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第250回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 182・183

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 182

第21章 その7

あなたが本気で幸せを求めているなら前回の4つの質問にも自信を持って答えられるはずなのだが、幸せを求めているつもりで別なものを求めてしまっている人も少なくないのだ。というより、自分が一体何を求めているかわかっていない人は少なくないと言っても良い。

幸せとはマインドの状態である。ゆえに、幸せを求めるならマインドをその状態にすれば良いだけの話なのだが、恐ろしい世界に取り巻かれていると思っていたのではなかなかそんな安穏で平和な状態にはなりにくいだろう。だからこそ、前回の4つの質問なのである。

そして、すぐに或いはいずれ失われてしまうようなものは「幸せ」とは呼べない。うつろいやすい月などに誓ってはいけません、ではないが「うつろいやすいもの」だと初めからわかっていて求める人はいないだろう。私たちは「ずっと幸せでいたい」と言いつつも「そんなものは続かない」と思っているのではないか。だが「コース」は恒常性のないものは幸せと呼べない、とハッキリ言っている。しかるに、この世のものは全て恒常的ではない、つまり変化しないものなど何一つない。とすればやはりこの世に幸せはない。この世は無常なのである。

そういうことなのだ。本当にずっと幸せでいたいのならこの世に在ってこの世にない在り方をしていなくてはならない。きょうも明日も明後日もずっと幸せ、というのは可能であり不可能でもある。なぜなら幸せとは常に「今ここ」にしかないものだからである。そして常に「今ここ」に生きている人は、常に「今ここ」において幸せなのであって、それをこの世の時間枠に無理やりあてはめてみれば「いつも幸せ」というふうに見えるのだ。恒常性とはそういうことであって、時間的な連続性を意味しているわけではないのである。

言い方を変えてみよう。ああ幸せだ、とマインドが喜びに満ちている瞬間は本物だ。幸せをもたらした(ように見える)理由がどうあれ、とにかくその感覚だけは本物だ。そのとき私たちはこの世でないところに在る。しかし、私たちはそのことに気付かず、自分以外の何かがその幸せをもたらしてくれたと思い込んでしまう。そして「ありもしない」ところに、つまり自分のマインド以外のところに幸せを求めては挫折するのである。

本当の喜びに満たされているとき、私たちはヴィジョンを通して見ているのであり、ヴィジョンとは恒常的なものを認識する機能である。私たちは良くも悪くも求めるものを与えられるのであるから、「真実だけを見たい」と本気で望むときにヴィジョンが与えられるのだとわかる。

人は自分が考えたとおりに知覚認識する。もっと言えば考えたとおりの現実を経験するのである。私たちは通常「生まれて成長して病んだり老いたりして死ぬ」ものだと思っているからそのとおりになるのである。この「考え」は変化や死を、つまり無常を受け入れるものである。幸せとは恒常的なものなのだから、無常を受け入れつつ幸せを求めることは不可能だ、ということになってしまう。少なくとも、無常なものを「ほんとうの現実」であり「実在するものだ」と思っていれば確かにこれは不可能だ。が、変わりゆくもの、無常なものはその無常であるということにおいて実在ではないのだった。そういうものを現実だと思って求めていれば幸せでいられないのは当たり前なのに、それでは幸せを求めていることにはならないのに、そのことに気づかず自分は幸せを求めているつもりでいる。

真実だけを本気で見たいと望む、そう決心すれば(あるいは覚悟を決めれば!)あなたは常に幸せでいられるようになる。もしもあなたが幸せでないのなら、あなたは幸せを求めなかったのだ。求めていたつもりでも実際にはそうじゃなかったのだ。4つめの質問に本気でイエスと答えていれば、いつどこで何があっても何を見聞きしてもマインドは揺るぎなく幸せなはずなのだ。ここは各人において一度じっくり考えてみてほしい。

例によって繰り返しになるが、マインドが本気で信じていることは現実化する。目の前の現実が気に食わないものならば、あなたは「気に食わないことが世の中にはあるものだ」と本気で信じているのだ。個々の現象はどうでもよい。同じ場所で同じ現象にあっても各人の経験は全く違ったものになりうるからだ。そこであなたが何を知覚経験したかだけを見てみてほしい。大切なものを奪われるとか思い通りにならないとか、おそらくそんなことだろうと思うが、とにかくあなたは「そういうことが可能である」と信じているのだ。でなければそんなことは起こらない、というか経験されないからである。

幸せを求めるとは「恒常的なものを求める」ことに他ならないのだから、結果として「恒常的なものだけを経験する」ことになり、ゆえに「いつも幸せ」であるわけだ。

さて、私たちが本当に求めるものは全て既に与えられてしまっている。あとはそのことに気づけばよいだけなのだが、なぜこうも気付けないのかというとそれは私たちが「何を求めているのかよくわかっていない」せいである。よくわかっていないうちは「本気で求めていない」ということになってしまうのだ。だから「馴染のある不幸」みたいなものばかり経験する羽目になる。何かを「現実だ、ありうることだ」と信じればそれを求めたのと同じなのである。これがなかなか理解されないところなのだ。スピリチュアルの本に書いてあるとおり、何かを一生懸命ビジュアライズして求めても「何を現実だと信じるか」という根幹の部分が変わらないままだとちぐはぐな結果になってしまう。

神の御心は完全かつ確実なものである。私たちが何をしようとしまいとそれは変わらない。だったら何をしてたっていいじゃない、そう思うかもしれないが、それでは救いも解放もありえない。「コース」を学ぶ以上私たちの目的は救いであり解放であるのだから、それを放棄してしまったのでは「コース」学習そのものが成り立たなくなる。

本当は至る所で絶えず奇跡がもたらされていても、それを知覚認識しない限り何も起きていないのと同じことになる。私たちはもともと聖なる存在なのだが、それを知覚認識しない限り聖性がないのと同じことになる。聖なる瞬間にはエゴがいないので理性が正しく働ける。つまり、聖なる瞬間とは理性の目覚めによってそれらの事実に気付くことのできるときなのだ。

第22章 その1

「コース」の定義によれば、幸せや平和は普遍的なものなので、本当の意味での幸せや平和を感じるときそこに自他の区別は消え「神とひとつであるところの本来の自己」だけが存在するようになる。一方、罪は個別的なものだ。誰もが同じように罪深いとか「これは人間全体の罪だ」などという人もいるが、そもそも罪が「神から離れてバラバラの個体」になった(と思い込んだ)ことから生じた事実を考えれば罪と個別性とは切っても切り離せない関係にあるとわかる。

更に、罪とは「罪のない無垢な状態」との比較・対照においてしか存在しえない。これも本質的な幸せや平和が「絶対普遍」という、他との比較を一切受け付けない状態なのと対照的である。あらゆる人が同じように罪深い、もしもそういう状態だったら誰もわざわざ自分が罪深いとは思わないはずではないか。しかし、実際には誰もが(自覚はなくても)罪悪感を抱えているのだから、「罪のない状態」というものがあるのだと心のどこかではみんな気づいているはずなのである。

癒しは個を超えた絶対普遍なものなので、どんな罪を抱えた人でも癒されるときは同じように癒される。もっとも、一見バラバラな罪であってもおおもとは「神から離れてバラバラになった」というたったひとつの原罪にだけしかないのだが。

求めたものを知覚経験するのであれば、罪深さや恐怖を経験する人は罪を求めていることになる。なぜ罪が必要なのか?「疎外された孤独な人が罪を必要とする」のだ、と「コース」は言っているが、要するに個別性を失いたくない人、言い換えれば分離状態を維持したい人にとって罪は必要なのである。なぜなら罪がなければ個別も分離も何もなくなってしまうからだ。

たとえば「特別な関係」を求める人は同時に罪をも必要としているはずである。何故なら、特別な相手とは自分の罪悪感を投影するための存在に他ならず、投影すべき罪悪感を保持するためには罪が必要になり、また相手は自分より罪深くなくてはならないからだ。だいたい、自分が救われるために相手を搾取して利用し、用済みになったら他を探すなんて普通に考えてもかなりひどいことではないか。

これに対して、聖なる関係においては罪悪感ではなく自分の中の聖性が投影される(「コース」は拡大という語を使っている)ので、どんな相手も丸ごと完全な存在として知覚認識される。相手と自分との間に差異というものはない。なぜならそこには身体がないからである。聖なる関係とは身体を超越したものなのだった。ここで今一度「身体と罪」の結びつきを思い出してほしい。罪がなければ身体もない、そういうことになる。

自他の間に差異がなければ、自分にないものを相手からもらおうなどということも不可能になる。私たちは自分にもありまた相手にもあるものを与えあい、互いにより多くを受け取るのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 183

第22章 その2

聖なる瞬間、あるいは聖なる関係を経験すると「全ては一つである」「一つであるような全てだけが存在する」という事実に気付くことができる。気づけば気づくほどこの感覚は拡大していく。実は幻想だったところの差異などというものはどんどん消え去ってゆく。

さて、理性が正しく働けばたいていのことはわかってしまうようになっている。それができないのはエゴのせい、といってあまりに漠然と聞こえるならば心情や感情にとらわれているからだ。その理性によってもう一度考えてみよう。

私たちは全て神のひとり子であり、神に愛される存在である。これがまず大前提だ。そのうえでもしも私たちが誰かを(たとえ心の中でこっそりと、であっても)攻撃していれば、私たちの意志は神の御心と違うことになる。ところで、私たちは神の御心(から派生したもの)なのだった。ならば、誰かを攻撃している私たちは神の御心ではない、つまり「自分自身ではない」状態になっている。これぞ究極の自己否定というか自己疎外である。私たちがしょっちゅう陥っている自己否定の源泉はこういうところにあったのだ。この部分が何とかならない限り、どこに行こうが誰と一緒にいようがあなたは満たされることがない。常に疎外感や自分の存在の無意味さ、漠然とした不安感や心もとなさがつきまとうことになる。深い部分で「自分は自分じゃない」と信じているのだから、それが外界に投影され知覚認識されてしまうのは当然の帰結だ。

更に考えてみて下さい。あなたは「この自分」が実は本当の自分じゃないとどこかで気づいている。その「本当じゃない自分」の知覚器官を通して認識経験するあれこれとはいったいあなたにとって何なのだ!目も耳も口も手足も本当の私のものじゃない、そんなものによって知覚認識する世界とはいったい何ものだろうか。ぎゃあ、私ったら今まで何をやってたのかしら!?衝撃のあまり腰が抜けて「アハハハ〜」と爆笑するか、力なく笑うかしかないような事実ではないか!!!

スピリチュアル系の人々は誰も言わないことだが、理性による論理的帰結こそ腰を抜かすほどの驚きを伴う気づきなのである、私はそう断言できる。スピリチュアルふうに表現したいのなら聖霊のメッセージだと言っても良い。どちらも同じことだからだ。しかし、聖霊なんてものをわざわざ持ち出す必要なんて本当はこれっぽっちもないのである。

とにかく、本当の自分じゃないものが知覚認識経験したことなんて無意味に決まっているではないか。驚くべし、脳もまた同じ穴のムジナなのである。何故なら脳は身体だからでありしかも個体差があるからだ。たとえばヴィジョンによる認識を脳は理解できない。脳は身体のあちこちに自らが判断解釈した情報を送るだけである。全ては「実在しない」身体の中の出来事であって、本来の自分とは無関係なのだ。マインドが身体によって幻想を現実化する、とはこういうことでもあるのだ。

本来の私たちは脳の伝える情報などとは「無関係」なので、そんなものを理解できるはずもない。それがわかっていないから、私たちはずっと必死で脳が伝えてくることに虚しく耳を傾けてきたのである。真実でないものは理解を拒絶する。私たちが正しい意味で理解できるのは「ほんとうのこと」だけである。脳が伝える情報、つまり身体の知覚器官が伝える情報は本来の自分にとって「無意味」であり、理解不能なものでしかない。これもかなり衝撃的なことである。が、理性によって普通に考えればどうしてもそうなってしまう論理的帰結なのでもある。しかも、これまた論理的帰結により理性は脳に宿るものではない。

というわけでもう一度整理してみよう。私たちは神から離れて「自分以外の何か」になってしまった(と思い込んだ)。その「何か別のもの」が見ている世界を絶対的な現実だと重いこみ、「何か別のもの」が行う解釈を本当のことだと思い込んで受け入れてきた。まるで誰かが作った映画を「これが自分自身の人生だ」と思い込みながら見ているようなものである。本人は「見ている」なんて思っていない。本当にその中の登場人物になり切ってそれが現実だと思い込んでしまっている。どうしてこんなことが起きるの?どうしてこうなるの?などと理解できないことばかり起きるのが人生だ、とたいていの人は思っているだろうが、理解できないのはそれが真実ではなく幻想だからなのである。なぜなら本当の理解とは理性の機能であり、理性には「ほんとうのこと」しか理解できないからだ。幻想とは、言い換えれば脳があなたに見せ、語り聞かせている「めちゃくちゃな」映画みたいなものだ。

神には秘密がない。真理は隠されていない。何もかもこれ以上ないくらい明らかなのである。理性が正しく働けばそのことがわかる。ちょっと考えれば、それどころか見ただけでわかるくらい明らかなことばかりなのだ。秘密を持っているのは、隠しているのはあなた自身を措いてない。罪を隠しているつもりで実は真理から目を背けているだけなのだ。だいたい、誰に対して隠しているつもりなのだろう?全知全能の神に隠し事などできるものだろうか?自分が見たくないものを自分に対して隠しているだけなのではないだろうか?

隠していれば罪悪感が生じ、同時に懲罰の恐怖が生じるのは当たり前である。そしてたいていの人がこの恐怖に目をくらまされてその奥にあるものが見えなくなっている。恐怖はその都度いろいろな形を取ってあらわれるので、際限なく目をくらまされていられるのである。罪と思い込まれているものはただの間違いなのだが、間違いは私たちがそれを見つけない限り正すこともできないのだった。

恐怖とは、神からの分離に伴って私たちが作り出した感情である。神に恐怖はないからだ。恐怖は愛の反対物であり、各人がこっそり隠し持つことのできる感情であり、個体=身体にまつわる感情でもある。愛が普遍なら恐怖は個=分離なのだ。しかし、私たちは自分がそう決心すれば一瞬くらいは完全に恐怖を手放すことができる。たとえばマインドを感謝で満たせばその間だけは恐怖が消える。聖なる瞬間を招き入れればヴィジョンが与えられる。

ヴィジョンだけがありのままを知覚認識させてくれるのだ。そこにはいかなる解釈も判断も入る余地がない。見えたもの、知覚認識されたものがそのまま理解されるので、「コース」はこれを直接的な知覚認識だと言っている(直接知ではない)。「コース」学習を続けていけば、私たちは自分に馴染のある「言語」を用いていろいろなことがわかるようになる。この「言語」とは「ことば」に限らず、私たちが作り出したあらゆるものを指している。たとえば身体や人間関係もそれに含まれる。聖なる関係や聖なる瞬間は今のこの生活の中でいくらでも得られるものなのだ。ただ、それがまだうまく馴染んでいない、だからこそ「幼子のようだ」と「コース」は言っているのである。それを育てているのは個としての或いはエゴとしての私たちではなく、本来の私たちである。すなわち聖なる瞬間や聖なる関係をできるだけ招き入れるように日々努力することによってこれらが成長していくのであり、その努力をする際に私たちは「本来の自己」になっているのだ。

そのような関係・瞬間においては「あらゆるものが一つ」になっている。キリストはそういうところにしか訪れない、あるいは生まれてこない。相手を聖霊=スピリットだと見ればそこにキリストも生じるわけである。あまりにも単純なことをこうして説明すると却ってややこしく聞こえてしまうのだが・・・スピリットとキリストも結局は同じものだと考えてよいのだが、スピリットはそれじたいで「あらゆるものと一つ」である。いや、むしろスピリットであるというまさにそのことによってあらゆるものと一つなのだと言ったほうが正確かもしれない。

このスピリットこそが本当の「自己」である。私たちが今まで「自分」だと思っていたものは、実は「自分じゃない何か別のもの」つまり幻想に過ぎない。実感としてわかりにくいという方もいらっしゃるだろうが、これまた理性によって考えればたちどころにわかってしまうような端的な事実なのである。

幻想が破れると幻滅だの絶望だのが訪れる、そう考えるのはエゴである。実際には幻想が消えれば真実が現れ、却って平和でハッピーになってしまうのだ。だが、エゴに支配された私たちはやっぱりエゴを信じているわけだから、幻想を捨てるのを怖がる。一つの幻想が破れても真実まで行きつかずに「幻滅・絶望」してしまい、また別の幻想を求める。人生が変化の連続に見えたとしてもそれらが全て「幻想世界内」のものだったら結局は何も変わっていないことになる。幻想から真実へ、というただ一つにして本物の「変化」がもたらされない限り、変わるのは表面的なものだけだ。つまり私たちは相変わらずエゴの思考システムの中に、あるいはこの世界・宇宙の中にとどまったままである。今度こそは!と思っても結局また別の苦痛を味わうだけなのだ。苦しくなって逃げる、を繰り返している人は少なくないが、それで救われることはありえない。むしろ以前にもまして苦しくなるというケースが多いと思う。

真の喜びをもたらすのは幻想でなく真実だけなのだ。なぜなら真実は絶対普遍だからである。苦痛との対比によって認識されるような相対的な喜びではなく、いつか苦痛に変わってしまうような喜びでもない「真の喜び」だ。どんなに時間が経過しても変わることがない。一方で、苦痛は時間の経過とともに変わりうる。なぜなら苦痛は幻想でしかないからだ。そして、時間そのものが既に幻想でもあることを考え合わせれば、「真の苦痛というものはありえず、どんな苦痛もいつかは消える」ということがわかる。喜びだってそうじゃないか!と思うならその喜びは「ほんもの」ではないのだ。せいぜいか、この世の中の喜びに過ぎないのだ。永続しない(とわかっている)喜びなんか恐怖と同じである。だって「いずれなくなる、いつ失うんだろう」という思いが付きまとうに決まっているからだ!苦あれば楽あり、とは専ら「この世」においてのみ通用するコトワリである。

第249回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 180・181

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 180

第21章 その5

救いが必然であるのはまずそれが神の御心であるからであり、そしてそもそも私たちは救われる必要などない。それでもこれを敢えて「神による救い」と呼ぶならば、私たちは神と分離したその瞬間において既に救われることを望み、なおかつ受け入れているのである。というか、ああ面倒臭いが、要するに「神と分離などしていない」とわかっている部分が私たちの中にはしっかり残されているのだ。そして神の御心は本来私たちの意志と同じものであるから、私たちはそれを受け取らないわけにいかないはずである。そういうわけで私たちは既に「救われる」ことを受け入れている。あとはそれに気づくかどうかだけであり、その瞬間に「救われる必要なんかなかったんだ、神から離れたことなどなかったのだ」ということにもまた気づくようになっている。神から離れて個別の身体になって長い長い旅をしてやっと神に帰る、これは何千年も何千生もかかるように見えて実は一瞬のことなのである。この世の時間にすればとんでもなく長大な旅路は、ちらっとバカな考えを起こしてボーっとしてしまったその一瞬の空想に過ぎなかったとわかる。こういうことがエゴには絶対わからないが、理性にはわかる。エゴの常識は理性の非常識なのである。

「私とは何か」この答えが本当にわかるとき私たちは救われ解放される。エゴはその答えをいくらでも提供してくれるが、「求めよ、されど見出すな」それこそ玉ねぎの皮むきみたいなものでどこまでいっても「正解」は得られないようになっている。何故ならエゴはその答えを知らないからだ。この「答え」は言葉で説明できるようなものではなく、そうなったときにそうだとわかるような類のものであり、私たちが生じ来ったところの源泉に存在するものである。そこにこそ私たちの本来の自己があるのだ。

理性は聖霊の目的を達成するための手段であり、直接知にもつながるものである。理性が正しく働いているときにはエゴが働かないのであれば、間違ったり歪んだりした知覚認識を持つこともできないわけだ。罪、というエゴによる歪んだ目的に合致するような知覚認識をしてしまっても、理性にはそのおかしさがわかるので即座に正さないわけにはいかないのである。これはもう本当にそうで、いくら心情的には「認めたくない」と思っても理性には抵抗できず「すみません、間違えました」と認めざるを得なくなるのだ。その都度、「救いと解放」という聖霊の目的が受け入れられ達成されていることになる。こうして私たちは自らの狂気を少しずつ解体していく。次第にエゴではなく理性のほうをより強く信じるようになれば、それに従って知覚認識も変わってきてヴィジョンが得られるようになる。そして、いったんヴィジョンが得られればそれはどんどん広がっていき、真実により近いものを認識できるようになるのだ。

