気に目覚めればよいというものでもないとは以前にも述べられていた通りである。下手に覚醒すると絶望か発狂だと私が書いたのもこういうような意味なのだが、「コース」に則して考えた場合こういったものが果たして覚醒と言えるのかどうかもよくわからない。まずは全てを聖霊に委ねて「幸せな夢」に移行した上で喜びのうちに目覚める、これが「コース」学習の目的なのである。

貴方がどんなに不眠症で苦しんでいるとしても、真理に目覚めていない状態を「コース」は眠りと呼ぶ。「和尚」によれば、本当に覚醒した人は睡眠中も夢など絶対に見ないらしい。身体を休めているだけであって、意識は眠っていないそうである。覚醒していない私たちが眠っていても無意識になっているわけではなく、分裂した意識は常に動いているのである。死んだ場合でも事情は変わらない。マインドは生まれも死にもしないものゆえ、完全なる無意識というものはありえないのだ。

眠り=夢にもエゴによるものと聖霊によって有効利用されるものがあり、後者なら目覚める恐怖の代わりに愛がある。癒しは恐怖を愛に置き換えるのだ。聖霊は虚偽を真理と置き換える役割を持っているのであり、聖霊にとってあらゆる虚偽は虚偽であるというただその一点において何の区別もないのである。従って以前にも書いたとおり病にも軽重の区別はないのだ。

一方エゴはどうだろうか。こちらはもはやご存知の通りもうメチャクチャなのである。分離の産物であるエゴは常に恐怖や怒りや攻撃と不可分なので、これまた常に攻撃の対象を必要とする。マインドを弱め身体と分離しているように思わせ、攻撃して病ませ、今度は病と闘わせ、健康を求めさせる。が、エゴの目的は常に達成し得ないようにできているので、一難去ってまた一難のごとく私たちには心休まる暇がないのである。これまた常に欠乏と不足があり、そこを満たしたいという願望が後を絶たないのだ。マインドをうんと愚かにさせておいた上で賢くなりたいという達成不可能な願望を抱かせて永遠に?彷徨わせておけばエゴは安泰なのだ。

私たちはキリストの御名によって祈りを捧げ求めるのだが、全てが一つでありキリストも私たちも同じ神の子であることを考えれば、キリストの御名は私たちのものでもある。病んでいるとき私たちはキリストから遠ざかって自分の中に引きこもっているのだが、同時に本来の私たち自身からも遠ざかっていることになる。言い換えれば「ひとつのもの」から遠ざかって分離という仮想現実にどっぷりハマッているわけである。全てである一つから離れること、離れたと思い込むことがあらゆる病の発端なのだ。

「コース」は徹頭徹尾実践のための本であり、机上の空論ではなく全て実践可能なことであり、私たちにとって不可能なことは何一つ書いていない、らしい。私にはこれ以上無理よ、などということはありません、なぜなら私たちのマインドには限界がないのだから、もともとそのように造られているのだから。限界があるという思い込みが限界を作っているのだ。たとえば身体そのものは有限だが、もし私たちが自分を身体だと思うなら当然私たちには限界があるということになってしまう。限界を作るのは言ってみれば境界線を引くようなものなので、「ひとつのもの」にはならず「バラバラであり続ける」ことにもなる。

分裂したマインドはそれぞれバラバラにいろいろなものを求めたり怖れたりする。一つのマインドなら一つのものだけを求めるのだ。この状態で初めて癒しが可能になるのである。前にも述べられていたように、たとえば専ら「平和」だけを求め「平和」な状態に至れば、私たちは直接知や本来の唯一つの「意味」に至る条件を満たすことができる。一旦は神から離れ仮想現実にハマってしまった私たちが、いきなり完全な状態に戻ることは難しい。というより努力によってできるものではない。私たちができること・すべきことは「邪魔なものを取り払う」ただこれだけなのである。

 
第191回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 62・63

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 62

第8章 その7

するのであれ、されるのであれ攻撃が有効に作用するという考えを信じていれば、自動的に身体は「みんなバラバラの存在」であり「分離している」という認識を強化したり学んだりする仕掛けとして用いられることになる。「コース」はそのように述べているが、これは恐怖と置き換えても良さそうだ。恐怖と攻撃とは常にセットになっているからである。

このような認識の下では、自分=この身体=バラバラの存在=エゴという認識もまた成立する。そのとき私たちは、神と一つであり全てであるわたくし、ではないという点において自らを、そして兄弟姉妹をも矮小化してしまっている。身体に閉じ込められていれば当然限界も生じるわけだし、まあその通りだと理解できる。それどころか、自分と身体を同一視すれば私たちは憂鬱になるとまで「コース」は言う。そりゃあ、傷ついたり病んだり死んだりするようなものを自分だと思っていれば憂鬱にもなるかもしれないし、これまで見てきたように真の喜びが永遠なるものにしかないのなら、永遠ではない身体には真の喜びなどないことになる。身体と攻撃が結びついて認識されてしまえば、私たちにとって身体は、それが自分自身のものであってさえ危険な存在になる。

一方、聖霊は身体をもっぱらコミュニケーションの手段として用いる。「コース」におけるコミュニケーションの意味を今一度確認しておきたい。神から出で来たところの真実なるもののみを分かち合う創造行為である。ゆるしも奇跡も癒しもコミュニケーションのうちに含まれる。言葉であれ態度や仕草であれ、今の私たちには身体を介さない限り相手に何も伝えることができないのである。言うまでもなく、攻撃が分離を促進するのに対してコミュニケーションは一体化を促進する。身体をもっぱらこのように用いていれば、身体本来の意味がわかってくる。つまり、それ自体は何ものでもなく常にマインドの支配下にあるということである。非常に逆説的なことだが、私たちは身体ではないのですよということを、身体を介して兄弟姉妹に教えるというのが聖霊のやり方なのだ。キリストによる癒しの奇跡も結局そういうことではなかったか。とにかく聖霊のやり方以外のものは全て「身体を誤用」することだと「コース」は言っている。

私たちはあまりにも身体によって生きているので「コース」の教えは衝撃的かつ分かりづらいかもしれない。身体よりココロのほうが大事よ〜というその「心」だって結局「私の」「あなたの」みたいなバラバラの心でしょう?アタマや心を重視せず身体の声を聴こう、とか身体とマインドとはつながっているなどという考え方も近年では珍しくなくなったが何のことはない、「身体の声」だって通常は意識していない部分のマインドの声なのである。分裂したマインドは重層的になっていてお互いを知らない状態にあることを思い出して欲しい。

じゃあボディワークなんか意味がないのか?と思う人もいるかもしれないが、これも例によって有効に用いればよいだけの話である。普段の私たちにとっては身体でさえ「他者」なのだ。なぜなら自分の思い通りにならないからだ。その「自分」とはマインドの中のほんの一部に過ぎない。自分が身体をも包摂するマインドであると知り、身体が完全にマインドの支配下にあるとハッキリわかるポイントまで行けるならどんな方法を用いても良いのではないか。

いまの私たちは本来なら閉じ込められるはずのないマインドを身体に閉じ込め、身体に縛り付けられてしまっている。自由とはマインドを身体から解放することでもある。これが「肉体の死」を意味しないことは既に見た。身体からの解放とはすなわち「分離状態の終焉」なのだから、分離したまま死んだって何にもならない。

身体からの解放とは自他においてなされることでもある。私たちが誰かを攻撃するならばそのとき私たちは相手を「自分とは違う個体」すなわち「身体」だと見ているのだ。お互い神の一部であることによって自分自身の一部でもあり、スピリットであると見るならば私たちは相手をも身体から解放していることになる。つまり、本当の意味においては自分だけが身体から解放されるということはありえないのである。ただ、相手がその事実を認識し受け容れるかどうかはわからない。受け容れられればそれは「癒し」になり「奇跡」にもなる。とにかく、以前にも見たとおり「相手を自分とは別の他者としてではなく、自分の一部だと思って関わる」ことが重要なのだ。

第20回で私が紹介したヨハネによる福音書第一章の最後のほうには「言は肉となった」と書かれているのだが、「コース」はこれを否定している。言とはロゴスの謂であり、「コース」は「考え」だと言っているが、とにかく形而上のものが形而下である物体になることは厳密に言えば不可能だからである。「どんなことでもできる」という奇跡はしばしばこのようなことを為すように見えるが、考えが物質化しているわけではないのだ。スピリチュアルの中にはそういう考え方をするものもあるが、「コース」はあくまで物質はマインドの投影だという立場を取っている。

私たちの身体が日頃どういう機能・役割を持ち、どういう目的で使われているのか少し考えてみて欲しい。もっとも単純化してしまえば「生きる」つまり「生存する」という目的・役割だと言えるかもしれないが、それだけでは現実的に納得しにくいのではないか?単に「生存する」ことだけが役割であり目的なのであれば、私たちの人生も生活もこれほど複雑になっていないだろう。私たちは自らを身体と同一視し、身体には不可能であることまでも身体で何とかしようとしてしまったために非常に苦労しているのである。これは即ち「ひとりの力で何もかも」やろうとしているのと同じことなのだ。身体=神から離れたバラバラの存在だからである。本来の意味でのコミュニケーションも身体を介しておこなうことは可能だが、「身体で」おこなうのは不可能なのだ。これではコミュニケーションが不全に陥るのも当然なのである。

「コース」が言うように、ここから先は身体をもっぱら聖霊の目的のためだけに用いると決めてしまったほうが明らかに楽なのである。身体はマインドとつながっているのではない。「神から離れたバラバラの存在だ」という思い込み、つまりマインドの一部が投影されたものであり、そうであるゆえに実在しないのだ。いわば、身体はマインドが歪められてできたようなものでもあるのだが、私たちはますますマインドを歪めそれをマインドの外部にある身体に投影するので身体が歪み、体調を壊したり病気になったりするのである。「コース」は、私たちがこの世で幸せに生きる方法を教えてくれようとしているのだが、この世に生きているとは身体があるということに他ならない。ならば、分離の象徴としてではなくスピリットによる創造の手段として身体を使うしかないのである。これも逆説的な言い方になるが、身体によって身体を超えるのだ。マインドのほかに身体というものがあると考えるならそれはマインドが一つのまとまったものではないということになるが、実は身体はマインドの一部であるという事実もまた身体によって示されるのである。癒しとはそういうことなのだ。

前述したように、私たちはマインドが身体に閉じ込められていると考えがちであるが、このときマインドは身体に阻まれているのであり、言い換えれば身体はマインドにとって「他者」だということになる。従って、身体はマインドにとって攻撃したりされたりする対象にもなってしまうのだ。更に身体は自分と他人とを分け隔てる壁にもなる。身体という壁を越えて、というか壁を溶かして表に出て行き広がるマインドこそが相手のマインドに届き、癒しや手助けをもたらすのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」63

第8章 その8

マインドが身体の中にあるとか身体に閉じ込められていると思えば、それはすなわち私たちそれぞれが身体という要塞に守られた??バラバラの存在だと認識していることになる。これがまさに分離なわけだが、分離自体が本来の状態からみれば歪んだものであるため、そこに立脚した認識は歪みを促進し病をもたらすのである。

ひとつの身体を攻撃とコミュニケーションの手段として同時に用いることは不可能である。その都度どちらかを選ばなくてはならない。しかし、その時々でどちらかを選んでいたのでは「コース」学習にはならないわけで、やはりここは一貫してコミュニケーションの手段に徹するしかないのだ。まあ初めから完璧にできるわけもないが、とにかくその決心だけはしておかなくてはならない。マインドが本来の役割を果たしていれば身体が病むことはない、と「コース」は言っている。また後のほうにも出てくることだが、身体はマインドの一部であり投影なので、マインドの決めたとおりに動くものなのだ。

マインドが「何一つ欠けるもののない完全な状態」を目指していれば、身体がマインドと別物になったりマインドの中が分裂して身体が勝手に一人歩きしたりするようなこともなくなるので私たちは真に健康になれるのだ。何らかの意味でマインドが病んでいない限り肉体も病むことはないのだが、この「マインドが病む」とは「真実ではない、間違った考えを信じる」ことなのだから、この世界や身体が実在するとか自分たちは一人ひとり違う存在だとか生まれて老いて死ぬとかいうような「この世の常識」は殆ど全て「病んだ考え」になってしまうのだ。

マインドと身体との関係はこれからも数回にわたって解明されるのだが、とにかく「私たちが身体だと思っているものは、実はマインドの一部である」ということだけ覚えておいてほしい。

ところで、神や神に造られたものが「一つという全体」であり「どこをとっても変わらない、部分がそのまま全体である」ものなのに対して、エゴ=この世の私たちにとって全体とは部分の寄せ集めである。部分的に見ただけでは全体像を掴めない、という事態がこのことを端的に表している。私たちが身体を見るときもたいていこのようにしているはずだ。マインドの一部である身体はそのままマインド全体を表しているというふうに見ることもできるのだが、マインドじたいが分裂してしまっていれば、例えば「身体と心は違う」「身体とアタマは違う」が、それらが集まってできたのがこの私!みたいになってしまったりもする。

身体をどう捉えるかという事実認識もまた投影の対象になる。もし私たちが誰かのことを身体だと見るなら、そのときは自らをも身体だと考えていることになる。つまりそれぞれが別個の、バラバラの存在だと認識するわけで、これは上述の「病んだ考え」に当たる。自分たちが身体に限定され閉じ込められた存在だと考えているうちは、真の喜びも愛も自由も何も得られない。これらは正反対の方を向いているからだ。だからこの世には真の喜びも愛も自由もないのである。なければないでよいのだが、エゴは「そういうものがどこかにあるのだから求めなさい」と囁き続ける。エゴの思考システムに立脚してこの世で身体として生きている限り喜びも愛も自由も得られるわけがないのだが、どこかにあると信じて悩み苦しみつつ虚しく求め続けていればエゴは安泰なのである。

自分を身体だと思って生きるのは苦しいことである以上、自分=身体という認識そのものが自らに苦しみを強いることになる。更に、相手を身体だと見てしまえばその相手にも苦しみを強いていることになる。本来の私たちが完璧にして完全な存在であることを考えれば、私たち自身を身体だと思うことは自分と相手を貶めているのであり、そう思うたびに「神から離れた悪いヤツ、ダメなヤツ」だと非難していることになってしまう、つまりは自他を攻撃しているのでもある。何ともすごい話だが、論理的には完全に筋が通っているので降参するしかない。

ちなみに、「自分や相手を身体だと見る」というのは何も顔かたちのことに限らない。出自や財政状態や学歴や教養、仕事や環境、趣味や考え方、性格などなど「外側から」見える部分で判断するものは全て身体として見たことになる。それだけではない。見かけや学歴やお金なんかどうでもいいの!と言いつつも相手に対して怒りや恐怖や罪悪感を抱いていれば、それもまた「身体だと見ている」ことになる。要するに「自分とは別の何か」だと見てしまえばそれはもう「相手を身体だと見た」ことになるわけだ。

しかし、私たちはスピリットであって身体ではない。これが真実であり事実なのだ。それを忘れ、自分たちを「一人ひとりが別個の、しかも有限の」身体という存在だと思い込んだためにあらゆる苦しみを負う羽目になってしまっただけなのである。自分が作り出した虚偽の世界を真実だと思い込んで苦しんでいるのなら、話は簡単ではないか。虚偽なんだからさっさと捨てれば済むことではないか。確かにそうだし、だからこそ大いに希望が持てるわけだが、しかし仮想現実を信じ込んで苦しみ悶えている人に「そんなの思い込みよ、本当は違うのよ」と説得するのがどれだけ大変なことか、ちょっと考えてみただけで日暮れて道遠しの気分になる。説得ではなく癒しの奇跡をもたらしなさい、と「コース」は言っている。本当の現実はどういうものか、あなたが身をもって相手に示しなさい。それが身体の正しい使い方なのである。

幻想は思い込みであって実体はない。従って、幻想から自由になる、解放されるにはただそれを信じるのをやめれば良いだけだ。しかし私たちは往々にして幻想を何やら現実だと見なした上でそこから解放されようとして苦心惨憺するのである。

だって、いま現にお金がないのよ!それも幻想だって言うの?という人は単にお金がないと思っているのではない。自分が豊かではなく欠乏に喘いで困っている、大変なことになって苦しいと思っているのである。自分の現実も力も制限してしまっている。それが幻想なのだ。目の前の現象がどう見えようとも貴方は本来豊かなのである。そこを理解しないから現象面でも実際に欠乏を経験してしまうのだ。これが引き寄せの原理である。身体によって身体を超えること、この世にあってこの世を超えること、乱暴に言えばこれこそが幸せに生きる極意みたいなものなのだ。

さて、エゴは判断や解釈が大好きなので、あらゆるものを「ありのままに」見ることができない。あらゆるものには、常にエゴ的な解釈に基づいた役割や機能があることになっている。たとえば身体をありのままに見れば「マインドが投影されたもので、実体はない。何ものでもない」になるのだが、エゴは当然そのようには理解していない。「コース」によれば、エゴは身体を攻撃の手段だと見なしているのだ。私は攻撃なんかしないわよ、という人も自分が攻撃されることはあると思っているわけだし、その場合は攻撃するのもされるのも身体によってである。マインドが傷つくとしても、それは身体を介して知覚・認識した結果なのだからやはり同じことだし、身体が病気になってマインドが苦しむというのもこの点においておそらく同じ構造である。となれば、エゴ的に身体を捉えている限りにおいて私たちは自ら健康と縁を切ったも同然である。私たちの身体の状態は、私たちが身体の役割や機能をどう捉えるかによって決まるのだ。

既に述べられているようにエゴは身体を攻撃と結び付けているのだが、こうしている限り私たちは病から免れることができない。病とは一種の攻撃に他ならないからである。病が身体を攻撃し、そのように認識したマインドも苦しむ。傷つきやすいというのは逆から見れば攻撃されやすいということになる。攻撃というものが、あるいは自分を攻撃する何か、自分とは別の何かが存在するという考えがその前提にあるのだが、これはもう言うまでもなく「全てはひとつ」が崩れた状態である。

 
第190回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 60・61

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 60

第8章 その5

神の御心とは制限も限界も何一つないという点において自由なのであり、それはそのまま私たちにも与えられている。ところが、私たちはこの「自由意志」をすっかり誤用して、自分たちを制限だらけにしてしまったのである。自由とは神の御心であり法則でもあるので、キリストも聖霊も、もちろん神じしんでさえもこれを侵すことはできない。だから私たちが間違った意志を抱いていても、それをキリストや聖霊が強制的に正すことはできないのである。強制できたらそれはもう自由とは言えないではないか。

私たちがあくまでキリストや聖霊に従いたくないと決めているのなら、キリストも私たちの気が変わるのを待つしかないのだ。ただ、キリストや聖霊のもたらす光はいろいろなものを通じて常に私たちを照らしているので、いくら私たちがエゴの支配下におかれていようとも時々はその光に気づくことができる。ただ、情けないことに長続きしないのだ。

神に造られたものはそもそも「背く」ということができない。神の御心に背くこともできないと同時に私たちが決めたことを覆すこともできない。ところで私たちは、神の御心に背くことができる、と考えることはできても実際に神の御心に背くことなどできないのであった。なぜなら私たち自身が神の御心に他ならないからである。自己否定とはエゴにのみ可能な技なのだ。

要するに、エゴに支配された部分だけが間違ったことを信じているだけなのだが、まさにその部分こそが幻想まみれになって苦しむ「自分」なのだから「背くことができるという考え」だけでも十分以上の作用をもたらしていることになる。実際、スピリットは神の御心と法則に従って生きていても、そのことを自覚しマインドを分裂から救い出して統合しない限り私たちは自覚的な意志をもって創造的なことができないのである。

繰り返すが、「コース」で意志といったらそれは神の御心と一つのものを指す。個人の意志などというものは存在しない。そもそも「個としてのわたくし」など何ものでもない、というか実は存在しないからである。神の御心と別のものを意志することは厳密には不可能であり、それらは単なる願望に過ぎない。こうなったとき、私たちは自らの意志を、あるいは自由を束縛していることになるのだ。個としての私たちは、神と離れてバラバラになった(と思い込んだ)ものなので、神から与えられた力もうまく使えない。神を否定することで本来の自分自身をも否定してしまえば、本来の力など発揮できるわけもない。

逆に言えば、本来の姿を思い出したとき私たちは自由であることをはっきり認められるのでもある。

自由と愛と感謝とは、全て神から流出して私たちに分かち与えられたものであるという点においてつながっていると言ってよい。神から与えられたものは全て分かち合いが可能であり、私たちから神に捧げることもできるという点で一致しているのだ。そして、自由は私たちから兄弟姉妹への贈り物だとも言える。私たちは「バラバラの存在」「個々のマインド」として自分自身のみならず兄弟姉妹にも判断を下し、投影をおこなってしまうのだが、これは自らも相手も束縛し囚われの身にしてしまうことに他ならない。自由を与える、つまり解放するとは判断あるいは投影をやめて本来の姿を見ることでもある。自由が愛と同じものであるならば、束縛している時すなわち判断し投影している時には愛がなくなっている。判断し投影するものを愛することは、論理的に言っても不可能になるからだ。

更に、以前にも述べられていたように、自らや他者=兄弟姉妹を束縛して愛さないならばそれは神をも愛さないことになってしまう。神とその被造物は三位一体の関係に在るからである。どれかを否定すれば他のものも否定することになるのだ。神に感謝し神を愛することなく自分だけが解放されるなどという事態は文字通りありえないのである。

以前、自分のコラムに書いたこともあるのだが妄想に囚われている人たちは真実を知ることを怖れている。真実が何か怖ろしいものだと感じているわけだが、これこそエゴの恐怖そのものなのである。なぜなら真実が見えればエゴは存続できなくなるからだ。ゆえに、エゴに支配された人々は真実を見ずに済むよう、幻想という壁を築くのである。もちろん、「コース」はこの幻想から私たちを真理に目覚めさせる方向に導いてくれるのであり、それも神の御心なのだ。当然のことながら神の御心は私たちのマインドのように何層にも分裂しているなどということはなく、ただ一つのもの或いはただ一つの方向性を持つものだ。ここで「コース」は、神の子らが力を合わせて意志を統一すればとんでもなく強力なものになると言っている。それはまあ当たり前のことなのだが、実際問題として「さあ、みんな一緒に真理に目覚めましょう」なんてことは難しいし、おそらく「コース」が言うのもその意味ではなさそうなのだ。

神が創造し神の御心と同じものであるところのスピリットは、厳密には「私の」「あなたの」スピリットなどといえないものである。スピリットは全ての兄弟姉妹の意志が統一された状態であると言ってよいだろう。この部分はそういうふうに読んだほうがわかりやすい。「全てはバラバラの存在だ」と思い込んでいたマインドが癒され完全な姿になるとき、そのマインドには「全て」が含まれることになる。つまり「ただひとつであるところの全て」「全てであるただ一つのもの」になることによって、バラバラに見えたあらゆる存在とつながるのである。これがハッキリ認められれば自動的に神を認めることができるようになっている。全ては神の中にあり、神と一つだからである。

このあたりは、キリストが神と私たちとの架け橋のような役割をしている感じで語られている。これが聖霊でなくてキリストなのは、おそらくこの世にあって神の御心を実現するということがテーマになっているからだと思われる。

神の性質として「一つであること」が挙げられるが、神はこの「一つであること」をも私たちに分け与えている。神の力もこの「一つであること」の中にある。一度にあれこれ別々の方向に力を注ごうとすれば分散されて弱まってしまうが、神の力にはそういうことがない。だからどんな奇跡ももたらせるほど強力なのである。キリストにはそれができた。本来は私たちにも可能なはずである。だからまず私と意志を同じくしなさいとキリストは言っている。

私たちはキリストに導かれて神のもとに帰る旅をしているようなものだ。本当の故郷に帰る旅、本来の姿に戻る旅、真理に目覚める旅でもあるのだが、これは「距離」のない旅、この世のものではない旅である。時間的にも空間的にも距離が無い、つまり準備さえできればいつでも「今ここ」で目的地に至ることができるのだ。「コース」学習はちょうどその準備に当たるのである。途中で挫けたり恐怖に襲われたり、さまざまな幻想に目を眩まされたり・・もちろんそれらは非常に現実らしく見えるのだが・・などの困難に遭うとすれば、それらは全てエゴの抵抗である。旅が完了すればエゴは死ぬので、当然私たちの行く手を阻もうとする。しかし、キリストと一緒なら大丈夫だ。くれぐれもエゴを道連れにしないように!キリストとエゴを両方道連れにしようとすれば完全に方向を見失ってしまうだろう。

簡単に言えば、神かこの世界かという選択なのだが、両者のうちどちらが真実かというのは選択の余地が無い。各自で選択できると思うこと自体が間違っているのである。この世界とは、神を否定したところに成り立っている(ように見える)ものだからである。この世界には「永遠に不滅」のものなどない。あるとすれば次から次へと止むことのない苦しみくらいではなかろうか?しかしこれはいわゆる「悪無限」であって時を超越した永遠などではない。真の喜びは永遠なるものの中にしかない。この世に真の喜びは無い。

この世界から、あるいは幻想の自分自身から私たちを救い出してくれるものこそ神の御心なのである。神という概念なしで考えるとすればいわゆる「悟り」ということになるのだろうが、「コース」においてはこの「悟り」そのもの及び悟った状態を神の御心と呼んでいるのだから仕方がない。悟りとは気づきであり、気づきとは「既にある状態」を再発見することなのだから、私たちは自らが既に救われていた或いは救いなど元々必要なかったことに気づくわけである。「コース」の言い方を借りれば、神は既に私たちを救ってくれているのだ。ただ私たちがそれに気づいていないだけなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 61

第8章 その6

私たちが自らをどんなに罪深い存在だと思っていても、神にとって私たちは常に変わらぬ尊い財宝なのだ。そのことを表しているのが「放蕩息子」の物語である。

ご存じない方のために簡単に紹介しよう。あるところに二人の兄弟がいた。兄のほうは真面目に父の手伝いをしていたが、弟は父の財産をさっさと分けてもらって家を出てしまい、放蕩の限りを尽くして一文無しになり進退窮まって家に戻ってきた。いくら謝っても父親は許してくれないだろう、と思っていたにもかかわらず父親は大喜びをしてかつてないほど盛大な祝宴を催してくれた。これを見た兄は面白くない。自分はずっとここで真面目に働いていたのに宴など一度もしてもらったことがない。なのにどうしてあんな弟に?不満をぶつける兄に対して父親は「居なくなった子が帰ってきたのだ。お前はずっと私と共にいた。」と言った。

この物語、私はどちらかというと「悪人正機説」みたいなことを表しているんじゃないかと考えてしまう。また、今のテーマからは逸れるが、この物語で注目すべきはお兄さんなのではないか?いわゆる「真面目な良い人」のエゴのあり方がよく出ていると思う。

神が創造したものが神にとって財宝であるように、私たちが創造したものもまた私たちにとっての財宝である。決して失われることはなく、愛で結ばれた関係にある。エゴである私たちが知らない間にスピリットたる私たちが創造したものは「失われることのない財宝」としてちゃんと存在しているのである。私たちが神の財宝ならば、それは取りも直さず私たちには変わらぬ価値があるということだ。自分を価値のある存在だと思いたいためにわたしたちはさまざまな願望を抱きつつ虚しい努力をしてしまうのだが、これは「個体としての私」つまり「ありもしないもの」の価値を追及しようする点において既に間違っている。

私たちは自ら創造したものによって神の財宝をより豊かにするという役割を担っている。自分が何ものかわからないうちは自分の役割などわからないのだと「コース」は語っている。結局そうなのだ。自分が何ものであるかを知ること、少なくとも今まで「自分だ」と考えていたものなど実は存在しないこと、エゴ的な意味においては「本当の自分」などありえないこと、これがわからないうちはどうにもならないのである。

とにかく、そういう役割が私たちにはあるのであってそれは神の御旨に他ならないのだが、神の御旨とは私たちのためになるようにできているのである。当たり前だ。なぜなら、神の御旨・御心と私たちの意志は本来同じものであり、それどころか私たち自身が神の御心によって造られたもの、神の御心の一部だからである。同じことをいろいろな言い方で繰り返し語るのが「コース」の特徴なので、くどくなるのは仕方ない。が、それくらいクドクド言わないと私たちには届かないということなのだろう。

さて、神は「考え」=波動・エネルギーであるとは前に見たとおりである。ならば当然神の御心もまた「考え」であり、私たちのマインドもまた『考え』=波動・エネルギーなのだ。分裂したマインドの中のあれこれは神の御心というエネルギーと別の波動を持つことも、そうしようと思えばできる。というか既に私たちはずっとそうしてきたわけだ。神の御心に沿うのはイヤだ、と意志することは少なくとも「コース」に即して考えれば不可能であり明らかな形容矛盾になる。「コース」には「否定的な意志」というものがありえないからである。これらは「エゴによる儚い願望」と呼ばれる。そんなものを抱くのは勝手ですが、その結果苦労するのは自分ですよ、みたいなものである。「放蕩息子」の物語を思い出して欲しい。どれほど苦しんで罪悪感にまみれても、神に見放されるなどということは絶対にありえないのだ。

ちょっと待って、何をしても神の目から見れば私たちは「財宝」のままであり見放されることも罰を受けることもないのなら、ずっとエゴで好き放題やっていたっていいんじゃないの?そう思う人もいるかもしれない。別にいいんですよ、自分がそれで良ければ。だってこんなの別に善悪の問題なんかじゃないのだから、それに神の目を恐れる必要がないこともわかってしまったことだし。人生の比較的早い時期に真理に目覚めてしまう人もいれば、死の直前、周囲から見ればもう意識がないような状態にあって目覚める人もいる。真理には程度が存在しないという事実を考えれば、両者のうちどちらが優れているかなどということは一切言えないのである。また、真理には時間も存在しないわけだから20歳で目覚めようが、散々周囲に迷惑をかけて生きてきた人が80歳の死の床にあって目覚めようが結局「真理」の側から見れば同じことになるのだ。

なあんだ、ガックリ。と思った人はやっぱりエゴにやられてますね。早く目覚めたほうが良い、というのは専ら自分の幸せのためであり他人と比べてどうこうなどという問題ではないのである。それに、早く目覚めれば少なくともそれだけ他の人たちの助けになることができるではないか。

まあとにかく自問して欲しい、「父なる神の御心を知りたいのか」つまり、こういう書き方は誤解のもとだと承知で言うが、神さまは私に何をしてもらいたがっているのか?あなたはそれを知りたくないか?まあそれも既にここまでの内容の中に書かれてしまっていることではあるのだが。

たとえば、創造することは神の御心である。そして「コース」における創造は「分かち合い」なので、たった一人ではできないことも確かなのである。ひとりの力では何もできない、と「コース」は繰り返し述べている。これはエゴの世界でも同じことなのだが、エゴどうしが或いはバラバラのマインドどうしがいくら力を合わせたって大したことはできない。私たちがキリストのマインドと一つになれば、それはすなわち私たちがエゴではなくスピリットであることになり、そこにおいては神とも兄弟姉妹とも一つのマインドになるわけだ。ひとりひとりのマインド、あるいはスピリットでもある私たちひとりひとりに神の力がそのまま与えられていることに気づきそれを十分に発揮するとき、私たちは既にひとりではないのだ。目の前には誰もいなくても、ひとりではないのだ。おそらく「コース」はこういう事態のことを言っているのだろう。また、自分ひとりが良い目を見ようなどというエゴ的な目的で「神の力」やスピリチュアルな宇宙のパワーを使おうと思わせないために「ひとりではできない」と強調しているのかもしれない。

ここでまた改めて身体についての考察が始まる。身体とはそもそも「みんなバラバラの存在で、それぞれが違っている」という、簡単に言えば「他者というものが存在する」という思い込みが投影されて生み出されたものであり、通常の認識ではマインドは身体の中に閉じ込められているので「他人の心はわからない」ことになる。恐怖や攻撃などがありうるのもそのためだ。投影されたものであるという点において、身体そのものには意味がなく実体もない。身体にも波動・エネルギーがあるとか、身体そのものがエネルギー体であるなどという言い方もあるが、この場合のエネルギーや波動とは身体を作り出したマインドのものである。

そのような「身体」であるが、分離の象徴として捉えるのがエゴならば聖霊は学びのための仕掛け、学習装置として捉え、有効な用い方を私たちに教えてくれる。ここまでは以前に見たとおりである。

逆に言えば、攻撃する・されるという考えが普通に生じるうちは身体をエゴ的に、すなわち分離の象徴として捉えていることになり、身体は攻撃のための手段になってしまうのだ。

一口に攻撃といってもいろいろある。文字通り肉体を損傷あるいは死滅に至らせるようなものもあれば、相手から何かを奪うためのものもあり、身体は傷つかないが心が傷つくようなものもある。身体を傷つけるもの以外でも、これらの攻撃は全て身体を用いることによっておこなわれる。相手の言動や態度で心が傷つく場合であっても同じことである。あるマインドが身体を介さずに他のマインドを攻撃することはできるか?霊が攻撃するとか生霊が憑くなどというケースもあるにはあるが、この場合も「身体を生み出すところの分離したマインド、つまりエゴ」どうしのものなので、事態としては同じようなことなのである。

要するに「あなたは攻撃というものが有効だと考えているか」なのである。私は攻撃なんかしません、という人も「攻撃される」ことはあると思っているのではないか。攻撃されたら傷つくわ、そんなのとんでもない!と思うならそれは誰かからの攻撃があなたを傷つけることができるという点において有効だ、と言っているのだから、やっぱり「攻撃は有効だ」と「あなた」は考えているのである。

 
第189回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 58・59

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 58

第8章 その3

願望を実現させるためのスピリチュアル的方法というのは沢山あるが、「コース」学習もここに至ればそれらは所詮この世的エゴ的なあれこれに過ぎないこともお分かりだろう。だからダメだ、望むなといっているのではない。しかし、「コース」が教えているようなことを全く無視していくら好き勝手に願望したっておそらくうまく行かないことのほうが多いのではないかと思うのだ。

さて、ここに出てくるのは願望ならぬ「神の御心を実現する」ことである。これこそが唯一にして最大の喜びであり平和であり、私たちが余すところなく経験できる唯一の役割なのである。本当にこの経験をしてしまうと、他の経験なんてどうでも良くなるはずなのだが、私たちは性懲りもなく「他の経験もしたいなあ」という願望を抱いてしまう。「神の御心の実現」という経験は100%その気にならないとできないものなので、他の願望があればそれによって阻害されてしまうのだ。これも聖霊が何とかしてくれる、そのために神は聖霊を送ったのだと「コース」は言っているので、以前の章で見たように「聖霊の教えに従おう」という決断だけはゆるぎないものにしておきたい。

ところで「神の御心を実現する」って一体全体どういうこと?これも前のほうを読み返していただければわかると思うが、ごく簡単に言えば「何一つ欠けるもののない状態、完全に幸せな状態、全てが今ここにあるという状態」にあるということだろう。わざわざどこかに出かけて慈善活動をしろなどという意味ではないのである。その気にさえなれば、今ここで手ぶらでできるようなことでもある。

しかし、「コース」学習の大きな特徴は「ひとりきり」ではなく日常の人間関係の中で学び実践するということにある。ひとりきりで目覚めても人は自然に他者に対する愛や理解が深まるものだと思うのだが、一歩間違えば「自分だけが特別だ」というパワーアップしたエゴに逆戻りしてしまう危険もある。それだけでなく、日常の人間関係をツールとして用いるほうが普通の人にはずっと入りやすいし、より実践的でもある。

ということで、「誰かに会ったらそれを聖なる出会いだと思え」なのである。新たな出会いとは限らず、旧知の人々や毎日顔をあわせている家族でも友人でも同僚でも、顔を合わせるたびに「聖なる出会い」「聖なる邂逅」だと思え、というのである。これはすごい。実際にやってみればわかるが、良くも悪くも「よく知っている」と思っているような相手がものすごく新鮮な存在に映るのである。確か「和尚」は、どんな人と会っても「いま初めて出会った」というつもりで接するようにせよと言っていたが、同じようなことなのではないか。

目の前の相手は私たちの鏡である、どころではない。彼(女)は、私たちでもあるのだ。だから最初のほうに出てきた「相手を見るように自分自身のことも見ているのだ」「相手にしていることがそのまま自分にしていることなのだ」「相手について考えることはそのまま自分自身についての考えだ」という黄金律に即してやってみよう。「この人、私のことをバカにしているわ」と思うならそれは貴方が貴方自身のことをバカにしているのだし、「こんな人は非難されても当然よ」と思えばそれは貴方が貴方自身のことを非難しているのだ。

なぜ「聖なる」なのかと言えば、それがそのままゆるしと救いにつながるからである。その邂逅によって相手もそして私たち自身もゆるされ救われるのだ。お互いの中に「神の御心」である完全性を見るからである。

誤解なきように付け加えておくが、相手が明らかに間違ったことをしていてもそれを指摘しないで「あなたはスバラシイ完璧な人です」と思え、と言っているわけではない。ただ、「貴方は間違ってますよ、私は貴方と違って正しい人間だから、貴方より優れた人間だから教えてあげてるんです」という気持ちであってはマズイのである。相手の中に間違いを見ることができるのは、それが自分の中にもあるからだ。これは動かしがたい事実である。従って、相手の間違いを指摘するような場合でも「これは自分自身に対して言っていることのでもあるのだ」という自覚をもってしなくてはならない。そうすれば実際に相手ではなく自分自身に対して言い聞かせるつもりで話すような感じになる。また、自分自身も陥るかもしれない間違いに気づかせてくれたことを相手に感謝しなくてはならない。端的に言えば、間違いを指摘して「あげる」のではなく「させていただく」ような感じ或いは「自分自身に対して言い聞かせる」感じだと思えばよい。実際にこういう気持ちになって対応するほうが相手にうまく通じることが多いのである。

エゴによるものであれ聖霊によるものであれ、カリキュラムの目的は「汝自身を知れ」(ソクラテスですね)である。自分自身を知ろうとし、失われてしまった力や栄光を取り戻そうとするのである。もちろん、その方法や内容は全く違っているし、そもそもこれはエゴにとって絶対に挫折する目的であり達成し得ない目的なのでもある。エゴは「分離状態の保持」が至上命令なので、「相手に見えるものが自分の中にある」なんてことはない。相手と自分とはどこまで行っても「別物」なのである。他の誰でもない「この自分」の正体などそれこそ永久にわからなくて当たり前なのだ。

「コース」に即して考えれば、私たちが「神によって造られた全てにして一つのもの」であることを理解するためには「ひとりきり」では無理なのである。ひとりきりで目覚めたところで、それを実践するにはやはりこの人間世界が必要なのだ。聖なる出会いという言葉には、相手を「他の誰か=他人」だと見ないで「自分の一部」だと見るという意味も含まれている。大切な誰かに対してそう思うのはそれほど困難ではないかもしれないが、通りすがりに貴方の足を踏みつけた誰かや、貴方が「ひどい被害を受けた」と感じたり「もうイヤでイヤで」たまらない誰かについても「自分の一部」だと思えというのはなかなか大変かもしれない。しかし、ここでもう一度「投影」を思い出して欲しい。貴方が誰かから被害を受けたと感じているなら、それはまず貴方が自分自身に対して被害を与えていたからなのである。難しかれば難しいほどやりがいがある。まあ「難しい」と感じること自体がエゴの作用でもあるのだが、これは当面仕方ないとしよう。しかし「見かけの現象に惑わされない」ことを忘れずに!とにかく「さすがに無理だ」と思うような相手こそ、それだけ大きなゆるしと救いのチャンスを私たちに与えてくれているありがたい存在だと思うしかないのだし、また実際にそうなのである。このように相手を見て接することは、相手に対する責任であると同時に私たち自身に対する責任でもあるのだ。

ゆるしとは「あがない」=浄化の手段でもある。相手を憎いと思うとき、私たちは自分自身も相手も束縛しているのであり、囚われているのである。憎しみ、怒り、罪悪感などがあるときは必ず「囚われ閉じ込められている」ような感覚に襲われるはずである。これらの感情を抱きながら「自由でハッピー」というのはありえない。ならば、相手をゆるすことで自分自身も相手も解放されるのだ。私が心の中でゆるしたって相手は何も変わらないんじゃないの?と思うかもしれないが、癒しの奇跡とはこういうところから起きるものであり、真の意味での癒しはこういうところからしか生じないのだ。良い人だと思っていたのに全然違った、という場合はどうするのか?その「良い人だ」というのは多分エゴ的な観点から判断したものだったという可能性が高い。「コース」が言っていることはある意味で善悪の彼岸にあり、この世の善悪を超越している。そのような「見かけ」の向こうにある真の姿を見ろ、と言っているのだ。くれぐれもこの点を間違わないようにしてほしい。

私たちが苦しむのは神の御心ではない。誰かが苦しんでいる(ように見える)としても、「あれは苦しんでいるのだ、気の毒に」と思ってしまったら私たちもまた神の御心と違う考えを持ってしまったことになる。「コース」いわく「とらわれの考え」だが、これは神の御心ではないことによって真実ではないので実際にはいかなる力も持っていないのだ。

力も栄えも神のみにあり、ゆえに神から造られた私たちにもあると「コース」は言うのだが、神のみになんてわざわざ言わなくても良いような気がする。だってそもそも神以外のものなんかないんだから。ともかく、神は自らにあるものを惜しみなく与えることで私たちを創造したのである。私たちもまた同様にすることによって与えられた役割を十分に果たすことができるのだ。その力も私たちには与えられている。栄光は、私たちの目に映るあらゆるところにある。なぜなら、栄光とは神から与えられた賜物であり、私たちそのものだからである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 59

第8章 その4

完全な平和と喜びを私たちに与えるのが神の御心なので、私たちがそのような状態にないときは必然的に神の御心をわかりたくないと思っているに違いないのである。その時私たちは自らが神の中にあることを忘れている。神は全ての中にある全てなのだ。イヤでもそういう構造になっている。いや、そんなことはないと言ってもダメである。少なくとも「コース」における神とはそういうものなのだ。

ありがたくも神の法則は常に私たちを支配してくれている。たとえ私たちがそれに従わないつもりでいるとしても、である。万有引力の法則に従いたくない!といくら強く念じたっておそらく無駄であるのと同じようなことだと思う。叶うことのない願望を抱けば当然苦しみ、に陥るほかはなくなる。だったら素直に認めて従ってしまうほうがはるかに得策ではある。

この世界は、「全ては一つ」だという真理を否定したところに私たちがでっちあげたものであるがゆえに「全てはバラバラ」という幻想によって成立している(ように見える)。全てはバラバラだからこそ、つまり自分と違う他者が存在するからこそあらゆる対立感情や孤立感が生じるのである。自分が「大いなる自己」「絶対的な自己」で充溢していれば、たった一人でいても寂しいなどという気持ちは生じない。

キリストが「この世に光をもたらすために来た」「この世に打ち勝つ」というのは、幻想を消滅させるという意味であり、「世の終わりまであなた方と共にいる」というのもまた同じように「幻想が消えて真理に目覚めるまで」という意味である。地球滅亡・人類滅亡などという意味ではないのだ。

私たちがキリストと共にいることをしっかり自覚していれば、キリストのもたらす光が私たちを照らし、私たちがいるところや見るもの全てを照らしてくれるのだ。が、これは正確に言えば、キリストのもたらす光によって私たちは自らが光なのだと知り、自らが光そのものである私たちは自動的に至るところを照らすということなのである。自らが光であると知ればその時もう私たちはこの世に打ち勝っている。

ここはまたちょっとわかりづらいかもしれない。キリストも含めて、私たち「神の子」のうちの「誰か」が父なる神の御心に目覚めれば、みんなの意志が統一され神の御心がこの世においてなされることになる、というのだ。このようなことは「コース」以外のスピリチュアル書籍などにも書かれているのだが、ピンと来ない人が多いと思う。だって、そうでしょう。いまの世の中にも目覚めた人なんて少しはいるはずだ。なのに、どうして世界はこんなに悲惨なままなのか、どうして私や私の周囲の人たちはこんなに苦しんでいるのか?そう思う人が多いのではないか。

だから、つまりこれも気づきと自覚の問題なのである。この世の私たちにとって、このような目覚めも啓示も「ひとりきり」のマインドにおいてしかなされない、というところに何ともいえない逆説というか諧謔としか思えない消息があるのだ。ただ、その「ひとりきり」のマインドは「全てが一つ」であるような底なしのものなのであり、目覚めた時点でそのことにも気づくようになっている。この時点での「コース」はこういう書き方をしていないが、実はとっくに神の御心が為されてしまっているのだ。本当はこうなのだ、ずっとこうだったのだという姿を思い出せないマインドだけが「悲惨だ、苦しい」を投影するのであって、いわゆる「世直し」とは次元が違うのである。もしも、本当に全ての人がこういう真理に目覚めてしまったらメデタく地球も人類も消えるのではないかと私は思っているのだが、これも誤読の元になるので大きい声では言えない。

それはさておき、この世は幻想だったのだという気づき=目覚めこそが「光によって闇を照らし去る」ことであり、私たちにとっての救い・救済なのである。逆に言えば、私たちにとっての救いはこの世にとっては危険物である。ゆえにイエスキリストは迫害され拒絶されたのだ。だからって「真理を唱えるものは迫害される」などと決め付けてはいけないし、迫害されなくてはダメだなどと思ったらこれはもう立派なエゴである。

プラトンに出てくる洞窟の話を思い出して欲しい。洞窟の住人たちは、目の前の岩壁に映った自分たちの影を「世界」だと思っていた。世界はとても不自由なところだと思って生きていた。ところが、ある時その中の一人がたまたま洞窟の外に出た。何と、本当はこんなにも自由なところだったのか!今まで知らなかっただけだったのだ。彼は洞窟に戻ってみんなにそれを教えたのだが、誰も信じず彼を殺してしまった。

殺されたくなかったら真理など知らないほうが良いのである、という教訓ではない。たぶん伝え方を間違えたのだ。悪夢から急激に目覚めるのは恐怖をもたらすだけなのだから、起こす前にまず幸せな夢に移行するのが大切だ、と「コース」が言うのは理に適っている。

キリストと共にいるとか聖霊の教えに従うなどというのは、そのまま神の御心の中にいることに他ならない。

前述したとおり、「コース」は別に世直しを唱えているわけではない。直すべき「世」など初めから存在しないことに気づきなさいと言っているのである。「コース」が繰り返し述べているのは「この世にあってこの世ではない生き方」をしろということだ。それこそが、ある意味で世界を変えるのである。世の中を平和にしたいならまずあなた自身が平和を与えなさい、と書かれているからと言って平和運動に参加する必要はない。いま、目の前にあるものに対して与えるしかないのである。キリストに何かして欲しかったら、して欲しいことをまず自分が与えなさい。そんなこと自分じゃできないから「してほしい」と思ってるのに、どういうことよ!そう感じる人がいたら、とにかく小さなことでも実際にやってみてほしい。できることからで構わないのだ。実はこれこそが癒しの極意なのである。

癒しのメカニズムについては以前にも詳しく述べられていたのだが、癒しとは力のあるものから無いものに一方的に与えられるものではないし、たったひとりの力でおこなえるようなものでもない。他人を癒すのであれ自分自身を癒すのであれ、或いは癒されるのであれ、魔術ではない癒しとは「誰か他の人」から一方的に与えられるものではないのだ。いわば、癒しは共同事業なのである。癒すものと癒されるものだけではなく、そこには神も聖霊もキリストも関わっているのだが、ちょっと待って、これって結局みんな一つの存在なんじゃなかったっけ?「共同事業」とは、つまり「個々の私たち」という「個人」だけの力では絶対に癒すことも癒されることもできないのだ、という意味なのである。

そもそも癒しとは、「本来の姿に戻すこと」であり「分離状態から解放すること」であった。だったら癒しの理論にも現場にも「多=個」などはありえないのである。癒しもゆるしも、自分=エゴ的自分を明け渡した(surrender)ときに起こる、と述べている書籍は多いがそれと同じことである。エゴ的自分が降伏すれば残るのは神と一つであるところのスピリットだけであり、この部分はもともと「全ては一つ」なのであるから必然的に神ともキリストとも聖霊とも兄弟姉妹とも同じ意志を持つことができているわけだ。一緒に意志すると「コース」が言っているのはそういうことだ。「さあ、みんなで神の御心に従いましょう」などと沢山の人々を集めてくる必要はない。

私たちはマインドでありスピリットなのだが、いまの私たちのマインドは分裂して重層的になっているので、「私のマインド」という言い方が可能だったり「自分のマインドをどうこうする」という事態が可能に見えたりするのも仕方ない。で、「コース」も時たまそのような書き方をしている。

自由意志を誤用すれば、神と離れてバラバラになってみようかなという決心をすることもマインドにはできる。もちろんその逆も決心もできるのだし、それこそが本来の自然な姿なのである。このようにマインドは私たちの在り方を決める手段であり、より正確に言えばマインドは自ら決定したとおりのものになるのだ。一つのマインド(という言い方も変だが、とりあえず個々が存在するということにして)が他のマインドに強制することは決してできない。自由意志がここにも働いている。催眠術などで他から強制されたように思えても、実際にはマインド自らが「それに従おう、受け入れよう」と決めない限り何も起こらないのである。「わかれ」「気づけ」などということは催眠術によってさえ不可能だろう。おそらくこれらはスピリットの領域にあるものだからではないかと思う。催眠術=魔術でコントロールできるのはエゴの領域の部分だけなのだ。

 
第188回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 56・57

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 56

第7章 その12

神の目には私たちが間違いを犯したとすら映っていない。私たちが神なんか忘れて勝手な思い込みの世界で四苦八苦していることなどご存知ないのだから「私が造った子らはおかしいことをしている、ひとつ気づかせてやろう」なんて思うわけもない。そもそも神じしんに否定という機能がない。何であれ、何かを否定してしまったら「ただ一つ」ではなくなるからだ。一即多、の「一」を否定したものが「多」なのである。「多」である今の私たちに否定という機能があるのはそのためだ。存在であれ真理であれ「ただ一つ」のものに否定はありえない。

私たちが「多」で在り続ける限り「一」である神も「ただ一つにして全て」である自分自身をも否定することになるのである。

さて、エゴとスピリットはどこまで行っても何の接点もないのであった。互いに作用しあうこともないのだから、スピリットが何かを教え示すとすれば常にスピリットに対してである。ややこしい書き方になってしまうが、「スピリットたる私」が「スピリットたる貴方」に教える、という事態しかありえないのだ。キリストもこのことを身をもって教えようとしているのである。エゴには何も教えられないし、そもそもこういう事態にあってエゴは完全に蚊帳の外というか、無きものに等しい状態である。

既にあがなわれ完全な状態であるスピリットに、何を今更教え示すことがあるというのだろうか?これもまた気づきの問題なのである。これまたややこしいが、全ては一つであり本来はただ一つのスピリットしかないのだが、そのことに気づけるのもまたスピリットの部分だけなのだ。エゴに真理は無縁なのである。

ゆるしも癒しも浄化もあがないも「与えることによって与えられる」ものであることを思い出して欲しい。ないものは与えられないのである。そして私たちは与えることができるのである。しかも、与えられるものは永遠に尽きることがないのだ。しかもしかも、全てはただ一つのものとして造られたのだから、エゴ的この世的な考えとは違って「あらゆる存在に対して同じように」尽きることなく与えられているのである。誰かにはすごい力があるけど私にはない、あの人は素晴らしいけど自分は違う、なんていうのは謙虚さを装ったエゴである。

誰かに対して否定的な感情を抱くのはエゴの作用だと言ってしまえばそれまでだが、こういうとき私たちは神を、或いは真理を否定しているのである。誰かたった一人であってもその存在は真理の一部であり、真理は部分が全体でもあるのでその一部だけを否定するなどということはできないからである。ほんの一部を否定したつもりで全てを否定してしまっているのだ。まあ、実際にはエゴが自分で外部に投影した何かを否定しているのに過ぎないようなことでもあるのだが、この事態のどこを取ってもやっぱり真理も神も否定していることに変わりはない。

私たちは自らが創造したものに気づいていないので、それら平和や喜びや豊かさなどは私たちの現実にはなってくれていない。スピリットは私たちの認識にかかわらず常に創造し続けているのだが、私たちが気づかなければ意識的な経験にはならないのだ。神を知りたいならその被造物である兄弟姉妹をも知るようにしなさいと「コース」は言っている。その手段が赦しなのである。

第8章 その1

直接知は「コース」学習の一つの目標にはなるが、動機付けにはならない。あまりにもピンと来ないことだからだろう。それより、直接知に至るための条件の一つ「心が平安であること」を動機付けにするのが良いらしい。誰だって心が乱れたり不安だったり落ち着かなかったりするのはイヤなものだ。そんな状態から解放されたい!直接知や真理なんかどうでもいいけど、とにかく楽になりたい!というわけで、平和・心の平安は最適なモチベーションになる。

平和な気持ちになればその見返りに直接知が与えられる、というのではない。「知っていること」は神の御心であって、私たちは神の御心に従っていれば平和なのだから、逆に言えば平和にならないと「何もかもが確実に知られている」状態を経験できないという単なる論理的帰結なのである。

エゴは平和を奪う存在である。これだけでもエゴに対して「こんなもの要りません」と言う理由になるではないか。エゴの欲望・願望や理屈にだけ従っておいて「平和でいたい」というのは不可能だ。これもまた論理的帰結である。幸い、エゴは私たちがそれに従うことによってしか力を持てない存在でもある。そもそも私たちが作り出したものに過ぎないからである。

エゴは「闘い」が大好きだ。他者や世界に対してだけでなく、自分自身に対して重荷を課したり試練を味わわせたりするのも「闘い」の一種である。しかし、いかなる闘いであれ、実際には敵などどこにもいないのだ。いるように思えるならそれはエゴが作り出した「投影」に過ぎないのである。戦うためには対立する相手が必要だ、という理由だけででっちあげられたものなのだ。このあたりは繰り返し述べられているのでもうご承知だろう。

とはいうものの、やっぱり私たちにとっては「闘うべき」何か、というのがどうしても出てきてしまう。そんなものは無視しろ、気にするな、という教えなら別に珍しくもない。しかし、「コース」は違うのだ。闘うべき何か、自分と対立するあれこれ、そういうものこそが「私たちの平和の一部をなすもの」なのに、私たちはその「平和の構成要素」であるようなあれこれを攻撃してしまっている。つまり闘うべき相手とみなすことによって平和を捨ててしまっている、と言っているのである。これさえなければ平和なのに!と思えるものが平和の構成要素だと言っているのも同然なのだが、これもまたエゴ的に解釈するととんでもないことになる。

たとえば、あなたが病気だとして「この病さえなければ平和なのに」と思っているとする。『コース』的には、病など「本当は存在しない」ものであり、そのことがわかれば消えるようなものでもあるのだ。しかし、「平和の原理」をエゴ的に解釈すると「この病があるからこそ私は平和だ、この病は平和の構成要素だ」になってしまうのだ。本当は存在しないものを取り除いた、或いはその向こうにあるものだけが平和の構成要素になりうる。闘うべき相手とは、どこまで行っても自分の恐怖や罪悪感の投影に過ぎないのだ。

私たちは「間違い」によってまず「本来とは別の自分」をでっちあげ、それを取り巻く「世界」を作り出し、そこに適応すべく「本来とは別の」その自分を訓練・教育してますます本来の姿とはかけ離れたものにしてしまった。エゴ的学習カリキュラムとでもいうべきものだが、これがやはり「間違っている」のは、学ぶ過程においても結果においても私たちを幸せで楽に生きられるようにはしてくれていないという点だけ見ても明らかなのである。

何でもそうだが、私たちは何かを学んだことによってそれだけ楽に・容易に生きられるはずなのだ。言葉を覚えればコミュニケーションが容易になるし、パソコンを覚えれば便利になる。しかし、言葉に囚われればコミュニケーションは破壊され、パソコンの使い方を誤れば以前にはなかったトラブルが頻出する。「この世において生きること」についての学びには、どうしてもこういう事態が生じてしまうのである。

「人生って楽じゃないのね」「こんな世の中、いつ危険が迫ってくるかわからない」「人を見たら泥棒と思え」「特別な存在にならなくてはいけない」「健康に気をつけましょう、なぜなら病気は怖ろしいのだから。」などなど、学べば学ぶほどノビノビできなくなるような感じなのだ。比較したりジャッジしたりすることばかり「上手に」なって、それがまた自分自身を束縛してしまう。だいたい、エゴ的学習カリキュラムは一体何を目的にしているのか?幸せになりましょうというお題目の裏で、結局「エゴの存続」を目論んでいるだけではないか。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 57

第8章 その2

エゴ的・この世の或いは身体本位の学習カリキュラムというのに対して「コース」が提供するのは「あがないのカリキュラム」である。当然のことながらこの二つを同時に学ぶことはできない。両方とも「私とは何か」を教えているものの、その内容も方向性も方法も全く正反対だからである。たとえば、自由や幸せを望みながらエゴ的学習カリキュラムを実践しても無意味なのだ。しかし、私たちがしてきたのは専らこういうことなのである。

だいいち、エゴには本当の自由も幸せも分かっていない。エゴに支配された私たちは自由を望んでいるつもりで不自由や束縛を望み、幸せを望んでいるつもりで不幸を望むようになってしまった。既にこの段階からしてメチャクチャなのだから、エゴ的カリキュラムはどこまでも混乱している。エゴを通して学ぶことは全て間違っているのであり、知らないほうがマシだったりするようなことばかりなのだ。エゴから本当に学ぶことなど何もないのである。

だから、ちゃんと考えましょう。あなたはどんな教師から学びたいのか?あなたを本来の生き方に戻してくれて本当の自由と幸せを教えてくれる教師か、幸せになりましょうといいながらあなたを混乱に陥れて結局ますます不幸にするような教師か。本来の姿に戻るための学びと、本性に逆らい本来の姿からかけ離れるための学びとどちらが楽しいと思いますか?どちらがよりよい成果につながるものだと思いますか?

私たちは本来の姿でいるとき最も自然に尚且つ自由で幸せに生きることができる。これは何となく理解できると思う。巷間に溢れる「本当の自分を見つけましょう」的なものも、その次元において「自由や幸せ」を指向しているに違いないからだ。

さて、「コース」はここで「意志」あるいは「自由意志」について言及している。神と一つであり神の御心そのものでもある私たちの意志とは本来「神の御心・御旨」と同じものである。従って、私たちが自由を失い囚われて束縛されているように感じるならばそれは私たちの意志ではないのだ。自由意志だからなあんだってできるのよ〜、いっそ不自由になってみてもいいかも、と「意志して」そうなったわけではないのだ。そもそも「コース」によれば「意志」とはエゴ的願望の謂ではないし、「自由意志」の自由とは「やりたい放題」のような無秩序・放埓の意味ではない。私たちは「神の御心と同じ意志を持つこともできる」のではなく、私たちの意志は常に神の御心と一致しているのである。これが聖霊の教えなのだ。普段、私たちが「自分の意志」と思っているものは、実は「意志もどき」だったりするだけで、本来の意志ではないということでもある。以前、私たちの意志が神の御心・御旨と一致したとき云々という記述があったが、実際には既に・常に一致しているのであり一致しないでいることは不可能なのである。

これは別に神が私たちに強制しているという意味でもない。神の御心に縛られて自分の意志というものが持てない、不自由だという意味では断じてない。「お父さんの言うことを聞かないとひどい目に遭いますよ」みたいなことと混同しているのかもしれないが、とにかくそう思うならあなたにとって「神」とはあなたとは別の怖ろしい何かだ、と信じていることになる。あるいは「神の御心によって試練を与えられることもあるんじゃないか」と思って怖れる人もいるかもしれないが、これについては前のほうで言及されている。これらもまた『エゴの教え』のうちなのだが、エゴは「神の御心=私たちの意志」だという事実を忘れさせ、自分勝手な「意志」を持てると思わせることによって私たちを束縛し不自由にした。それどころか、私たちは自由を怖れるようにさえなってしまった。

まさか!そう感じる人もいるだろう。自由を怖れるなんてありえない、自由こそ私が求めているものよ。しかし、「コース」によれば逆さまの思考システムのせいで私たちは苦痛と喜びの区別も、自由と束縛の区別もつかなくなってしまっているのである。ゆえに、自由を求めているつもりで束縛や不自由を求めてしまう。わかりづらく感じるかもしれないがこのあたりは結構単純なのだ。

まず、自由を求めるのは現在の自分が不自由だと思っているからに他ならない。現在の自分が不自由であるのは、本来の姿から外れた不自然な状態にあるからだ。自分のことを神とは別の何か、みなバラバラの個体あるいは身体であると思っているからなのだ。この状態で「自由」を求めようとするとそれは「個としての自由」「他の個体から制限を受けず影響を及ぼされない=他の個体からますます離れること」にならざるを得ない。すると当然「分離状態」が強化される。つまり、ますます「神と一体」ではなく「神から離れた」状態になり、その結果さらに「本来の姿から外れた不自然な状態」になる。一言で表現すれば、個としての抑圧から解放されたいなら個を強化するのではなく個を捨てるしかない、これによってしか自由は得られない、そういうことになる。自由とは個を捨てることだとすれば、或いは自由とは「神からの独立」ではなく「個を捨てて神と依拠し合うこと」だとすれば、私たちが自由を怖れるのもまあ道理なのである。特に現代の世の中では「個として独立すること」が非常に評価されているからである。しかしこれは完全に次元を異にしている。だいたい、ちょっと考えてみてください。私は何にも依存したくない!空気にも依存したくない!からといって自前で酸素を作って生きていけますか?私はそうしている、という人がいればそれはもちろん思い込みであり妄想である。しかし、私たちのしていることはこれと同じなのだ。

自由と束縛、自由と依存の違いについてはやっぱりピンと来ない人もいるだろう。しかし安心して欲しい、あなたに自由と束縛の区別がつかなくても聖霊が助けてくれる。

聖霊の教えは自由を目指し神に至るためのものである。神の御心と自分の意志が同じであり神なしには何も意志することができない、そして「私たちが在り、しかも神とともに在る」ことこそが神の御心なのだ。本当の自由はここにある。何故ならば、神は無限の存在だからである。神においてはいかなる制限もない。尽きることのない愛と力と栄光がある。本来の状態には「違い」「差異」などというものがありえず、時間も空間もなく奇跡や癒しには難易度がない、どんなことでもできる強さと力があるなどというのと同じことなのだが、これが神であり神の御心であるならばそれと一致するより以上の自由がありうるだろうか?