理性とは、簡単に言えば心情に惑わされずに透徹した目で事象を見通す機能である。理性は正気の別名であり、正気であれば罪悪感も恐怖も憎しみも攻撃性も何も生じようがない。正気であるとはそういうことだ。定義により、理性には嘘がつけない。エゴのように合目的的に都合よく事実を捻じ曲げることはできないのだ。エゴの基本は「分離・バラバラ」なので、エゴの論理からすれば「私は良い人だがアイツは罪深い」とか「私は悪くないのに世界は邪悪だ」なんて全く普通のことである。しかし、理性には「全てがひとつ」だとわかってしまっているので、もしも私が「良い人」ならそれと全く同じ資格において「彼も彼女もみんな」良い人だ、ということもわかる。あの人はバカだ、と見えても、そう見える自分自身が自分をバカだと思っているのであり、しかしそれは単なる間違いの結果なのだということもわかる。つまり、投影のメカニズムがはっきり見えてしまうのである。しかもそこには批判や非難が生じない。それもまた「間違いだ」とわかってしまうからである。もうイヤというほどいちいちよくわかる。そうなると誰かを批判したり非難したりすることなどできなくなってしまうのだ。そうしたい気分になっている時、私たちは実は助けを求めているのである。何故なら、投影の原理により誰かを批判・非難したくなるのは自分自身のことを罪深いと思っているからこそであり、投影してしまうのは自分の罪深さから逃れたい、即ち「助けてほしい」と思っているからである。

そして、与えるものが受け取られる原理に鑑みれば、助けてほしかったらまず助けを与えなくてはならないのだった。これもエゴには理解できない。理性なら、投影のメカニズムがはっきり見えた段階で自分も相手もまとめて解放できるのだ。あるいは自分の中の恐怖や不安や罪悪感もみな「私とは何か」の理解を間違えたところから派生したものだとわかるので、その都度手放すことができるのだ。

「コース」はまたわかりにくい表現を用いていて「誰もひとりきりで考えることはできない、神も、神の子と一緒にしか考えることができない」と言っているのだが、これはもちろん「さあ、一緒に考えましょう」などという意味では断じてない。普遍的な理性による普遍的な思考以外は正しい意味で「思考」とは言えない、そういうことを表しているのである。

普通の人々が「考える・思考する」と言っているのはたいていエゴに支配されたマインドがあーだこーだと益体もないことを巡らしているだけであって、まあ言ってみれば「個人的見解・意見」の類である。これは厳密に言えば思考なんかではない。思考とは理性が正しく働いている場合にのみ可能な事態なのであり、そこには個人的なあれこれなどもはや存在しえないのである。もちろん、私たちは普遍的な思考でさえもそれぞれが行っていて、私があなたに代わって考えたり彼が私の代わりに考えたりすることはできない。うまく言えないのだが、これは普遍的な思考が「私」において行われているという感じなのである。たまたま「この」マインドという場?において行われている、しかしそのマインドは既に個人のものではない、そういう感じである。そうなってみればわかる。

しかし、もしも「別々の身体」というものが実在し、マインドが個々の身体に閉じ込められている別々のものだと仮定すれば当然私たちは「めいめいが勝手に別々の考えを抱く」ことも可能である。これが一般的に信じられている「現実」である。そうなると、わざわざ言葉で表現されない限り、されたとしてもよほど正確に伝わらない限り(双方の投影が邪魔するので、正確に伝わるのは非常に難しい)「私の考え」と「あなたの考え」とは作用を及ぼし合うことができない。だから私たちに奇跡はもたらされないのである!いや、実際にはもたらされていてもそのことを知覚認識できない、気付けないのである。奇跡とはマインドどうしがつながっている、実は「ひとつである」からこそ生じるものだからである。

ところで、理性は身体に宿るものではない。これは明白である(脳に宿るものでもない、なぜならば脳もまた肉体の一部だからである)。ゆえに、理性的であるとは何と「私たちは身体ではない」とわかることでもある。私たちのマインドは個々の身体に閉じ込められているのでもなく、従って身体によって隔てられ防御されているのでもない。繰り返すが、身体は「実在しない」からである!

身体を拒絶しろ、と言っているのではない。「ない」ものは拒絶することさえできないではないか。そうではなくて、「ある」ように見える身体に惑わされるな、騙されるなと言っているのだ。少なくとも、身体というレベルで即ち「分離状態」というレベルで考えるなと言っているのだ。これまた繰り返しになるが、身体とは「神から離れてバラバラの個体」という間違った考えを現実化させるためにマインドがでっち上げた幻に過ぎないのである。

歪んだマインドは自分のことも他人や世界のことも歪めて見てしまう。逆もまたしかり、である。そういう意味で私たちは「ひとりだけ救われたり、ひとりだけ罪深かったりする」ことができないのだ。だからこそ「コース」はいつも「私たちは同時に救われ解放される」と言っているのである。

理性が正しく働いているとき、そこに恐怖も不安も生じえないのは愛がそうであるのと同様である。これらは個人的なものでなく普遍的なものだからだ。愛と理性なんて昨今の常識からはお互いに相いれないもののような感じがするだろうか?愛も理性も壊滅的に価値が下落しているのだと思う・・

「誰かが自分自身のことをどう見ているか、その責任はあなたにある」なんてまた誤読されても仕方がないような書き方だが、何のことはない、今までと同じことを言っているだけだ。ある人が「自分はダメだ、バカだ」とか「あいつが憎い、殺してやりたい」なんて思っているとして、その人がそういうふうになっていると「見る」のは他ならぬ「あなた」ではないか。即ち、誰かが苦しんでいるとして、「この人は苦しんでいる」と知覚認識しているのは他ならぬあなたではないか。どこまでいっても世界とはそういうものなのだ。

ならば、あなたが自分自身において知覚認識を正せば相手もまたその瞬間に解放されるのだ。そんなバカな!と思うかもしれないが、とにかく奇跡(的癒し)とはそうしてもたらされるものなのだから仕方がない。理性でちゃんと考えればどうしてもそうなってしまうのだ。エゴには絶対にわからない消息である。

理性は正気を意味し、正気であれば真理に近づける。理性は真理に近づくための手段であり、真理を直接知るためのものではない。ま〜とにかく理性がちゃんと働けば今までグダグダやっていたあれこれが全部「あ〜くだらない」とわかるのは間違いない。何だ、こんなことだったか。それがわかって腰が抜けるほどガックリきたりもする。しかし、楽になることだけは絶対に間違いない!んです。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 181

第21章 その6

当たり前のような話だが、エゴに抵抗するより理性に抵抗するほうがずっと難しい。いったん理性が働くようになればエゴによる抵抗なんてさほど大変なものではなくなるのだ。一方、理性に抵抗するとは言い換えれば真理を否定しようとしていることでもあるのだから、これはもう実にしんどい。私たちは今までこんな大変なことを無意識に習慣的にやってのけてきていたのだが(本当に信じられない!)、いや、間違いは間違いだとさっさと認めちゃったほうがずっと楽なのよ、ってことである。

しかし、これが逆に感じられるのが今までの私たち、エゴに支配され狂気に陥った今までの私たちなのだ。自分が間違っていると認めたくない!それを認めたところから救いも解放も始まるはずなのに、これを認めることは何かしら敗北であり地獄に落ちるような気がしてしまうのだ。狂気の陰に隠れていてはいけない。あなたはそうやっていったい「何を」守っているつもりなんですか?

真の愛は初めから私たちに与えられている。それを与えるとき私たちは自分に愛があったのだとわかる。つまり愛を受け取るのである。与えるのは損、受け取るのが得、なんてのはエゴの考え方であるが、実はエゴでさえ自覚なしに与えるものを受け取っている。ただそれが愛ではないだけだ。与えたときに私たちは自分の本来あるべき姿がわかる。そして、これと同様に救うものは救われるのでもある。

感謝の念もまた普遍的なものである。すれ違った人に対するちょっとした感謝のやりとりも神への、あるいは神からの感謝も全く同じなのだ。愛と感謝とは表裏一体のものである。神が私たちを愛しているなら、神は私たちに感謝してもいることになる。神から愛され感謝されている、それを私たちは日常的な出来事の中でいくらでも経験できる。なぜなら上気したように愛や感謝は普遍的なものであり大小も高低もないからだ。そうすることによって私たちはいつも神と共にあり、神と一つであることもまた実感できる。なぜならあらゆる人が聖霊であり、聖霊とは神の一部であるからだ。私が神の一部であり神とひとつならば、それと全く同じ道理によって彼も彼女もあなたもみんな神の一部であり神とひとつである。これも理性で考えれば簡単に、しかも実感を伴ってわかってしまうことだ。そして言うまでもなく「普遍的自己」「絶対的自己」はひとつしかない!

神のひとり子である私たちは、実はその創造の初めから自由である。それを無力で死すべき存在、物理的法則にがんじがらめにされた存在にしてしまったのは何を隠そう自分自身に他ならない。神のひとり子にはそのくらいの力があるのだ。自分自身がそう望まなかったら一体他の誰が(何が)私たちを苦しめ不幸にするというのだろう?全ては自分次第、そこのところが自覚できないとどうにもならないのだ。私たちは苦しみから解放されるのではない。囚われ苦しんでいたいという自らの願望から解放されるのだ。言い換えればそういう願望を手放すのである。むろん、それは「神から離れてバラバラでいたい」という願望と地続きである。私たちはもっと自分自身に対して慈悲深くあっても良いのではないか。

自分が無力だ、と考えるとしたらその「自分」とは身体としての自分であり神から離れた個体としての自分である。これは謙虚さではなく傲慢だ、とは前にも述べられていたが、自分を無力だと考えれば神の御心に逆らうことになってしまうからである。

無力さ、救いのなさと罪深さとはワンセットになっている。そもそも神に逆らって離れたから無力になったのであり、神に逆らうなんて罪深いに決まっているではないか。罪を犯した人がそれを何とか誤魔化してやっていくことはできなくもないが、それでも罪が消えるわけではない。どこかで常に自分の罪深さに苛まれ続けるに違いないのだ。

あなたは神のひとり子なのか?自分を神のひとり子だと思うか?もしそうならあなたは罪深くもなく無力でもない。小さきものは罪の大きさにおののく、のだが自分たちを「小さき者」と考えることじたいが間違いであり自己欺瞞である。

自分を神のひとり子だと思ってない者は、神のひとり子(あるいは神そのもの)を羨み恐れ憎むようになる。何故なら神のひとり子には自分にない強大な力があるからである。しかし、実際には誰もが神のひとり子である。ということはつまり、そのときあなたは自己欺瞞だけでなく自己否定・自己憎悪に陥っていることになるのだが、その事実に気付かない・気づきたくないあなたは投影を行い、恐怖や憎悪や攻撃の対象を次々に自分の外に発見するようになる。本当のことに気づきたくないと思っている間中ずっとその対象は絶えることなく次々に現れる。それは他人とは限らない。社会や国家や自然現象でさえもその対象になりうる。恐ろしくも強大な「神のひとり子」とはこのように常に姿を変えてあなたの前に現れる。

繰り返されているように、これは自分が罪深いと認めたくない人がその罪深さを外界に投影するのと全く同じ消息なのである。もちろん、罪など本当は存在すらしないのだが、投影を行うような人はそのあたりの「真実」など全く考えもしないことになっている。自分の罪を自分のマインドから追い出すことに夢中で、そもそも罪があるかないかという根本的な疑問にまで意識が及ばないのだ。理性を欠いているとはこういうことである。

とにかく、そうして神の子ならぬ人々は「外敵」に対して闘い続けるわけだが、もちろん外敵など存在しないのだし何もかもが幻想、夢の中の出来事だ。枯れ尾花が幽霊に見えているのは当人だけ、本気になっているのは本人だけ、なんてよくある話ではないか。

前にもちょっと書いたことがあるが、下手に内面を見つめると「敵は自分だった」とか敵は「自分の中のブロック」「自分の過去生」だったことだけがわかってしまい、無力感にとらわれて更に深く懊悩し、それらと「闘う」果てしない旅に突入してしまう場合もある。ここで「なーんだ、自分のことだったのか」とガックリ、スッキリして終わり、という例はあまり見ないのだ。あるいは、理性が正しく働いていれば「自分の中にあるブロックだの罪だのを見つけて何とかしようとしているこの自分は何なのだ」と問うことができる。そうすれば「なあんだ」となるのだが、そんな人もなぜか滅多に見かけない。

「コース」が「受け入れられなくてもわからなくても前に進め」と言っているのは、何とかわかろうと頑張ってダメだったりすると無力感にとらわれる、つまりますます罪悪感が強化されて学びから遠ざかってしまうためでもある。

そんなことをする前に、次の4つの質問に答えよ。

1 私は世界を支配したいのか、それとも世界に支配されたいのか?

2 私は自分が力に満ちていられるような世界を望むのか、それとも自分が無力であるような世界を望むのか?

3 私は、敵もなく罪がありえないような世界を望むのか?

4 真実だからという理由で自分が否定してしまったものを、私は見たいと思うのか?

「コース」いわく、あなたは1から3の質問には迷いなく答えられるだろうが4番目については躊躇するかもしれない。真実は恐ろしいものかもしれない、と思っている限り4番目の質問は「もちろん見たいですっ」とは即答しにくいものになるだろう。だって、何が見えるか、何が出てくるかわかったもんじゃないでしょ、そんなの怖いじゃない!

しかし、この4つの質問、実は全く同じ内容を言っているのである。ただ自分が何を否定してしまったのかあなたが気づいていないだけなのだ。つまり、自分こそが神のひとり子であり、それを自分が否定してしまったという事実に気づいていないだけなのだ。

そんなこと、さっさと認めたほうが楽に決まっているだろうにと思うのだが、エゴ支配の世界観や思考システムにあまりにも馴染んでしまった者にとっては「世界がひっくり返る、自分が否定される」という恐怖が生じる。でも、この事実を認めないうちは癒しなどもたらされないのだ。罪や恐怖や不安などを「現実のもの」としたうえでそれに苦しむ自分を癒す、なんてことは「コース」に言わせれば不可能である。というか、だからこそみんな癒しを求めては得られず、たまさか得られてもすぐ新たな苦痛に出会ってしまい・・・という繰り返しに陥っているのだ。

全てが、あらゆるものが一つであるということを思い出してほしい。これはいくら認めたくなくても否定したくても変わらぬ「事実」なのである。あの人は嫌だけどこの人は好きだから癒してあげたいの、なんてことは絶対に!不可能なのだ。あの人もこの人もみな「ひとつ」「神のひとり子」だからである。

聖霊かエゴか、愛か恐怖か、真実か幻想か。そのどちらを選ぶかによって世界は変わる。これはまさしく「因果関係」なのである。ゆえに、ちょっと嫌なことがあったらこう問いなさい。

「これは私が見たいものなのか?私はこれを望んでいるのか」

望まず見たくもないものなのだったら、マインドを正すしかない。結果が気に食わなければ原因を何とかするしかないではないか。

さきの4番目の質問は他の3つと内容的には同じであるとはいえ最も究極的なものである。即ちこれに「イエス」と答えてしまったらもう一切言い訳はできなくなる、そういう類のものである。なぜならこれは「真実」という恒常的なものを、時空間を超越したものを扱っているから、「いつでもどこでも常にそうします、他には何も望みません」ということになるからだ。おかしな言い方だがこれにイエスと答えてしまったらもう逃げ場がなくなるのだ。どこかでそれがわかるから私たちは躊躇し、ビビるのである。

最初の3つの質問に正しく答えられれば私たちは「ちょっと正気」だと言えるのだが、最後の質問にハッキリ「イエス」と答えられれば「完全に正気」ということになる。

聖なる瞬間とはこれらすべての質問が正しく答えられている瞬間でもあるのだ。

第248回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 178・179

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 178

第21章 その3

エゴに支配された私たちの目的は、神から離れたバラバラの状態を保つこと、つまり神に逆らった罪深い存在であり続けることだ。この目に映る不平等で不公平な世界も、わが身の悩みや苦しみも全てそれが投影されたものである。

そのようにして私たちは自らも、自分が見る世界も作り出してきた。しかし私たちは、自分以外の何か・自分の力が及ばない何かによってこの時代にこの土地にこの身体として生を与えられ運命を翻弄されている、自分という存在、自分以外の何かによって左右され決定されると考えがちである。ところで、自分以外の何かなんてものは「ない」、結局それらも全て自分のマインドが作り出したものなのだった。

これを整理すると・・・私たちという存在は、自分が作り出したあれこれによって決定づけられると思っていることになる。つまり、私たちと一つであるような真実の神のほかに自分とは別物の「絶対的造物主」をでっち上げ、それが自分を創造したと思い込んでいるわけで、これを「コース」流にいうと「自らを創造したつもり」になっているわけである。今のこの自分や世界がマインドにでっちあげられたものなんかじゃなくて確固たる現実・真実だと考えるなら、それを作ったのは誰(何)だ?神?宇宙?って、それもまたあなたのでっちあげの産物ですよね。あなたとは別にあなたの力が及ばないような神も宇宙も存在するわけがないからだ。

改めて確認なのだが、私たちの存在の源泉は神であり、神と私たちとは一つである。私たちの意志は神の御心と全く同じものである。それに沿わないあれこれの考えはみな妄想であり、現実化されているように思えても実はただの幻想・夢に過ぎない。源泉から離れたものは何一つ存在できないのだ。存在しないで存在することはできないからである。源泉から離れてしまえば何一つ創造することもできないのだが、創造のパワーは強大なのであたかも「創造」したように、つまり現実化されたように見えることはある。が、それらはみな幻想であり、実体はない。ただスクリーンに映し出された影のようなものに過ぎない。だから、いずれ消えてしまう。本当にしつこいが、これが私たちの世界であり人生なのだ。

そこに映し出されるあらゆるものは投影の「結果」である。ゆえに、そんな「結果」など実際には何の影響力もないことがわかる。言い方を変えれば、エゴが作り出したあれこれはエゴに支配された私たち及びその身体にとっては大変な影響力があるが、本来の私たちにはないも同然のものなのだ。だって本当に「ない」んだから!

再び、人間関係を例にとってみよう。あの人にこんなことをされた、されている!などと思うとき、私たちはその誰かと一緒に虚構の世界を作り出したのである。にもかかわらず「彼(女)がこんなことをしたからこうなったんだ」と、まるでその(虚構)世界が自分を左右していると思い込んでいるのである。相手にいわれのない非難をされて、本気になって釈明しようとすれば「相手が作り上げた虚構世界」を現実だと認めて共有することに、つまり相手の間違いに加担してそれを強化することになってしまう。

あらゆる「特別な人との特別な関係」は自分の中の罪悪感を投影するためのものだった。より端的に言えば「罪深くあり続けるための手段」なのである。ひえ〜、みんな救われたくてそういうものを求めてるつもりなんだろうに、何てことでしょう。

もちろん、現実は「神とひとつであり全てである私たちは無垢な存在だ」であり、要するに「特別な関係」はこの現実を歪めようとする試みでもあるわけだ。

エゴに支配された私たちは、特別な関係の人々と(あるいは神や聖霊とまで!)取引をしようとする。見せかけの公平さを求めているのだが、エゴによる公平さとは限度を設けることに他ならない。こうしてあげるんだから悪いことはしないわよね、ここまでは来ないでね、勝手にあれこれやらないでね、お祈りしてればひどい目には遭わせませんよね、などなど制限を設けるわけだ。更に始末の悪いことに、特別な関係で苦しむ人は「現実を歪め邪悪なことをしてしまっている」という「罪」を、苦しみという罰を自らに与えることによって相殺しているともいえるのである。

上のような「公平さを保つための取引」の内容は、わざわざ相手に伝えなくても、心の中で望んだだけでも同じことになる。与えれば受け取る原理により、誰か(との関係)に制限を与えれば自分自身もまた制限されることになる。牢獄の番人は、牢獄から離れることができないという点において自らもまた牢獄に繋がれているのと同じなのである。

さて、信じることは願うことでもあり、心から信じれば信じるほど即ち信念が強いほどその「願い」は現実化され(たように見え)てしまう。「信念の力」が間違った方向に用いられている間は、私たちはその力の存在に気付けないようになっている。だからこそみんな「まさか、この身体も世界も何もかも自分が作ったなんて信じられない」と思うのである。これが愛に向けられている場合、私たちは自らに無限の力が宿っていることを実感できる。山をも動かす信仰、なんて単なる比喩的表現に過ぎないと思われるだろうが、実際に強い信仰にとってそれくらい何でもないことだそうである。私たちが自らに限度を設けるのをやめればよいだけだ。私たちは思い込みによって自らを鎖に繋がれたような無力な存在にしてしまっている。が、実際にそんなことは起こっていない。本当は無限の自由を与えられているのだ、と気づけば本来の力が解放されるのだ。

まったく何も信じない、いかなるものにも信念をおかない、などという事態は不可能である。私たちはその自覚がないだけで「神から離れてバラバラの個人からなる、時間と空間があるこの世界」つまり自らが作り出した幻想を強烈に、一片の疑いもなく心の底から信じている。だからそれが確固たる現実に見えるのだ。

心から強く信じること、この力をどこに向けるか?例によってエゴか聖霊か、である。そしてこの方向性は目的によって自動的に定まる。バラバラの罪深い個体であり続けるか、救いや解放か?救いや解放を目的地と定めれば聖霊によってヴィジョンがもたらされる。そして、私たちの「特別な関係」には聖性がもたらされ浄化される。ヴィジョンがもたらされれば「幻想の世界」と「天国」の間に在る「本当の世界」を経験することができる。(天国においてはヴィジョンも含めてあらゆる知覚認識が不要となる)

同じ信念の力でも、認識でも、特別な関係でも、聖霊に委ねるならば全て聖なる目的のために用いられることは既に何回も述べられてきた。たとえば信念の力が正しく用いられてヴィジョンを与えられば私たちはあらゆるものに聖性を見るようになり、次第にそういう「現実」を信じることに慣れてくるのだ。

神から離れてバラバラの個となり、時間と空間と身体を作り出すことによって私たちは自らの存在を「無力なもの、時空間や身体に縛られたもの」に貶めた、つまり自らに制限を与えた。ゆえに、罪とは制限すること・自由を奪うことだとも言えるわけである。罪なき状態ではあらゆる制限から解放されているので、難易度にも時空間にも関係なく奇跡がもたらされるわけである。制限された状態は守られているようにも思えるが、その一方で「思い通りにならない」ことがあまりにも多すぎるためどうしても恐怖が生じる。私たちは恐怖の対象を憎むようになる。愛しているつもりでも実は憎んでいるのである。その恐怖や憎しみだけを取り出してどうこうすることも、恐怖の対象を何とかすることも不可能だし無意味なのは、これらがすべて「原因ではなく結果」だからである。間違いはそれがなされたところで正されるのだ。あらゆる癒しもそのようにしてもたらされる。

身体は「ある」と思うから「ある」ように見え、経験されるのである。今更だがびっくりされるかもしれない。が、要するにその程度のものなのだ。少なくとも私たちお互いを隔てる壁ではない、コミュニケーションを妨害するものではない(そして、私たちのマインドを外敵から守ってくれるものでもない!)。

神から離れた罪という考えを心から強く信じていれば、神や聖霊さえも恐怖の対象になる。何か大切なものが奪われるのではないか、犠牲を払わなければならないのではないか、と恐れるわけである。これをあげるからあれを差し出せ、なんていう取引は神も聖霊も絶対にしない。たとえ何かを失った(と思った)としても、それは神や聖霊とは全く関係ないのだ!この世のあらゆるものは変化し消えていくのが必定である、というただそれだけのことではないか。諸行無常である。その背後に常に変わらず存在する普遍的なもののことを「コース」は教えているのではなかったか。むしろ、神や聖霊と一つになっていれば何がどうなろうがあなたは「何も失っていない、何一つ変わっていない」と心の底から感じられるであろう。これがヴィジョンなのだ。

犠牲とされるものは、身体(の生命)に代表されるように全て「形あるもの」あるいは「この世的なもの」である。まず、それらに価値をおくことからして間違っている、これも既に何度か述べてきた。そして、犠牲とは必ず身体を通してなされるものだ。身体なしのマインドには犠牲を払ったり払われたりすることなどできない(もちろん、「できる」と思うことはできる)。そして、身体はマインドの指令なしには何もできない。ということは、犠牲(という考え・行為)もまたマインドが罪という目的を達成するために身体を通しておこなうものである。身体は、罪という考えを現実化するための道具なのだ。身体が「ある」とあまりにも信じ込んでいる私たちには、このあたりのメカニズムが見えない。

どうでもいいものだとわかって何かを捨てるのと、それを犠牲として差し出すのとはその意味合いにおいてまったく違う。もともと「ない」ものが視界から消えるのと、奪われるのともやはり全く違う。しかし、これらはパッと見には同じように見えてしまう。というか、どう見えどう受け取られるか、それは私たちのマインドしだいなのである。聖性が見えるとき、罪は消えており、罪悪感や恐怖があるとき聖性は見えなくなっている。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 179

第21章 その4

私たちの作り出したあれこれの幻想を聖霊が強引に奪うことはない。幻想は、幻想であるというまさにそのことによって消え去るだけなのだ。だいいち、神や聖霊に「奪う」という概念や機能はない。「奪う」という概念もまた私たちがでっち上げた想像の産物だ。何せ私たちは神から「創造」の力と機能を「奪った」と思い込んでいるのだから!幻想の最たるものである身体もまた聖なる目的のために用いられることは既にご存じだろう。しかし、これまた例によって逆説的なのだが、そのように用いられるとき私たちは既に身体を超えている。心の底から強く信じること、信念を持つこと、それが知覚認識につながる。「ある」と心底から疑いなく信じていれば、現実に「ある」ように見え聞こえ感じるようになっているわけだ。マインドはこうして身体を作り出してきたのである。その出発点に立ち返り目的と方向性を変えるのだ。そうすれば、自らが作り出した身体に左右されることなどもう起こらないだろう。マインドにとって「悪いこと」を身体に代行させるような必要もなくなるだろう。無駄な怪我や病気をしなくなるだけでもすごいことではないか。

さて、「内面を見つめる」ことの重要性については、何もスピリチュアルでなくても誰もが認めるはずである。ま、これも「エゴがエゴを見つめ」たってどうしようもないのだが、多くの人がそういう事態に陥ってしまっている。しかも、やはり多くの人が自分の内面や心の奥底には恐ろしい闇があると思っている。それを見つめるのは大切だが怖くてできない、とか実際に見つめた結果とんでもないものを発見してしまってますます罪悪感や恐怖にさいなまれるなどというケースも少なくない。

エゴの目的は私たちを神や真理から遠ざけておくことなのだから、私たちが内面を探って恐ろしいドロドロを発見するのはむしろ大歓迎なのだ。ああ、やっぱり私は罪深いんだわと恐れおののいてくれればエゴは安泰である。「無意識の闇・ブロック」から解放されようとする試みもたいていはエゴの枠組みの中でおこなわれるので、必然的に失敗する。こうして私たちは「求めよ、されど見出すな」というエンドレスの虚しい努力を繰り返すのである。罪を恐れているのはエゴに支配された私たちなのであって、エゴ自身は罪こそが命綱なのだ。むしろ、エゴは「内面を見つめて自分の罪深さを発見する」こと、その恐怖に直面することを奨励している。実際に、神ならぬ偶像崇拝に陥ったあらゆる宗教がそれを奨励している。ならば、エゴに支配された私たちがもっとも恐れているもの、見たくないものは「自らの罪深さ」ではないことになる。

エゴがもっとも恐れ、私たちにもっとも見せたくないのは私たちの「罪のなさ」である。心=マインドをどこまで探ってもそんなものは見出せない、闇の中には何もなかった、光が当たれば闇ごと消えてしまう、それがわかってしまったらエゴはもう存在できなくなる。エゴに支配された私たちがもっとも恐れているのもそこなのである。だからこそ、エゴは「闇=隠された罪」という煙幕を張って私たちが本当に「内側を見る」ことのないようにしている。その防御はすさまじいものだ。私たちが正気の一歩手前まで行くと、エゴは「お前は狂ったのだ、おかしくなったのだ」と叫ぶ。ここでまた怖くなって立ちすくみ後戻りしてしまう人も少なくない。

「コース」学習に限らず、何らかの気づきや目覚めが起きるときには必ず今まで当たり前だと思っていたあれこれに対して違和感を覚えるものである。それを突き詰めれば今まで無意識にやっていた「間違い」を間違いだと認めることもできるのだ。これができるのはマインドの中のマトモな部分、聖霊ともつながることのできる部分に違いない。ついに「コース」はこの部分こそが理性なのであると言い出した。

エゴに理性はない。従ってエゴに支配された私たちに理性は正しく働かない。エゴには、エゴを正当化するための論理なら腐るほどあるのだが、それらは理性ではない。一般的にアタマ=理性、心=感性としたうえで何か理性より感性のほうが偉いような考え方がまかり通っている昨今だが、何のことはない、エゴに支配された人ならそのアタマも心も両方エゴである。当たり前すぎることなのだがたいてい見逃されている事実でもある。理性とはそんな非力なものではない。私は断言できるのだが、理性の力だけで覚醒することだって可能なのである。理性と感性とは表裏一体の関係にあるからだ、理性が正しく発達していれば必ず感性もそれに従わざるを得ない、そういうことになっているからだ。ここで言う「感性」とは心情や感情のことではない。感性とは「気づき」を感知するアンテナみたいなものである。心情や感情が渦巻いているうちは理性も感性も働かないのだ。

理性とは、私やあなたは彼(女)のマインドにおいてそれぞれ働いているように見えるが、個別のものではなく普遍的なものである。私の理性、などというものはない。普遍的な理性が「ここでこうして現象している私において」働いている、というべきだろう。ゆえに、理性が正しく働いているとき「このワタシ」というものはない。当然、「このワタシ」に付随する個人的な感情や心情もなくなっている。

真理の方向に目覚め始めるとき、私たちはマインドの中の理性を信頼し始めているのである。普遍的な部分をより信頼し始めているのである。エゴにとってこれは大変な脅威なので、「ちょっと、何言っているの?違うでしょ、危ないよ」などと囁いて私たちを自分の側に引き戻そうとするのだが、ちょっと慣れてくればそのあたりの区別は簡単につくようになる。つまり、まだまだ感情や心情に振り回されてしまう瞬間もあるものの、「あ、これは理性じゃない」ということは簡単にわかるようになる。そして、エゴ(の囁き)こそが本当の脅威だと正しく感じられるので、多少揺らぐことはあっても騙されることはなくなる。

この理性の部分が正しく働けば、あらゆる人をありのままに見ることもできるようになる。あらゆる呪縛から解放されることも可能になる。理性的であるとは正気を保っていること、つまり歪んだ思考システムの外に出ていることであり、それはとりもなおさず聖霊のメッセージを受け取れる状態なのである。だから私は以前「聖霊とは純粋理性である」などと書いたのだ。呼び名は何だっていい、要するに神から派生した普遍的なマインドの謂であり、スピリットと直結した部分でもある。スピリットを『純粋精神』と表したことがあるが、純粋精神には純粋理性が含まれるに決まっている。

エゴとスピリットとは「同時に」働くことはできないが、エゴがどんなにのさばろうとスピリットが失われることはありえない。ただ忘れられてしまっているだけだ。ひとりのマインドの中では両者がその都度支配力を争っているような感じであって、エゴが弱まればスピリットが強まり、スピリットが弱まればエゴが強まる。エゴは言うまでもなく地獄だが、理性はスピリットにも天国にも直結する部分である。いくらエゴがわあわあぎゃあぎゃあ騒いでも、理性の静かな落ち着きには適わない。

本当の現実はあなたにどう見えようが見えなかろうがそれじたいとして揺るぎない現実なのである。本当の現実を知覚認識することはできないのだが、あなたがそれをどう捉えているか・・つまりあなたのマインドの状態が知覚認識によって示される。知覚認識機能という鏡が歪み曇っていれば現実もまた歪んで映り、自分だけがそのことに気付かず「これこそが現実だ」と信じてしまう。たとえばエゴに従って知覚認識すれば、あなたは取るに足らないものであり、自分の力など知れている。そして、より強大なもの・・・神であれ運命であれ自然であれ他人や国家であれ、そういったものに翻弄され餌食にされる。そのように信じている人は多いし、またそのように信じることは可能である。しかし、いくら強く信じたところで間違いが正しくなるわけでもなく、幻想が現実に変わるわけでもないのだ。

しかし、エゴでなくスピリットとして在るならば、つまり理性が正しく働いているならば事情は全く違ってくる。ま〜ここは真我とでもハイヤーセルフとでも何とでも呼んでくださって構わない。とにかくエゴではない普遍的自己のことである。その普遍的自己にとって奇跡とはまるで呼吸のごとくに全く自然な現象である。エゴにとって奇跡が「ありえない」ものに映るのは(というか、そもそも「ありえないようなこと」を奇跡と呼ぶのだが)、エゴは個々のマインドが相互に作用しあうことがわかっていないからである。というか、個々のマインドなんてものが別々にあると思っているからである。エゴが奇跡を起こそうとする場合、この「分離状態」は保持されたままになる。つまり、ある人間が別の人間に力を及ぼして奇跡を起こすと考えているわけだが、「コース」によればこれは奇跡ではなく魔術である。しかし、マインドは一つなのだった。奇跡とはあなたが誰か別の人のマインドに対して為すのではなく、常にまず自分のマインドにおいて行われるものなのだ。自分において歪んだ知覚認識機能を正すことが癒しであり奇跡だ、とは既に何度も述べられていることである。普遍的自己においては自分以外のマインド、なんてものは「ない」んです!

そして、理性が宿り働くのはこの普遍的自己においてなのである。普遍的自己に気付いていない普段の私たちは、当然理性にも気づいていない。つまり、私たちが通常「理性だ」と思っているものはエゴの一部であって実は全然理性なんかじゃないのである。さきほども書いたが、理性が働いている時には「このワタシ」などいなくなっている。理性は、いわゆる「個人的なこと」「この世的なこと」を考えたり判断したりできないものなのだ。

そして、理性もまた聖霊と同様に私たちが本来の状態に戻れば不要になるものなのである。これらは分裂したマインドである私たちが「神と一つである全て」に戻る過程においてのみ必要とされるものだからだ。簡単に言えば、本当に狂っている人には自分が狂っていることがわからないのと同様に、間違ったマインドには間違いを見つけて正すことができない。理性は、全く文字通りに正気のものであり、間違いを間違いだと認識して正すことができる機能なのである。間違いの生じようがない直接知の境地においてはもはや理性など必要なくなる。「私とは何か」、このシンプルにして究極の問いに対する答えは理性が持っている。

第247回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 176・177

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 176

第21章 その1

またしてもおさらいです。知覚認識とは投影作用である。これはもうわかりますね。あなたが知覚認識経験するものはそのままあなたのマインドの状態を表している。ものすごく乱暴に言えば、あなたが見聞きするあれこれは、あなたの心を撮影した映像みたいなものなのである。「人はその考える通りのものである」のではなく「人は自分が考える通りに知覚認識する」のだ。投影した像を見て「これが現実だ」とますます確信を深める・・だってあなたが現実化しちゃったんでしょう、現実に見えるのは当たり前じゃないですか。これはもうどうしても受け入れなくてはならない最重要な原理だが、同時になかなか認めがたいものでもあるのでしつこく繰り返されている。

でも、どうしてそんなに認めたくないんでしょうね?ちょっと考えてみてください。この原理を真実だと認めてどんな不都合が生じるのか?私は間違ってない!そんなこと望んでない!と思いたいだけなんじゃないでしょうか?そうして自分が正しいんだと思えるのがいったいどれほどのことなんでしょうか?そんなに大事なことですか?

まあ、そういうわけで外側の世界を変革・改革しようとするのは全く無駄かつ無意味なことである。社会革命がそれじたいとしては成功してもやっぱり世の中に苦痛や悲惨さが絶えないのはそのためだ。一つの病気を根絶しても新しい病気が出現する。世界を変えたければまず世界についての考えを変えよ。当然のことである。外側に見える不平等で不公平な世界は知覚認識の結果であって、あれこれの原因ではない。結果だけをどうこうしようとしたって無意味に決まっている。「世界はいかにあるべきか」なんて問いは一見高尚そうだがバカバカしいの一言に尽きる。世界が自分とは別の何かであるものか。

これは何も「世界」に限らない。自分の生活だの目の前の誰かだのを変えたい・変わってもらいたいというのも全く同じ理由において無意味且つ無駄である。自分以外の何かを「何とかする」ことはできない。何とかできるのは自分のマインドだけなのである。

とにかく「知覚認識する」のは私たちのマインドであり、それは自分次第でいかようにもなるものだ。ここはわかりますね。だったら目の前のあれこれも「いかようにも知覚認識されうる」わけであって、今まで赤く見えていたものが瞬時にして青くなれば私たちはそれを「奇跡だ」という。何のことはない、これって実は知覚認識の仕方が変わっただけなんですね。だから奇跡に難易度はないと言われるわけだ。

何回生まれ変わろうが革命が起きようが誰と一緒になろうが、結局いつも何かしらの悩みが絶えなかったり世の中の悲惨さを憂いたりし続けるのは、そもそもあなたが「自分とは、世界とはそういうものだ」と思っているからである。神の怒りだの天罰などというものはない。それも全て自分のマインドの投影である。本当はあなたが自分自身を呪われたものだと考えているだけなのだ。

ここで「コース」はかなり重要なことを言ってくれている。世界のどこかで天災や戦争などの惨事が起きているのをあなたが「見る」(つまり知覚経験する)なら、あなたは神のひとり子を苦しめていることになる。被害者や犠牲者(!)の苦しみに、いや正確に言えば「苦しんでいるに違いない!」という思い込みに感情移入するなら尚更だ。あなたは自分の中にある恐怖によって苦しみを想像してそれに同調しているだけなのだ。そして、全てはひとつであるのだからあなた自身が神のひとり子でもある。つまり、「神のひとり子は呪われているので苦しんで死ぬ運命なのだ」と思い込んでいるので、あらゆるところにその証拠を見るようになるわけである。

あるいは、こう言っても良い。バラバラの個体からなる世界とは不平等なものである。とんでもない貧困のうちに生まれてすぐに死んでしまうような人々もいれば、同じような災害に見舞われても間一髪で助かる人と助からないひとがいる。これもまた「全ては一つでなくバラバラ」という投影のあらわれなのだ。

知覚認識経験のすべては「投影作用」だということを今一度しっかり考えてみていただきたい。もしも誰かを助けたい、救いたいと思うならその苦しみに共感するのではなく、まずその人たちをあなた自身のマインドにおいて解放しなさい。何かをどう見るか・認識するか、その選択はあなたのマインドの中にしかない。解放するのもまたあなた自身のマインドなのである。逆に言えば、何がどう見えているかという「結果」によってあなたのマインドがエゴと聖霊のどちらを選んでいるかがわかるのだ。

私たちは過去の経験から得た知識や情報によってあれこれ知恵をめぐらし、危険を避けて生きようとする。しかし、そもそも前提になっているのが「何が待ち受けているかわからない世界・人生」なのだから、予想もしないところで足をすくわれたりつまずいたりするのもまた織り込み済みだ。ということが私たちにはわかっていないので結局同じような経験を繰り返す羽目になる。そして「あーやっぱり一寸先は闇なんだわ、もっと気をつけなくちゃ」と再認識したりするのである。

おまけに「過去に得た知識や情報から」あれこれ考えて知恵をめぐらすこと自体もまた無意味なのだ。なぜなら、それら知識や情報もまた「歪んだ知覚認識機能」によって得られたものであり、既にその時点で間違っているに決まっているからである。

「過去の経験から学ぶ」のは賢明なことだと考えられているが、「コース」に即して言えば過去の経験から学べるのは「自分がいかにバカで間違っていたか」という気づきくらいなものである。まあこれだって十分に立派なことだ。

エゴに支配されたマインドは暗闇の世界に生きており、暗闇に目が慣れている。暗闇に順応すべく知覚認識機能を歪めてしまったのだ。だから、暗闇の中にドアがあっても見えず、手探りでつまずきながら不安なままにヨロヨロと歩いているのである。だいたい、自分のマインドの中の間違いを投影したものを見聞きして、その歪んだ知覚認識機能によってそこから何かを「自己流に」判断して、更にその判断に基づいてまた投影してそれを知覚経験する・・・なんて繰り返しが不毛で無意味なのは当たり前なのだ。

それに対してヴィジョンは間違うことがない。つねに正しい方向に私たちを導いてくれる。かといって、いま自分が行っている知覚認識がヴィジョンなのかそうでないのかをどうやって見分けたらいいのか?という疑問も出てくる。これはやっぱり「そうなってみないとわからない」としか言いようがない。少なくとも考えて行動する場合はヴィジョンではないだろうが、「直感でピンときた」というのも実は全くあてにならないのである。間違ったマインドは直感もまた間違っているからだ。

以前にも出てきたことだが、学ぶために苦しみは不要である。スピリチュアルも含めて精神世界では「苦しみを通して学ぶ、成長する」という教えが当たり前のようになっているのだが、こういう考え方って実は結構セコくて、せっかく苦しんだんだからそれを否定されたくない、即ち例の「私は間違ってない!」と苦しみを正当化してるだけみたいにも感じられる。あるいは一歩間違うと苦しみそのものに価値を見出してしまうので、価値ある人生を送ろうと思ったら苦しみの連続になるという帰結もありうる。

しかし、「コース」は一貫してこれを否定している。苦しみは無意味以外の何ものでもない。だいたい、間違いに気づいて正すのにいちいち苦しむ必要などあるわけもない。まあ、多くの人がそこまで追い込まれないと自分の間違いに気付けないという事実もあるにはあるのだが、それだけの話である。「コース」の教えは喜びと幸せをもたらすものに違いないのだが、そしてそれは苦しんだ結果もたらされるものではなく、学ぶことのなかに既に喜びと幸せがあるのだが、それがわからないと「コース」をやる意味がなくなってしまう。以前「スピリチュアルコラム」にも書いたのだが、努力と苦労とは別物だ。努力はそれじたいが楽しみになる。常に自分に高いハードルを課して頑張るのがこの上ない楽しみだという人だって少なくないのである。もしあなたが「コース」学習において苦しんでいるとしたら、「コース」の教える目的と手段を本当に良いものだと信じていないからである。ここを抜け出すにはもう覚悟を決めて飛び込む以外にない。

間違ったマインドで学ぶことはやっぱり間違っている。このやり方だと自分の力も何もかも限定してしまってせいぜい「失敗しないように」毎日をやり過ごすことになり、まあそれで一生過ごせればよいと思う人は結構だが、奇跡も救いも解放ももたらされずに終わることになる。この身体を、そしてその中に閉じ込められた(ように思える)心=マインドを「自分」だと思えばどうしたって孤独感から抜け出すこともできなくなる。