スピリチュアル系では「宇宙の波動と調和して生きる」などというが、そういう時たしかに私たちはもっとも自然で楽な状態でありいろいろなことが驚くほどうまく運んでしまうのだ。なぜなら宇宙は無限だからである。無限のものと調和していれば自分だって無限の力を得ていることになる。神の御心と一致して、というのも基本的にはこれと同じことだと思って差し支えない。

自由だったら悪いこともできちゃうんじゃないの?という疑問も既に霧散したと思うが、悪いことや怖いことや何やらは全て「神との分離」以後に私たちが投影によって作り出したものに過ぎないので、神の御心と一致した私たちがそれらを意志することはありえない。

神は自らを限りなく拡大し分かち合う。そうして造られたものが私たちも含めた「万物」なのだ。前にもちょっと触れたがギリシャ哲学などでは「万物流出」と言っている。

こういう事態は私たちが知らなくても気づかなくても常に続いているものなのだが、やはりそれを認知することが重要なのだ。「私とはこういうものである」という正しい認識あるいは自覚を持つこと、これが「目覚め」と言われるものである。目覚めは一人のマインドの中で起こるのにもかかわらず、その本性として閉じられたものではないので自然にあらゆる人々に作用を及ぼす。開かれたマインドに対して身体は「分離の産物」であることにより必然的に閉じられているので、このあたりの事情は一般的にはわかりづらいがまあ仕方ない。具体的には、目覚めた人の周囲には自然に神を求める人々が集まってくるというような現象となってあらわれたりする。

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」、これは神に向けられたものであると同時に私たちに関するものでもあるのだ。

また、「いと高きところには栄光、神にあれ」たいていは「地には平和、人には恵みあれ」と続くのだが、「コース」は私たちにも栄光あれ、なぜならそれが神の御心なのだからと言っている。

「コース」はまた、理解と光明を得たいなら聖霊から学ぶ決心をしなさい、とも言っている。聖霊の教えにも私たちの学びにも何ひとつ制限はない。いつどこでどんな形でも、どれだけでも私たちは学ぶことができるのである。

   
第187回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 54・55

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 54

第7章 その10

私たちが気づかなくてもスピリットは創造し続けている。しかし、それでは神から与えられ神と同質の創造力が十分に働いているとは言えないのである。私たちがスピリットであるという自覚をもち神の御心と同じ意志を持っておこなうならば創造力は存分に発揮され、私たちはより自由で平和で愛に満ちた状態でいることができるのだ。

へええ、で終わってしまいそうなことかもしれないが、「コース」は私たちに宗教倫理を説いているわけではなく、私たちが幸せに生きる方法を教えてくれようとしているのである。

私たちが気づかなくても神の国たるスピリットは創造し続けているので、スピリットが創造したものもちゃんと存在している。私たちが癒しなり「あがない」なりを受け容れて目覚めたとき、私たちは自らが創造し続けていたことにも気づくようになっている。

エゴは利己的でそれゆえに閉じているのだが、スピリットは「自己に満ちている」存在だ。この「自己」とは言うまでもなくただ一つであり神と一つであるところのわたくし、ただ一つのわたくし、いわば存在や神や宇宙による普遍的絶対的一人称である。ピンと来なくても構わない。分かるときには必ず分かるようなものだから、イヤというほど良く分かるようなものだからだ。

たとえば、「私が神だ」「私が宇宙である」と言うのは「碧海ユリカは神である」という意味では全くないのであって、ただ「全ては一つである」と言っているだけなのである。

とにかくスピリットは自己で充溢しているので、それは溢れ出ざるを得ない。神と一つであるような性質の「自己」が溢れ出すことこそが創造なのである。私たちもこのようにして創造されたのだ。神が「さあ、創造しましょう、つくりましょう」と意志してエイヤっと力を奮って創造した、というのではなく、神の本質の中に既に創造することもその力も含まれているのである。ただ在ることが創造することなのだ。もちろんそれはそのまま私たちにも与えられている。神を閉じ込めておこうなどとありえない願望を抱くことなく、溢れ出すごとくに拡大することこそがスピリットの本性であり唯一の役目であり、失われることのない存在の根拠である。何もかもが確かだと知られるのもそのためである。

スピリットは溢れ出し創造することによって更に満たされる。溢れ出てしまえば枯渇する、というのはエゴの論理だ。だから枯渇を怖れるエゴは与えず創造もしない。しかし、それでは私たちは満たされないままなのである。

というか、正確に言うならば、エゴに支配され目が曇った私たちは、実は自分たちのマインドが既に充溢していることを知らない。満たされない、というのは本当に何かが欠乏しているからではなく「何一つ欠けていないこと」に気づいていないだけなのだ。

私たちはゼロから何かを学んで成し遂げなくてはならないわけではない。逆転した思考システムのせいでとんでもなく困難なことをしようとしている気になってしまうのだが、実際には「既にそうであり、ずっとそうだった」ことにただ気がつけば良いだけなのだ。簡単なように聞こえるがやっぱりそうでもないのは、自分の妄想世界を現実だとすっかり信じこんでいる人に「本当はそうじゃないんですよ」とわからせるのが大変なのと同じようなことだからである。

この状態から私たちを解放させてくれるのが「奇跡」なのだ。聖霊によって私たちは本当の状態、真の姿を経験することができる。「コース」が繰り返し言うように、私たちがどう認識しようがしまいが、スピリットは依然として常に変わらず存在し創造し続けているのである。

真の意味における「自己実現」とは、「神と一体、全てのものと一つ」であるスピリットという自己が溢れ出し創造することである。エゴである自己を実現したって何にもならないのだ。だいたい、何をどうするというのか?スピリチュアルを標榜している書籍やワークの中にもこのあたりの真相を全くわかっていないものが結構ある。

私たちは神の御心・御旨に逆らって好き勝手をしようとして四苦八苦してきたわけだが、実際には神の御心に逆らうことなど不可能なのだ。できもしないことをできると思っているから苦労するのは当たり前なのである。また、厄介なことにエゴが「できる」と私たちに思わせ続けているのだ。

私たちのアイデンティティはどこまで行っても神と一体であり全てがひとつであるようなもの、その無欠さと平和のうちに拡大し続けるようなものである(しかし、「拡大」という言葉はそれ自体に「サイズ」という概念を含むので何となく困ったような気になる)。奇跡とは、本当の全体像を見渡せるような認識を得るためのワークでもある。全体像の中の一部を見ただけでもその中に全てが含まれていることがわかるのだ。

エゴの世界はその前提に「私たちは神とは別のものであり、みんなバラバラの存在だ」という信念=思い込みを持っている。ここだけなら「コース」など学ばなければ「その通りなんじゃないの?」と思うだろう。それほど受け容れがたいものだとは感じられない。しかし、その前提がもたらす論理的帰結は「苦痛・怒り・恐怖・不安」などなど、とてもじゃないが歓迎できないようなものばかりなのだ。これらのものから解放されたいなら、まず前提の部分を変更しなくてはならないのである。

神の国は「神と一体、全てはひとつ」が前提になっており、その論理的帰結としてスピリットであるところの私たちは常に創造し続けている。であれば、私たちが創造したものってどこにあるわけ?と思うかもしれないが、それらは全て時間も空間も超越して神の国の中にある。スピリットあるいは聖霊によって知覚・認識するならば、見るもの聞くものあらゆるものの中に、至るところに私たちの創造したもの・・たとえば平和・喜び・豊かさ・健康など・・が溢れているとわかるのだ。

どちらが真実かは言うまでもないのだが、どちらを経験するかは私たちの意志に拠る。苦痛を避けたいのなら聖霊の導きに従えばよいのだが、私たちは苦痛を避けたいと思っているくせにエゴを選んだりしているのである。何故そんなことになるのか?まあ例によって逆さまの思考システムのせいだと言ってしまえばそれまでなのだが、「コース」はここで更にハッキリ言っている。すなわち、何と「私たちには苦痛と喜びの区別がつかなくなっている」ということなのだ。確かに、手放すというのを「失う」ことのように感じて怖れる人もいると思う。苦痛と喜びを混同すると、どうしても「犠牲」という考え方が生まれてしまう。覚醒するためにはこの世の幸せを諦めなくてはならないのか、とか、もっと極端なケースでは「本当に幸せになりたいのなら全財産も家族も捨てて出家しろ」などと明らかに「犠牲」を強いるものもある。聖書でも「金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい」とか「親の葬式にも出るな」みたいな記述があるので仕方ないとは思うが、目に見えるような事柄は一切関係ないのである。見た目は何もかも捨てたようでいて実際にはエゴ現役バリバリ、などということだって十分にありうるのだ。

そこで、聖霊は苦痛と喜びを区別することを私たちに教えてくれる。これはかなりシンプルで、要するにエゴの喜びはスピリットにとって苦痛であり、スピリットの喜びはエゴにとって苦痛なのだ。何も犠牲にはされず失われるものはない。それどころか私たちはあらゆるものを手に入れるのである。まあ、エゴを自分だと思って生きてきたのなら、エゴを失うのは今までの自分を失うことと同じなのでさすがに抵抗を覚えるかもしれない。しかし、今の自分がこの上なく幸せで何の不安もないという人ならともかく、そうでないならその不幸は全てエゴによるものであり、幸せになりたければエゴを捨てるほかはないわけだ。エゴ的な見地で「コース」を読むことも一応は可能なのだが、そうするとかなり悲惨な結論に至ってしまう。「全てが幻想なら生きてても意味がないじゃないか」とか「私の個性はどうなるのっ」とか「殺されそうになっても抵抗してはいけないのか」とか、そんなふうになる。そこでまた「わからなくても受け容れられなくても前に進め」なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 55

第7章 その11

そもそも私たちが「神と離れてみようかな」などと思ってしまったこと自体が「間違いのもと」だったのである。神の御心に従うより自前で生きるほうがもっと良いかも、とチラリとでも考えてしまった。この考えがいまだに私たちの中に根強く巣くっているのである。しかし、繰り返し述べられているようにこれは「ありえない選択」であり「儚い願望」に過ぎない。神は、そして神と一体であるスピリットは儚い願望など抱かない。ただ意志するのみである。神の御心・御旨やそれと一致したものならば意志した瞬間に実現するものなのだ。一方でエゴの抱く「儚い願望」は、その根底に「分離・分裂」があり更にそこから派生する「恐怖・不安・怒り」などなどがあるために、たいていはこちらのほうが投影されて実現してしまう(ように見える)のである。だから「願っても叶わない」どころか「願いと反対のことが起きて」しまったりするのだ。どう考えても意志のほうが願望よりも強力なのである。聖霊の導きに従って神の御心と同じ意志を抱くことを避けているならば、それは取りも直さず私たちが「弱さ」を選んでいることになり、弱さゆえに恐怖まで生じてしまうのだ。

誰だって苦痛よりは喜びを得たいと思うはずなのだから、これは強力な動機付けになる。聖霊に従うことが何か犠牲を伴うような感じがするならば、その時私たちはエゴに従ってしまっている。聖霊には犠牲という考え自体がありえない。犠牲はエゴだけのものだからである。何故ならば、聖霊にはそもそも「失う」ということがありえないからである。怖がりながら導きに従うなどということは不可能なので、怖がっているなら私たちは単にエゴの支配下にあり、いかなる導きにも従っていることにならないのだ。

よく考えてみよう。神が信頼に足るものでなかったら、いったい何が信頼できるというのだろうか?信頼できないものをそもそも神と呼ぶだろうか?神が信頼できるものならばそれと一つである聖霊も、私たち自身も周囲の人々も皆おなじように信頼に足る存在なはずである。これは自明のことなのだ。そして私たちが神の御心であることもまた自明であり、選択の余地などないことなのだ。だったら、もはや私たちは何も選択したり決めたりする必要はないのである。ただ、そうであることに従えば済む話なのだ。自分が決めなくては!という状態を手放すことこそ「聖霊に従う」ことなのである。おかしな話だが「手放せたらいいのになあ」などという願望を抱いてしまったら、それが願望であるというまさにその点において私たちは聖霊でなくエゴを選んでいることになるのだ。じゃあどうしたらいの?と困ってしまうかもしれないが、要するにすっかり安心して任せていれば良いだけの話なのである。だが、みんなこれがなかなかできないのだ。エゴが「そんなことでいいのか?油断すると危険だぞ」と囁くからである。

奇跡とは、煎じ詰めれば私たちに喜びを教えてくれるものである。奇跡は神の御心であり、ゆえに真理であり愛でもある。神の御心に従わない限り、私たちに喜びはない。

私たちの世界すなわち私たちを取り巻く環境は「神から離れて作り上げた」もの、神から離れてバラバラだという分離やそれに伴う恐怖・罪悪感・怒りなどなどが投影されてできたものなので、もうその発祥からして必然的に苦しいところにならざるを得ない。私たちの本性とはかけ離れており私たちにとって不自然なものなので、どんなに努力したってここで幸せに生きるのは無理なのである。適応することもさせることもできないものなのだ。従って、この世にあって幸せに生きるためには「この世ではない」在り方をしていなくてはならない。身体はこの世のものなので、身体としての自分はこの世にあっても本来の自己はこの世に属していない。かといって分離しているのでもない。この世はそもそも「実在しない」のだから、実体のないものと実在のスピリットは分離すらされないのだ。むしろ本来の自己であるスピリットは初めからこの世のものではないのである。簡単に言えば「スピリットして生きる」ことによってしか私たちは幸せになれないのだ。

本来、私たちは「神の恩寵」に取り囲まれているはずなのである。神に創造されたことじたいが恩寵なのだから、そして創造は永遠にして不滅のものとして続いているのだから、そう考えればこれは当然の消息なのだ。私たちにとってはもっとも自然な状態なのである。この状態にある限り、私たちは自由でありストレスとも無縁である。与えれば与えるほど豊かになり、ただ在ることと持っていることが同じであるような世界でもある。

真理は決して隠されることはない。そんなことは不可能なのだ。隠された真理を発見するのではなく、ただ私たちが目を開けば至るところにそれがあるのがわかる。私たちは、真理を認めない・見ないように自ら訓練してきたようなものなのである。神は真理であり、神が自らを分かち与えて造ったものが私たちであるならば、私たち自身が真理であると言っても良いわけだ。とすれば、兄弟姉妹の中に真理を見るとき私たちは自らにも同じものがあるとわかるのである。逆荷、自らの中に真理を見出せばそれが他のあらゆる人々の中にもあるとわかる。というか、わかったというそのことじたいが真理なのだ。このあたりは全てつながっているので、どれか一つのことだけについて述べるのは却って難しい。

どうしたらそんな状態になれるのか?これもまた気づきの問題なのだ。私たちは既にそのような存在として造られている、それを私たちはすっかり忘れてしまっているだけなのである。

 
第186回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 52・53

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」52

第7章 その9

私たちはまず最初に「神から離れた」のだと思い込んだ。出来心とはいえ自分から望んでしたくせに失ったものは大きく、ずっと後遺症に悩まされることになった。

私たちが恐怖や怒りや孤独などを感じたり攻撃されたと思ったりするようなとき、それは「神から切り離された」、それも他者によって神から切り離されたように感じているのだ。自分でやったくせに他人のせいにする。これが投影だ。

何かの行為が攻撃として認識されるのは、それが私たちにとって価値ある何かを傷つけ奪うものだとこれまた認識されるからである。殴られて怪我をした、というのは普通に考えればまあどう見ても攻撃である。身体の一部を傷つけられ、場合によっては心も傷つけられる。ちょっとした一言が大変な攻撃として認識される場合もあり、極端だがイエスのように身体が死に至るほどの暴行を受けても「攻撃」だと認識しない場合もある。

即ち、攻撃・怒り・恐怖などの激しさは、それらによって奪われ傷つけられるものが自分にとってどれだけ価値があったかという認識にのみ左右されるのである。10円落としてもそれほど落胆する人はいないが1000万円落としたらパニックに陥る、そんなことは当たり前だと思うだろうが、「コース」はそんな甘くないのである。まあ、「コース」によらずとも単純に論理的に考えればそうなってしまうのだ。なぜなら、何であれ「ものの価値」を決めているのは誰でもない私たち自身だからである。

たとえば、お金には価値がありそれも10円より1000万円のほうがずっと価値があると私たちは信じているわけだが、これとて「そういう決まりごとを自分が受け容れた」だけであって別に真理でも何でもないのである。例によって「とりあえずのもの」に過ぎない。私たちがそのように意味づけしていなければ、それらはただの金属片でありメモにすらできないような紙切れに過ぎないのだ。

心のほうはもっとひどい。傷つきやすい=繊細=純粋、のような図式化は「コース」が簡単に粉砕してくれる。本当に純粋で無垢な人なら「傷つく」などということがそもそもありえないからである。傷つくのはエゴだけなのだ。エゴがなければ何も投影するものがないので、傷つくどころか恐怖も怒りも罪悪感も何もないのである。もともと「価値のない自分」がいて、そこに無理やり価値を貼り付けて誤魔化していたからちょっとしたことで尊厳が奪われ傷つけられたと思うのである。

そもそも、神に造られたところの真実なるものは変化しないので、傷つくことも奪われることも減ることも絶対にありえない。ならば、傷つき奪われ減少するようなものは真実在ではなく虚構であり幻想だ。身体もしかり、なのである。このあたりはもう本当に論理で納得できても心情がついていけない、と大抵の人がそう思うだろう。だって常識じゃないものねえ。しかし、常識とはだいたい心情的なものなのである。

私たちは、本当は「ない」ものに勝手に価値を与えているだけであって、そんなものが奪われ傷つけられ(たように見え)ても実は何も失ったことにならないのだ。こういうことに関しては後のほうでもっと詳しく出てくるので、今のところは受け容れられなくてもあまり気にせず先に進んで下さい。

ただ、私見だがこれは「引き寄せ」の極意なのではないか。「引き寄せ」に熟達した人は、単に良いことを信じる力が強いだけでなく、おそらく自分が求めるお金なり家なり名声なり健康な肉体なりが実は「とりあえずのもの」でしかないと明確にわかっているのではないか。だからこそ執着しないで済むのだし、簡単に引き寄せたりもできるのではないか。ちなみに「成功哲学」の草分け的な存在、マーフィは明らかにこのことを知っていた。

まあ、ここではともかく「攻撃された」とか「怒りが湧いた」などという場合に相手を祝福しろということだけわかっていれば良い。私たちは神を崇めるが、それだけでは不十分なのである。同時に神と一つである被造物全体をも崇めなくてはならない。神じしん、私たち被造物を崇めて下さっているのである。こうして祝福は広がっていく。それもまた創造である。

神には「ひとり子」しかいない。神の子である私たちは本来一つなのだ。が、本当に「神と一つである神のひとり子」を体現させているのがキリストであり、キリストは私たち全てのマインドの中にいつも在って私たちを教え導いてくれるのである。私たちはすぐに「ブチ切れて」しまうのだが、キリストの忍耐は攻撃を祝福の機会として捉え直させてくれるのだ。

まずは、私たちは神の御心であり御旨なのだと自分に言い聞かせよう。それがどんなものなのかハッキリとは知らなくても、神とは限りない愛であり平和であり豊かさであることくらいを承知していれば十分である。何かを奪われたと思ったとしても、神の御心である私には限りない豊かさが与えられているのだ!と分かっていれば怒りやパニックに陥らないで済む。これもまた「引き寄せ」に応用されていることだ。奪われたことに意識を向けると「失う」エネルギーが強化されるのでますます失ってしまうのに対して、何かを無くしてもそれを見ず自分の中に豊かさを見ることができれば、何でもすぐにまた得られるのである。

世界がどんなに悲惨なところに見えても、実際に争いや戦禍が絶えないようであっても、それを何とかしようとすれば幻想に実体性を与えてしまうので事態はますます悪くなる。そうではなくて、現実に見えるそのイメージの向こうに「神に造られ、神と一体であるただ一つの存在」だけを見るのだ。全てが一つならば平和しかありえないからである。

私たちは神の愛で出来ているのだ、と思って周囲を見ればあらゆるところに神の愛が見えるはずなのだ。これがいわゆる知覚機能を正すということである。

だから、どこからどこまで完璧で現実的で望ましいものだけを求めなさい。そうすればそれだけを手にするであろう。そういうものだけを与えなさい。そうすれば貴方はまさにそういうものになるであろう。

エゴが与えるときは常に「犠牲」が伴う。与えた分だけ手持ちが減る(ように見える)からである。しかし、私たちが神の国=スピリットに与えるものは更に増大・拡大して手元に残される。これが神の創造の法則であり、神の豊かさは無限だからである。

先ほども述べたことだが、愛はその本質として全方位的なものなので、特定の対象にのみ向けられることは出来ない。更に、愛はそれ自体が「拡大する」性質を持っているので、拡大されない愛などというものはない。ひとりで抱え込めるようなものではないのである。拡大されなかったらそこに愛があることさえわからないものなのだ。

あらゆる考え或いはエネルギーは拡大または投影される。これもまたマインドの法則である。聖霊なら自分にとって価値があるものを分かち合うことにより更に増やすのだが、エゴは見たくないものや欲しくないものを自分の中から排除するためにとりあえず外に投影して他者に押し付けるのである。しかし、実際にはこれも排除などされずマインドにそのまま残ってしまっている。しかも投影した本人にとっては「手放した」どころか、却って外に拡大されてしまったことになるのだ。エゴに支配されている私たち自身がそれをわかっていないことと、拡大・投影されるものが「価値のないもの」であること、従って本来は「分かち合えないはずのもの」であるという点において、エゴはマインドの法則を歪曲しつつ利用している。

両者の違いはあまりにも大きい。なぜなら、どちらに従うか・・必ずどちらかに従わなくてはならないのだ・・によって、私たちは豊かさを経験するか、欠乏に喘いでそれゆえに常に虚しく求め続ける羽目になるかを選択することになるからだ。

怖ろしいのは、エゴの思考システムの中にも「救いを与える」ように見えるものがあることだ。これに私たちは長年騙されてきたようなものなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 53

第7章 その9

エゴがあるところには必ず対立や葛藤がある。そもそも神と離れたということ自体が私たちと神との対立を示唆しているのだから、当然と言えば当然である。

エゴは対立を温存すれば自分が安泰なのだが、いくらエゴに支配されているとは言っても私たち自身は対立や葛藤を避け解消したいと常に思うはずであり、それらがあまりにも苦しければ勢いあまって思わずエゴそのものを放り出してしまうかもしれない。エゴはこれを怖れるため、やはり「投影」を用いるのである。

投影は目の前の他人にのみなされるわけではない。メディアで知るだけの人物や出来事も全てその対象となる。従って、海の向こうの戦争も政治家や芸能人のスキャンダルも、一見私たちとは全く関係ないことのようであっても、私たちがそれに反応してしまう限りにおいてやっぱり自分のマインドの中の対立や葛藤、怒り、攻撃などなどを投影していることになるのである。これなら一見安全だ。だって私たちは悪くないんだもの、悪いのはあの人たちなんだもの、言いたいこと言ってああスッキリよ。

しかし、「コース」は甘くない。マインドの外側にあるものに対立を投影して安心できると思ったら大間違いなのだ。

これは、別に私たちの中にある対立のせいで戦争やスキャンダルが起きているという意味ではない。私たちが責任を負うのは自らの認識の仕方の部分だけなのだが、逆に言えば多くの人々が「対立を外部に投影する」ような認識をしなくなれば実際にそのような事象も起こらなくなるのである。

まず、マインドの「外側」などというものは実際には存在しない。私たちがどう認識するかにかかわらずマインドはただ一つだけであり、外側にあるように見える幻想も何もかもそのただ一つのマインドの中にしかないのである。

おまけに、手元に抱えていたくないために外側に「捨てた」はずの対立は、実際には投影されただけで捨てられてはいない。マインドの法則により、むしろ今まで以上に自分の中にしっかり保存されてしまうのである。対立・怒り・攻撃などの現実性が強化されて、エゴ支配下の意識の中に温存される。

それを自覚していない私たちにとって、「いやなもの」=脅威は外側にあることになり、その結果いつ何時「いやなこと」に襲われるかわからないという恐怖を抱くことになる。病気や怪我などもそのうちに含まれる。なぜなら、身体もまた「マインドの外側にあるもの」とされているからである。

自分とは全く無関係のあれこれに対立を投影していると、思わぬところから逆襲されるというわけである。だからこそ、おかしなものが侵入しないように常にマインドを見張っていなくてはならないのだ。

しかも、対立や怒りや恐怖などは本来分かち合うことができないものなので、厳密に言えばこれらは投影することさえ不可能なのだそうだ。マインドの一部を捨てて一部を温存するということ自体が不可能なのである。まあ、投影したって実際には残るのだという事実だけで十分だと思うのだが。

幻想は「一緒くた」になって出来上がっているものなので、自分に関することは真実で他者に関することが幻想だなどという事態も、その逆もまたありえない。

エゴに支配されてしまったマインドは分裂してバラバラになり、それぞれが互いに未知の存在だったりすると以前述べられていたが、真相はちょっと違うようだ。「コース」は時々こういう語り方をするのである。マインドが分裂することなど実際には不可能なのだ。ただエゴによって私たちの認識の仕方がおかしくなっているために、あたかもマインドにはいろいろな層があり、それぞれが対立しているようにしか見えないし感じられないだけである。本来マインドは攻撃したりされたりすることもできないのだが、私たちはもう日常的に「心を傷つけられた」と感じてばかりいる。攻撃されうるのは、というか攻撃されたと思い込めるのはマインドの中でもエゴの部分だけなのである。

改めて思い出して欲しい。そもそも私たちが「神と離れて存在できる」と思い、それを実際にしてしまったと思い込み、その分離状態を現実らしくするために「神から与えられた創造力」を誤用してあれこれの幻想を作り出した、そこからエゴは生まれたのである。あり得ない状態を現実だと信じたことの産物である。従って、私たちが「本当の自分は神の国たるスピリットだったのだ」と気づけばエゴは消えざるを得ない。こんなとんでもないものを、とてもじゃないが信じられないようなものを信じていたなんて!そう気づいて思い込みを捨てればもともと「思い込み」の産物だったエゴは消えるのだ。そのためにはやはり「あがない」「浄化」を受け容れなくてはならない。たった一人の力でエゴをなくすのはどうしても難しい。だいたい、私たちは「たった一人」ではなく「みな一つ」だと、分離しているのではなくただ一つの存在なのだということがわからなければエゴは無くならないのである。私たちは努力して学ばなくてはならないのだが、最後の「手放し」とは文字通り「ぎゅっと握っていた手の力を抜く」わけだからいわゆる努力によっては為されない。別に誰かと一緒にやれとかグループワークに参加しろなどということではない。ただ、最終的には力を抜いて聖霊に委ねるしかないのである。

私たちが神に造られ神と一つであるような神の国だ、という事実は、私たちがそのように認識しなくても信じなくても永遠に変わらぬ事実としてここにある。私たちはどこまでいっても何一つ欠けることのない完全な存在なのである。もう、本当にどこまでいっても、いやになるくらい、そういうことになっているのである。

先ほど「コース」の語り口の特徴・・・前はこういう風に言ったけど実はそれどころじゃなくてこうなんだよ、みたいなものだが・・について少し触れたが、またまたやってくれました。

私たちのスピリット、あるいは正確に言えば私たちというスピリットはエゴに追いやられ忘れ去られてしまっている。これは既にご承知だろう。そのために私たちは神と同じような「創造」などできなくなってしまっている、と以前「コース」は述べていたのだ。しかし!スピリットが神と一つのものであるならば、その本質として「創造し続ける」はずであり、しかもスピリットは永遠に不滅なのである。私たちが認識しようがしまいが、スピリットは常に創造し続けているのだ。ただ私たちがそれに気づかないだけなのである。であれば、別に改めて「さあ、スピリットたる本来の自分に戻って創造しましょう」なんて言われる筋合いもない、だって放っておいてもちゃんとやってくれているわけでしょ。つい突っ込みたくなってしまうが、要するに自覚と気づきの問題なのである。そのような素晴らしくハッピーなものがちゃんとあるのに、何を好きこのんで「必ず不幸に陥れる」ようなエゴと自分を同化してしまうのか?わざわざ宝の持ち腐れをすることもないではないか。素晴らしいお城に住んでいるのにそれが見えず「惨めなあばら家」にいると思い込んで日々を過ごしているようなものではないか。

「コース」は、スピリットたる自覚を持って生きることによってこそ私たちが役目を全うできる、と言っている。一時期「自分らしくナチュラルに生きましょう」などという胡散臭い言葉をよく見聞きしたが、究極的にはそれと同じことなのかもしれない。ただしその「自分」とはエゴたる個体としての自分ではないのだ。本来の姿であるスピリットとして生きるのがもっとも「自然」なことだ、と「コース」は言っているのである。

でもまあ、とにかく私たちは知らないうちに創造してしまっているのだ。これはかなりすごいことではないか!それどころではない。スピリットが「全ては一つ、神と一体」であることを思い出して欲しい。「私の」スピリットや「あなたの」スピリットがそれぞれ別個に何かしているのではないのだ。厳密には「私の」スピリットなどという言い方すらできない。私であり貴方であり神でもあるような、全てであり一つであるようなスピリットが同時に(という言い方も変だが)創造しているのである。

 
第185回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 50・51

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 50

第7章 その7

エゴの思考システムとは、妄想システムみたいなものである。もともとエゴが妄想の産物なのだから当然といえば当然だ。妄想にシステムなんてものがあるのかと思うかもしれないが、そこで生きている当人にとっては枠組みとして一応つじつまが合っているのである。これは、いわゆる「おかしい人々」を見れば良く分かることなのだが、いつも言っているように私たちも立派な狂人なので構造としては全く同じことなのだ。

どう見ても普通の日本人なのに「私はイギリス人とエジプト人のハーフで、チューダー朝の末裔でクレオパトラの生まれ変わりで、今はナントカ王国の女王である」と思い込んでいる人がいれば、明らかに「おかしい」とわかる。現実逃避しているのだと思うかもしれない。しかし、私たちがしていることも基本的にはこれと変わらないのである。それどころかもっとひどいかもしれない。なぜならこういう人々は自分にとって、より心地よいと思われる「仮想現実」を作り出してそこに逃げ込んでいるのに対して、私たちは本来の姿よりずっと不自由で不幸な「仮想現実」を作り出しているからである。

要するに全てエゴの仕業といってしまえばそれまでなのだが、エゴにとって「本来の私たち」は天敵なので、「妄想上の私たち」と手を組むことにした。私たちが妄想から覚めてしまえばエゴは消えざるを得ないのだが、私たちが本来の姿を忘れていれば安泰なのである。

真理は全的なものである。どこか一部が真理なら全てが真理である。虚構の中の一部だけが真理だとか、真理の中に虚構が一部含まれているなどということはありえない。少しでも虚構があるところには、真理は全くないのだということになる。この意味において虚構もまた全的なものだと言えるのである。

たとえば、私たちが真理を見たならそれがたとえほんの一瞬だけだったとしても全てが真理なのである。が、次の瞬間に虚構が少しでも混じってしまえばそれは全てが虚構であるのと同じことになってしまう。この両者はどちらも全的なものなので共存できない。そう見えるとすればそのマインドが分裂しているのである。繰り返し述べられていることだが、スピリットは忘れ去られることはあってもなくなることはない。一方、虚構=エゴのほうは忘れ去られれば消えてしまうのである。

真理は事実である。私たちがどう認識しようが全く関係なしに事実として常に変わらずあり続ける。虚構の世界でならその都度「私はこういうものだ」と自分で決めたり選んだりすることも可能のようだが、だからこそ「引き寄せ」も「願望の現実化」も可能なのだが、それはやはり「思い込み」に過ぎないのである。本当の意味においては、私たちは自分がどういうものかを自分で決めることなど絶対にできないのだ。なぜなら私たちの本来の姿は既にどうあっても動かしがたく決まってしまっているからだしかもそれは私たちが自力では到底思いつくこともできないくらいに完璧でパワフルなものなのだ。私たちがみな一つであり、更に神とも一体であることをよくよく考えてみて欲しい。もし、私たちがその完璧さや力を任意の誰かのうちに見ることができないならばその時私たちは「神を知らない」「神の完璧さや力も否定している」ことになってしまうのだ。ここが通常のキリスト教の信仰と大きく違うところなのである。神は偉大で全知全能だが私たちは弱くて小さいものである、とか信仰に目覚めた自分はまだマシだが相変わらず罰当たりなことばかりしているあの人たちは全然ダメだ、神よ彼らを救いたまえ、などと言うならばそれは神の力も私たちを自らに似せて創造した神の御旨も、ひいては神じたいも否定することになってしまうのである。

神を直接知ろうとするのはかなり難しいことなので、「コース」はその代わりに神の被造物である兄弟姉妹を正しく知覚・認識すること=投影されたイメージの向こうに「あるがまま、神に造られたままの完全な姿」を見ることによって彼らを知るようにと教えている。彼らを知ることはそのまま神を知ることでもあるからだ。その手段が「赦し」なのである。このアプローチは論理的かつ画期的だと思う。神を直接知ろうとしてひたすら祈りを捧げたり瞑想にふけったりするよりよほど現実的で役に立つ。

まあ、そんなわけで私たちは神に造られたことにより神の無限の力も与えられている。というより私たち自身が神の無限の力でありその一部なのだが、私たちはそれを忘れ或いは否定している。そして自分を弱きものだと思い込んでいるのである。精神を病んで「万能感」を抱くような人もいるかもしれないが、これは「自分だけにその力がある」と思い込んでいるという点において完全に虚構なのである。

弱い犬は吠える、ではないが弱いものは恐れそれゆえに攻撃する。ここにまた虚構がある。本当は怖れ攻撃すべきものなど何もないからだ。私たちは一つのものだからである。なのに恐れ攻撃しようとするならば、その対象をでっちあげなくてはならない。これが以前にも述べられた投影であり、幻想なのだ。そんなものは実在しない。しかし、この世界はそれらが存在するのだという前提の下に成り立っている。というよりこの世界そのものが虚構であり実在しないのだが、それを本当の現実だと思い込み続けなければエゴが困るのでエゴたる私たちはそれらの存在を正当化しようとする。虚構を正当化する、間違いを正当化するというのはどう考えても尋常なことではない。

あなたは正気でいたいのか、それとも狂気の沙汰にとどまりたいのか?正気でいたいなら、マインドにおかしなものを取り込んではいけないのだ。それを許してはいけないのだ。正気でいたいと望んでいるつもりで真実以外のものを野放しにしておくならば、それはあなたが正気でいたいと本当には望んでいないことになってしまうのだ。

その気になればおかしなものなどいくらでも作り上げることができる。マインドには作り出す能力が無限にあるからだ。しかしこれでは私たちのマインドはスピリットとエゴとに分裂したままであり、愛や真理を広めていくような創造はできない。創造できない状態で喜びはありえない。あなたは本当に平和や喜びを望んでいるのか、本当にそれらを望ましいものだと思っているのか。

幻想のこの世においても私たちの役割は神と同じように創造することなのだ。言い換えれば神の御心・御旨に沿って生きることなのだが、これをまっとうしていない限り私たちは幸せになれず喜びもない。私たちの意志は本来神の御旨と全く同じものなのだ。ただ一つのことだけを望み意志しているならばそこには何一つ対立も葛藤もない。聖霊の教えとはこれなのだ。これによって癒しが可能になる。

私たちは神と離れてバラバラの存在になることを意志してしまったようでもあるのだが、それは私たちの「間違った、ありえない」選択に過ぎず神の御心でも御旨でもないのである。ということはつまりそれは私たち「本来の」意志でもないのだ。

神の子であるということは神と同じ完全な姿として造られたということであり、その点において私たちは一つであり、しかも神と一体なのである。

「コース」において真理と愛とは同義である。先ほど、真理は全的なものだと言ったが愛もまた同様であり、ちょっとだけ愛だとか愛の一部を否定するなどという場合そこには「全く愛がない」のと同じことになる。

怖ろしいことだが、もし私たちが誰かたったひとりの他人を祝福しないならそれは全ての人を祝福しないのと同じことになってしまうのだ。愛に例外はない、ということを思い出して欲しい。あらゆる人を愛していてもたった一人例外があるならば、全ての人を愛していないのと同じことになってしまうのである。そりゃああんまりでしょう、と思うだろうが論理的には全くこの通りなので仕方がない。

本当の現実もまた、一部を否定したなら全てを否定したのと同じことになる。このあたりは全てつながっているのだ。

しかし、これも以前述べられているように「否定」は使いようによっては即ち聖霊によるならば防御手段にもなるものである。どこか一つの場面で「間違い」を完全に否定できれば、その瞬間においては全てが真実になるのだ。「赦し」の素晴らしさ、強力さはここにある。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 51

第7章 その8

赦しとは祝福することでもある。祝福とは、愛などと同じで全方位的なので、特定の対象に向けられるものではない。というか特定の対象に向けられたように見えても実は全てに対して、即ち自分自身に対しても与えられるようなものなのである。

私たちには既に全てが与えられており、私たちは既に全てを持っている。在ることがそのまま持っていることでもあるのだ。これは「コース」の基本的な教えとして何度でも繰り返される。

しかし、私たちはそのことを忘れている。思い出すためにはどうしたらよいのか、その答えが赦しであり癒しなのだ。誰かに祝福を与えることができたのなら、それは私たちの中に祝福があったことを意味する。ないものを与えることはできないからだ。従って、祝福を与えれば既に自分の中にそれがあったのだと気づくことができる。私たちには既に全てが与えられているのだから、本当は今更何も求めることはできないはずなのだ。何という宝の持ち腐れかとウンザリしてしまう。「コース」の教えである「与えて欲しければまず与えなさい」というのは「ないものを求めて与えられる」のではなく、既に与えられているのだと理解するという意味なのである。

怖ろしいことに、これは逆方向にも使えてしまう。すなわち、いやなものや望ましくないものを相手の中に見るとき、私たちはそれを「学び教えて」いるのでもあり同時に自分自身に与えてしまっているのでもある。こちら側においてもやはり「ないものは与えられない」という原理、それに加えて「自分の中にないものは見えない・認識できない」という投影の原理が働いているからだ。

誰かがエゴ丸出しの言動をしていたとする。その時こそ私たちにとってチャンスなのである。「あの人何やってるの、頭にくる」「何てお気の毒に、可哀想だわ」「ひどいことをしている」などと見てしまったら、それは私たち及び相手のエゴをも強化してしまうことになるのだ。それは相手の「ありのまま」の姿ではなく、私たちの投影によるイメージに過ぎないのである。

「コース」はもっと過激な言い方をしている。私たちが相手に見るものは、そのまま私たち自身の姿であり私たちが「なりたい自分」なのだ、という。ここをよくよく肝に銘じておけば、赦しも祝福もやりやすくなる。誰だって「いやな、憎むべき、醜い」自分になどなりたいわけがないからだ。

もっとも今の私たちにとって瞬間的に投影=認識という反応をしてしまうのはもう仕方ないことである。問題はその後だ。自分がそのような反応をしたことはすぐにわかるはずだから、わかった瞬間に赦し祝福してしまえばよいのである。いろいろなやり方があるだろうが、心の中でにっこり笑って「どうもありがとう」「I love you」とか「アーメン」などと唱えるのでも構わないと思う。

これは大変画期的なことなのだ。相手を赦しているようでいて、実は自分を解放し浄化しているのであり、おまけに相手をも解放していることになるからである。更に画期的なのは、私たちの身近にとてもイヤな人や苦手な人がいればそれがそのまま自分のマインドを祝福し浄化するチャンスになるという点である。これによって、そのようなチャンスを与えてくれた相手にも感謝できる。もう良いことづくめなのである。

なるほど、他人であれ社会であれ世界であれ、「他者」であるようなものは全て私たちの鏡なのである。これについては以前「スピリチュアルコラム」で私も散々書いてきたのだが、そこではさすがに書けなかったことがある。それは、他者という鏡に映った自分の姿はあくまで鏡像であり虚像であり実像ではない、ということである。他者は鏡である、ということさえ伝われば十分だろうと思っていたのだ。たとえば、世界は悲惨だと思うなら貴方自身が悲惨なのだ。誰かの「心が狭い」と思うのならそれは貴方自身の心が狭いのだ。とはいうものの、それらは全て鏡に映ったもの、認識されたものに過ぎない。それらは、相手の本当の姿ではないというだけでなく、貴方の本当の姿でもないのである。

鏡をなくせ、というのは「コース」風に言うと「認識しないで直接知れ」ということであり、そんなことはすぐにできるものでもない。だったらせめて正しい認識をしようではないか。これが赦しであり祝福なのである。

鏡をなくすのではなく、鏡を取り替えるのでもなく、ただ鏡を見ている自分の目の曇りを取りなさいということなのだ。眼鏡を拭きなさい、というのでも良い。明鏡止水である。

「コース」の教えの素晴らしい点は、いったい自分のどこが投影されているのかいちいち調べたりしなくて良いということである。どんなものだろうと間違いは間違いとして十把一からげにして良いのである。何も考えずにただ祝福を与えればよいのなら誰にでもすぐに実行できる。

更に、驚くべき素晴らしいことがある。私たちが任意の誰か、目の前の誰かについて祝福を与えるのなら、その瞬間私たちは自らも含めて全てのものに祝福を与えたことになるのだ。1分後、3分後にまたエゴが侵入してくるかもしれないが、とにかくその瞬間だけは完全な状態になっている。これはそういう時の自分のマインドを見てみればすぐにわかることである。祝福も愛と同様に全的なものだからだ。あの人だけは抜かして、などということがありえないものなのだ。

あの人には愛がないと思うとき、私たちの中にも愛が欠けている。正確に言えば「本当はあるのにそれに気づかず、ないと思っている」のだが、まあたいていの人は「私には愛があるのにあの人にはない」と思っている「つもり」なのだろうなあ。そういう事態は文字通りありえないので注意して下さい。「自分を愛せない人は他人も愛せない」とは陳腐な文句かもしれないが正鵠を得ている。要するにこういうことなのである。

エゴは、愛なき欠乏感の産物でもあるので、エゴに支配された私たちの自己イメージは「愛されず、何かが欠けていて、傷つきやすく価値がない」というものにならざるを得ない。これもおそろしいことなのだが、このような自己イメージはどんなに悲惨で望ましくないもののように思えても結局は自分が好きこのんで選んでいるのである。私たちにそれらを押し付けるようなものは、自分以外には何もないからである。一種の願望だとさえ言える。ちょうど神との分離が出来心とはいえ願望だったのと同じように、だ。

この自己イメージが投影されて認識に至るのだ。私たちは常に他者によって「愛されず、何かを奪われ、傷つけられ、大切に扱われない」のだと感じるのである。

しかし、本当は他者によってどうこうされる前に自分でそういう状態に陥っているのであり、それが他者という鏡に映って或いは他者を通して経験されるだけなのだ。本当の本当は、それらは全て私たちが勝手にでっちあげた自分の姿・自己イメージであり、つまるところ幻想に過ぎないのである。

赦しや祝福を与えれば幻想は消える。上述したようにどれか一つだけ消えるのではなくその瞬間だけは全ての幻想が消えるのである。ウッソー!と思うかもしれないが本当なんです。なぜなら、あらゆる幻想はつながっているからである。もともと「神から離れてバラバラになった」というただ一つの幻想が次の幻想を生み出して果てしなく広がったようなものだからだ。

私たちは、不動産であれ人物であれ価値があると思うものに投資をする。幻想もこれと同じことなのだ。価値があると「判断」するからこそ、それにエネルギーをつぎ込み現実のごとくにしてしまう。しかし一転、価値がないとわかったら何であれ投資したものを引き上げるのが常識だ。幻想は、「なあんだ、こんなもの何の価値もないじゃないか」と、私たちがそこに投資したエネルギーを引き上げてしまえばいっぺんに消えてしまうのだ。

逆に言えば、消えてしまうようなものにエネルギーを投資している間は、私たちは生きていないも同然なのである。神の創造によって私たちに与えられたいのちとは、滅びゆく身体の生命などというものではない。それこそ「永遠の命」なのだ。

全てのエネルギーを「神の国」に注ぎなさい。与えることによって「神の国」をどんどん拡大しなさい。それだけをしていれば私たちは混乱しなくなる。何もかもが与えられ、何もかもが既に与えられていることを知る。私たちは神の賜物であり、神の賜物を与えられている。それをどんどん与えなさい。「コース」はひたすらこのことを繰り返す。神の賜物、贈り物っていったい何よ?と思うかもしれないが、要するに平和で幸せで祝福された気持ちで感謝しつつ過ごせばよいのである。そういう気持ちで人に接し、いやなことがあってもすぐ祝福してしまえばよいのである。

「神の祝福がありますように」とは「コース」に言わせると不要であるらしい。神の祝福なんてとっくに、しかも永遠に与えられているものだからである。攻撃したりされたり、脅えたり不安になったり怒りに襲われたりするとき、或いは他人にそれらを見るとき、私たちは祝福されているという事実を忘れている。これを思い出すために私たちは新たに祝福を与える必要があるのだ。

 
第184回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 48・49

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 48

第7章 その5

神に造られたままのマインドなら本来は神と同様に不変かつ普遍なのだが、神から離れたと思い込んだ私たちのマインドは日々刻々変化するものになってしまっている。が、この「でっちあげられた性質」によって今度は「コロコロ変化する間違ったマインド」を「普遍かつ不変のマインド」に変化させることもできるわけなのだ。

目の前の相手が病んでいるならば、それは彼が自分のマインドを歪めてしまったからであり、より正確に言うならば「歪めたと思い込んで」しまったからなのだ。だったら「あなたはそんなことしてないんですよ、だってできるわけないんだから」と教えることが癒しになる。別に言葉で伝えるわけではない。多分言っても通じないだろう。そうではなくてただ「相手の中に聖霊を見る」だけなのだ。彼に対する私たちの知覚・認識を変化させることが、彼のエゴの部分を解体し無効にする助けになるのである。通常、私たちに見えている彼の姿は単なるイメージであり虚像であって、それを私たちは崇拝したり怖れたり攻撃したりはするが愛することはない。しかし、例えば通常の恋愛感情とは殆どこれである。

話は全然違うが、「ホオポノポノ」というハワイの伝統的な癒し技法がある。例えば、誰かの病気を治したいならその人に向けて癒しを行うのではなくて、その人を病気だと思っている自分のマインドを浄化しろというような教えなのだが、ここで「コース」が述べているのはまさにそういうことなのである。

ところで、理解と感謝と愛は不可分である。愛なきところに理解はないと考えていただきたい。となれば、エゴにとって本当の理解というものは不可能なのだ。エゴは非常に巧妙なので一見それなりに論理的でもあり、エゴの産物には一貫性があるように見えなくもないものがある。しかし、よく見ればあちこちに対立や矛盾を内包しているのがエゴのエゴたるゆえんなのだから、どうしたってそこに生まれる「理解」など無理やりつじつま合わせをしたような底の浅いものにしかならない、言ってみれば牽強付会みたいなものでしかないのである。まあ、「コース」もエゴの論理はキ●ガ●の論理だと言っているくらいなのだ。

「コース」の言う理解と愛と感謝は、私たちが本来の姿を思い出せばイヤでも生まれてくるものなのだ。そのためにキリストが私たちの伴走をしてくれているのである。ああ、ここにまた驚愕の記述が・・・。ご存知のように聖餐式(ミサ)でパンとぶどう酒を頂くのは、あの「最後の晩餐」の席でキリストが自らの身体を分かち合うとか言って、その血と肉の象徴として弟子に分け与えたのが始まりであったはずである。が、なんとここでキリストは「聖餐式で身体を分かち合う気など全くありません、身体は分かち合うべきようなものじゃありません。幻想を分かち合ってどうするわけ?」と明言してしまっている。論理的帰結としては当然過ぎるくらいだと納得できることではあるが、キリストおん自らにここまでハッキリ言われるとやっぱり脱力する。

当然、分かち合われるべきはマインドなのである。というかマインドしか分かち合えないのである。それも「自分のマインド」「貴方の、彼のマインド」などというものではない。それだったら分離した個々のマインド=エゴである。エゴなんか分かち合われたら、たまったものではない。分かち合われるべきは「神の御心」である。というよりそれは既に分かち合われているのだ。そうして私たちが造られたのだから、神の御心は私たちのものでもあるのだ。それどころか、常に分かち合い続けられているのだ。「神の御心に従う」とはスピリットに従うことであり、うんと分かりやすく言えばインスピレーションに従うことである。

私たち自らが神の御心であるということが分かれば、私たちが見るもの全てに神の御心が、いやもっとハッキリ言えば神が在るということもわかる。神がそれらを創造したからではない。私たちの知覚機能が正されて、あらゆるところ・あらゆるもののなかに真実を投影ならぬ及ぼすことができるようになるからである。言い方を換えれば、認識の仕方が変わることによって見るもの全てが浄化されるからである。

この世が幻想である、現し世が浮世であり憂き世でもある、と半端に分かった気になると(要するに分かってないのだが)何もかもが虚しくなる人もいるようだ。しかし、実際には「これこそが現実だ!」と思い込んでいたときよりもずっと楽しくなるのである。

私たちの中にある、或いは私たちが包まれている光で兄弟姉妹を照らすのだ、そうすれば彼らの光によって私たちは照り返される。更には全てのものが照り返される。これが神への捧げものであり、癒しであり、真の聖餐式である。生贄だとか悪い気を受けるだとか、全くお門違いではないか!

聖霊の導きによって私たちは全ての兄弟姉妹を「ひとつのもの」としてそれらに感謝を捧げるのだが、これは神による創造の法則の一部である。あの人にはこれを、この人にはあれを、などということがありえない。みんな一緒に同じだけ、しかも最大限に与えるのが創造だからだ。この創造の法則があらゆる考えについて適用されているのである。神によらないエゴ的なあれこれは本来創造には無縁のものなのだが、それさえ「創造力の誤用」によって伝播され拡大してしまうのはそのせいである。

私たちは「神の子ら」をただひとつのものとしてのみ愛することができるのだが、それは何度も繰り返してきたように本当の愛は特定の対象に向けられるものではなく一つの万遍ない状態であるがゆえ、必然的にそうならざるを得ないのである。とはいうものの、実際の私たちは周囲の人々を「ひとつのもの」ではなく「バラバラの個人」として見ているわけだ。ひとつのものといっても、もちろん全員が同じ姿かたちに見えるなどということはありえないのだが、まあこのあたりはいつか実感として分かるときが来るのだと思っていただきたい。

とにかく、バラバラの個人として認識するならば恐怖や攻撃が絶えることはない。逆にいえば、これらが少しでも残っているうちは「ひとつのもの」になっていないということになるのだ。

聖霊かエゴか、愛か恐怖か、創造かでっちあげか、いつもどちらかを私たちは選んでおり、選んだものが私たちの知覚認識を全面的に左右する。私たちが経験する世界はこうして作られているのだ。世界を変えたいならまず自分を変えろ、「引き寄せ」などが言っているのも要するにこういうことである。

自分に対する考え方や見方が変われば世界は変わる。これも繰り返し述べているが、「世界」などという客観的なものが貴方の外側にあるのではない、世界とはそういう実体を持つものではないのである。だいたい、世界って簡単に言うけど一体何のことだと思って言っているのか一度ちゃんと考えてみて欲しい。上に述べたような「世界認識」が信じられないのなら「コース」どころか「引き寄せ」もできなくなってしまうのだ。「コース」によれば世界とは私たちの学びにとって最も強力な仕掛けなのである。世界とは、私たちが学ぶに従ってそれを反映する形で変化していくものだからだ。

同じく、今更言うのも何だが貴方は「神」をどのようなものだと思っているのか?神など存在しないと言ったってダメである。存在しないものについては考えることも言及することもできないからであり、「神は存在しない」と言えるからには貴方の中に「神とはこれこれこういうもので、そんなものは存在しない」という考えがあるはずなのである。もしそういう方がいらしたら、なぜそんなものは存在しないと思うのか、心情を一切交えず論理のみによって説明してみて下さい。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」49

第7章 その6

私たちは本来あり得ないようなことを現実だと思い込んで生きてきたのだが、言い換えればマインドにそのように教え込んできたのでもある。私たちにはそういう「能力」があるのだ。ならば、その同じ能力を用いてマインドに正しいことを教え、指示するのもまた可能なのである。「コース」を学ぶとはそういうことなのだ。

たとえば、攻撃を現実のものだと信じていれば愛など不可能だ。エゴはまさにこれなのだが、自分が愛を破壊できるとさえ信じているという点において愛というものが全くわかっていない。というより愛がないのだ。ゆえに自らのことも愛されぬ存在だと思っているわけである。私たちがエゴに支配されてしまっていれば、愛を求めているつもりで全然違うものを求めるような笑えない事態が生じるのである。

しかし、エゴにも決定的な泣き所はあるのだ。エゴの目的はどこまで行っても「分離状態を保全する」ことであり、そのためにはもう本当に信じられないくらいの巧妙さとパワーを発揮するのだが、これらの力はそもそもエゴが最も恐れ最も否定したいところの「神に創造されたマインド」から来ているのだ。自己保全のために自分の敵の力を必要としているわけである。敵を滅ぼしてしまったら自分も死ぬ。生かしておけば今度は自分がやられるかもしれない。もっともマインドが滅びるわけがないのだがエゴはそんなことを知らないのである。だからエゴは私たちを騙して、私たちが本来持っている力をこっそり借用しているのだ。

とはいうものの、自分が必要としているものを攻撃したりもするわけだから当然そこには大変な不安感が伴わざるを得ない。マインドの力が非常に強大ならばどんなにそこから力を借用しても余裕がある一方で、自分がマインドから滅ぼされるリスクもまた高くなる。マインドの力がそれほどでもなければ滅ぼされるリスクは低いが、自分の生命線も危ういものとなる。どちらにしても脅威は消えない。これは耐えられるものではない。できればそんな脅威は感じていたくない。そこでエゴは自分の存亡に関わる脅威を私たちに投影する、というか転移する、或いは押し付けるのである。そして「本来の私たち」は無きものとして扱う。

こうなると、今度は私たちが常に得体の知れない不安を抱えることになる。そして何とエゴに助けを求めたりしてしまったりもするのだ。

私たちは本来自分が何ものかちゃんと知っているはずなのだ。知っていれば不安も何もないわけなのだが、エゴによって目が曇らされているので「知っているということを忘れた」状態になってしまっている。おまけに、エゴと自分とを同一視してしまうと「自分に神から与えられた力があることも知らず、愛も知らず、ただ救いを求めて右往左往」という状態になる。

私たちが「神と離れてしまった」と思い込んだことによる恐怖からエゴは生まれた。ゆえにエゴは恐怖によって生き永らえ、更なる恐怖を生み出す。私たちは本来「愛」でできているのだが、エゴは愛も愛の力も否定している。私たちが自らをエゴと同一視すると「愛を知らない」状態になるのはこのためだ。

私たちは元々「全て」であり、私たちには「全て」が与えられているのである。だったらどうしてわざわざエゴなんかを必要とするのだろうか?これこそ単なる「勘違い」であり、なあんだとわかってしまえばエゴなど拒絶して済む話である。赦しであれ癒しであれ、誰か他の人の中に「あるがままの完全さ」を見ることができれば、それと同時に自分の中にも同じものを見たことになるのだ。それがそのままエゴに対する拒絶にもなっている。

いろいろなやり方があると思う。「コース」を学んでエゴの仕組みが分かってしまい「何だ、そういうことなのか」と理解して自然にものの見方も変わってくる人もいるが、そういうケースは案外少ないのではないか。なるほどねえと思いつつもそれだけで終わってしまう、そちらのほうが多いと思う。だからこそまず聖霊の助けを借りて他人を、兄弟姉妹を赦しましょう、彼らが貴方の目にどう映ったとしてもその向こうに「神に作られたとおりの本来の姿」を見るようにしましょうというワークが有効なのだ。このようなことを日々繰り返していればマインドにエゴが侵入する余地が自然に少なくなってくるのである。

「まず、自分の中のエゴを消そう。そうすればものの見方も変わってくるに違いない」などと思って悪戦苦闘するのは、それこそ「水に入る前に泳ぎを習おうとするようなもの」なのだ。まずは水に入ってみましょう。

エゴは、私たちのマインドというか「マインドである私たち」に寄生しているようなものなのだが、一方で「マインドである本来の私たち」とは徹頭徹尾相容れないものでもある。そこでエゴは「分離状態を保全する」目的のために、マインドの「作り出す力」を利用して「本来はありえないもの」を次々と作り出す。作り出したものは外界に投影されて、さも本当らしく映るようになる。まるでそれが実在するかのごとくになる。これが「幻想」であり、私たちが日ごろ「現実」だと信じているあれこれの正体なのである。

聖霊はこれらの幻想をなくしてくれるのだが、何も戦って撲滅するわけではない。「ないもの」を相手になどできるわけがないではないか。誰かが目の前で悪夢にうなされていても、その悪夢を叩きのめしてやろうなどとは誰も考えない。ただ優しく目覚めさせてやるだけである。聖霊は幻想を「あるがまま」に見るのだが、それは単に「意味の無いもの、本当は存在しないもの」だと見るということである。幽霊の正体見たり枯れ尾花、なのである。

幻想は真の理解に値するものではない。幽霊を理解する、とはせいぜいそれが枯れ尾花だったとわかることでしかないし、悪夢を理解するとはその内容を云々することではなく単に「夢だった」とわかることでしかないのだ。真の理解に値するものは本当の現実だけであり、真の理解だけが感謝や愛と不可分なのである。

実在するのは神と神の国のみであり、神の国とは私たちそのものである。「コース」は、この国を守るために十分な警戒を怠るなと繰り返し教えているわけだが、私たちはそれを困難なことだと感じてしまう。何故ならば、実在するのはそれらのみだということが分かっていないからである。本当は存在もしないようなあれこれを強固な現実だと思い込んでいるからである。だからこそ葛藤などというものが生じるのである。葛藤がなければ、対立するものがなければ警戒などハナから必要ないではないか。今はとりあえず平和だけど、いつ何時敵が攻めてくるか分からないから警戒を怠りなくしましょう、なんていうどこかの国のような状態は本当の平和とは言えないのである。

さて、神がご存じないような訳のわからんものを「現実だ」と信じているとは、極端に言えば「神を攻撃している」のと同じことなのだ。神などないと言ったり神の悪口を言ったりしなくても、それどころか一見立派な信仰を持っていても、神とは無関係であるようなあれこれを信じていればそれが神への攻撃になってしまうとは何とも衝撃的である。

このあたりは結構ややこしいので注意してお読みいただきたい。なるべくわかりやすいようにまとめてみよう。

まず、私たちはその自覚がなくても神あるいは真理を攻撃している、してきたと思い込んでいる。そんな覚えなどないと思うかもしれないが、神や真理でないものを平気で実在だと信じているなら論理的帰結としてそういうことになってしまうのである。

しかし実際には、そんなことはもとより不可能なのである。なぜなら神や真理は攻撃されうるものではないし、そもそも攻撃自体が「神や真理ではないもの」即ち幻想だからである。

おまけに、だいいちマインドは「攻撃という考え」を抱くことはできても実際に攻撃という行為はできない。なのに私たちは「心を傷つけられた」「相手を傷つけた」などと思い、実際そのような経験をしている、と思っているわけである。しかし攻撃した・された、と思うのならそれは私たちが自らをマインドでなく身体だと見なしている証左なのである。

確かに、身体ならマインドに指示されれば攻撃という行為も可能である。しかし、攻撃も身体も「実在しない」ものに過ぎない。

何でしょう、これって。もう何が何に何しているのやら、メチャクチャな状態ではないか。xsここでは専ら「攻撃」について言及されているが、攻撃と恐怖と罪悪感がセットになっていることを思い出して欲しい。

とにかく、エゴの論理とはこういうものなのである。

 
第183回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 46・47

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 46

第7章 その4

神の国=スピリットに在るためには、いつも全神経をそこに集中させていればよいのである。その他のことに関わるならば私たちは「真実ではないもの」を受け容れていることになる。いくらそれらが私たちにとって「真実らしく」見えたとしても、そのものとそれっぽいものは同じではないのだ。

神の国たるスピリットにおいては「持っていること」と「在ること」が同じであり、これこそが私たちの現実なのである。この点において私たちは全て平等であり一つなのだ。他の人を見るとき、「自分とは違うバラバラの存在である他人」と見るか、自分と一つであるような兄弟姉妹と見るか。どちらが「現実」であるか、言うまでもない。

しかし、この世にどっぷり浸かった私たちには「コース」の語る現実が「非現実的」に思えたりもするのである。夢みたいなことばっかり言ってないで現実を見ろ!というときの「現実」とはたいてい厳しく苦しいものである。だから皆そこから逃げようとしてまた別の仮想現実をでっち上げるのだ。一方で「コース」が語る現実は厳しくも苦しくもないので、却って「非現実」に思えてしまうのは皮肉である。私たちこそ「コース」から「夢みたいなことばっかり言ってないでそろそろ現実を見たらどうなんだ!」といわれているわけである。

私たちのマインドには神の光が灯されている、というより私たち自身が神の光なのである。なぜなら、ああこれも何度も繰り返しになってしまうのだが何度繰り返しても足りないかもねと思いつつ、神は自らの光を分かち与えてスピリットを創造したのであり、私たちはマインド=スピリットであるからだ。「疑問の余地がないことだ」と「コース」も言っている。答えがわかった瞬間、疑問を抱いたこと自体を忘れてしまうようなものなのである。

ついでに言えば、「コース」の語り口が結構いや相当くどいのは、それが「当たり前のこと」ばかりを述べているからでもある。もちろんキリストからみた「当たり前」なのだが、こういうことについては一言でバシッと済ませるか、でなかったら同じようなことをいろいろな角度からクドクドと述べるかのどちらかしかないと相場が決まっているのである。

ともかく、自分が何かを完全に知り全き確かさの中にある者は当然のことながら平安で静謐だ。既に問うべきものなど何もない。マインドの中に「?」が入ってこないのである。真理は、いわゆる知覚的に「これ」と認識されるようなものではなく説明されるようなものではなく、ただ「わかる」か「わからない」かのどちらかなのだ。

癒しは神から直接為されるものではなく聖霊を通して為されるものだが、神と聖霊とは元々「一体」であることを考えれば、癒しも元々は神によるものだと言えなくもない。神の声即ち聖霊による霊感と神の法則すなわち絶対的な確実さから癒しは生じ、それが結果として神を知らず神に気づけないマインドにもたらされるのだ。

聖霊は、私たちを通して働き、私たちの中に聖霊がいるのだと教えてくれるわけだが、例の三位一体を思い出していただきたい。父と子と聖霊、の「子」はキリストに限定されず私たち全てのことである。この3つは「ただ一つのものの3つの位相」なのだから、私たちの中に聖霊がいて神の中に私たちがいて、全ての存在である神が全ての存在の中にいて、などという構造的な説明はあくまでも便宜上のものに過ぎない。単純に言えば「三位一体」を教えている或いは思い出させているのだと考えれば良い。

思い出すのも忘れるのも考えるのも、癒すのもまた私たちの能力である。それぞれを何とか開発して覚醒しよう!などと考える必要はない、というより無理である。私たちは「本当の現実に目覚める」という目的に向かって「コース」の教えどおりに学ぶ努力をしてさえいれば後は全部聖霊がやってくれるのだ。すなわち、私たちのさまざまな能力を一つの目的に向けて統一しつつ、それらが正しく用いられるように導いてくれるのだ。

癒せば癒される。そこには難易度も方向性も、つまり「違い」を表すものは何もないからである。癒しとはむしろ「違いがある」という思い込みを浄化して無効にすることなのだ。神の諸法則と調和して考えるようになれば当然「違い」などというものはないとわかる。違いがないのなら認識する必要もなくなり、直接知に至ることができるのである。

一方で、エゴは常に「分離した状態を保持する」のが目的なので私たちに「神の御心と反対のこともできるよ」と、全くの妄想を吹き込むのだ。「こんなこともできるよ」「こうすれば幸せになれるよ」などというエゴの意志を私たちに贈り物として与えてくれようとする。こんなもの欲しがってはいかん!贈り物でも何でもない、それどころか実は存在すらしていないんだから。実在しないものを求めるわけにはいかないのである。