「コース」がここで用いているのは「いにしえの愛の賛歌」という象徴である。この辺は詩みたいなものなのでごく簡単に説明すると、私たちは誰でも自分の本来の姿、天国にいて幸せだった状態をおぼろげながら覚えているというのである。それがあたかも「いつどこで聴いたのか覚えてないけど、ものすごく懐かしい歌」みたいなものだというのだ。おぼろげに覚えているその歌のことを考えるととてつもなく幸せで満ち足りた気持ちになる。でも思い出すのがちょっと怖い、なぜならそれを完全に思い出してしまったら今の自分が消えてしまうような気がするから!それはその通りなのだ、その歌があった頃に比べたら今まで自分が大切にしてきたものなど何の価値もないことがハッキリしてしまうのだから。その歌は、その中にあらゆるものが包含されてしまうような光の環みたいなものである。これを思い出すにつれて私たちは「神のひとり子」である本来の自分も思い出すのだ。ほんとうはよく知っているはずの懐かしい自分自身、そして誰もが同じように懐かしく神々しい存在になる。これがヴィジョンなのだ。これを思い出すことこそが奇跡なのだ。誰か一人の中にその光が見えれば、あらゆる人の中に見えるようになる。全てはひとつなのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 177

第21章 その2

「コース」を学ぶにあたって私たちに要求されているのはほんの小さなことだけだ、と「コース」は強調している。ほんのちょっとだけ聖霊に差し出せば、聖霊はあらゆるものを与えてくれるのだと言っている。具体的には次のようなことを「一切の保留も例外もなしに」受け入れ実践すれば良いだけだと言うのだ。

「何を見るか、それは私に責任がある。私は自分が経験する感情を選び、達成すべき目的を決める。そして、私の身に起こるように見えるあらゆることは、自分がそのように求めたものであり、私は求めたとおりのものを受け取るのだ」

さて、これが「ほんの小さなこと」に思えるだろうか?とんでもない難題に見えるだろうか?これを受け入れれば平和が約束されるのだが、そのためにとんでもない代価を払わなくてはならないような気がするだろうか?イヤです!できません、というなら仕方がないが、中途半端にやっても意味がない。これは「完全にわかるか、全く分からないか」どちらかしかないことだからだ。

やっぱり「たったこれだけで済んじゃうんですか」というようなことなのではないだろうか?全財産を投げ出せ、家族を捨てろ、仕事も捨てろ、なんて言われてるわけじゃないんですよ。

とにかく、なぜこの原理を認め受け入れることができないのか?前回も書いたが「私は間違ってない」と思いたいだけじゃないのだろうか?しかし、これを受け入れないで「自分じゃどうにもならないのよ」と思うならあなたは自分を欺いていることになる。或いはエゴに騙されていることになる。確かに「個人としての自分」にはどうにもならない。しかし「この自分」も「本来の自分」も聖霊も包含するマインドが決心さえすれば何とでもなるのだ。

今までは間違っていたのだと認めなさい!そうすれば間違いは消えてしまう。何故なら間違いを間違いだとわかるマインドは「正しいマインド」だからだ。それが現前した時点でもうあなたは間違っていないからだ。

上記のアファメーションについて今一度、少し詳しく説明してみよう。神のひとり子たる私たち、外部で起きる出来事に翻弄されるなんてありえないのである。自分がそのように選んでないことが自分の身に起きる、これもありえない。引き寄せの原理とほぼ同じである。なかなか気付けないことだが、私たちのマインドには神と同じだけの力が備わっているのだ。自覚しなくても望んだこと、求めてしまったことは実現しないではいられないのである。言い換えれば投影して外界に反映されるに決まっているのである。

偶然はない、というのは、あらゆる出来事は予め「起こる」と自分で決めたからなのである。そんなつもりはない、と思うかもしれないが分裂したマインドが気づいてないだけだ。「過去生で決めていた」という人もいるかもしれないが、時間は「ない」のだから結局同じことである。あらゆる経験を決定づけているのは自分自身のマインドだ。それが「エゴに支配されたマインド」か「神の御心と同じマインド」か、そこが違うだけなのだ。

自分に起きることは全て自分にとって必要なこと、という考えもある。これもまた同じことを別の言い方で表現したに過ぎない。起きると決めたのならそれは自分にとって正当であり必要だと考えたはずだからである。それがどんなに悲惨で苦痛をもたらすものであったとしてもだ。

神に、あるいは神の御心に偶然などありえない。こちらもまた別の方向で予め決まっているのだ。すなわち「愛と平和」である。だから、自分に起きるあらゆる苦痛や不幸が神によって決定づけられているのだという考えは間違っている。神に与えられた試練だから辛くても我慢しようというのも間違っている。とはいえ、別にそう考えたって良いのだ。全ては神によって決められているのだから黙って淡々とそれを受け入れていくしかない、と完全に腹を括ることができるなら逆説的だがもはや不安も恐怖もないだろう。そこには我慢も辛さも何もなくなるからだ。そしてあなたは解放されるだろう。しかし、これは「コース」の勧める方法ではない。神が与えようと決めているのは不幸や苦痛などという試練ではないからだ。

だからこそ、私たちは「この自分」を捨てて、少なくとも一旦脇において聖霊に委ねる必要がある。聖霊が決めることはそのまま神の御心だからであり、私たちの本来の自然な意志でもあるからだ。あらゆるこだわりやエゴ的な願望はもちろん一旦忘れなくてはならないのだが、これだけでも結構な抵抗や恐怖が生じたりする。が、そうしないと世界は変わらない。逆に言えば、ほんの少しマインドを変化させただけでとてつもないような世界が手に入るのである。聖なる瞬間、聖なる関係はその扉になる。

あなたは一体どうしたいのか?何を求めているのか?ここは勇気をもって100%自分に正直に考えてみてほしい。幸せになりたいと言いながら誰かを責める気持ちがあれば、あなたは幸せでなく神からの分離と罪を求めていることになるのだ。そんなわけはない!と思いたいのは仕方ないが、そう思ったところで喜ぶのはエゴだけである。結局すべて自分が求めたことだった、自分が神とは違う存在・身体を持った個人だと思っていたのが全ての間違いだった、それを認めてしまうほうがずっと楽なのだ。だって、世界や他人が変わるのを待たずに自分の、といっても神と一つである「わたし」のマインドで何とかできるようになるんだから!当たり前でしょう。

何かを求めれば必ずそれが現実化される。求めたという自覚もないかもしれないが、またどういう形で現実化されるかはわからないが、とにかくそうなのだ。ここだけはもう本当に「保留なし・例外なし」で受け入れていただきたい。しかし、間違いを現実化する力があなたにあったのなら、間違いを正し新たに現実化する力もまた備わっているはずなのだ。間違いを正すことこそが解放なのである。歪んだ知覚機能によって相手を認識するかわりにヴィジョンをもってみれば、相手は解放されてありのままの姿に戻る。

たとえ、相手が本当におかしくてひどいことを言ったりやったりしているのを見聞きしても、あなたはそれに反応しなくなるだろう。それを自分の現実にはしなくなるだろう。ただ壊れたテレビが意味不明の画像を映し出しているくらいにしか感じないだろう。

基本に立ち返ってみよう。神の御心と私たちの意志とは本来同じものである。が、神から離れてバラバラになった(と思い込んだ)私たちは、神の御心と違うこともできるんだとこれまた思い込むようになった。そしてそれは外界に投影されあたかも現実のようになった。この現実こそが本当なのだ、そう信じるならば神の御心よりも強大なものが存在すると認めることになる。これが狂気の沙汰でなくて何だろうか?しかし、その狂気を私たちはずーっと大事に守り続けてきたのである。それどころか崇めてきたのである。宗教でさえ、神を自分とは別物である「偶像」に仕立ててそれを崇拝して信仰したつもりになっていたのである。どんな悲惨なことに見舞われても「神の御心だ」とされてしまえば、そんな神は「怒らせたらひどい目に遭わされる」ような恐怖の対象でしかなくなる。もちろん、これまた狂気の沙汰である。

何かを真実だと信じればそれは現実化される。認めたくないかもしれないが、あなたは自分が信じることが実現するように望んでいるのだ。つまり私たちには信じる力もあり、ある意味では強い信仰を持っているのでもある。ただそれを向ける方向が間違っていただけなのだ。私たちは「起こること」を自分勝手に決めておいて、それが「自分にはどうしようもない現実だ」と思い込んでいる。個々の現象に惑わされないでほしい。「何月何日に駅の階段から転げ落ちる」なんてことは実はどうでもいいのであって、あなたはただ「自分は不完全なものなのでヘマをする」という信念を抱いていただけかもしれないのだ。神の御心に従っていれば、やはり何月何日に駅の階段で転んだとしてもそこで誰かに助けられて「聖なる関係」が経験できたかもしれない、それが人生を変える転機になったかもしれない。そういう表出の仕方だって少なくないのである。

細かいことはわからないままで構わないし、無理にわかろうとしないほうがよい。ただ、聖霊の邪魔をしないように、マインドをエゴの独壇場にしないように、聖霊を招き入れるスペースを開けておくようにしておいていただきたい。そうすれば本当に起こるべきこと=神の御心はひとりでに実現されるのである。以前の教えにもあったとおり「予めゴールを決めておけばそれに沿ったことしか起こらない」のと同じだ。

聖なる瞬間は「この世であってこの世でない」状態なので、ここでは創造はなされない。ただ真実がわかるだけである。一切の判断も解釈もなしに、あるがままのものがあるべきように見えるだけである。神と一つである完全なマインドがそのまま外界に投影されるだけである。

神から離れてバラバラになってみようかな、という考え自体がそもそも実現不可能なものだった。しかし、不可能なものを可能に見せ、当たり前のことを不可能に見せるのがエゴのやり口である。アラが見えそうになると慌てて辻褄合わせをして私たちを真実から遠ざけておくのである。科学や医学の新しい発見、なんてのも実はそういうものだったりするんじゃないかと私は怪しんでいる。

以前にも見たように、私たちが何かの「原因」だと思っている事柄は全て「間違った考えの結果」である。歪んだ思考システムの中にいると原因と結果は簡単に混同されてしまう。第一義的に、原因とは創造の源泉=存在=神であり、結果=創造されたあらゆる存在つまり私たち、なのだった。ならば原因と結果とは「ひとつ」であることになる。しかし、普通私たちにとって原因と結果は常に別物である。しかもそれらは実はみんな「結果」なのだ。このあたりを混同している限り、根本的な解決はありえない。原因と結果を混同している限り、私たちは真実から目をそむけたままでいられるのだ。

第246回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 174・175

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 174

第20章 その5

偶像とは何なのか、もう一度整理しておこう。それ自体には全く意味も価値も力もないもの、つまり本当は「実在しない」ものに私たち(のマインド)が何らかの意味や価値や力を与えたうえで、あたかもそれ自体に意味や力や価値があるかのように思い込んで大切に扱ったり攻撃したりするもののことである。偶像と一体化することは普通ありえない。というか、一体化できないからこそ偶像なのだともいえる。何かと一つになっている時、それはもう物体ではない、そこにはもはや物体などなくなっているのだ。

こういう意味合いにおいて身体は間違いなく偶像だ。身体という、それ自体には意味も何もない、それどころか実在もしない「物質」を自分自身だとか「あの人」「この人」などと思ってしまうのは、身体の知覚器官に騙されているからなのだが、このとき私たちは「互いの身体の中に心が入っていて外からは見えない」という感覚になっている。身体がマインドどうしのコミュニケーションを阻む壁になっている。

前回、私たちは暗闇を守りたがっていると書いたが、暗闇を守りたいならオープンな関係など当然不可能だし、いくら愛がほしいつもりでも暗闇にとっては愛などもっとも危険なので「求めよ、されど見出すな」というエゴの箴言どおりの状態になる。そうして「関係」めいたものを持ちつつも「バラバラの個体」を維持するほかはない。ところが、実は(これも繰り返しになるが)その暗闇の中に隠されている(と思っている)のは神に対する恐怖なのである。

そりゃあそうだ。私たちは神に逆らった(と思い込んだ)、そこから全てが始まったんだから、その正体がすっかりわかっちゃったらこの自分もこの世界もエゴも全部終わっちゃうんだから、この個体が自分だ!と思っている限り神は恐ろしいに決まっている。

ところで、神は愛である。ならば、愛である神を恐れつつ愛を経験するなんて絶対不可能に決まっている!しかも、その恐怖をこっそり隠して守っていれば恐怖から解放されることすら不可能だ。だからこそ「隠さず聖霊に委ねなさい」と言われているのである。恐れているという事実から目を背け、見なかったことにするのではなく、しっかり自覚したうえでとにかくただ感謝してみる。

聖霊の目的は私たちを救うことだが、これまた以前にも述べられていたように救われるのはマインドであって身体ではない。が、マインドが救われない限り身体もまた救われない。何故なら身体はマインドが投影されたもの、マインドの一部だからである。

忘れてしまった方もいるだろうからおさらいしておく。聖霊の目的が救いなら、それを得るための手段は「聖なる瞬間」あるいは「聖なる関係」である。そして、そこからもたらされる聖霊の知覚認識即ちヴィジョンである。ここにおいて私たちは身体および身体にまつわる全てを超越する。つまり時間も空間も、そして何よりも「このワタシ」という個人を超越する。乱暴に言えば「捨てる」わけだが、いつも言うように「死ぬ」という意味ではない。にもかかわらず、これはかなり勇気が要るもののようなのだ。何しろ今まで価値があると信じてきたあれこれがいっぺんに消え失せてしまうかもしれないからである。

時間にも空間にも縛られず、あまねく永遠に存在するマインド=スピリットこそが本来の私たちである。が、分離の象徴として身体を持ってしまった私たちは、マインドを身体に閉じ込め、時間と空間に縛られ、実在もせずいずれは消えてしまうような個体の保持や身体の生命の維持が何よりも大切になり、そのためにあれこれ苦労して時を過ごす。これが私たちの人生というものなのだ。しかし、そんな人生(過去生も含めて)も「一瞬の夢」である。神からちょっと注意を逸らしてまどろんだ一瞬の間のことである。それどころか、世界の歴史も人類史も全て一瞬の夢、聖性を忘れた一瞬に見た「と思った」夢なのである。こういう考え方は日本人なら比較的馴染みやすいのではないかと思う。

とにかく、神から離れた(と思った)一瞬にあなたや人類全体の運命を翻弄するようなどんなとんでもないことが起ころうとも、実はそんなものには何の力もない。力があるように感じるのなら私たちがそれを「現実だ」と信じているからである。聖なる瞬間にあっては跡形もなく消えてしまうようなものなのだ。ああ、しかし学びの過程においてはやっぱり聖なる瞬間のほうが「すぐに跡形もなく消える夢のようなもの」に感じられる。私たちの思考システムは逆転しているからである。

それに、まあこれもマインドの習慣みたいなものなのだが、私たちにはこの世のあれこれ、身体にまつわるあれこれ、個人どうしとしての関係などがやっぱり魅力的に感じられてしまうのだ。何もなくただ平和で喜びに満ちている聖なる瞬間や聖なる関係よりもずっと魅力的に感じられてしまうほどである。でなかったら誰もそんなあれこれを苦労してまで追い求めるはずがないではないか。

だからといって「さあ、身体を超越しましょう」と言われても困ると思う。身体のことはとりあえず放っておいて、まずは「人を見たら聖霊と思え」である。何もかも忘れてただ感謝の気持ちでマインドを満たす。これを習慣にするほうが「身体を超越するためのワーク」なんかに励むよりはるかに早くて確実だ。これが「コース」学習の画期的な点でありまた魅力でもある。

神および神から派生するもの以外に「意味」などない。言い換えれば意味を持つのは真理のみである。ゆえにこの世の出来事やこの世の関係には意味がない。というか、意味があるとすればそれが「救いをもたらす気づき」になる場合だけであり、なおかつ「あらゆるものが救いと平和をもたらす」と私たちが決めてしまえばあらゆる経験が自動的にそのような意味を持つものになる。これも以前教えてもらったことだ。

この世に在ってこの世にない生き方をしていれば、つまり「天国=本来の現実」を反映した世界に在れば、あらゆる関係が「神と神のひとり子との関係」と同じものになる。それ以外のものは、かかわったところで却って分離や孤独が深まる結果に終わるだけである。だから「コース」は「特別な関係など求めるな」と言っているのだ。

永遠に変化せず滅びないものなど「この世」には存在しない。しかし、それらを求めるなと言われれば誰だって「いや、そういうわけには」と思うだろう。聖なる瞬間や聖なる関係によってそういう境地がもたらされるとわかれば、これ以上学びを続けるのが怖くなってしまう人も少なくないと思う。いま、それについて考えるのはやめておいてほしい。論理によって考えればスッキリわかってサッパリするのだが、心情的にしか考えられない人のほうが多いのだ。だから「わからなくても受け入れられなくてもとりあえず前に進め」なのである。

何かの恐怖や不安が頭をもたげたら、それは「神に対する恐怖」なのだと認めて聖霊に委ねてしまおう。「コース」も言っているが、当分はこの恐怖の影みたいなものがどうしてもつきまとうだろう。それに流されないように、囚われないように、見ないふりをしないように、すかさず「感謝と平和でマインドを満たす」のだ。

先に書いたように、聖霊の目的と手段すなわち「救い」と「聖なる瞬間・聖なる関係およびそこからもたらされるヴィジョン」には一貫性がある。というか、そもそも「コース」の教え全てが一貫している。何しろ「どこを読んでも全く同じことが書いてある」のだから!ゆえに、ある部分だけ取り出して採用し、ある部分は否定するなどということは絶対にできないのである。救われたいけど聖なる関係なんて無理よ、要らないわ、普通の恋愛でいいわ、なんてことも不可能である。人間関係に限らない、どんなことについても「これだけは別にしてほしい」というのは無理なのだ。

これら目的と手段は一貫性を持っているというより、既に「一つながりのもの」なのである。何にしても手段が先にあるわけはなくて、常にまず目的がありそのための手段なのだが、ならば「コース」の実践は難しいし抵抗があると思うとき私たちは実は「目的」のほうを、すなわち「救い」を恐れているということになる。

これと全く同様に、身体とそれにまつわるあれこれもエゴの目的=分離と罪を現実化することが達成されるための手段である。それはそれとして見事に一貫しているために、誰もがその目的のことを忘れていられるくらいなのだ。身体は「手段」なのだから、そしてそれ自体何ものでもないのだから、罪深いこともない代わりに無垢であることもない。ただ「どういう目的のために使われるか」だけなのである。そして、聖霊の目的のために用いようとするなら、それに先立ってまず身体が超越されていなくてはならないという逆説がある。

誰かの「本当の姿」は身体の目には見えない。見ているつもりでも実際には何も見えていない、というか「見たい」と思うものが見えた気になるだけなのだ。分裂し、しかもエゴ支配下に在るマインドは暗闇の中にいるようなものである。そこで私たちは自分のマインドの中のあれこれを外界というスクリーンに投影しているだけだ。そこに見えるの誰かの「身体」であって、それは本来のその人ではない。

(このあたりは例によって「そうなってみないとわからない」であろうことが羅列してある感じなのだが、まあそういうものなのかと思ってお読みいただきたい。)

(また、ここでは視覚ばかりが取り上げられているが、もちろん視覚機能に限らない、聴覚であれ触覚であれ五感=身体器官による知覚認識機能など全く信用できないと「コース」は言っているのである)。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 175

第20章 その6

私たちはその目的に従って知覚認識する。言い換えれば「見たいものしか見えない」のである。何だかミもフタもないのだが、身体が現実のものだと見えているなら私たちは「罪と分離」を目的にしてしまっていることになるのだ。聖性のない時間、それは身体でいる時間と等しい。それがいわゆる「人生」とされるものである。身体があっても、というか他の人たちからは身体が見えていても要は本人が身体を超越しているかどうかだけが問題なのだから、やっぱり(しつこいが)死ねばよいというものでは全くないのである。

救いという確かな目的に向かっているはずなのに、思考システムが逆転する際には混乱をきたす場合もある。これまで価値があると思っていたものが崩れてしまうからだ。だが、ここまで来たらもう後戻りはできない。苦しいのなら更に前進してみるほうが良い。

救いという目的・ゴールは既に達成され与えられてしまっている。私たちは歪んだ思考システムから脱却して、その事実に気づけばよいだけなのだ。天国ならぬ「本当の世界」においてはまだ知覚認識が必要とされる。しかし、今までの歪んだものではなく正しい知覚認識すなわちヴィジョンによるならば、もはや私たちは誰かを身体だと見ることもなくなる。これは文字通り「身体が目に見えなくなる」というふうに受け取らなくても良いと思う。たとえば誰かが身体によって行うあれこれ、つまり言動に振り回されなくなるということだ。その言動によって誰かを判断することがなくなるのだ。誰かがあれこれ言ったりやったりする、それはたとえば誰かとあなたの間に壊れたラジオか何かがガンガン鳴っているみたいなもので、本来のその人はそんなものじゃない。

あるいは、自分が見る夢の中に出てきた誰かを本来のその人だと思うのは間違っている、これと同じようなものである。とにかく、誰かのありのままの姿はヴィジョンでなければ認識できないのだ。

翻って、自分勝手な解釈で相手を見るとき、この人はこうなんだ、ああなんだと判断するときにヴィジョンはない。あなたは判断によって相手を牢獄に閉じ込め、それによって自らをも牢獄に閉じ込めてしまう。与えることは受け取ることである。判断は自由を奪うのである。言い換えれば、何らかの判断を下しているとき私たちは自覚なしに「罪を犯して」しまっていることになる。判断を下すのは分裂したマインドに決まっている。何故なら「ひとつである全て」には区別が存在せず、従って判断そのものが不可能であるからだ。分裂したマインド、すなわち神ならぬこの自分、神と離れたこの自分が、神と一つであり神のひとり子であるはずの兄弟姉妹に判断を下すなど傲慢以外の何ものでもない。私たちのマインドはどこかでそのことをわかっているので、判断を下すたびに罪悪感が増していくことになる。

愛あるものは判断などしない。ただ愛を与え受け取るだけである。だから私たちは「どうやったら誰かを身体なしに見ることができるのだろうか」なんて思わずに、ただ「この人を無垢な存在だと見たいのかどうか」だけをチェックすればよい。この人が無垢だなんてとんでもないわ!と思ってしまえばあなたは自分まで罪深い存在にする羽目になる。エゴを守ることを選ぶか、解放を選ぶか。

学び初めのうち、ヴィジョンは「垣間見る」程度のものとして訪れる。目覚めるためにはこれだけでも十分なのだが、やはりエゴの抵抗はしぶといため私たちはすぐに元の世界に戻ってしまう。もちろん、瞬間的に判断してしまうのは当面仕方のないことだ。が、「コース」を学んでいればそれを自覚できるようになる(しかも、例外なしに!)ので、すぐにそこから離れて聖霊に委ねることができる。これはもう習慣にするしかないと思う。

何を見たいのか、言い換えればどこにたどり着きたいのか、結局のところそれが問題なのである。神と離れたバラバラの状態、罪深き存在のままでいたいか、救われ解放されたいのか。もっと簡単に言えば、惨めさと苦痛と死を選ぶか、幸せと愛と平和を選ぶかというふうにもなる。これだったら「本来の自己なんて興味ありません」という人でもちょっとは考えるのではないか。

愛も平和も幸せも自分で苦労して手に入れるようなものではない。それどころか、それらは全て既に与えられてしまっているのだ。つまり、「コース」の教えによるならば私たちは惨めで辛い状態でいるより愛と平和に満ちた状態でいるほうがずっと簡単なのである。それらを受け取りたいと本気で望めばよいだけの話なのだ。求めよ、さらば与えられん。本気で望んでいるけどできないわよ!という人は、本気の「つもり」でいるのであって実際には必ずどこかに抵抗と恐怖があるはずだ。何しろ「例外なし」なのだから!