神の国においてこそ神の法則すなわち真理の法則が働いているのだから「何よりもまず神の国を求めなさい」、それのみを求めなさい、なぜなら貴方は他の何ものも見出さないからである。他のものなど何もないのだ。

「何よりもまず神の国を求めなさい」、ああイエス様、こんな語り方をするから誰にも通じなかったんですよ、どこかにそんなものがあるのだと誤解されるんですよ〜と言いたくなってしまう。私たちは既に「神の国」であってそれ以外のものではないのに、今更どうして求めることなどできようか。だいいちどこに求めろというのか。眼鏡をかけているのを忘れて眼鏡を探そうとするようなものである。ただ、その眼鏡の曇りと汚れを拭い去ればよいのだ。従って、それ自体が私たちである神の国は全てであり、そこには既に全てがあり、私たちも全てであり、私たちには既に全てが与えられていることを思い出しなさいというほうがむしろわかりやすいかもしれない。

閑話休題、全てのものが神であり神が全てのものの中に在るという事実を認識するのが「癒し」なので、当然私たちが他人を見るときにもそのようにしか見られなくなる。そうすればこれまた当然「他人」ならぬ兄弟姉妹から危険を感じることもあり得なくなる。両者の中にエゴを見ず、互いの中の聖霊を認め合うことによって聖霊の力も強化される。この認識によって恐怖は消えるので愛がもたらされる、とあるがどちらが先でも同じことである。とにかく、私たちは『偽りの自分』を忘れて本当の自分を思い出すというわけなのだ。

以前に何度も出てきたことだが、奇跡も癒しもあがないも全てマインドにおいて為されるものであって、その結果として身体に変化が生じるとしてもそれは身体に直接働きかけられたのではないのだ。もしそうだとしたらそれは魔術になってしまう。

意志の疎通ができるのはマインドだけなのである。身体を使ってあれこれやっている場合でさえ、実際にコミュニケートしているのはマインドどうしなのだ。「コース」によれば、身体それ自体は何でもないものであって、マインドの指令どおりに動いているに過ぎない。じゃあ、身体の声を聴くっていうのはどうなの?と思う人もいるかもしれないが、まず私たちのマインドは分裂していろいろな層に分かれてしまったことを思い出していただきたい。その上で、身体が聖霊の合図みたいなものを伝えることもあるのだ、と考えれば十分だと思う。

元来マインドはその本性として創造やコミュニケーションをするものだし、したがるものである。エゴはスピリットたるマインドを知らないのだが、マインドに生じる創造やコミュニケーションの衝動はかすかに覚えているので、同じようなことを身体にやらせようとしているのである。身体さえあれば作ったりコミュニケートしたりできると思っているのだ。マインドなんか関係ないよとエゴは考える。私たちが「心と行動が裏腹」になれるのを思い出していただければよくわかることである。もっとも、「心と違うことをする」のはエゴの専売特許というわけでもなく、いわゆる偉大な師が愛情と理解ゆえにわざと弟子を冷たく拒絶することもないではない。後年になって弟子が師の真意を知って感謝するか、全然わからずに一生を終えるか、賭けみたいなものである。しかし、これはそれほどのレベルに至った者以外にはできないことなので今の私たちはあまり考えなくて良さそうだ。

ここでは、本来何ものでもないはずの身体がまるでマインドのように振舞っているのはエゴの仕業によるものであり、今の私たちの姿でもあるということだけを了解していれば良い。

この身体とそれに象徴される「属性」あれこれを本当の自分だと思い込むことも、この一例だし、おそらく身体がその自律性によって呼吸したり消化したり体温を保ったり細胞の再生を繰り返したりするのも全てマインドがそう教えているからであり、マインドの真似をしているのだと考えても良さそうである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 47

第7章 その5

行為はマインドと裏腹の場合もあるので、単なる行為によっては何も教え学ぶことができない。平和を求めて戦争するような人々だっているわけだ。

たとえば、癒したい・病気を治したいと考えあれこれやっているつもりでも「病む」ことが可能或いは現実だという考えがある限り、すなわち「病む」という考えを信じているのに「癒そう」とすれば、同時に相反する二つのことを信じるなど本来できないのだから、そこに一貫性はなくなってしまう。これでは教えることも学ぶこともできない。簡単に言えば、本来の意味における癒しを経験できないということである。

私たちが誰かの身体を傷つけるとすれば、そのとき私たちは身体とマインドの区別がつかなくなっている。身体は本来その人ではないことを忘れているのだ。そのうえで自分の身体をエゴに従わせることによって相手を攻撃しているわけである。マインドは「攻撃という考え」を抱くことはできても、実際に攻撃という行為に及ぶことはできない。だから身体に命令して攻撃させるのである。まあ聖霊ならばこんなことはあり得ないので心配もないのだが、エゴのままで癒し行為を即ち「コース」の言い方を借りれば「魔術」をしている人も古来少なくないのである。別に魔術師やまじない師とは限らない。昨今「ヒーラー」と名乗っている人の中にもこの類が多くいるのだ。「癒されていない癒し手」と「コース」は呼んでいるが、彼らのヒーリングと聖霊の癒しとは似て非なるものというか、目的も作用も全く異なっている。その両者の比較がなされているので整理してみよう。

「癒されぬ癒し手」が癒し=実は魔術?を行う場合、力の源はそもそもマインドしかあり得ないのでこの部分は聖霊と変わらないのだが、癒し手自身が癒されていないため、つまりエゴが介在してしまっているため自分自身に恐怖や不安があることがまず特徴として挙げられる。当然、効果にはムラが出る。自分の力が神から与えられたとは思っていても、相手にはその力がなく自分にだけ特別に与えられたと考えているので「全ては一つ、みな平等」という理解も生まれなくなっている。「相手の中に完璧さを見る」のが聖霊の癒しであるのに対して、こちらは「自分に与えられているものが相手にはない」という点で「不完全さ」を見てしまっている。こういう観点から行うものは、どうしても恐怖を喚起してしまう可能性があるのだ。癒される側は期待満々かもしれないがその期待とてエゴ的なものだったりするわけだし、不可避的に疑いや不安や恐怖が拭い去れずどこかに残ってしまうことが多い。初めから「何かおかしなことをされるのではないか」と怖がることもある。とすると、一旦は癒しが「成功」したように見えてもまたすぐ戻ってしまったり、ひどい場合には却って落ち込んだり、更にひどい場合には癒し手に依存してしまったりするのである。癒し手が「ニセモノの神」と化す。エゴが作り出す神々は、信仰と恐怖と依存の対象なのである。

効果にムラが出れば、たいていそれは「例外」として処理される。いやあ、ニキビくらいなら治せるけどガンはねえ。しかし、ここでまたすごい記述が出てくる。例外を作るのは恐怖である、というのだ。はあ〜。私など、つい「外国語の文法に出てくる例外事項」を思い浮かべてしまって「あれが恐怖の産物か」と驚いたのだが、まあ論理的に考えればごく当然のことであって、まず愛には例外がないのである。愛は万遍ない状態だから例外はあり得ない。だったら愛のないところにしか例外はあり得ない。愛のないところとは恐怖に他ならない。よって恐怖が例外を作るのだ、となる。怖ろしいことだが、例外ありのヒーラーは「怖がりの癒し手」なのだそうだ。例外とは怖ろしいものだとも書いてある。確かに「私には効果がないかもしれない」「誰にでもできるって言われたけど、私は無理かも」なんてことはありますね。

この「癒されぬ癒し手」は相手から感謝を求める一方で自分が相手に感謝することはない。ここにも自分と相手との不平等性が露呈している。感謝の気持ちがない=愛がないならば、更にそもそも癒しをもたらす原動力になっている神からの力の伝達が愛と同義だということを考えるならば、感謝を欠いているという点において「癒されぬ癒し手」の力にはおのずから限界が生じてしまう。

もっとも、「自分がまず完璧に癒され、あがなわれないと他人を癒すことなどできない」と考えるのも誤りなのだ。なぜならば、聖霊による癒しならそれによって自分も他人も同時に癒され赦され、あがなわれるからである。要するに、癒されたいなら正しいやり方で、即ち聖霊の助けによって癒しなさいということなのである。癒し手がとんでもない解脱の境地に達している必要はなく、ただエゴに拠らず聖霊にのみ依拠しておこなえばよいということだ。

浄霊などをすると今度は「自分に霊が憑く」「相手の悪い気を受ける」などと言う人もいるが、もうこれはとんでもない誤りであって、これでは癒されぬ癒し手」だと自ら宣言しているようなものである。「悪い霊」「悪い気」などというものが本当に実在すると思い込みつつ癒しというより魔術行為を行っているわけだから、当然そのようなもの即ち「病」を教え学んでしまっていることになるのだ。聖霊による癒しなら、本来の完璧な状態を再現することによって「神と別であるようなものや悪い霊なんて元々ないんだよ、あると思い込んでいたのは勘違いだったんだよ」と教え学ぶのだから、これはもう大変な違いである。

かくのごとくに、「癒されない癒し手」は本来調和をもたらすはずの癒し或いは魔術行為によってますます分離・分裂状態を強化してしまっているわけである。

ついでに言えば、ここでいう「癒し手」とは何も職業的ヒーラーに限らない。「コース」も、癒しとは誰でも開発できる能力であり、誰もが開発しなくてはならない能力であると言っている。別にそれを仕事にしろと言っているわけではない。とにかく、聖霊がこの世で行える唯一のコミュニケーション形式が癒しなのだから、聖霊と関わっていこうとする以上、私たちにとって癒しとは日常生活の中で普通におこなうべきものというふうに捉えておいてほしい。何しろこの本は「奇跡の」コースなのだから、それくらい当然だと思われているに違いない。

一方で、聖霊による癒しは「私たちはただ一つのものでありみな同じ」という事実、自分の中にある聖霊を相手にも見るという認識に基づいてなされるので、癒し手にも更なる癒しがもたらされる。その瞬間、自分も相手も「不完全なものが何一つない本来の姿」に立ち戻るのである。癒し手が癒される側に感謝を抱くため、ますます感謝が増大しそれに伴って愛も増大し、つまるところ神と同質の「創造」がなされるのである。しかも、尽きることなく限りなく確かである神の力によって行う癒しなので、いつどこでどのようにおこなっても必ずそれは為される。たまたまできた、などということはあり得ない。聖霊には、というか神と一体である本来の状態に基づくならば対立や矛盾などは何一つあり得ないため恐怖もあり得ず、常に一貫性と一定性が保たれることになるのだ。ちょっと気を抜いたから失敗したとか、頑張ったからすごく効果が上がったなどということもない。もしもムラが出るのならそれは受け取る側の問題である。

神は普遍であり不変なので、そこを基盤とした癒しが常に信頼できるものになるのは当然なのだ。スイッチを押せば電気がつくのと同じくらいの確実さをもって癒しが起きる。神という「意味」、それは取りも直さず私たちのものでもあるのだが、これを正しく理解できていれば何もかもが一貫性を持つのである。そもそも理解する(understand)とは、何かに対してマインドが完全な一貫性を持ち得たときにこそ可能な事態なのだった。

私たちのマインドは分裂している(ことになっている)ので、そのスピリット以外の部分はもうコロコロ変化する。しかしスピリット=神に造られたままのものは神と同様に何があっても永久に不滅であり普遍かつ不変なのである。聖霊による癒しは、マインドの不変性を分からせ気づかせてくれるものなのだ。私たちは神から離れたと思い込んだことによって、自分たちのマインドも変化させてしまった、とこれまた思い込んでいる。「マインドを変化させるなんてできっこないじゃないか、そんなことあり得ないじゃないか」つまり「結局ずっと神に造られたままのものだったのだ」という事実を分からせるのが聖霊による癒しなのである。

   
第182回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 44・45

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 44

第7章 その2

神による創造力が分かち合われたことによって私たちは創造され、私たちはそれを分かち合うことによって新たに創造する。こうして創造は外に向かって無限に拡大していくのである。創造とはそういうものであって後ろ向きに働くことはないのだ。

とはいうものの、悩ましいことに私たちは「外に向かって」とか「拡大」などという言葉によってどうしても「内から外へ」「小から大へ」をイメージしてしまう。大きさも方向も程度も本来ないわけなのだから実態としてはどういうことなのか、実はイメージできないのだ。要するに、このあたりもまた「認識を超えた」事態の描写なのであり、「コース」も創造は時間の枠内のものではないとハッキリ書いている。

神は完全無欠であり不変かつ普遍であり、なおかつ創造し続けている。創造したものは常に自らと一つのものであり、自らの一部となる。創造し続けることによって完全無欠であり普遍かつ不変なのである。私たちの感覚だと「どんどん拡大している」なら「どんどん変化している」のであり、不変じゃなくなってしまうのではないか?と思いがちであるが、大きさや質が変わるわけではないのだ。

これは、神だけではなく私たちのスピリット=神の国についても事情は同じなのである。先の章で見た「神とその国を守るためにマインドを見張る」ことにより、私たちにも神と同じ創造力があるのだとハッキリわかり、それを受け容れれば本来の自分を思い出せるようにもなるのだ。

さて、創造するとは愛することに他ならない。その意味で愛もまた時間の枠内のものではなく、永遠のものである。一方を行えばもう一方も行なったことになるのである。「コース」における、というか普遍的な愛が対象を必要としない、ある一つの万遍ない状態だったことを思い出していただきたい。愛は固定したものではなく、やはり無限であり、更にしまいこんでおくことができないようなものなので、常に増え続け外に向かって拡大し続ける。

ところがエゴにおいてはまたまた事情が全て正反対なのである。なんたって時間の枠内にしかないものなんだから「永遠の愛」なんて言ってもあくまでも時間的なもの、つまり「死ぬまで愛し続けます、生まれ変わっても一緒になろうね」みたいなふうにしかならないのである。

エゴにとって「対等でない」と言えば上下関係や隷属関係なのである。基本的にエゴは優位か対等を望むものだ。ゆえに、競争し闘争する。良くてもせいぜい取引である。愛でさえも取引の道具や対象にされてしまっている。得たければ与えろ?おかしいんじゃないの、得たければ奪うんだ、じゃなかったら取引だと考えるのがエゴである。なるべく与えないようにする、だって損したくないから。

しかし、神は私たちに限りなく尽きることのないものを与えてくれたのであり、従って制限なく与えることこそ神の御旨・御心なのだ。

このあたりはエゴ的に考えるとすごく難しいことになる。大抵の人は抵抗を感じるだろうし、逆に「本当に信仰しているなら全財産をお布施しろ」などという恐喝まがいの言い草の正当化として使われてしまうこともある。

エゴ的に考えるからわからなくなるのである。神が私たちに分かち合ってくれたのはまず「限りなく尽きることのない愛」であり、身体や物質ではないのだ。つまり、私たちが自分をどういうものだと考えているかによって「与えるもの・与えようとするもの」が決まるのである。自分を「神に造られた無限の愛」だと信じていればそれを与えるのだし、身体だと信じていれば物質を与え或いは与えようとするのだし、また貴方が苦しみ悲しんでいればいくら愛を与えているつもりでも実際には苦しみや悲しみを与えてしまっているのである。

ここで言われているのは、「コース」の言葉を借りれば私たちが「神の国」すなわち私たちのスピリットに与える「贈り物」のことなのだが、これは聖霊の授業でも見た通り、私たちのマインドに「エゴの侵入を許さず愛と平和と喜びを与える」くらいの意味である。それによって、第三段階に続く「最終段階」がもたらされる準備が完了したことになるのだ。恐怖や不安などが全て「時間内」のもの、時間軸なしには存在しないものであるのに対して、愛や平和や喜びは時間を超越した永遠のものである。試してみればわかると思うのだが、恐怖や不安などを感じているときには必ずどこかに過去や未来が関わってくるものだ。

前に述べられた通り、「完全な確かさ」つまり「知っている」状態にあるとき私たちは神と同じように創造することが、つまり完璧な愛を分かち合うことができるのだ。聖霊が私たちを導き到らせるのはまさにここなのである。

さて、最終段階は神によってなされるわけだが、当然のことながらこれはあくまで私たちにとっての「最終」であって神には最後なんてものはないのだ。第一の創造主ではあるものの、時間的な意味での「最初」でもない。この最終段階とは、常に変わらずにそこにあるものであり、私たちの準備ができれば神によっていつでも自然になされるものであって、わざわざ神が出てきて何かする、というようなものではないのである。

この最終段階は、「知っている」状態をもたらすものなので言い換えれば「真理を見出す」ものでもあるのだが、「真理を見出す」などと言われると、真理なるものがまるでどこかに隠されているように感じる人もいるかもしれない。しかし、真理は決して隠されてなどいないのだ。それは常にここにあり光り輝いているのに、目が曇ってしまった私たちには見えないだけなのである。闇の中から光を見つけ出すのではない。新たな光によって闇をなくしてしまえば、真理はずっとここにあったのだとわかるのであって、真理自らが神秘のベールを脱いで姿を現すなどということは絶対にないのである。

さて、癒しとは、神のように考え神のように見る(といっても神は知覚認識をしないので正確に言えば聖霊のように見るのだが・・・)ことである。病んでいる兄弟姉妹はまさにそのことによって自分の病んだマインドを露呈してしまっているのだが、私たちが彼らを「病んでいる」「困っている」と見たり認識したりすれば両者の間で「病」という概念が強化されてしまうことになる。この状態で癒しを行うことは不可能であり、何かやったとしてもそれは「あがない」にも何にもつながらない「魔術」になるだけなのだ。このあたりも以前の繰り返しになるのだが、癒しとは「神に造られたままの完全に健康な姿だけを見る」つまりそのように知覚機能を修正することなのであり、限りなく創造行為に似ているものなのである。その意味で、癒しはこの世で唯一、神の思考に似たものでもある。

誰でも、ほんの短時間ならこういう事態を経験しているかもしれない。たとえば病気の人と話をしているうちに何だか盛り上がってしまって相手が病気であることなどまるで忘れ、相手もまた同様に自分が病気であることを忘れ、その間だけは完全に健康な人と同じようになっていた、などというのは特に珍しくもないものだ。ただ、これだけではいかにも不完全であり、その時間が過ぎるとお互いまた元に戻ってしまうのである。

私たちは自らが投影あるいは示し及ぼすものを知覚器官で受け取って認識するのだが、どちらも自分にとっては「ほんとうのこと」にしか思えない。エゴであろうとスピリットであろうと、これがマインドの基本法則なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 45

第7章 その3

何であれマインドの外(便宜上こういう言い方をするが、正確に言えばマインドの外というものはない)に自ら放ったものは、当人にとって「本当の現実」になる、これがマインドの基本法則である。しかし、それが適応されるのが神の国の内部か外部かによって内容も形も全然違ったものになってしまうのだ。神の国の内部とは、分かりやすくいえばエゴなきマインドであり、外部とは分離したマインド=エゴの部分のことである。

エゴなきマインド即ちスピリットにおいては、基本的に何もかもが知られていて絶対的な確かさがあり、認識も投影も必要とされない。既に何もかもが知られていれば学び教える必要もない。このようなところにおいては、自分のマインドにあるものが示し及ぼされ拡張されていく。要するに、私たちが平和ならそれが相手にも及ぶことによってより拡張されていく、言い換えれば「創造」されていくのである。これが基本形である。

ところが、この世においては「互いに対立する異なったものがある」という考えが前提として信じられているために、同じマインドの基本法則でもスピリット内と違う現れ方をするのである。

私たちは自分が信じているものを投影し、投影されたものを「本当だ」と信じるのだ。言い換えれば、信じているとおりに経験するのである。すなわち、私たちは自分の中にあるものをそのままでは認識しないでまず外部に投影し、それを知覚・認識することで自分が何を信じ思い込んでいるのかを見せられるのである。相手が攻撃してくるように見えればそれは自分の中にも同じものがあるということであり、貴方は攻撃を教えつつ学んでいることになる。相手を責めているとき、実は自分を責めているのである。例を挙げればきりがないので止めるが、「碧海ユリカのスピリチュアルコラム」の「誰が問題?誰の問題?」というシリーズにかなり詳しく書いてあるのでご興味のある方はそちらを参照されたい。

このように、神の国の内外では「ただ示し及ぼして拡張する」のと「投影によって教え学ぶ」という形の違いが生じている。しかし聖霊ならば、この世=神の国の外側においても神の法則という真実を伝えることができるのである。聖霊は優れた翻訳者であるので、元々の意味をより正確に伝えるため、いわば使用される言語に合わせて文型を変えることができるのだ。マインドの法則の現れ方は異なっていても、それをうまく用いることができるというわけである。どんな状況においても聖霊は神の諸法則を伝えることができる。それら個々の状況の違いなど問題にはならない。

神による創造の法則とは、神の国の法則と同じものであり「真理を示し広める」ことである。神はこの法則によって創造し、創造することによってそれを法則とした。同じ法則を用いて創造することが私たちにも可能なのである。

ところで、学ぶことと記憶することとは切っても切り離せないものだが、覚えることと忘れることの間にも重要な関係がある。必要ないもの・間違ったものはどんどん忘れていかないと、一貫性をもって必要なことを覚え学ぶことができなくなる。これはこの世においても聖霊の教えにおいても同じなのだが、ここでは私たちが「エゴの解釈」を捨てつつ忘れていくことの重要性が説かれている。

内部に対立や分裂を抱え混乱したマインドにはわかるべくもないのだが、神の王国にはただ一つの「意味」しかない。その「意味」とは神に由来するものであり、それどころか神そのものなのである。

ここで「意味」と言われているのは、私たちが通常「あの言葉の・出来事の意味」などという時の「意味内容」の謂ではない。また「意味がある=重要だ」という謂でもない。無謀覚悟で説明してみよう。

神の国であれこの世であれ、あらゆるさまざまな考え・概念がそこから生じたところの唯一つの源泉、そこには唯一つの意味、すなわち名づけられるどころか内容として認識され得る以前のただ一つの「意味」しかなかったはずなのだ。そこから全てが生じ、それぞれがおそらく神と離れたマインドによって分かたれ名づけられたのである。神の国には本来そのような「さまざまな考え」はないのだろうが、或いはあるにはあっても互いに対立するものではないわけなのだが、それら「愛」「平和」「完全」「喜び」「幸せ」などなどにしたって、私たちがそのように名づけたことによって分かたれ、それぞれそのような概念として認識されるに至ったのである。言語以前、認識以前、概念以前の原初のただ一つの意味、それは「コース」によれば神であり真理である。しかし、神という概念さえここから生じたという人もいる。くだくだしく書いてしまったが、考えてみればヨハネ伝の冒頭をお読みいただけば済むことであった。第20回をご参照ください。

さて、この唯一つの「意味」は何と私たち自身でもあるのだ。何故ならば、神がそれを分かち与えて造ったものが私たちだからである。つまり私たちの「意味」が神なのだ。ここで「コース」は、何気ない顔で「私=神」と言ってしまっているようなものだ。私たちもその「意味」を示し及ぼしていくわけだが、この「意味」つまり真理は、神の国内においてはイヤでもそのようになっていく。神と同質であるスピリットは止むことなく創造し続けているからであり、創造とは真理を示し及ぼすことに他ならないからである。ここにおいては何一つ阻むものがない。それゆえ完全な自由がある。

神自体の力が神の国に宿る力でもあるのだが、その力は全て私たちのものである。聖霊は、ただこれだけを私たちに教えようとしているのだ。この力は私たちが造ったものではなく与えられたものであり、キリストにおいても事情は同じである。私たちが、というよりエゴが考えるような力と違う点は、人によってその強弱がないということである。それぞれに全く同じだけ、それもある一定の量というのではなく常に最大限に与えられているのだ。その意味で私たちは全て平等であり、だからこその兄弟姉妹なのである。この点がやっぱりエゴのせいだろうか、悲しいことに私たちにはわかりづらいのである。ここさえわかればこの世に対立も競争もありえないというのに!

要するに、私たちは自らにそんな力があることを知らないのだ。キリストの力を借りれば「奇跡」という形でその力を用いることもできるのに、そしてキリストは常に私たちとともにいてくれるというのに。「あなたがたは真理であり道でありいのちである」。

私たちは、自らが大した力もない存在だと思い込んでしまっている。自分の「意味」つまり私たち自身が真理であり神でもあることをすっかり忘れている。そのように思い込まれた「自分」なるものは当然「本当の自分」でもなければ「本当の現実」でもなく、ただ非現実的な、仮想現実みたいなものなのである。まあ、一種の狂人でもある私たちは、かくのごとくに非現実的なものを本当の現実だと思い為して日々過ごしているわけである。

エゴが、貴方ではないものを「貴方だ」と教えているのだ。もちろん私たちはそうでないもの=神と一体である本来の自分を教え示したって良いわけだが、エゴはやっぱりこれを警戒して邪魔しようとする。エゴは常に戦闘態勢だ。どこまで行ってもエゴの敵は私たちの真の友であり、私たちの敵はエゴの友なのである。

競争とは、利害の対立などというものがあり得るという思い込みから生じるものだが、もちろんそれは「非現実」なのだから、自分のマインドに「比較」「競争」などという考えを持ち込まないよう、よくよく警戒しなくてはならない。

   
第181回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 42・43

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 42

第6章 その7

以前にも見たとおり、奇跡に難易度はない。ニキビを治すのもガンを治すのも同じなのである。これは「完璧な平等性」を示唆している。そう言われても私たちにはなかなか信じられるものではないのだが、しかしこれを本当に信じない限り奇跡などもたらせないのだ。頭であれこれ考えるよりも、まずできることからやってみよう。どんな人にも同じものを同じだけ与えなさい。もちろんその時々で見かけは異なるかもしれないが本質においては変わらない。すなわち「余すところのない感謝」である。あの人にはここまでね、などと範囲を設定しているうちは難易度という概念を捨てることもできないのだ。

さて、聖霊は身体を学習装置として使うわけだが具体的に言えばこれは「コミュニケーションの手段」になるのである。教える=実際にやって見せるにしても身体は有用だし、聖霊とて何らかの「身体」になって私たちの前に現れることもあるのだ。

ちょっと待って、だったら恐怖も伝達されちゃうってこと?と思うかもしれないが、「コース」におけるコミュニケーションという語の用法は通常のそれと異なり、創造的なものについてのみ使われる。恐怖やら攻撃やら、そういうものはむしろコミュニケーションを破壊し不可能にするものなのだ。

聖霊は「与えたものは失わず、むしろ強化される」という原理に則ったコミュニケーションのために身体を用いる。

実はこの第一段階が一番難しいのである。どうも、この3つのレッスンは易しいほうから難しいほうに向かっているのではなく、ただ基本的なことから順に並べてあるようなのだ。本来「持っている」と「在る」こととは同じなのだが、まだ私たちにはそれがわからない。与えたら得るどころか失うだろうと思うので、怖くて踏み出せない。これを今すぐ完璧に実践しろなどとは言われていないのでご安心を。「持っていたいなら、全てに全てを与えなさい」とは私たちの、というかエゴの常識とは正反対のものであるためむしろ葛藤を招くだろうが、それでも構わない。とにかくこの方向だけを保持して前に進みなさい、葛藤を何とかしようとしてずっとこの段階にとどまっていても仕方がないのだから、と「コース」は言っている。ここでは「得る」という概念を変容させるための方向付けだけできれば良い、ということらしい。

ちなみに、ここで「持っている」「与える」と言われているのはもともと物質的なことではないので留意していただきたい。形としてはたとえ物質を与えるのであっても問題はその本質なのであって、それらは全て神とひとつであるようなものばかりなのである。一億円持っていたいからといって、ただ一億円ばら撒いただけでは多分何にもならない。

要は、思考システムの問題なのである。エゴの思考システムはスピリット或いは聖霊の思考システムが理解できないので、どうしたって自分のシステムに当てはめて認識する。当然、葛藤や抵抗が生じてしまう。自分と違う思考システムからくるものに出会うと、まるで「攻撃」を受けているような気がしてしまうのである。

根幹である思考システムそのものをいきなり何とかしようとするのはなかなか難しいことなので、今度は別のアプローチが用意されている。

第二段階は「平和を得たいなら、平和を教え学びなさい」である。まあ第一段階と基本的には同じなのだが、より具体的になっている。

神から離れてバラバラ、の状態を現実だと信じている者は、罰を受けることや見放されることを怖れている。自分が「バラバラの個である」と信じていれば、それがその人の思考システムの土台になる。彼らにとって攻撃や拒絶もまた現実なのである。私たちの中にも絶えずこういう恐怖に駆られている人がいるだろうから、ここは是非よく読んで実践してほしい。

聖書だって読みようによってはイエスキリストが攻撃的な人物に見えるのである。で、キリストを怖れている人もいる。このように、私たちはみな自分の思考システムに合致した形で知覚・認識するようにできているのだ。しかし前述の通り、いきなりここに手をつけるのは難しいので、「コース」は「目標を定めて動機付けをする」という方法を採用している。

つまり、誰だって葛藤より平和がほしいのだからそれが動機付けになるだろうということらしい。そうよねえ、でもみんな平和がほしくて葛藤してますよ。

ところで、葛藤とは完全にエゴのものである。何かと何かの間で葛藤する、というのはそれら自体に問題があるのではなくて葛藤しているマインド自体に問題があるのだ。平和か怒りか、平和か戦争かの間で葛藤するのならば貴方には「平和」というものがわかっていない。葛藤は幻想の中にしかないものなので、真実と虚偽の間に葛藤はありえない。正気と狂気の間に葛藤はありえないのだ。正しいものがわかっていれば葛藤などしないでさっさとそちらを選ぶはずなのである。真実と幻想と、どちらでも選べると思うのがエゴなのだ。なぜならばエゴには真実がわからないので、それが幻想と同じ次元のものに映るからである。

「コース」を学ぶ過程で「わかるんだけど、実際には難しくてなかなかねえ」と感じる人は多いと思うが、これは「言われていることはその通りなのだろうが、心情的に納得できない」ということだろう。しかし!ハッキリ言うが心情は脇にどけてください。でないと「コース」は読めません。ましてや実践などできません。だから「わからなくても受け容れられなくてもとにかくやれ」と書かれているのである。更に、心情に流されて勝手に気分の良いように解釈してしまうケースもあるので要注意。くれぐれも気をつけてほしい。

第二段階では、恐怖や攻撃や怒りよりとにかく平和のほうが望ましいのだとハッキリ宣言することになる。比較されるものがあるという点でこれはまだ認識の域を出ないのだが、それでも続けていくうちに認識機能が正常化されて直接知に近づいてくるものなのだ。この段階ではまだ「比較」「程度」というものが認められているので、奇跡をもたらすのに必要な「難易度はありえない」ということは達成されない。より望ましいのではなく「完全に、すっかり丸ごと」望ましい、と本当に思えれば不可能なことはないらしい。迷いも不安も疑いも完全になくなった状態である。言うまでもなく神はその状態から私たちを創造したのであり、私たちも同じことができるように造られているのだ。

より難しい第一段階と違って、第二段階は結果がすぐわかるのが嬉しい。そうすれば私たちは更に確信を持って学びを続けることができるというものだ。

私たちはなかなか自力でマインドの中の正しいものと間違ったものを選別できないので、聖霊の力を借りることになる。これが聖霊による「判断・評価」の正しい使い方であることは前に述べられている。神から与えられた光と調和するものは残し、そうでないものは排除し、部分的に調和するものは一旦浄化してから残す。この作業によって私たちのマインドにある神の王国は一貫性を持って保たれ統一されるのだ。ここでは「神の王国」という表現が使われているのだが、なじめなければ「神に造られた部分」「スピリット」と言い換えても差し支えないと思う。

「私って何?」神が造り給うた存在か、バラバラの個か?ここが出発点なのだ。聖霊による認識なら常に一貫しているが、エゴによる「バラバラの個」なら「私」と思うものがころころ変わる。ある時は自信満々だがちょっとしたことで自己嫌悪に陥ったりするでしょう?そういう意味で一貫性が全くないのである。このように聖霊とエゴとは何から何まで正反対であり、聖霊が受け容れるものをエゴは拒絶し、エゴが受け容れるものを聖霊は拒絶する。非常にシンプルなのである。エゴたる私の気分はコロコロ変わるが、聖霊のものなら喜び以外の気分はないのだ。喜びをもたらすもの以外は全て排除される。

しかし、聖霊は私たちが求めなければ動きようがないことを思い出してほしい。聖霊の助けを求めるということは私たちの側でもそれなりの努力をしなくてはならないということになるのだ。

ということで、第三段階。「神及び神の国を守るためだけにマインドを見張りなさい」

警戒せよ、注意深くあれというような意味だが、私たちの側で努力すべきはここなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 43

第6章 その8

さて、他人を判断・評価するということはその前提として「自他の区別」なるものがあり、つまり私たちはただ一つの存在ではなくバラバラの個であるという認識に立脚していることになる。もちろんこれは誤りである。となれば、他人を判断・評価すること自体が取りも直さず「誤りを教え学ぶ」ことになってしまうのだ。それに、他人を判断・評価するということそのものにどうしても「自分のマインドの中にある、見たくないものの投影」が含まれてしまう。私たちは他人のことなど気にせず、とにかく自分のマインドの修正と浄化だけをしていればよいのである。相手がどう受け取るかなど一切考えずに、そのような判断なしに「教え示す」ことによって私たちは判断なしに在ることができるようになる。

だから、他人を判断・評価しそうになったらすぐに第三段階の教えを思い出しなさい。それに流されないよう、常に自分のマインドを見張っていなさい。これは、私たちがエゴでなく「神の国」を選ぶのだという宣言である。

私たちはたいてい自分が攻撃されたりしないように油断なく周囲を見張っているものだが、これだと「エゴのために間断なく見張っている」ことになってしまうのだ。そうではなくて「エゴが入ってこないように」油断なくマインドを見張っていなくてはならない、と「コース」は言っている。しかも、例外なしに!である。

ここが結構大変なのだ。例えば、何かに対してちょっとでも不安や疑いを抱いただけでもうアウトなのである。それは取りも直さず「神および神の国の完全無欠性を疑った」のと同じことになってしまうからだ。例外なしということは「これくらいはしょうがないよね」が通用しない、と言っているわけである。これはキビシイ。もちろん、最初からうまくいくはずがない。誰もが葛藤を経験するだろうが、自分をゆるすのと甘やかすのとは違うので頑張るしかない。

しかし、ここにも大きな助けがある。真実のものに対しては何も見張ったり警戒したりする必要はない。それらは私たちに忘れ去られようが何だろうが無傷で存在し続けているからである。それに対して私たちは今まで、あるいは今でも「エゴのために油断なく見張っている」つまり「自分が作り出した幻想を守るために油断なく見張っている」のだが、こちらはそうでもしなければ簡単に壊れてしまうようなものだからだ。つまり、本当はこちらのほうが難しいのであって、私たちはより難しいほうをこんにちまで当たり前に続けてきていたのである。もっと難しいことをするのではなく、逆により易しいはずのことをするのだ、と思えば気が楽になる。本当は易しいことをすごく難しいと感じてしまうのもまた「逆さまの思考システム」のせいである。

まあかなりの努力をしなくてはならないわけだが、既にご承知のとおりこの努力なるものもまた分離の産物でありこの世のものだ。学びなどと同様、努力もそれが不要になるポイントまでは有効利用できる。ついでに、私たちはこれまた自分で作り出したウソの世界を維持するために多大な努力を払ってきたことにも気づいておきたい。これからは努力の方向性を変えればよい、というわけである。

私たちのマインドにあり続けるところの神の国は、別に私たちが見張っていなくても減ったりなくなったりするものではない。しかし、「私は神の国にいるんだ」と気づくためにはやっぱり絶えずマインドを見張ってエゴの侵入を防いでいなくてはならないのだ。

第三段階において私たちは「選択」を学んでいるのだが、これも以前に述べたようにまたこの世のものである。真実が見えてしまえばもう選択の余地はなくなるのだ。第三段階は、究極的にはここを目指すものである。何だかこれを頑張っていれば自然に第一段階と第二段階もクリアできてしまうみたいなのだ。

とはいっても、第三段階が最終段階というわけではない。もちろんその先に最終段階はあるのだが、これは私たちが自分でやるのではなく神が引き上げてくれるようなものなのだ。確かに・・・認識の果てに直接知を経験するときも「思考の裂け目」に陥るようなことがある、と以前書いたが、それと同じような事態を指しているのだと思う。これも努力によって得られるものではなく、準備ができたマインドに突然訪れるようなことだからである。

とにかく、ここに至ってしまえば私たちは「ただ在る」ことによって「全てを持っている」のだ、在ることと持っていることとは同じなのだ、と明確に「知る」ようになる。

「神の国」の外に在るものは全て幻想である。私たちは勝手なものを作り出したことで元々マインドにある「神の国」を置き去りにし或いは忘れ去り、そこからあたかも締め出されたようになってしまった。締め出されたマインドにおいては、私たち本来の意志などエゴのさまざまな思いに縛られてしまって自由にならず、締め出されたマインドそのものも病んでしまう。エゴの侵入を間断なく見張っていればこのマインドも癒される。エゴこそが病だからである。こうしてマインドが癒されれば私たちはそれを教え示すことによって、他のマインドを癒すこともできるようになる。

私たちだけではなく、キリストもまたマインドをしっかり見張るように求められているそうだ。キリストに今更そんなことが必要とも思われないので、おそらくこれは私たちを助けるために一緒に私たちのマインドを見張っていてくれるということだろう。

第三段階は、私たちが何を信じているのかハッキリさせそれ以外のものを全て捨て去るためのものである。言い換えれば、私たちが聖霊の導きを望んでいることのしるしである。

結局、私たちが目指しているのは第一段階の「在ることと持っていることは同じ」という事実を理解することなのだが、これを理解するのに努力は要らない。というより努力によっては理解できないことなのである。この二つは完全に同じであるため、どこまでも制限なしに創造を続けることが可能になるのだ。だって、私たちはずっと与え続けることができるのだから、それによってますます増えるのだから。

第7章 その1

第6章で3つの段階を学んだが、ここではそれに続く最終段階について述べられている。しかし、やっぱり「これについて言葉で語るのは難しい、なぜなら言葉はシンボルに過ぎないうえ、真なるものは説明し得ないから」と「コース」は言っている。

神に造られた私たちは神とのコミュニケーションができるし、神と同じ創造力を持って創造することもできる。しかし,神が私たちを創造したのであって私たちが創造したのではないという点において、神と私たちとは対等でもなく相互的な関係にもないのである。

この点が、以前私が「神と一体ならば何故『私が神だ』とは言えないのか」と書いたことに対する「コース」の答えであり、私見では『コース』における神は明らかに存在であって存在者ではないことになる。

神と私たちとが対等でも相互的でもないなんて一見当たり前だと思うだろうが、これは「神とは何か」つまり神の概念定義によってどうにでもなるものであって、論理的にこだわろうと思えばどこまでもこだわれる大問題なのである。が、「コース」初め神学書はどれも「神とはこういうものである」という定義を定めたところからスタートしているのだ。

神と私たちとが相互に「創造しあった」のではない、なんてこれもまあ一見あたりまえであって考えることさえ無理があるのだが、「コース」は一応「親子関係」の比喩を用いて説明している。親が子を作るのであって子が親を作ることは不可能だが、子が親となって同じような能力と仕組みによって子を作ることはできる、これがつまり「被造物たる私たちが神と同じように創造する」ことに当たるのだ、と言っている。

神、あるいは真理でも存在でも良い、そういうものがまず在って私たちが造られた。私たちがそれらなしに勝手に自分を作ることも、神や真理や存在を造ることもできるわけがないのだし、いま既にあるそれらを私たちの手で改変することも不可能だ。親が気に入らないからといって「こういう親が良かったわ」などと自分の親を改変できないのと同じである。そんなことが可能だと思うならそれは狂っている。しかし、実際私たちはそれが可能だと思い込んできたのであり、いまだに思い込んでいるのである。即ち、私たちは狂人なのだ。

   
第180回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 40・41

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 40

第6章 その5

教えることは学ぶことと同じである。これについては以前にも見てきたが、ちょっとおさらいしてみよう。

「コース」で言う「教える」とは「実際にやってみせる」みたいなことである。もしあなたが誰かの前でムカついてイヤミの一つも言ったのならそれは「怒り」「攻撃」を教えたことになり、教えた=与えたことによってそれらは増大するのでますます私たちはそんなものをしっかり身につけてしまうのである。

さて、自分にないものは教えられない。これは当たり前ですね。言い換えれば、私たちは既に身につけたものだけを教えるのである。ところが、私たちはエゴによってかなりおかしなどうしようもないことばかりを学んで、というか身につけてしまっている。これを外していくことが重要なのだ。「コース」における学びとは得るよりも捨てていくことだ、と以前にも書いたがそれと同じである。スポーツや音楽の演奏などでは「クセを直す」ことが大切だが、それにも似ている。

たとえば「怒り」「攻撃」は、自分と違うよくわからない他者が存在する、危険だ!ということを学んでいるからこそ生じるものである。皮肉なことに、そう認識して構えていればいるほどそれこそ「引き寄せ」的に実際に危険な目にあってしまうのだ。で、「やっぱり!」となる。逆に、聖霊によって認識するならば私たちは誰の中にも同じ聖霊を見るので、相手から自分を守る必要がなくなる。聖霊が危険なはずはないからである。私たちはいつでもどこでも安全になるのだ。当然、攻撃などは手放されることになる。

だから、もし平和がほしいのなら平和を教えなさいと「コース」は言っている。そうすれば相手もまた平和を学ぶことになる。こうして私たちの「救済」は為されていくのだ。

でもねえ、とつい突っ込みたくなるのだが、キリストの磔刑は愛と平和を教えたものだったはずなのにそれを見ていた弟子たちには全然わからなかったのよねえ。まあよい。先に進もう。

こうして、神と同じ性質のもの・・愛や平和や喜びや感謝などなどを日々教えていけば、それによって私たちはそれらをますますしっかり身につけることができるのである。たとえ少しでも教えることができた!という事実をちゃんと評価してほしい。なぜなら「身についていないものは教えられない」のだから、持っていないものは分かち合えないのだから、「できた」のなら貴方は既にそれらを身につけていたのだと分かる。何と、エゴではない本来の自分がちゃんとここにいたではないか!本当はこうだったんだ!と気づくことは大きな自信にもなる。

しかし、エゴは素早くて抜け目がない。聖霊よりも先に私たちに囁きかけて誘導しようとする。かといってエゴが私たちのためを考えてくれることもない。要するに、エゴは私たちに見放されたくないのである。見放されれば自分は消えてしまうとわかっているのだ。

神が私たちを自らの一部として創造したのに対して、エゴは自らを私たちの一部とは見なしていない。ただ、私たちに自分をエゴだと同一視させるよう仕組んでいるだけである。さすが分離の産物だけのことはある。また、神が愛によって創造したのに対して、私たちは恐怖や欠乏感によってエゴを作り出したため、エゴとの間には愛などないのだ。ただ自分が生み出したものなので何となく断ち切りがたく大切にしているという、まあ言ってみれば腐れ縁みたいな存在である。

私たちは出来心で神から離れてバラバラの存在になった(と思い込んだ)時、当然のことながら自分が何者なのかがわからなくなってしまった。マインドのその部分、つまり「自分が何者かわからない」と思っている部分こそがエゴの正体である。

従って、「自分が何者か」が明白になってしまえばエゴは消えざるを得なくなる。「コース」では「神によって造られた神と一体のもの」なのだが、他にも例えば「自分は何ものでもないが存在している、私などというものはないがただ存在している」などというのでも構わない。「知らない、わからない」がエゴの思考システムの基盤なのだから、何であれ確信を持ってしまえばエゴの入る余地はなくなるのだ。

知らない・分からないという状態を放置しておくほどエゴもバカではない。一応「知りたい、わかりたい」と探求するのである。但し、絶対に答えの出ないような方向に。

また、「自分が何者かわからない」のだからこれも当然私たちのマインド全体と自分とは別物だと思っているのである。私たちのほうは、勝手にエゴと自分とを同一視してしまうというのに!まあ、その挙句が私たち自身も「自分が何者かわからない」という事態に陥るのであるが。で、絶対に答えの出ない方向に探求を続けるのである。

私たちのマインドのエゴでない部分・・スピリットはその答えを知っている。エゴはそれを怖れているのだ。恐怖は怒りや攻撃を生み出すので、エゴは何と「実はスピリットでもある」私たちにそれらを向ける。私たちが自分自身に対して怒りや攻撃を向けることもあるのはこのためである。攻撃している間は分離状態が継続するので、エゴにとってはそれがもっとも安全なのだ。ゆえに、エゴは私たちにも「攻撃によって自分を守れるんだよ」と信じ込ませる。

しかし、やっぱりエゴにとって私たちのマインドは何だか不気味なのである。なぜならそこに自分とは全く違うもの、自分と敵対し自分より強そうなものの存在を感じるからである。そこで、エゴは身体を味方につけた。といっても身体そのものに意志はなく考えもなく何もないのだが、ただ「分離を象徴するもの、何ものでもないもの」という共通点だけでエゴは身体を味方につけたのだ。それゆえ、私たちが自分=身体だと思うならとりも直さず自分=エゴだと思っているということになるのである。

自分のマインドがエゴの支配下にあり身体はマインドよりずっとリアルだと思っているなら、貴方は既に正気ではなくなっているのである。

さて、エゴの存在基盤でもある「私って何?」という疑問は、私たちが真実に目覚めたときにはもはや問われる必要さえなくなる。既に答えが知られているからである。それもエゴが予想するような「私とはこれこれこういうものです」などという答えではないのだ。そこに至ったとき、私たちはかつてそんな疑問を抱いていたことさえ忘れる。夢の中であれこれ考えていたことなど目覚めてしまえば「何だっけ?忘れちゃった」となるのと同じである。

私でもそうなれるの?そうだ、貴方にはその能力がある。が、ちょっと待った!能力もまた「この世の、とりあえずのもの」なのである。確かに能力には個人差があるし、一人の人間の能力も増大したり退化したりするという点においてまず真実のものではないとわかる。だいいち何もかもが達成され完璧な状態だったら今更能力がどうこう、なんて関係ないはずだ。能力とは開発されて何ぼのものなのだから、開発途上にあるうちはただ「それをできる可能性がある」ということで、裏から言えば「もしかしたらできないかも」という可能性も否定できないのである。「能力」という語は常にそういう「不確実さ」を含んでいるのだ。奇跡をもたらす能力を開発する、と言っているときにはまだ十分に奇跡をもたらせていないことになる。まあ、既に覚醒してしまった人に対して「貴方には覚醒する能力がある」なんて絶対言わないだろうなあ。

そのうえ、神が創造したものについては「能力」など必要ないらしい。平和や分かち合いや喜びなどは、それぞれ能力が開発されないとできないなどというものではない。

しかしながら、やっぱり能力も学びなどと同じく「とりあえずのもの」としてうまく使うことだってできるのだ。

ところで、既に完璧な存在であるはずの私たちが、完璧になるために能力を開発するなんておかしくありませんか?そんなことありうるわけ?いやあ、まあ、だから私たちはあり得ないことをあり得ると思って生きているのである。だってそもそも「神と離れて存在できる」つまり「存在しないで存在できる」なんて思っちゃったくらいなのだから。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 41

第6章 その6

ありえないことを「あり得る・現実だ」と思い込んでいるのは狂気である。自分で作った仮想現実を本当の現実だと思い込んで人を殺してしまうような事件はきょうび珍しくもなくなったが、私たちがしていることも結局は彼らと同じようなものなのだ。構造は全く同じなのである。ここがちゃんとわかれば、「コース」の語ることがかなり分かりやすくなる。

神はただ源として存在し創造し続ける。神は「教える」ということをしない。なぜならば、聖霊と違って神自体は私たちのあらゆる間違いを全く見ていない、というか神には見えないからである。神にとって自ら創造したものは全て完璧なままなのだ。

私たちは眠り込んでいて神から送られるものに気づいていない、十分なコミュニケーションが成立していないことだけを神は知っている。

「全知全能の神」と言うからには、私たちが心でチラリと抱いた悪い考えも私たちのごまかしも神は全てご存知なのだと考えてしまうのだが、どうやらそういうことではないみたいなのである。そうだとしたら私たちは神を恐れずにはいられなくなる。「全知全能」というよりも、神は真理であると言った方がわかりやすいかもしれない。私たちの愚かさを嘆き悲しむような神、「天網恢恢疎にして漏らさず」的な神はやっぱりエゴ的な考えによるものらしい。教えも学びも「より良いものへの変化」を意味する。しかし神が創造したものは不変なのであって、神にとっては変化そのものがありえない。

とにかく、神が自ら私たちの間違いや欠点を指摘するなどということは絶対にありえないのだ。もちろん私たちに命令などしない。それは聖霊も同様である。命令というからにはそこに上下関係があると示唆されるわけだが、聖霊の目には全てが平等なのである。むしろ、私たちが自分のマインドに命令しなくてはならないのだ。と、簡単に言ってしまったが、これはよく考えるとかなり訳がわからない事態なのである。マインドである私たちがマインドに命令するというのは、マインドが分裂しているからこそ可能なことであるにもかかわらず、そうしなくては学びも能力開発もままならないとは何とおかしなことなのだろうか。これもまた「あり得ないことをあり得ると思い込んでしまった」挙句のことなのだろうか?

神から離れてバラバラになったからといって完全さを損なったわけではない。ただ、コミュニケーションをしくじったのである。神が創造し与え続けてくれているものを私たちは受け取っているにもかかわらず、そのことに気づけなくなっている。どんな宝が目の前に積んであっても、見えなければ事実上は「ない」のと同じだ。とはいえ、ただ「見えない」のと「ない」のとではやっぱり大違いなのである。

神の平和はここにある。が、それに気づかない私たちに平和はない。

「私って何?」という疑問は究極のところ「神って何ですか?」という疑問と同じである。神から私たちには問いなどなかったし、神は私たちを締め出したりはしなかった。その代わりに私たちに対する答えとして聖霊を与えてくれた。それこそが私たちを教え導く存在なのである。

以前も述べたように、私たちは自分で作り出した夢の中にいてそれを現実と思い込み苦しんでいる。だったら目覚めればいいだろうに、と思いそうなものだが何せ「逆さまの思考」をしているため、目覚めたらそこにある現実はもっと辛くて苦しいものなんじゃないかと思ったりもしているのである。それどころか、急に揺り起こされでもしたら「悪夢の続き」だとまたもや勘違いして混乱してしまう危険さえあるのだ。夢と現実の区別がつかずに目覚めてからも怖がっている子供と同じである。

ゆえに聖霊は私たちを叩き起こしたりしない。夢の中にいる私たちに「これは夢ですよ」なんて言ってもどうせ信じやしないのだから、そうする代わりに本当の現実の素晴らしさを少しずつ教えてくれる。これなら目覚めても怖くないなあ、と私たちが思えるようにしてくれるのだ。

聖霊は、夢の一つ一つをあげつらったりはしない。どんなものでも夢は夢なのだ。昨夜の夢と今夜の夢は違うかもしれないが、それらは夢であり現実ではないのと同じである。どんな夢でも聖霊のもたらす光、目覚めよと言う聖霊の呼び声によって放逐される。

また、聖霊の教え方は「あれをするな、これはダメだ」という禁止によるものではない。私たちがいかに間違っているかについてくどくど説明して目覚めさせようとするよりも、ただ「こうしなさい」とだけ教えるのだ。

ちょっと待って。聖霊はそうなのかもしれないが、「コース」は私たちがいかに訳のわからない状態に陥っているか微に入り細に入り、これでもか!というくらいしつこく説明してくれているではないか。これは別に矛盾のうちには入らないからまあ良いんですけどね。

とはいうものの、またもローバ心で申し上げておきたいのだが、「コース」に限らず真理について言葉で語ったものにはどうしても矛盾に見える記述が出てきてしまうのだ。これは、再三述べているように「この世のことではないものを、この世の言葉で無理やり表現している」からにはやむを得ない事態なのである。エゴにはそれがわからないので矛盾に見えてしまうのだ。エゴの論理と神のロゴスとは違うのである。

偉いお坊さんと弟子の問答などを読んでいても、先生がここでは「Aである」と言いあそこでは「Aはない」と言っているような、やはり矛盾に見える叙述があったりする。これは問いと答えをセットにして全体を見れば結局いつも同じことを言っていることがわかるのだが、大体は問いというもの自体がその本質において既にエゴ的であることが原因である。更に、優れた師にはエゴがないので「自分に一貫性を持たせよう」などと考えたりしないことにも一因がある。

「コース」は、このあたりの問題に関してかなり自覚的であり論理性が高いほうなのだが、それでもやはり時々は矛盾しているように見える記述がある。そこで立ち止まって下手にあれこれ考えるのは自ら進んでエゴの陥穽にはまるようなものである。だからこその「わからなくても受け容れられなくてもとにかく前に進め」なのである。

さあ、「ただ、こうしなさい」という「聖霊の授業」が始まる。それぞれについて日常生活で是非試してほしい。

まずは「持っていたければ、全てに対して全てを与えなさい」。別に全財産をみんなに配れと言っているわけではない。私たちはもともとただ存在するだけで既に全てを与えられてしまっており、それを与えればますます増えるということである。順を追って見ていこう。

身体とエゴと夢がなくなれば、当然そこに残るものは永遠不変の存在である。短絡的に考える人は「じゃあ、死んじゃえば済むんじゃないの」と思ったりする。死によって達成されるものなど何もない、なぜなら死は「何ものでもないもの」つまり無=ない、からである、と「コース」は断言している。百歩譲って「身体の死」ならあると仮定しても、それによって夢やエゴが消えるわけでもないのだ。なぜなら、身体は死んでもマインドは死なず、一方で夢もエゴもマインドのものだからだ。死んだら楽になるなんてとんでもない幻想であり間違いなのである。

「コース」によれば、身体は生きることも死ぬこともないようなものである。簡単に壊されてしまうようなそれは神が創造したものではなく、従って実在はせず、私たちが分離=バラバラの状態をさも現実らしく見せるために作り出したものであり、「他でもないこの私」を象徴するものである。だからこそスバラシイ、と言う人々もいるのだが「コース」は違う。身体は、聖霊によって私たちの学習装置として使われるだけなのだ。

マインドが身体を癒すことはあっても逆はない。このことがマインドは身体より強い証左なのである。「全てはただ一つ」とはマインドのことであって、全てがただ一つの身体だなんてあなた、そんな途方もないことがあってたまりますか。マインドと違って、身体は「分かち合う」ことさえできない。マインドによって意味づけされない限り、身体そのものには何の意味もないのである。

 
第179回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 38・39

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 38

第6章 その3

キリストの磔刑は、「人間としての苦しみを表している」とか「私たちの罪のために敢えて人として苦しみを受け犠牲になってくださった」などと解釈されてもいるが、「コース」を読む限りいずれも真実ではない。苦しみはなく、従って苦しみには意味もなく、罪はそもそもあり得ず、犠牲などにもなっていないのである。磔刑とそれに続く復活こそがキリストの最大のメッセージなのであるが、復活とは再生でありマインドが眠りから目覚めること、真理に目覚めることである。これは私たちにとって「始まり」に過ぎないのだ。

キリストに学ぶ、とは他人の中の聖霊の声を聴くことでありそれによって私たちは自ら経験しないことでも学ぶことができるようになる。キリストと同じように「犠牲を払って受難を経」ないと学べないし救われない、などということはないのである。磔刑は端的に言えば「エゴと神の子」との対立の象徴であり、エゴの思考システムの成れの果てみたいな出来事なのだが、程度は違っても同じような構造のものは私たちの日常生活の中でいくらでも見つかる。ひとりのマインドの中にさえこの構造がある。

磔刑はエゴが投影されたものなので分かち合うことができない。しかし復活は分かち合うことができる。私たちは誰でも、真実に目覚めれば「何一つ欠けるものがない」と知ることができるのだ。

磔刑を悲劇ではなく「平和を求め、恐怖から解放するもの」だと捉えてこそキリストの教えが生かされるのだが、弟子たちでさえ誤解していた、わかっていなかったとキリストはここで明言している。愛が不十分であったために罪悪感がぬぐえず、そこから怒りや怖れが生じ、その観点からしか磔刑を見ることができなかったのだ。もっともこの弟子たち、聖書の中でもしょっちゅう師からたしなめられたり「そんなこともわからんのか」と呆れられたりしているのである。

そういうわけで、新約聖書にも「逆さまの思考システム」による記述がいくつもあるのだ。たとえば「私は平和でなく不和と分裂をもたらすために地上に来たのである」とか「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」など、そんなこと私が言うわけないじゃないか、私の教えと正反対じゃないかとキリストは語っている。確かに、ユダのことを「悪魔」「不幸なヤツだ、生まれなかったほうがマシだった」なんて言ったと書いてあったり、この世の終わりについての記述がやたら具体的で怖ろしげだったりするのはさすがにちょっとどうか、と私も不思議だったのだ。こういうこと全ては、他の弟子や聖書記者たちが自分の中にあった「裏切り・罪悪感・懲罰への恐怖」などを投影して認識したからこそ書かれたものだったようである。しかしまあ、孔子も仏陀もソクラテスも自らは何も書き遺さず弟子がその教えを著したわけだが、これらだって本質において聖書ほどの歪曲はなされていないと思う。是非キリスト自身によるディレクターズカットの聖書を読みたいものである。

聖書の中でも「あなたがたにはまだ理解できない」とキリストは弟子たちに語っている。「後になれば彼らも理解するだろう」と思っていたらしいが、後になっても理解しなかったから聖書がこんなふうになってしまったということなのか。

ところで、私たちは恐怖に目をくらまされて感謝の能力まで退化させてしまったらしい。神に感謝を捧げよ、というが神には今更私たちから感謝される必要などないのだ。感謝が必要なのは私たち自身なのである。しかし、自分で自分に感謝するというのはなかなか困難なことなので、私たちは神なり周囲の兄弟姉妹なりに感謝を捧げるのだ。なぜなら、私たちは与えたものを受け取るからである。与えればそれが相手から返ってくるという意味ではなく、与えるということの中に既に「受け取る」ことが含まれているのだ。以前見たとおり「与えたものは増大・強化され、手元からなくなることはない」のでもある。

感謝がないところに愛はない。私たちが今の自分に感謝しないなら、それは今の自分を愛さずに拒絶しているのであり、更には神から離れ神を拒絶しているのでもある。分離とは排他であり、排他は拒絶につながる。私たちが感謝しないなら、それは取りも直さず「拒絶」を示し教えていることになってしまうのだ。また、拒絶すればそれは「傷つけ、傷つけられる」可能性があることさえ示唆してしまうようになる。ここで改めてキリストは「私は殉教者でなく教師を求めている」と言っている。私たちひとりひとりが聖霊の声を選び「私たちはエゴではなく、神の子たるスピリットなのだ」ということを教え示すよう求めているのである。聖霊の声によるならば傷つき傷つけられる可能性はありえない。それに私たちは誰でも拒絶ではなく祝福を求めているのである。だから、同じことを他人もまた求めているのだと認識しなさい、そしてそれ以外のおかしなものには反応しないようにしなさい、そうすればあなたは私から学んだことになるのだとキリストは語っている。

さて、神から分離したマインドはそれ自体もいろいろな層に分裂し、それらは互いに知らず理解もしていないということが恐怖を作り出している、というのは既に見たとおりである。理解できず、見たくもないものが自分の中にあると思いたくないので、一種の防衛手段として私たちは無意識にこれらを外界に投影する。私たちにとっての他者や「世界」とはそうしてできているのでもあるが、私たちは自分が投影したものを「自分の中には無い、自分とは違うものだ」と判断・認識しているので、他者の中に見えるそれらを怖れたり堂々と攻撃したりすることができてしまうのである。よくよく見てみれば何のことはない、実は自分自身を怖れ攻撃しているわけなのだが、そんなことには気づかないで済んでいる。こうして私たちは偽りの安心感を得ているのだ。

投影は、分離・分裂したマインド或いはエゴの作用であり認識と不可分なのだが、何とこれにも「より良い使い方」があるのだ。もちろん、それは聖霊によるものである。

エゴによる投影は全て「分離状態を保全する」目的でなされている。他人と自分とは違うのだと思い込めばそこに比較が生じ、ますます分離状態は促進される。この身体や性格が「自分」だと思っていれば「全ては一つ?あの人と同じだなんて冗談じゃないわ」となるのも当たり前なのだ。このように、エゴによる投影は私たち自身についての、及び他人についての認識を歪めてしまうのである。

一方で、聖霊による投影は「認識を分かち合う」ものである。まず自分を完璧なものと見るので、それを外部に投影すれば当然他人も世界も完璧なものに映る。この認識が分かち合われれば、自他双方においてそれが強化される。私たちは完璧だという点において皆同じなのだと思えれば、怒りではなく愛が生じる。皆が同じものを求めている、ということも分かる。

聖霊による投影を、「コース」はextendと呼んでいる。これは、聖書の中ではその時々で「示す」「及ぼす」などと訳されているので、このブログでは苦し紛れに「示し及ぼす」あるいは「広く及ぼす」「拡大する」などと訳すことにする。

「皆、同じ」とは画一的なノッペラボウみたいなものだという意味ではなく、普遍だということである。そういう意味なら、私たちは皆「あがない」を求めているのだということになるので自動的に「あがない」が訪れるのだ。

聖霊による投影=認識は、エゴによるそれらが専ら「分離状態を保全するための排他的なもの」であるのに対して、自分が相手の中に、また相手が自分の中に、更には自分が神の中に、神が自分の中にあるというような「包摂」的なものだ。

余計なことかもしれないが、ローバ心から一応念を押しておきたい。「全てはひとつ」「みな同じ」「包摂」などというものは必ず聖霊やスピリットの思考システムにおいて成り立つものであって、それらがエゴの見地からなされるともう本当にとんでもない悲惨なことになるのだ。だったらまだ「私たちはそれぞれ別個なので考え方や感じ方も違っていて当たり前」だと思い込んでいたほうが便宜上はずっと安全なくらいである。人間関係における問題の多くは「どうしてわかってくれないの?」「どうしてそういうことをするの?きいっ!」など、エゴたるこの自分がやはりエゴたる相手と「同じ考え方、同じ感じ方」をするはずだ!という思い込みから生じているので、まずは「私とは違う考え方をする人もいるのだ」と認識しておかなくてはならない。それがこの世の日常生活においては他人に対する配慮であり思いやりなのである。そんなことを私は「スピリチュアルコラム」でも繰り返し書いていたし、書かざるを得なかった。エゴのままで「私と貴方は同じ」「私の中に貴方が包摂されている」なんて思われたらもうアウトである。「貴方が私の思い通りに動いてくれて当たり前」になってしまうからだ。が、実際にはそういうところで悩んでいる人が非常に多いのである。

一方で、年齢・性別・人種・思想信条・性格などに拠らず、極端に言えばもはや相手を「人体」と見ることもなくお互いに「純粋精神」どうしで関わることは神という概念なしでも十分可能である。そういう場合には、何か一つの大きなものが自分と相手双方において働き双方を包摂しているような感じになるのだ。「私の純粋精神」「あなたの純粋精神」などというものは実はないのであって、普遍的な純粋精神が双方において働き立ち現れるわけである。「コース」では純粋精神をスピリットと呼んでおり、そのスピリットこそが神と一つの部分であることを考えればそこに「神」という概念があろうがなかろうが事態は全く同じものになる。

「コース」を学ぶ過程において、いきなり「全てはひとつ、みな同じ」だと思えと言われても大抵の人には無理だろうし、無理やり思い込もうとしてもうまくいくはずがない。まずは「違いは見えるが、それを批判しないで受け容れる」ところから始めてみるのが賢明だろうと思う。

聖霊による投影=認識をもって生きればこの世でも幸せでいられる。「コース」は、この世界が喜びも幸せもないところだと明言している。まあそれはそうだろう。私たちが神と一体の状態を、何一つ欠けることのない完璧な状態を捨てて恐怖と欠乏感を土台にして作り上げたものなど素晴らしいはずがないではないか。

私たちは神に造られたとおりのものであり、私たちが見るものもまた同様だという認識を持つならば、それによって直ちに自分が「この世にあってこの世にない」状態になる。いわば「在俗超俗」である。

この世界で現実だと思われているものは全て「とりあえずのもの」である。このことが少しでもわかると、それこそ何かの間違いや出来心で「とりあえずのもの」を現実だと捉えて取り組む羽目になったとき異様な疲れを覚えるようになる。一方で、とりあえずのものだとわかったうえでエゴなしにやる場合には全く疲れを覚えないのだ。

たとえ身体はこの世界という時空間にあろうとも、私たちの本質すなわち本当の自分は常に神とともにあり神の中にある。これは思い込みではなく確たる事実なのだと「コース」は言っている。第30回で述べたように、これが私たちの本当の現実なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 39

第6章 その4

全ては神によって造られたのであり、神の中に完全な形で包摂されているという点において平等・同等である。聖霊による認識は、直接知ではないにもかかわらず直接知によって知られるものを反映しており、この認識によって私たちは「知られていたもの」を思い出すことができるのだ。

「エゴによるものであれ神のものであれ『考え』は、その思考者のマインドにおいて始まる」と「コース」は書いているが、ここで「作られる」「創造される」という言葉を用いていないことに注意してほしい。全ての考えは、私たちがマインドで「生み出す」ものではなく元から存在していたものだ。とりわけ、普遍的かつ本質的な考え、直接知を反映するような考えは私たちが作り出せるようなものではない。経験がある人には分かるだろうが、これらの普遍的な考えは私たちのマインドにおいて思い出され姿を現しているだけなのである。ただ、理解や認識のされ方に個人差があるのだ。だから、それらを言語で表現するにあたって差異が生じる。ある地点に到達した人々が、表現の仕方は違っても結局皆同じことを言っているのはこのためだ。

一方、マインドで認識したものは必ず外界に投影される。以前、私が「全てのものは認識された途端に虚構たらざるを得ない」と言ったのもこのことでもある。ものすごく卑近な例を挙げてみよう。誰かがその辺を歩いているのを貴方が見たとする。「私を探しているんだわ」「私を無視したわ」「誰かのところに行くんだわ」などなど、本当に貴方には「そのように見える」のである。まず目で見ているようでいて、その前にマインドで認識してしまっているのだ。その認識が外部に投影されたものが知覚経験となるので、あなたには「そのように見える」というわけなのである。「あなたの世界はあなた自身が作っている」というのも狭義においてはこれと同じことなのだ。客観的な世界などというものは存在しない。

ついでに言えば、純粋な客観というのも存在しない。せいぜいが「普遍的な主観」なのである。私見に拠れば、聖霊による認識とはこの「普遍的な主観」とほぼ同じものである。

聖霊は、認識も時間も虚構であるとわかった上でそれらを良い方向・目的のために用いる。何も「コース」や聖霊にお出まし頂かなくても、理性の力によってそれらの虚構性を見抜いてしまった人々もそれらを「とりあえずのもの」と分かった上で用いているのだが、「コース」の教えではあくまでも「私たちの本当の現実」に戻るための学びに役立つような方便として用いるのである。

またしても繰り返すが、私たちには既に全てが与えられ全てが知られているのだ。私たちがあがないや浄化を必要とするのは私たちが罪深くて汚れているからではなく「間違えちゃった」ことに気づいていないからである。「本当はこうだったんだ、ずっとこうだったんだ、分離なんて初めからなかったんだ」と完全に納得したとき、私たちは完全なあがないが為されたことに気づくのだ。あがないなどという概念を知らなくても、それと同じ事態になればやっぱり「本当はずっとこうだったのだ。ああ、私は何と長いこと忘れていたのだろう」と誰もが、もう本当に「忘れていたことが信じられない!」と感じるものなのだ。

私たちはずっと本来の姿のままだった、とハッキリ分かり納得することこそ「神のもとに帰ること」なのだが、エゴは当然抵抗する。そのやり方がまたふるっているというか巧妙なのだ。即ち、私たちは神のもとに帰らなくては「ならない」、それを求めなくてはならない!と思わせたうえで更に「それはものすごく困難なことなのだ」と思わせるのである。あああ、普通の人ならみんなこう考えるんじゃないのだろうか?エゴの抵抗はそれほどまでに強く私たちの中に根付いてしまっているのだろうか?

本当は神のもとに帰るなんて死ぬほど易しいことなのだ。だって帰るも何も、私たちはずっとそこにいたし今もいるんだから、ただ今ここでそれを思い出せば済む話なのである。わざわざ困難な旅をする必要など一切ないのだ。すごく怖い夢を見てその中で「早く家に帰りたい、帰らなければ!でも帰路は険しく困難だ」と思っていたら実はずっと自宅のベッドで眠っていたのだとわかった、というようなものである。

同様に、私たちは既に完璧な存在なのでこれ以上何も求める必要がない、というかそもそも求めようがないのだが、エゴは絶対にそう思わない。それどころか「完璧なんてありえない」と考えるのが普通である。実際、エゴのままで完璧を目指したら何をどうやっても不可能に違いない。だからこそ「延々と」同じようなことを続ける悪無限に陥るのである。

私が完璧な存在ならどうしてこんなに不幸で苦しいの?と思う人もいるかもしれないが、これこそ認識を間違えてしまっているのである。完璧なのは「エゴであるその貴方」のことではないのですよ!不幸で苦しいと思っているその貴方ではないのですよ! 完璧であることを忘れたからこそ不幸で苦しんでいるのですよ!

ううーん、この「完璧」というのも実際に経験してみないとわかりづらいのだろうとは思うが、とにかく一般的に言われるような「あれもできて、これもできて、何でも持っていて、ルックスも性格も良くてカンペキよね」「家中カンペキに掃除をした」などという意味では全くないので注意していただきたい。

聖霊はマインドの中の真実の部分だけを認識し外部に投影するので、私たちは他者の真実の部分だけを知覚・認識する。言い換えれば、私たちは聖霊を通して他者の中の聖霊だけを見るのである。これなら対立もありえない。対立とは、私たちが対立だと認識するからそうなるのであって、逆に言えば対立という認識をしないでいれば対立などなくて済むのである。誰かが私たちと全く違うふうに振舞っていたとしても、その表面的な現象に惑わされなければ「全てはひとつ、みな同じ」という認識が保たれるのだ。そして実際にそのように映る。前述したように「違いが見えても気にならない」という感じである。

一方で、エゴの認識は「違い」にフォーカスするというかそもそも区別するために認識しているようなものである。実生活上では便利だし必要な場合も多いのだが(だって千円札と一万円札の区別がつかなかったら困るでしょう?)、そこはやはり「虚構だと分かった上でうまく用いる」ように、まあ少なくとも私はそうしているつもりだが。

さて、ここですごいことが分かる。「引き寄せ」も要するにこれなんだろうなあと思うのだが、私たちが聖霊によって認識したものがそのまま外部に投影されるなら、たとえば「愛」「平和」「喜び」「幸せ」などが認識されたらどうなるか?当然、私たちはその場でそれらを経験することになる。これは是非実際に試してみてほしい。

面白い記述が出てきた。「エゴはレギオンだが聖霊は一つである」。レギオンとは、聖書でイエスキリストが悪霊に取り憑かれた男を癒したくだり、イエスキリストに「お前は誰だ」と聞かれた悪霊が「レギオン。たくさんいるから」と答え、ブタの群に乗り移って崖から海に飛び込んだという場面に出てくるものである。エゴは悪霊か〜・・とにかくエゴは種々雑多な部分の寄せ集めだが、聖霊は真理と同様に「部分的」ということがありえない一つのものなのだ。闇に隠されていない光なのである。マインドの中に聖霊の一部だけがある、なんてことはありえないのだ。

聖霊によって認識すること自体はそれほど難しくない。やろうと思えば誰だって今すぐできるくらいのものである。しかし、その状態を保つのはさすがに難しい。誰だって一日のうち数回くらいはエゴにやられてしまうからである。それも初めのうちは仕方ないのだが、「コース」の教えを理解するにつれて「まあこれくらいはしょうがないわね」と思えていたものがそれどころではない怖ろしい事態につながることも分かってくるので、かなり注意して日々を過ごせるようになる。だって、ちょっと「ムカついた」くらいでも「コース」によれば「本当の自分を否定する自己欺瞞」「神に対する攻撃」「冒涜」になるんですよ。それくらいならまだわかりやすいから良いが、エゴは巧妙なので一見「善人」ヅラしてやってくることもある。そういう場合、よく見てみるとその裏に隠された本当の願望が実にわかりやすいエゴ的なものだったりする。これも慣れてくればすぐわかるようになる。

 
第178回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 36・37

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 36

第5章 その6

聖霊は神から祝福を与えられており、それをもって私たちにも祝福を与えてくれる。これもまた分かち合い=創造なのである。受け取ったものは更に与えることによって増え、強化されるのだから、今度は私たちがその祝福をあらゆるものに与えなくてはならない。

それにしても、私たちがどれだけ「時間」に囚われていることか!あがないを為そう、奇跡をもたらそうと思ってあれこれやっていてもすぐに自分が望むような結果が見えないこともある。相手に変化が見られないこともある。そんな時、私たちはたやすくエゴの介入を許してしまい「いつまでかかるのか?どれくらい待てばいいのか?」などと思ってしまうのだ。

キリストに言わせると「限りない忍耐」が必要なのだそうだ。ええ〜っ?それじゃあ一生かかってしまうではないか!と思われるかもしれないが、ここには逆説がある。限りない忍耐とは限りない愛から生まれるものである。限りない愛は、あがないや奇跡・癒しにおいてもっとも強力な作用をもたらすものである。とすれば、限りない忍耐を持った瞬間に所要時間は短縮されるわけである。

少々補足を加えておくと、愛というのは一つの満遍なく全方向的な状態であって対象を必要としない。そこには疑いも恐怖もあり得ず、まさに「知っている」状態と同じなのである。ならば、その時私たちは間違いなく全てが一つであり神に創造されたままに何一つ欠けていないことを確実に「知って」いるわけだ。あがないも癒しも既に為されてしまっていることを知っている。この状態にあれば時間のことなど考えようもない。

また脱線して恐縮だが、「和尚」による逸話に似たようなものがあるので長くなるが紹介する。ある求道者が偉大なマスターに会いに行く途中、森の中で楽しそうに木登りをしている少年に出会った。偉大な師に会いに行くのだが、お前にも何か聞いてきてやろうか?とせっかく問いかけてやっても少年は何も答えずに遊び続けている。しょうのない奴だ。それで求道者はマスターに「あの少年は一体いつになったら悟りを開いて光明を得られるのですか?」と聞いてみた。「あの森の木々の全ての葉を合わせた数の7倍生まれ変われば光明を得るだろう」。こんな悲惨な結果を聞かせるのは気の毒だとは思ったが、帰り道また少年に会った求道者はマスターの言葉をそのまま伝えた。すると少年は「へえ、たったそれだけしかかからないの?嬉しいなあ」と喜び、その瞬間に光明を得た。

「コース」に戻ろう。私たちは本当に何もかも忘れ果ててしまっているのだ。不可能なことを可能だと思い込みあれこれ努力してみても結局は真の満足も安心も得られないままに過ごしているのである。私たちが本当に求めているものを与えてくれる存在が自分たちの中にあり、あるいは私たち自身がその中にあり、あるいは既に全てが与えられていることをすっかり忘れてしまっているのだ。本当は求める必要さえないのに、大変な時間と労力を使ってどこかに求めなければならないと思い込んでしまっているのだ。

何故、全てを神に任せないのか?全てを自分ひとりでやるほうがマシだとでも思っているのか?うーん、そうねえ。確かに全くその通りなのだが、「神」を忘れた私たちには分からないのだ。神が全て面倒を見てくれる、と言われても「よく知らない、見たこともない何か」に全てを任せるのは誰だって抵抗があるのではないかと思う。よく分からないままに、それでもとりあえず任せてみようとするのが通常の「信仰」である。不合理ゆえに我信ず、理解できないものを肯定して受け容れるには信じるしかないではないか。しかし「コース」は、それ以上のことを私たちに求め且つ与えようとしている。

本当に癒されたマインドがどれほどのことを成し遂げるか、私たちは知らない。ヒーラーと言われる人々のマインドだってそこまでは癒されていない、なぜならば彼らは山を動かすことも死人を生き返らせることもできないではないか、と「コース」は言っている。確かにそんな話は寡聞にして知らない。

それほどまでの力を得るには何かとんでもないものを神に捧げなくてはならないと考える人もいるかもしれないが、それが間違いなのだ。神が私たちに与えたものを神に返す、というのは何かを失うことを意味しない。本来の意味での「与える」が分かち合いであり、何ひとつ損なわれるものはない、それどころかますます増えるのだ、とは以前に見たとおりである。

このあたりの「勘違い」が全てエゴの抵抗なのだろう。私たちが結構いい線まで行ってもギリギリのところでエゴは城砦を死守しているような感じがする。いくら優れたヒーラーだって「いつでも完全な喜びの中にいる」ことはさすがに難しそうだからだ。しかし、その状態にないとき私たちには愛が欠けているわけであり、つまりは神から離れ神に背いていることになる。必然的に罪悪感が生じ、来たるべき罰=攻撃されることに備えて自己防衛に走ってしまうのだ。聖霊はこの「罪」という考えを無効にして浄化してくれるのである。この点が、いわゆる「悔い改め」とは全く違う。悔い改めている間そこには罪が存在し続け、罪を犯した自分自身もまた存在し続け、神に「もう良い、お前はゆるされた」と言われてもなお罪もそれを犯した自分も消えないのである。

だから、聖霊の声を聴いて浄化を受け容れよう!と固く決心しなさい。完全な喜びに満ちた状態にないなら、貴方は間違った声を聴いてしまったのだ。あがないは貴方が作ったものではないにもかかわらずいつも貴方の中にあるのだ、と気づきなさい。と、ここで「コース」はアファメーションを用意してくれている。

「私は間違ってしまったに違いない、だって心が平和じゃないんだもの。これは自分が決めたことだけど、これとは違う決断をすることも私にはできるのだ。私はこれとは違う決断をしたい、なぜなら平和でいたいから。聖霊に任せれば、私の間違った決断がもたらした全てのことを浄化し無効にしてもらえるのだから、私は罪悪感をおぼえない。聖霊に任せることを選びます。そして聖霊に、私のために神の御心に沿った決断をしてもらいます」

第6章 その1

怒りと攻撃、恐怖と攻撃との関連性は明らかなので比較的わかりやすいのだが、怒りと恐怖の関連性は少々見えにくいものである。言うまでもなくこの3つは「他者」が存在しないところにはありえない、即ち「分離」がなければありえないものであり、三つ巴の関係にあるのだ。自分自身に対する怒りであっても、そこには「ダメな自分」と「それに怒りを抱く自分」がある、つまりマインドが見事に分裂しているのである。

怒りとは、周囲から見ればどうであっても本人には何か「怒るべき正当な理由」があって生じるものであるため、怒りは自分のせいではなくそれをもたらした誰か・何かのせいにされる。正義感によって生じる怒りというのはかなり厄介で、なぜなら誰だって自分が正しい!自分が正義だと思っているに決まっているからである。怒りの対象が自分であろうが他者であろうが、いずれにせよそれらは「愛すべき価値がないもの」と認識されていると言えるだろう。これら全ては、もちろんエゴの思考システムによるものだ。怒りを覚えるとき、私たちはエゴの思考システムに拠ってしまっている。神の或いはスピリットの思考システムならば、そもそも私たちが攻撃されることなどはありえないしできないのである。

怒りに見えるような表現形態をしていても実は愛から生じているものであるような場合もあるのだが、これを形だけ真似するようなことがあってはどうしようもないし誤解を招きやすいので、「コース」では扱われていない。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 37

第6章 その2

神から分離したことによって私たちはそれぞれ別の個体となったうえ、それぞれのマインドにおいて更に分裂した・・つまりマインドの中に様々な意識の層を持つようになった、このことに留意してお読みいただきたい。

神に背き神から離れてしまった私たちが、そのことで不可避的に恐怖を抱いていることは既に何度も見てきた。しかし、その本当の原因を忘れてしまったために元々ある恐怖の正体はなかなか分からなくなり、恐怖は外部に投影されるようになった。神あるいは他者を「怖ろしい」と感じるようになったのである。自分には分からない自分とは違う「他者」が、自分に危害を与えるのではないかという恐怖を漠然と抱いている私たちは、その恐怖を今度は「怒り」という形で投影するようになった。オレに危害を与えるとはけしからん、許せん!という感じである。怒りは攻撃を生み出す。攻撃している人は、それによって更なる恐怖に駆られる。なぜならば、攻撃には無自覚であっても罪悪感が伴い、罪悪感があればこれも不可避的に「罰を怖れる」ことになるからである。するとまたしても怒りが倍化される。恐怖→怒り→攻撃→恐怖、あるいは攻撃されて恐怖と怒りを覚え反撃して罪悪感を覚えまた恐怖が増す、という構造がハッキリ見られる。なお、攻撃される側であっても「攻撃された」と認識する限りにおいてやはり「攻撃」というものが可能だと信じていることになるわけだから、上の構造は全く同じなのである。

たとえば、真に無垢なものにとっては攻撃することもされることもあり得ないのだ。蹴飛ばされて倒れてもそれを「攻撃された」とは認識しない。だから「無防備でバカだ」などと思われたりするのである。

さて、キリストの受難すなわち「磔刑」などという言葉を見ただけで怖ろしい感じがするのだが、『コース』によればこれもまた学びのための一種の仕掛けになりうるものらしい。受難など本当は必要ないわけだし、じじつ「コース」も「十字架への旅など無益なものだ」だとハッキリ言っている。ここではキリストの磔刑について、キリスト自身が詳しくその真相を解説してくれている。

聖書の記述では、イエスキリストは迫害され、ユダに裏切られて捕えられ、恐れおののいた他の弟子たちにも逃げられ、鞭打たれ、罵られ、十字架にかけられて殺されたということになっている。その過程で、弟子たちはもちろんイエスキリスト自身も大変苦しみ悲しんだということにもなっている。

キリストいわく、まず第一に暴行は身体に対してなされるもので身体を傷つけ破壊するわけだが、そもそも「破壊」自体があり得ないのである。少なくとも真実なるものは破壊され得ない。暴行によって傷つき破壊されると思うならば、それは自分を「破壊されうるものだ」と認識することであり、つまりは自分を身体と同一視することになる。既にあがなわれ、神と一体であったキリストにこんなことはあり得ない。他の人々には「理不尽にも怖ろしい目にあって苦しみ悲しんだ」というふうに映り認識されていても、キリスト自身にとってはそういう経験ではなかったのである。

復活祭の前の四旬節(受難節・大斎節)は、キリストの苦しみを共に分かち合うためのものである。子供のとき私も「イエス様も大変お苦しみになったのだから」と、お菓子を買うためのお小遣いを献金させられた記憶がある。イエス様、本当は苦しんでなかったのか・・・。

聖書には、イエスキリストは「本当にお前がメシアで神の子ならば自分で自分を救ってみたらどうだ」などと言われたが、そのような侮辱を受けても何もせず、されるがままになっていたという、まるでキリストの無力さを表しているような記述もある。

これは私見だが、どんな奇跡でももたらせるキリストがそれくらいのことをできなかったわけはない。できなかったのではなくて、しなかったのである。身体が何ぼのものでもない、自分は身体ではないと明確に知っていたキリストは、いつかは必ず訪れる「身体の死」を敢えてこういう形で「教え・メッセージ」として最大限に利用したのである。歴史上、有名無名を問わずこのような人は他にもいる。ただ、今に至るまでキリストが真に伝えたかったこと・教えたかったことは理解されていないのである。なぜか?私たちが自分の怒りや恐怖を投影してそれを見てしまっているからだ。キリストの弟子たちも聖書記者たちも例外ではない。もちろん、キリストを迫害し攻撃した者たちは、まさに「何をしているかわからずに」いたのである。

「恐怖をもって磔刑を見ないでほしい、でないと私の教えは伝えられなくなる」とキリストは言っている。

上述したように、キリストは完全に無抵抗であった。ここで奇跡をもたらして自らを救ってみせてしまったら、それを受け容れる準備のない人々は恐れおののいて浄化どころではなくなっただろう。だいたい、既に投影すべきものが何もないキリストには、自分を虐げ迫害し暴行を加える者たちに対して怒りも恐怖もなかったのである。それどころか、迫害や暴行などそもそも不可能であると知っていたのだ。

迫害を受けたとき、「迫害されている」と認識しつつ反応するならば、たとえそれが「無抵抗・非暴力」という形であっても「迫害というものがあるんですよ」と示し教えてしまっていることになるのだ。この意味においてマハトマ・ガンジーは大変「攻撃的で暴力的」な人物であった、と「和尚」は語っている。また誰かに攻撃されて怒ったり怖がったりするならばそれも同様のことになる。示し教えることによって私たち自身もますます「迫害」だの「攻撃」だのそういうものの現実性・実在性を確固たるものにしてしまう。教えることは学ぶことと同じなのであり、私たちは皆、教えつつ学ぶのである。

キリストは、自らが何もしないことによって相手もまた「何もしていない」のだと示し、教えたのである。誰もそういうふうには受け取れなかったようではあるが、キリストは彼らの「本来の姿」を見ていたのだ。磔刑ほど極端なことが私たちに起きるとは思えないが、日常生活で生じるもっと瑣末なあれこれについてもキリストがしたのと同じようにしなさい、間違った認識をしそうになったら思い出しなさい、と語られている。

要するに、怒りを正当化してはいけないのである。怒りはそれ自体が正当化できない間違いからきているのだから、論理的に考えても正当化できるわけがないのだ。

ここからがまた面白い。聖書の記述をキリスト自らひっくり返してくれているのだ。ゲッセマネの祈りの間、弟子たちが眠り込んでしまったことも「残念だ」とは言っているが怒りはない。この「眠り込んだ」というのは非常に象徴的である。神を離れたマインドは眠り込んで夢を見続けているようなものなので、ここで弟子たちは神を離れていた、聖霊の声を聴いていなかったということがわかる。

ゲッセマネの園でイエスキリストが大変苦悩して神に祈りを捧げたという聖書の記述がこれである。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」更に、「イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とまである。

「コース」を読む限り、キリストはこんなことを言っていない。言えるはずがないのである。全ては弟子たちと聖書記者たちの、恐怖と罪悪感の投影から来ているのか。

弟子たちが言いつけに背いて眠り込んでしまってもキリストはそれを「裏切り」とは認識していない。神の子である彼らに「裏切り」など不可能だとはっきり知っていたからである。

おまけに、キリストは十字架の上で死の直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)と叫んだとも聖書には書かれている。私もこれは昔から不思議だったのだが、やっぱり本当はこんなこと言ってなかったみたいである。なぜなら、ここでキリストは「私は見放されてなどいない」とこれもはっきり語っているからだ。

もっともキリストの最期の場面の記述は福音書によって異なっており、たとえばヨハネによる福音書ではキリストは「渇く」と言って酸化した古いぶどう酒を差し出され、「成し遂げられた」と言って息絶えた、とある。

で、キリスト自らによる磔刑の真のメッセージとは「愛のみを教えなさい、なぜならそれが本当の貴方なのだから」であり、聖霊の判断と調和しないような認識はいかなるものであっても正当化されないのだから、怒りも恐怖も攻撃も正当化してはいけないということなのである。

 
第177回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 34・35

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 34

第5章 その4

エゴと恐怖が不可分ならエゴと罪悪感も不可分であり、それらはエゴとともに「神からの分離」によって生じたものである。「全体」に対して「部分」というバラバラなものが存在する、とエゴは信じ込んでいる。すなわち神や神と一体である本来の私たち、ではなく神とは別の、しかもそれぞれが別の存在である私たちというのがあるわけだ。しつこいようだが、全てが一つであって自分以外に他者が存在しないところでは恐怖も罪も罪悪感もあり得ないのである。

神から離れて自力でやっていけると思い込み、実際にそうしていると思い込んでもいる私たちだが、同時にそのことによって神に逆らい神の力を奪った、つまり「神を攻撃した」とも思い込んでしまった。これらはどれもただの「勘違い」であり実は本当には起こってもいないことなのだが、この一連の「思い込み」によって生まれたエゴは私たちがこれらの思い込みを保持してくれないと自分も生き延びられなくなるので、あの手この手を使ってこの「神から離れた状態」を保とうとするのである。

改めて整理しておきたいのだが、エゴは私たちのマインドが生み出した、あるいは作り出した「思い」「信念」なのであって、いくら擬人化して語られているからといって私たちのマインドに巣くっている悪魔や怪物などではない。しかし、エゴはその発祥からして当然自分と私たちを同一視させるのである。そして私たちもまたエゴに乗せられて自分とエゴを同一視してしまいがちなのだ。ここは重要なポイントである。

前にも書いたとおり、エゴとは私たちがろくでもない考えに取り憑かれて作った(と思い込んでいる)空想上のロボットみたいなものである。いくら強力に見えても私たちのマインドを超えることは絶対にできないのだ。ただこのロボットは自己保全の本能と能力まで与えられてしまっているので始末が悪かったのである。

要するに、私たちが自分とエゴとを同一視するなら、エゴの思い込みは全て私たちにとって「現実」のものとしてマインドに取り込まれてしまうのである。罪悪感もしかり。貴方は神を攻撃したんだよ、何て罪深いことなのだ!絶対に罰を受けるよ、ほら怖いでしょ、だから神から逃げ続けなさいよ、危ないからね〜みたいな思い込みというか信念といっても良いくらいの「エゴ論理」がしっかりマインドに組み込まれてしまったわけである。

ここは、件の「楽園追放」「原罪」の寓話にもハッキリ描かれている構図なのだが、実にこれが全ての苦しみの基本形になっていると考えてよいと思う。たとえば自信がないのならそれは「罪を犯した=私は悪い人だ=ダメな人間だ=ダメであることは罪深い」というふうに連想した思い込みがあるからなのだ。

おまけに、そんな自分を何とかしようとしてもエゴのやり方に従ったのでは結局こういう構造から逃れることはできないのだ。よく覚えておいてほしい。エゴの論理は、私たちを絶対に幸せにしないようにできているのである。

エゴによって植えつけられた罪悪感は大変強烈なものなので、当然それは外界に投影される。分かりやすくいえば「引き寄せ」が起きるのである。私たちは「罪深き我ら」にふさわしい罰であるような経験を次々と引き寄せることになる。

何も悪いことをしていないのに意地悪ばかりされるの、という人は間違いなく強い罪悪感を抱いている。それも意地悪をしている目の前の人に対してではなく、神あるいは本来の自分に対して抱いているのだ。あるいは、貴方が誰かに怒りや恨みを抱いているとすれば、それらは一種の攻撃であり当然そこには自覚されていなくても罪悪感が存在する。それが投影されて不快な出来事や身体の不調として現れたりもするのである。

今のマインドにある様々な「ブロック」の原因を過去に遡って調べ、それを浄化するという方法もある。それでダメなら更にその過去に遡ってまた同じことをする。それでもダメだった、などという人は是非この「コース」をしっかり学んでほしい。今生であれ過去世であれ、時間軸上の過去の出来事など全く知らずともこの原理さえわかればすぐに全てのブロックを浄化できるのだ。

本来、私たちのマインドは神と同じように現実を創造する能力がある。これを誤用すれば「幻想を作り出す」ことになるのだが、まあこれがとても幻想とは思えないくらい、というより既に誰も幻想とは思っていないくらいリアルなものなのだ。だって、現に私たちが「世界」とか『歴史』とか「現実」などと思っているものがまさにそれなんですよ。そういえば「共同幻想」なんて言葉もあったっけ。

空想上のロボットであるエゴが何をしていようがお構いなしに・・どうせろくなことをするはずがないのだから・・、私たちは神の御心とともに或いは神の御心の中で考えよう、と決めることがまず大切だ。自分が恐怖や罪悪感を抱いていることに気づいたら、その原因を突き止めたり分析したりしようとはせずに、ただこの決心に立ち戻ってくればよいのである。

おさらいをするまでもなく、恐怖や罪悪感がある時そこに「愛」はない。罪悪感もやはり「愛の欠如」であり「光を見えなくする闇」なのだった。愛や光が持ち込まれればそれらは消えていかざるを得ないのだ。

ところで、罪悪感というからにはまず「罪」があるはずである(「コース」では罪=sinとなっている)。これまで見たところによれば、私たちの原罪と思われるものは「神に背いた・逆らった」ことだった。これをより一般化して表現すれば「真理にそむいた、真実に逆らった」とか「本来の姿である真実の自分に逆らった」などというふうになるだろう。正確に言えばどれも「そのように思い込んだ」だけなのだが、エゴにとっては全て「真実」であり「現実」である。罪は実際に悪いことをしたから罪なのであり、愛の欠如などではない、そう捉えておかないと自分が生き延びられなくなるのだ。

罪悪感がなければ恐怖がない。となれば「罰を受ける、何かされる、その前に殴っておけ」などという「攻撃」の観念もなくなる。これはものすごいことなのである。

例えば、身体の負傷はもちろん病気も何らかの病原菌やおかしな細胞による「攻撃」なのだから、罪悪感も恐怖もなければこれらにも無縁でいられるということになるのだ。ゆるしやあがないによってマインドが癒されれば身体もまた癒されるのはこのためである。一方で、ちょっとした病気や怪我をしても「神の怒りだ、バチが当たったんだ」という人もいる。こういう罪悪感は分かりやすい。神は怒りもしないし罰も与えない、と分かればそれで済むからである。ところが、エゴにはもっと手の込んだやり方があるのだ。すなわち、自分で自分を痛めつけていれば神の怒りも鎮まり大した罰を受けずに済むだろうとか、誰かを実際に攻撃するのはさすがにマズイからその代わりに自分自身を攻撃していれば罪にはならないなどと考えて自ら病気を作り出したりするのである。これらは自覚されにくく分かりにくいのだが、構造も原理も最初に挙げたものと全く同じである。

しかし、やっぱりエゴには根本的な部分で大間違いがあるのだ。そもそも神には罪とか罰するなどという観念そのものがあり得ないのだが、エゴはそのことを知らない。エゴは決して神を知ることができないからだ。結局、エゴは自分にあって神にはない性質を勝手に神に与えた上で、自分もそれと同じようなこと=罰を与えることができると思っているわけだ。何のことはない、ここでまたエゴは神の領分を奪ったのだ、と思い込むに至るのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 35

第5章 その5

ご先祖様やなくなった家族が自分のことを怒っているのではないか、と怖がっている人もいる。まあそう考えること自体がその人自身の罪悪感をあらわしているだけなのだが、もしも本当に彼らが怒っていたとしたらそれは彼らのエゴである。身体が死んでもエゴは残るのだ。エゴなのだから、つまり実在しないものなのだから怖れることはない。それでも何とかしたいなら「コース」の教えに従って浄化し癒せばよいのである。

なお、「コース」を学んでいれば何かに遭遇しても「これはエゴだわ」とすぐわかるようになるのだが、そこで「またエゴが出てきちゃった、私は何てダメなんだろう」と自分を責め罪悪感に陥るという笑えない事態もありうる。エゴを見つけたら即ゆるしと浄化なのである。

さて、私たちが自分のことをエゴだと見なせば私たちはエゴの言いなりになってしまう。自分で作った空想上のロボットの言いなりになるという、ちょっと正気では考えられないことを日々やってのけてしまうのだ。しかし、もともとエゴを作ったのは私たちのマインドであり、しかもそれは謂わば空想上のものである。支配権も選択権も私たちにあるのだ。で、また「聖霊とエゴ、どちらを選ぶか決めなさい」なのである。昨日「絶対に聖霊を選ぶ!」と強く決心したとしても、今から1分後にエゴを選んでしまうことだってあるしその逆もある。こういう決心は実に毎瞬、毎瞬なされているのだし、なされなくてはならないものなのだ。ただ、聖霊は選ばれなくても貴方の中からなくならないが、エゴは選ばれなければ消えてしまう。どちらを選ぶか、ちゃんと考えましょう。

「ちゃんと考える」これです。本当の意味で「考える」「思考する」とはどういうことか。以前、抽象的に見えるものが本当は現実的で具体的なものは非現実的=幻想なのだと述べたことがあったが、本当の考えは神から来るもの或いは神の中にあるものだけなのである。そう言ってわかりにくければ、本当の考えとはそこに「私」がないものだけであり、そうなると「いつ、どこで、だれが、どうやって」などがなくなり抽象的にならざるを得ないのは必然である。いわば「純粋理性」によるものなのだが、私の理性、私の純粋理性などというものはない。普遍的な理性がただ私において働いているだけなのだ。「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」これはある超有名な哲学者の言葉だが、要するにそういうことなのである。

それでは理性を欠いた、あるいは無秩序な考えとはどういうものか?その中に「エゴであるこの私」が絡んでいるものである。不安・心配・恐怖・罪悪感を伴うような考えは必ずこれであり、従って思い悩むのはもちろんこういう類のものだし、理屈っぽくてもそこに「私」が介入していればただの屁理屈であり、理性は欠けている。

「コース」いわく、これら理性を欠いた乱雑で無秩序な考えには必ず「罪悪感」が付きまとっている。なぜなのか? ここが面白いのだが、こんなふうに考えてしまう時私たちは当然ながら神から離れている。神から離れて、「自分のアタマで、自分の心で」考えている(と思い込んでいる)のである。ゆえにこれも当然の帰結として「神から離れ神に逆らった」罪悪感が生じることになるわけだ。

自分のアタマで考えろ!とは良く言われることであるが、他人のアタマで考えられる人などいるわけがないのだし、これは単に「読んだり聴いたりしたことを鵜呑みにするな」くらいの意味だ。

とは言うものの、いきなり「純粋理性を使え」なんて言われても困る人のほうが多いと思う。ゆえに、ここでもまた「ゆるしとあがない」なのである。自分が作り上げたところの間違った考えそのものを浄化してもらうのだ。以前、因果律のところでも見たように「あがない」=浄化は常に間違いが生じたところでなされるものなので、聖霊は私たちにいま生じている「結果」の部分ではなく原因の部分に働きかける。私たちはただ「あがない」を受け容れることを決心していれば良いのである。

ここにはちょうど「引き寄せ」とピッタリ重なる記述も出てくる。何であれマインドが決めたことは私たちの行動と経験に作用を及ぼす。求めたものが貴方を待ち受けるのだ。これは幻想ではなくて法則だ、と「コース」はハッキリ言っている。理性を欠いた無秩序な考えを抱けばそこには罪悪感が常にあるので、それらがどんな考えであっても結局は「罰」のようなことを招く羽目になるのだ。

以前にも語られているように「時間」は分離後に生じたこの世のものであり、とりあえずのものである。本来、私たちは永遠の中にいるのだがいまは時間の中にいることを自ら選択しているのであって、そこにとどまるべきだというわけでもない。

が、ここにもやっぱり罪悪感が絡んでいるのである。なぜならば、罪悪感とは「過去に犯した罪のために」自分を責めたり攻撃したりする感情であり、その報いとして「将来、罰を受けるのではないか」と怖れるものだからだ。時間が存在しなければ罪悪感もなく、恐怖も苦しみもないのである。過去は変えられず従って未来からも逃れられない、そういう連続性の中にいるのでエゴは安全なのだが私たちは悲惨だ。しかし、あがないによって私たちはそれら全てから救われるのである。あがないと引き換えに永遠が得られた瞬間に、全ての苦しみは終わるのだ。「コース」は、「今ここ」というのがこの世の中ではもっとも永遠に近いものだと繰り返し言うのだが、「現在」を基点として過去→未来という水平の時間軸ではなく、現在に垂直な時間軸(では既にないのだが)想像していただければ何となくわかるのではないか、と思う。この世にあっても常に「今ここ」という形で永遠が得られるのである。

「あがない」によって現在まで引きずられている過去も、更に未来も浄化される。この段階では、過去に起きた出来事そのものが歴史上や私たちの記憶から消えるわけではない。それらは聖霊の光によって解釈し直されることによって、もはや私たちを苦しめるようなものではなくなってしまうのだ。過去が浄化されればそこから一続きだった未来もまた浄化される。私たちは、自前の間違った考えで自分たちの未来を「作る」こともできるが、聖霊によるあがないが為されれば、未来は創造の只中に戻される。即ち、常にその都度「今ここ」として創造されるようになるのである。

エゴは当然こういうことに抵抗する。同じ出来事に対して、エゴと聖霊それぞれの解釈があるのだが、口惜しいことにエゴの解釈のほうがやや先に出てきてしまうらしい。しかし、それを私たちが受け容れなければ済むことでもあるのだが、いずれにしろ私たちは聖霊の声を選んでいれば確実に安心なのである。

ここで「コース」は、間違いから発生しただけのことはあるエゴが如何に間違っているか、という例として「エゴは聖書の解釈すら間違っている、全てエゴ的な見地で自らを保全するために使っている」とまで言っている。エゴは聖書を怖れているので、「これは怖ろしいものだ」というふうに解釈するしかなかったのだそうだ。いくつか例が挙げられている。

前にも出てきた「復讐するは我にあり、と主は言われた」というのは「復讐はシェアできない」ということだったり、かなり無理があるように見えなくもない。聖書の記述の「歪み」についてはもう少し後でまた出てくるのでお楽しみに。

とにかく、聖霊によって解釈し直されればこれまでの間違いは無効になる。この世にあって神の国に生きるというのはそういうことである。間違いが無効になるのであって、壊されるわけではないのだ。エゴも例外ではない。エゴはもともと私たちのマインドが作ったものでありマインドの一部なのだから、本来の「神の御心と一つであるようなマインド」に戻されるだけなのだ。それによって私たちは恐怖から解放される。

このあたりには聖書に則って「高等法院」の喩えが使われている。エゴの判断が下級審だとすれば聖霊の判断は上級審だとか、エゴがどんなに巧妙なやり方で私たちを告訴しても聖霊は必ず却下してくれるとか。要するに、本当にどんな人でも「あがない」を受け容れれば例外なく浄化されて神の国に入れる、ということなのだ。

 
第176回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 32・33

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」32

第5章 その3

いきなり話が逸れて恐縮だが、言葉で何かを伝えるということにはどうしても限界がある。何度か書いている通り、表現されたものは全て虚構たらざるを得ないからである。それを何とか打開するものとして考えられるのが詩か寓話によって語るという方法なのだ。ところが、これにも大きな弱点がある。分かる人にはわかるが分からない人には全くわからない、象徴やメタファーで語っているのに字義通り読まれてしまう危険が大きいのである。「コース」ももちろん例外ではない。まず、語られている内容が本来は言葉で語りえないことであるのに加え、エゴを擬人化してみたりあちこちに寓話的或いは隠喩的な語り方も見られたり、非常に素直な人ならスラスラ読めるのかもしれないが、ものすごく丁寧に読んでいると「あれ?」と思うところが結構あるのだ。

この章においても、聖霊が私たちの中にあるようにも外にあるようにも語られている。本来の状態を歪め、知覚・認識機能を歪めてしまった私たちはもはや内と外の区別さえつかなくなってしまっているのだ。私たちの中にあるはずの、いやそれどころか本来は私たちがそれ自身であるはずのスピリットも、ありもしない宇宙の果てからわざわざ呼び出してこなければならないようなものに見なされてしまったり、私たちと本来は一つでありその一部でもあるはずの神などはすっかり「他者」のようだったりしているではないか。会ったこともなくテレビで見るだけのタレントのほうが余程身近だったりするくらいなのではないか。

「コース」には、このように内と外の区別がつかなくなってしまった私たちの感覚に沿って語られている部分が沢山あるのだ。多分、そのほうが私たちにとってわかりやすいと考えてくれたのだろう。

聖霊の話に戻ろう。聖霊は、認識が直接知に至るための架け橋のようなものだが、それは聖霊が「神から離れた私たちのマインド」と「神のマインド=御心」の両方を理解できるからなのだ。それゆえ、聖霊は地上での私たちの生活においても非常に役に立ち助けになってくれる存在なのである。

人間関係を例にとれば、誰かのことを知りたい、わかりたいと思うならその人の来歴や言動を見るよりもその人の中にある聖霊を見るようにすればよいわけだ。別に霊視という意味ではない。霊視といえども、現在であれ過去世であれやっぱりエゴが見えてしまうことも多いからである。その人の表面には現れておらず、その人自身も全く気づいていないかもしれないが、その人の中には聖霊が宿っていて同じものが私たちの中にも宿っている。そういうつもりで人と接してみてほしい。

第30回でも出てきた「スピリットのコミュニケーション」と相通ずるところもあると思うのだが、私がスピリチュアルコラムで何度か紹介した「和尚」は「人と一緒にいて自分が話そうとしてはいけない。聴き手になりなさい。相手の言葉を聞くのではなく相手の存在全体を、貴方の存在全体をもって聴きなさい。」みたいなことを言っている。

基本的にはこれと同じようなことなのだろうが、とにかく相手がどんなにエゴまみれの醜態をさらしていてもその部分には反応せず、エゴの向こうにある聖霊を見ることだ。

この時私たちは「自分というマインドを相手に分け与える」ことをしているのである。シェアという概念をもっと広げてみてほしい。気持ちや考えを「言葉を用いて」相手に伝えることだけではないのだ。

こういう見方がなぜ素晴らしいのかというと、私たちが誰かの中に聖霊を見ればそれによって自分の中に聖霊がいることもわかってしまうからである。自分ひとりで何もかもやろうとするのは難しい。兄弟姉妹の中に聖霊を見て自分の中のそれにも気づけば「私は本来こうだったんだ」という考えが強化され、正しい認識作用がよりたやすくもたらされるようにもなるのである。

これとは逆に相手のエゴに反応してしまえば私たちは自分のエゴも強化してしまうことになるのだ。

聖霊は癒しという考えである、といってもわかりづらいだろうから「癒しのエネルギー」にしておこう。と同時に聖霊は神のエネルギーでもある。すなわち、私たちが誰かの中に聖霊を見れば癒しのエネルギーも神のエネルギーも相手のみならず私たちにおいて増大し強化される、というわけなのだ。

聖霊の声は、通常エゴの声にかき消されてしまっている。もっとよく聞こえるようになりたいと思うなら、上記のように「相手の中に聖霊を見る」ことで自分の中の聖霊の力を強めていくのが早道である。たった一人で「聖霊とつながろう」みたいなワークなんかするのは却って危険な場合が多い。絶えず評価・判断を下しているエゴが「ガイド」として貴方につきまとっている可能性が高い・・要するにエゴに邪魔されやすいからである。

前回も書いたことだが、実際そこかしこにエゴが顔を出してくるものなのだ。聖霊の声を聴くことはとりもなおさずエゴ的なものの見方や感じ方を放棄することなのだから、話があべこべにならないよう、よくよく自分のマインドを観察していなくてはならない。

どれくらい時間がかかるのか、などと気にしないこと。なぜなら時間はエゴのもの、エゴが作ったものだからである。時間を気にする=エゴに支配されていることになってしまうからである。時間という観念の中で唯一、永遠をあらわすものは「いま、この瞬間」だけなのだ。

聖霊は神と違ってエゴのあれこれもわかっているので、エゴが作り出したものを神の光に照らして解釈し直して私たちに示してくれる。たとえば、身体や時間などの有効利用法を教えてくれるのも聖霊の力であるらしい。

私たちはそれぞれ完璧に造られているのだが、これは単独で存在しているという意味ではない。前にも述べたように私たち一人ひとりの中に「全て」が、ただ一つでもある「全て」があるのだ。聖霊はこのことを私たちに思い出させる。その光景はあまりにも静謐で平和なので、平和を何より嫌うエゴにとっては恐怖なのである。

マルクスを持ち出すまでもないが、エゴは闘いを勝ち抜いて生き延びることに価値を見出しているのだ。ゆえに、ただ平和で静謐だけの状態では何をしてよいか分からなくなる。あるいは「このままではダメになるのではないか」「弱くなるのではないか」などと思ったりもする。生きがいを見出すためにわざわざ争いを作り出す。「コース」は戦争を例に挙げているが、別に国家間・民族間の戦争に限らない。私たちの日常的な人間関係においても多々見られることである。トラブルや争いが絶えなくて本人は辛がっているつもりなのだが、何もなくなると不安になったり「実はどこかに危険が潜んでいるのでないか」などと考えたりして本当にそれを作り出してしまうのだ。

聖霊だって危険がないかどうか警戒はしているのだが、そこに平和を持ち込むことによって危険を打ち消してしまうところが「戦う」エゴとは異なっている。

私たちが今までに作り出したもの、間違った認識などを聖霊はただ消し去って終わりにするのではない。聖霊は完璧な教師でもある。私たちに分かるやり方を用いて、私たちがまだわかっていないことを教えてくれるのだ。すなわち、私たちの本当の家、帰るべき故郷を、そしてそれが私たちの中に既にあることを教えてくれるのである。

身体や時間だけではない。この世界そのもの、即ち私たちが神と離れて作り上げたこの世界そのものさえ、聖霊の手にかかれば私たちを目覚めさせ本来の姿に気づかせる「仕掛け」としてうまく活用されるのだ。だいたい、「世界」というものが客観的な事物として存在するわけではないのである。私たちが自分をどう見ているか、それがそのまま私たちにとって世界がどうあるのかを示しているのだ。よく考えてみて下さい。世界なんて実体があるようで、実はないものなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 33

第5章 その3

私たちの世界には「対立概念」というものがある。光と闇、上下・左右・前後、過去と未来、などなど列挙したらきりがないが、これらがいくら幻想だと言われてもそう簡単に手放すことはやはり不可能だ。たとえば、昼というのは夜があるからこそのものであって、夜がなくて昼だけだったらそもそも「昼」などという言葉さえ必要なくなってしまう。

聖霊は、こういうものもうまく用いつつ私たちが間違いを正し学んでいくプロセスを導いてくれるのである。

さて、真理というのは殆ど神と同義語なので、始まりも終わりもなく普遍かつ永遠のものである。そして、もちろん真理は神が私たちを造ったときに私たちにもそのまま伝えられた。「コース」はこの消息を「私たちが神とともに真理を創造した」のだと表現している。これは何となくわかりますね?少し前に「神の創造」がどういうものか、私たちが日常的に使う「創造」の概念とは違うことを学んだはずなので、へ?と思った方は第30回の文章を読み返してみて下さい。

とにかく、真理はエゴによって見えなくなってしまっているだけで実はずっと私たちの中にあり、なくなることはありえない。何かしら真理の断片を見出したとき、つまり「知った」とき人は大抵驚くのだが、それは真理の内容に対してだけでなく「そうだったのか!いままでどうして気づかなかったのだろう」ということに驚くのである。

で、真理はたとえ隠され忘れ去られることがあっても「あがない」によってまた日の目を見ることができるし、私たちが「神の子」である以上必ず私たちの中で守られているものなのだ。

前回までに「あらゆるものは考えなので分け与えられれば強化されることはあっても減ったりなくなったりすることはない」ということを学んだが、やっぱりエゴはそう思っていないのである。基本的にこの原理を信じていないか或いは知らないのだ。

非常に沢山の人が「本当のこと」だと信じているからといってそれが本当に「本当のこと」だとは限らない。それはこの世の歴史においてさえ明白である。長いこと太陽が地球の周りを回っていると思われていたが、今では誰もそんなこと信じない。地球が太陽の周りを回っていると思われている。この先それがどうなるか私は知らない。

結論から先に言ってしまおう。本当の意味で分け与えられ得るのは神に造られたもの・神から派生したものだけである。これらは真実であり実在するものだからである。しかもそれらは本来私たち一人ひとりの中にあるものだ。分け与えられる以前から既に持っている。が、分け与えられることによって私たちがその事実を思い出すとともに、その部分が目覚め強化されるのだ。そもそも本来の意味でのシェアとは創造に他ならないのである。

一方で、エゴが作り出したあれこれは「本来は存在しなかったもの」であり、どこまで行っても実在になることはあり得ない。これらが分け与えられ、というかマインドからマインドに伝播され、本当のことであるかのように長年信じ込まれてもやっぱり「ないものはない」という事実に変わりはない。私たちがそれを信じるのをやめさえすれば私たちの中から消えてしまうのだ。そんなものを「分け与える」ことなど本当はできないのである。

「コース」は、分け与える=シェアという言葉を極めて限定的に使っている。繰り返すが、シェアするとは神的な創造に他ならないのである。真実でないものはせいぜい「みんなのマインドに配られる」くらいなものであって、まあそれでも一旦は強化拡大されてしまうのであるが、本当の意味でシェアはされないのだ。

これには、エゴがその本質からみて「シェア」と逆向きのものだという事実も絡んでいる。エゴは自己保全のためにあれこれを守るわけで、エゴが何かを相手に伝播するとしたらそれも全て自己保全目的でしかあり得ない。

しつこく繰り返すが、本当の意味でのシェアとは創造なのだった。すなわち、「考え=エネルギー」である私たちの存在の一部をそのまま相手に与えるようなものなのだ。エゴにはこれができない。それぞれ自己完結していて閉じているからである。

そのままではとてもシェアできないようなものも、聖霊によって浄化されてしまえばめでたくシェア可能になる。聖霊は、スピリットから届いた赦しを受け取って浄化=あがないをしてくれるのだった。赦され浄化されればマインドは癒され、私たちはどんどん身軽になる。その状態を保ちたければ今度は他の人たちに同じことをすれば良いのである。これがシェアであり創造なのだ。神による或いはそれに似た創造とはこういうものなのだ、とここでしっかり理解してほしい。形があろうがなかろうがそんなことは一切関係ないのである。

誰かが貴方に何かおかしなことをした時、貴方がそれで傷つけば相手は貴方を傷つけたことになる。しかし、貴方が傷つかなければ貴方は相手に対して自分が「何一つ欠けることのない存在だ」ということを示す、つまり教えることができるのだ。これこそがシェアであり癒しなのだと「コース」は言っている。ふーん、でも身体を傷つけられたり殺されたりしたらどうするの?と思うかもしれないが、自分が身体ではないのだと示すことはできる。別に、泣き寝入りしろなどと言っているわけではないのだが、こういうことについては後に詳しく述べられる。

身体もまた「考え」つまりエネルギーであり、私たちにとっては少々重荷にもなるものだ。しかし、聖霊の助けを借りて浄化されれば私たちは身体とともにこの世で栄えることができるのだと「コース」は言う。間違いを消去するからといって身体まで消去してしまう必要もないのである。

原書83ページ中ほどには、キリストによる檄文?!みたいなものが載せられているのだがここでは割愛する。

さて、ついに「罪悪感」が初めて詳しく語られる。これこそが、恐怖と表裏一体の強力なクセモノでありエゴにとっての一番のご馳走みたいなものなのだ。エゴがいかに罪悪感を巧妙に使うか、ちょっと見てみよう。

罪悪感が恐怖を生む。エゴが一番好きなものは恐怖である。恐怖に駆られている人は必ず自己中心的になる、つまりエゴイスティックになるから万々歳なのだ。確かに、独裁者なんてものは総じて恐怖の裏返しで強権的なのだった。ただ、恐怖も罪悪感もいろいろなものに姿を変えて私たちを欺くので、当の本人にさえわかっていないことがある。特に罪悪感は、この世においては「美徳」とさえ見なされることもあるからクセモノなのだ。だって、例えば「罪深き私たちのために祈ってください」なんてアヴェマリアを聴けば何だか清らかな感じがしてしまうかもしれないし、「私が神と一体?そんな滅相もない、傲慢だわ」なんて思う人もいるでしょう?謙遜が罪悪感の裏返しになっていることも結構あるのだ。あるいは、何か悪いことをしたとされる人が落ち込みやつれ果てていれば私たちは満足するが、ニコニコして楽しそうだったりしたら「けしからん!反省が見られない」などと言って怒る。相手に罪悪感を求めているのだ。だが、端的に言って、罪悪感と反省とは関係あるように見えて実は全く関係がないのである。

私自身、リーディングで「相手にどうしてほしいのですか」と尋ねたところ「罪悪感を持ってほしいんです」と答えられた経験も一度や二度ではない。しかし、これは大変正直な方々なので却って問題が少ないのだ。相手に成長してほしい、自分と向き合ってほしいと言いながら、或いは本当にそう考えているつもりでありながら、実際には「自分の非を認めて申し訳ないと感じてほしい」つまり「罪悪感を持て」と思っているようなケースも多々ある。いずれの場合でも、そう思う当人こそが元々強い罪悪感を抱いているのだ。恐怖と同様、罪悪感も攻撃と密接に関わっているのだが、罪悪感と攻撃との関係はより巧妙な形で現れることになっている。たとえば幼児にもエゴはあるのだが、彼らは自分が攻撃されて恐怖を感じたとき、自分が悪いのだと罪悪感を抱いてしまうことがよくあるのだ。

とにかく、このあたりの仕組みがわかってくると自分の本当の思いを自分に対して誤魔化せなくなるので、非常にスッキリする。

 
第175回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 30・31

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 30

第4章 その8

ただ在るものも実存も「存在そのもの」に依拠している。当たり前だ。存在に依拠しないものは「ない」=無だからだ。これに対してエゴは存在に依拠しないで存在できると思い込んでしまっているという点でまあ「ない」ようなもんなのである。

さて、「コース」によれば伝達=コミュニケーションと創造とは同義語なのである。何やら神性、つまり神のマインド=御心が捨象されて伝達されたものが私たちのマインドなのだ。同じことを私たちのスピリットも行うことができるのだが、それにはマインドが実存を超えて、つまり時空を超えて「ただ在るもの」になっていなくてはならない。ここで「ただ在るもの」をスピリットだ、と言っていないことに留意したい。

認識も表現もできないものを無理やり言葉で表現しているような記述は続く。できるだけ「具体的に」書き直してみよう。

実存的自己あるいは個別の現象としての自己にとって現実とは「私の現実」「あなたの現実」「100年前に生きていた誰かの現実」のように個別のものである。これはわかりますね。しかし、私たちは本来、時空を超えて常に今ここに存在する「ただ在るもの」「神と一つであるもの」なのだった。その「ただ在るもの」が、いまここにこうして居る「わたし」「あなた」において現象しているのである。100年前の、あるいは1000年前の別にあなたの過去世ではない誰かにおいても同様に現象していたのである。言い換えれば、一つであるところの「全て」が、全てを知るところの完璧な存在が、その都度今ここで「碧海ユリカ」などというものにおいて、また同時に全ての個体において現象しているのだ。にもかかわらず本質としての、絶対的一人称としてのわたくし、つまり「ただ在るもの」は常に神と一体であり時空を超えている。

これこそが私たちの本当の現実なのである。分かりましたでしょうか?だから現実は抽象的だ、と言ったのである。しかしある一線を越えてしまえば、むしろこういうものに対して現実感を覚えるほうが普通になる。さあ、ここで死ぬほど考えていただければエゴが消えて認識の果てに出られるかもしれませんよ。そうでない方は「わからなくても受け容れられなくても前に進め」である。

とにかく、この状況においてこそあらゆる「真実なるもの」との真のコミュニケーションが可能となる。「コース」はそれこそが創造というものだと言っているのだ。

さて、啓示とは神から私たちのマインドへの真の意志伝達であるが当然のことながら一方向的なものだ。なぜなら、今更改めて私たちが神に対して自らを顕現させる必要など全くないからである。また、啓示は前述されているように非常に個人的な直接経験なのでその内容を人にそのまま伝えることは不可能だ。しかし、啓示によって得られたもの=「私たちはエゴではない」ということを何らかの形で示すことはできる。神から私たちへの意志伝達が啓示なら、私たちのほうから神に対して何ができるのか?という問いに対する答えがこれなのだ。

非常に皮肉で逆説的なのだが、神とか本来の状態などといったもっとも普遍的なことを知るのは常に私たちのもっとも個人的な体験によって、私たち個々のマインドにおいてのみ可能なのだ。何故こういうことになるかと言えば、啓示される内容が具体的ではなく知覚・認識作用による伝達が不可能なものだからである。「皆さん、集まってください。大切な話があります」などということはできないのだ。会衆のうちの何人かが同時に啓示を受けることならあるが、その場合でも個々人の啓示の中身は異なっている。

「神をほめたたえよ」・・なるほど神は賛美されるべき存在ではあるが、神自身は別に私たちから「ああ神さま、貴方は何とスバラシイのでしょう」と言われることなど全く必要としていないし、そんなことされても認識できない。あらまあ、確かにそうである。いくらホサナと叫んでもダメだったのだ。真の意味で神を賛美したければ、私たちが真に兄弟姉妹の助けになるようなマインドになることだ。エゴなき姿を示すような、即ち神に造られたとおりの在り方で在ることだ。

第5章 その1

真に助けになるようなマインドが具体的にできることの一つが「癒し」である。癒しとは簡単に言えば「幸せにすること」であり、祝福であり、壊れたり痛んだりしたマインドを本来の状態に向けて修復するものである。そこには聖霊の力が必要とされるので、この章の多くが聖霊についての記述となっている。

誠心誠意・心をこめて・一心にという状態にある時私たちは幸せなはずなのだ。なぜならこういう状態のとき恐怖はなくなっているからである。たまに「恐怖のあまり我を忘れて」頑張ってしまうこともあるかもしれないが、その時は我も恐怖も同時に忘れているはずである。

原文ではここにwholeheartedlyという言葉が使われている。神と一つのマインドにはなっていないまでも、エゴが影をひそめてマインド全てが同じ方向に統一され、即ち統合されている状態を示している。

特定の誰かから誰かに対して行われたとしても、癒しは同時に全然関係ない他の人にも作用をもたらす。どこかで誰かが慈悲深い思いを抱けば私たちにもその祝福は届けられているのだ。

癒す者の祈りとして「私が私自身を知るのと同じように、この兄弟のことを私に知らしめたまえ」という章句が書かれている。

さて、前にもちょっと書いたがここで初めて「コース」の語りとして「全てのものは思考・・考えである」という事実が明らかにされる。癒しもまた一つの「考え」であり、私も貴方も聖霊も全てが「考え」なのである。もう少し先に出てくるのだが、神でさえ「考え」なのだ。この「考え」とは「思い」でも「思想」でもないのだが、これがうまく理解できない方は「考え」をエネルギーや波動という言葉に置き換えてみればよい。あるいはイデーと言っても良い。ちなみに「引き寄せ」の原理もこれなのである。

物質は与えてしまえば手元から無くなり、分配すれば自分の手持ちはそれだけ減る。私たちはそのように認識している。しかし、考えは良いものも悪いものも分配することによって増大あるいは強化されるのである。基本的には、いわゆる「考えを広める」というのと同じことだ。スピリチュアルであれ、レジ袋廃止運動であれ、テロ思想であれ、私たちがそれを伝えた人が賛同してくれればそれら「考え」はその分だけ広がり強化されたことになる。ちなみに、私たちの「世界」というのも一つの考えなのである。この世界が確固たる実在だという考えを皆が信じているからこそ、世界はそのようにあるということだ。更に言えば、神だって「考え」であるところの自らを分配してやはり「考え」である私たちを創造したのである。

全てのものが考えであるのなら、当然「物質」と思われているものも実は「考え」なのだとわかる。となれば、物質を分け与えても本当は私たちから失われるものは何もない、ということになる。イエスキリストがパンと魚を割いて5千人に分け与えたのにまだ手元に残った、という奇跡を思い出して欲しい。これは非常に象徴的な話だったのである。

「考えは分配すれば強化される」というこの原理が聖霊を呼び込むための基礎を作るそうなので、しっかり理解してほしい。いくら聖霊が私たちのスピリットに宿っていても、私たちが望み、或いは同意しない限り聖霊の声は聞こえないし、キリストも私たちに聖霊を送ることはできないのである。「コース」は、この原理を次のような言葉で表現している。

「考えは、分配し分け与えることによって増大する。より多くの人が信じれば信じるだけその考えは強化される。あらゆるものは考えである。だったら、与えることがどうして失うことになるだろうか?」

聖霊は、癒し、慰め、導きを与えるものである。しかし聖霊は、直接知ができない私たちでも認識できるようにわかりやすい形に姿を変えて現れるという、まあ言ってみれば象徴的な役割を持っているので却って難しいこともある。象徴するものと象徴されるものは当然別物なので、いかようにも解釈できてしまうからだ。聖餐式の赤ワインはキリストの血の象徴だが、まさかこの赤ワインが本物のキリストの血であるわけもない。白い鳩は平和の象徴とされているが、別に白い鳩が平和それ自体なのではないわけだから人によっては白い鳩を見て「悲しい恋の思い出」をイメージしてしまうかもしれない。

復活したキリストもまた聖霊なのだが、キリストは自分が去ってしまっても他の聖霊を私たちに送ってくれると約束したのだ。それらはいつでも私たちの招きに応じて現れてくれることになっている。驚くかもしれないが、私たち自身が誰かに対して、或いは誰かが私たちに対して「聖霊」が顕現されたものとしての役割を果たすこともあるのだ。なぜなら、三位一体により聖霊と私たちとは本来ひとつのものだからである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 31

第5章 その2

聖霊は、私たち全てのものに共通して宿る普遍的な霊感(inspiration)であり、同時に神の中にもあるものだ。更に聖霊は、認識が直接知に至るための橋渡しをしてくれるという役割も持っている。聖霊はスピリットに宿り、スピリットによる認識は限りなく直接知に近いものだからである。認識と直接知は質的に異なるので、連続しているわけではないがあるところまで来ればひとっ飛びなのである。非連続の連続、というべきようなものなのだ。

私たちに救いをもたらすための「あがない」も聖霊の力を借りて為されるものだった。ここでは、聖霊が私たちのスピリットと神との橋渡しをしてくれる。

さて、聖霊による癒しとはいかなるものであろうか?聖霊は、私たちに癒しなど必要なかった頃の姿を、また既に癒されたところの姿を見るのである。ここに時間があまり作用しないことは既に「奇跡」のところで見た。私たちの側では、エゴなど分離の産物を手放すことによって、神から分離してしまった状態を癒そうという決断をしなくてはならない。これにはそうしたいという意志が必要なのだが、神の御心に沿っているはずのこの意志は私たちの中に眠ったままのことはあってもなくなることはない。神は創造し続けている。神は絶えずその御心というか「考え」を私たちに送り続けている、すなわち創造し続けているからである。

聖霊は、私たちのマインドに喜びをもたらす呼び声、本来の住処に帰っていらっしゃいという呼び声でもある。つくづく、分離以前には呼び声なんて必要なかったのだ。

いや、考えてみると三位一体の神ということ自体が分離以前にはありえなかったのだ。私たちが自らを救われない状態に陥らせなければ、私たちを導くキリストも聖霊も私たちと同様に神とともにとどまっていただろうからである。

「コース」はここで少々寓話的な語り方をしている。即ち、私たちが神から分離してしまったと(思ったのと)同時に、そこから私たちを救うための聖霊を送り込んでくれたと言っている。これではまるで聖霊が私たちとは別の何かのように感じられるかもしれないが、あくまで一つのものである。一つのものの別の位相だと考えればよいと思う。

しかし、悲しいかな聖霊の呼び声はたいていエゴの声にかき消されてしまっている。というより、私たちがどちらの声を聴くか自分で選ばなくてはならないのだ。これには強い意志とやる気が必要だが、そうすればこの地上でさえ聖霊の声だけを聴いて生きていくこともできるのである。これは、人間でもあった頃のキリストが最後に学んだことであるらしい。

もともとの光を自らの闇で見えなくしてしまった私たちに新たな光をもたらしてくれるのも聖霊である。

ところで、聖霊はガイド=導き手であるのだが、神は導きなどしない。導きは神のものではないのである。だから、導きがほしければキリストに頼むしかない。そうすれば必要に応じて聖霊を呼び出してくれるだろうからである。つまり、私たちの中にある聖霊を、今の私たちにわかる形で顕してくれる、ということだ。

導くというのは常に選択や判断を伴う。正しい道と間違った道があればもちろん正しい道に導くわけだが、間違った道がありうるという点で既にこの世のものである。更に対立物がなければ選択はありえないので、選択もまたこの世のものである。ゆえに、導きは神のものではないのだ。

言うまでもないことだが、聖霊の選択は常に神の御心に沿ったものである。しかし、これも悲しいかな私たちはしょっちゅうエゴを自分たちのガイドにしてしまっている。ガイドというより道連れか。それも地獄へ道連れ、という感じである。

神は私たちの中にいる、という人もあるのだが「コース」はここで明白に「神は私たちの中にはいない」と語っている。そうではなくて私たちのほうが神の中にいるのであり神の一部なのだ。これも悲しいかな、私たちはそのことを忘れ去ってしまったので、もはや神との直接交流は不可能になった。神と私たちが断絶したからではなく、直接交流の手段がなくなってしまったのである。聖霊は、神と私たちとの間の伝令みたいな役割も担っている。もちろん、それにはまず私たちがエゴの声ではなく聖霊の声を選ばなくてはならないのだ。

聖霊の声は私たちに何かを命令したり要求したり、あるいは私たちを打ちのめすようなものではない。それは私たちが本来どのようであったかをただ思い出させるだけなのだ。

聖霊を介した神との交感は私たちの内なる祭壇においてなされるのだが、スピリットでもあるこの祭壇の用意を整えるためには私たちがそこに愛なり情熱なりエネルギーなりを注がなくてはならないのである。聖餐式のために祭壇を整えることを「祭壇奉仕」と言うのだが、私たちは一体どんな祭壇に奉仕しているのだろうか?自分にとって「より良い」と思われるほうにエネルギーを注いでいるに違いない。要するにここでも「エゴか、聖霊か」ということなのだ。具体的に言えば、自分を守るかシェアするかということになる。

毎度のことながら、私たちは神の御旨に沿った選択をするのが良いのだし、どうしてよいか分からないときはキリストに聴けと「コース」は言う。何故神の御旨に沿うのが良いのかといえば、それが私たちを造っているものであり私たち本来の、つまり自らを完全なものだとするような意志と限りなく同じものだから、平たく言えば「もっとも自然」だからである。

「意志」の問題はもっと後で詳しく扱われるのだが、私たちは神の御心・御旨と自分の意志が同一になったときがもっとも自由なのだということだけ覚えておいてほしい。神の御旨に従うのを不自由と感じるならその時あなたはエゴになっている。なお、神の御旨に沿って決めるというのをわかりやすく言い換えると「インスピレーションに従う」となる。これなら、なるほどと感じられると思う。

常にこのような選択をすると決めなさい、そしてその決心そのものも兄弟姉妹に分け与えて広めなさい。キリストはそうも言っている。

スピリチュアル系でも「内なるガイド」という言葉を使うことがあるが、聖霊とほぼ同じものだろうと思う。私たちのスピリットには神の御心と同じマインドである聖霊が宿っているのだから常にそれを頼りにしていればよいのだし、どうしてもそれを見失ってしまったのならキリストに頼んで呼び出して(といっても自分の中にいるのだが)もらえばよいのである。でも、どうやって?それがこの「決心」なのである。とにかくまず心を決めるのだ。エゴではなくスピリットに、聖霊にあるいは神の御心に従おう、とまず決めるのだ。何か大きな判断で迷ったらまず「決心」をし、一旦それを忘れて身近なことでも何でも良いから、たとえばデータ入力でも食器洗いでも雑巾がけでも何でもよいから心をこめて一心不乱にやっていればエゴは消える。どうなるのかしら、ああなったらどうしよう、何もなかったらどうしよう、いつわかるのかしらなどと考えてしまったらその時貴方はエゴとともにいるわけで聖霊の声など絶対に聞こえなくなってしまう。むかし、どこかの横綱が「一意専心」とか言っていたがこれこそ「wholeheartedly」であり「integrated mind」なのである。

どのように動いたらよいのかなどと考える必要はない。前にも出てきたことだが、私たちが責任を持って決められるのは「考え」の部分だけなのである。行動はその結果もたらされたものに過ぎない。

聖霊の声を聴く、というのを目標にするのはよいのだが、私たちはどうしてもエゴ的な考えによって何でもやりたがる癖を持っているのが厄介だ。とにかくこれに関しては「時間」を忘れて取り組むことがとても大切なので注意していただきたい。

それに第一「聖霊の声」というのは別に何か「お告げ」がどこかから聞こえてくるようなものとは限らないのだ。どちらかというと「お告げ」みたいな形では来ないほうが多いと考えてよい。その都度、常識的な意味では根拠が無いにもかかわらず確信を持って神の御心に沿った正しい選択ができたならそれが「聖霊の声を聴いた」つまり「インスピレーションに従った」ことになるのである。

「目覚めよ」という呼び声は聖霊からくるものだ。私たちは眠り込んで自ら作り上げた悪夢を見ているから苦しいのである。安息は、眠りでなく目覚めている状態で得られるものなのだ。

 
第174回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 28・29

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 28

第4章 その6

ここでは、神から分離してしまったところのマインドとそれが生み出したエゴと身体との摩訶不思議な関係が語られるのだが、これがかなりややこしい。ちょっと詳しく解説してみよう。

まず、エゴは身体を一応自分の住処としている。私たちがこの身体を自分だと思ってしまうのもこのためだ。身体は生まれて死ぬという有限かつ傷つきやすいものだとされたので、私たちがこのような脆弱なものと自分自身とを同一視することがエゴにとっては都合が良かったのだ。私たちが身体ならばそれは「神ならぬこの身」ということであり、私たちが自分自身を神の被造物だとは夢にも考えないようになるからだ。だからこそエゴは身体を大事に思っている。

しかし、さすが矛盾的な存在だけのことはあってやっぱり一筋縄ではいかないのだ。エゴは同時に身体を憎んでもいる。身体は分離の象徴ゆえ、私たちを「個」として保つものであり個としての私たちを守ってくれるものになっている。というかエゴがそう思わせているのだ。ところが、身体は簡単に傷ついたり病んだり死んだりするようなものでもあり、守ってくれるものとしてはあまり当てにならないじゃないかと私たちが考えるのも時間の問題なのだった。あなたは死すべき身体の一部なんだから神とは違うんだよ、と同時にあなたは身体によって保たれているんだよ、守られているんだよなどと矛盾したことをマインドに教え込んでしまって、エゴは収拾がつかなくなった。

不安なマインドは当然「私は何に守ってもらったらいいの?どこに行ったらいいの?」と尋ねるだろうが、エゴには答えられない。答えようがないからである。で、どうしたと思いますか?その疑問自体を私たちが気づかないように顕在意識から追い出してしまったのだ。顕在意識から追い出された疑問というのは何であれ不安を呼び起こすようにできている。不安になりたくない私たちは敢えてそんな疑問を抱かないようになるのである。

うえー。身体とマインドの関係はこれからもあれこれ出てくるのだが、こういう類のことについて私たちがなかなかスッキリ理解できないのはそういう理由があったのか。

「私たちは何に守ってもらったらいいのか?どこに行ったらいいのか?」今こそ、この疑問に正面から向き合おう。求めよ、さらば見出さん。とはいえメクラ滅法手当たり次第に求めたってダメなのである。目的を定めてちゃんと意識的にやらなければいかん!