もう一度繰り返しておきたい。ヴィジョンによって知覚認識するとき、私たちは相手の身体=言動に振り回されない。その言動によって相手を判断しない。また、自分のマインドの中身を相手に投影しない。

相手を身体として見る、というのはちょうどこの正反対の状態なのである。もちろん、このときあなた自身もまた「身体」という存在になっている。互いのマインドは身体の中に閉じ込められコミュニケーションが成り立たない。しかも、身体は変化し傷つきやすくいずれは死にゆくような脆弱なものである。そんなものに本気で価値をおけるのか?なかなか現実的にはピンと来ないかもしれないが、まあ普通に考えても「やがては滅びゆくような頼りないもの」と「絶対普遍であるもの」とどちらがより望ましく価値があるか、誰だってわかるはずではないか。

昨今は、ネットなどによって「実際に会ったことのない相手」との関係も珍しくない。相手を実際に見てないんだから身体として見てるわけないでしょ、と思う方もいるかもしれない。そういう場合、身体というと却ってわかりにくいので、個人のマインドつまり「他の誰でもないこのワタシ」だと置き換えてみていただきたい、これは何とまあ「身体」とイコールなのである。というか身体がその「他の誰でもないこのワタシ」の象徴であり、それが投影されたものなのだ。やはり変化し傷つきやすく、いずれは死にゆくような存在である。そんな「ワタシ」がどれほどのものか?大切に守るような価値のあるものか?

では、ヴィジョンを得るためにはどうしたらよいのか?これもまたそのための特別なワークなど必要としない。日常生活の中でできるだけ頻繁に「聖なる瞬間」を招き入れること、聖霊に委ねること、即ち感謝の念でマインドを満たすこと。こういうシンプルなことを根気よく続けるのが結局一番早くて確実のような気がする。

ヴィジョンによるならば、あらゆるものを神の御心に沿って認識することができる。というより、ヴィジョンそのものが神の御心なのだ。ゆえにヴィジョンには全てを癒す力がある。前から繰り返されているとおり、奇跡とは歪んだ知覚認識機能を正すことによってもたらされる。これもかなり信じがたいかもしれないが、世界だの現実だのと思われているあらゆる事物や現象はただ「そう見えている」だけのもの、マインドの中の間違いが乱反射しているようなものなのだ。マインドの外側などというものはない!そうして私たちは見たいものだけを見る。たとえば潜在意識の中の願望によって病気になるなどというのも結局これと同じことを言っているのである。願望の部分が「罪深い、罰を受けるワタシ」から「救いと解放」に変われば知覚認識される事象もそれに応じて変化する。そのようにして新たに知覚認識された事象が「奇跡」と呼ばれるのである。

しつこいのを承知で「コース」に沿って繰り返す。聖なる瞬間あるいは聖なる関係にあるとき、私たちは「神から離れてバラバラの個でいること・罪深い存在でいること」という目的を既に捨て去り「救いと解放・聖性」に向かっている。ここで「目的」が変更されている事実に留意してほしい。目的が変わればそのための手段もそれに応じて自動的に変わる、つまり「歪んだ知覚認識」も身体ももはや不要になり、代わりに聖霊による知覚認識=ヴィジョンが与えられるわけである。

いろいろ疑問もあるだろうと思う。たとえば自分が居住する土地を天災が襲った場合、それも「マインドの中のものが投影された」のだろうか?はい、やっぱりそうなんです。そして、既にヴィジョンを得たものにとっては、人生の中で起きる全てのことがあたかも移りゆく景色を車窓から見るともなく眺めているような感じになると言っても良い。車窓から見えてはたちまち過ぎていくようなあれこれに私たちはいちいち意味づけをするだろうか?何かについて「恐ろしい」と感じる=判断するかどうかはもう完全に私たち次第なのである。外界で起きている(ように見える)あらゆる事象は、本来の私たちにはいかなる影響も及ぼさないのだ。悟った人がどんなときでも泰然自若なのはそういうわけなのである。

これは、外国で起きている戦争だから私には関係ないわ、とかそういうことでもないのだ。もっとも世界のどこで何が起きてもいちいち「我がこと」のように大騒ぎしてパニックを起こすよりはマシだろうが(しかし、こういう人のほうがより問題意識が高くて知的!だと思われたりするのだ)、外国のことは関係ないわと言っている人だって誰かからメールが来るかどうかについては気も狂わんばかりになったりしている。何万人もの人が殺されるような戦争と、普通に考えれば大したことないたった一人からの何気ないメールとどちらが重要か?実はどちらも変わらないのである、何故ならどちらも「幻想」「間違い」に過ぎないからだ。

こうして私たちはいくつもの死を経てもまだ果てしなく苦痛が続くようなこの世界から「本当の世界」に移行する。これは「本来の状態」であるところの天国より一歩手前の状態である。私たちはとりあえず「そこ」にいればよいのだ。神とは別のどこかに何か別のものを探そうとする必要など全くないのである。

第245回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 172・173

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 172

第20章 その3

相手の中に聖性を見て過去の一切から解放し、自らも解放されて自由になり、あらゆるものと完全に一つになる。既に恐怖は影も形もなくなっている。これが天国であり、これこそが神の御心でありキリストの望みであり、また私たちの望みでもあるはずなのだ。なぜならこれが私たちの本来の状態だからである。

また繰り返しになるが、無垢なものは神に守られてもっとも安全であり、心の美しいものは誰の中にも神を見るのである。私たちは最初から永遠の命、永遠の不死を約束されている。それは聖なる瞬間、聖なる関係において明らかになる。誰かを罪なきものとみるとき、私たちの中に恐怖はなくなる。

ところで、今更ながら恐縮なのだが、「コース」には「与える」「受け取る」という語が頻出する。そのまま字義通り読んでしまって構わないのだが、時々わかりにくいことがあるかもしれないので少し注釈しておきたい。「与える」とは、乱暴に言えば知覚認識に先だって「判断する」(判断しないことも含めて)ことであり、「受け取る」とはその判断に基づいて知覚認識することである。もちろん、本来の状態においては判断も認識もないのだからそこでは「与える=受け取る」が全く同時に完璧に成立しており、もはや与えるも受け取るも何もない。聖霊による知覚認識もこれに限りなく近いのだが、それでもやはり投影―知覚認識という形は維持されている。たとえば、何かに対して「愛」だと判断すればそれに基づいて「愛」が知覚認識される。このとき私たちは愛を与え受け取ったことになる。誰かを「罪なき神の子」と判断すればやはりそれに基づいて「自由・喜び」などが知覚認識される。「コース」は「受け取るものを与える」とよく言っているのだが、逆に言えば私たちは自分が受け取りたいものを与えなくてはならないし、また実際に(良くも悪くも)そうしてきたのである。自分がいくら解放されていると思い込んだところで、目の前の相手に対して批判的だったり気の毒がったりしていればやはりあなたは解放されていないのだ。他者あるいは世界は鏡である、とはまさにこのことで、私たちは自分が他者についてどういう判断→知覚認識をしているか見ることによって自分自身を検証することができる。つまり、自分の間違いに気づいて正すことができる。

このあたり、「コース」は「相手があなたに救いを与えてくれる」などという表現を用いることが多いのだが、もうこうなると与えるのも受け取るのも同じようなもの、受け取ったならそれは与えたからだと言っても同じことなのだ。そういうつもりでお読みいただくと少しは分かりやすくなると思う。とにかく「与える=受け取る」はマインドの絶対的な原理・法則なのである。「与える練習」とは、そのまま「知覚認識機能を正すためのワーク」だと言える。与えればその分減る、のではなくて与えればその分増える、これは実はエゴでも同じなのだ。たとえば「あ〜損するわ」と思いながら何かを与えるとき、私たちは「損する」という考えを与えているわけで、そうすれば必然的に「損した」ことになる。

さて、私たちがそう望まない限り何ものも私たちを傷つけることはできない。望むとはそれに力を与えてしまうことである。その力・・マインドのパワーはそもそも神による創造の際に神によって与えられたものであるが、私たちはそれを誤用してきた。実際には「ない」ものを「ある」ように思い込むために、しかも無自覚にその力を用いてきたのだ。しかし、本当の力は正しく用いられるときもっとも強力になる。つまり、私たちが本来の自己に目覚めたとき、私たちは神と同じ力を自在に用いることができるようになるのである。

私たちは「神に背いた」という罪を現実のものと思い込んだ、すなわちその考えに力を与えた。そこから恐怖、惨めさ、苦痛、病、死などに彩られたこの世が出来上がり、私たちはそれも現実だと思い込んだ・・つまり「この世界」という幻想にも力を与えたのだ。私たちが聖霊の導きに従ってそれらに力を与えるのをやめれば元通りの状態になる、言い換えればそれらは存在しなくなる。一方、私たちがいくら力を与えたところでそれらは「より強固な現実のように見える」だけであって、実在しないという事実には変わりないのである。まあ、平たく言えば妄想なのだ。与えればその分減る、という考えもまた妄想であるが、それに力を「与えれ」ばそのようになる。

こういう原理がどう働いているか、それがハッキリわかるのは(或いは知覚認識できるのは)やはり他者との関係においてである。ま、自分が正しい知覚認識ができているかどうか、それをその同じ知覚認識機能によって検証できるのか?と思わなくもないが、とりあえず感謝と平和でマインドが満たされれば「真理を与え受け取った」のであり「解放し解放された」のだと考えてよいだろう。

自由であろうと本当に決めた人なら、どんな状況にあっても自由だけを経験する。まさか、と思うかもしれないがこれこそが「与えるものを受け取る」ということなのだ。それは、この世のあらゆる「常識」を含めた思い込みからの自由、つまり過去からの自由、時間からの自由である。要するに、常に「今ここ」しかない、そういう意味だ。難しく考えないでほしい。

とはいうものの、このあたり「コース」の語り口はもう誤読されてもしょうがないんじゃないの?と思うような感じになっている。聖霊に導かれて解放され救われて天国に至るのをノアの方舟に喩えているのだ。例の「あらゆる生きものが『つがい』で方舟に入れられた」という部分、私たちも解放され救われるのは「二人ずつ」だと言うのである。あ〜、これじゃあ「男女のペアでないと救われない」みたいな読み方をする人がいたっておかしくないわ。おまけに「選ばれたものだけが救われる」なんて読まれちゃったりして?

もちろんそんなことでは全くなくて、二人ずつというのは「けさは駅ですれ違ったオジサン、さっきは会社の上司、いまはコンビニの店員」とそれぞれ「聖なる関係」になってその都度あなたとそれぞれが二人一緒に解放され救われた、という場合だって大いにあるし、極端に言えば5分おきに別の人だってよいのだ。というかそこまで含めないとダメなのだ。いっぺんに3人だって10人だって別に良いような気がするが、まあ例の「特別な関係の浄化」と重ね合わせやすくしているのかもしれない。くれぐれも「コース」を心情的に、ロマンチックに読まないようにしていただきたい。なぜならそれこそがエゴのものなのだから!

とにかく、救いも解放も「あらゆるものに同時に」もたらされる、とはいっても「誰かがどこかで私の分もやってくれるわよね」とただ待っていればよいというのではなくて、私たちは日々これを「個々に」実行していかなくてはならない。それがこの世における私たちの役割なのである。「コース」は「特別な役割」などと言っているが、何のことはない、ただ「個々に」ということであって、つまり私たちの人生や生活はそれぞれ違うのだからその中で出会う人々も違うのが当たり前で、彼らに対して「個々に」同じことを実行していればよいわけである。そうすれば個人的経験が普遍的経験になり、時間内の現象が普遍性を持つ。

救いが完成するのは神の御心だから必然だが、それに気づくかどうかは自分の意志だというのは当たり前だが苦しいところである。気づかない限りあなたにとって救いはなされていないわけで、それが「現実」になってしまう。「コース」は、「あなた一人が役割を果たさないだけでも全体の救いは完成しない」みたいなことを言っているが、別に脅しているわけではなくて、ただ論理的に不可能だと言っているのだ。なぜなら私たちは「ひとつ」だからであり、部分がそのまま全体だからである。裏から言えば、個々の二人ずつが解放され救われていくたびそれは全体に作用する。

それにしてもこんなこと私にできるのかしら?平和になることだって難しいのに大丈夫かしら?と誰もが思うだろうが、まずこれが神の御心なのだということ、そして私たちは本来スピリットであり聖霊と繋がっていることを思い出してほしい。余計なことをして聖霊の邪魔をしないでただ委ねれば、聖霊が私たちの行く道を整えてくれるのだ。純粋精神で生きていれば或いは宇宙に全てを委ねれば何もかもスムーズにいく、と言っても同じことである。スムーズにいかないと思うなら、どこかが間違っているのだ。それがエゴにとっての「スムーズ」ではないことに注意していただきたい。だいいち、「困難だ」と思うこと自体が幻想なのである。

また、これも今更なのだが「あらゆる人を自分の救い主とみる」ことについて「彼(女)がそんなに素晴らしい人だとは思えない、それってあまりにも過大評価じゃないの?だってあの人全然わかってないのよ」と思う人がいるかもしれないので、それについても注釈。まず、あなたがそのように思うことじたいが「投影」なのだと認めよう。これはマインドの普遍的な法則なので、いくら認めたくなくてもどうしようもない。そして、誰かを「神のひとり子、救い主、あなたを解放するパワーを持つ人」とするのはこの世の価値基準による判断なのではなく、端的な事実なのだ。ああだから、こうだから彼(女)は素晴らしい!と思うのは往々にしてエゴの基準による判断に陥る危険が高いものである。そもそも、実は神のひとり子であるような誰かの価値など簡単に評価できるものではないのに、私たちはそれを日常的に平気でやってのけている。エゴの評価など超越したものについて云々するなど傲岸不遜以外の何ものでもないのであって、それをするたびマインドのどこかには相当な恐怖が生じているはずなのである。もちろん、言うまでもなく「傲岸不遜という罪に対する懲罰の恐怖」である。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 173

第20章 その4

話が逸れるが、「コース」原書の半分くらいは詩として読まれ且つ訳されたほうがよいような気がする。真理を直接表すことは絶対に不可能なのだが、クダクダと書くより詩で表現するほうがそれでもずっと楽なのだ。何故ならどうせ象徴でしか表せないからである。しかし、詩となるといくらでも誤読が可能だし、「わかる人には隈なくわかり、わからない人には全くわからない」という傾向がより顕著になる、そういう危険が出てくる。従って「コース」原書の半分くらいがその危険を孕んでいるとも言えそうだ。このブログはあくまでも誤読を避けるための『読解ガイド』なので、詩的な部分についてはミもフタもない論理的表現に直して書いている。何とも無粋なことだが仕方がない。

閑話休題。私たちの本当の価値など肉体の目には見えず耳にも聞こえない。ゆえに、ある人の言動に基づいてその価値を判断することなど本来は間違っている。聖霊による知覚認識(ヴィジョン)はあらゆる言動・現象の向こうを見るものだ。個々の身体であるような誰かが「救い主」であるわけがない!あなたを解放する救い主、神のひとり子だと見るとき、もはや彼(女)は身体を、性別などを持った個人ではない。そこを混同しないでいただきたい。でないと「コース」の教えは単なる理想論・きれいごとにしか見えないだろう。だいたい、キリストやブッダを「ひとりの男性」として判断することなど、まあ形としては可能であっても普通はしないと思う。これなら誰だって傲岸不遜だと感じるからだ。ところが、日常生活で出会うあらゆる人々についても全く同じなのである。

再び、与えるものが受け取られることについて。何かがほしいならまずそれを与えるしかないのだ。平和がほしければまず平和を与える、解放してほしければまず解放する。つまり「そういうものとして」相手を見る。これがヴィジョンである。苦しんでいるもの或いは自分を苦しめるものとして相手を見るならそれは「判断・評価」という知覚認識である。私たちは常にどちらか一方だけを選ばなくてはならないのだった。

エゴか聖霊か?という選択は「身体か純粋精神か」「個々人か神のひとり子か」という選択と同じなのである。驚いたことに(まあ今までの教えを考えれば別に驚くことではないのだが)、コミュニケーションにおいて身体は不要なのである。なぜならコミュニケーションを行うのはマインドどうしだけだからだ。マインドが主体だとしてもやっぱり身体がなければかかわりようがないじゃないの?と思うのは、自分たちが人間だと思っているからである。身体を超越した、つまり時間もこの世も超越したコミュニケーションは聖なる瞬間・聖なる関係において経験されるのだが、それでも私たちはすぐに逆戻りしてしまう。たった一度の経験で完全に覚醒してしまう人もいないではないが、そして本来はたった一度の経験で必要十分なのだが、たいていは途中でエゴの抵抗に遭う。この「行きつ戻りつ」を何百回も何万回も繰り返してだんだんに確信を深めていくものである。最後の一歩がどうしても踏み出せずに終わってしまう人だって少なくないだろう。

過去も未来もなく常に「今ここ」であり、今ここにのみ全てがある。そのとき私たち及び私たちの関係は完全に調和がとれたものになる。実は、こういうことはとっくになされてしまっているのだが、それはそうなってみないとわからない。「コース」はしばしば「あなたがしようとしていることは既になされてしまっている」みたいな言い方をするが、要するにそういうことなのである。

私たちが互いに与え受け取る「神からの賜物」は、身体の知覚器官によっては認識できない、それどころか身体の知覚機能は却って邪魔になるかもしれない。本来私たちの存在そのものが創造の賜物、神の御心なのだが、身体に囚われている私たちにはそれがわからない。しかし、たとえわからなくてもまずは聖霊を完全に信頼して委ねることによって、私たちは聖霊のヴィジョンを通して認識し、理解し、愛することができるようになる。もちろんこのとき私たちは「全てであるようなひとつのもの」になっている!