私たちが何かを学ぶ時、それが学ぶに値すると思えばこそ熱心になるし効果も上がる。しかし「コース」によれば、私たちが学ぼうとするのは価値のないものばかりだし、それどころか価値のないものばかりをわざわざ選んで学ぼうとしているほどであるらしい。

ここはすごい。無限とか永遠などというものはもとよりエゴには無縁である。にもかかわらずエゴはそういうようなものを求めようともしている。で、どうすると思いますか?無意味で答えの出ないようなしょうもないことを次々と、延々と考え続けるのである!これってまさしくあの「悪無限」のことではないか!誰でも身に覚えがあるでしょう。というかいま現在まさにそういう状態の人も絶対にいるでしょう。堂々巡りで答えの出ないようなことを次々と考えて日々を過ごしていれば、本質的なことを考える余裕なんかなくなるわけである。ちょっとは本質的で普遍的なことを考えましょうよ、と言うと大抵の人に「いろいろ生活があるからねえ、とてもそんな余裕は・・」とか「貴方みたいにヒマ人じゃありません」などと答えられてしまったりする。なに言ってんのよ!そういう人に限って余裕ができてもちゃんと考えやしないのだ。

それどころか、「私のアイデンティティは何?」とか「私の使命は?」などまあまあ本質に近いような疑問でさえも正しい考え方で考えない限り、つまり自分をなくして「無人称」「非人称」によって純粋理性で考えない限り必ず答えの出ない悪無限に陥ってしまう。

ともあれ、かくしてエゴは保全される。エゴを保全なんかしたくない人は自問しましょう。「こんなこと考えて何になるの?」どうなりたいのか、どうしたいのか目的をハッキリ定めましょう。そうしない限り学びなんてとてもじゃないがおぼつかないのである。

そんなわけでエゴは、というかエゴに支配されている私たちのマインドは身体に何か不可解かつ制御できないような衝動、たとえば性欲その他の衝動を覚えると怖くなるのだ。これは全然神とは関係ないようなものなのだが、何とエゴはただ「脅威である」というだけの共通項によってこういう身体の働きと神の思考とを同一視してしまったのである。たとえ他のことではエゴまみれでも今どきの人たちが性的な衝動を怖れるとはあまり思えないが、そういう衝動に駆られた場合少なくとも大抵の人はとりあえずそわそわして不安定になるのである。うまくすればここで「ちょっと待って。もしかして私はこの身体と別物なんじゃないの?」と気づくこともできるのだが、エゴはやはり巧妙だ。そういうことをさせない。で、私たちは即行為に及ぶか、それができない場合は抑圧するか見ないフリをして忘れるか、なのである。なおこの点においては、古来さまざまな宗教がセックスに対して両極端な立場を取ってきたことも考えてみてほしい。あるものは「怖ろしい、忌むべきもの」として沢山のタブーを作り、あるものは「セックスこそ神の賜物、生命バンザイ」と言わんばかりのやりたい放題である。両方ともそれぞれの形で神的な思考とセックスとを結びつけてきたわけだ。

更に、奇跡や啓示につながるような衝動が身体に現れることもある。当然エゴはこれを怖れるが、知覚機能が歪んだままだと性欲その他と区別がつかないのだ。日々祈りと労働にいそしんでいる修道士や聖職者にこんなことが起きたら、悪しき欲望だ!と罪悪感に打ち震え自らを鞭打つに決まっているし、やり放題の教団ならさっさと行為に及んでおしまいだろう。

私たちはエゴをコントロールすることなどできない。コントロールできたりできなかったりするものだと思うのはエゴを既に「実体のある何か」にしてしまっている証左であって、まさにこのことにおいてその時あなたはエゴをコントロールできていないのだ。この点はしっかり覚えておきたい。その都度、エゴに従うかキリストに従うかを選択していくしかないのである。エゴに従ってしまっているかどうか、それはまずその時々の「気分」によって「判断」すればわかる。どうしてもできないのよね、という人はもう一度よく考えてみてほしい。貴方はなぜその苦しみや不安や怒りを捨てられないのか?いや、正確に言えば捨てることを選べないのか?それらの原因が貴方を取り巻く状況や人間関係などではありえないことは既に見たとおりである。原因はただ「貴方がエゴに従ってしまっている」ことだけなのだ。いまここでそれらの「エゴ的な気分」だけを捨ててしまったらどうなると思っているのだろうか?問題から逃げてしまうことになる、とでも思うのだろうか?だとしたらもう少しちゃんと考えてくださいね。思い悩むのと思考するのとは違うんですよ。冷静な心持で問題に立ち向かうという選択肢はありえないのだろうか?というよりそもそも貴方が問題だと思っているものが本当に問題なのだろうか?

とにかくやってみてほしい。慣れてくれば、少なくともいやな気分や思いに襲われるやいなや「あ、またやっちゃったよ」とわかるようになるのだから。

自分が神とも他の人たちとも別個の存在である、という思い込みがある限り、エゴはその思い込みを有効にするための「仕掛け」として用いられざるを得ないのだ。その代わり私たちが考え方を変えれば、もはやエゴが生じる理由もなくなる。

このあたりからそろそろ他人との関係についての記述が出てくる。「コース」ではやはりキリスト教らしく「他の人たち」のことを「兄弟」と表記しているので、私もそれに倣いつつ一応「兄弟姉妹」にしておく。

あがないも救済もたった一人ではできない、というのが「コース」の教えである。私たちが関わりあう人たち即ち兄弟姉妹は、どんな形であれ私たちの学びを助けてくれるし私たちもまた彼らの学びを助けることができる。最も憎むべき相手でさえ、いや最も憎むべき相手だからこそ最も大きな助けになることだってあるのだ。誰か兄弟姉妹に働きかけることはキリストに近づくことでもある。「コース」を学んでいくにつれ、私たちはどんなに憎らしい相手であっても兄弟姉妹に自らがどれだけ恩義があるかということを、ひいては「神の子であること」に対してどれだけ恩義があるかということをも知るようになる。過去世でお世話になったから恩があるなどということではないのだ。

「一つであること」がうっすらとでも分かってくるにつれ認識は聖性を帯び、直接知に限りなく近づくのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 29

第4章 その7

喜びはスピリットのものであり惨めさはエゴのものである。キリストはこのことを私たちに教えようとしてくれているのだが、ちょっと貴方たち本当に分かってますか?とここで念を押している。

私たちが「神と一つであること」を捨ててしまったのはそれが「不要である・価値がない」と判断したからである。ところが私たちは惨めになった。洋服やお金や恋なら「しまった、あれを捨てたのが間違いだった」とすぐわかるくせに、神や本来の状態のこととなるとエゴに支配された私たちにはトンと分からないのだ。「神なし」ということが惨めさの正体なのだよ、とキリストは少しずつ教えてくれようとしている。少しずつというのがポイントなのである。

私たちがやるべきことは実に単純なのだ。即ち、自分がエゴではないことを示すような生き方をすればよい。誰に、というわけではないのだがまずは私たちが日常的に関わりあう兄弟姉妹に対して示すということになる。自分がエゴではないことを示すとは即ち「相手をありのままに見る」=「言動や現象に囚われず、このひともまた自分と同じ神の子であり一つのものから創造された被造物である」と見ることである。或いは神の子である相手に感謝を抱くことである。ゆるすとはそういうことなのだった。行為の問題ではなく認識の問題である。一日一善でいくら良いことをしたって見方が変わらなければ「コース」の学びにはつながらない。そのような認識を持つことが「私とこの人は本来一つのもの」という事実を知ることにつながり、それがそのまま相手への贈り物になり同時に神への贈り物となる。なぜなら相手を知るとは即ち神を知ることに他ならないからである。この認識がどんどん広がってついには「全ては一つ」となる。

一度決心してしまえば私たちは日常生活のあれこれから本当に驚くほど多くのことを学べるのであり、学びを実践することによって今度はこれを周囲の兄弟姉妹に自然に伝えるようにもなれるのである。こういうことを「コース」は教える(teach)と表現している。教えるとは、「コース」の内容を言葉で説明してあげるとかワークショップでも開こうとか、そんな意味ではない。私たちがエゴのないマインドで生活していればそれに接する人々は、もちろんいっぺんに全員が同じように、とはいかないにしても必ず何かを感じ受け取るはずなのだ。そのような意味において救いは協同事業なのである。

以前、本質的な或いは形而上的なことばかり考えているとそれは必ず非人称の思考となるためエゴはなくなると書いたことがあるが、「コース」もやはり同じことを言っている。翻って、エゴはだいたい具体的なことしか考えないものである。それらは「エゴであるこの自分」の価値や保全に関することばかりであり、そういうものだけをエゴは「現実だ」とみなしているのである。エゴにとってはそういうものだけが現実感を持つのだ。

一般的には具体的なものが現実的なら抽象的なものは非現実的だということになってしまっている。今更言うのも何だが一応確認のために書いておくと、実はこれ全く逆なのである。抽象的な考えが何故現実的なのか、自分に関係ないことばかりなんじゃないのかと思う方もいるかもしれないが、こういう考えはエゴ的な自分に関係ないだけであって本質存在としての自分とは関係大有りなのである。神や宇宙や真理について考えるのは、それらが「自分のこと」なのだと端的に「知っている」からなのだ。これは「コース」に言われるまでもない明らかな事実なのだが、大変重要なポイントなのでわからなくても覚えておいてほしい。

ここではその消息を「コミュニケーション」を例にとって説明してあるのだが、このコミュニケーションという語がまた少々クセモノの感じがする。意思疎通というよりも、おおもとの意味としての「伝達」と捉えておいたほうがとりあえずはわかりやすいかもしれない。

エゴは他人=兄弟姉妹をそれぞれ独立した個体でありそれ自身で全一なものとして認識する。たとえばAさんはBさんCさんとは違う個体であり、半分だけAさんだったり少しだけBさんCさんが混じっていたりなどということはなくて隅から隅まで丸ごとAさんである。そしてAさんにはAさんの考えや気持ちがあり、それらは貴方の考えや気持ちとは違っていて当然である。

更にエゴは「分離状態を維持すること」が至上命令なのであり、そのために自己保全を図るのだから本当の意味でのコミュニケーションはもとより不可能なのである。

こういう状態で何とかコミュニケーションをおこなうとどうなるか?貴方は自分の「具体的」な事情だの気持ちだの何だのを相手にぶつけ、「わかって、わかって」と望み、相手もまた同じことをする。そしてその「具体的な内容」に対して巧妙に自己保全を図りつつ反応する。一応会話が成立しているように見えても実際には何が何に対して何をしているのかサッパリわからんようなものなのである。話せばわかる、どころか話せば話すほどコミュニケーションは崩壊する。エゴの本性がそうなのだからこれは当たり前なのだが、貴方は「相手のせいだ、相性のせいだ」などと的外れな一般化をして自分を納得させる。理解しあうというのはエゴにおいてはせいぜい「合意に達する」ことに過ぎない。エゴの意志は疎通しないのである。

これに対して本来のコミュニケーション、即ちスピリットのコミュニケーションは「コース」の言葉を借りれば抽象的かつ直接的である。といっても分かりにくいだろうから説明すると、言葉や語られた内容のあれこれに反応せず判断せず、言葉を介しているように見えて実際にはそうではなく、極端に言えばただ黙って座っているだけでも全てが隈なく伝達されるような事態なのである。霊的交流と言ってしまっても良いのだが、そうすると何だか全然別のものをイメージされそうな気もする。いわゆる霊感があったり霊視ができたりする人でもこの手のコミュニケーションができるとは限らないのだ。テレパシーなどでそれぞれの頭にある考えの具体的な内容が伝わる、という意味とも微妙に違うのでちょっと気をつけてほしい。

エゴが「バラバラの個体」としてしか知覚も認識もできないところの私たちそれぞれは、実は全て「ただ在るもの」であり「存在そのもの」によってつながっている。これをハナから無視しておこなうのがエゴのコミュニケーションであるならば、根底をなす「ただ在るもの」ということにのみ立脚しておこなうのがスピリットのコミュニケーションなのである。

もちろん、自分がスピリット主導の状態であれば相手のエゴに反応しないで済むのは間違いないことだ。くれぐれも「私はちゃんとしているのに相手がエゴだからダメなんだ」などと言わないように。

さて、このあたりはもう「分かる人には当たり前のことなので全て分かるが、分からない人には全くわからない」のだろうなあと思われる記述が続くのだが、何のことはない「神を知る」あるいは「全ては一つである」という事態を別の仕方で述べているだけなのである。

前にもちらっと書いたのだが「存在するもの」と「存在そのもの」とは違うのである。存在するものが存在しうるのは「存在そのもの」のせいである・・・存在するものについてはいくらでも表現のしようがあるが、存在そのものはもちろん直接知によって知ることはできるが絶対に認識できないものなので、これについては全く表しようがない。ああ苦しいがこういう書き方になる。そしてその「存在そのもの」の別名がおそらくは「神」「造物主」なのだ。多分「コース」も神以前に「存在そのもの」があったとは言わないだろうからである。しかし、ここが問題なのだ。私は「ずるい」とさえ感じる。「神」と言ってしまったらそれはもう「存在するもの」と同じことだ。いくらでも表現できてしまう。実際、神は認識もイメージもできないものだと言いながら、まあ崇高で愛で慈悲で全てであるようなものなど私たちには確かに想像しにくいとはいえ、「コース」は神の性質をあれこれ列挙しているのだ。「コース」における神は存在そのものか存在するものか?「コース」はこれを明らかにしているようでもあり、していないようでもある。じきにその答えはおのずから明らかになるし、こういう語り口をする必要性については何となく見当がついてはいるのだが、説明すると却ってややこしくなるだろうからやめておく。

この「存在そのもの」によってまず私たちは「ただ在るもの」となる。これも直接知によって知ることはできても認識はできない。

同時に、今ここにこうして存在している私たちのあり方は「実存」と言われる。現象としての自己と言ってもよいかもしれない。一人のひとの実存にもいろいろなレベルがあり、今のこの私は、もっともエゴ的な悪しきあれこれを取り去ったとしても「21世紀初頭の日本に生きている女性」くらいの規定は残る。この「実存」的自己には、エゴ主導ではなくてもそれなりに具体的な、たとえば「誰と、何を、どうやって」を判断した上でのコミュニケーションが可能なのである。このような条件も「ただ在るもの」のコミュニケーションにおいてはどうでも良く、いちいち判断する必要もない。自然に決まるというか「コース」によればキリストによって導かれるのである。

   
第173回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 26・27

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 26

第4章 その4

スピリチュアル初め多少形而上的な考えに触れたことのある人なら既にお分かりだろうが、天国も地獄も「今ここ」以外のどこかにあるものではない。これは私も自分のコラムに書いた記憶がある。こういうものは「死んでからいくところ」だと思われてきた。或いは、聖書の教えのように「貴方の中にある」と言われて自分のこの身体のどこだろう、などと考える人もまあいないとは思うが、とにかくそれらは「今ここ」の私たちの状態を表すものであり、間違っても「場所」ではないのである。それを踏まえて読んでほしいのだが、「コース」によれば「神の国」は他でもない、神に造られた私たち自身である。救われた魂だの何だのが集まって建国するようなものではない。「神の国」とは聖書にある表現なのだが、王国(kingdom)というメタファーがわかりにくいのであれば要するにスピリット=王国=あがないが完成した状態だと捉えてしまってよいと思う。上記の例でも、私たちがスピリットに従っていれば天国だしエゴに従っていれば地獄になるのだ。

とにかく、私たちは神がお造りになった神の国そのものなのだ!という自覚を持つべきらしいのだ。エゴの誘惑を退けるための祈りの言葉まで用意してくれている。

「この国は完璧に統一され完璧に守られている。ここにエゴが侵入することはできない。アーメン」

祈りであるからにはキリストを通じて神に届けられる。ここでもキリストが助けてくれようとしているのである。

このあたりでは、エゴと私たちとの不思議な関係が明かされる。エゴは私たちが「神から離れてしまった」と思い込んだことにより作られたのであるから、私たちにそう思い込み続けて欲しいわけだ。私たちが誕生して死ぬべきものだと思い込ませるのもそのためだ。しかしそれらは所詮「思い込み」に過ぎないため、啓示を受けたり直接知に至ったりした人はもはやエゴを完全には信じることができなくなる。

エゴは私たちを別に愛しているわけではなくて、まあ自分の生存のために寄生しているようなものなのだが、私たちとて自分で作り上げたエゴを本当に愛しているわけではない。なぜなら、そもそもエゴは「神の御旨にそむいた」ところから、即ち「愛を否定」したところから生じたものだからであり、もう初めから愛などとは無縁のものだからである。たとえば「自己嫌悪」はエゴがなければ絶対に生じ得ない。前に「エゴは不安定で不確か」とあったが、自己嫌悪は一つのエゴ的自分が別のエゴ的自分に対してうんざりしているという点において先ほどの「統一された国」の対極にあるものである。なお、自己嫌悪は別に「コース」の教えによらずとも「そのように考えている自分」と「考えられている自分」が別物なのだとわかってしまえばいっぺんに霧散する。

「愛憎」という言葉がある。これこそが私たちとエゴとの関係を端的に表すものだ。もちろん本来の意味において愛は憎しみとは全く相容れないものだが、「愛憎」の愛は神のそれではないのである。愛しているからこそ憎いのよ、なんてことは本来の愛にはありえないのだ。私たちが自分でエゴを作った。だからエゴが可愛い。しかしエゴは私たちの思い通りになってくれない。だからエゴが憎い。「恋愛感情」なるものは要するにこれなのだ。昔から世の中全員これなのだ。小説も歌も映画もみんなそういうふうになっている。で、共感を呼ぶ。

とにかく、私たちはそういう偽りの或いはまやかしの愛しか知らないために「神の愛」とか「神に愛される」などと言われてもサッパリわからないのである。だから「エゴ流の愛憎」で神を恨んだり憎んだり、或いは神に罰されると思ったりしてしまう。本当の愛だけを求めなさい!真に求めなさい!と「コース」は言うが、それじゃあというので「本当の愛を与えてくれる誰か」を探しにいこうとするならそれもまたエゴである。このあたりの事情はもっと先の章で詳しく明かされるのだが、ちょっとだけ先取りしてしまおう。私たちはみな「神の代用品」を求めているだけなのだ。

じゃあどうやって本当の愛を求めたらいいの?私を通して神に頼みなさいとキリストは言う。神は必ず応えて下さる。求めよ、さらば与えられん。というより私たちには既にこの愛が与えられてしまっているのだ。神が応えてくれることによって私たちはその事実を知る。聖霊にとっては、つまり本来の状態においては「持っていること」と「在ること」とは同じなのだ。私たちは愛を持っているが私たち自身が愛である。全てがただひとつの状態であれば、何もわざわざ所有する必要などあるはずがないのだ。

「求める」という言葉も要注意である。そう言われるとつい探したくなってしまうからだ。「引き寄せ」でもそうなのだが、「求めて得られる」のは求める何かが既に自分の中にあると知っているときなのである。

私たちは恐怖やら何やらで自分の周りに強固な壁を作ってしまった。まあ強固と言っても実体はないのだが、これも例の因果律によってか私たちの同意なしには聖霊の光でさえもこの壁を貫くことはできないのである。キリストも同様だ。まず私たちが壁を壊す意志を持たなくてはならない。そうすればキリストは助けてくれると言っている。ただ真に誠実に求めなくてはならない。内心で「でもやっぱりちょっとは残したいのよね」などと思っていてはいけないのである。

ところでちょっと考えてみよう。今までエゴが貴方に何をしてくれました?貴方が今まで経験した全ての苦しみ、悲しみ、不安や恐怖はエゴがもたらしたものだ。時には楽しみや喜びも与えてくれたがそれらはすぐに消えてしまった。それなのに私たちはどうしてエゴなんかを後生大事に抱えて守ってしまうのだろう?これもエゴの作用なのだが、私たちはこんな目にあってもエゴなしではやっていけないと思い込んでしまっているのだ。エゴがいなかったらもっとひどいことになるのでは、と思い込んでしまっている。神から離れた虚偽の世界とそこで生きる虚偽の自己、これを維持するためにはエゴが必要だったのだ。何しろ、怖ろしかったり良く知らなかったりする神の元に戻るなどという選択肢はきれいさっぱり忘れている。しかし、エゴに騙されてはいけないのである。

エゴを無視する、捨てることに抵抗を覚える人は多い。「コース」の理論もアタマではわかるけど心情的にはちょっと受け容れにくいと思うかもしれない。しかしやっぱりこれではダメなのだ。変な喩えかもしれないが、太平洋戦争で日本が敗北した時、多くの人々が大ショックを受けた。戦争に負けたなんて信じられない!でも間違いなく本当のことらしい。だったら、というので心情的にはああ〜あと思っていても皆さっさと新しい現実に乗り換えていったのだ。このプロセスがうまくできなかった人々、つまり心情的な部分に支配されてしまっていた人々は自殺したり堕落したり、まあ勿体ない人生の使い方をしたことになる。もちろん敗戦によって多くを失った人々もいるのだし戦後の「新しい現実」もまた別の幻想に過ぎないのだから、これを「エゴの敗北」と同列に置くのは間違いかもしれない。だが構造は同じことなのだ。だから「コース」は、理解できなくても受け容れられなくても抵抗を覚えても続けろ、このやり方を使ってみろと言うのである。さぞかし苦しいだろうと思われた未知の現実もいざ乗り換えてみれば前よりずっと快適だった、というふうになる。

「コース」が教える処方箋は、まず「正しいマインドの状態を保て」というものだ。まず常に自分のマインドを見張っていること。そして、ちょっとでもおかしなものが紛れ込んできたらすぐにチェックして「これじゃなくてもいい」「こんなもの要らない」と宣言しろと言っている。おかしなものをどうやって見分けたらよいのか?それは簡単である。自分の気分をみればすぐわかることなのだ。喜びと平和がなければそれは私たちのマインドがエゴの侵入を許しているのだと思ってまず間違いないのである。

エゴが私たちの許しも得ないでこっそり動くことはありえないのだ。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 27

第4章 その5

エゴは自分自身の姿を直接見ることができないので、常に自分以外の他者(他人や世界)を鏡にして自分の姿を映し出す。これを逆に用いれば、私たちは自分のエゴを他者の中に見ることができるというわけだ。これは一種の投影であり、私も以前自分のコラムで「鏡現象」という形でかなり詳しく書いたことがある(スピリチュアルコラム「誰の問題?誰が問題?」)。慣れてくればもう本当にうんざりするくらい自分のエゴの姿がハッキリ見えるのだが、まずは簡単なところからやってみよう。ここでは特に他者と接することによって自分の中に生じる気分だけを見てみればよい。

いやな気分に襲われた時、それらは全てエゴがもたらしているものなのだから「これじゃなくていい」「こんなもの要らない」と宣言すれば正しいマインドに戻れるのだが、「コース」の要求レベルは結構高いのだ。何しろ「神の御心ならこう考えるだろうか」といちいち吟味しろと言っているのである。神も知らないのにその御心なんてわかるわけないじゃないか!と思ってしまいそうだが、よくよく考えてみれば私たちにはスピリットがあり、というかスピリットこそ本来の私たちであり、それが神の御心と本来一つなのである。そうとんでもないことでもなさそうだ。それどころか、本当はエゴなんかに従うよりこちらのほうが余程楽で簡単なのだと「コース」も言っている。それはまあ、本来の姿なんだから当然かもしれない。

ちなみに、スピリットのことをここでは「高次のマインド」と呼んでいる。ハイヤーセルフと言っても良さそうな感じもする。もしかするとハイヤーセルフを天使や動物や精霊などのヴィジョンとして見るように教わった人もいるかもしれないが、それらは自分以外の何かではなく自分自身なのだということをくれぐれも忘れないように注意して欲しい。

ここでは悲しみや落ち込み、不安、罪悪感などが例に挙げられているのだが、いずれも全てエゴのものでありエゴにしかありえないようなものなのだと断じることがまず大切である。その上で「こんなもの要らない」なのだ。どうしてこんな気分になったのか、なんてその原因を探ろうとしたり分析しようとしたりしてはならない。原因はエゴに決まっているのだ。何かがあった、何かが起きてそういう気分になる時、大抵の人はそれら出来事を気分の原因だと見る。しかし、そこにエゴが介在しなければ事態はまるで変わっていたかもしれないのだ。

ここに出ている「罪悪感」は「コース」の中でも大変重要な概念であり、もっと先の章で死ぬほど詳しく説明されるのだが、重要とされるだけのことはあって一般的には誤解されやすい考えである。私たちは下手すると罪悪感を美徳だと捉えてしまう。或いは罪悪感を抱くことを相手に対して期待することもある。しかし「コース」は、罪悪感なんてとんでもない!それこそが諸悪の根源なのだと言わんばかりである。詳しいことは後に譲るとして、ここではとにかく罪悪感もエゴなしには存在せず、罪悪感と反省とは違うのだということだけわかっていれば良いと思う。それでも自分を罪深いと感じてしまうなら、その罪をエゴではなく私に任せなさいとキリストは言ってくれている。

繰り返すが、エゴは何も与えてくれない。与えてくれるようなことを囁かれても騙されるな!なんてこんなふうに言われるとどうしても何か「エゴ」という実体のある怖ろしいものが取り付いているように感じられてしまうかもしれない。このあたりの語り方については「コース」もちゃんと説明してくれている。わざわざこんなふうに書くのはエゴを手放すのがそれほど簡単ではないことを私たちにきっちり示すためである。

エゴというのは、たとえていえば私たちが自分の心の中で作り上げ「私たちは神と一つじゃなくて独立したバラバラのものなんだよ」と教え込んだ空想上のロボットみたいなものである。私たちは、その空想上のものが自分に命令を下しているかのように振舞っているわけだ。そんなのまるで妄想にかられたキ○○イじゃないかと思うだろうが、まさしくそのとおりなのである。「コース」も、貴方たちの世界は狂気の沙汰なのだから早く正気に戻りなさいと繰り返し言っている。

まあ、とりあえずは私たち自身の気分をこまめにチェックするところから始めよう。どういう行動を取るか決断するとき、スピリチュアル系のやり方だと「インスピレーションに従え」「ハートの声を聴け」「ワクワクするほうを選べ」などがありそうだが、結局これらはエゴに支配されていたら使えないものばかりである。どう動いてよいかわからずどの選択肢を考えても不安が去らないのなら、まずその不安を去らせることだ。つまり「こんなもの要らない」と言ってエゴを去らせるのである。というか正気に戻るのである。そうすればおのずと方向は見えるはずなのだ。注意を怠らずにチェック&切り替えを続けてみよう。

さて、以前私たちは「判断するな」と教わった。ところがここでは何と「判断の正しい利用法」が出てくる。他のものと同様、判断もまた両刃の剣みたいな防御手段なのだった。エゴに対して「これは要らない」と判断しそこから全てのエネルギーを引き上げてしまえばよい。これもとりあえずは状況や事象でなく気分だけをみてやってみよう。前述したとおり、エゴはあなたが後生大事に守ってあげない限り存在し続けることはできないのだ。

エゴがあっても神の光は常に貴方の中で輝いている。しかしエゴがあっては神の光が貴方を通して放射することはできないのである。

ここにはキリストの降臨についての記述もある。第一の降臨は「神による創造」だそうなので、いわゆるイエスキリストが人の子として馬小屋で生まれたクリスマスとは違うもののようだ。第二の降臨はやっぱり最後の審判なのか、エゴによる支配の終焉とマインドの癒しであるらしい。私みたいな至らない者じゃとても選ばれる資格はないわ、なんて言うのはまさにエゴの間違った謙遜であり間違った自己認識である。

キリストは私たちのエゴについては何もせず、ただ私たちのスピリットに働きかける。私はどんな奇跡でももたらせるのだということを思い出してほしい、そして私と心を一つにすることを選んで欲しいとキリストは言う。

「エゴの自己保全」またまたエゴが実在するかのような書き方だが、注意しながらお読みいただきたい。

神から離れてしまったという「分離」状態を維持することがエゴの存在理由なのだが、そんなことを私たちが気づいてしまったらおしまいなのでエゴはその秘密を私たちに気づかれないようにしている。このように、その発祥から言ってもエゴは自己のうちに矛盾をはらんでいるのでどうしてもバランスを崩しがちで不安定である。ゆえにエゴは安定を保つべく細心の注意を払って私たちの顕在意識の中に取り込むものを取捨選択するのである。ちょっとでも自分を脅かすものは排除しようとするのだ。エゴにとって最も脅威になるのが、まず神の御心とそれに即した思考であり更には何と「身体」なのである。正確に言えば、エゴを不安にさせるような身体的衝動ということになる。へえ?神的な思考が脅威になるというのはまだわかる。エゴの存在理由そのものを完全に否定してしまうようなものだからだ。ゆえにエゴはまず神を恐れる。

しかし、身体がどうして脅威になるのか?そもそも身体だって神との分離によってできたものではなかったのか?本来神と一つである私たちのマインドが分裂して「個」になったことの象徴として身体ができたのではなかったのか?

   
第172回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 24・25

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 24

第4章 その2

貴方は「不可避」「避けられない」という言葉を聞いてどう感じるだろうか?何か怖ろしいものを「避けられない」というふうに感じるのではないだろうか?それこそがエゴの認識だと「コース」は言う。私たちにとって本当に不可避なのは神とそこからくる喜びなのである。

一方で、エゴは私たちの恐怖を喜ぶ。神からの分離の産物である恐怖は、やはり同じところから作られたエゴにとっては自分の存在を確認できるものだからである。だから、そんなものはとっとと無視してスピリットの声に耳を傾けようと「コース」は言うのだ。

面白い記述がある。謙遜とはエゴのもの、エゴが学んで身につけたものだと書いてある。だからといって傲慢が良いというのではもちろんないし、「オレはすごいんだ!」と言っている人にエゴがないとも限らない。まあ、確かに謙遜は徳というより世渡りのための方便だろうな、と私も思うのだが・・。スピリットが輝いているとき、即ちエゴが弱まっている時に私たちはごく自然に慎ましく謙虚になる、ということらしい。

私たちの教師であり頼もしいお兄さんでもあるキリストは、私たちのエゴと身体の面倒をみてくれると言う。だからそういうものに煩わされず私に任せなさい、そんなものは重要じゃないんだということを教えてあげると言っている。キリストも自分が人間だった頃、それらに惑わされそうになったことがあるから良く分かるのだそうだ。へえ。

「私が既にこの世に打ち勝ったのだから、貴方たちがこの世で苦しむ必要はない。だから元気を出しなさい」。これは、ヨハネによる福音書の一節を少々書き換えたものである。聖書では「あなたがたはこの世で苦難がある」となっているのだが、実はそうではなかったということだ。

ところで、「コース」は私たちが神と一体であり神と同じように創造されたと言っているわけだが、それと同時に「神=造物主 私たち=被造物」という構図をも維持している。これにはちゃんと理由があって第43回ブログで明らかにされるのだが、単純に考えて神と一体で神と同じ性質を持つならば、本来の私たちはそのまま「神だ」となってもおかしくないはずなのである。もちろん、「オレは神だ、お前たちとは違う」というのでは全然ないのであって、それでは単なる分離の権化・エゴの権化に過ぎなくなる。認識作用の限界を超えてもはや何も認識する必要がなくなってしまった人は「ただ一つである全て」という状態になるのだ。神の御旨と自分の意志が一致したとき、そこにはもう神と自分を区別するものは何一つないのである。より正確に言えば「私が神だ」「私が宇宙だ」というのでもなくて、存在する「これ」を、もはや神と呼んでも私と呼んでも同じことになるのだ。が、何も言わない。「!!」とか絶句とか・・だって認識がないんですよ!今更AはBである、などと言えるわけがないではないか!まあ、これは私の戯言だと思っていただいても構わない、といいつつ私には確信があるのだが。

しかし、この状態は発狂をもたらしかねない。安全を期すならばやっぱり「コース」の教えどおり「神は造物主で私たちは被造物」の構図を維持していたほうが良いのである。

経験がある人ならわかるだろうが、抽象的な思考というか本質的かつ根源的なことを考えているときそこに「私」はいなくなる。純粋に思考だけがあるという状態だ。このときエゴは消えている、というか発生し得ない。以前にも書いたが、思索に思索を重ねていた人がある時「知っちゃった」というふうになるのはその故である。一方で、エゴによる思考の場合は常に「私」があり「あの人」「あれやこれや」「いつどこで誰が何をどうやって」がある。しかも、その都度種々雑多な「私」が出てくる。これは少し考えれば誰でも思い当たる節があるはずだ。別に精神病質ではなくても、気分も考えも印象もしょっちゅう変わっているではないか。私たちの中に次々と生じる、というか作り出される「自己」は全てエゴである。更に私たちはそのエゴというフィルターを通して(つまり、歪んだ知覚機能によって)他人を見るため、私たちが認識する他人もまた私たちのエゴの産物である。そういう状態で他人と関わるのだから、しかも相手もまた同じことをしているのだから、グチャグチャになるのも当然だ。一体、何が何に対して何をしているのか、訳がわからない事態になってしまうのだが、私たちが日常的に「人間関係」と思っているものはだいたいこれなのである。当然、トラブルも悩みも後を絶たない。

誰かと直接対峙している時だけでなく、一人でいる時に誰かのことを考えて「あの人って実はこうなんじゃないかしら」「いや、やっぱりこうだったわ」などと思うのもやっぱりエゴの投影なのだ。そうやって私たちの中で作られた「他人=相手」は非常に不安定で不確かで実体を持たない。そもそもエゴ自身がそういうものなのだから当然と言えば当然である。

エゴがどうやって作られたのか、正確に言えば私たちはどうやってエゴを作ったのか?「コース」を読む人は、あたかも「エゴ」という何か実体のあるものがずっと私たちの中に巣くっているような印象を受けるかもしれないが、そうではないのである。エゴは常に「今ここで」作られている。連続性があるもののように感じられるかもしれないが、それは「連続性を持つように見せかけて自らが実体を持っているかのように信じ込ませる」エゴの作用に過ぎない。まあ、簡単に言えば個人差があるとはいえ私たちには「エゴがなくなっている瞬間」もあるのである。「知っている状態」あるいは神と一体であるような状態を私たちが放り投げて忘れ去るたびにエゴが作られるのだ。人は直接知の状態に至れば驚くが、エゴが生じても別に驚かなくなっている。ただ、「コース」を学んでいるとその違いがはっきり自覚できるようになる。ああ、これはエゴだなというのが瞬時にしてはっきりわかるようになるのである。

私たちは誰しも自分の一部であるようなものを大切に守ろうとする。それがエゴによる「自己」なのか、スピリットたる「自己」なのか。

とにかく、エゴを何とかしようなどと思ってはならない。エゴに反応してはならないのである。なぜなら、そうすることによってエゴが本当に「ある」と認めたことになってしまうからである。実体もなく単なる思い込みの産物ならば、ただ無視すれば済むことなのだ。存在しないものに対してはいかなる反応もできないはずではないか。

要するに、私たちが「今のこの私」をどういうものだと思っているのか、という問題なのだ。神に造られたとおりのものなのか、身体なのか、感情も含めた心なのか。「私とは何か」この答えをどこに求めるか。

そうは言っても多くの人にとってエゴの思考システムを手放すのは苦痛に感じられる。大切にしてきたものを奪われるような気がするからである。「コース」の喩えによれば、これは赤ん坊がおもちゃにしていたハサミやナイフを取り上げられて泣くようなものなのだ。怪我をする危険があるから取り上げられた、というのが分からない。私たちも本当の意味で自分を守るとか維持するなどということが分かっておらず、平気で危険なものを後生大事に抱えているわけである。私たちが「コース」を学んでいるのはもっと安全で役に立つやり方で行こうと決めたからなのだが、よし頑張るぞ!と身構えたところで一気に楽になるわけでもない。こうしよう、と意図的に決めて身構えること自体がエゴ的なものだからだ。こう言われてしまうとミもフタもないような感じがするが、最初だけ本当に頑張って辛抱強く続けていれば大丈夫、いずれそれが自然のものになっていくのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 25

第4章 その3

エゴとスピリットでは何もかも違うのだが、そのうちの一つが「与える」という概念である。真に与えるというのがどういうことなのかについては詳しく後述されるが、まずエゴ的な「与える」とは「それを失う」ことと同義なのであり、或いは与えたものより良い何かを得たいということなのである。これは何も貨幣経済に限らない。極端に言えば神の国に入りたくて全財産を投げ出すとか殉教するとか、名誉を守るために切腹するなどというのも全て同じことなのだ。おかしなことだが、天国に行きたくて一億円を寄付するより「こんなもん持ってたって面倒だから一晩で使っちまったよ」という人のほうがエゴ的ではないのである。エゴにとっては、与えることの中に失うという概念が既に含まれてしまっている。犠牲を払うのは一見崇高な行為のようだが、やっぱり「失うものより得るもののほうがより尊い」と考えるからこそのものである。敬虔なクリスチャンであっても犠牲と献身を混同している人は少なくないと思う。

これは仕方ないことなのだ。なぜならエゴは完全無欠の状態、何も欠けることのない豊穣な状態を否定したところから生じたものだからである。ゆえに、与えるよりもむしろ「ないから欲しい」「もっと良いものが欲しい」というほうが先にきてしまうのは当然なのだ。「コース」は何と食欲でさえエゴが自分自身を確認するためのメカニズムだという。エゴの住処である身体に実体性を与え満足するために作り出されたものらしい。そもそもエゴは「分離」の産物なので、エゴ的自己も他者の存在なしにはありえない。自分を抜きにした「他人」など存在しないし、他人というものが全くなければ「このコレ」をわざわざ「自分だ!」などと認識することもできない。分離によって自他に分かれてしまった私たちにとって、「与える」と言えばそれは即ち自分以外の誰か・何かに対して与えるのであり、常に与える対象があることになる。そこにエゴ的「与える」原理が持ち込まれれば不満や怒りや苦痛は免れない。

自分自身を受け容れ大切にしましょう、自分を敬いましょうなどというのも、殆どの場合その「自分」が他者との関係性においてのみ成立可能なエゴ的自分である以上、一時的に多少攻撃性や不安が少なくなって楽になるというくらいの意味しかない。エゴの自尊心が脆弱なものにしかならないのは、もちろん本来エゴなど「ない」からなのだが、それと同時にエゴが最初から常に恐怖を抱いているためである。神に背いたことで神を恐れているだけでなく、スピリットの存在を何となく感じていて、自らよりもずっと強大な何かに拒絶されているという感覚が常にあるためでもある。一方で、スピリットはエゴの存在など知らない、知りようがないのだ。

エゴは常に単独、一人ぼっちなのである。分離の産物なのだから当然だ。しかしこれはやっぱり怖ろしい状態だから何とかしなくてはならない。神に戻ればいいじゃないか、と思いそうなものだが、まずエゴは「神から離れた」マインドによって作られたので神に戻れば自分が死んでしまう。またエゴを作ったマインドは「神の怒り」を怖れているので戻ることはできなくなっている。それゆえ、他人に依存したり或いは自分の強さを確認してちょっと安心するために他人を攻撃してみたりするわけである。たいていの「恋愛」は間違いなくこういうレベルだ。

ところで、ソウルメイトとかツインソウルなどというのも「コース」に即して考えれば本質的には無意味なものになる。だってみんなが唯一つだったんだから、その中の特定の二つがどうの、などということは問題になりようもない。ソウルメイト・ツインソウルなどの考え方はそれぞれが肉体を持っていて転生した別個の魂のものであり、「コース」的にはどう見積もっても「真実」とは言いがたい。

エゴとは、自らが一人ぼっちだというマインドの「考え」なのである。これは、私たちが皆別個の身体を持っていてそれぞれ別個に生まれて死ぬ、というところにも反映されている。

一方でエゴは、というかエゴ的なマインドはスピリットを怖れつつそれに憧れてもいて、スピリットの力まで取り込んでもっと確かな良いものになりたいなどとも考える。もちろんこんなことはもとより不可能だ。しかし巷間出回っているスピリチュアルな方法論には、こういうことを平気で扱っているものが少なくない。貴方もスピリチュアルなやり方を実践して素敵な恋愛をして結婚してお金持ちになって幸せになりましょうみたいなものは、以前にも述べた通り「この世の実在を疑わずこの世の価値観もそのまま」になっている点でどうしてもスピリチュアルとは言いがたい。何だかブランド物のコピー商品を見ているような感じがする。

さて、ここで「コース」は神話に触れている。もちろん「コース」によれば神話は神の創造などとは全然関係のないものである。善と悪の二項対立など神の創造とは正反対のものだ。形あるものの「創造」があって善悪があって悪を滅ぼし善が生き延びる闘いがあって、いろいろな魔術が使われて(動物に変身させたり、とか)、まあ、何せ神から離れた後の人間が作ったものであるから仕方ない。神なしの私たち即ちエゴ的自己を確固たる存在にすべく作り上げたのに決まっているわけだ。神話というものは世界各地にありそれぞれ共通性があると言われているが、作られた理由が同じなのだからそれも当然のことである。そういう意味においてはある種の「普遍性」があると言えるのだろう。

宗教的な色合いを帯びた神話では、まず魂があってそれが堕ちて肉体になり、転生を繰り返した挙句にその魂が救われ天に昇る、みたいなものもあるがこれも「コース」的にはありえない。なぜなら、魂=スピリットは決して堕落することなく従って救われる必要などないものだからである。もしかして、これらの神話は単なる「マインド」を表現するのに「魂」という語を使用してしまったのかもしれないのだが。

それにしても、これでは創世記もかたなしである。

エゴのことばかり読んでいると何だかうんざりしてくるが、元々は分離したマインドが作っちゃったものであり、実体のない「考え」に過ぎないのである。マインドのほうがエゴより強大なのは当たり前なのに、うっかりすると廂を貸して母屋を取られたような状態になってしまうのだ。正しいマインドの部分が次第に大きくなってくればそれに伴って思考システムの転換がなされるため、エゴは追いやられ忘れ去られていく。正しいマインドは判断・評価をしないので、それを餌にしているエゴは生き延びられないのである。

知覚による認識機能を正常にするのが私たちの当面の目標だ。しつこく強調されているが、これは結局のところ知覚による認識など全て不要だと分かるためのものであり、直接知に至るための一時的な方便なのである。一応この世界に生きている限りは認識ってやっぱり必要なんじゃないの?そう思うのも無理はない。「コース」は、究極のところ知覚や認識が不要だということを理解しろと言っているのであって認識するな・してはいけないなどとは言わない。直接知・・「知っている」状態に至れば、この世で認識すべきあれこれなど「とりあえず」のものでしかないとわかる。本当の自分=「私」は認識できるようなものではない、認識されないものだということもわかる。まずはこの地点に立ってみないとどうにもならないのである。

   
第171回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 22・23

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 22

第3章 その7

自分の現実や人生を作るのは今のこの自分、他でもないこの自分である!という考えこそ、例の「神から離れて自力でやっていけると思ってしまった」間違いそのものなのであり、ありえない考えなのである。

しかし、自分の人生や現実を神に任せるかそれとも自分で決めるかと言われて「そりゃあ神ですよ」と答える人もそうはいないと思う。「神」という語に抵抗があるなら宇宙でも何でもとにかく「私を造ったところの絶対にして普遍的かつ超越的な存在」をもっとも権威あるものとしてそれに従って生きるか、と言われても即答できない人が多いのではないか。スピリチュアル系の人々でさえ「宇宙のサポートを受ける」とは言っても「宇宙に従って生きる」とまではなかなか言わないような気がする。あくまでも主役は「この自分」なのだ。

要するに抵抗があるのだ。一つにはそれがあまりにも抽象的過ぎてピンと来ないせいだが、これは私たちが本来の姿を忘れてしまっているからである。だいいち、いかなる方法によっても神との交信ができなくなってしまっている(と思っている)以上、従うといっても何をどうしたらよいのか皆目見当がつかないではないか!

いまひとつは、「従う」とか「神の御旨に従って」などというのを何か不自由な、隷属的なまあ「支配者に従って生きる」みたいな、自由も尊厳も失うようなイメージで捉えてしまっているからである。しかし、これこそが「神との分離」を象徴しているのだ。神とは自分と全然違う何かだと思っていることの証左である。本来、私たちは神と一体であるのだから、私たち自身(もちろんエゴではない部分の、だが)が既に「絶対にして普遍的かつ超越的な存在」でもあるのだ。私たちはそれも忘れてしまっている。

常に自力で判断しつつ生きていくなど良く考えたら怖ろしくないわけがないのだ。あなたは一体「どの自分」を当てにするつもりなのか?自分なんてあてにならないと悟った人は「じたばたしたって何にもならないから自然に逆らわずに生きる」などとも言うが、これが投げやりではなく誠意を持ってなされた場合には「神を唯一の根拠とし神の御旨に従って生きる」のと全く同じことになるのである。

個体であるところの自分が自分の現実を作るのだ!と考えれば、当然の帰結としてそれを妨害するように見える他者や世界を敵に回してしまうことを免れなくなる。食うか食われるかの闘いにもなってしまうのだ。分離の感覚を是正しないままに宗教に走れば異教徒への弾圧や迫害に至る。宗教が悪いのではない。宗教は阿片だと言ったマルクスは筋金入りの分離感覚の持ち主である。

私たちは誰しも多かれ少なかれ何らかの不自由さを感じている。本来、自由意志とは自由に至るためのものなのだが、私たちはこれも誤用・転用し自ら好んで牢獄につながれたような羽目に陥っている。願望を抱けば抱くほどそれに囚われ不自由になる。ここで「コース」は願望と意志は別物だとハッキリ言明している。

私たちのスピリットには平和も叡智も備わっている。それらは忘れ去られることはあってもなくなることは不可能だ。この事実を心に刻み付けておきたい。これは「コース」を学んでいくにあたって非常に大きな支えになるものである。

さて、私たちの思考システムは大きく分けて2つあり神かエゴかどちらかを根拠にしているのだが、それぞれに使われる力は同じものである。エゴには同じだけの力があるわけだ。ゆえに、「自分の現実=人生の作者を神にする」のは自分が弱くて小さいものだからなのではない。端的にそれが本来の姿だからである。今のこの私たちの力を過小評価してはならない。そこにも強大なマインドの力は絶えず働いているのである。

「悪魔」は、神から分離した私たちのマインドが投影されたものなのだが、だいたいにおいてエゴの象徴だと考えて良いようだ。悪魔は騙し誘惑し、私たちを幸せにするように見せかけて不幸に陥れる存在である。これらはまさにエゴの働きではないか。その悪魔がいちおう神と渡り合える存在と思われているからには、エゴの力もそれだけ強大だということになる。ただ、これらには実体がないという事実を忘れてはならない。

私たちの恐怖の起源は、楽園追放の物語に象徴されているとおり「神の御旨に背いた」と思い込んだことにあった。そして、禁断の果実=知恵の実を食べたことは「よからぬ考え」を抱いたことの象徴である。もっとも、「コース」は神がそんな木を植えておくはずもないと言っている。アダムたちの手が届くところにわざわざ木を植えておいて「その実を食べるな」などというのは確かにどちらかというと悪魔の発想である。

その「よからぬ考え」とは、私たちが神に代わって自分自身を創造できるというものなのだが「コース」によればこれが私たちの思考システム・・エゴ主導の思考システムの出発点になっている。しかしながらこれは考え思い込むことだけはできても元より実行不可能であり、私たちが正しく認識できるようになった暁には「不可能で良かった!」と思えるほどなのだ。確かに、エゴに支配された間違いだらけのこの自分が作った「自分」など考えるだに怖ろしいものである。

自己イメージなどというものもあるが、これはしょっちゅう変わる・変えられるという点で真実とは言えないし、イメージであるという点においてやはり真実の姿とは言えない。浮世のあれこれをうまく処理して世の中を渡っていくための方便として何かしらの「セルフイメージ」を適宜でっちあげることはあるだろうが、まさかこれが「本当の自分」だなどと本気で考えている人はいないだろうと思いたい。そもそもイメージは身体・性格・属性なしには描けないものなのだ。本来の姿にはイメージというものがない。

とにかく、こんな良からぬ考え・ありえない考えを信じているうちは、私たちは何も創造できないし恐怖からも逃れられないと「コース」は言う。なぜなら、この考えを信じているとは、とりもなおさず「神に背き」「創造の基盤であるところの『知っている』状態から離れている」ことになるからである。もちろん、私たちにもスピリットがあり、というより私たちはスピリットであり、それによってなら創造は可能なのだが、それでも自分自身を創造することだけはできない。それは既に神によって完璧な形に創造されてしまっているからである。完璧なものを今更どうこうすることなどできないし、できないほうが確かに幸せなのである。念のために付け加えておくが、今の私たちの身体や性格や属性などを「神が創造したもの」などと考えてはならない。今の私のいったいどこが完璧なの?と思うなら、それは完全に意味を取り違えていることになる。本来の姿というときに間違っても表面的な人体・人間の姿などを思い浮かべてはいけないのである。いや、思い浮かべたっていいけど、ありのままの姿を見るとき表面的な差異は全く問題にならなくなるのだ。神が私たちを創造したと「コース」は繰り返し述べているが、「人類を創造した」などとは一言だって語っていないのである。

ここで大変魅力的な?文章が出てくる。私たちがこの世を去るのは死によってではなく真理によってである、というものだ。なるほど、これを裏から読めば「真理を知らなければ死んだってこの世から去ることはできない」になるわけか。肉体は滅びてもエゴは生き延びる。そのへんをうろうろしている「霊」などはたいてい皆、肉体を失ったエゴなのである。ずっと先に出てくることだが、「コース」によればこの世の終わりとは阿鼻叫喚の人類滅亡・地球滅亡ではなくてただ単に「あ、全部ウソだったんだ」と知るようなもの、夢から覚めるようなものなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 23

第4章 その1

「力を捨てよ、知れ。私は神」詩篇のこの章句「力を捨てよ」は英語だとbe stillなので「鎮まれ」という感じだが、ここでは手元の共同訳聖書から引用した。これこそ例の「知っている」=直接知を反映している言葉なのだが、これは別に神が私たちに向かって言っているとも限らず、私たちのスピリットがエゴ主導のマインドに対して宣言しているようにも思える。マインドがスピリットに従っている状態にあればインスピレーションが得られ、インスピレーションによって動いていれば私たちは疲れを知らない。スピリットを忘れた状態にあるときだけ心身の疲れがあるのだと「コース」は言う。

私たちが話すときはいつでもエゴかスピリットのいずれかがその源泉になっている。いくら優しく思いやり深い言葉を発したとしてもエゴから来るものならそれは創造ではなく何の価値も持たない。何より言葉を発した当人自身を疲弊させる。

一般的に、私たちは自らを生まれて死ぬ存在だと考えている。生まれた瞬間から死に向かって旅をしているようなものだと言う人さえある。一生のうち何度でも、あるいは再び生まれ変わっても私たちは自ら選んで苦しみに向かって歩き続け、最後は肉体が死ぬ。神から分離してしまったわが身には受難と死がふさわしい、エゴはそう考える。だが、こんな繰り返しはもうやめよう、受難など無駄なだけだと「コース」は言う。

さて、私たちが経験した最初の変化が「神からの分離」である。出来心とはいえ自ら望んで変化をもたらしたくせに、そこから生じたものは罪悪感と恐怖と欠乏感だった。それを何とか誤魔化そうとして私たちはエゴの思考システムに従い、実にさまざまなものを巧妙に作り出してきた。それもこれも「神から分離したこの世界」を守るためであった。しかし、最初の変化である「分離」は上述の通りかなり怖しい結果をもたらしたので、それ以来私たちは心の中で分離も変化も怖れている。

苦しく辛いときや何もかもパッとしなくて退屈なとき、私たちは「変わりたい」と言う。これは単に「今の状態から抜け出したい」と言っているに過ぎない。貴方の考え方や今まで信じて大切にしてきた世界が全て崩壊しますよと言われてそれでも変化を求めるという人は、最近では少し増えてきたようだがやはり「そこまではちょっと・・・」が大多数だろう。しかし、「コース」の教える変化とはそういうものなのだ。

エゴはどうしても自分の思考システム・自分が作り上げた世界を守りたいのであらゆる手を使って抵抗する。私たちが本来の姿に立ち戻るための変化を「脅威」「危険」だと思わせるのも日常茶飯事である。それどころか、更にとんでもないことまで考える。即ち、エゴの世界はこのまま維持しておきその上でスピリットを目覚めさせて覚醒しよう!実際、こういう考えはスピリチュアル系の人たちにも結構見られるものだ。要するに、思考システムを変えずにスピリットにもつながって成功して幸せになろうというようなものだが、この世界の存在と価値観を全く変えることなく、ただ守護霊だの過去世だの瞑想だのを持ち出してくるやり方も同類である。

とにかくこんな考えは無意味であり実行不可能でもある。なぜなら思考システムとはそれぞれエゴかスピリットのどちらかを基盤にしてできあがっているのであり、両者はことごとく正反対で重なるところなど全くないからである。どうしてこんな矛盾をはらんだありえない考えが出てくるのか?それは、そもそもエゴ自体が矛盾的な存在だからである。

ここでもエゴとスピリットの相違点が明らかにされている。スピリットは神に造られたものだが、エゴは私たちが作ったもの、つまり私たちは「エゴの製作者」「エゴの生みの親」みたいなものである。そのくせ平気で生みの親を裏切り間違った方向に導くのだ。エゴとスピリットには全く接点がないので、スピリットに頼んでエゴを何とかしてもらうことはできないし、エゴがスピリットを攻撃することもできない。ただエゴは、私たち或いは私たちのマインドに働きかけてスピリットを忘れさせるようにすることはできる。もちろん、私たちはエゴに従わないこともできる。私たちはその発生から見てもエゴより強いのである。エゴは私たちを超えることは出来ない。

一応念のために確認しておくが、私たちのマインドのうちスピリットでない部分全てがエゴだ、というわけではない。あくまでもどちらに従うかということなのだ。エゴの声を無視しつつ学んでいけば学ぶにつれてエゴは消えるのである。破壊されるのではなく、たとえば雪が溶けるように消えていく感じだと思う。ということは、「コース」学習はエゴ=今までの自分にとっては存亡の危機である。わからなくても進めと「コース」が言うのも、無理やり分かろうとした結果エゴによるエゴ的解釈になってしまう危険が大きいからなのだろう。