スピリチュアル風により平たく言えば「頭であれこれ考えず宇宙に任せて安心していなさい」になるのだが、それには自分の理解と想像を超えた大きな存在、絶対的な存在が自分の中にあるという確信がなくてはならない。宇宙が自分とは別の何かだなんて、そんなバカなことがあろうか。

「コース」では宇宙と言わずに造物主=神と言っているわけだが、とにかく私たちのもっとも根本的な存在基盤であり、私たちの中にあり私たちとひとつであるような絶対普遍の存在である。それなくして私たちも存在せず、しかしこうして存在しているからにはやっぱりそれはある。それが私たちの存在に意味を与えており、それなしに「バラバラの個人」などには何の意味もない。なのに私たちは、個人や個人にまつわるあれこれ(人生だの価値観だの意見だの)に重要な意味があると思い込んできた。

さて、あらゆる関係の根底にあるのが神と私たちの関係である。自分とは何か=世界とは何か、であるのと同様に、私たちの日常的な人間関係も神と私たちとの関係をそのまま映し出すものである。すなわち、損得絡みの自己本位で考えたうえ、相手を制御不能な他者だと思っていれば当然のように恐怖がつきまとう。愛だと思っているものは単なる所有欲や執着だったり偶像崇拝に過ぎなかったりする。

これも繰り返しになるが、コミュニケーションに身体が不要であるのと全く同じように、愛にも身体は不要である。というより端的に身体は愛を阻むだけなのだ。前にも見たように、この世の関係とは全て相手を「自分とは別の個体」と見たうえでのものであり、「コース」はこれを「邪悪な関係」つまり聖性のない関係だと断じていた。恐怖や罪悪感を愛だと勘違いし、煎じ詰めれば「相手を自分の思い通りにしたい」だけだったりする。ここでの主体は絶対的普遍的自己ではなくてエゴ的自己である。ゆえにこういう関係においては常に「どちらがより犠牲になるか」、乱暴に言えば「食うか食われるか」であり、たまたまそのバランスが自分にとって好都合なものになっているときに「関係がうまく行っている」とされるのである。聖なる関係において主体はスピリット即ち絶対的普遍的自己、全てである一つなので、そこにはもはや自他の別などなくその大きな自己がひたすら広がっていくような感じである。愛はそういうところにしかない。

たった一人でいて愛に満たされることだってもちろん可能である。物理的に一人だとしても私たちは常に神と一つだからである。つまり、一人でいようが二人だろうが100人だろうが、あなたがエゴでなくなればそこには愛があり、エゴである限り愛はあり得ない、そういうことなのだ。

身体を介した関係は全て偶像崇拝に他ならない、「コース」はそう言っている。偶像は自ら愛することができないのだから、偶像との間には聖なる関係どころか厳密に言えばいかなる双方向的な関係も生じえない。互いに一方通行なものを「関係」と呼べるだろうか?

愛は非常に直接的なものなので、間違って伝わったり誤解されたりすることもありえない。その本質上、完全に理解されシェアされるようになっている。そうなっていないのなら、あなたは偶像を相手にしてしまったのだ。自分のマインドの中で作り上げた誰か、それを相手にしてしまったのだ。お互いに与えているつもりでも、また受け取ろうとしているつもりでも見事にズレズレになってしまう。お互いがそれぞれの偶像を相手にしているからだ。目の前の(或いは心の中の)誰か、に思えているものはあなたのマインドの投影に過ぎない。

愛は完全にオープンで何一つ隠されるものがない。秘密が暴かれるとか「愛し合う私たちの間には秘密がないの」というレベルの話ではない。愛があるところでは何もかもがすっかり明らかである、というのは要するに「私たちは神に造られたとおりの無垢な存在だ」という事実がハッキリあらわれるというような意味だと思っていただければよい。でないと愛が恐怖になってしまう。

つまり、私たちのマインドの中には罪悪感や恐怖などがいろいろな形で潜んでいるのだが、私たちはそれを自分のものとしては見ないようにしている。しかし、何となくそういうものの存在を感じているからいつもどこかに不安がある。それらはまるで暗闇の中に隠されているような感じなので、「心の中の暗闇」なんて言われることもある。しかし、愛に照らされてしまえばその暗闇は消え失せ、そこにあると思われていたあれこれも「実はなかった」とわかる。ここではそういうことを言っているのだ。

一方、偶像は理解などハナからできないしシェアもできない。愛の本質であるこれらが不可能であるという一点において、既に偶像に愛は不可能だとハッキリわかる。それどころか誤解し誤解されるのが当たり前の「常態」である。私たちの日常的な関係を考えればすぐにわかることだろう。だいたい、罪悪感や恐怖が根底にあれば「損したくない」「傷つきたくない」「認められたい」などなどの願望が生じるのは当たり前で、そうなると自分を守りたくなる。そして、守りは攻撃を前提にしたものなのだから、守りも広義の攻撃に含まれることになる。とすれば、その関係は本質的に「闘い」と何ら変わるところがないのだとわかる。

これもしつこく言われていることだが、愛はエゴにとって存亡の危機をもたらすものであった。エゴに支配された私たちは暗闇を守りたいのである。その中に潜んでいるであろう恐ろしいあれこれが飛び出してこないように、パンドラの箱のような暗闇を守りたいのである。となれば、全てを照らし白日の下にさらけだすような愛は非常に危険なものになる。

第244回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 170・171

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 170

第20章 その1

キリスト教には「聖週間」あるいは「受難週」と言われるものがある。大斎節(四旬節)の最後の週、キリストがエルサレムに入城する「棕櫚(しゅろ)の主日」から、捕えられ十字架につけられたのちに蘇る「復活祭」までの一週間のことである。別にこんなこと知らなくても「コース」学習に支障はないが、この章では聖週間のモチーフが使われているので一応触れておく。

「コース」によれば聖週間は、私たち「神のひとり子」が過去生も含めたこの世でたどる旅路を象徴的に凝縮したものである。旅の始まり=エルサレム入城は棕櫚という「勝利のしるし」で表され、罪と恐怖と罪悪感=エゴの誘惑=磔刑(金曜日)は茨の冠、蘇りと永遠の命=救いの完成=復活祭は無垢さを表す白百合がそれぞれシンボルになっている。

復活祭というのは一般に(東方正教では違うようだが)「春分節の直後の満月の直後の日曜日」なので、まさに春本番。長く厳しい冬が去った解放感と喜びに重なるようになっている。キリスト教ではクリスマスよりイースターのほうが重要だとされている。キリストが生まれなければキリスト教もなかった、のだが生まれて死んだだけでもやっぱりキリスト教はなかった、復活したからこそ意義があるわけだ。実際、クリスマス礼拝はおごそかだがイースター礼拝はずっと明るい感じがする。季節のせいだけでもなさそうだ。

それはともかく、棕櫚に象徴される「勝利のしるし」とは私たちの旅が達成されること、つまり救いが必ず与えられることを意味している。旅の始まりからそれが約束されているのは、私たちは実のところもともと救われているからである。

聖週間を考える際に重要なのは、「救い=復活のためには私たちの罪が受難によってあがなわれる必要がある」のではない!という点である。罪があるからあがないがある、そのように解釈してしまうことこそが「エゴの誘惑」なのだ。救われるためにあれこれ苦しむ必要はない、とんでもなく悲惨な目にあう必要もない。むしろ、そんなものに惑わされて救われるのを遅らせるなと「コース」は言っている。逆に言えば、エゴに支配されている間はどうしても受難や苦痛を免れない。浄化=苦痛を伴うという誤解については以前にも述べたことがある。

しかし、一度死んだからこそ「復活」と言えるわけである。しいて言うならばここで死ぬのは「エゴ」であり「幻想」なのだが、「コース」はそういう場合においてさえ死という語を使っていない。とにかく、第20章の初めの部分は象徴的表現を多用して「いつもと同じこと」を繰り返しているのだと思っていただいて構わない。たとえば、別々の個人=身体として相手を見たり接したりすることを「茨の冠を贈る」、スピリットどうしとして相手を「無垢な、神のひとり子」として見ることを「白百合を贈る」などと表している。

私たちの「身体の目」にはどんなに美しく魅力的に映るものであっても、実際にはただのガラクタであったりそれどころか「茨の冠」だったりすることが多いのだ。お金、地位、美しく着飾った身体、美辞麗句などなど、それは茨の冠に過ぎないのに私たちはそういうものを使って相手を惹きつけようとする。実際には価値がないどころか「実在さえしない」それらを相手が受け入れれば、その人は「価値のないものを有り難がるような価値のない人」になり、同時にそれを「価値あるもの」として用いた自分もまた同様に「価値のないもの」に成り下がる。もちろん、「コース」は私たちにボロを身にまとった一文無しになれと言っているわけではないし、きちんとしたドレスコードのあるような場所にパジャマで行けばよいというものでもない。要は価値の置き方―どこにもっとも価値を見るかの問題なのである。

というより、身体の目には「本当に美しく価値あるもの」など見えないのだ。それが「見える」(知覚認識できる)のは身体の視覚器官ではなく聖霊によるヴィジョンである。

私たちが与え受け取るのはそれが「もの」に見えても、実はその「もの」に付与された価値である。お金だってそうですよね。予め価値を付与されていなければただの紙片であり金属片に過ぎない。それにただ機械的に何かを手渡しする行為自体には別に意味はなく、そこで授受されているものが何らかの意味を持つとお互いに認識しているからこそその行為にも意味が生じるのだ。とすれば、つまり何かを与え受け取るのはマインドであり、それに先立って価値を付与するのもまたマインドであるとわかる。形のない「愛」を与え受け取るのももちろんマインドである。しかし、前にも述べられているように私たちは愛のつもりで恐怖や攻撃や罪悪感を、つまり茨の冠を与え受け取ってしまったりする。マインドは「価値がある」と思うものを求めるのだが、それが実は自らを傷つけるものだということに気付かず「茨の冠」を求めてしまうわけである。「ひとは見たいものしか見えない」と言っても同じことだ。

更に、マインドは自らの「住処」と定めたところを大切にする。神や天国が自らの住処だと思えていれば問題ないのだが、バラバラに分裂した私たちのマインドはまさにそれにふさわしい「ほかの誰でもないこのワタシの身体」を住処としているので、何ごとも「身体中心」になってしまう。すなわち、身体の知覚器官が認識するものを現実だと捉えて重視し価値を置くのである

たとえば、誰かの愛を求めたつもりでその人の言動・・・つまり身体表現ですね・・にとらわれ、その奥底にある愛が見えない。愛を与えてくれないと思って相手を非難し攻撃する。これはまさに「茨の冠を与え受け取った」わけだが、このときマインドはそれに価値があると判断しているのだ。より良い、という意味ではない。より本当であり、より現実的だと、つまり「真実だ」と判断したのである。かくして「真実は恐ろしい」という思い込みまで強化される羽目になる。

さて、既にご存知のように「人を見たら聖霊と思え」であり「あらゆる人があなたの救い主」であった。なのに誰かに「茨の冠」を与えればあなたもまたそれを受け取る、つまり苦しむことになる。

逆のケースも考えてみよう。相手があなたに茨の冠を投げつけてきてもあなたはそれを受け取らないこともできる。その人が本当は持っている白百合を受け取って与えることもできる。すなわち、全て「相手がこうしてきたから」と言って他人のせいにしてはならないのである。

自分や相手を「バラバラの個人」だと、つまり身体だと見ていれば私たちは「分離」とその産物である茨の冠を与え受け取ることにしかならない。しかし、ひとつである神の子だと見ていれば相手がどうしてこようとも聖霊のヴィジョンを通して見ることができる。

相手の中にキリストを見るとは、自分のマインドの中のキリストを解放することでもあるのだ。「コース」の言う『キリストをゆるす』とはそういうことである。要は、みな同じ神のひとり子だということなのだ。聖霊のヴィジョンを通せばあらゆるものが完全で愛しい存在になる。見知らぬものなど何もない、平和を阻むものなど何もない、ありとあらゆる幻想を透過して「神に由来する本当のもの」だけが知覚認識され、私たちは見出すべきものを見出すのだ。

この聖霊のヴィジョンをもてあそんではならないと「コース」は言っている。気の向いた時だけちょっと使わせてもらって、それでちょっといい気分になっておしまい、なんてことにならないように。とはいうものの、最初のうちは真剣にやろうとしたってどうしても「時々しかできない」のは仕方ないと思う。

ここですごいのは、あらゆる人を聖霊であり救い主だと見てしまえばあなたは常に聖霊や救い主とともにいることになる、という事実である。話の筋道からして当たり前のことだが、やっぱり改めてビックリする。そんなものと一緒だったら幻想を解体するくらい簡単なのではないか。聖なる瞬間、聖なる関係において幻想から解放されるとはこういうことでもあるのだ。

私たち(のマインド)の本当の住処は幻想というヴェールの向こう側にある、といってもやっぱりひとつのマインドの中にあるのだが、ともかくこれは身体の目で見ることができないものである。それを神と言っても天国と言っても真理といっても「知」だと言っても同じことである。今まではどこをどう探せばよいのかわからなかったのだ。なぜならそれはエゴによって隠されていたからである。言い換えれば「怖くて見ることができなかった」からである。前章の「平和を阻む障害物」を思い出してほしい。

救い主があなたをそこに連れて行ってくれるのであり、あらゆる人が救い主なのであれば、何とあらゆる人があなたをそこに連れて行ってくれることになる。いつ、誰が連れて行ってくれるの?ではなくて、常に「今ここ」で、出会う誰もがその可能性を秘めている。そのためにはまずあなたが目の前の誰かをゆるし解放しなくてはならない。スイッチさえ押せればあとは私たちの中の聖霊がやってくれるのだが、そのスイッチはあらゆる人の中にありそれを押すのは常にあなたの役割なのである。なさけはひとのためならず、ではないが「ゆるしはひとのためならず」自分自身のためでもあるのだ。

復活祭とは、一年に一度ではなく常に今ここにある。これは「過去」を捨て現在に目覚めることにおいて本来の自分に戻る、つまり完全にして自由な永遠不変の存在になるというあかしである。十字架の受難も死も「なかった」のだと気づくことである。通常の意味で「生まれ変わる」=転生とは「身体として死に身体として生まれ変わる」ことなので、混同しないように注意してほしい。

さて、私たち人間もこの世界も「神から離れてしまった」と思い込んだところから始まった。初めに間違いがあった、というわけだがその「間違ってできた」身体や世界を「現実だ」と思い込むためにはいろいろな誤魔化しが必要だった。言い換えれば、私たちは当初の間違った思い込みに合わせてマインドを調節してきたのである。私たちの知覚認識機能が歪んでいるのもそのせいであって、間違いが現実に見え聞こえるようにするためには歪ませるしかなかったのだ。

たとえば、罪という考えは「つじつま合わせ」みたいなものである。神から離れてバラバラになったという間違いをそのまま「間違いだ」と認めてしまったら身体も世界も成立しなくなる。それを現実に成立していることにするためには、当初の勘違いを「間違いではなく本当に起きたことであり、それは神に逆らったという罪である」としておかなくてはならない。

一事が万事、この調子なのである。あることを「現実だ」とするためには次から次にいろいろなつじつま合わせをしていかないとどこかで矛盾が生じ、自分や世界の存在を根底から疑わなくてはならなくなる。それはエゴの存亡にかかわることだ。ゆえに、エゴは必死になって私たちのマインドを間違いに適合させ、そうして投影された現実にマインドをまた適合させる、これを繰り返してきたわけである。

本来の状態においては何もかもが「直接」知られるものであるのに対して、とりあえずであっても身体を持って生きている世界ではあらゆるものがマインドの投影によって認識されているという事実とも重なるのだが、この世では何であれ「直接」経験することができないのである。というより、本当の現実を直接経験しないでいるために身体もこの世も作り出されたのだと言ってよいだろう。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 171

第20章 その2

絶対普遍であるようなものを直接知り経験できない以上、私たちは何らかの形で「認識」するしかないのだが、以前にも述べたようにあらゆる認識は認識であることにおいて必ず相対的にならざるを得ないのである。

私たちは、見たいように見て思いたいように思う。それがどんなに自分を傷つけるもの、不愉快なものであってもそうなのだ。ここはまずきちんと認めなくてはならない。この「見たいように見て思いたいように思う」ことを「コース」はここで調整という言葉を用いてあらわしているが、ま〜辻褄合わせみたいなものである。しかし、これにはどうしても無理がある。だからこそ私たちはいつも完全に信じることができなかったり疑いを抱いたりするのだ。それどころか、あらゆる認識が相対的ならば「絶対こうだ!」なんて思ってもいけないことになるし、むしろ思わないほうがよいくらいだ。私は絶対に正しい!なんて思ってしまったら学びも不可能になってしまう。だったら腹を決めて何もかも疑い続ければそのうちどこか明るいところにふと抜け出たりすることもあるのだが、そこまで徹底できる人はそうそういない。たいていは「見たいように見て思いたいように思って」そういうことにしておく、のである。要するに、エゴにとって不都合なものは見ないふりを決め込むと言ってもよい。

人間関係においても全く同様なことが言える。私たちは本来神とひとつ、神の一部なのだから「他者と関わる」ということじたいがありえないのだし、この世においてもスピリットどうしとして関わり合えればそれは「聖なる関係」となる。しかし、この世における通常の人間関係は全て「自分とは違う他者」とのかかわりだ。聖なる関係においてはあらゆる壁が取り払われ、私たちは「ひとつもの」として直接かかわりあえる。直接かかわってしまったらもうエゴの入る余地はない。だからこそエゴはそんなことにならないように巧妙に動くのである。たとえば、相手と直接かかわるのは危険だと私たちに思い込ませる。まあエゴのままで何もかもさらけ出してぶつかり合ったらそれは恐ろしいことにもなるだろう。エゴどうしのままで相手の心を全て読めてしまったら、あるいは読まれてしまったらそれもまた恐ろしい事態だろうと容易に想像がつく。

かといって、エゴなしのスピリットどうしでかかわられてしまってはどうしようもなくなるので、エゴとしてはあの手この手を使って邪魔をする。しかも「私がうまく仲介してあげますよ」といって私たちを騙す。エゴに支配された私たちは、人間関係を円滑にしようとか自分が得しようとか傷つかないようにしようなどと考えて却って溝を広げてしまう。エゴは、私たちがますます「分離した」状態になったほうが都合がよいのだから、結局はその状態が維持されるように仕向けるだけなのだ。

たとえば、一瞬でも聖なる関係が生じたとする。それなのに私たちは「ちょっと待って、ちゃんと言葉で表現されてないじゃない?」「今はいいけど、でもあの時は何だったの?」「別につきあってるわけじゃないし」「私が得したわけじゃないし」と思ったり「この状態をずっと保ちたい」と思って執着してしまったりしてせっかくの聖なる関係をぶち壊すことが多い。聖なる関係にはエゴ的な辻褄合わせが不可能なのだ。つまりエゴから見ると全く価値がない、それどころか危険極まりない。聖なる関係において私たちは何も疑問や不安を持たないようになっているのだが、その状態がエゴには耐えがたいのだ。

ところで、私たちは自分が作り出したものに本当に満足しているだろうか?どこに危険が潜んでいるかわからないこの世界で、びくびくして脅えながら或いは怒りに燃えながら時を過ごして最後は死んでいく。危険な敵を作り出しておいて、それに合わせてマインドを武装したり闘ったりするからますます危険な敵の存在は現実味のあるものになる、いわばマッチポンプ状態である。

言葉や振る舞いによって、私たちはいくらでも相手をだますことができる。別に犯罪なんかじゃなくても心の中で「このバカヤロー」と罵りつつ「あらまあ、素敵ですね」とにっこりすることなんか日常茶飯事である、とわかっているからこそ私たちは相手の気持ちをどんなふうにも推測し疑うことができてしまう。そして、そういう自分なりの解釈あるいは自分のマインドを投影した認識に依拠した推測に基づいて私たちは相手に対する態度を決定する。これは私たちがごく普通に毎日おこなっていることだが、人間関係のあらゆる問題は苦悩は全てここから生じると言ってもよい。すなわち、理解し合うどころかどんどん分離していくのである。こういう方法でうまくいくのは余程理性的な人、つまり自分の考えや感情を一切排して相手の内在論理をつかめる人だけだし、そうしたところで一体感が得られるわけでもないのだ。そういうわけで、言葉をはじめとして「身体」を用いるコミュニケーションのやり方では、それらを聖霊に委ねない限り直接的な関係・聖なる関係を構築することなどできない。

先に述べたように、私たちは「神なき世界」あるいは「神はいても自分とは別物」であるような世界を作り出し、いかにもそれが現実だと思えるような膨大かつ巧妙な辻褄合わせをしてきたのであるが、実のところ(これもいい加減しつこいが)世界は私たちのマインドの投影に過ぎない。言い換えれば、あなたが自分をどう見るか・判断するか、これがそのまま世界の在り方を映し出しているのである。なかなかぴんと来ないかもしれないが、自分とは何か=世界とは何か、なのである。それだけだ。世界など「ない」のに、「在る」ように見えている。せめて「コース」が言うところの「本当の世界」なら幸せなのに、私たちは自分自身を断罪しそれを外界に投影して「苦労が尽きない人生、悲惨なことが終わらない世界」「無慈悲な世界」を作り出している。おおもとのマインドが変わらない限り、どんなに科学技術が進歩しようが社会革命が起きようが世界は大して変わらないし、また私たちも依然としてあれやこれやの苦痛を免れないだろう。

聖なるものにとっては聖なる世界しか存在しない。これは上記の原理から考えれば当然である。世界を変えたいのなら、まず目の前の不特定の誰かとの関係を聖なるものにすることだ。そんなことで済むのかと思うかもしれないが、そこからしか始まらないのである。いくら環境や社会機構だけをいじったところで根本の問題が変わらなければどこまで行っても世界は変わることがない。

これを別の言い方で表すと・・・私たちのマインドはいくつにも分裂してしまっているのでどれが「本当の自分」なのかわからない。だからこそみんな「本当の自分」なんかを求めて必死になるのである。しかし、その求め方がよくない。マインドの中の永遠不変ではない部分で探し求めてしまえば、「本当の自分」なるものもコロコロ変わる。従って私たちはそれを虚しく求め続けて見いだせない羽目になるのである。スピリット以外の部分はどうせ何にもわかってやしないんだから正しい答えなんか見つかるはずもないのだ。「これが本当のあなたよ!」などと言われたひには、おそらくその「自己イメージ」に自分を合わせて生きていこうとするようになるだろう。そして遠からず破綻をきたすだろう。

要するにまたしても同じことなのだ。スピリットではない「個性を持ったこのワタシ」など何ものでもない、何者かと問う価値さえない、それどころか「存在さえしない」。それが存在して何らかの意味と重要性を持つなんて考えるだに傲慢だしアホくさい。そんなことを信じているうちは宇宙も真理も何も理解できるわけがないのである。すなわち、これまたしつこいのだが、スピリットあるいは聖霊以外のものをガイドにすれば何もかも間違えたまま、宇宙も真理も愛も知らないままになってしまうのだ。それが「ない」ところをいくら探したって見つかるわけがない。和尚の喩え話に「家の中で針を落としたのに家の外を探す」というのがあるが、そんな感じだと思う。

とにかく、勝手に悲惨な世界を作っておいてそれを現実だと思ってそれに合わせて生きるなんてバカバカしいと思いませんか?

聖なる関係の目的を私たちはわかっていないのだ。出会う誰もが神からの賜物であり私たちの救い主だということが、お互いの中に光り輝く聖性があるということがわかっていないのだ。聖なる関係なんてステキ!と思ってエゴのままで求めたところで、何にもならないのである。例によって「辻褄合わせ」をして「こうだから、ああだから素晴らしいに違いない」「こうすれば、ああすればスピリチュアルになるに違いない」と思ってもますます呪縛が深まるばかりである。最初からダメなものはダメなのだ。俗なものが聖性を実現できるわけもないではないか。

私たちは時間が始まった最初からずっと、重い鎖に繋がれて苦痛に満ちた生を何度も繰り返してきた。あまりにも長いこと暗闇にいたので光を忘れてしまった。だからいきなり自由を与えられてもどうしてよいかわからないのである。うれしいと感じるより先に動揺が来たりする。恐ろしくなって、せっかくつかみかけた自由をまた手放してしまうことも少なくない。

しっかりつかんでいなさい!目を開いてしっかり見なさい!と「コース」は言う。目の前の誰かの中にあなたの自由があるのだ。どちらかが、或いは両方共が苦しんでいるように見えても私たちの中の聖性は手つかずにある。それを見なさい!と「コース」は言っているのである。

第243回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 168・169

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 168

第19章 その8

身体はそれじたいでは何もできない、これはなかなか受け入れがたい事実だと思うがとりあえず「そういうものだ」と思っていてほしい。何しろマインドの投影に過ぎないのだから、マインドなしには存在する(ように見える)ことさえないのである。身体は自ら何もしない、つまり臓器が勝手に動いて細胞が勝手に再生して血液が勝手に循環していると考えるのもまた「間違いだ」ということになる。身体の機能とされているさまざまな働きもまたマインドが「そのように機能するものだ」と決めた結果に過ぎないのである。それどころか身体はそれじたいでは勝手に死ぬことさえできないのだそうだ。病は気から、というレベルでもない。「病は気から」と決めればそうなる、というだけの話なのだ。

身体を聖なる目的のために使うやり方にもいろいろあって、たとえば100歳過ぎても大変元気に活動する場合もあればキリストのような場合もある。それは個人の置かれた状況によって違うのだが、その「違い」こそ、「個々の相違」という特殊性がこの世で聖なる目的のためにその場その場でもっとも適切な形を取って活用されうることを示している。

私たち(のマインド)がそのように決めれば、身体は損なわれることがない。「コース」は「肉体の死」という言葉を使わず「身体は用が済んだら静かに横たえられる」などの表現を使っているのだが、要はそれくらい「死」という概念がエゴのものであり神の御心ではないと強調したいのだろう。

人は死を恐れ忌避しつつも、死ぬことを「神に召される」と言ったりもする。神が命を取り上げるなら神は悪魔なのか?前にも書かれていたと思うが、死はもっとも恐ろしいものであると同時に「救い」でもある、そういう位置づけにされている。死ぬのは身体であって魂は神のもとに帰るというのなら、「生きて」いるとき魂はどこにあるのか?身体の中に閉じ込められているというのか?生きている間には神との交流は不可能なのか?自分であれ他人であれ、死んでしまったら会えなくなり話もできなくなる、つまりコミュニケーションが取れなくなると私たちは思っているのだが、だったらコミュニケーションを取っているのは身体どうしなのか?魂はどうなるのか?魂レベルのコミュニケーションは死なない限り不可能なのか?

死は救いでもなく終わりでもない。死んでもマインドが解放されていなければ葛藤は終わらない。私たちの、或いは神とのコミュニケーションは身体があってもなくても可能であるし、可能でなくてはならない。それらは本来身体によるものでも身体に阻まれるようなものでもないのである。身体意識の有無と生死とは無関係なのだ。

死を恐れている人ほど死を求めている、「コース」はハッキリそう言っている。それが認められなくても、死を恐れるのは死の実体性を信じているからだ、ということくらいはわかるだろう。「ない」とわかっているものを恐れることはできないからである。「ない」のに「ある」と思い込んで恐れるならそれは妄想と言われる。死を恐れるとは取りも直さず「真理から目を背ける」ことなのだが、死んでしまえばもう永久に?真理から遠ざかっていられる。真理から目を背けたければ当然死を求めるしかないのだ。たとえ当人はそれを「恐れている」つもりであっても、である。

キリストは「死んで復活する」という離れ業のような奇跡をやってのけたが、それでも私たちは身体の虚構性に気付くことなく2000年以上も過ごしてきてしまった。普通はとても不可能と思われる(というよりもはやおとぎ話だと思われる)ような現象も「コース」の論理から言えば可能なのである。なくした脚を一本生やすくらい「コース」に言わせれば多分何でもないことなのだろうが、皮肉なことに本人が身体性にこだわって「復活」を求めたら奇跡なんか起こらない。

私たちの葛藤や苦しみを終わらせるのは死ではなく、エゴの代わりに神あるいは真理という考えを受け入れることである。身体がないのだから死はない。あるいは死は常に今ここにある。どちらにしろ「いつか必ず来る恐ろしいもの」や「苦痛からの解放」ではない。言うまでもないことだが、死は「時間の枠内」の現象だ。私たちにとって「誕生」と「死」とは対になっていて、その2点を結ぶ線が「人生」だと言える。そして、いまの私たちにとって誕生は過去であり死は未来である。死を恐れなくなるとは取りも直さず時間から解放されることでもある。つまり、死もまた幻想であり夢なのである。それがわかれば「この世」から解放される、或いは「この世に在ってこの世にない」在り方をするようになるわけだ。

死を恐れ死に恋焦がれていてはマインドの奥底から平和が流れ出ることができなくなるのだが、やはりこれも私たちがこの「狂った考え」に囚われてそれに力を与えない限り何の影響力も及ぼさない。つまりこの障害物もまた「実体のないもの」なのである。

身体から解放されたいと望むより、間違った指示から身体を自由にしてやりなさいと「コース」は言っている。身体は私たちの目的に奉仕するものである。目的が「死」であり「破壊」ならそのようになるし、愛であり平和ならそのようになる。死ぬというのは何だか「闘いに負ける」ようなイメージを持ったりするものだが、死が生を打ち負かすことなどありえないのだし、死が私たちを引き裂くこともありえないのだ。これは「神がエゴに打ち負かされることはない」のと同じなのである。「コース」が言う「生きる」とは身体の生命の謂ではなく、生まれもせず死にもせず永遠に存在するというような意味である。
あなたは身体を殺さないし、身体があなたを殺すこともない。何度も繰り返すが、「ない」ものにどうやって左右されることができるのか。

聖なる瞬間、聖なる関係にあるとき私たちの中の救い主キリストが姿を現し始める。「コース」は非常に象徴的な表現で「みどりごが再び生まれる」と書いている。私たちの中にある救いという目覚めはまだ始まったばかりかもしれないが、それは神と完全につながっており完全に守られている。私たちは邪魔をしないでそれを育ててやればよいのだが、そのためには常にあらゆるものをゆるし感謝し、その「みどりご」がすくすく成長できるようなマインドの状態を保つことが重要だ。あらゆる奇跡はここからもたらされるのである。

この「みどりご」が再び生まれるのはある日あるときという時間内の出来事かもしれないが、それじたいに年齢はない。というかそもそもスピリットに年齢はないのである。年齢とは変化を示す目盛みたいなものなのだから、変化しないものに年齢はありえない。

真に無垢なものは絶対に傷つけられない。これは以前述べられたことである。真に無垢であるこのみどりごを育てつつ、みどりごに従っていこう。それは十字架への道ではなく救いへの道である。

恐怖に襲われた時、その原因が何に思えたとしてもそれは単なる「象徴」に過ぎない。天災、病気、身内の死、裏切り・・・あなたの恐怖の本当の原因はそれじゃない。それらを混同して原因を取り除こうとしても絶対にうまく行かない。だから自分で恐怖の原因を突き止めようとか判断しようとしたりしてはいけない。神から離れてしまったという罪悪感以外に恐怖の原因などないのである。恐怖の象徴は同時に罪と死の象徴でもある。ここまでわかればもう十分だと思うのだが、「コース」はやはり聖霊に委ねろと言っている。

この恐怖を私から取り上げて私の代わりに判断してください。私がこれを破壊のために使わないようにさせてください。これを平和への障害物にせず、むしろ平和を呼び込むために使えるようにしてください。私のためにそのように役立ててください。

「平和を阻む第4の障害物=神に対する恐怖」なのである。これが最後の障害物だ。死の恐怖が取り除かれたら、そこにはもはや過去も未来もなく今ここだけがあるようになる。そこで見えるはずのものこそ、私たちがもっとも見たくないものなのだ。より正確に言えば、エゴがもっとも見せなくないものなのだ。なぜならそれを見てしまったら世界が終わるからである。神から離れ(たと思っ)て、バラバラの個人として作り上げた世界が終わってしまう。まあ、私たちがエゴと一緒にでっち上げた幻想の世界が終わるだけなのだが、それは今(まで)の私たちにとっては全てである。世界も自分も終わってしまう!滅亡だ!と、ごく普通に考えれば十分すぎるほど恐ろしいことではある。しかし、これを保ったままではスピリチュアルもへったくれもないのである。

私たちはエゴと共犯関係にある。それなのに神を、真理を見てそちらに行ってしまったらエゴを裏切ることになる。きっとひどい目に遭わされる、復讐されるのではないか!そういう恐怖も手伝ってなかなかこの最後のヴェールを剥ぐことができない。その向こうにはキリストの顔がある。これが本当のあなたの姿でありあらゆる人の姿なのだ。つまり「どんな人もキリストに見えるようになる」というくらいの意味だと思ってほしい。しかし、黒っぽいヴェールを通して見えるキリストの顔は病み苦しむ男の顔である。それこそが今の私たちのマインドの投影なのだが、そんなものは真っ平ごめんに思えてしまう。

神を恐れている限り救いも癒しもありえない。それは誰でもわかると思う。問題は、その「神を恐れている」という事実を私たちが気づいていないことである。どちらかというと知らないふりをしているのに近い。本当は「真実の生」を恐れて死を求めているのに死を恐れているつもりになっているのだ。この自分と世界を失うのを恐れているとは要するに本来の自分と真実の世界を恐れているのと同じなのである。

が、やっぱりここでもう一度事態がひっくり返される。本当の本当には私たちは神を求め神に焦がれている。エゴはそのことを私たちに気付かせなくないのでこんな巧妙な策略を巡らしているわけだ。本来の自己、真実の愛、真理などといったものを「求めよ、されど見出すな」にさせているのだ。だからこそ、これら「4つの障害物」を持ち出して私たちを平安から遠ざけてもいるのである。

しかし、どんな障害物でも所詮は思い込みの産物であり幻想に過ぎない。その向こうにある愛の力には全くかなわない。そして私たちの中にもその愛はあり、聖なる瞬間においてその愛を解放することによってよりたくさんの愛がもたらされ障害物も消え失せるのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 169

第19章 その9

この世界を作り出したのは私たちのマインドであり、私たちが自らの意志によって創造力を誤用した結果なのであった。私たちの意志はそれくらいのパワーを持っている。聖なる目的に目覚めそれに身を捧げる決心のうちに、私たちは自らの意志の用い方を見直すことになるのである。

簡単に言えば「この自分の意志ではどうにもならないことに振り回され翻弄されるのが人生」という思い込みを捨てるのである。(「コース」はそう言っていないが、逆にこのような考え方を丸ごと受け入れてしまえば、つまり完全に腹を括ってしまえばもうなにごとにも囚われなくなり、希望も期待も絶望もなくなり、従って恐怖もなくなり、この世に在ってこの世でない生き方ができるようになる。どうにかしたいという「自分」がいなくなるからだ。こちらは東洋的なやり方である)「自分の意志ではどうにもものに常に翻弄される」と思っていれば心の平安などありえないではないか。じゃあ、何もかもが自分の思い通りになるのかといえば、「バラバラの個人であるところのこのワタシ」の思い通りになるわけもない。いや、実はそれも全て思い通りになっているのだが、肝心のマインドが分裂していて何を求め何を拒絶しているのかわからなくなっているので「求めてもいない不幸に襲われた」などと感じるわけである。ここで自分の意志は神の御心と同じものだと認められれば、神にはないようなものを求めることなどありえなくなる。非常にシンプルなことなのだが、あなたが平安・平和だけを求めればそのようになりますよ、とこれだけの話なのだ。愛も平和も、神にあるものは全て私たちの奥深くに備わっているからである。

さて、「コース」学習の特徴は日常生活における人間関係を学びのためのチャンスとして最大限に活用することであった。ひとりきりで目覚めてしまったような場合であっても、その目覚めが本物なのかどうか日常的な人間関係で検証できる。聖書にもある通り、日々接する誰かれを批判せずに愛することができないような者がキリストに従うなど、絶対に不可能なのである。だからこそ「人を見たら聖霊と思え」なのだった。

繰り返しになるが、毎日の生活の中で顔を合わせる人々やテレビなどで見かけるだけの人々、みな同じように「罪なき無垢なもの」として見る。相手がどんなにエゴまみれ、幻想まみれに見えようともそこを透過してその奥に在る聖霊を見る。相手の中に在る聖霊を信頼する。これが聖霊による知覚認識であり、ゆるしなのだ。

ここでもう一度おさらい。(「コース」は初めから最後まで同じことだけを言っているので、私のブログでもやっぱり同じようになってしまう。まあ、繰り返さないと忘れてしまうこともあるからちょうどいいのかもしれない)。誰かを批判したり非難したりするとき、私たちは実はその人を恐れている。恐れているから(心の中でこっそりと、であっても)攻撃するのだ。そしてますます罪悪感を募らせる結果になる。再び実は、このとき私たちは神を恐れ神に対して罪悪感を抱いているのである。隣人を敵にするものは神を敵にしていることになる。私たちはゆるせないものを恐れるようにできている。自分自身をゆるせない者は、それを他人に投影させる。自分は正しいんだからあの人を、上司を、政府を批判するのは当然よ!というのはもう明らかに「エゴによる目くらまし」であって「一見、自分が偉くなったようないい気分にさせておいて、実はより不幸にさせている」というエゴの策略である。また、周囲の誰も信じられないからカミサマにすがる、なんてのも不可能なことだ。そのときあなたはカミサマさえ本当には信じることができないはずだからだ。

特別な誰かなんて必要ないのだ。あらゆる人があなたにとって救い主になりうる。目の前の誰かにそれを見出した時、誰かとの間に聖なる関係が生じたとき、私たちにはあがないの準備ができたことになる。兄弟姉妹とともに歩むとはそういうことなのだ。さあ一緒に「コース」学習をしましょう、などというものに限定して考えないでほしい。逆に言えば、どんなにすばらしい人と、どんな強いご縁の人と出会ったとしてもあなたが「救い」「あがない」という聖なる目的を持っていなければそこで構築される関係も無意味なものになってしまう。それに、エゴは相当しぶとい。私たちは案外簡単にどこかで聖なる関係を一瞬なら経験できるかもしれない。しかしあっという間に逆戻りなんてことも全然珍しくないのである。そうやって行きつ戻りつ、3歩進んで2歩下がるみたいなことをしながら学びは続くのである。もちろん、スピリチュアルにも宗教にも全く関心がないような人が何かのきっかけでいきなり究極な気づきと覚醒を得てしまう例もあるが、たいていは学びを続けて準備を整えるものだ。しかし、気を付けないと救いを求めているつもりでますます苦痛を呼び込むとか、あるいは永久に救われない方法で救いを求めるというエゴの罠にひっかかってしまう。「コース」が有り難いのはそういう細かいところまできっちり掬い上げてくれている点にあり、「コース」に沿って学んでいればなるほど無駄なことはしないで済むのである。

あらゆる恐怖が実は死への恐怖だと前回述べられていたが、その背後にあるのは神に対する恐怖だった。言い換えれば本当の自分に対する恐怖である。恐怖があるうちは愛にたどりつけない。これは基本中の基本である。だからといって、まずは自分の中の恐怖を探って完全に駆逐してしまおうなんて考えてあれこれのワークをしたりセミナーに通ったりする必要もない。端的に「聖なる瞬間を招き入れる決心をしろ」ということなのだ。一瞬でもいいから自分を捨てる。このやり方のほうが余程早くて確実だ。

目の前の相手がどんな人なのか全然わからないと私たちは怖くなったり緊張したり不安になったりする。しかしここで必要とされるのは身体的な個人情報なんかではない。相手が心の中で何を考えているのか知る必要もない。そんなものによって相手を判断したり解釈したりしても私たちの目指すものには到達できない。極端に言えば、たとえば名前も知らない見知らぬ人との一瞬のかかわりの中で救いがもたらされることもある。

それどころか、目の前の相手が憎しみで狂っているようなときこそ解放のチャンスかもしれない、そういう人こそあがないをもたらしてくれるかもしれないのだ。何しろ「人を見たら聖霊と思え」である。私たちは相手の幻想を共有してはならない。同調したり抵抗したりして自分を守ろうとしてはならない。だいたい、守るべき自分ってどの自分なんですか?その代わりに気持ちを鎮め思いやりを持ってただ相手の向こうにある聖霊を見る、そうすることによって具体的に何をすべきかは自然にわかる、これも既に述べたことである。間違ってもエゴのままで「友好的に話し合って解決しよう」なんて思わないように!