私たちは生まれて育ってあれこれやって毎日生きて死んでゆく。これは全てエゴが見せている夢なのだ。私たちが「自分だ」と思っているものも含め、私たちが見ている世界は全て夢なのだ。しかしそれらは私たちにとってはこの上なくリアルで、これこそが現実だとしか考えられないほどである。ちょっと人生や人生観が変わったところで、それは見ている夢が変わったに過ぎない。少々先取りをしてしまうと、「コース」は私たちをまず悪夢から幸せな夢に移行させようとしているのだ。悪夢から一気に「神と一体である本当の現実」に行けたらさぞ楽でいいやと思いそうなものだが、これは衝撃が強すぎて却って危険なのだ。本質的な意味合いにおいて何か大きな気づきを得た経験のある人ならこれはよく理解できるはずである。何しろその衝撃といったら、本当に立ちくらみを起こして腰を抜かすほどなのだ。

さて、キリストは私たちの学びの旅における教師役をかって出てくれているのだが、学んだり教えたりすることは私たちの価値とは全く関係がない、と言っている。つまり学習途上だから劣っているとか教える立場だから優れているなどということは一切ないのである。これもエゴ的考えとは逆である。エゴなら自分の価値を確認し見せつけるために教えるだろう。そもそも、私たちの価値は神によって既に確立されているのだから私たちが今更何をする必要もないのである。逆に、エゴにはその本質からして常に「自己不信」があるため、それを克服すべく賞賛を必要とする。そうでなければ劣等感にさいなまれる方向に走るだけである。いつも自分と何かとを比較しては勝った負けたと優劣を気にする人は、まさにエゴにしてやられてしまっている。

私たちがエゴに従ってしまうのは、そうすることで恐怖から逃れられるような気がしているからであり、その手段をエゴが与えてくれるような気がしているからである。事実、エゴは「助けてあげる、守ってあげる」と囁き続ける。そのくせ、実際には私たちに「みすぼらしく、風雨や危険にさらされた家」しか提供してくれない。しかし、私たちはエゴに従うことはできてもエゴを信頼することはできない。なぜなら、エゴなど本来もっとも信頼に足る神から離れて勝手に作っちゃったようなものに過ぎない、とどこかでわかっているからである。信頼できないものに従ってロクなことがありゃしないのは考えればわかるのにそれでも止められないのは、他に選択肢があることを忘れているからである。

 
第170回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 20・21

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 20

第3章 その5

そういうわけで、「コース」によらずとも直接知に至ってしまった人が「おかしい人」に見えることもある。これ以上ないほど正気なのだが、正気が極まると狂気に近く見えたりするのである。

さて、認識とは、「あるものを何かだと思う」ことであった。その作用によって私たちのマインドは身体を自分自身だと思うこともできるようになってしまった。私たちのマインドは分裂しており、その中のどの部分が本来の自分なのかわからなくなっていた。そこから不可避的に生じるところの「恐怖」からとりあえず逃れるためには、これまたとりあえず「私とはコレなのよ」と思い込める一見わかりやすい何かが必要だったというわけである。いやはや、身体とはただ一つのマインドが分裂してできた「多」あるいは「個」の象徴として作り出されたものではあるのだが、こんな存在理由もあったのか・・・。

もちろん、認識作用自体が悪いというのではない。とりあえず「この世」においては必要なものだし、正しく機能するならば奇跡をもたらすための方便でもあるからだ。たとえば目の前にリンゴがある時「これはリンゴだ」と思えば「それ」が「それ」ではなくなってしまうとはいえ、一応正しく認識できてはいるのである。しかし、それを「ヤカン」だと思うならこれは大間違いだ。「コース」によれば、私たちはこんなとんでもない間違った認識=勘違いを日々おこなって生活しているようなものなのである。リンゴだと思って齧りついて歯が折れてもまだヤカンだと思い続け、折れた歯のほうを何とかしようなどとしているのだ。だからせめて正しく「リンゴ」だと認識できるようになりましょう。「コース」が言っているのはこういうことだ。

自分を身体だと思い込むことによって本来の自分であるところのスピリットは押しやられてしまった。つまり、この思い込みが真実を見えないようにさせる「闇」の役割を果たしている。見かけ上、身体のほうがスピリットよりも確かで強力なもののようにされてしまったわけである。創造の光、叡智の光であるスピリットはわざわざ出てきて「もしもし、本当のあなたはここにいますよ」などと言ったりしない。そういう機能はないのである。ただ、その光は依然として存在しいつでも闇を消してしまうことができる。闇こそが現実だと信じている私たちの・・・エゴ支配下のマインドにとってこれは脅威になる。

スピリットに従えば、即ちキリストに従えば私たちは常に正しく認識する、つまり正しい選択をすることができるのだ。そちらを選ぶか、リンゴをヤカンと勘違いして歯を折るようなやり方を選ぶか。選ばれし者とは、神が選んだ特定の人々という意味ではなく自らスピリットに従うことを撰んだ者のことである。

さて、前述したとおり『コース』における「創造」とは、神の御旨あるいはそれと一致した意志によってのみ為されるものである。ゆえに、スピリットに従わない私たちにはこういう「創造」ができない。神と離れてしまった私たちにできるのはもっぱら「作ること」のみである。だが、私たちにはこの「創造」と「作ること」との区別がつかず両者を混同するようにもなってしまったのである。即ち、「コース」を読むに当たっては私たちが日常的に抱いている「創造(力・的)」の概念を一旦きれいさっぱり忘れておいたほうがよい。

私たちのマインドは、簡単に言うならば「神から離れたこの虚偽の世界」の全てをさも本当の現実らしく見せ、維持するために必要なものなら何でも作り出してきた。中には「発見された」ということになっているものまである。エゴの思考システムは非常に巧妙なので、それらをまるで神から与えられたり自然の法則であったりするもののごとくに思わせることなど朝飯前なのである。まさか自らのマインドが勝手に作り出したなどとは思いもよらない、そういうふうに仕組まれてきた。というか仕組んできたのだ。そう考えると、科学的な発見や進歩などまるで遊戯室での玩具遊びのように思われる。ただし、真に優れた科学者はこのあたりの事情に気づいてしまうようだ。

つくる、とは要するに「創造力の誤用」なのである。源泉たる力は同じだが基盤になっているところが違うのだ。神が造ったもの以外は全て実在しないのならば、私たちが虚構の基盤によって作り出したものは全て実在しないことになる。ゆえに、そのような本質的な意味においてこれらは脆弱なものなのだが、だからといって甘く見てはいけないのである。まず、私たちにとっては本当に実在するものと同様に或いはそれ以上にリアルで強力なものになってしまっている。なぜならば、いくら誤用されたとはいえ神と同じ創造のパワーを用いて作られたものだからだ。しかも、私たちはそれらを真なりと信じているからだ。マインドの力が如何にとんでもないものかよく覚えておけ、と「コース」は言っている。おまけに、これら作り出されたものどもは想像を絶するほど巧妙な構造になっている。独創的と言っても良いほどだ。その一つ一つを検討・分析する必要はない、というか無駄である。以前の光と闇の話を思い出していただきたい。光が当たれば闇はなくなる、というか元から何もなかったことが明らかになる。闇の中に何があったかなど一切関係なくただ消えるのである。これと同様、私たちに真理が知られれば全てはおのずから明らかになるわけなのだ。

ここでまた「知る」「知っている」ということについての記述があるが、もうお気づきの通り「コース」におけるこれらの概念は私たちが通常用いているそれと少々異なる。知るという言葉は文法的には目的語を必要とするので、とりあえずは「真理を」「神を」「自分自身を」知る、などというように使われてもいるのだが、事態としては対象があるようなないような、何をどのようになどというのではない、要するに万遍ない確かさという状態である。これは「愛」も同様で、何か対象を愛するというのではなく一つの万遍ない状態なのである。「全てはただ一つ」が体現された状態なのだからまあ当然ではあるのだが。

しかし、この世のことについてはそういうわけにいかないのだ。知るといったらどうしても「何をどのように」知っているのかというふうになってしまう。つまり認識の世界にならざるを得ないのだ。解釈か判断かイメージか、そういうものに転化せざるを得ない。

たとえば、何かの意味を「知る」というのは一般的には「解釈する」ということになるのだが、「コース」中の「知る」は解釈の入る余地がないものなのだ。

ゆえに、真理とは何か、とか私とは何かなどの問いについても「真理とは、貴方とはこれこれこういうものですよ」などと言えるわけがないのである。言えてしまうならばそれは単にその時々の「解釈」「判断」を述べているに過ぎないのであって何の答えにもなっていない。せいぜいが認識であって知ったことにはならないのだ。更に、しつこく述べられているように認識は作用においても形式においても限界がある。「私は人間である」と認識しているところの「私」は、厳密に言うならば「人間」ではないということにもなってしまうのだ。

「知ること」についての事情は何となく禅の公案に似ているようにも思われる。「★とは何か」と聞かれて「これこれこういうものです」なんて答えたら「喝!出直して来い」になる。

であるから、いくら意味内容をあれこれ考えてみたって本質的には何も知ることなんかできないのである。ただ、そうこうしているうちふとした瞬間に裂け目のようなところに出ることがある。閃光が差すとすればここのポイントである。思索に思索を重ねていたら何だか知っちゃった、という人々はたいていこのパターンだろうと思う。

真理は知られるものであって言葉で語られることはできないのだが、象徴や隠喩によって語ることならできなくもない。しかし、それでは分かる人にしか分からず、たいていの人にとっては何を言われたことにもならないのだ。ご参考までに、ヨハネによる福音書第一章の冒頭部分をお読みいただきたい。

「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、初めに神とともにあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」

本当に美しい章句である。全てがここで言い尽くされているのがお分かりだろうか。この「言」という部分は「御言葉」と訳されている場合もあるが却って分かりづらい。訳した人が分かっていなかったのだろうか。ちなみに、史上初の日本語訳聖書では「ハジメニ カシコキモノ ゴザル」となっていた。英語版だとthe Word、ラテン語版だとVerbumなのだが、もともとのコイネー・ギリシャ語原文では「ロゴス」となっている。ロゴス=理(ことわり)つまりこれこそが真理なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 21

第3章 その6

当然のことだが、私たちは全く知らないものを認識することは出来ない。訳のわからないものが目の前に現れたときでも、知っている何かと結びつけて「あれに似ている」「あのイメージ」「きっとこういうことなんじゃないか」などという形で一応処理するわけである。そうでなければ単に「わからなかった」ということになる。たとえば、目の前の相手が貴方を見向きもしなかったなら貴方はその状況を「無視された」と認識するかもしれず、更に「嫌われた」とか「怒っている」などと思うかもしれない。このような判断や解釈をするとき、私たちはいろいろな可能性があるうちから一つを選び出してそれを採用するのである。自覚はなくても、こうかもしれない、ああかもしれない、などと考えられるうちの一つをとりあえず「自分の現実」として選び取っているわけである。一つの状況が人により、時と場合により全く違った見え方をするということだ。

一方で、真理にはそういうことがありえない。一部を見たとしてもそれはそのまま全体である。神が自分に似せて造ったものならば「部分」というもの自体がありえないのだ。啓示によって真理を垣間見たならば、ほんの一瞬であったとしても私たちは全てを知ったのである。その瞬間、全的な確かさの状態に在ったということだ。

これでもか、というくらいクドクドと述べられる「知覚による認識作用の不完全さ」であるが、そもそも知覚や認識自体が神から与えられた機能ではないのだから仕方がない。不完全だから今すぐ捨ててしまえなどということは全然なくて、とにかく今までの知覚機能を癒して正せと「コース」は言っているのである。

そのために奇跡があり祈りがある。私たちに直接知が可能になった暁にはもう奇跡も祈りも不要になる。神との交流は、祈りという形で聖霊やキリストを通して行われるのでなく直接なされるようになる。「コース」によれば、ゆるしを求める以外の祈りには意味がない。ゆるしを求める祈りとはいわゆる「罪深き私たちをお許しください」ではなく、間違いを正して「ああ、私たちは元々こうだったのか、本当は既にこうだったのか」という事実が身にしみてわかるようになるためのものである。知覚機能の修正もその中に含まれる。

弁証法の「一即多」のうち、神が「一」ならそれぞれ別の個体である私たちは「多」ということになり、「一」は「多」を成り立たせるための概念に過ぎず実体を持たないように感じられるのが今の私たちである。何といっても「多」である「個」のほうが断然リアルなのである。それを逆転させるのがこの「コース」の教えなのだ。「多」のほうこそ実体を持たない、本来は「一」なのだ。このような認識に至ることがまず大きな目標である。

「コース」から話は逸れるが、西田幾多郎という人は「個を成り立たせるのは絶対無の場所である」「個と個を結びつけるものは何もないのだが、何もないということによって結びついている」みたいなことを言っている。ヘーゲルをはじめとする西洋の弁証法は一神教の伝統があるためか、どうしても「一」のほうに重きを置きすぎる。すると「個」をうまく説明できなくなってしまうのがどうも不十分に思えるというので、この人は何と「個を救うために」絶対無の論理なんていうものを出してきたわけだが、絶対無を基盤とするところに成り立つものなら「無」しかないんじゃないの?つまり何も成り立たないんじゃないの?と私は不思議に感じていた。だから、「コース」を読んで驚いた。「一」に重きを置くどころか、存在するのは「一」だけで「個」「多」などないのだ、と明言されていたからだ。西田幾多郎が肯定的に論じた結果がそのまんまあっさりと逆の意味合いにされている。個は救われないどころか粉砕されてしまっていたのである。

でも、全てが一つならどうして私のおなかが痛いときにこの人は何も感じなかったり、私がわかっていることをあの人は全然わからなかったりなんていうことがあるの?私とマイケル・ジャクソンはどう見ても全然違うけど?などと思う人もいるだろう。だからあ!!だからそれがマインドの巧妙な「作る能力」なのである。別々に分かれた個々人がバラバラに存在する、という世界を本当らしく見せるために必要なことは全て作り出されてしまったのだ。

それでもまあ自信を持とうではないか。何故なら私たちの中には依然としてスピリットがあり、スピリットこそ神が造り給うたもの、神を直接知っているものであり、決して破壊されることはないものだからだ。

最後の審判 the Last Judgment のことは以前にも語られていたがこれは文字通り「ここでジャッジ=判断・評価という機能は終わりですよ」となる地点を指している。判断なくして認識はない。逆もまた真である。「裁くなかれ、貴方もまた裁かれないようにするためである」とは、判断という機能は他人に用いられれば自分にも同時に用いられることになるという意味だそうだ。

私たちは常に判断し選択して生きている。良いか悪いか、イエスかノーか。その判断がつかないと不安になる。決めなくては!ということが一種の抑圧にまでなってしまっている。リーディングの現場でも「どうしてそんなこと今決めなくてはならないんですか?」と言いたくなり、実際に言ってしまうこともしょっちゅうだ。何でもちゃんと決めておかないと安心できない、何も出来ないと思ってしまうのだろうが、実は全く逆であって「決めない・判断しない」ほうがずっと安心でリラックスできる。ものごとというのは「自然に決まる」「収まるべきところに収まる」時もっともうまくいくのである。これは「コース」の教えを完璧に実践するところまで行かなくても十分わかることだろう。

おまけに、私たちが「これはイヤ」という判断を下したもの、つまり受け容れることを拒んだ考えであっても実は意識の底にしっかり存在してしまっている。「こんなものは存在しないのだ」と思ったわけではないからだ。どうでもよいもの、実は存在しないようなものならわざわざ拒むこともないのであって、拒むという判断・行為の中に既に拒まれるものの実在を認めるということが含まれてしまっている。

「判断を止める!」ことまでは急にできなくても、判断というものは全て認識に基づいてなされるのだから、どういう決定を下すにしても「とりあえずのもの」くらいに捉えておくべきだろうと思う。

とにかく、絶えず「決めなくては!」「これはどういうことなのかちゃんと判断しなくては!」と思い続けていれば疲れるに決まっているのだ。それは大抵の人が経験済みだろうが、にもかかわらず何故私たちはこんなことを続けるのか?

「コース」の言い方を借りればそれは私たちが「自分自身の現実を作る者」、いわば人生の作者になりたいと思っているからだ。言い換えれば、自分の現実=人生の根拠をどこに求めるか?そこにおいて最も権威あるものは何か?ということなのだ。この「権威」という言葉は聖書から採られている。貴方は何を権威としているのか?おお、そう来たか。「あなたの人生は全てあなたのものだ、他人を気にせずに自分で責任を持って全て決めなさい」なんて、一見は自立を促すご立派な言葉のようだがここで言われているのはその功罪と、じゃあその「自分」っていったい何なの?どの自分なの?ということである。

自分の現実を作る根拠となる「自分」が「神と一体であるところの本来の自分」であれば問題はなかろうが、今のこの自分だとしたらどうだろう?貴方はつねに正しい判断を下す自信があるだろうか?

ところで、前に「コース」は語の用法が一定していると書いたが、他のスピリチュアル書籍(「コース」の派生本とされるものの含めて)ではいろいろな言葉が「コース」と同じ意味合いで用いられているとは限らないので注意して欲しい。魂と言いつつ、「私の」「あなたの」魂などというものがあるように書かれているものもある。また、たとえば私が好きな「和尚」は、マインドという語を『アタマ』というような、専らエゴ的な意味合いにおいてのみ用いており、「コース」でいうスピリットを「ハート」と表現している。

   
第169回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 18・19

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 18

第3章 その3

知覚による認識は、常に何らかの「解釈」を伴う。だからこそ直接知が不可能なのだ。ただの「机」を見ても(或いは触っても)そこには色や形だけでなく「古いな」「傷がある」「あそこで見たのに似てるな」「あれ、こんなに大きかったっけ」などなど、その時々によっていろいろな見方をしてしまうのだから、相手が人間だったり自分の身体だったり社会現象だったりすれば、しかもそれらが私たちにとって特別なものだったりした日にはもう本当に一喜一憂をもたらすような事態になってしまうのである。

奇跡がもたらされるのはそこに奇跡が必要だからだ。何も問題がなければ奇跡など必要ないのである。これはどう見える?本当はどう見えるべきものなの?それに対する正しい答えが「ゆるし」であり「奇跡」なのである。しかし、既に知られていることなら改めて問う必要はない。本当に知った時、全ての問は消失する。ゆえに問いはこの世のものである。この世には時間が存在する。いま問うたことの答えは将来にある、というのがとりあえずの常識だ。ところが、奇跡に拠るならば答えが問いとほぼ同時に為されたりするのだ。

私たちが本当にどっぷりこの世のことに浸かっている時は問うことさえ思い浮かばず、眼前にあるあれこれの現象を何の疑問も持たずに「現実」だと思ってしまうのである。そこから一歩進んで「ちょっと、これって変じゃない?こんなに苦しいなんて私がどこかおかしいんじゃないの?」と思うところから全ては始まるのだ。

「コース」では、知覚による認識がより純化したものを「ヴィジョン」という言葉で表現している。これはもちろん視聴覚の機能に障害がある人でも問題なく得られるものだ。よく「心眼で見る」というが、ヴィジョンは「心」と言ってもエゴ的マインドではなくスピリットのほうで見る=認識するのである。その意味でいわゆる「霊視」とは異なっている。しかし、ヴィジョンとてやはり真理がそのままの形で映し出されるわけではない。もとよりそんなことは不可能だ。つまり、真理は言葉だの映像だの音だの、という「シンボル」によって捉えられるものではなく、直接経験によってしか知られないものなのだ。もし、カミサマが貴方の目の前に現れて「おおー!」なんてことがあったとしても、目の前に現れたというその事実がそのヴィジョンは神そのもの」でないことを明白に示している。これだけだったら「奇跡」ではあっても「啓示」にはならないらしい。確かにねえ、そんなことがあったら皆きっと「ちょっと大変、聞いて聞いて!昨日アマテラス大御神が出てきてね〜」とか人に言いまくるだろう。

見えたのならそれは神ではないのだ。声が聞こえたのならそれも神ではないのだ。神はイメージもできないのだ。一方、直接知の領域である啓示ならそういう反応はあり得ない。

このあたり、直接知なんて実際経験してみない限りどうにもならないものであるにもかかわらず、延々と記述が続く。おそらく私たちに単なる知覚認識と「知る」こととを混同させないようにするためだろう、両者を比較しつつ違いを明らかにしている。この両者のもっとも本質的な相違点は「絶対的な確かさ」の有無である。私たちの知覚機能が回復して正常になりヴィジョンを得られるようになっても、認識作用の存在自体がそもそも「この世」のことである以上そこには限界があるのだ。ヴィジョンによって真理を認識することはできても知ることはできない。認識作用にはどうしても身体・・「個」が関わってきてしまうのだ。

「コース」に即して考えると、たとえば誰かを「知る」という場合、それはその人に関するあらゆる情報を収集するとか性格を理解するなどという意味ではない。ひとりの「個人」として誰かを知るということではないのだ。そんなことは『コース』に即して考えればもとより論理的に不可能である。何故なら「知る」という事態は例の「分離」以前のものであり、そこには「個」などないからである。「他者」というものがない。全ては知られていてそれゆえに確かなのである。

ここでまたすごい記述が出てくる。神と子と聖霊は三位一体であった。ならば、神を知っていればそれはとりもなおさず子をも知っているということになる。つまり神を知っていれば「他人」キリスト教風にいえば「兄弟」をも知ることになるわけである。これを裏から言えば、私たちが誰かについて「あの人ってこうなのかしら、どうなのかしら」と何か疑問を持つ場合、それは私たちが「神を知らない」ということを示しているのだそうだ!思わず目が点になってのけぞりそうになる事実だが、落ち着いてよく考えよう。まず、「知る」という事態の意味を今一度確かめておきたい。相手の気持ちがどうとか、好みがどうとかそんなことは全て認識とそれに付随する判断の対象であって「知る」対象ではないのである。誰かが昨日と今日で違うことを言っていれば私たちは「あれ?」と思う。わからなくなる。極端な人なら嘘つき呼ばわりする。そのような現象を超えてあるがままに相手を見るのが「正しい認識の仕方」・・いわば純粋意識の純粋認識なわけだが、知るということは更にそれをも超えているのである。その都度やることではないからだ。今更ながら、認識は行為だが「知っている」というのは一つの万遍ない状態なのである。

ゆえに、これも自らよく調べてみればわかることだが、私たちが何らかの行動を起こすときは常に認識に基づいている。「ゆるし」という行為も然り、である。一方、「知る」ことによってもたらされるのは行為ではなく神と同質の思考のみである。以前、啓示を受けて何かを創作することはありそうだ、と書いたがこれも正確に表せば啓示の結果としての創作ではないのだ。啓示を受けて知るに至った人はまず絶句する。「知る」「知っている」という状態は、「愛」と同様そこから直接には行動を生じない。神と同質の創造をするための基盤みたいなものである。ここで言われている「創造」とは、芸術やらお料理やらそういうことを指しているのではない。「知っている」という絶対的な確かさ、この状態が基盤になっていれば、何をしても或いは何もしなくても全てが創造的になる、ということだ。絶対的な確かさがあること、それは完全な平安でもある。この状態ならば苦し紛れに何かをでっちあげる必要もない。

神は、自分が造った私たちを見て「あら、こんなのができちゃった」などとは思わない。自分と一つであるもの、同質のものが造られるという絶対的な確実さをもって創造したのである。このあたりは、私たちが日常的に考える「創造」とは異なるので少々わかりづらいかもしれないが、「創造」についてはもう少し先で詳しく説明されるのでお楽しみに。ともかく、ここでのポイントは「知る」「知っている」という事態なのだが、それも実際に経験してみないとわからないという代物だ。イメージもできないものなのである。「コース」には時々こういうことが出てくるが、この手のわからなさについてはいくら考えても仕方がないので、ただ「そういうことがあるんだな」とだけ思っていていただきたい。無理やり分かろうとしてわかったつもりになるのが一番危険だからである。だったら、イメージもできない事態に近づくための準備段階として「正しい認識=純粋認識」を可能ならしめるべく日々「コース」の教えを学び続ければよいのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 19

第3章 その4

神と分離してしまった(と思い込んだ)ことによって本来ただ一つだったマインドが二つに分裂した。前に「用語解説集」に出てきた「意識=consciousness」が作り出されたのもこのときである。意識はそれが顕在意識であろうが、潜在・無意識であろうが全てエゴの支配下に置かれうる。もちろんスピリットが入る余地もあるのだが、たいていはエゴの温床になってしまっているようだ。おかげで、私たちのマインドは殆どもっぱら「何かを受け取る」ばかりで一向に「創造する」ことはなくなってしまった。更に、顕在だの潜在・無意識だのと重層的な構造になっている事実そのものが既に、意識は分離の副産物であることの証左になっている。本来の状態ならばあらゆる違い、たとえば異なる層などはあり得ないからである。

意識にいろいろな層があることは私たちも日常的に経験している。こう考えたと思ったらやっぱりああ考えたり感じたり、あら私はこういう人間だと思ってたけどああいう部分もあったのねなどと発見したり、だからこそ意識を探っていけば何だか「自分の知らない未知の自分」なんてものがありそうな気もするのである。実際、そんなものはいくらだって出てくるだろう。だが、無意識の中だろうと何だろうと所詮はどれも私たちが作り出したものに過ぎない。ゆえに、そんなあれこれをいくら探して寄せ集めたところで「本当の自分」などというものが出てくるわけもないのである。無駄な努力はやめましょう。ごみを漁って調べたりしないで、ごみ箱ごと捨てましょう、「コース」が言っているのはそういうことだ。

さて、エゴはもちろん「神との分離」によって作り出された。エゴには、あるがままの=神に造られたとおりの自分を見ないで好き勝手な自分を作り出し(たとえそれが「気に食わないダメな自分」であっても、である)それがまさに自分なのだと認識しようとする働きがある。たとえば、この身体、性格、属性などを私たちは「自分」だと考えがちだが、実際にはそれらこそエゴが作り出したものに過ぎないのだ。そんなものが「自分」であるわけもない。まあこれくらいは当たり前であり、ここまでなら比較的簡単に実感として認められると思う。

エゴの働きの一つが「問いを持つこと」である。確かに、スピリットは直接知に通じているので何も問う必要はない。そしてエゴには正しい答えが得られない。正しい答えというのはおのずから直接知を含むので、スピリットを介さなければ得られないのである。

私が思うに、問いを持つのがエゴの機能であったとしてもそれらが「私とは何か」「神は在るかと問うのはどういうことか」「存在とは」など本質的な問いであれば、そして正しく理性を使って思考していくならば、それは必ずや「私=エゴ」抜きの、即ち非人称あるいは無人称の思考へと開けていくのであり、そこからスピリットにもつながることができる。「コース」だって別に「問うな」なんて言ってない。だってあなた、こんな状態で問いが生じなかったらそのほうがよっぽどおかしいですよ。ただ、本来の「全ては一つ」の状態だったら問いというもの自体があり得ない、これだけは確実なのである。

スピリットから離れたマインドには沢山の層があり、種々雑多な思いがあり、それらは互いに対立する場合も多くまた互いどうしよく知らず互いを理解できない場合もある。つまりマインドの中には常に未知のものや対立などが生じているわけである。また、常に自分の中に自分を苦しめ痛めつけるようなものが存在しているとも言える。これが恐怖を生み出さないわけがない。自分を知るのがこわい、と感じるならばその原因の一つがこれである。

しつこく繰り返すが、私たちは神に造られた通りのものである。そして私たちは神に似せて造られ、神と一つである。言い換えれば、私たちは神と違う何かではないのである。これはいくら繰り返しても足りないくらい重要なことなのだ。だってそうでしょう、自分をこの身体だと思い込んだり、目の前のあれこれに心惑わされて右往左往したり、必死で何かを得たいと思ったり、自分の中に対立や葛藤があったり、そんなこと「神」がすると思いますか?しませんね。だったら、私たちもそんなふうには造られていないのだ。このことがちゃんとわからない限り、私たちは先に述べた内なる恐怖から免れることが出来ない。内なる恐怖は投影され外界からの恐怖となる。ゆえに、「神から造られた」という事実をしっかり把握しない限り、私たちは内外からの恐怖にさらされることになるのである。

分裂したマインドには当然のことながら自分が何者かがわからない。いろいろなものがありすぎ、しかも常に対立するものを抱えてしまっているからである。自分が何者かわからないからこそ、いつでも手を変え品を変えて不安や恐怖が襲ってくるのだ。

話がちょっと逸れるが、「コース」のようにキリスト教に拠らず、つまり「造物主」たる「神」という概念なしで同じところに至ることももちろんできる。「コース」なら私たちのアイデンティティは「神に造られた神とひとつであるもの」となり、それをしっかり認識することで不安や恐怖から解放される。ところが「造物主なし」のやり方だと、身体や性格や属性云々などが自分であるはずがないのは同じなのだが、たとえば「私、などというものは無い」というそのこと自体が気づきとなる。何ものでもない自分が頭で作り出したものなど実在するはずもない。一方で「私」と呼ばれる「これ」は存在している。全ては存在している。存在しないことはできない。死んだって発狂したって無駄だ。もはや逃げ場はない。これらが「確信」に至るわけだが、何であれ確信してしまったものは強い。ぶれないし迷わない。純粋意識の純粋認識もこの地点からならできる。直接知も可能である。これは私が保証する。どうしても「神」がダメという人ならこういうやり方もあるので、諦めないでほしい。ただし、確信しそこなったら絶望か発狂である。こちらについては保証の限りではない。

さて、閑話休題。正しいマインドであれば正しい認識ができるし、勘違いを正して奇跡をもたらすこともできる。だがそれはあくまでも「認識」レベルなのであって直接知のレベルではない。もともと「知って」いればわざわざ認識する必要自体が生じないのだ。更に、認識には主体と対象、認識するものとされるものとがあり当然の事ながら主体≠対象である。全てが主体であるような「ただ一つ」の状態ならこういうことは生じない。

このあたりはかなり形而上的な記述が続くのでわかりづらさを感じる人もいるかもしれない。私なりにできるだけわかりやすく説明してみよう。

知覚に限らず認識というのは、何かを何かだと思うことである。たとえばここに黒い猫がいるとする。それを見て、或いは触ったり鳴き声を聞いたりして「これは(黒い)猫だ」と思うのが知覚による認識である。しかし!あなたがそれを「(黒い)猫だ」と思った瞬間、「それ」は「それ」でなくなってしまうのである。猫という動物を知らない人なら「こういう感じの動物」などと言うかもしれないがそれとて同じことである。私は別に「それは実は変身した白い犬かもしれない」などと言っているのではない。何かを見て(或いは聞いて・触って)「●●だ」と思ったその瞬間にその「何か」はそれ自身ではなくなってしまうのだ。これは別に「コース」に言われるまでもなくそういうものなのである。このように認識とは常に「解釈・判断」あるいは「名づけ」を伴うのだ。あらゆるものは認識された途端に虚構たらざるを得ず、つまり認識されたものはそれ自身ではない。言ってみれば「仮象」である。通常、私たちは何の疑問も抱かずに日々こういうことをやってのけている。しかし、一旦その「虚構性」に気づいたときの驚きといったら!

たいてい「本当の自分探し」みたいなものはこれらの虚構を寄せ集めているに過ぎないのであって、全然「本当」なんかではないのである。

それに対して、たとえば目の前の「それ」をただ「それ」として見るのが直接経験というか、まあ直接知なのである。便宜上「見る」と書いたが正確にはそうではない。認識の行き止まり、認識の果てである。あるいは認識以前、言語以前の状態である。そこには既に主体も対象もない。見るものが見られるものである。何もないが全てがある。もはや「神を知った」とさえ言うことはできず、その認識もできない。神が私であり私が神である。神も私もない。こういう事態に陥った場合、人はたいてい「ああ」とか呟いて絶句するしかなくなる。たはは、と笑ってへたり込むこともある。こちらについては私もこういうふうにしか書けない。言語以前の状態だからである。

   
第168回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 16・17

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 16

第2章 その8

「最後の審判」はマインドにおいてなされる。今まで述べられてきたことを考えればこれは当然である。スピリット主導の正しいマインドが回復されるのであり、その結果私たちは自ら理性的にその都度正しい選択ができるようになるのだ。「コース」の言い方を借りれば「天国ではないが、それにかなり近い『本当の世界』」という現実を生きることができるようになる。いきなり永遠の命を得て天国に行けてしまうわけではなくて、ただ「天国の門」に至るだけだということらしい。

さて、「自分たちが勝手にでっちあげたものは捨て去られ消える」のならやっぱり身体も捨てられ消えてしまうのか?これを文字通り「身体の死」とは取らないほうが良いと思う。何故なら最後の審判はもっぱら「マインド」のものであって身体はそもそも対象にならないからである。しかしまあ、最後の審判に限らず、宇宙やら地球の波動が何やら変化して「早く目覚めないと身体がついていかずに死ぬよ」みたいな考え方はスピリチュアル系にも多いのだが、私はこれがずっと不思議だった。魂の不死を説きつつもスピリチュアルのくせにどうしてそんなに身体を重視するのか?救われたい、というのが何故いつも身体のことなのか?イエスキリストも同じような方法を使って人々に覚醒を促したと聖書にはあるのだが、それが本当だとしてもただの方便としてそう言ったとしか私には考えられない。いつの世もたいていの人々は脅かされないと本気になれないものだからである。

けれどもやっぱりこれは外道なのではないか、と思うのだ。いっそのこと「覚醒すればこの世のものとは思えない豊かで幸せな世界を生きることができますが、覚醒したらもう身体は要らないので形としては死ぬことになります。 しかし死は存在しません。どちらにしろ覚醒してしまえば死など怖れなくなります」みたいなやり方のものはないのだろうか?そういう過激なものはやっぱりどこかで間違って集団自殺か何かしてしまうのだろうか?

ところで、私たちはよく「私のマインド」などと言うがその時「私≠マインド」であることは明白である。私の足、と言うとき「私≠足」であるのと同じことだ。しかし、だとすると「私のマインド」と言っている「私」は一体何なのだろう?マインドのほかに「私」と言っているものがあるか、実は「私のマインド」などとは言えないのか、どちらかなのである。各自じっくり考えてみて欲しい。

第3章 その1

時あたかも四旬節(受難節)である。一般的な解釈によれば、イエス・キリストが十字架にかけられて死んだこと=磔刑によって私たちの罪はあがなわれた。このように「あがない」には受難や犠牲がつきものだ、ということになっている。キリスト教徒ならずとも似たような発想はあるはずだ。ところが、これも「コース」の手にかかると全く違うものになる。というか、もともと「コース」はキリストが語っているものなのだから、これはキリストが自ら「磔刑による死について語っている」わけである。

何かを奪われたり苦しんだりすること自体が既に「本当はない」のだ、と何度も述べられているのだが、それにしてもキリストの受難は「神は素晴らしい人にさえこんな試練を与えるのか」、いやそれどころか「素晴らしい人だからこそ試練が与えられる」とさえ解釈されてきた。スピリチュアル系の人たちだって「浄化のときだから苦しくて」などと言ったりする。発想としては似たようなものである。

幸せになるためには苦しまなくてはならない、神の国に入るためには迫害されて受難を経なくてはならない。そう考えれば自ら受難や、ひいては殉教を望む人々がいても不思議ではない。

迫害する者もされる者もそれぞれ自らが信じるところの「真理」を守るために闘っているのである。迫害者は、相手に対する攻撃を「真理のためなのだ」と正当化できる。迫害されて苦しむほうも同様だ。迫害を受ける者が持つ優越感についてはニーチェも罵倒しまくっている。それはいいとして、こんな残酷なことが本当に神の意志だろうか?そんなことを神が本当に喜ぶだろうか?

繰り返すまでもないことだがしっかり繰り返されている。報復、懲罰、犠牲などは神のものではない。「復讐するは我にあり」神はそんなもの知らない。それらは全て私たちが自分のマインドで作り出したもの・・・罪悪感や恐怖を投影したのに過ぎない。犠牲を求めるなんて慈悲深くあることと正反対ではないか。そんなのは恐怖に駆られている人間がやりがちな意地悪だなどと書かれている。ああ、怖い。

ここでキリストは「アダムの原罪以来の貴方たちの罪のために私が罰を受けたのではない」と明言している。聖餐式などで唱えられる「世の罪を除き給う神の子羊よ」も、血塗られた生贄の子羊だと思わないで欲しい、これは無垢の象徴なのだとキリストは言う。無垢とは弱さではなく強さを表している。「心の清きものは幸いである、彼らは神を見るからである」という章句から私たちは強さを連想しにくいが、神を見る=真理を知ることに勝る強さはないのだ。

ものすごく乱暴なのだが、一般的に無垢=無防備=弱さ=受難=犠牲という図式が流布しているのではないか。もう一度ちゃんと考え直そう。無垢な者は弱くて自分を守る術がないと思われがちだが、実は逆で真理を知っている・・つまり奪われることも失うこともないと知っているために自分を守る必要がないのだ。

無垢なる精神には真理が見えるので何ものも投影する必要がない。これこそ究極の奇跡精神である。それを考えれば無垢が害をもたらすものであるはずもない。あがないは救い以外の何ものでもないからである。

また、無垢=バカという図式もあった。これもやはり逆なのであって、真理がわかることに勝る叡智はないのである。

だったら何故キリストは自分を救えなかったのか?については2ヶ月くらい後で詳しく述べられますのでお楽しみに。

真理は何ものにも破壊されない。光は闇に破壊されない。これをはっきり知らしめるものがあがないである。あがないは最後の課題だ、これが本当にわかれば他は要らないとキリストは言う。確かに、あがないを為そうと思ってもそれによって自分が傷ついたり損したりするのではないか、とつい考えてしまって躊躇することは大いにありそうだ。あがないは、一般的に信じられているように神の祭壇に捧げられる生贄=犠牲ではなくて神へのそして兄弟姉妹への贈り物なのである。神の祭壇は、私たちのマインドにある。無垢なる者のマインドは輝ける祭壇である。

神は象徴的なものなどではなく明白な事実である、と「コース」は言う。無垢なるマインドにはそれがハッキリわかるのだ。つまり、神を「直接経験」として知ることができるのである。そういうことを書かれても大抵の人にはピンと来ないだろうと思うが、いまはそれで良いのだ。神を知るってどういうことかしら、神さまってどんな感じなのかしらなどと考えても全く無駄だからである。なぜなら、神は知覚認識もイメージもできないようなものだからだ。イメージできてしまったらその時点で神ではなくなる。イメージする、ということ自体私たちが作り出したものであって、本来の状態にはありえないものだからだ。

その他にも「コース」の中で用いられている「愛」「ゆるし」「喜び」「幸せ」「知る」「創造」などの言葉は私たちにも非常になじみがあるものにもかかわらず、実は私たちにはイメージしにくい事態を表していたりする。そのあたりも「コース」の読みづらさに一役買っているのではないか、と思う。

ただ、「コース」の素晴らしいところは、語の用法が完全に一定している点である。一つの語が文脈によって違う意味を持つなどということが一切ない。だから一旦わかってしまえば後は楽なのだ。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 17

第3章 その2

無垢さは、完全に無垢か全く違うかのどちらかしかない。部分的に無垢というのがあるとしたら「ただのバカ」であり、そんなものには意味がない、というか本来あり得ない。「コース」中の基本概念にはこのようなものが結構ある。神の意志に基づいて創造されたものか、でっちあげられたものか、などというのもその一つである。一部はそうだが一部は違う、などということがあり得ない。しかし、いくら虚偽の世界に生きている私たちとて、正しいものを全く知らずに生きることは不可能であるらしい。望みは大いにあるわけだ。

さて、無垢なる精神にはものごとが正しく映る。あるがままに、つまり神が創造したとおりに映るのであり、本来存在しないものは認識できない。このあたりはゆるしの本質にも関わることだ。以前、うんと乱暴に言えば「ゆるしとは、なかったことにして愛をもって見逃すこと」と書いたが、これはもちろん「見て見ぬ振りをする」のではない。むしろ、しっかり見る、本当にしっかり見れば現象に騙されずその奥に或いは向こうにある真実の姿が見えるのだ。この場合の「真実の姿」とは言うまでもなく「神に造られたままの、あるいは神の意志に沿って創造された完全さ」である。私たちはいちいち「ゆるし」というプロセスを経なければこんなことはできないのだが、無垢なる精神或いは奇跡精神にはこのプロセスが瞬時に為される。

神の意志・・神の御旨と訳したほうが良いのだろうか?ともかく、私たちはこれを怖れている。これまでにも出てきたように、どこかで神が私たちに何か試練をもたらしたり罰を下したりする、私たちの望まないことをすると思っているからなのだが、これはそもそも私たちが神の御旨にそむいたからこそ生じる考えである。神の御旨にそむく、つまり「神から与えられた創造力を自分勝手に誤用する」ということだ。

ところで、マインドがこんなことをするのは不自由な時だけである、と「コース」は言っている。つまり、マインドが自分自身を拘束し縛り付けている時にまあ苦し紛れに何かをでっちあげざるを得なくなるという感じだと思っていただきたい。これはわかりにくいと感じる人もいるかもしれない。神の御旨に従わないことが何故不自由なのか、については後述されるのでここでは敢えて触れないが、ごく簡単に言おう。自問してみてほしい、貴方は自分が満ち足りている時にわざわざ馬鹿なことをするだろうか?

父と子と聖霊の三位一体は文字通り「一体」なのであって、一つのマインドと一つの意志しかない。別々の3つのものが一つになっているのではなく、ただ一つのものが3つの位相を持っているのである。その大きさ、深さ、広さは今の私たちには想像を絶するものだが、無垢なる精神にはこれが認識できる。これがわかれば何かをでっちあげて投影などする必要もない。それらは全て真実を避けるため、真実から身を守る!!ためにやむを得ず為されることだからである。私たちが「何かをせざるを得ない」のは言うまでもなく不自由な時だけである。不自由を感じるのは私たちが真実ではない歪んだ世界を見てしまうからなのだが、そういう認識しかできないようになってしまった知覚機能を正常にするにはどうしたらよいのか?言うは易く行うは難しなのだが、これも結局ゆるしとあがない(浄化)に拠るしかないのだ。全てのもの、全ての現象の中に真実だけを見るようにする。そうすれば間違いは消える、というか「間違いだった」ということが分かって存在理由を失う。キリストのごとく、相手の中に真実を見てやれば自分も相手も一緒に癒される。こんなことができたりしたら奇跡だわ!と思うだろうが、だから「奇跡のコース」なのである。ああ。

まあでもとにかく、まずは知覚・認識機能が正されない限り私たちは何であれ「知る」などということは出来ないのだ。レベルは違うが、確かに私の仕事の現場でも「どうしてそんなふうに見えるんですか、感じるんですか?」と思うようなことが多々ある。

何かを「知っている」とは、それが本当に確かだとわかっていることであって、どちらかというと「自分がそれを知っている」よりも「それが自分に知られている」という感じに近い。ともかく、そのように厳密に考えてみれば私たちは殆ど何も知らないのだと気がつく。「無知の知」とはこういうことでもあるのだ。これも私事で恐縮だが、以前「世界が全ての過去の記憶と歴史を備えた形で5分前に創造されたのではない、ということをどうして証明できるのか」という考えに取り憑かれたことがあった。どうしたって証明などできっこないのである。この世界はそれくらい不確かなのだ。よくもまあそんなバカなことを考えつくものだと我ながら呆れたが、何と永井均という人が同じようなことを書いていたのでビックリした記憶がある。

まあ、本気で問い始めてしまった人々は自分がいかに何も知らないかに気づいて驚くのだ。「コース」は問いがエゴの機能だというが、本気で問い続けているうちに必ずやエゴを超えてしまうのである。となれば「私とは何か?」を問い、考え、疑い、更に疑い、そして「私には分からない。しかし、ここに私とは何かと考えている私がいることだけは確かだ!」と気づくことが「方法序説」のあの人でなくてもどんなに衝撃的だったか、想像に難くない。但し、この場合の「私」はまだ神と一体ではなく神に対峙するところのそれだ。そのデカルトの方法的懐疑ではないが、目に映るものも聞こえるものも感じるものも確かではなく「とりあえず」のものでしかない、くらいに考えていて間違いはない。

とりあえずのもの、しかも人によって或いは時と場合によって見え方も感じ方も変わってしまうようなものが当てになるはずもない。科学的事実もまた然りである。科学は進歩し続けている。昨日の常識が明日には変わってしまうかもしれない。進歩するというまさにそのことによって科学もまた「とりあえずのもの」に過ぎないとわかる。科学で証明されているから間違いない、などと思ってはいけない。

その意味では、地球が丸いことさえ私は知らない。一応そういうことになっているんだな、くらいにしか思えないのである。ロケットから眺めた地球が球体であっても「私の目にはそう見える」と思うだけだろうなあ。

知覚による認識は常に「真実」にも「勘違い」にもなりうる。しかも、たとえそれがいくら是正されて正常になったところでそのあり方はおそらく人によって異なる。正常な認識機能を持つことは「直接知」の準備段階に過ぎない。

さて、私たちは要するに自分自身のことも他人のことも神のことも「わかってない」のだ。(この「わかる」は「理解」ではなくrecognizeである。)わかってないのは知らないからではない。知っていたはずなのに忘れてしまったのだ。従って「わかる」というのは思い出すことに似ている。これは全くその通りなのであって、それぞれ自分の経験からみても納得できることである。過去世で学んだからなどというレベルではない。過去世だって来世だって今生と同じように身体を持っていたわけであり、それらもまた幻想だからだ。そうではなくて「はじめから知っていた」というような意味なのである。楽園追放以前、神との分離以前の本来の状態にあっては何もかもが知られていたのだ。時間軸的な意味ではないですよ!太古の昔、ということではありませんよ!

ちょっと考えてみて欲しい。何かすごいことに気づいたとき、私たちは「そうだったのか!」「わかった!」などと言うではないか(ちなみに私の名前のeurekaはこの意味である)。全く新たな情報を得たというのではなく、初めからマインドのどこかにあったものを自分が改めて認識できたという状態だ。それらは隠されていたわけではなく、ただ私たちが見ようとしなかっただけなのだが、そのことにも同時に気づくようになっているのである。「どうして今までわからなかったんだろう、気づかなかったんだろう!」と一瞬だけ、本当に一瞬だけ驚くものなのだ。あらゆる気づきは、思い出す或いは再び出会い見出すことに他ならない。学ぶこともこれと同様なのであって、思い出すために邪魔なものを取り払っていく作業なのである。

   
第167回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 14・15

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 14

第2章 その6

さて、キリストの導きを得るために私たちは自分に生じた恐怖を自分の責任において浄化しなくてはならないそうだ。恐怖そのものをどうにかしようとしても無駄だということは分かった。では一体どうしたら良いのか?

「コース」によると、これはひとえに私たちの「やる気」にかかっているらしいのだが、それほど容易なことでもなさそうなのだ。何故なら、本当は良いことに決まっているのだけれどもあまりに不慣れなことをするのは誰にとっても面倒だからだ。

よくよく考えてみると、恐怖は「ああなってほしい」「でもこうなったらどうしよう」と考えている状態のときに生じる。或いは「ああなったらどうしよう」「ならないでほしい」でも良い。つまり「ああなる」「こうなる」という二つの対立する思いが生じている状態であり、これを「コース」は葛藤と呼ぶ。「ああなりたくない」とだけ思っている場合に恐怖は生じない。「なったらどうしよう」が出てきて初めて恐怖も出てくるのである。

「お金が沢山あるのは良いことだ」「お金がなくなったらどうしよう」と思っているならそれは「お金がある」「お金がない」という相反する「思い・思考」が対立しているのであり、私たちは同時に二つの思いに従って動くことが出来ない以上、ある時は「お金がない」にまたある時は「沢山ある」に沿って動く。一つの思考に従って動いている或いはアタマが働いている時、もう一方は押し込められ出口を奪われる。つまり、どちらに沿って動いていても常にマインドと行動は一致しない状態になるのである。

変な話だが「ああ、お金があったらいいなあ」というのは「お金がない」と思っているから生じる発想であり、この場合はもっぱら「ない」に沿って動くために葛藤も恐怖も起こらない。ただし、おそらくずっと「あったらいいなあ=今はない」のままであろう。何かを本当に望むのなら心を一つに決めなくてはならないのである。

葛藤・対立は「相反する別のもの」が存在するという前提から生じるのは明らかである。全ては神が造り給うたままにただ一つである、という状態が破れて「神からの分離」が起きた(ように見えるだけだが)。分離は可能だ、分離してみてもいいかなという思い違いが最初の間違いであることは先に述べた。となれば、葛藤や対立も元々はこの「分離という思い違い」から派生したものだとハッキリわかってくる。

となれば、話は簡単である。間違いを正し、浄化すればよい。即ち「あがない」である。恐怖がある時にキリストの導きは得られなくても、間違いを認めてあがないを求めれば聖霊は助けてくれるらしいのだ。要するに、恐怖を取り除いて下さいという頼み方はできないが、間違いを正してくださいというのなら可能だ、ということらしい。

ここで「コース」は私たちが恐怖を取り除くための処方をこんな形で示している。

「まずこれは恐怖なのだと知ること。恐怖は愛の欠如から生じる。愛の欠如に対する処方箋は完全な愛である。完全な愛こそ『あがない』なのである」

却ってわかりづらくなってしまったかもしれないが、恐怖が生じたときはそれを何とかしようとするのではなく、何はともあれ「あがない」を求めよ、それは聖霊によってもたらされる。あがないを受け容れればその時に恐怖は消える、ということなのだ。そんなに簡単にいくか?という気がしないでもないが、本気でやるしかない!マインドを訓練してこれを習慣化しない限り「奇跡精神」にはなれないぞということらしい。

私たちはマインドの力を知らなさ過ぎる、と「コース」は言う。その創造力はとてつもないもので、その気になれば文字通り「山をも動かせる」のだが私たちの殆どはそんなこと信じない。自分にそれほどの力がある、などと思うことを「傲慢だ」と感じてしまうからである。傲慢だ、と感じれば今度はそこに罪悪感が生じて苦しくなる。だからマインドの力を過小評価するのだ。にもかかわらずマインドは昼夜を問わず不眠不休で働き続ける、つまり創造し続ける。その力と使い方を正しく理解しないままにマインドの創造力を野放しにすれば、メチャクチャなものばかりが「でっちあげ」られるというわけである。

ところで、何でもできるはずのキリストが何故私たちの恐怖心に対しては手出しをしないのか?それには理由がある。

全てはマインドが、つまり思考が作り出しているものだ。存在するもの或いは存在しているように見えるもの全てが実は思考なのだが、ここでは「思考」が全ての原因だというふうに捉えておけば十分である。思考が更なる思考を、或いは感情を作り出す。これが「結果」なのである。

私たちが日常的に「思考」だと思っているもの、つまりアタマの中を去来するあれこれの思いはまず殆どがこの「結果」の部分なのだ。ここを絶対に間違えてはいけない!もちろん、不安や恐怖も「結果」部分のものである。従って、アタマの中に浮かんでは消えるあれこれを何とかコントロールしようとしても無意味なのだ。これも「レベルの混同」の一例なのだが、たとえば「あれか、これか」で迷い悩んでいるときには「あれ」も「これ」も結果に過ぎない。原因に当たるのは「あれとこれ、つまり相反するものの存在が可能だと思い込んだ」という思考なのである。要するに思い違いをしたことだけが原因なのだ。

日常生活において「あれか、これか」と迷ったときもそれら「あれ・これ」が出で来るところの根本の発想を手放してしまうことによってスッキリ開けたりするものだ。

私たち一人ひとりのマインドが・・ま、実は個々のマインドなどないのだが、とりあえず・・作り出した原因とそこから生じる結果の間には「因果律」がある。因果律は絶対に破壊されず、破壊されてはならない基本法則であり、キリストも神もそこには手出しができない。私たちが自らマインドで作り出したもの、たとえば恐怖や病に対してキリストが何かするならば、それは私たちのマインドの原因と結果の法則に介入しそれを冒すことになる。

マインドの力を正当に評価するとともにこの因果律を正しく理解すれば、私たちはマインドが創造力を誤用する機会を減じることができるうえ、奇跡をもたらすこともより容易になるのである。

「コース」の言う「本当の因果律」とは、私たちが日常的に考えている因果関係とはレベルにおいて全く異なっている。私たちが日常的に「原因」だと思っているもの殆ど全てが実は「結果」であることは前述したとおりだが、それだけではない。「コース」曰く、本当の原因は神であり、結果は被造物である私たちであるらしい。そういってわかりにくければ、私たちの存在の根拠は神であると考えていただきたい。また、対立のなかでもいちばん基本的なのは要するに「神に造られたものか或いはでっちあげられたものか」なのだが、前者には愛が、後者には恐怖が内在する。何故なら、分離がないところに即ち自分と違う何かが存在しないところに恐怖は生じ得ないからだ。

恐怖がある時に愛はない。ならば、愛をもたらせば恐怖は消えるのだ。光をもたらせば闇が消えるのと同じである。これら二つのものは決して同時に存在できない。ましてや片方は元々「ない」ものなのである。ここもよく理解しておかなくてはならない。愛と恐怖、どちらが強いか?私たちは自らの経験からつい「恐怖のほうが強いこともあるじゃないか」と考えてしまう。しかし、ロマンチックな考え方を完全に排除したとしても「実在するもの」が「本当には存在しないもの・無」よりも強いことは論を俟たない。思い出していただきたい。光をもたらせば闇は消えるが、闇をもたらしても光は見えなくなるだけなのだ。

この世においてもっとも基本的な対立は「愛と恐怖」なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 15

第2章 その7

私たちは日頃の経験から「恐怖は自分が作ったものではないので自在にコントロールなどできない」と思ってしまう。が、真相は逆で、恐怖は自分が作ったものだから自分でコントロールするしかないのである。これからは恐怖に「襲われる」たびにこのことを思い出し、「コース」が教える処方箋を試してみよう。

さて、私たちは恐怖を自作するとともに「恐怖は自分でコントロールできない」という思い込みまで作ってしまった。思い込み、というのはそれを作った当人にとってはどこまでも真実であり現実である。だからこそ、「神と離れて存在できる」なんてこともその思い込みを作った私たちにとっては現実のごとくになってしまったわけである。

実際には神からの分離など起こっていないし、それに付随する恐怖その他もろもろも実在はしないのだが、だからといってやみくもに「分離はない!恐怖は存在しない!身体も存在しない!」などと絶叫しつつ否定してみたところで何もならない。今の私たちにとっては何といっても現にあるものなのだから、ただその存在を無視しようとしただけではダメなのだ。ここは実践上の重要ポイントである!

とにかくまずは問題があることを認識しなくてはならない。そうであって初めてあがないや浄化の必要性が生じ、更にはそれらを受け容れる準備ができるのである。問題をただ「こんなもの本当は存在しないんだっ!」とむやみやたらに否定してしまえば同時にあがないも浄化も否定してしまうことになるだけだからだ。「奇跡精神」が極まると、このプロセスが瞬時に行われることになる。イエスキリストが病人を癒したくだりを思い出していただきたい。

さて、再三述べられている通り相反する二つ以上のものが同時に存在することはできない。恐怖があるところ愛はないのであり、愛があれば恐怖はないのである。これは試してみればすぐにわかることだが、たとえば不安を感じているその瞬間に、「全く同時に」安心を感じることは誰にもできないのだ。

ところが、ところがである。私たちのこの世界には、いや私たちの心の中には愛も恐怖も不安も心配も混在しているではないか!本来は共存できないはずの相反するものが何とか混在できるのはそこに「時間」差があるためだ。3分前には不安でいっぱいだったが今はホッとしちゃった、なんてことは誰でも日常茶飯事である。時間差つまり「時」というものがあることによってこんな離れ技も可能になってしまったのだ。私たちのこの世界、神との分離によってでっちあげられたこの世界はそういうわけで「時」なるものを同時にどうしても必要としたのだ。一種の妥協策とも言える。これが「時」の存在理由である。なるほど!

しかしながら「時」は、真実に至るべく学び続ける私たちにとって大変ありがたい存在でもある。身体などと同様、学びを助けてくれるものなのだ。時間差があるからこそ、さっきは間違えても今度は正しい選択ができたりする。間違うことが少なくなってくるに従って次第に「時」はその必要性を失って消滅し始めるのだ。

私たちは皆「神の子」なのであるが、本来神にはただ一人の子しかいない。何故なら私たちは、いや全てのものは本来ただ一つだからだ。その一つのもの即ち「全体」がどういう因果か分離を起こして多種多様の「部分」になってしまったのである。「私たちは神の一部だ」と言うこともできるのだが、そう表現してしまうと「多種多様のものが寄せ集まって全体をなしている」というイメージになりやすい。すると「コース」の言う「一つであること、完全無欠に丸ごと一つであること」ではなくなってしまう。部分という概念が消え去り完全に一つのものにならない限り本当のあがないは完了しない。「99匹の子羊が帰ってきてもただ1匹の迷える子羊がいるならばそれが見つかるまで待とう」と聖書に書いてあるのと同じである。ええ〜っ、それじゃあワタシがいくら頑張っても世界人類の中にたった一人ダメな人がいる限り救われないわけ?だったら何千年かかっても無理じゃないの!と思うかもしれない。しかし、以前述べたように一人が目覚めれば周囲の人々のマインドもまた影響されるのだ。つまり奇跡によって大幅に時間を短縮できる。

奇跡をもたらすには、たとえ一瞬だけでもそれなりにマインドの準備が整っていなくてはならない。つまり、自ら望んで心からやる気になっていなくてはならないのだが、私たちはなかなかそれを自分の常態にはできない。常にそういうマインドの状態を保てるようになるまでにはこれまた大変な時間がかかりそうなのだが、それについては心配しないでキリストに任せておけば良いらしい。

ところで、キリスト教に詳しくない方でも「最後の審判」という言葉はご存知だろう。この世の終わりの日、死者・生者を問わず私たち一人ひとりに裁きが下され、めでたく無実とされた人々だけが永遠の命を得て神の国に入ることを許される。キリスト教が土葬にこだわり転生を否定してきたのもこの「最後の審判」のためである。皆、これを怖れてきたのだ。待ち望んできた人々もいるだろうがそれほど多くいるとは思えない。最後の審判=この世の終わり=人類滅亡或いは地球滅亡、というヴァリエーションにもなるのだが、この発想は実に様々な宗教を生み出した。近頃よく聞くアセンションもこの系列ではないか?そういえば日本にも「末法思想」というものがある。「コース」の語る最後の審判は、「最後の日は近い、滅亡の日は近いのだから早く目覚めなさい」というように恐怖心を煽るものでは全くない。それどころかいきなり「神は裁きなどしない」と来る。裁き以前に、神は判断も評価もしないのだ!旧約聖書の記述のせいもあるが、私たちは何だか神を「閻魔大王」みたいな感じに捉えてしまいがちになる。が、そういう「神」は私たち自身の投影に過ぎない。つまり、裁きだの判断だの、そんなものはもちろん全て「神との分離」の副産物なのであって、その分離が続いている間には「最後の審判」など来てほしくても来やしない。

実際、聖書にも「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。信じないものは既に裁かれている。神のひとり子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。」(ヨハネによる福音書)とある。信じないもの=エゴに支配されているものは、既にエゴの機能として「判断・評価」なしでは過ごせなくなっているのである。

「コース」版・本当の「最後の審判」の特徴は、それが神によるものではなく私たち自身がキリストの助けを借りて自らおこなうものであり、かといって自分自身を裁くためのものではなく、また懲罰ではなく癒しなのだという点である。私たちは、まず真正のものと間違ったもの、神に造られたもの及び私たちが神の意志に従って自ら造ったものと自分たちで勝手にでっち上げたものとを選り分けなくてはならない。この作業は「分離」のポジというか、「分かつ」ことを神に近づくための方便として利用するものだ。聖書ではイエスキリスト自身が「この世の終わり」についてかなり怖しいことを語っているし「黙示録」の描写も有名だが、それらはこの「選り分け作業」をああいう形で表現したものである。私たち自身は別に自分が造ったものでもでっちあげたものでもないので、この「選り分け」の対象にはならない。

私たちは神に造られたのであるが、神は選り分けもジャッジもしないのでどちらにしろ私たち自身は裁き=選り分けの対象にはならないのである。この作業の結果、でっちあげられたものはもはや存在理由を持たないということがハッキリわかるためそれらは捨て去られる。マインドがその投影によって作ったものは投影をやめれば消えてなくなる、ということだ。

うーむ、じゃあやっぱり身体もなくなっちゃうわけ?と思う方もいるだろう。「最後の審判」があれほど怖れられるのは、裁かれるのも怖いが「最後の」という言葉が「死」を連想させるからでもある。今の時点ではハッキリ書かれていないのだが、とりあえず身体のことは忘れて考えてみるほうが良さそうだ。「最後の審判」は本当の意味で永遠の命を得るためのものなのだが、それはどうしたってマインド或いはスピリットのものなのである。

   
第166回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 12・13

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 12

第2章 その4

奇跡はその準備ができているところに自然発生的に起きることが多いのだが、「コース」はそれ以上のものを求めている。つまり、私たちが自ら奇跡をおこなう側になり、それを人々にシェアすることで「この世界」全体に救いをもたらすことを目指しているらしい。題名の通り「奇跡を学ぶコース」なのである。以前書いたように、私たちが「自力で」奇跡を起こすことはないのだが、奇跡を引き寄せそれを他人にシェアすることならできる。ここでは特に「身体の癒し」にポイントをおきつつ、奇跡を為す際の注意点が述べられている。しかし、第2章のこの段階でいきなりこんなことに手を出す人もいないと思うのだが・・・。

ともあれ、もっとも重要なのは、少しでも怖れや心配などがある場合には奇跡による癒しなどするべきではないということである。また、自分自身の力を頼みにするのではなく最も優れた奇跡のもたらし手であるキリストを頼みにしなさい、とも言っている。

奇跡とはその原理である「あがない」に鑑みてもとにかく「間違いを訂正する・消去する」言い換えれば「浄化する」ことがポイントなのだが、これはいくら繰り返しても十分すぎることはなさそうだ。身体に不具合が生じているということ自体、そのマインドにまず間違いが生じている証左なのだが、「身体ではなくマインドにアプローチする」とはいっても具体的に何をどうしろ、などとは書かれていない。ただ「この人はどこを間違えてしまったのだろう」などとその過ちを特定する必要はないらしい。何故ならそれをすると「間違い」に働きかけるようなことになってしまうからである。間違いを正す=消去することの意味をちゃんと理解しておかなくてはならない。闇をいくらいじっても光にはならないのと同様、過ちを真実に作り変えることなどハナから不可能なのである。

奇跡をおこなうにはまずその本人が「奇跡をもたらすようなマインド」になっていなくてはならない。言うならば「奇跡精神」みたいな感じだろう。これは「正しいマインドにあること」つまりエゴではなくスピリットに導かれるマインド、と同義である。言うまでもなく怖れや不安はエゴの産物なので、これらがあるとき私たちのマインドは正しい状態=奇跡精神にはないのである。奇跡のもたらし手である私たち自身が「あがない」を受け容れていない状態でもある。

これも前述したように、身体は何も作らず何も学ばない。本来は存在しないところの身体がとりあえず「存在している」とすれば、そこには「学ぶための道具」として使われる以上の意味はない。単にマインドの状態が身体に反映されるというレベルの話ではない。マインドが「あなたはこういうものですよ」と教えたとおりに身体は振舞う。たとえば、「身体とマインドはつながっている」「身体はマインドの状態を反映する」とか「マインドと無関係に勝手なことをする」などと規定されていればそのようになるのである。その気になればスピリットの光を身体にもたらすこともできるらしいのだ。このあたりの「真相」は後に詳しく教えられる。

奇跡が生じるのを妨げるのは主に「恐れ」なのだが、これにもいろいろあるらしい。一つは「解き放つ」事に対する恐怖である。マインドの力を解き放つことが何か危険で傷つくような事態と結びついてしまうのだ。「解き放つのは危険!守らなくては」と思ってしまえば却って囚われることになる。もちろんこれは「勘違い」なので、そのことをしっかり認識することこそが最良の「守り・保護」となる。

私たちに「奇跡精神」が育ってくるということはとりもなおさず私たちのスピリットが段々目覚めていくことに他ならない。エゴに席巻されてずっと放っておかれていたスピリットが覚醒してくると、ものの見え方も当然変わってくる。一気に「素晴らしい本当の世界」が開ければ問題ないのだが、必ずしもそうはならない。今までは「間違い」が「現実」に見えていてそれが普通のことだったのに、間違いがそのまま間違いとして認識されるという段階もあるはずだ。スピリットの目に間違いは映らない、と「コース」は書いていたが、ここの記述を見る限りもう少し複雑なプロセスがありそうだ。スピリットは少なくとも「間違い」に誤魔化されることは絶対にないわけだから、目覚めつつあるスピリットの目に映る光景はまずグチャグチャになったマインドの姿だったりする。「どうして今までこんなことしていたんだろう!」とビックリする。しかし、それがわかればスピリットは即座に「間違いの訂正・あがない」を求める。これはすぐに聖霊の手に渡る。そうして浄化がなされるのだから、その前の一時的な不安定さはあまり心配するものでもないようだ。

更に、「癒し」に対する恐怖というものもある。心身の苦しみや不快な症状など一刻も早く消えて欲しい、早く癒されたい!と誰もが思うに違いないはずなのだが、これは一体どういうことだろう?

私たちは苦痛があるときその苦痛はもちろん、苦痛の原因も取り除いて欲しいと思う。ただ通常はその「原因」が自分たちの思考レベルにあるとは思わないのである。この病気とそれによる苦痛を、このこじれた人間関係とそれによる苦痛を取り除いてもらいたいとは思っても、一見それらとは無関係なものまで、即ち自分の世界の根幹を成している考え方までもいじられるのには抵抗があるわけだ。そんなことまで必要なの?イヤだわ、となる。ところが、そこまでしなくては「コース」の定義する真の癒しにはならないのである。

さて、ここでちょっと「聖霊」について整理しておきたい。父と子と聖霊に栄光あれ、の三位一体のアレなのだが、また「用語解説集」に当たってみよう。

聖霊は、神から生じた神の一部であって、私たちを助けるために送りこまれたものである。聖霊は間違いを見ず、その向こうにあがないが求められているのを見つけて光をもたらしてくれる。天と地をつなぐもの、父と子をつなぐものであるゆえ私たちの事情もよく知っている。つまり、人間のような感覚機能による認識活動もできるということらしい。ただし人間のように「間違い」に誤魔化されることはない。既に正常にされた感覚機能を持っているのである。

私たちのところに、少なくとも「あがない」が完了してはいない状態の私たちのところに神が直接姿を現したり語りかけたりすることはありえない。神の代弁者となるのがこの聖霊なのである。聖霊の特徴は、私たちが理解しやすいようにいろいろな形をとることができる、という点である。もちろんのこと聖霊は人間イエスキリストの誕生以前から存在しており、まずイエスキリストにおいて完全なるあがないを為した。復活とそれに続く昇天後のキリスト(人間イエスではない)は聖霊の顕れだし、私たちの周囲でもいろいろな「カミサマ」やら守護霊、亡くなった身内やご先祖などなどが重要なメッセージを運んでくれることは珍しくない。これらもまた聖霊が彼らの姿を借りて現れた、というわけなのである(全てがそうだ、とは断定できない。神どころか聖霊でさえない場合もある)。スピリチュアル風に言えば「聖なるガイド」みたいな感じだろうか。

また、私たちは直接神に何かを伝えることも助けを請うこともできない。キリスト教の祈りも必ず「主イエスキリストの御名を通して」神の御前に捧げられている。ゆえに、私たちが助けを必要とするならそれはいつでも聖霊に、あるいはキリストに頼むしかないのである。

聖霊はスピリットにつながるとも書かれているが、本来全ては一つであることを考えれば「スピリットに宿る」と言っても同じことだ。あらゆる人のスピリットに聖霊は宿っている。私たちが出会うどんな人も皆、神の代弁者たる聖霊と一緒にいるということになる。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 13

第2章 その5

奇跡が為されるプロセスはこれまで散々述べてきた通りだが、ごくごく一般的に考えれば霊的に進化した者からより低い者に対してもたらされるように見える。事実そうなのだが、だからと言って奇跡のもたらし手が受け取り手よりも優れているなどということはないのである。本質的に奇跡は「同等のもの」の間でシェアされるものだからだ。しかしこの地上世界では、一定の時間軸の中における「進歩レベルの違い」がどうしても存在してしまう。ゆえに、奇跡はあたかも思いやりからくる「慈善」「施し」のような体裁をとって為されることになる。施しは上から下に対してなされるものであり、その点において明らかにこの世のもの・・つまり時間の枠組み内のものである。

ただ、見た目は慈善のようであっても、奇跡はその受け取り手のみならず「もたらし手」にも大きな浄化作用を及ぼすという点で一方向的ではないのである。

間違いを正すことにおいての注意点として繰り返されているのが「レベルを混同するな」というものである。私たちはともすれば「間違い」もそれが起きたところ、つまりエゴ的なマインドレベルで処理しようとしてしまう。貴方が何か「間違い」を自他の中に見たとするとそれはただ「間違い」なのであって、真実ではないという点によって「実在しない」とわかる。もしも「この間違いはああでこうで、だからこうしてああして」なんてことを始めてしまったら、それはあたかもその「間違い」が実在するかのごとくに対応していることになる。あるいは、今現在起きている(と見える)状況や症状はマインドが何らかの間違いを犯した結果なのであるから、それを癒そうと思うならただ「間違いを正す」=ゆるして浄化するのみである。結果の部分だけを見てあれこれしようとしても「コース」が言うような癒しは絶対に起こらない。いま起きているように見えるもの即ち現象レベルは一切相手にしなくて良いのである。

簡単な例をあげよう。前にも書いたが、この「間違い」というのは「悪いことをした」というような意味ではなく「思い違い」に近い。貴方がうっかり変なリモコンボタンを押してしまったことが原因でテレビに不具合が起き、訳のわからない不気味な画像ばかりモニターに映し出されたとする。これを何とか直そうとしてモニター画面を叩いたりこすったり「消してください」と祈ったりしてもダメなのは誰にでもわかることだ。ここがまさに「レベルの混同」なのである。モニターではなく操作ミスが原因なのだから、これを解除する方法を見つけるしかない。

なお、この「間違いが起きたところで正す」というのを「過去に遡って原因を調べる」ことと混同しないで頂きたい。過去の経験や出来事が今の貴方のマインドの状態を作ったのだ、という考え方はスピリチュアル系においても一般的だし、幼児体験では済まなくて過去世まで調べる人も珍しくない。しかしこれはここで言われていることとはそれこそレベルが全く異なるのだ。「コース」が言っているのは恐怖その他の原因を自分の外側に求めてもダメだ、マインドを見なさいということなのだが、こう言われると「じゃあ、今の私のマインドがこうなったのはどうしてなの」などと過去に原因を・・つまり「過去に起こった自分の外側の出来事」に求めるようになってしまうのだろう。これでは結局何も変わらないではないか。まあ、このようなやり方も一種の仕掛けとしては有効な場合があるので「コース」もこれらを禁じてはいない。

それはまあそうだろうなと思う。何か問題を持ち込まれていきなり「コース」の内容を突きつけたって殆ど誰も納得しないだろう。相手に対する思いやりと理解を持つならばその都度もっとも有効なやり方を用いるべきなのだ。

いずれにしろ、私たちが自分のマインドでいくらおかしなものを、或いはまともに見えるものをでっちあげたところで、それらは実体を持たない非現実的なものなのだ。それらは外界に投影されるので、あたかも実体を持っているように私たちには感じられる。しかし、それらは全て「でっちあげ=間違い」の結果に過ぎない。

ちなみに「父よ、彼らをお許しください。自分たちが何をしているのかわからずにいるのです」という十字架上のイエス・キリストの言葉も「コース」によれば「知らずに悪いことをやっているんだから許してやってくれ」という意味ではない。ただ彼らのマインドが何らかの間違いに陥ってしまった、だからそれを正して=ゆるして彼らのマインドを浄化してくれと言っているのであり、この時イエスには既に彼らがゆるされあがなわれた姿が見えている。彼らが何をしているのかという「間違いの結果」部分はどうでもよいということなのである。

このように、奇跡や癒しや「あがない」をもたらす慈愛や思いやりとは、誰かについてその人がいま実際にある状態の向こうにその人本来の姿、既にゆるされ癒されあがなわれた姿をみてあげることなのだ。「判断・評価」なしにありのままの姿を見るとはそういうことなのである。

奇跡・癒し・「あがない」は、いずれもこの世のものであるため神ではなくキリスト或いは聖霊によって導かれることになる。時が消滅したとき私たちは本来の姿に戻り、神とともに在るようになるのだ。それまでは、私たちはキリストとともに在り、キリストを信頼してその導きのもとに奇跡や癒しを世にもたらす・・本当にもう、このあたりはキリスト教に関心がない人にはどう読まれるのだろうか?と思ってしまう。しつこいようだが、キリスト教に改宗しろだの、キリスト教に洗脳しようだのという本ではないので誤解なきように。

ここに書かれている奇跡や癒しを為す際のアファメーションみたいな文章、これは素晴らしいと思う。原書28ページ、お持ちの方は是非じっくりお読みいただきたい。

さて、ここで当たり前のようでいてちょっと衝撃の事実なのだが、私たちを導いてどんな奇跡でももたらしてくれるというキリストにもできないことはある。それは、私たちが抱く恐怖を制御することである。あら大変。恐怖があればキリストの導きも何も私たちには届かなくなってしまうのに。

恐怖は、さあ怖がろう!などと思って呼び込むものではなく、たいていの人にとっては「恐怖に襲われる」という表現のとおり不随意な、つまり「意のままにならない」ものだとされている。一見はその通りである。せいぜいが、自分に生じた恐怖に振り回されないよう抑圧したり誤魔化したりするしかない。これが「コントロール」だと考えている人も少なくないと思う。しかし、それは大きな勘違いなのである。

怒りなども全く同様で、誰かと話していてムカついたようなとき「ブチ切れて暴発しないように」するならばそれは「怒りをコントロールした」のではなくて、ただそれを激しい形で表現しなかっただけに過ぎない。怒りは依然として私たちの中にある。このように、私たちは「感情」のコントロールと「感情表現」のコントロールをしょっちゅう混同してしまうのだ。これもまた「レベルの混同」である。

感情であれ行動であれ、私たちの表面に浮き上がってきたものは全て私たちの思考の「結果」なのである。再三書かれているように結果をコントロールすることは不可能なのだ。何かできるとすればそれが生じたレベル、即ち思考のレベルにおいてのみ可能となる。普段私たちは「自分の行動に責任を持つ」などというが、正確に言えば「自分の思考に責任を持つ」ことしか私たちにはできないのだ。このレベルにおいてのみ私たちの選択は可能なのである。

大雑把に言えば、エゴとスピリットどちらの思考システムを選ぶかということになるのだが、奇跡や癒しをもたらすためにはスピリットの思考システムを選ぶ以外に道はない。

この恐怖、この怒り、この苦しみ、不安には正当な理由があるのだ!と貴方は言うかもしれない。しかし、間違いに正当性はない。というより正当性がないから間違いなのだ。むしろ、間違えちゃったためにそれらの感情が生じることになったのである。

   
第165回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 10・11

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 10

第2章 その2

出来もしない不可能なことをうっかり思いついてしまった、それだけのために私たちの運命??はとんでもないものになった。しかし、いったいどうしてそんなおかしなことを思いつけるものなのだろう?これ、読んでいてずっと不思議だったのだ。自由意志のせいなのだろうか?意志が真に自由であるならそれは真実以外を認識することはない、とも書いてあるのだが。

それはさておき、ここに興味深い記述がある。「自分の外側に何かを求めてしまうとそれは病となってあらわれることがある」「健康とは内なる平和である」というものだ。心身の健康についてはずっと後で詳しく語られるが、一応心に留めておきたい。

悪夢から覚める手段であるところの奇跡にはいろいろあるが、私たちはどんな奇跡でもなすことができるのであり、また奇跡はどんなことでもできるのであるらしい。ただ、恐怖や疑いのあるマインドには奇跡は生じない。しかし、私たちが恐怖にいかなる力を与えてしまったとしても神の平安はそんなものにはびくともし「ない」。神に由来しないものは私たちに何の作用も及ぼさ「ない」。

このような「否定」こそ、否定の正しい用法だとコースは言っている。本来の状態においてはそもそも「否定すべきもの」が何もない以上、否定という機能自体が意味を成さず存在もしない。よって否定とはやはり虚構の産物なのだが、神の被造物たる自分自身を否定したり愛や平安を否定したりするのでなく「間違った信念」を否定して正す、ということにおいてこの「幻想」もまた有効利用できる、というのだ。ゆえに、このような「正しい否定」は間違いに対する防衛手段になりうる。

ところで、私たちが何かを守る・防衛するという時、その何かは必ず私たちにとって大切なものに違いない。貴方は何を何から守りたいのか?答えは、究極的には二つしかない。真実を間違いから守るのか、真実に対して間違いを守り通すのか?日常的にはたとえば「この身体を病から守りたい」とか「国民を戦争から守りたい」みたいなことがありそうだが、『コース』に即してみれば身体も病も国民も戦争も全て「実在しない」のだから、こんな言い方は意味をなさなくなってしまう。

「コース」は、常に「私は一体何を大切にしているのか?それはどのくらい大切なのか?」を自問せよと言っているが、これはまず私たちが何を措いても「真実がもっとも大事、間違いから真実を守り通したい」と心に決めるまではなかなか難しいのではなかろうか?何故なら、普通の人が「大切だ」と思うようなものはたいてい「間違いの産物」だからである。それだけに、さっさと心を決めて本気でやれば効果絶大の方法であるらしい。

「否定」を用いた防衛手段は真偽どちらに対しても使えてしまういわば両刃の剣である。更に、そのまま攻撃のための手段として用いることもできるため、うっかりすると返す刀で自分を切りつけたり銃が暴発して弾丸が自分に当たったりする危険もある。ところが、ここに「あがない」による防衛・保護というものもある。これは攻撃目的には決して用いることができないためもっとも安全な守りの手段になるのだ。

「あがない」は「神との分離」以前から存在したものであり私たちが作り出したものではないので一切の危険な要素をはらんでいない。でも、神との分離以前なら「ゆるす」もの自体が存在しなかったから「あがない」も必要なかったんじゃないの?確かにそのとおりなのだが、あがないの根本原理である「愛」は既に存在していた。

そういうわけで、「あがない」は虚構の世界から私たちを救出すべく虚構の世界においてもちゃんと作用するようにできているらしい。よって私たちは「あがない」を、学ぶことができるわけである。逆に言えば「あがない」が完了したとき学びも時間も終焉を迎えるのだ。

全ての根本となるただ一つの間違いをいっぺんにゆるしてメデタシ、というわけにはなかなかいかない。普通は日常生活の中でひたすらゆるしを実践し、時には失敗し、更に学んで熟達していくという形になる。

これが一般的に「進歩」と言われるものである。一つの段階から次の段階に進んでいく、というからにはそこに「程度」というものが存在する。この点において「進歩」も学びと同様、この世のものだということがわかる。

ただ、「コース」における学びや進歩、即ち真実に近づくためのそれらが少々この世的でないのは、「得ていく」過程ではなく「捨てていく」過程であることだ。巻頭の文章にもあるのだが、「コース」は愛や真実などを教えるものではなくて・・そんなことは不可能だからだ・・・それらを経験する障壁となっているものを取り除くための教えなのである。

私たちが「現実」と考えていたあれこれが実はそうでなかったということを一つ一つ学んで、間違った思い込みを捨てていく。それによって真実に至る準備がなされるという仕組みになっている。

最初に書いたとおり、「奇跡のコース」は成功哲学ではない。私たちに幸せをもたらすための教えだが、そもそも私たちにとって幸せとは何なのか?をまず徹底的に検証する作業を伴うのだ。これが価値の、そして思考システムの転換となる。この作業に苦痛を覚える人もいるかもしれない。或いは「全て幻想=虚しい」と感じる人もいるかもしれない。そこで世界観が固定されてしまうと絶望感やうつ状態が続くことになる。これでは中途半端なのだ。これはハッキリ言って甘い。ここでおしまいと思ってもまだまだ先があるのだ。だいたい、「コース」によればウツ状態などエゴがなければありえない、つまりまだ目覚めていない証左なのである。

さて、「あがない」が何故貴方を守る手段になりうるのか?この世にあって貴方を苦しめる全てのことは「間違い」「勘違い」から生じている以上、それらをゆるすことで消失させてしまえばもはや傷を受けずに済むようになるからである。

「あがない」は、少しできた、半分できたなどということがありえない。その都度完全にしたか全然しなかったかのどちらかしかないのである。

私たちは「ゆるし」という言葉から何となく「敗北」というイメージを連想してしまいがちなので、どうしてもその都度「完全にゆるす」ことをためらってしまったりするのだが、ここは一つ勇気を持ちましょう。中途半端にやっても「全くやらない」のと同じことになってしまうのである。それではあまりにも勿体ないではないか。

ところで、ここでは敢えて「あがない」と表記してみているが原文では大文字の「the Atonement」となっている。これは本来キリストの贖罪を意味する。キリストの贖罪といえば十字架における死である。そのせいだか、キリスト教圏には特に「あがない」と身体の死あるいは何らか身体の苦痛とを結びつける考えがあるのかもしれない。だから「あがない」は怖い、「あがない」から身を守ろう。「罪の清算」のようなイメージがあるのだろうと思う。日本でも『切腹してお詫びします』とか「バチがあたって過去の悪行を清算」なんていうのがあるから、あがないではなく「清算」にしていたらもっと感じが出たかもしれない。「清算」なら、確かに「半分清算した」などということはありえないのである。

なお、「コース」の言う「間違い・勘違い」とは、善悪に照らして「悪いことをした」という意味のものではないのでその点留意されたい。もっと単純な「思い違い」「エラー」みたいなレベルのことを示していると考えていただきたい。

まあ、そんなわけで清算でもある「あがない」は、防衛手段どころかその反対に「そこから身を守るべき怖ろしいもの」と捉えられてきた。つまり、私たちは神から分離して自らでっちあげた虚構の世界を守ることに汲々としてきたわけである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

第2章 その3

さて、そろそろ身体に関する記述が少しずつ出てきた。

キリスト教では、肉体を忌むべきものではなく「神の神殿」だとする考え方もあるのだが、「コース」はそれをまあ是認しつつも単なる建造物としての神殿に聖性がないのと同様、身体そのものに価値があるわけではないとしている。聖性を欠いた神殿は肉体の目には美しく見えても霊的な目には映らない。

神殿のメタファーが用いられているせいか「内なる祭壇」という言葉が出てくるのだが、ここではスピリットのことを指していると思われる。この「内なる祭壇」においてこそ「あがない」が為されるのだから、私たちは何も身体を犠牲にして「罪を清算」などする必要はない、ということらしい。

最終的には全ての人々に「あがない」が為される。強制的に行われるわけではない。誰しも際限なく苦痛に耐えていられるものではない。個人差はあれ、忍耐には限度があるということだ。苦痛もそれに対する忍耐も元々はなかったわけだから永遠不変の存在ではない。これはありがたいことだ。誰でもいずれはうんざりして「もうちょっとマシなやり方があるんじゃないか」と思い始める。はじめは漠然とであっても次第に確固たる思いになる。「こんなはずじゃない!他に何か道があるはずだ」。ここが転機になり、ものの見え方が違ってくる。混乱や葛藤が生じることもあるが、ここまでくれば変容=思考システムの逆転は必至である。

内なる祭壇=スピリットは聖霊を通じて神とつながった部分なので、神が造ったもの以外は認識できない。ゆえにあらゆる間違い・過ちは本来のスピリットの目には映らない。一方、日常生活で「あがない=清算」をしようとするのは私たちのいわゆる顕在意識においてである。あがないは愛を原理としているため、スピリットにそのまま届けられる。このとき、私たちの知覚は身体の感覚器官ではなくスピリットのものになる。いわば、マインドがスピリットに従った状態になるのである。こういう経験を繰り返しているうちにマインドが変容を起こし始め、今までは何でもなかったような不快感に対してより敏感になる。たとえば、あなたが誰かにイヤミの一つも言われたとしよう。今まで以上に敏感に、とは「いっそう傷つきやすく短気になる」と言う意味ではない。相手に対しては何とも思わないが、落ち込んだり怒りを覚えたりしている、つまり本来のスピリットとは別のことをしている自分のマインドに耐え難くなるのだ。一刻も早くゆるしをおこなわずにはいられなくなる。こうしてマインドはスピリットに従うことを日常的に選び始める。敏感に、といっても弱くなるのではなく逆に強くなるのである。マインドを弱らせるようなあれこれを即座に消去できるようになるからだ。

私たちは完璧な存在によって完璧に造られているという事実を忘れ、自分を不完全なものだと思い込み恐怖や不安を抱いたりしてしまうが、本来の姿を理解できればいつでも完璧に安心していられるはずなのだ。

ここに興味深い記述がある。私たちが神に拠って存在しているのと同じく神も私たちに依拠して存在している、というのだ。「コース」は珍しく情緒的に説明しているが、それでは気の済まない私としては論理的な補足をせずにはいられない。神は完全である。何かが不足していたからという理由で私たちを造ったわけではない。私たちという被造物を得た神はやはり完全である。神が完全でないことはありえないからである。ならば、私たちを欠いてしまったら神は不完全になるのか?不完全な神、というものもまたありえない。従って、私たちは神から欠けることがないのである。

これは別の言い方で説明することもできる。神は造物主であるが、何も創造しない造物主というのはありえない。私たちという被造物を得て初めて神は造物主たる神として立ち現れたのである。神は原因で私たちはその結果であるのだが、結果なしの原因というのもありえない。そういう意味で、神も私たちに依拠して存在しているのである。

さて、奇跡によって癒しが起きることはしばしばある。奇跡の結果として癒しが起きるのであって、癒しが起こったから「奇跡だ!すごい」というのではない。「あがない」と奇跡と癒しとは同一線上にあるというかワンセットみたいな感じらしい。いうなれば、あがないを実際に顕現させ、更には癒しをもたらす手段が奇跡なのである。

癒し、とは本質的に怖れが取り除かれることなので、恐怖のあるところに癒しは起こらない。あがないを欠いた状態で、あるいは恐怖のある状態で身体の不具合が癒されたとしたらそれは奇跡によるものではなくて魔術である。何と、医療もそういう魔術の一種であると「コース」は言っている。

このあたり、身体に関する記述が続くがこれらは今後も断続的に取り上げられ、そのたびにレベルが高くというか深くなっていく。先取りしてしまいたい気持ちもあるが、「コース」の方針に従ってなるべく順番どおりに扱っていこうと思う。

「コース」における身体の、あるいは身体とマインドとの相関関係の捉え方は結構ややこしい。今日では「身体と心はつながっている」「影響を及ぼしあっている」という考え方はもはや常識に近いし、マインドの状態が身体に投影されるとか身体からアプローチしてマインドを解放するなどといいう考え方もスピリチュアル方面では珍しくなくなっている。しかし「コース」の場合、そういうものとも何かちょっと違うのである。

今ここで言えるのはまず「神は身体を造っていない」「神との分離以前には身体は存在しなかった」ということと、今の段階では身体を否定すべきではない、そんなことは無理だし意味がない。むしろ身体は、学びのために大いに役立つ教材あるいは方便として使うべきであるということだ。私たちは身体の機能を過大評価しがちでもあるし、身体は私たちを苦しめ学びを妨害するものにもなりうるのだが、本質としてはニュートラルなものなのである。粗末にするなどとんでもないことだ。更に「身体は何も創造しない・思考もしない」、つまり病気なども別に身体が自ら作っているものではないということ。じゃあマインドが作っているのか?そうでもあるし、そうでないのでもある。単に「ストレスが身体に出た」とか「何らかのマインドの思い込みが症状となって身体に現れた」などというのとも少し違うみたいなのだ。身体はマインドの思考に反応するだけだ、としながらも「病んだ思考に反応して身体が病気になる」というふうでもない。身体=マインド、とはしていない。それどころか「病気や身体の不調というものはありえない」くらいの勢いである。身体を作ったのは神ではなくマインドである。にもかかわらず「身体=マインド」というわけではないのである。

まあ、身体つまり個人を作ってしまうくらいマインドの力はとんでもないものなのだ。さすが神から創造力を授かっただけのことはある。

以前コラムで「引き寄せ」について書いたときはわかりやすいように「波動」というキーワードを使ったが、マインドの創造力によっても十分説明できそうである。

とにかく、ここで言われているのは、創造であれでっちあげであれ何かを「作る」というのはマインドだけの機能であり、ゆえに「間違い・エラー」もマインドの中でのみ起きる。ならば、「あがない」にしろ「奇跡」「癒し」にしろ、身体に直接アプローチすることはできない。間違いを消去する、というのはマインドにおいてのみ可能なことなのである。もし直接身体を癒そうとするならば、それは奇跡ではなく魔術になる。そういう意味において医療は魔術だ、と言っているのだ。が、医療を完全に否定し拒絶しているわけでもない。それらの助けを借りることでマインドから恐怖が取り除かれるならやりなさい、と言っている。病その他の身体の不調によってあまりにもマインドが弱っているとあがないが届きにくい場合もあるらしい。

「あがない」とその手段であるところの奇跡は、受け手がもっとも受け容れやすい形で表現されることになっているらしい。でないと却って恐怖心をあおってしまうからだろう。

   
第164回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 8・9

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 8

1章 その7

私たちは自分のマインドの中であれこれを作り出す。創造ならぬ想像の産物であっても「現実である」と信じ込むことはできるし、信じ込めばそれは本当の現実であるように見える。夜道で柳の木を幽霊だと思い込んだとしても、そのときに感じる恐怖は本物である。他の人たちにはそう見えなかったとしても、貴方にとっては幽霊だったのならそれは貴方が作り出した、貴方にとっての現実なのである。従って、そこで感じた恐怖やその恐怖が及ぼすあれこれの作用を今更何とかすることはできない。これもモトを正さなきゃダメなのだ。即ち、あれは幽霊なんかじゃなくて柳の木なのだ、という本当の事実を知ることが必要となる。

もちろん、恐怖もまた「神から離れたという思い込み」から生じたものなのであって、私たち本来の状態においては存在しない。そこが愛に満ちたところだから、という理由だけではない。そもそも論理的に存在不能なのである。自分とは別の何か、がないところでどうして恐怖が生じるだろうか。

更に「コース」は言う、「完全なる愛は恐怖を駆逐する。恐怖があるならその時完全な愛はない」が「存在するのは完全なる愛のみである。恐怖によって生み出される状態は実在しないのである」

奇跡が生じるのは、たとえ一瞬であっても自分では気づかなくてもこの「恐怖がない、完全なる愛のみ」の状態ができている時なのだ。

さて、私たち「普通の人々」にとって奇跡というものは「思いがけない時に思いがけない形で」起きることが多い。たとえば、あなたが何となく誰かのことが気になって電話してみたら会話の中で貴方にとって大きな気づきが偶然に得られた、とか「ちょっとした思いつき」や衝動が予期しない大きな出来事につながったりするのだ。こういうことなら誰にでも覚えがあるだろう。人によっては「マインドをオープンにして宇宙のメッセージを受け取る」などという言い方をすることもある。だから、アタマで考えて判断するな、感じたままに動け、などと言われる。

ところが、この「感じたままに」というのが実はクセモノなのである。

繰り返し述べられているように、私たちの身体の感覚器官・・もちろん脳も含まれるのだが・・が今の状態では全くあてにならない、信頼の置けないものだと「コース」は繰り返し説く。まあ考えてみれば当然のことである。薬物やアルコールなどで簡単にどうにでもなってしまうような程度のものがあてになるはずもないのだ。

従って、私たちの「感じたまま」というのが果たして奇跡を呼び起こすようなものなのか、或いは単なる身体的「脳内物質」みたいなものや無意識下の性欲などによって起きているだけなのか?言い換えれば、スピリットによるものなのかエゴによるものなのか?この両者をどうやって区別できるのか?

おそらく、後者の場合であってもそのレベルにおいては「奇跡」と思えるような引き寄せ現象が起きるのではないか、と思う。ただ、「コース」の教える奇跡の定義にこれらは当てはまらないのだ。

ここで「コース」はまだ両者の区別の仕方など教えてくれていない。やはりこの段階における語り口は極めて概論的であり、へーっと読み流すこともできるし「はっ?つまりどういうこと?」と戸惑うこともある。何しろ「理解できなくても構わないから進め」なのである。「コース」はマインドを訓練するために構成された本でもある。従って、誠実な心持で読み進めていけば、次第に私たちの中に「コース」学習の基盤が作られる。その基盤なしにいきなり過激部分に触れると感謝や畏敬の念が生じるべきところで恐怖を覚えるようになってしまい、元も子もなくす。だから頑張りましょう。いずれどんどん詳細に且つ過激になっていくけれど今は準備段階の時期であるからあまり詳しいことは言わない、でも今ちゃんと読んでおかないと後半部分がわかりづらくなるよ、とここにはっきり書かれている。

で、「神の意志を行うことに勝るよろこびはない」と来れば「神の意志って何?」とか「えー、私の好きにしちゃいけないの?」と、まるで「自分の自由意志を制限された」ように感じたりする人も当然あると思う。しかし「理解できなくても反発を覚えても」先に進もう。

私たちは「この世界」に慣れすぎているので、身体が幻想だと言われても簡単にはそれを実感できない。だったらせめて身体を有効に使うしかない。奇跡を行うことで神の愛を表現することもその一つだし、歪んだ感覚機能を正常に戻すのもその一つなのだ。

いわゆる視覚によらずに見えるものを「コース」ではヴィジョンと呼ぶが、実はこれにも真贋いろいろあって、たとえば想像力豊かな人なら心に描いた像が「ありありと」見えちゃった、ということもあるわけだ。神から与えられた創造という資質を虚構の世界で、しかも歪んだ認知によってフルに活用してしまった挙句が「空想」「夢想」である。「コース」によれば二重の意味で捻じれている。即ち、ああだったらいいなあ、と思うからにはそれを「必要としている」のであり、そうであるからには今の自分にそれが欠けていると思っているわけであって(ここが「歪んだ認知」である)、その点において「何一つ欠けるもののない完璧な本来の姿」という現実が否定されている。その「虚構」に、また別の「虚構」を自らでっちあげて上乗せしていることになる。

私は、空想の有効利用というものもあると思っているのだがどうなのだろう?何しろ、コース初心者にとってはこの本の内容自体が、或いはここで言われている「真実・現実の世界」というもの自体が空想レベルでしか捉えられない、それどころか想像を絶する事態であるはずなのだ。自分の空想を他人に話しても通じないことが多いが、この本の内容をそのまま話してもやはり通じないことが多い。まあ、私たちが逆転した思考システムによってさかさまの世界に生きている以上、「本当の現実・本当の世界」のほうが虚構であり空想であるように感じられるのはやむをえないことだ。だからこその「逆転」なのである。

「真実はただ知られるのみであって、信じられるべきものではない」と書いたことがあるが、真実を直接知ることなど到底できない今の私たちの段階においては「そういうものがある」ととりあえず信じておくしかなさそうだ。たとえ信じることさえできなくても「コース」の教えのとおりに歩んでいけばいつか大きな変化が訪れる可能性は高い。。

この「コース」は他のさまざまなスピリチュアル書籍に比べれは「近づきにくい」印象だし、分かりやすいほうでもない。「神」を「宇宙」と言い換え、「愛」をよりロマンチックに表し、現代人のツボにはまるような具体例を出し、更にジュースで割って口当たりを良くしないと「ウケない」のだろうな、とは思う。しかし、さすがオリジナルだけあって「コース」の底力は測り知れない。

ちなみに、カトリックでも「見神体験」というのがある。真に誠実な信仰生活を送ってきた神父や修道士・修道女がある時「神を見」たり神との「一体感」を具体的に経験したりするのである。それを経た人々はたいてい今まで以上に信仰篤くなるのだろうが、中には見神体験どころかもっと遠くまで行ってしまう人もいた。今まで自分が信仰していた「神」の向こうを見てしまう、今まで自分が考えていた「神」を超えてしまうのである。こうなると大変だ。それこそ発狂するか、更に突っ走って異端になるか、或いは何事もなかったように口をつぐんで今までどおりの生活を送るか、修道生活から足を洗って田舎で畑でも耕して静かに暮らすか。

そういうことにならないように「コース」は周到な準備段階を用意してくれているらしい。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 9

2章 その1

このあたりからやっと本編スタートという感じである。「コース」全編において根幹をなす「分離」と「あがない」について、ここで初めて本格的に詳述されているのだ。

さて、神が自らに似せて私たちを造り給うた結果、私たちも神と同じ「創造」の力を与えられた。が、私たちはこの「創造」能力をいわば「誤用」してしまったのである。神の意志に沿って行うならば真の「創造」だが、神の意志を知らず自分勝手に行うならばそれは「投影」あるいは「でっちあげ」である。これが私たちの「世界」になっている。私たちはそれだけでなく「自由意志」まで与えられた。これは、本来「神の意志」と合致あるいは調和することにおいて最も自由なものなのだが、以下に述べる「勘違い」の結果とんでもなく放埓で無秩序な働きをするようになってしまったのである。しかし、ありがたいことに「自由意志」ゆえ再び本来の方向性を選び直すことも自由にできるのだ。

「創造能力の誤用」が如何なるプロセスによってなされたか、簡単に引用しておこう。

@
神がお造りになったものを自分自身のマインドで変化させることができると思い込んだ
A
私たちが「完全」なものとして造られたのを知らず、この「完全なもの」が不完全かつ何かが欠けているものになりうると思い込んだ
B
神の被造物(貴方自身も含めて)を何か別のものに変えることができると思い込んだ
C
貴方自身を自らの手で思い通りに作り上げられると思い込んだ

恐怖も欠乏感も無力感も、そういったものは何もかも「分離」以前には存在しなかった。実際には今も存在していない。ただ私たちが「そういうものの存在する世界」をでっちあげてしまったのである。上記の4項目、これら『思い込まれた』全てについて「そんなことはできないのだ」というふうに信じられたままだったら、私たちは「本来の状態」にとどまっていることができたはずである。しかし、ちょっといや大いに道草しちゃったのである、それもよりによってすごく怖い場所に。正確に言えば「怖いところに道草した」と思い込んだだけ、なのだが。

ゆえに、「何だ、そんなことはもとから不可能だったんだ」とその「勘違い」に気づけば一気に変容が起きる。

しかし、人が「本当のこと」と「本当だと思いこんでいること」をその一人の人間のマインドの中でどう識別したらいいのか、これは「コース」を学んでいく中で少しずつ示されていくのだが、一般的にはかなり難しい。

なお、神の創造は「時間も程度も存在しない」のにもかかわらず「父と子」というメタファーで表されていたが、これは創造の方向性を表していると考えれば良いようだ。つまり、父から子ができるのであって子から父はできない。子自身が父となり新たな子を作ることはできる。そういう感じである。どんな遺伝よりも強く正確に「全く同じもの」が再生産されていくのだ。

さあ、ついにアダムの登場である!かのエデンの園こそ「分離以前」の私たちが住まう場所、つまり「何ひとつ欠けておらず何一つ必要としない」状態のマインド=スピリットである。とにかく蛇にうまいこと言われて「これを食べれば自分にないものが得られる」と思い込み、「神の意志と違うことができる」と考え知恵の実を食べてしまい、更に「裸なのが恥ずかしい」なんて思ってしまったことで「完全性」は損なわれた。羞恥という一種の恐怖が生まれ身体を隠すイチジクの葉が「必要」になった。神に対する「恐怖」が生じた。大いに怒った神によって二人は楽園追放の憂き目にあい子々孫々まで祟られる羽目となり、そそのかした蛇は「地を這うもの」にされてしまった。これが聖書による人間の「原罪」である。この間抜けカップルのせいで人類はずっと苦しんできたのか?

「コース」に即して考えれば、まず「大いに怒った神による厳重処罰」のくだりは「アダムの心の中の思いが投影してあたかも現実のような出来事を作り出した」のに過ぎない。要するに「創造能力」の誤用である。また、知恵の実を食べたことで二人の目が開けた、と聖書にあるのも「コース」では「アダムは夢を見ていたのだ、アダムの眠りはいまだ覚めていない」と全く逆のことが書かれている。あるいは、ここで「感覚器官の歪み」が始まったということか?また聖書によれば、アダム以降はもう坂道転げ落ちというか骨肉相争う天変地異まみれの人類史が始まってしまうのだが、「コース」だと「それ以降の出来事は全て夢の中のこと」となる。おかしな言い方をすれば私たちはアダムの夢、しかも悪夢を生きているようなものだ、ということにもなる。

要するに、本当は蛇もいないし誰も何もしていないのだ。アダムに象徴される私たち一人ひとりのなかで、というか私たちという本来「一つ」であるはずのマインドの中で先に列挙した4つのプロセスが最初に生じた瞬間を寓話的に表したものだ、と考えればよいだろう。とすれば、本当は「原罪」などなかったことになる。

ちなみに、この「原罪」つまり神なしでやっていけると思ってしまったというそのことこそ「コース」が言う「おおもとの間違い」なのだ。そして、「本当は間違いなんて起こらなかったのだ、だってそんなことできるはずないんだから」となり、「間違いを犯した」と思ったこと自体が「勘違いだ」となるのである。これはユダヤ・キリスト教徒ならずともすごいことだが、彼らにとってはその基盤が根底から覆されてしまうくらいの過激な言説である。ついでにちょっと予告しておくと「罪」というもの自体が既に「幻想」なのだ、というのがこれから出てくる。私たちが罪だと思っているものは、実は単なる「間違い・過ち」なのだ、というのだ。これではますます教会が困る。アヴェマリアの歌詞はどうなる?

さて、この「楽園追放」の物語を読み解くにあたって重要なのは「恐怖の誕生」である。なぜ恐怖が生じたか?そもそもは「神の言いつけ=神の意志」に背いたことから始まる。が、繰り返し述べられているように私たちは「神の意志にそむくことができる」と思うことはできるが、実際には神の意志にそむくことなどありえない、不可能なのである。神に忠実だとかそういうことではない。存在の論理として不可能なのである。存在論的な言い方をすれば「存在なしに存在者はありえない」「存在しないで存在することはできない」などというふうになると思う。弁証法ならば存在に対して無があるのだが、それはあくまで存在を存在たらしめるための概念みたいなものであって、本当の「無」はない。というより「ない」から無なのだ。無の境地とはエゴが消失したマインドの状態なのであって、「無」とは全く違う。無になる、というのは形容矛盾であり、文字通り不可能なのだ。もしも「無になっちゃうかも」なんて考えたらそれは端的な誤りである。考えることはできても不可能なのだ。「死」が無であると思うのは、存在=身体の生存だと限定するからであり、その点において既に間違っている。そもそも死=無ならば死は「ない」のだ。そんなことで恐怖を覚えるならば、それは明らかに妄想なのである。

要するに、恐怖というものは元々「ありえないことをちょっと妄想した」ために誕生したのであるから、そのあたりをよくよく理解すれば恐怖からの解放がより容易になるのだ。

さて、じゃあその「悪夢」から覚めればいいわけね、と考えられる。でもどうやって?その手段が「奇跡」なのである。それも、叩き起こしたりしてはいけない。その衝撃によって却って恐怖が増すからである。まず、悪夢を「幸せな夢」に変えた上で少しずつ起こしていくのが良い、とコースは繰り返し述べている。どんな夢を見るのも私たちの自由なのである。

   
第163回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 6・7

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 6
第1章 その5

身体は、私たちが本来の状態に戻るための学びを容易にしてくれる「ツール・方便」のようなものである、という点で奇跡と似ている。その状態に至った暁には両方とも不要になる。目的が果たせれば手段は要らなくなる。身体は実在しないとはいえ、使い方次第でどうにでもなるものである。私たちを苦しめる原因にもなるし、私たちは身体を破壊することもできる。あるいは実際に奇跡を行う道具として用いることもできる。なるほど、奇跡はマインドが受け取りマインドから生じるとはいえ、実際にそれを行使するのは身体なのである。そうして行われた奇跡を体験すれば、私たちは「これが現実」と思い込んでいたあれこれから少しずつ解放されていくのだ。

その一つが「時間」である。奇跡を為すにつれて私たちは段々「時間」というものを重要視しなくなる。乱暴に言えば、何についても所要時間が減るのである。時間自体がこのようにして「消耗」していくものらしい。

さて、私たちは神の被造物としてみな同等、平等である。一般に「神の前ではみな平等」と言われるのと同じことだ。何故なら、神には部分とか部分から派生する一切のものがないからである。この人にはこうして、あの人にはああして、などということがありえない。ところが、私たちが考える「現実」はそうなっていない。人類であれば同じような形と機能を持っているとはいえ、一人ひとり身体は違うし、考え方も違う。何もかも違うようにさえ思える。これはどういうことか?

要するに、神はそういったものを何一つ造っていないのである。神が造ったのは本来のスピリットたる私たちであって、それ以外のものではない。端的に言えば、神は私たちの身体を造っていない。

神は自らに似せて私たちを創造した、というからにはやっぱり身体は神に造られたものではないのである。当たり前のようだが、スピリチュアル方面で「身体は神が造り給うたものだから本来完全であるはずだ」と言っている人も結構見かける。私はこの「自らに似せて」がポイントだと思う。これが「身体」という意味であれば、神にも肉体があるということになる。百歩譲ってそう仮定してみよう。神は肉体を持つ。でも、いったいどんな?完全無欠と言うからにはまず、不老不死はあたりまえの超健康体であろう。でも性別は?中性か両性具有か?肌の色は?見る人によって変わるとか?しかし、こんなものを果たして肉体と呼べるだろうか?

ともかくも、神は文字通り自らに似せて一つのものを造った、それが本来の私たちなのである。それゆえ、私たちは全面的に神に拠って存在しているのであり、神なしに存在することはありえない。が、だからといって私たちは無力で小さいものだ、と言っているのではない。むしろ、上記の事実をしっかりと認識することにより私たちは却って最大限の力を得ることができるのだ、と言っている。神によって与えられたあらゆる資質や能力を存分に発揮することができる、というわけだ。

ところで、よく「神に与えられた才能」という言葉を聞く。実際にそうとしか思えないような天才もいる。神が限られた人々にだけ特別に何かを与えることはあり得ない。よって、神によって造られたただ一つのマインドに存在するものがそれらの人々において現れたと考えるしかなさそうである。「コース」に則って考えるに、これはむしろ「奇跡」の一種ではないだろうか?何故なら、予め「知って」いたり、普通の人が何度生まれ変わっても学べないようなことを一瞬にして或いは非常に短期間でマスターできたりしてしまうからである。

なお、「コース」における神とはどこまで行っても愛と創造の神であって、聖書に出てくる神とは大分違っている。キリスト教に限らなくても、一般的に神というのは杖の一振りで、或いは指をぱちんと鳴らして「あの人をこうしてやろう」「この人にはあれをあげよう」みたいに私たちの運命を自在に操作するものであり、もし私たちが良い運命を望むなら神の怒りを買わないように畏敬の念を持ちつつ神の喜ぶようなことをしていなくてはならない。実際にこう考えている人も少なくないと思う。たとえば「神は欺かれない」という語句は、通常「天網恢恢疎にして漏らさず」のような、つまり「悪いことをしても神様にはバレて罰を受けますよ」という警告として受け取られているものだが、これもここでは全く違う解釈だ。私たちがどんなに間違いを犯したつもりでも、神はそんなことに欺かれず私たち本来の姿を見てくれている、といって安心させるための言葉なのだそうである。特に旧約聖書に出てくる神は人間の相似形というか、人間をそのまま全能にしたような存在だなあと以前から思っていたが、やっぱりそうか。

となると、天変地異を「神の怒りだ」とか「宇宙の警笛だ」などと思うのも全て間違いだということになる。そもそも神は天地も宇宙も造っていないのだから当然と言えば当然である。まあ、この手の考え方にはある意味で人を謙虚にするという効用もあるにはあるが、それでも間違いであることには変わりない。

先日書いたとおり、マインドはある間違いによってエゴとスピリットの二つに分裂してしまったわけだが、別の言い方をすればマインドはその都度どちらに従うかを選ぶこともできるのである。ただ、二君・・・二人の主人に同時に仕えることはできない。もしもエゴを主人に選べばそれは当然暴君であるから貴方はまるで牢獄につながれたようになる。しかし、それでもスピリットはダメージを受けないままである。神に造られたものは本来傷つくことができないからだ。更に、私たちはいつでも主人を取り替えることができるのだから心配することはない。いずれにせよ、この「スピリットに従うのを選ぶこと」、これこそ「思考システムの逆転」に他ならない。とにかく今の私たちの思考システムは何もかもが「さかさま」になっているのだ。それを正しい形に逆転させなくてはならない。私たちがいずれ「こんな曲芸はもうやってられないわ」と思って今までのやり方を諦めようとするとき、逆立ちから急に起き上がったときにクラクラするように一時的に不安定な状態に陥ることがあるが、それでも「さかさまの思考」よりはずっとマシなのである

奇跡が生じるとき、それはマインドがキリストに従うのを選んだということを示している。自覚していないにせよ、そのような選択をしないマインドに奇跡は届かないからである。

さて、私のマインドもスピリットに従わせてみたいものだ、と誰もが考えるだろう。でも一体どうやってそれができるのか?

これは、「コース」が指導するとおり日々ゆるしを実践していくほかなさそうなのだが、そのようにシンプルなことをシンプルに続けるのが結構大変だったりするのである。素朴な信仰を持って素朴に生きて、世は全てこともなしと日々感じられるような人なら何も今更こんな本を手に取ったりしないのではないか?

良いことを思えば良いことが起きるなどという引き寄せの法則を実践しようとしても今ひとつうまくいかない、とか自分の中に幸せを阻むブロックがあるような気がするが、どんなワークやセミナーに参加してもスッキリできない、などという人々にとっては「コース」は格好の啓蒙書である。どうしてこうなっちゃうのか、何がいけないのか、というメカニズムが非常に明確に記されているからである。それがわかればゆるしその他の重要性もうんざりするほどよく理解できるので、実践するのも少しは・・あるいは大いに楽になる。

前回の「光と闇」についての話だが、ダメ押しにもう一つ付け加えておきたい。闇は存在しない。闇が見えるとしたらそれは私たちの目が、感覚機能が曇っているだけなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 7
第1章 その6

さて、本文も段々核心に近づいてきた。

神が造り給うたとおりのものである私たちは、本来完全な状態である。何一つ欠けてはおらず何一つ奪われることもない。ゆえに、何ものも必要とせず何ものも怖れない。全ては直接知られているのだから何ひとつ学ぶこともない。言ってみれば「学び」という概念そのものが存在しない、ありえない状態である。

私たちが何かを求めるのは、あるいは何かを必要だと思うのは今現在私たちにそれが欠けているか不足していると思っているからである。たとえば愛を求めているなら今あなたには愛が不足しているのであり、ゆるしが必要だと思うなら今のあなたにはゆるしが欠けているのである。本当はそうじゃないかもしれないが、少なくとも「不足している」「欠けている」と自分が思っている、それが自分の現実だと思っているのは間違いないことだ。学びも同様であって、自分に分からないことや知らないことがあると思っているからこそ学ぶ必要も出てくるのである。

このあたりも「引き寄せ」と通底する考え方である。引き寄せにおいても「あれが欲しい、これが必要だ」と思えばそれはとりもなおさず「今の自分にはそれが欠けている」ことの表明になってしまうから、結局「欠けている」ことをますます引き寄せる。だからその代わりに「既に豊かである」と感じるようにしなさい、と言っているわけだ。

自分に欠けている、不足していると思うものを私たちは「欲しい、必要だ」と考える。であれば、「必要なものリスト」でも作ればそれによって今あなたが自分のことをどんな状態だと思っているかが一目瞭然にわかってしまうのである。これが、「歪められた感覚器官の機能を通した自己認識」なのだ、と「コース」は断じる。

本来は神とひとつであり完全無欠の状態であった私たちはある時(という言い方もどうかと思うが)間違いを犯して神から「分離」してしまった。言い換えれば転落してしまったのである。実はこれも分離したと思い込んでいるだけで本当には起きていないことなのだが、それについては後述される。

とにかく、この「分離」が私たちの完全無欠さを破壊した。これによって初めて、不足や欠落という本来はありえなかったものが生じてしまったのである。その副産物として学びの必要性も生じたわけだ。真実ではないこの世の産物である「学び」を、私たちは捨ててしまうのではなく当面はうまく活用していこう、と「コース」は言っている。身体もしかり、私たちが「間違い」によって作り出した幻想には真実に近づくために有効に使えるものも少なくないのである。身体が不要だとわかるポイントまで、学びが不要となるポイントまではこれらを使いなさい。

ところで、私たちはそれぞれ「まずあれが必要、次にこれが必要」などという優先順位を持っていて、それに応じて動いている。たぶんこれは潜在意識内のことだろうと思う。何故なら人によっては自分が考えている「つもり」の優先順位とは全然合致しない動きをしているからだ。いずれにせよ、この「優先順位」もやっぱり貴方の自己認識をそのまま映し出すものになっている。これは簡単な実験なので各自試してみても良いかもしれない。自分がいま必要だと思っているものを端から書き出して優先順位をつけるのだ。その上で自分の行動を振り返ってみれば「私はこれが一番必要だと思っていたけどどうもそういうふうには動いていないな」ということもわかる。更に深く見てみれば、複数の欲求の中には互いに対立するものが含まれていることもわかるはずである。

たとえば、「奇跡をもたらしたい」と思いつつ「あの人にとって特別な存在になりたい」「有名になりたい」などという欲求もあるならば、明らかにこの両者は矛盾する。一方が「一」に向かっているのに他方は「多」に向かっているからである。こうして私たちのマインドは更なる混乱に陥るのである。

「コース」によれば、私たちが必要とするものはただ一つしかない。或いはそこから派生するものも含まれるのだろうが、これは同種かつ同方向のものなので対立する心配がなく、それゆえ問題にはならない。ただ一つの必要、それは「神から離れてしまった」という感覚を正すこと、つまりゆがんだ感覚機能を正常に戻すことなのである。

このあたり、まだ第一章だというせいもあるが、「コース」の語り方は概論的というか小出しというか、まあ先のほうまで読めば「ああ、あれはこういうことを言っていたのか」とわかる仕組みになっているのだが、やはりわかりづらい。なので、乱暴を承知で私が補足をしておく。

私たちは神によって造られた、言い方を換えれば神から派生したものであるからどこまで行っても神と一体であり神から離れて存在することは文字通りありえない。神から離れて存在する、というのはつまり「無」である。「無」はこれまた文字通り存在しない。ゆえに私たちはこうして存在している以上、神から離れていないのである。

ところが、何故だか(ここは後のお楽しみ)私たちは「神から離れてしまった」と思い込むことになった。心底から思い込み信じれば虚構も現実のように見えるのだが、やっぱり虚構は虚構に過ぎないのである。

もっと乱暴に言ってしまおう。たとえば私たちは自分のことを「迷える子羊」だと思っているのだが、本当は神の牧場から一歩も出ていないのだ。ただ、「別のところに出てしまった」と思い込んで右往左往しつつ、自分たちが「別のところ」と思い込んでいるそこで何とか「自力で」やっていこうとしているのである。しかし、実際には神の牧場にとどまったままなのであり神から離れてはいないのだ。もちろん神から見れば「何も変わっていない、何も起こっていない」のである。

要するに、ここで「コース」は私たちが本当の現実・・神から離れてはいないこと・・を間違えて捉えてしまったために、実際には起きてもいない「分離」の感覚を持つようになったと言っているのである。

ならば、「本当は分離などしていない、私たちはいつも神と一体なのだ」という事実が実感としてわかるようになれば良いわけである。そのための手段としてゆるしや奇跡があるのだ。

「コース」によれば、さまざまなレベルのさまざまな欲求を持つことができる、と思うこと自体既に「間違い」であるらしい。上記の「ただ一つの必要」、根幹であるこれを何とかしない限り枝葉をいくらいじってもどうにもならない・・つまり、貴方が自分の欲求一つ一つを吟味・分析したところで何も解決せず何も変わらないのだと言っているのである。モトから正さなきゃダメなのだ。

さて、更に「コース」曰く「神が造ったもの以外は存在しない」のであり、神が造っていないのに存在しているように思えるあれこれは全て私たちが自分で作り出したものなのである。神には「創造する」という資質があり、これはそのまま私たちにも与えられているので同じだけの力で私たちもそれなりに「つくりだす」ことはできるのだ。たとえそれが本当は砂上の楼閣や蜃気楼であったとしても。

   
第162回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 4・5

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 5
第1章 その3

「あがない」によって、私たちは本来のあるいは原初の状態つまり神に創造されたままに何の間違いも犯していない真実の状態に戻ることができる。私たちのアイデンティティは「神が造り給うたとおりのもの」であり、常にそのように認識していなくてはならない。このフレーズはワークブックでも数回出てきたと記憶している。ともかくも、私たちの目的は何を措いてもあがないを為すことなのである。

私たちは「一応」個別の肉体で個別の経験をしてきているので、自分の「あがない」のために必要とされる奇跡もその都度それぞれに異なっている。どんな奇跡が必要なのか、キリストに聞きなさい。そうすれば指示されるであろう。キリストは自らそう語っている。

あがないのためにはまずゆるしが必要なのだが、あがないもゆるしも個人レベルのようであってそうではない。というのも、私たちは本来一つのマインドであるため、誰かがゆるされ贖われればそれが当然周囲=全体にも影響を及ぼすからである。その意味で、私たち一人ひとりが「全体」のあがないの中でそれぞれの役割を担っているとも言える。「それじゃあ、私の使命は何なの?」などと力む必要はない。ただ、その人の経験がその人の役割だ、と言っているのである。使命があるとすれば、それは日常的に「あがないをなすこと」或いは一歩進んで奇跡をもたらすことのみであり、これだけでも十分すぎるほど世のため人のためになる。これは「本当の意味で幸せに生きること」と言い換えることもできそうだ。

さて、このあたりから「spirit 」という語が出てくるようになる。これは「魂」と訳してもよいのだが、私の感じではどちらかというと「純粋精神」に近いような気がする。巻末近くの「用語解説集」を参照してみよう。

「用語解説」によれば、「コース」では誤解を避けるために聖書の引用を除いて「soul」の語は用いられていない。が、soulとspiritは本質においてほぼ同じようなものだと書いてある。両者とも「生まれた」のではない。ゆえに、死ぬこともない。永遠である。ただ、一般的なイメージとしての「魂=soul 」は「孤独な魂」などという表現もあるように傷つくことがあったり、その一方で思考したりすることはなさそうな感じもするのでここでは「スピリット」と表記させていただく。私たちのマインドは、ある「間違い」によってエゴとスピリットの二つに分裂してしまっている。神に造られ神の御心(マインド)と同質であり、聖霊につながるのはこのスピリットの部分だけであり、スピリットこそが私たちの現実なのである。何ものにも歪められていないマインドの本来の状態でもある。だとすれば「純粋精神」というのもあながちハズレではなさそうだ。

真実を直接知るのもスピリットの機能であるらしい。ちなみに「意識=consciousness」は受け取るだけの機能しか持たず、創造することはできない。しかも受け取るメッセージはその都度、聖霊かエゴのどちらかからのものである。まず、この点がspiritと異なっている。訓練されたり気づきを得たりすることで意識=consciousnessはそれなりに高いレベルに移行できるが、それでも知覚を超越することはできない。更に、訓練が可能でありレベルが存在するということ自体、consciousnessが直接知に至ることはできない証左であるらしい。なるほど!consciousnessが脳の機能であるとすれば、確かにそうなるだろう。

このように「用語解説集」はたいへん役に立つので、これからも折に触れて参照してみるつもりだ。

さて、本文に戻ろう。

スピリットは永遠なる恵みの状態にある。貴方の現実はただスピリットのみである。ゆえに貴方は永遠なる恵みの状態にある。

すごい三段論法。あがないが成されればこんなふうになる、と言っている。恐怖の源が根こそぎにされた状態である。

ところで、もし私たちが「バチが当たるかも」「神の試練と称して苦しい目に遭わせられるのではないか」などという理由で神を恐れ神に忠誠であろうとするならば、当然のごとくそれは間違っている。「コース」の神は、徹頭徹尾「愛と創造の神」なのだ。「怒りと破壊の神」「脅威の存在」ではない。人間と契約したり怒りに駆られて街を滅ぼしたり罰を与えたりするのは神ではない。それは、エゴが作り出した幻想の神、ニセモノの神に過ぎないのだ。エゴ自体が幻想であり本当は存在しないのだから、エゴによって作られたこういう神もまた存在しない。このあたりの事情については後々詳しく述べられるのだが、ごく簡単に言うと「自分の中にあるものが外界に投影される」、これが私たちの「目に見える・形ある世界」の正体である。上記の文章を例に取れば、貴方の中に「恐怖」「罪悪感」「怒り」などがあるから、外界にある「神」がそのようなものになってしまうのだ。ところで、これら「恐怖」「罪悪感」などをもたらすのは言うまでもなくエゴである。同じように、もし貴方が誰かに対して「あの人、間違ってる」などと感じたりそのように見えたりするのなら、その時貴方の中にまさに貴方が感じたり見たりしたのと同じものがあるわけだ。

ここでは「黄金律」として「貴方がしてほしいことを他人にも為せ」という言葉が出てくるが、これは何か行為をなすという以前に「貴方は自分の中に何を見るか?貴方が自分の中に見たいものが他者の中に見えるのだ」という端的な事実を表している。人が何かをするときには、たとえ無意識にでも見たり聞いたり感じたりしたものを基盤にして判断し動くのである。反射的に見えるものでもこのプロセスは必ずある。であれば、表面的な判断やら行為などをいじったところで何もならない、元から正さなくてはならないのだ。貴方が自分の中にあると思いたくないものは他者の中にもないと思え。

これが「ゆるし」なのである。それを行う劇的な方法が奇跡なのである。イエス・キリストは病人の中に病も間違いも歪みも見なかった。つまり、ゆるして癒したのである。そして病人は実際にゆるされ癒された。「コース」におけるゆるしとは、乱暴に言えば「なかったことにして見逃せ」というようなものだ。ただし、愛をもって。これによって貴方自身も、また他人であれ世界であれ相手も解放されるのである。

理解しておくべきことはまだまだあるのだが、とにかくこのような習慣をつけることによって私たちの「感覚器官」の働き方が変わってくるらしい。今までは「間違い」を基盤にしたところで機能していたものがまあ言ってみれば「聖別」「浄化」され、聖霊によって正しく用いられる道具のようになり結果的に「本当の世界」が見え聞こえ感じられるようになる、というわけだ。つまり、感覚器官の機能もまた「正されるべき」ものなのである。

なお、これら「ゆるし」「あがない」は「浄化」と言い換えても差し支えないと思う。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 5

第1章 その4

奇跡はどのようにもたらされるのか?当然のことながら、その準備ができているマインドに或いは奇跡を自分でちゃんと使える人にもたらされる。その人が見かけ上は「奇跡を行った」ことになる。その人自身には全くそのような自覚がなくても構わないのである。更に、その当人が気づいていなくても奇跡はひとりでに他者に対して作用するのであり、当人たちがどう思っていようがその瞬間奇跡を経験した人たちは「一つ」になっている、というわけだ。

言うまでもないが、「一つになる」というのはあくまでもマインドどうしの話である。別々の身体は一つになれない。この事実もまた身体が実在しない・・つまり真実ではなくて幻想であることを示している。

ここでまたビックリするようなことが書かれている。すなわち、誰がどこでどんな奇跡を行うのか、という「実践面」はキリストによってアレンジされている、というのである。誰にどんな作用がもたらされたのか、についても私たちにはわからなくて良いらしい。

要するにこういうことだ。一瞬にして病気が治った、みたいに「オオーッ」と誰もが驚くレベルの奇跡のほうが、静かに心が通じ合い癒されたというような「地味」なものよりもすごくて難しいなどということはない。そこに程度の大小はないのである。

さて、キリスト教では「光」である神に対立する概念として「闇」という言葉がよく用いられる。夜明けが待たれる「魂の闇夜」などというのもある。闇はそこから脱出すべきもの、光にとって換わられるもの、闇は端的に光の不在である。これと同様、恐怖や罪は愛の不在であるから、光がもたらされれば闇は失せ愛がもたらされれば恐怖その他は失せる。これらをもたらすのも奇跡の作用である。

ここで重要なのはまず、闇や恐怖は単に光や愛の不在であり何ら実体を持たないということである。逆に、闇や恐怖が光や愛を覆い隠し打ち消してしまっているのは、ただ「そう見える」「そう信じられている」だけであって本当はそうじゃないのだ。何故なら真実在である愛や光はその本質から言って「ゆるぎなく、不変」なのであるから、何をどう持ってきたところでびくともしないのである。闇が「あれば」光は見えない。しかし、それはただ私たちに光が見えないというだけのことであって、光がなくなったわけではないのだ。

恐怖があり愛がない、という状態は私たちにとって当たり前になってしまっている。言い換えれば「闇は光よりも、恐怖は愛よりも強い」という間違った考えを信じ込んでしまっているのだ。私たちが本来持つ愛や光などの「聖性」は、何によっても覆い隠せるようなものではないのに、「ない」「隠れている」と信じ込めるということは、ある意味で真実や本来の自分自身を欺いているのである。このあたりが「コース」の真骨頂なのだが、私たちが本来の「神が造り給うた」アイデンティティを忘れ、自分たちをそれ以外の何かであると思い込んでいるのは「自己欺瞞」に他ならない、というのである。

ところが、欺瞞は誤魔化しであり、一旦誤魔化したものはずっと誤魔化しとおさなくてはならなくなる。これこそが本当の現実であると自らに証明すべく、多大な(かつ無駄な)努力をし続ける羽目になる。上記の例で言えば、「闇は光より強い」「闇はいろいろなものを覆い隠す」という欺瞞を守り通さなくてはならなくなる。更に、私たちは深い部分で「これはウソだ、誤魔化しだ」というのもわかってしまっているらしいので、当然そこには「間違ったことをしている」罪悪感から来る恐怖が生じることになる。

闇の恐怖、とは一つには単に「光が見えない」ことだが、いま一つは「本当は闇など存在しない」と認めることなのだ。認めちゃったほうが楽じゃん、と考えそうなものだが、信じ続けてきた世界が崩壊するのはやっぱり怖いと感じる人が多いのではないか。

闇が存在しない、というのを逆から表すと、私たちには覆い隠すべきものなど何もない、ということになる。私たちは、通常自分が見たくないもの、怖ろしいと感じるようなものが闇の中に隠されていると思っている。だから闇が怖いのだ。闇が去ったらパンドラの箱のごとくワラワラと訳のわからん怖ろしいものが出てくるのではないか、とも思っている。だから闇が存在しないのも怖いのだ。

「心の闇」と言われるようなものも、その奥にとんでもなく怖ろしい危険なものがとぐろを巻いていて光が当たれば一斉に飛び出してくるようなイメージがあるが、本当の意味で光が当たれば闇ごと消えてしまうはずなのだ。

つまり、愛や光など真実在であるようなものは闇によってびくともせず、闇に覆い隠されると思えるようなあれこれは所詮「エゴの産物=幻想」なのだから実在しない。従って、闇には存在理由などないのである。

さて、真実はいつでも豊かなものだが「闇」を初めとする「過ちによって作り出された幻想」はどれも「不足」という概念に通じているそうだ。足りない、欠けている、困った、惨め等々の状態にあるとき私たちは「闇の中にいるようだ」「闇から抜けられない」と言う。良いほうに考えなさいよと言われても「だって現実はこうなんだからさ」などとも言う。このあたりは「引き寄せ」にも通じるところがある。目の前にある(と思い込んでいる)あれこれを「現実」と見ずに、まず闇はないと知りなさい。光を持ち込みなさい。

ちょっと脇道に逸れるが、「コース」を読む人たちはもちろん「あがない」をなし「真理」を知りたいと思っているのだろう。それが今までの「間違いから生じた幻想の世界」からの救済であるなら、救われたいと当然思うだろう。が、真理を求め救いを求めてそれが煩悩になることだって大いにあるのだ。「まだ真理がわからない、救われない」という「不足」感でいっぱいになる。執着が始まる。すると、ますます真理から遠ざかり救われなくなってしまうではないか。これではまるで話があべこべである。

救いなどあると思うな。そんなものがあると思って求めるから救われないのだ。私はこういう考え方が結構好きなのだが、ここでは「コース」に即して考えよう。まだずっと先の章になるが、実はこのあたりに関して「コース」は見事な安全ネットを張ってくれている。即ち「貴方がたは、本当は既に救われている」「ゴールは確実だ」、だから安心して頑張りなさい、と言ってくれているのである。全くありがたい本である。

さて、本文ではついに「死は存在しない」という文章が出てきた。「死」が「無」であるならば、「生の不在」であるならば、あるいは貴方から何かを奪うものであるならば、まさにそうであることによって死は存在しない。なお、貴方が望めば私は喜んでそのことを見せてあげる、証拠を見れば信用するだろうとキリストは言っている。

私たちは神に造られたことにおいて全てが与えられており決して失うことはない。こういう記述がいきなり出てくると???になるが、後のほうで詳しく説明されるのでご安心を。

   
第161回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 3

第一章 その2

奇跡に続いて今回は「啓示」である。ここで啓示といったら神の啓示しかないことは言うまでもなかろう。これは、神と「神の被造物」である私たちとの本来の交流のありかたにかなり近いものであるらしい。一応、奇跡の一つ上の段階にあるものだということになっている。

しかし、啓示は最終段階ではない。真実が垣間見えるだけなのである。啓示を受けたから後はもう楽勝の安心立命というわけにはいかないのだ。

奇跡と違って、これはもっぱら個人的な経験であり他人とはシェアできない。言語によって表現できないので伝えることもできないのである。しかし、言語に拠らなければ或る程度の表現は可能なのではないか、と思う。つまり啓示を受けた状態で創作された芸術作品というのはありそうだし、言語であっても詩なら少しはイケそうだし、そこから私たちは正確にではなくても「何か」を感じることはできるであろう。が、その創作行為自体は啓示ではない。

さて、ここで「コース」は造物主と被造物との関係について言及している。時間は存在しないとしながらも、明らかに造物主は被造物に先んじて存在していたのであり、また程度は存在しないとしながらも、造物主はある意味で被造物よりも上位にあるものである。そのように定義されている。聖書と同様、「父と息子」という表現もこれから頻出する。ああ、きっと「どうして母と娘じゃないのっ」と言って怒る人もいるだろうなあ。

が、とにかく言葉は象徴であって象徴に過ぎないのだから、父と息子だろうと母と娘だろうとそんなことはどうでもよいのである。まさかこの本を読んで「まあ、神様って男だったのね」と思う人はいないだろうが・・・。身体が「実在しない」以上、性別などあろうはずがないではないか。

閑話休題。奇跡は「同等な者の間でシェアできること」なので、人々に奇跡を与えたイエス・キリストも我々と同等な立場のもの、我々と同じように神の被造物であり、誰でも自分のようになれるのだ、とされている。この部分はキリストが一人称で私たちに語りかける形をとっており、私たちとキリストとの関係も明確に記されている。

キリストは神と一体になった覚醒した意識であり、覚醒していない意識にとっては「先輩」格のような存在である。経験と知識において勝った兄、頼りになり尊敬すべきお兄さんのような存在である、ともされている。どんなに差があるように見えても、「子=被造物」であるという点において私たちとキリストとは同等なのだ。従って、神は畏れてもキリストを畏れる必要はない。啓示には畏敬の念がつきものだが奇跡を畏れる必要はない。

兄と弟、これも「兄が先に生まれた」という時間軸的な関係ではないとされている。つまり、先ほど「覚醒における先輩格」と書いたのだが、これも正確に言えば「兄が先に覚醒に至った」という時間軸上の距離を示しているのではなく、兄のほうがより神に近いとか純化されているなどといった意味なのである。

まあ、このあたりの「父・子・兄弟」というのは、神とキリストと我々との関係を「この世の」私たちにわかりやすいようなメタファーを用いて語っているのだから、「そんなようなものなのだろう」くらいに受け取るのが妥当である。くどいようだが、真理をそのまま語ることはできないのだ。本当のことはウソによってしか語れない、真理は虚構によってしか語れない、どうしてもそういうことになっているのである。

また話が逸れるが、「私はいつ覚醒できますか」という質問ほどナンセンスなものはない。覚醒とは、いつであっても「今ここ」でしか起こらないものなのだ。こういう形而上的な問題は、常に水平な時間軸を超越する。これは誰にでも経験できることである。

とにかく、この世においては何千年かかってもできないと思われるような学びが奇跡によってほんの短時間で完了してしまうこともあるのだ。このように奇跡には「時間」を無化する・無効にするような作用があるのだが、それはまだ完全ではない。奇跡は依然としてこの地上の経験なのである。思い出して欲しい、至高の境地においては既に奇跡の存在理由が消失してしまっているのだ。

キリストも「私自身のためにはもはや奇跡など必要ない。私が奇跡を行うのは貴方たちのためである。貴方たちが奇跡を行うときはいつでも私とともに行うのである」と語っている。完全に「ゆるされた」存在であるキリストは至高の意識である。奇跡も啓示も自分のためには必要ないのも当然で、まあいわば頼りがいのあるお兄さんとして私たちの介添えをしてくれようと言うのである。

さて、ここで「あがない」という言葉が出てくる。「コース」における「あがない」とは、罪をつぐなうとか罪滅ぼしをするなどという意味ではない。ただ「過去の間違いを訂正する」あるいは「消去・清算する」のである。間違いがどんなものであるかはこれから延々述べられるのだが、簡単に言えば「自分で作り出した幻想を事実だと勘違いした」ということになる。自分の中の間違いを正すだけでなく、他人の中に見える間違いを見逃してやる、これが「ゆるし」である。

キリストが奇跡を行なって病人を癒すくだり、「あなたはゆるされた」という聖書の場面が思い出される。

この「間違い」が実は私たちの宇宙・世界の基盤を(一応)なしているのである。ゆえに、これを正すのは私たちが今までの思考システムを根本から逆転させることに他ならないので、やっぱり容易ではない。が、ここにはちゃんと救いがあって、つまりどんなに間違いを犯していようとも真実は一切その影響を受けていない、びくともしていないというのである。当然のことながら、真実とはそのようなものー常に不変で何ものにも脅かされない確固たるものだからである。一方で、「間違い」はその本質から言って脆弱である。基盤を持たない。となれば、真実を否定しようとして間違いにこだわるよりも間違いを捨てて真実を選択するほうがはるかに楽だ、ということにもなるのである。

更に「奇跡」「啓示」という心強いものもある。これらは、普通にしていたら何千年かかっても何十回生まれ変わっても不可能であるような「気づき」をもたらしてくれるので、それだけ「間違いを正す」ことも容易になるのだ。

「コース」は神だのキリストだの聖霊だの真実だの、そんなようなものについて書かれている本だと思われがちである。が、ここに書かれているのは貴方のことであってそれ以外の何かではないのだ。そこを間違えてはいけない。だから真剣にやりましょう、だって自分のことなんだから。

 
第160回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 2

第1章 その1

本編に入る前に前回の補足を少々。身体の感覚器官によって認識できるものはあてにならないのだが、それは身体を作り出したーいや、本当は作り出してもいなくて、ただ作り出したと思い込んでいるだけなのだがーマインドが既に歪められているからである。この歪みを正すのも「コース」の目的である。エゴが消失する、というのとほぼ同義である。これを「コース」では「キリスト」に象徴させている。この場合のキリストとは、馬小屋で生まれ十字架で死んだイエスという男性ではない。神に造られ幻想の世界から覚め出でて神と一体になったエゴなき意識のことを指している。つまり、私たち一人ひとりの中にキリストは在り、私たち一人ひとりが本来キリストなのである。

「コース」は、身体をはじめとするこの世のあれこれを「本当には存在しない」としながらも否定したり蔑視したりはしていない。そもそも「ない」んだから否定することさえできないのである。ま、価値をおくようなもんじゃないけど、だからといって粗末にしてよいというのとは違うのだ。むしろ、思考システムの変容によってこれらの「幻想」は有効な方便として活用することもできる。幻想に囚われていれば私たちを苦しめる原因になるようなあれこれも、「実在しない」と本当にわかってしまえば自由自在に全く違った使い方ができる、というわけである。

「この世はいっときの夢、まぼろし、仮の宿」とはよく言われることだが、「コース」はこの事実を情緒的にではなく「これでもか」というくらい論理的に解き明かしてくれている。

さて、やっと本編に入る。第一章の冒頭では「奇跡とはどういうものか」が、もうズラズラズラと羅列してある。どちらかというとこれも「前書き」の一部だと思って読んだほうが良さそうである。あまりにもテンコ盛りなので、いちいち考えすぎていると進まなくなる。

奇跡とは・・一般的には「この世の物理的法則を超越した事象」と言えるだろう。しかし、本来の世界(→世界、と言えるのかわからないが)では、物理的法則など何もないのだから私たちが「奇跡」だと思っているようなことなどは不思議でも何でもない「当たり前のこと」になってしまう。それらはむしろ、「コース」が導く真実在の境地に近づいたことによる副産物みたいなものなのだと思う。奇跡自体はどうでもよくて重要なのは奇跡をもたらす源のほうだ、とここにもはっきり書かれている。

「引き寄せ」にも共通するのだが、奇跡にも「難易度」というのはない。小さいことは簡単だが大きなことは難しい、などということは一切ないのである。時間・空間を含めて「差異・隔たり」を表すものが全て幻想であるからには、大小やら難易などのレベルもまた幻想であって現実ではないのだ。

奇跡を媒介するのは祈りである。ただこの「祈り」とは教会やら神社やらで「神様、お願いします、お願いします」というようなものではない。一種の自己放下の手段みたいなものだと考えればよかろうと思う。

ところで、この後にも何度か出てくることなのだが「奇跡」と「魔術」とは全然違うものである。魔術がどちらかというと「意志を持って起こす行為」のようなものであるのに対して、奇跡は或る境地に至れば自然発生的に起こってしまうものであり、行為とは限らない。愛を表現する手段だとも書かれているので、逆に言えば愛のないものはどんな「奇跡的なこと」に見えても魔術なのであろう。

「奇跡」とは、この後で出てくる「啓示」とは異なり他者とシェアできるものである。つまり、ある人が受け取った奇跡をそのまま誰かに与えることができるわけである。こういうとき、パッと見にはその誰かに大変な力があって奇跡を起こしたように思えるのだが、意志の力で或いは自力で起こすわけではなく何と言うか「起きることを許した」「受け取った」と考えるのが正しいようである。

ここで言われる奇跡とは、本当のこと=真実への気づきをもたらす機会となるような方便であるらしい。光がもたらされれば闇は消える。奇跡とはこの「光」なのだ。そのようにして私たちの認識の基盤となっているような思い込みが取り払われるのもまた奇跡の作用である。イエス=キリストが行った様々な奇蹟も本当はそういうことなのではなかったか。しかし、そのような奇跡のイメージに囚われてはならない。いつ、どういう形で来るかは誰にもわからないのである。

とにかく、思い込みが取り払われればその思い込みによって投影されていた「現実」(実は幻想なのだが)もまた消えるわけである。というか、あれは本当は現実ではなかったのだ、そう思っていただけだったのだということがわかるのだ。このとき人は「ゆるされた」と感じたり言ったりする。従って、奇跡は「ゆるし」が表現されたものであるとも言える。先ほど奇跡は愛の表現だともあったが、愛がなければゆるしもありえないのでこのあたりは皆つながっている。

ところで、奇跡が生じるためには例えばまず「このワタシ」が身体ではない、身体は実在しないという認識に、その瞬間だけでもたとえ無自覚にでも立脚している必要があるようだ。しかし、奇跡の作用によって「私は身体ではなかった、身体などなかったのだ」と気づくこともある。これこそが「奇跡は時間を超越している」ことの証左のようなものであって、どちらが先でどちらが後などということが既に問題にならないのである。時系列的に言えば、まず手段としての奇跡があってその後に啓示がもたらされるらしいのだが、これも同様に「どちらが先」ということはないのではないか?啓示自体が奇跡だ、ということだってあるのではなかろうか。

奇跡によってもたらされるのは、神による創造と調和するものだけであるらしい。つまり、人間をブタに変えることも論理的には可能であろうが、そういうものはこの本における「奇跡」ではないのである。

奇跡は、「聖霊」なるものを媒介して与えられることになっている。私たちが本当に本来の姿に戻り神と直接交流できるようになれば、その時にはもう奇跡など必要なくなっているのである。言い換えれば、私たちは奇跡によって本来の姿に戻っていくのであり、神そのものに立ち帰るのだ。が、この「直接交流」というのもこの世的なイメージで考えると却って誤解を招くような感じがする。

ついでに「本来の姿に戻り」というのも、今と別の何かになるということではなくて「思い込みを捨てて真実を思い出す」、つまり一種の気づきなのである。

しかし、この羅列部分は奇跡の本質を語っているようで語っていないというか、核心をついているようでもあり、いないようでもあり、核心の周りをグルグル回っているようにも感じられる。「コース」にはこの手の書き方がよく出てくるのだが、それも「語られにくい」ものを語っているゆえのことであろうと思う。

 
第159回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 1

序文

この「コース」は「必須課目」であるらしい。いつ始めても良いが自分の好きなやり方でしてはいけない。つまり、順番どおり一つも抜かさずに読んでワークをやれということだ。ただし「理解できなくても反発を覚えても構わない」のだそうで、それでもとにかく黙って一つずつ進め、と言っている。なので私もそのようにしていた。

約4ページ分にわたる「what it says」にはこの本の内容が簡潔に要約されている。ここだけ読んでも他のスピリチュアル書籍との相違は十二分に伝わる。どちらかというと哲学や宗教の書物みたいに感じられるのではないか?この部分の内容は本編テキストのほうでイヤというほど詳細に述べられるのでいちいち取り上げることはしないが、まずは「奇跡のコース」のモットーとも言うべきフレーズだけは紹介しておかなくてはならない。即ち、

「真実=本当のことは決して脅かされない」「真実でないものは存在しない」「神の平安ここにあり」

わかったようなわからんような、そりゃあまあそうなんだろうと思うような文章だが「それじゃあその『真実』って何なの?」これが問題なのである。これは「現実」と置き換えても良い。何しろこの本に拠れば、見えたり聞こえたり触れたりできるようなものを現実だと思ってはいけない。身体の感覚器官など当てにするな、それらは皆「本当には存在しない」つまり「幻想」なのだから、となる。従って、私たちの日常生活そのものがもはや「現実ではない、実在しないもの」だということになるのである。

この身体も、大地も天空も、太陽も月も星々も、みな「存在するように思われている」だけであって実在はしない。いわゆる「物理的宇宙」は存在しない。

時間も空間も存在しない。過去も未来もなく、遠近も何もないのである。それどころかあらゆる差異や隔たりはみな幻想であって、どれも本当には存在しない。

私たちの知覚によって(もちろん実験装置も含めてである。それらを扱うのは私たちの目や手や耳なのだから)「確かに存在する、だってさわれるんだもの」というふうに認識される世界そのものが私たちのマインドが作り出した幻想であり、本当は実在しないと言っているのである。

脳でさえ例外ではない。脳も「本当は存在しない」身体の一部なのだからやっぱり実在しない。脳がなくて、どうやって真実を認識できるのか?そんなことは、そうなってみなくてはわからないのである。

ところで、その真実在―本当の現実というものは言葉で表現できず身体器官で感じることもできず、要するに学べるものではない、とも言っている。これは「直接知る」以外にはないのである。これこれこういうものだ、と言おうものならそれらは言う端から「ウソ」になってしまう、そのような構造なのだ。

従って、「奇跡のコース」にも真理はこれですよ、なんてことは書かれない。ただ「真実は不変であり、明白であり、ゆるぎない」とのみ書かれている。真理を語るための言語がこの世には存在しない以上、やむをえないことである。しかし、この本は「本当のこと」が知られるための準備段階を与えてくれようとしている。その一環として、私たちの思考システムが逆転するのを助けてくれようとしているのである。

「奇跡のコース」によれば「神が創造したものだけが真に実在する」わけだが、ここでも「じゃあ、神は一体何を創造したの?」という疑問が出てくる。それも追々詳しく述べられるのでここでは省かせていただくが、ひとつ注意して欲しいことがある。

貴方は「神」をどのようなものだと考えているか?人智を超えた絶対的なもの、くらいは誰にでも共通しているだろうが、この本を読むに当たっては各自今までの「神」のイメージを一旦捨てておいたほうがよい。「コース」に出てくる神は聖書の神ですらない。

この本は信仰の書ではない。真実は知られるべきなのであって、確かにこうだと知ってしまえばそれをわざわざ「信じ」たり、ましてや信仰したりする必要はなくなるのである。しかとは知らず、理解できないもののみを私たちは「とりあえず、そうだと思うことにしよう」として「信じる」のだ。

真実は信じられるべきものではなく、ただ知られるのみである。

さて、神は私たちを創造した。これは良い。しかし、創造という語には既に時間=時系列が含まれてしまっている。AがBを創造した、という場合、AがBよりも前に存在していたことは明らかである。従って、私たちよりも前に神が存在したということになる。普通、これは疑問にもならないような当たり前のことに聞こえる。ところが!「時間」は存在しないのであった。となると私たちが「創造」という語からどうしてもイメージしてしまう時系列も瓦解する。「コース」では、創造を拡大やシェアという言葉に置き換えたりもしているがそれらにしたってこの世的に考えればどうしても「拡大されるもの」より「拡大するもの」が先に存在してしまうではないか。

また、「創造した」というのは過去形になっている。だからと言って、神の創造は太古の昔に起きたことだとか、私は受胎した瞬間に造られたなどと考えてはいけない。何しろ「時間は存在しない」のである。「コース」では、幻想たる時間も有効な方便として活用できると述べられているのだが、それは例えば「学び」などの場において「1年前よりもいろいろなことに気づいて進歩した」というように、「時間」「程度」などの「幻想」もそれなりに役立つのだと言いたいらしい。が、「創造」となると少々事情が違うような気がする。

神は私たちを創造したのであり、創造しているのであり、創造しつつある。といったところでそこには「継続」という時間的な意味はないのである。

となれば、神による創造というものも私たちが普通思い浮かべるイメージとは違い、おそらく言語道断な何かなのだろうな、というふうになる。

「コース」では、私たちの変容にとって「ゆるし」の作用が如何に重要かということが繰り返し述べられる。序文にもあるのだが、面白いのは「天国にはゆるしが存在しない」という点で、要するに神と一体になった完全無欠の境地の世界においてはそもそも「ゆるすべきもの」も「ゆるされるべきもの」も存在しないのである。天国には学びもない。なぜなら既に知られたものは学ぶ必要がないからである。

「奇跡のコース」は弁証法を超越している。弁証法とは簡単に言えば、右と左、存在と無、光と闇、一即多・多即一、色即是空・空即是色、全てA≠BだがAがなければBはなく、BなくしてAはない、絶対矛盾的自己同一の世界である。南北の2極がある地球に生きている私たちにとってはこれが至極当然の現実であると考えられるのだが、どうやらそれは「この世界」においてのみ有効な論理であるらしい。「コース」によれば、真実在においては「一」しかなく「多」は存在しない、幻想に過ぎないものなのだ。

今更言うのも何だが、「奇跡のコース」は成功哲学ではない。私たちが通常「欲しい、ああなりたい」と思っているもの全てが「実は存在しない」ものであるならば、そんなものに価値があるか?あなたは幻を求めるのか?それが幸せと言えるのか?という感じなのである。むしろ啓蒙書だと思っておくのがよろしかろう。

また、「この身体も、犬も猫も、花々も星々もみんな神さまが造って下さった。ああスバラシイ、ありがたい」と、毎日感謝の気持ちで幸せに過ごせている人ならば別段「コース」など読む必要もないかもしれない。ま、本当は造ってないみたいなんだけど。

 
第158回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 予告編

A Course in Miracles(日本語仮訳「奇跡のコース」)は、1977年にアメリカで出版された。著者は存在せず、コロンビア大学医学部教授であるヘレン・シュックマンという女性が「ある時から突如として」聴こえてきた「声ではない声」を書き取ったものである。これにはかなりの努力を要したらしい。そもそもこの人は別段スピリチュアルでも信心深いわけでもなく、世俗的な望みと世俗的な悩みを抱えたいわゆるインテリ女性だったので、声の話す内容には相当なショックと違和感を覚えたのだろう。書き取りを始めて本として完成するまで7年もかかったそうである。

それだけのことはあって大変な内容の本である。31章から成る本編テキストが669ページ、365のレッスンから成る学習者用ワークブック、教師用マニュアル、用語解説集、補遺の各部分によって構成されているのだが、そのヴォリューム以上に中身が驚異的なのだ。

「奇跡のコース」には「普遍的な真理」=本当のこと、が詳しく述べられている。即ち、この世界とは何か、私たちは何者か、などという「存在の秘密」に加えて生と死、愛と怖れ、赦しなどについても非常に論理的な説明がしてある。特にアメリカでこの20年くらいの間に愛や赦しや癒しなど、いわゆるスピリチュアル思想について教えたり書いたりしてきた人々の殆どがおそらくこの本を読んでいるに違いない、と私は睨んでいる。いわば、スピリチュアルの古典書である。

もっとも、普遍的な真理について書かれた本なら他にもいくらでもある。しかし、それらは大抵哲学書や宗教書や経典などであり、一般の人がちょっと読んでみるというわけにはなかなかいかない。そこへいくと「奇跡のコース」は一般向けに実践を目的として平易な英文で書かれており、ご親切にもワークブックまでついているのが画期的である。ただし、文章は平易でも内容は読みやすいとは言えない。これは、普遍的な真理というそもそもこの世の言葉では表せないものを無理やりこの世の言葉で書いているからなのであって、真理を扱った全ての書物に共通する読みづらさなので、まあ仕方ないだろう。他の哲学書や経典などは、言葉で表せないものを何とか表現しようという苦肉の策で述語を作り出したり喩え話を駆使したりして却ってわかりづらくなったり誤読されたりしているので、その点「コース」はまだマシかもしれない。

もう一つ、「コース」が画期的な理由は、普遍的真理を発見することがそのまま救いにつながる、としていることである。誤解されていることが多いが、普遍的真理を発見したからといってそれが救いにつながるとは限らないのだ。そこに至った人々のある者は絶望し、ある者は発狂し、またある者は何事もなかったような顔をしてその後の人生を過ごした。そういうものなのである。

ところが、「コース」では「本当に幸せになりたいならこれ以外の道はない」くらいの勢いで本当のことを知る=真理の発見と救いを結び付けてくれている。これは大変貴重なことなのである。何せ途中でどんどん明らかにされる事実は下手すると絶望や発狂をもたらしかねないくらい衝撃的なものなのである。しかし、それに耐えて更に進んでいけばちゃんと救いが用意されているのだからありがたい。

この本の存在自体は15年以上前に知っていたが、私が実際に手に取ったのは2007年である。普段は読むのが速い私もテキストを精読するのに2ヶ月かかり、更に2ヶ月かけてもう一度精読した。その後1年かけて365のワークを毎日おこない、その他の部分も数回精読したので一応「コース修了者」にはなるようなのだが、それでもコラムでこの本を紹介する勇気は出なかった。

理由の一つはもちろん私がこの本の内容の「全てを完璧に」理解できたわけではない、ということである。それ以前からの私の理解と重複するような部分については折に触れてコラムに盛り込んだりもしたが、「コース」の内容そのままだと過激すぎるのでかなり遠慮した書き方をせざるを得なかった。

もう一つの理由は、「コース」がキリスト教の枠組みを使って書かれていることである。なじみのない人が多いのではないか、と思ったのだ。もちろん、普遍的真理は普遍なのであるから、キリスト教に拠らなくてもどんな枠組みによっても表現することはできる。ただこの本には「神」「キリスト」「救い」「あがない」「聖霊」などの言葉が頻出するので、読みづらい人もいるかもしれない。しかし、内容的にはもしかして教皇庁から異端の禁書指定を受けているのではないかと思うくらいに従来のキリスト教の教義や解釈からは大きく外れているので、この本を読むのにキリスト教の信仰は一切必要ない。むしろ邪魔になるくらいである。

但し、絶対的普遍的な、一なる「造物主」、全ての存在の根源というものが在る、ということだけは前提として了解しておかないとかなり読みづらくなる。この「造物主」を神と呼ぶかどうかは各人の好みと自由なのだが、死んでも絶対に「神」とは呼びたくないという人がいるならばそれはこだわりであり、こだわりに過ぎないのだからちょっと脇にどけてみて欲しい。とりあえず「神」と呼んだっていいんじゃないの?それだけのことをする価値は十分にある内容なのだ。

私はたまたま洗礼を受けたクリスチャンで、キリスト教との葛藤を経て今に至ったような人間なので「なじみ」という点では全く問題がなかった。しかしその私でも、いやそのような「転びキリシタン」でもあるがゆえか、白状するとやっぱり抵抗はあったのだ。今更なぜ「造物主」なのか?

決して読みやすい本ではない。序文にもあるとおり「思考を逆転させる」のがこの本の目的の一つなのだから当然と言えば当然である。口当たりも良いとは限らず、容赦のない過激な言説が次々に出てくる。日本語訳が出るという話も聞くが、興味のある方はできたら原書で読むほうがお勧めである。

ということで、次回からは「奇跡のコース」原書A Course in Miracles を少しずつご紹介させていただく。無謀な試みなのは承知の上であるが、少しでも皆さんの気づきのきっかけになるならばこれに勝る喜びはない。

 
第157回「引き寄せY」

(承前)特定の相手(人物・会社・仕事など)を引き寄せたいと思ったとしても、それらの対象にダイレクトに迫るのは逆効果になりがちです。むしろ、「これ」が欲しいという気持ちを一旦手放して基本に立ち返ることが必要になります。

「これがないと困る、これが欲しい、手に入らなかったらどうしよう」などと考えるのが良くないわけですから、そういう思いをまず脇にどけておきその上でたとえば「私には望むものが全て与えられる」「私は自分が望むものを得る価値がある」「私は恵まれている」「何もかもうまくいく」などという、つまりはより一般的で包括的な考えを抱くようにするわけです。もちろん、その際にも最重要なのは考えの内容や言葉ではなくて「波動」だということを忘れずにいなくてはなりません。

ずっと以前のコラムにも書きましたが、いま貴方が望んでいるものが本当に良いものとは限らない、手に入らないほうが良いということだって十分にあるのです。それが手に入らないことによってもっと素晴らしいものを受け取れるかもしれません。そのあたりは決め付けないでオープンにしておいたほうがずっと良いのです。

簡単な例をあげてみましょう。あなたが病気であり健康を望んでいるとします。病気を引き寄せたからにはそういう波動の状態にあったーあるわけで、健康になりたいなら今の状態がどんなに苦しいものであってもまずは「健康」という波動にならなくてはいけないのですね。

貴方の中に何らかネガティブなものがあり、それが波動になって更にネガティブなものを引き寄せているのであれば、貴方の波動が豊かでハッピーなものになれば当然ネガティブな状況は消え去り新たな波動に即したものが引き寄せられてきます。つまり、病気は消え去り健康になる、という次第です。ここまでは容易にご理解いただけるでしょう。

しかし、対象が人や会社だったりする場合はどうでしょうか?もしも貴方がある人物や組織との間のトラブルに見舞われていたり相手とうまくいかなくて悩んでいたりするのなら、まず確実に言えるのは「苦しい状況」を引き寄せるような波動が貴方の中にあったーある、のだということですね。それが今問題になっている個人やら組織やらを引き寄せたのです。ここで貴方の波動が豊かでハッピーなものに変わったとすると、「相手の態度もそれに即して好ましく変わる」場合もあれば「苦しさをもたらした相手が去り、新たなものが引き寄せられる」場合もあるのです。

要するに、どこまでいっても問題は「貴方自身」がどういう状態なのかということだけなのです。相手が貴方に対してどう行動してくるか、という問題ではありません。相手が承諾してくれれば万事ハッピーだ、だからそのように祈ろうなどと考えることも多いでしょうが、それでは順序が逆なのです。

そのあたりをくれぐれもお間違えにならないようにしてください。

また、「いつかこうなりますように」というのも要注意です。「今はダメだけどいつかは良くなる」になると、永久にその状態を引き寄せることになってしまうかもしれない、即ちその都度「今はダメだけどいつかは良くなる」と思うことになってしまうかもしれないからです。客観的に見ればそれなりに良くなっている場合でさえ本人は相変わらず「今はダメ〜」と感じていたりすることもあるのです。

「こうなりたい」というそのことが「いつか」ではなくてまさに今ここでなされている、既になされたのだ、という感覚にならなくてはならないのです。感謝の波動が効果的なのはそれが「既になされたもの」に対して与えられる感情であり言葉だからです。「いつかこうなりたいです、ありがとう」とは普通言いませんよね。逆に言えば「いつかこうなりたい」と頭では思っても、いま既にそれを得ている感覚になれていれば大丈夫です。そういうときは自然に感謝の気持ちが湧いてくるはずです。

恐怖や不安から何かを望んでも結局引き寄せられてくるのはより一層の恐怖や不安だけだ、と先日書きましたが、たとえそのようなネガティブなところから始めたことであってもやっているうちに段々明るくハッピーな気分になってくればちゃんと良いほうに作用します。

最後にもう一つ大事なポイントは、いま目の前にある状況がどんなに気に入らないものであってもそれを変えようとはしないこと。テレビを思い浮かべてみましょう。いま貴方が見ている番組はどうにも辛いものであるとして、貴方はその番組の内容や映像を変えようとするでしょうか?これと同様、貴方の人生というスクリーンに既に映し出されている映像を変えることはできません。テレビならチャンネルを変えて好きな番組を見ればよいのですが、同じように自分の波動を変えることで新しい映像=経験を選ぶようにするわけです。

このようなことを考えると、引き寄せを実践してみるならやはり「あれをこうしたい」などというものよりももっとシンプルで一般的なもの・・たとえば「私はいつも本当に恵まれている、ありがとう」などのほうがやりやすいでしょうね。

こういうポジティブな言葉がどうしてもうまく意識に入ってこないという方もいらっしゃると思います。それを妨げているブロックを除去するワークやツールなども出ているようですが、真偽のほどと効果は千差万別です。要は「浄化」してやればよいので、これも以前にコラムで取り上げておりますのでご参考になさってください。

2年間にわたり掲載してまいりましたスピリチュアルコラムは今回をもって一旦終了させていただきます。長らくご愛読ありがとうございました。

来週からは新しいシリーズの連載を予定しておりますので、追ってお知らせいたします。

 
第156回「引き寄せX」

(承前)まず、前回の補足をいたします。特定の人(の気持ち)を引き寄せたい、というのが何故とりわけ難しいのか、その理由は他にもあります。

「引き寄せ」というのは良くも悪くも単純な「波動」「周波数」の原理であって、力技や魔法やまじないで何かを自分のもとに引き寄せるテクニックではない、ということを今一度良く理解してください。同じような周波数を持っているものどうしならイヤでも必然的に引き寄せあう、というそれだけの当たり前なことなのです。ですから、貴方が幸せなり豊かさなりを望むのであればまず自分自身がそのような波動の状態になることが必要だ、というわけでした。この部分は単に原理の応用であって、正確に言えばテクニックではないのです。

貴方に何かやりたいことがあってその「やりたい、やるんだ」という気持ちの波動になっていればそれと同じような周波数を持った人々が引き寄せられてくるでしょうし、誰かパートナーとこういう関係になりたいのだ、と願いそのような波動になっていればやはり同じような周波数を持った人が引き寄せられてくるでしょう。「同じ願望を抱いた人」という意味ではありません。願望の内容はどうでもよくて、いやどうでもよくはないかもしれないが、要するに問題になるのは周波数なのです。たとえば、家を売りたいのと買いたいのとでは願望の内容が違いますが、同じ波動であればお互いに引き寄せ合ってお互いが満足するような形での取引が成立するわけです。

さて、この『引き寄せ』はテクニックではなかったのでした。つまり、これは例えば人心を操作するためのものではなく、そのように作られたものでもないのです。(人心を操作したければ以前ご紹介した「内在論理」に徹底的に通暁していただくしかありません。)ですから、この「引き寄せ」によって誰か特定の人物の気持ちをこちらに向けさせようとか自分の思うとおりに動いてもらおう、などということ自体、初めからこの「引き寄せ」原理から完全に外れてしまっているのです。

また、先ほど述べたようにあくまでも同じ周波数を持ったものどうしが引き寄せあうのであれば、貴方が引き寄せたいその相手の人と貴方自身、同じ周波数でいなくてはなりません。相手の周波数を自分のそれに合わせさせることはまず不可能ですので、どうしてもというなら自分が相手の周波数に合わせなくてはなりません。これも大変難しいことですが、例の「内在論理」に通暁した人ならばおそらく無意識にでも、更に自分自身を変えることなく相手に波動を合わせることができます。ちょっと香水を変えてみるくらいのものなのでしょう。ただ、これは「引き寄せ」の原理ではありません。

話を元に戻します。もしも「願望の内容が同じものどうし」が引き寄せ合ってうまくいくなら、「こういうパートナーとこういう関係になりたい」という内容において同じである相手は結構沢山いるはずですので、誰もそれほど苦労はしなくて済むでしょう。が、さきほど家の売買の例でご説明したように、問題は内容云々ではないのです。極端なたとえですが「いじめられる」人は「いじめたい」人と引き寄せあうでしょう。いじめられる=被害といじめる=加害では全く周波数が合わないだろうと思われるでしょうが、自分が疎外されるか相手を疎外するか、潜在意識には自他の区別がないことを考えればこれは「疎外」という点で一致することによって引き寄せが起きてしまっていると言えます。

人間関係がうまく行かない人は往々にして同じように問題のある人々を引き寄せてしまいます。両者の性格も状況も考え方も全然違うかもしれないが、「人間関係における不調和」という点では同じ波動ですし、心の中まで覗いてみれば内容はそれぞれ異なっていてもやはり「不平・不満・怒り・愛のなさ」などという点では全く同じかもしれません。

そもそも貴方が誰かに惹かれたのなら、それだけでもう貴方がその相手を引き寄せたのだ(相手の気持ちを、ではありません!念のため)ということになります。ただ、これも正確に言うならば「相手を」引き寄せたというよりもその相手によってもたらされる状況・経験を引き寄せたのです。誰かに惹かれ、誰かを好きになったことで貴方が不満を抱いて苦しくなったとすれば、それは貴方の中の「不満・苦しみ」という波動がその相手を通してそのような経験を引き寄せたのだ、ということなのです。

このあたりは一般化して述べるのが難しい。自分が最悪の状態の時期に素晴らしいパートナーなどに出会って人生が変わった、という話も時々ありますよね。自分では「最悪」と感じていても波動は別だったりするからです。また、何かの状況が引き寄せられるのには多かれ少なかれタイムラグがあるからです。そして案外自分の波動というのは自分自身ではわからないからです。リーディングだとこのあたりのことはカードに出ます。

誰かとの関係がうまくいかなくて苦しい、誰かの気持ちが自分に向けられなくて悲しい、或いは入ってくるべき仕事やお金が入らなくて苦しい、辛いというとき、その苦しみや悲しみの原因は相手ではなくてそれらを最初に引き寄せた貴方の中にあるのですね。これらの苦しさから解放されたいならば「この人の気持ちを自分に」とか「どうしてもこの会社からの仕事が欲しい」などと相手を特定する必要など全くないのです。むしろそんなことをしないほうがずっと良いくらいです。なぜならば、貴方のマイナス波動が引き寄せたものがそれら「自分のことをあまり大切にしてくれない相手や会社」であり、もしも貴方が豊かな波動の状態にあればそんな相手も会社も初めから縁がなかったかもしれない、もっと別のものを引き寄せていたかもしれない、そういう可能性も大きいからです。貴方が考え方を変えて豊かで幸せな周波数を持つようになったとき、全く新しい別のものが来ることもあるし、今までどうしようもなかったものが突如貴方に好意的になることもあるのですが、このあたりは自分の中では特定しないほうが絶対に楽なことは確かです。

さて、前回おしまいのほうで「それでも特定のものを引き寄せたい場合にはどうするか」と書きましたが、それも実は「対象を特定しないことによって」しかなしえません。これについては次回もう少しご説明いたします。(この項続く)

 
第155回「引き寄せW」

(承前)貴方が経験することは自覚の有無にかかわらず全て貴方が「波動として」引き寄せたものである、というのがいわゆる「引き寄せ」の基本です。であるならばその応用として、自分自身が自覚を持った主体として「望むもの」を引き寄せることも出来るはずだし、望まないものは引き寄せないということも出来るはずだ、これが手を変え品を変えいろいろな名前で紹介され続けているのです。

とてもシンプルな方法であり別段難しいテクニックも知識も不要なのに、やっぱり言うは易く行うは難い・・何の不安も怖れも疑いもなしに、つまり「明るく豊かで満ち足りた波動の状態」を保ちつつ何かを望み続けるというのは私たちにとっては不慣れなことであり、それゆえにいっそう困難なものです。

さて、「ザ・シークレット」などをお読みになって気づいたかたもいらっしゃるかもしれませんが、「この家」「この車が欲しい」などというのは現に存在する特定のもの・・たとえばどこどこにあるこの物件、などといったようなものを願望の対象にしても良いようなのに、人間関係ではそういう記述がなされていません。とても尊敬している、しかし自分にはとても縁がなさそうな雲の上の人物に「会ってみたい」「一緒に仕事がしたい」などというものについては記載があり「強くイメージすれば叶う」とされています。また、パートナーが欲しい人の場合なら「私はこれこれこういう伴侶と出会いたい、一緒になりたい」とこれも強く望めば貴方のそのイメージにピッタリな相手がちゃんと現れるということも複数の書物に実例入りで記載があります。

しかし、「あの人とつきあいたい・結婚したい」とか「あの人の気持ちを自分に向けたい」など「誰か特定の人を自分に向けて引き寄せる」ことについては、少なくとも真正スピリチュアルの本には記載がないようなのです。ザ・シークレットなど「引き寄せには例外はない、どんなことにでも適用できる」としていながらこういう類のものについては一切触れていません。ものによっては「相手の自由意志を侵害するようなことはダメ」などとされている場合もありますが、「引き寄せの法則は万有引力の法則と同じで一切の例外はない」としていながら何故多くの人が関心を持っているであろうこのことについて触れていないのか?

私がつらつら考えるに、これは「してはいけないこと」だから例外になっているわけではなくて事実上ほぼ不可能だから敢えて言及していないのではないのでしょうか?何故「ほぼ不可能」なのか?このことはやはり以前のコラムで書いているのですが、今回はまたちょっと角度を変えておさらいしておくことにします。

まず、「あの人が好き、私のことも好きになって欲しい、おつきあいしたい」というまあいわゆる「恋愛感情」というものにはたいてい不安や恐怖が付き物ですね。ちょっと連絡がなかったり冷たくされたように感じただけでワーッと不安になったり、ああだこうだと心配事が頭をよぎったりと、そういう「心配・不安・恐怖」の波動ともうしょっちゅう同調してしまうわけです。とすれば「引き寄せ」の原理からして当然それら「不安・恐怖」の波動に相応する経験が引き寄せられてきてしまうわけであってもともとの願望など叶う余地がないのです。また、対象が家だ車だ、という無生物であればまだ良いのですが、相手が生身の人間であれば当然先方からの言動というのもあるわけで、こちらが相当な自信を持っていない限りそれらにその都度振り回されがちになる場合も多いでしょう。一人でいるときに心を落ち着けて「あの人と仲良くなれる・結婚するのだ」という気持ちが確信にまで高まり安心できたとしても、いざ相手を目の前にして話をしたりしているうちにそんな確信は一気に揺らいでしまうかもしれません。一旦望んでその波動と同調したらあとは何もしなくて良い、というのもまさか本当に「何もしないで」いるという意味とは限らず、実際には連絡を取ったり会ったりするわけですが、いくら「強く望んでその波動と同調した」つもりでも、この「行動する」段になって「いったい何をどうしてよいのかわからない」状態になってしまう人も少なくありません。つまり、よほどのところまで行っていないと「貴方の望みが実現するために必要な行動」を取ることができない・・特に意識せず何となく自然にやったことが全て「引き寄せ」につながった、というふうにはなれないのです。

もう一つ、こういう類のことが「ほぼ不可能」な理由として挙げられるのは、それらの願望が「あなたが貴方自身をどう見るか」という自己価値の問題とかかわるものだからです。この人に好かれなかったら私はもうダメだ、みたいになってしまうケースも恋愛では多いのですが、自覚はなくても深層にそういう発想が出てくること自体が当人の自己評価・自己価値が低いことを表しているので、引き寄せの結果も当然「自己評価・価値の低さ」と同調するようなものになってしまいます。

簡単に言うと「ないと困るから欲しい」「ないから、欲しい」という発想で望むものはなかなか手に入りにくいのです。根底に「ない」というのがあるためですね。

これは、「特定の人に対する引き寄せ」だけでなく「仕事・お金」についてもあてはまることが多くあります。

それでも、特定の誰かを引き寄せたい!と思う方もいらっしゃるでしょうね。方法がないわけではありません。以下、次回です。(この項続く)

 
第154回「引き寄せV」

(承前)前回、「神様のメッセージ」などという、やや誤解を招くような表現を用いてしまったので今回はまずそのあたりの追加説明をしておきます。

神、というのをどのように定義するかによって違ってくるのですが一般的概念として「もっとも普遍的で本質的なもの」「全ての存在の源」「時間も空間も全てを超越した存在」「無限の存在」としておきましょう。要するに「全てがある」ところであり、全てがそこから生じるところです。そういうところから「メッセージが来る」と捉えても一向に構わないのですが、私はどちらかというと逆で「波動・波長を合わせることによってこちらが必要なものにアクセスする」と捉えたほうが間違いないのでは、と感じます。神様なり何なりが「ちょっと貴方、こうしなさいよ」とおっしゃってくれているのだ、と考えるほうが感謝もしやすくわかりやすいというならばそれで構いません。

要するに「引き寄せ」というのは自分がどういう波動でいるか、どういうところと波長を合わせているか、というこれに尽きるのです。たとえば貴方が暗いニュースや他人の悪口ばかり流している番組を見ているなら、それは貴方がテレビやラジオのチャンネルをそれに合わせているからですよね。その周波数からなる世界にいる、と考えてください。こんなのイヤだわ、とチャンネルを切り替える=周波数を切り替えればその瞬間に眼前の世界も変わります。と、これがなかなか難しいのですよね。たとえて言えば、手動でラジオの選局をしているような感じだと思います。

さて、引き寄せをする際に「ヴィジュアリゼーション」を用いると効果的だ、とよく言われます。だいたい物質的なものを求める場合でしょうが、欲しいものやそれを手にしている自分の姿をありありと思い浮かべろ、というものです。それは家でも車でも好みの数字が入った銀行の通帳でも良いし、理想的な体型になった自分の姿でも良いし、表彰台に立っている或いは教会のヴァージンロードを歩いている自分の姿でも良いのですが、とにかくなるべく具体的に鮮明に視覚化すればするほどよい、と言っているものもあります。

が、視覚化は絶対必要条件ではないのではないか、と私は考えています。やはり感情や心の状態のほうが重要です。視覚化というのはむしろそれをすることによって「絶対に実現する、既にしている」という感覚、確信から来る安心感を得やすくするためのものだと思うのです。ですから、うまく視覚化できないからダメだ、などと考えて落胆する必要はありません。

もう一つ、これもよく言われることですが何かを引き寄せたい・得たいと望んだら後のことは考えるな、というのもあります。だとすると痩せたいと望んでいながら太るものばかり大量に食べていたらどうなるのか、などという突っ込みも聴こえてきそうです。

貴方が引き寄せたいもの・得たいものは「どこからどのようにして」もたらされるか、それは今の貴方にはわからないのです。きっとこうなってこうなるんだわ、などと期待してしまうのは良くない、というより危険でさえあります。恋人が欲しいなと望んでいるのに意中の人を誘ったら断られた、などというとき、たいていの人は「やっぱりダメだ、引き寄せなんて効かないわ」と思ってしまいます。ここがポイントなのです。貴方の望むものは貴方が考える形でもたらされるとは限らない、というかそうではない場合のほうが多いのです。予想もしなかった形で何かが手に入るとき、それはしばしば「奇跡」と呼ばれます。自分自身で勝手なシナリオを作り、その通りに事が運ばないと「ダメだ」と思って「ダメ=私の望みはやっぱり叶わない」という波動を取り込んでしまえばそこで挫折したことになります。つまり、せっかく望んでもそれが引き寄せられてくる前に別の波動を取り入れてしまうことになるのです。

先ほどの例で言えば、やせたいと本気で願いそれを自分が受け容れてそのような波動になった場合、何もしないのに一晩で5キロ痩せるというようなことは普通起こりません。その代わり、何か普段とは違うことをしたくなったりするケースがよくあります。それも一見自分の目的とは何の関係もなさそうなことだったりするのです。急に片づけをしたくなったとか、普段は読まない雑誌を買ってみたとか、そういう小さなことが思ってもみない形で貴方の望むものをもたらす道筋を作るのです。

ある人は、恋人が欲しくて出会いパーティに行ったところ素敵な男性に出会ったのですが、実はそれがとんでもないひどい人物だったことが間もなく発覚し、傷つき落ち込んでいました。その直後、友人に誘われて半ば自棄気味に、全く期待しないで飲み会に行ってみたら何とそこでありえないくらい自分にピッタリの男性に出会いました。また、ある人は生まれつき頚椎がずれていたのですが、交通事故に遭ってムチウチになったら頚椎のズレが治ってまっすぐになりました。こういうことは計画してできることでもないし、普通は予想すらできません。

そういうこともあるのです。リーディングでも「これは気をつけてください」ということだったらちゃんと覚えていて欲しいのですが、逆に意識しすぎて自分のシナリオにこだわるのがマイナス作用になりそうなときには「これこれこうなると出ていますが、このことは忘れてしまって結構です、むしろ忘れていたほうが良いくらいです」と申し上げることもあるほどです。

要するに、「本当に願ったら後は何もしなくてよい、何も考えるな」というのはあくまでも「そういう波動になりきっている」ことが前提条件になっているのです。その波動になってしまえばイヤでもそれにふさわしいものがどのような形であれもたらされる、もたらされないわけにはいかない。そういうことなのです。

 
第153回「引き寄せU」

(承前)一般的に「波動が良い・悪い」という言い方をされますが、これは要するに貴方にとって好ましいことを引き寄せるのがいわゆる「良い=プラスの波動」であり、逆に好ましくないことを引き寄せるのが「悪い=マイナスの波動」だ、と言ってしまってもよいと思います。

事物だけではなく心の中のあれこれも「波動」だと捉えてみてください。感情はもともと「思い・考え」から生じるものであり、事実に対して貴方が何らかの判断を下して更にそれが自分にとってどういうことか、という判断まで下すことによって初めてそれに付随する感情が生じるのです。

たとえば、誰かから連絡が来ないとか仕事が入らない、或いは健康状態がなかなか好転しないなどという状況が出てきた時に「焦る」人は多いと思いますが、この「焦り」という感情は貴方が「必要なものが得られていなくて困っている」という判断を下したからこそ生じるものですね。つまり「焦り」の波動はそういう形をしているわけです。何故「焦ってはダメ」なのかと言えば、焦ることによって「必要なものが得られなくて困る」という状況或いは経験をますます引き寄せてしまうからです。焦った気持ちのまま動けば動くほどどんどんおかしな方向に進んでしまうようなことは珍しくありません。逆に、「何とかしなくては」と思ってあれこれ動いているうちにその「動き」に集中して焦る気持ちなど全く忘れてしまっていれば、それこそ「忘れた頃に」うまくいく、という事態が起こったりします。

また、「願望の現実化」でも書いたことですが、「こうなりたい」という願望を抱きながら「そうならなかったらどうしよう、ああなったらどうしよう」という不安も同時に抱き尚且つその不安のほうが貴方にとってリアルに感じられるものである場合には、その「リアルな不安」のほうが波動としては断然支配的になります。従ってその「リアルな波動」と同種のものが引き寄せられてくるわけです。「こうなりたい」と願い、考えてそれが引き寄せられてくるためには「そうなった」ときの波動が既にあなたの中になくてはならないのです。

何か良いことがあれば大抵の人は「嬉しい」「ほっとする」「感謝する」などの気持ちを抱きますね。これらもまた波動なのです。スピリチュアルに限らずいろいろな考え方に基づいたメソッドでも殆ど全て「感謝の気持ちを持つことが大切だ」と説いていますが、これは倫理的・道徳的のみならず実際的な意味においても重要なのですね。感謝の気持ちを常に抱いていればそれと同じ波動を持つこと、つまり「感謝したくなるようなこと」が引き寄せられてくるからです。もっとも、感謝の合間に同じくらい「不安」「怒り」「罪悪感」「欠乏感」などなどいわゆる「マイナスの波動」を持つ思いや感情を抱いてしまっていればその分だけ「感謝の波動」の作用も小さくなるでしょう。逆に、しょっちゅうマイナスの波動を生じさせてしまっていてもその合間にできるだけ多く「感謝」の気持ちを持つようにすればそれらマイナスの波動による影響もあまり受けなくて済むのです。

また、この「感謝の波動」には大変な浄化力があることもポイントなのだと思います。お祈りの中にも必ず感謝の言葉が入っていますよね。というか祈りそのものが基本的に浄化作用を持つのです。本来の祈りとは何かを「お願いする」ためのものではなく、ただ感謝することによって自分の中の邪悪なもの、マイナスのものを一掃する役目があるように感じます。神さまでも何でも祈りの対象が全知全能であるならば何も貴方がいちいちお祈りなんかしなくても貴方の考えていることや願っていることは先刻ご承知なはずであって、つまりお祈りは「神様に聴いて貰うためのもの」であるはずがないのです。むしろ、貴方がいわゆる「神様からのメッセージ」を聞くことのできる状態になるためのものだ、と思って間違いないのではないか。

ここがまた重要なポイントです。多くの人が「神様からのメッセージ」というとチャネリングなどを通して実際に「聞こえる」ものだ、或いはそうでなくてはならないものだ、と考えてしまいがちですが、そうではありません。特別な声でもヴィジョンでもなく、もしかするとたまたま電車の中で近くにいた赤の他人のお喋りの中に貴方にとって必要な言葉が含まれているかもしれません。それどころか「受け取った」ことさえ貴方自身は気づかずにそのメッセージに従って自然に動けてしまっている、そういうときがあるのです。ごく普通にしていたつもりなのに素晴らしい展開になってしまった、なんて話も良く耳にするのではないでしょうか?

なお、先に書いた「その辺の人の何気ないおしゃべり」「たまたま見かけた新聞記事」などというのは基本的にはそのときの貴方の波動によって「引き寄せられてきた」ものであり、貴方の波動が浄化されていればそれに応じたものが目や耳に入ります。浄化され神的な波動に同調できるようになっていればそれは一種「天や神様からのメッセージ」なのですが、たとえば病気が心配だなあと思っていてその病気に関する話題ばかりが目や耳に入ってくるのであればこれも単純な「引き寄せ」です。それ以上の意味はないことが多いので「メッセージ」などと考えて過剰に反応しないこと。

要するに、こういう次第なのです。貴方の周囲には貴方の助けになるようなヒントが沢山転がっているのに、貴方の波動がマイナスのままだとそれらに同調できない=耳にも目にも入らない、わざわざ個人的に話をしてもらっても「へえ」だけで終わってしまう一方で、貴方に「受け取る用意」ができていれば特別なことをしなくても必要なものがどんどん入ってくるし「たまたま思いついた」ような形で必要な行動を取ることができる。

この「受け取る用意」とは例の「オープンであること」と同じです。(この項続く)

   
第152回「引き寄せ」

昨今大人気のザ・シークレットを始め、かなり昔から「引き寄せの法則」というものはいろいろな名前で世の中に紹介されていました。このコラムでもかなり初期の頃に「願望の現実化」というタイトルのシリーズで取り上げたことがあります。引き寄せの法則は、単なるハウツーやスピリチュアルなどというカテゴリーを超えておそらく本当に大昔からそれなりの真理・原理・原則としてつまり普遍的なものとして扱われてきたのだと思います。ただ、いわゆる科学的な法則とは違って実験や数式によって証明できるものではないので(せいぜい統計を取るくらいでしょう)どちらかというと「不思議系」的な扱われ方をされてきたのかもしれません。

簡単に言えば「思ったことが現実化してしまう」という法則なのですが、こうなりたい・こうしたいとただ思っていればそれが実現するというわけではありません。これについては以前から何度も書いてきましたが、当人がどう認識しているかにかかわらずその人が「こうである」と考えている現実、或いは世界がその人の前に現れるのであり、「こうである」と考えている現実や世界をその人が経験することになるのです。

このあたりは当コラムでも他の書籍でも詳しく説明されているのでいまはざっと復習するだけにとどめておきますが、たとえば「私は太っている」と思いながら「やせたい」と願っても「太っている」と信じている部分のほうがより現実化してしまったり、「さびしい」と思いながら恋人の出現を望んだら「さびしい」という部分を再認識するような経験に見舞われたりするわけです。

以前はこういうことを「意識の根底にあるもの」が現実化する、みたいな書き方をしたのですが、今回はちょっとアプローチを変えてみましょう。

さて、このコラムでもしばしば用いていますが「波動」という言葉がありますね。これは乱暴に言えば「全てのものがそれぞれに持っているエネルギーの質」みたいなもので、人間にも場所にも物質にも非物質にも全てのものにこの「波動」があります。パワーストーンなどを選ぶときに「これは波動が良い」「波動が強い」などと言ったりしますよね。この場合は石という物質ですが、別にパワーストーンや宝石に限らずその辺の石ころにもそれぞれ波動があるのです。また、「高い波動の水」などというものもあるようです。

人間なら人間に固有の波動というのがまずあり、動物ならその種類によってそれぞれ固有の波動がありますが、またその中で個人差・個体差というものがかなり生じるのです。

これらは「物質」(動物や人間を身体から見たと考えれば)の話ですが、当然非物質にも波動があります。その中でも特に注目していただきたいのが「感情」や「考え」の波動です。さまざまな感情や考えをその意味内容ではなく「波動」として捉えてみると実にいろいろなことがわかってきます。

たとえば、頭では「お金持ちになりたい」と思っているつもりでも、その人の波動が「欠乏」的なものであればその「欠乏」という波動と一致する経験がもたらされます。これが要するに「引き寄せの法則」なのです。頭では「豊かさ」を願っているつもりでもその「豊かさ」という波動が出ていなければそれに相当するものは引き寄せられてきません。言い方を変えれば、その人の波動が外側に投影されて現実の経験になるわけです。

幸せになりたいと思っているつもりでも、そう思っている本人の波動が悲しみや惨めさのそれであれば、当然幸せにはならず「悲しく惨め」であるようなものが引き寄せられるのだし、不安でいっぱいのまま成功を願っても引き寄せられてくるのは「不安」な波動と一致する経験になってしまいます。

この類の書籍の中でもかなり古くからあるのが例の「マーフィーの法則」です。これも結局は全く同じ事を言っているだけなのですが、マーフィーの特徴は「キリスト教」の祈りがベースになっていることです。ゆえに、キリスト教になじみがない人々やいわゆるヤーウェの神に対する信仰を持たない人々にとっては今ひとつピンと来なかったりやりにくかったりするのだと思います。なぜここに祈りが出てくるのか、出てこなくてはならないのか?おそらく、これは「浄化」という目的のためだと私は睨んでいます。もちろん、引き寄せの法則を使うことにおいて祈りという形式は別に必要なものではありません。ただ、上述したように大抵の人は「よくない波動」の考えや感情に毒されてしまっているのでそのまま何かを願ったところで「有毒な波動」を引き寄せてしまうだけで、願望の実現などとてもおぼつかない、だったらまずそれらの有毒な波動を浄化してしまおう、そんなところなのだと思います。

この「祈り」の形にうまく入れれば「敬虔さ」という波動、および「神を信頼して全てをゆだねる」という「エゴの放下」「オープンになって受け容れる」という波動、またこれらの祈りの中には必ず感謝の言葉が含まれているのでその「感謝の波動」などが自分の中に入ってくることになります。これらはネガティブな波動とは共存できないものなので、当然ネガティブな波動は一掃され、同時に貴方の願望の現実化を阻むものも一掃されます。そうすることで貴方の願望が叶いやすくなるという仕組みなのです。

そのように考えてみれば別にこれらの「意識の浄化」作業をするための祈りの対象がヤーウェの神である必然性もないのであって、アラーでも天照大神でもご先祖さまでも、それこそいわしの頭でも何でも応用できてしまいます。

昔「願掛け」についてのコラムでも書きましたが、神社で願掛けをする際にもこの原理が働いているのです。

 
第151回「分かる?! オマケ編」

人間関係の問題をご相談に見える方は非常に多いのですが、ごく乱暴に分類すれば「相手とうまくやっていく」のが目的であるものと「相手から受ける被害を最小限にしたい」ことが目的であるものとに大別できます。

「相手が自分をどう思っているのか知りたい、相手の気持ちが知りたい」というご質問であっても、相談者がその相手を好きである場合と嫌い或いは苦手である場合とに分けられるのです。もちろん、「貴方のことをこう思っています」だけでは何の解決にもなりませんから、「この人はこういう考え方・捉え方をする人で」「相手には貴方がこのように見えていて」「従ってこういう反応をしているのです」などというふうに、できるだけ詳しくわかりやすくご説明するように努めています。何故なら、問題になっている相手の内在論理を明らかにすることによって相談者が自分自身の思い込みという枠から離れたところで相手を理解できるようになれば、相手との接し方もわかってくるはずだからです。

さて、その「接し方」という部分についてなのですが、せっかく相手の内在論理をある程度つかんだとしてもそこからの考え方・動き方がまずかったら何もなりません。あなたの洞察力がどれほどすぐれていても、それを日常的な人間関係のために役立てることはまた別の話なのです。(もっとも、相手の内在論理がわかるくらいの洞察力がある方だったらたいていはそこから先もうまくやっていけるようになっているみたいです)

ここで重要なポイントが2つあります。まずは柔軟性を持つこと。貴方が相手に合わせて自分を変える必要はありません。ただ、相手(の内在論理)を受け容れるだけの柔軟性はどうしても不可欠です。それがたとえ貴方にとって気に入らないもの、好きではないものであっても、です。そこで2つめのポイントなのですが、ジャッジしないこと。これです。わかりやすく言えば、相手の内在論理に対して多少の好き嫌いはあっても「正しい・間違っている」という判断をしてはいけない、ということになります。更に基本的なことですが、たとえ相手が貴方の思い通りに振舞っていなくてもそのことで相手を批判・非難しないというのも非常に大切です。

たとえば、相手は相手なりに貴方に対して思いやりを持ってくれているのに、それが貴方の望む形とは違う場合など相手に感謝するどころか「ひどい人だ」と怒りや悲しみや非難という感情に襲われてしまうこともありますね。これはやはり相手の内在論理・・考え方・行動の仕方がわかっていないからそうなるのですが、逆に言えば自分自身があまりにも感情的になっている、つまりエゴに支配されてしまっているために相手の内在論理など全く見えなくなっているということでもあります。

この2つのポイントを押さえておけば少なくともそれほど大変な目には遭わないで済むはずです。

自分の気持ちや事情を相手にわかってもらうためには、その人にとって「わかりやすいように」「通じやすいように」表現するのが大切だ、というのはごくごく当たり前の話ですね。しかし、多くの人がそこを勘違いして「わかってもらうためにはできるだけ詳しく丁寧に説明しなくては」と思ってしまうのです。それもたいてい「自分自身の内在論理」に照らして重要だと思われるようなことを一生懸命訴えてしまいます。そしてまあ大体は撃沈というか大失敗してますます相手との溝が大きくなる、という結果が待っています。昨今、「自分の言葉で」話すのが大切だ!というのが流行しているのも勘違いに拍車をかけているのか、相手の内在論理などハナから無視して「自分の内在論理に従って」話すのが素晴らしいことだ、と思っている人もいそうです。「自分の言葉で」というのは要するにたどたどしい話し方でも誠意を持って接する、くらいのことだと思うのですが・・・。

とにかく、「こうすれば相手に通じやすくなる」というものがあるのだ、という内在論理自体の存在を知らなくて失敗しているのなら仕方ありませんが、それがわかっているのに「できない、したくない」という人もいるのです。自分が普段慣れているやり方を変えなくてはならない、というところに抵抗があるのだと思います。それを「相手に対する敗北」のように捉えてしまう方もいれば、「自分のやり方を変える=自分らしくない、自分にウソをついている=誠意がない」というふうに感じてしまう方もいます。前者の場合はまあ論外ですが、後者については次のように考えられます。

貴方は「相手に合わせて自分を変える」のではありません。ただ「相手の内在論理を受け容れる」だけの柔軟性を持てばよいのです。相手とうまくやっていきたいのなら、相手に対する誠意と思いやりを持つはずですね。変えなくてはならないとしてもせいぜい「表現の仕方」「レトリック」の部分だけです。それが自分にとってなじみのないやり方であっても、それをするのは相手に対する思いやりなのです。また、相手からの被害を最小限にしたい、という場合であれば「自分自身に対する思いやり」として自分のために上記のような柔軟性を持ってください。

 
   
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