とにかく、目の前の(あるいは画面の中の?)誰かをどう見るか?こんな日常的なことがそのまま救いに直結する、これが「コース」学習の素晴らしい点である。批判すべき罪深い人、あなたを苦しめる人だと見ればそれはそのままあなた自身のことである。当然、救われない。あなたと同様、相手の中にもあなたをゆるし解放する力があるのだ。たとえ相手が気づかなくてもあなたはそれを受け取ることができる。何故ならそれを与え受け取るところは「ひとつ」だからだ。分裂した個々のマインドではなく「ひとつ」であるマインドだからだ。

誰のことも敵にしてはならないのだ。たとえ心の中だけであっても、である。私たちは相手を愛しているつもりで平気で敵にしてしまっている。愛しているつもり、救ってあげたいつもりでも、相手が自分の思い通りにならずそのことに不平不満を持っていればこれはもう敵だと言ってよい。相手が悩み苦しんでいるから私が救ってあげよう、と考えるのさえ「コース」の原理に従えば間違っている。そのように見ている「私」こそが間違っているのである。相手が間違っているとして、それを「悩み苦しんでいる気の毒な人」とみれば私たちは相手の間違いを現実化するのを手助けしたことになり、共犯関係になってしまう。そしてそのとき私たちは神を敵にしてしまっている、これを忘れないでほしい。

しつこくおさらいなのだが、私たちは与える物を受け取る。つまり、あなたが自他について知覚認識するあらゆる事象はことごとくあなたのマインドの投影である。いくら認めたくなくてもこれだけは間違いない原理であり法則なのだ。この扱い方に知悉するだけでも日々のあらゆる出来事が全部「ワーク」「学びの機会」になる。

与えるとは「判断・知覚認識」することでもある。そのように見ればそのようであり、そのようなものを自分が受け取ることになる。あなたが苦しんでいるなら、他ならぬあなたじしんが自らに苦しみを与えたのだ。そして、目の前の誰かはあなたを牢獄に縛り付ける者にもなり救い主にもなる。それを決めるのはあなた自身(のマインド)である。

相手がどんなにひどい人だったとしても、「ひどい人」と見ているのはこの自分なのだということを今一度よく考えてみてほしい。いや、誰から見てもあの人はひどいよ、という場合であってもだ。そんなのは言い訳にもならない。そんな正当化をして喜ぶのはエゴだけだ。いまのあなたの目にどう映ろうとあらゆる人が本当は聖なる神のひとり子なのだから、そのことを祝福し、その人に信頼と希望と思いやりを捧げるのだ。それが相手を解放し、あなた自身をも解放する。想像上の罪というヴェールの向こうに行けば私たちの姿は消え失せる。神による平安と安息が常に、永遠に存在するそこにはもはや人影などないのだ。失うのではなく見出され、認識されるのではなく知られるようになる。神による救いのみわざから外れてしまうものなど何一つない。何故なら私たちは初めから救われているからだ。このことに気付けば私たちの旅路の目的は果たされる。

もっとも、ここまで学びの旅を続けられたということ自体が私たちの選択の結果なのだ。つまり「コース」学習が自分にとって何らかの意味があり有用だと「信じる」からこそ続けてこられたのでもある。あなたが信頼したものはその信頼に足るものであり、あなたの信頼に必ず応えてくれるであろう。

この世界およびそこで生きることじたいには何の意味もない。目的がなければ意味は生じないのであり、本当にはありえないような実現不可能な目的ならやっぱり意味は生じない。この世界で生きることに意味があるとすればそれはこの世界を超越して生きることなのだ。すなわち、この世界から解放され神と一つという本来の姿に至ることなのだ。何とも逆説的だが、もともとこの世界がそういうものなのだから仕方がなかろう。

第242回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 166・167

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」166

第19章 その6

「平和を阻む第2の障害物=いろいろなものを与えてくれるから身体には価値があるという思い込み」

まず、身体があるから生きているのだ、だから身体はありがたいという思い込みもあるだろうが、これが間違いであることは既におわかりだと思う。身体を生かしているのは、あるいはそもそも身体が「ある」と思っているのはマインドなのである。

そして、身体は「ない」のだからそれ自体では何もしないしできない。ただマインドが投影されているだけだ。ゆえに、身体によって与えられているように思えるあれこれは全てマインドがやっていることだとわかる。言ってみれば身体は単なる通信機器のようなものであって、分裂したマインドAからの情報をやはり分裂したマインドBに伝達する役割を果たしているのである。携帯電話が自らの意志でしゃべっていると思う人がいるだろうか?携帯電話に苦楽の感覚があると思う人がいるだろうか?とても卑近な例で恐縮だが、(マインドが)幸せなら何を食べてもありがたくおいしく感じるのに、不安や恐怖やウツに襲われているときは何を食べてもおいしくないとか身体を動かすのが楽しい人もいればたまらなく苦痛だと言う人もいる、などという事態を考えてみてほしい。要は身体の問題ではないのである。身体の痛みが実はマインドの痛みである、そういう考え方ももはや珍しくないではないか。だったら身体の快楽も実はマインドの快楽であるはずだ。

そして、身体による快楽も苦痛も煎じ詰めれば「刺激」であり、ものすごく乱暴な言い方をすればマインドが完全に平和な状態にあるとき刺激はないのである。マインドが平和になったら刺激がなくなっちゃう!これを恐れる人は少なくない。そういう人々にとっては刺激がないことこそ、つまり身体の存在を感じないことこそが恐怖なのであり、刺激さえあればそれが快楽だろうが苦痛だろうがもう区別がつかなくなってしまうのだ。刺激によって自分の、というかエゴと同化した自分の存在を確認しているようなものである。しかも、それら刺激は全て「罪深い自分に罰を与えるもの」か「自分の罪深さを一瞬忘れるためのもの」かのどちらかなのだ。つまり結局同じようなものなのである。なぜならば、身体の感覚によって自らの存在を確認するとは「神と離れてバラバラの個人」「他の誰でもないこのワタシ」を確認することにほかならず、それは神に逆らって分離したという「罪」を確認することでもあるからだ。

上に述べたように、ある人にとって苦痛であることが別の人にとっては快楽になるという事態を考えればわかることだが、苦痛も快楽も相対的なものである。まあ、二項対立していること自体において既にこれらは幻想だと言ってしまってもよいのだが、ともかく相対的であるからには真理ではありえない、つまり幻想である。それらを失うのは「犠牲」だろうか?マインドの平和を求めたら私たちは大きなものを失って不幸になるのだろうか?そんなバカな話があるか。自分を苦しめているものを失う、これは解放ではないのか?

この考え方はまさにエゴの思考システムのものゆえ、あがないと死を混同したり愛と恐怖を取り違えたりする思い込みとも地続きである。

何でもそうだが、便利なものほど不便である。便利になった反面その弊害も必ず生じるのがこの世の法則みたいなもので、身体もまた例外ではない。使いようによっては便利だが、今の私たちにとっては弊害のほうが大きい。

変な話だが、身体は本来「ない」のだから別にあってもなくてもよいようなものである。しかし、ただなくせばよいという問題ではない。「コース」が言うのはむしろ「身体意識」のことなのではないかと私は感じている。実際にこの世で生きていようが身体意識がなければ別に不便はないし、死んだところで身体意識が残っていればエゴは消えず救いも解放もありえない。「コース」は間違っても身体を無くせ=死ね・全身不随になれ、なんて言ってるわけではないので念のため。身体意識があるうちは愛も平和も幸せもちょっとしか味わえませんよと言っているのである。身体がなかったら愛も平和も幸せも何もないじゃない!と思うかもしれないが、それどころか事実は逆なのだ。

エゴは「苦しむことができるもの」に目をつけるのだが、初めから苦しみを与えようとすれば誰だって嫌がるに決まっている。だからコインの表裏である快楽をちらつかせて私たちを釣る、騙すのである。快楽を求めてうまく行かなければ苦痛だけが残る。ここで「しまった、騙された。あんなものを求めたからこうなったんだ」と気づけばよいのだが、たいていの人は苦痛から逃れようとしてますます快楽を求め、その結果ますます苦痛を味わう羽目になっている。ところで、身体そのものは苦しむことができない!

いいですか。身体は「ない」のだから身体による快楽もまた「ない」。別に求めたっていいけど無駄なのだ。ないものを求めてどうするんですか?そして身体による苦痛もまた「ない」のだから、がっかりする必要もない。何より、どちらも実はマインドによるものなのだという事実を認めるべきである。身体をどういうふうに用いるか、それを決めるのもまたマインドを措いてない。身体がマインドに逆らって勝手に何かすることはありえないのだ。もし逆らっているように思えるならそれは「身体はマインドに逆らうものだ」「身体は思い通りにならない」とマインドが決めたからである。

身体がマインドの投影である以上、マインドは身体を媒介して自分自身を経験すると言ってもよい。マインドが平和なら平和を、罪深いなら恐怖や罪悪感という苦痛を経験するわけである。

身体意識があるうちは無限の喜びなど得られない。一方で苦しみが限度を越えればおそらく身体は「死ぬ」だろうが、それで苦しみがなくなるわけでもない。苦しんでいるのはマインドだからだ。が、それでも苦しみには限度がある。なぜならそれは「神と離れてバラバラの個体」という「存在の限度」を設けたところから生じるものだからだ。幻想は、一つの幻想が終われば次の幻想、というようにエンドレスに続いていくようにも思えるが、一つ一つに限度があるからこそこんなふうにしか続きようがないのだともいえる。

再び、あなたは何を求めているのか?救い・解放・癒しを求めているのか、あれこれ形を変えながら限りなく続く恐怖や苦痛を求めているのか?快楽が実はそれらと同じものであると聞かされてもまだ快楽を求めるか?

しかし、この第二の障害物も私たちがそれに力を与えさえしなければ何の障害にもならない。一瞬でもその思い込みを脇にどければ、つまり聖なる瞬間を招き入れれば私たちの中に元々ある平和が溢れ出るようになっているのだ。本当の平和・平安は常に「今ここ」にしかない永遠不変なものであり、永遠不変であるスピリットからスピリットへ運ばれていくのである。まあ、これも正確に言うなら「私たちはひとつのスピリットであり、そこには尽きせぬ平安があることに気付く」というふうになるだろうが、その気づきを与え教える即ちシェアすることによって内なる平安は外にも顕現されるようになる。これが聖霊による知覚認識、投影ならぬ拡大作用である。

要らないものを手放すのは解放であって犠牲ではない。私たちは何も犠牲にしないで天国の門を入ることができる。むしろ入らないでいるほうがよほど「高くつく」のである。あらゆるものが既に与えられているところの「神のひとり子」であることを忘れて自分が惨めな孤児だと思い込み、トンチンカンなところに助けを求めては苦しむなどという「無駄な犠牲」を自ら払うのはもうやめよう。自分のためにならないことは兄弟姉妹のためにもならず、世のためにもならない。罪の終わりとは、罪がなかったと気づくことである。その曇りのない目で周囲を見れば私たちは解放される。

前回の繰り返しになるが、私たちが自分自身をあるいは誰かに罪を見れば、つまり批判したり苦しんだり恐れたりすればそれはキリストに罪を見たことにもなるのである。私たちがゆるせばキリストをもゆるすことになる。キリストを「私たちの罪をあがなって十字架で死んだ」ものではなく「罪なきもの」として見ればキリストを、そして私たちの中にある神のひとり子を幻想から解放することになる。そのうえであらゆる人の中にキリストを、つまり罪なきものを見るようにしてみよう。私たちは自分自身のマインドをキリストに投影しているのだということを忘れないでいただきたい。キリストは無垢だが私たちは罪深い、というのは文法的には可能だが実際にはありえないことなのだと肝に銘じよう。

キリストがいうところの「世に打ち勝つ」とは罪悪感やそれに伴う「懲罰」への恐怖などという幻想から解放されることである。私たちが本来あるべきところ、即ち神のひとり子が神と一つであるような神と神のひとり子がともに分かち合うようなところに救いはあり、それは常に「今ここ」にある。

犠牲などという考えが頭をよぎったら、自分でどうにかしようなんて思わずに全てを聖霊に委ねてみよう。そうすれば限りない平安が与えられ、私たちは解放される。こういうことは字面だけ見ると今一つピンとこないのだろうが、マインドが平和であるとは要するに何があっても落ち着いて冷静でいろということなのだ。ヘラヘラしたりボーっとしたりしているのとは全く違う。人間関係においても相手の言動によって(あるいは心の中であれこれ想像して)カチンと来たり落ち込んだり不安になったりすれば、それは「冷静さを欠いた」ことになる。そんなふうになりそうになったら聖霊に全てを任せてしまおう、と考えてよいと思う。落ち着いて安らいでいたいならただ待っていないでマインドをそのように方向付けしなくてはならないのだ。そうやってまずマインドをオープンにしないとスピリットは出てこない。言い換えれば聖霊の助けが受け取れない。聖霊と目的を共有しない限り、聖霊にもどうすることもできないのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 167

第19章 その7

身体を通して何を経験するか、それは私たちのマインドが決めるのであった。選択は私たちのマインドしだい、例によって「エゴか聖霊か」「愛か恐怖か」の2者択一になる。

身体の自律性を信じ、身体に価値を置きすぎれば不可避的に私たちは身体によって裏切られる。

永遠不変なものを信頼すればいつだって間違いないのだ。何しろ永遠不変なのだから裏切られることなどありえない。翻って、身体は「永遠不変ではない、神ならぬバラバラの個体」「罪と恐怖と罰」という幻想を現実化?するために、その裏付けとして生じたようなものなのだから、発祥からしてもう信頼に値しないことは明らかである。

前回にも書いたことだが、身体を通して快楽を求めようとすれば必ず苦痛もやってくる。別に「身体的快楽が罪深い」からではない。最近「身体が喜ぶ」という表現をよく見かけるが、だったら身体を喜ばせる自分というものが身体のほかにいると考えていることになる。語るに落ちたという感じもするのだが、それでもやはり自分がこの身体であると思い込んでいるのは明らかで、こんな矛盾したことが平気で出来るのはマインドが分裂している証拠なのだと思う。だいいち、身体が喜ぶなんてことはありえないのだ。身体が「ない」なんてことはなかなか受け入れられないとしても、身体はマインドに従う「道具」だと考えてみてほしい。あなたは道具を喜ばせようと思うだろうか?道具が喜んでいると思うだろうか?

念のために、「コース」はここで「身体による快楽は精神の快楽より浅い・低級だ」などと言っているのではないのであって、身体による快楽など「ない」と言っているのだ。ないものを求めるから苦しむ羽目になるのだと言っているのだ。

自分をこの身体だと思うのは取りも直さず自分とエゴを同化していることになる。そこには必ず罪悪感と恐怖が付随する。とすれば当然そのマインドは恐怖に支配される。恐怖に支配されたマインドで快楽だの救いだのを求めても苦痛しか得られないのもまた当然なのである。エゴはそうやって私たちに苦痛を、ついには死を求めさせているのだ。

恐怖に支配されたマインドは苦痛を求めるようになっているとはいえ、もちろん私たちはこのことに自覚的ではない。自覚できるくらいならとっくに止めているだろう。だから「コース」は自覚せよと言っているのである。

前回、身体は通信機器みたいなものだと書いたが、普通の電話などと違ってこの場合「送り手と受け手は同じマインド」である。要するに「自分が与えたものは自分が受け取る」ということだ。聖霊に従うならこれは喜び以外の何ものでもない。なぜなら聖霊は「良きもの」しか与えないのであなたも当然「良きもの」だけを受け取る結果になるからだ。

しかし、エゴは違う。まずエゴは「送り手と受け手は別だ」というふうに思わせる。さんざん繰り返されてきたことだが、ある現象があなたにとってどういう経験になるかはあなたの認識(判断)次第なのである。私は何もしてないのに相手がひどいことをした、災害に見舞われた、病気になったなどなど「送り手」は常に自分以外の何かだとされる。これはまあ当然のことで、送り手と受け手が同じ自分だとわかってしまったら誰が自分にダメージを与えるようなことをわざわざしようと思うだろうか?誰かを憎み批判することが自分を傷つけ否定することに他ならないと知ったら、誰だって少しは考えるだろう。私は間違ってないわ、正しいのよ!と思えてちょっとスッキリするかもしれないが、つまり相手に何らかの形で罰を与えればすっきりすると思うかもしれないが、実際には救いから遠ざかるばかりなのだ。今の日本で普通に生活していればあまり遭遇しないことだろうが、相手に文字通り身体的暴力を加えるのが快楽だと考える人もいないわけじゃない。これが実際には内側の恐怖を増し自己否定がひどくなることに直結するのも上と同様な理由による。

ともかく、身体がないと生きていけない、あるいは身体が死んだら自分も死ぬと思っているなら、あなたは自分が身体だと思っていることになる。

また、身体の欲望を恐れたり憎んだりして身体を蔑視し痛めつける人は、身体が罪深くまた自分は身体であると思っている、つまり自分は罪深いと思っていることになる。古来、修道僧などにありがちなことだが現代では摂食障害などもこれに当たるのではないかと思う。逆に「欲望万歳、だから身体は素晴らしい」と思っていれば、その欲望がうまく満たされなくなることを極端に恐れるようになる。それは自分の死と同じことになるからだ。

どういう形であれ自分が身体であると思っている限り、私たちは死に向かっていることになる。エゴが私たちに与えるのは結局死につながるものでしかない。死を究極の懲罰と認識するのであれ解放だと認識するのであれ、事態は変わらない。他の人とは違うこの身体=自分であるという思い込みには必ず「神に逆らってバラバラになった」という罪悪感が伴うからだ。

一方で、聖霊は解放をもたらすものである。私たちが聖霊に全てを委ねれば自分の中の聖霊が送り手かつ受け手になるので、私たちはあらゆるものを解放することで自分自身もまた解放されるようになる。これもさんざん繰り返されてきたことだ。

「平和を阻む第三の障害物=死に惹きつけられること」だそうだ。私は死にたいなんて思っていない!死ぬのなんて御免です!そう思っている方もまあ読んでみて下さい。別に自殺願望なんて意味じゃないんです。上にも書いたように、自分が身体だと思っていればもう不可避的に「死に向かっている=死に惹きつけられている」ことになってしまうのだ。当たり前ですよね。だからちょっと皮肉っぽい人は「私たちは生まれた瞬間から死に向かっている」とか「人間は誰でも死刑囚である」なんていうのである。エゴを称える暗い歌を歌い、嘆き悲しみながら黒い喪服に身を包んで自分自身の葬儀に向かって罪人どもが行進している光景を思い浮かべてみてほしい。

たいていの人は死を恐れているだろうが、その一方で死に惹きつけられてもいるのだと「コース」は言っている。どうやらエゴに支配された私たちは恐れているものに惹きつけられるようになっているらしい。これについては「平和を阻む第四の障害物」のところで詳しく説明されるのだが、確かに「怖いもの見たさ」という言葉もあるし、自分を傷つけ堕落させるかもしれない危険なものに惹かれてしまう傾向は多かれ少なかれ誰にでもあるものだ。

葬列に加わっている人に対して灯りをともし、「あなた、そんなことする必要はないんですよ」とわからせてやる、つまり赦しを与えてやるのは傲慢なことではない。それは神の御心であり、スピリットである私たちは神の御心でもあるからだ。神には死も罪もない。それを「ある」と思うほうがよほど傲慢なことなのである。

罪や罪悪感や死はエゴから生じるものだが、聖霊からもたらされるのはひたすら生と無垢である。それらが神の御心だからである。ゆえに、聖霊に従っているとき私たちは無垢なままで生きており、罪や罪悪感や死から解放されていることになる。

不安や恐怖に脅え、怒りに震えているようなとき私たちはもはや「生きて」いない。死に向かっている、死に自らを捧げているのである。生まれも死にもしない私たちは神と同様に永遠に不滅な存在であり、ただ「生きて」いる。これは身体の生命のことではない、なぜなら神は身体を造っていないからだ。永遠の生=私たちは「死なない」というのも別に不老長寿のことではない。身体ではない以上、私たちは実際に死ぬことなどできない。死ぬとか死んだとか「思う」ことはできても実際に死ぬことはできない。たとえ、いくらそう望んだところで「なくなる」ことなんかそれこそ死んでも不可能なのである!

死んで埋葬されるのは「私たち」ではなく「身体」である。罪のために死を宣告された身体である。滅びゆくもの、堕落し腐敗するもの、それを私たちは「自分」とみなすのか?あるいは誰かの身体を「その人自身だ」とみなすのか?極言すれば、誰かがなくなって嘆き悲しむというのは大変失礼かつ傲慢なことなのである。なぜなら、その人を「身体」と同一視し、その身体が罪のために死んだと認識することに他ならないからである。誰か大切な人がたとえば若くして亡くなったとき「彼(女)がいったいどんな悪いことをしたというのだ!神も仏もあるものか」と言って嘆くのは珍しい光景ではないが、これなど罪と死が直結する考えを端的に表している。何も悪いことをしていないのに死ぬなんて!というのがそれこそ「ゆるせない」のである。そして、場合によっては「過去生のカルマ」だと言われて納得したりもする。「あなたに彼(女)の身体が見えなくなっただけですよ。今までだって見えているつもりだっただけですよ」なんて言ったら怒り狂うに違いない。

私たちは通常、身体を「分離の象徴」として、更にその身体に価値をおいて生きている。初めからエゴの思考システム即ち「この世の常識」に従って生きている。しかし、身体そのものは本来「ない」のだからマインドの指示によってどうにでもなるものであり、聖なる目的のために聖霊によって有効活用することもできるのだった。聖なる目的のために役立つ間は身体を完璧なものに保つこともできる。たとえば、マザーテレサに代表されるような、それこそとんでもない衛生状態のところで困難な仕事にあたる修道女たちはもともと大して頑健でもないのに、「神の御用」に身を捧げるようになってからは病気一つしない、そういうことが実際にあるわけだ。

身体を大切にするのが悪いことだと言われているわけじゃない。身体をどのようなものだと認識して、更には何のために大切にするのか?それが肝要なのであり、平たく言えば聖なる目的のために自らを奉仕するような日々を送っている者には身体あるいは身体的なあれこれ(つまり恋愛をはじめとする人間関係や金銭など)に一喜一憂している暇などなく、にもかかわらずそのことによって却って身体の健康が保たれるケースが少なくないのである。

第241回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 164・165

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 164

第19章 その4

「コース」は、もう本当に丁寧に「罪というものはありえない」ということを解説してくれている。ああ、そうなのかと納得したつもりでも、それが本当の気づきと理解に至らない限り私たちは相変わらず罪という考えを捨てられず、従って恐怖や不安や攻撃とも縁が切れないままになる。しかし、それでも以前とは違う。同じような不安や恐怖に襲われても「これは間違いなのだ」と認めて聖霊に委ねることができるからだ。感謝してマインドを平和な状態にすることだってできる。この違いは大きい。

そして私たちは既に「聖なる瞬間」と「聖なる関係」について学んでいる。ここにおいて罪という考えは根こそぎにされるのだ。聖なる瞬間から抜けて元に戻ってしまえば、また同じようなことをするかもしれない。長年の習慣がそうさせてしまうのである。しかし、そのたびに聖霊に委ねていれば次第にそれが新たな習慣になり、ついには罪という考えも消え失せるのだ。

自分が罪深いと思っていなくても、相手に対して怒りや批判を覚え、相手が罪悪感を抱くように期待すれば同じことになる。「わかってほしい」というのも実はこれである可能性が高い、とは以前に述べたはずである。そういう意味で、人間関係は格好のワークになるのである。明らかに相手が「間違っている」と見えた場合でさえその間違いに反応しない、つまり相手の間違いを現実のものにしないようにする。このやり方も既に教えられている。聖霊に全てを委ね、聖なる瞬間に入ってしまえば具体的にどうすればよいかはその都度しぜんにわかるようになっているのだ。

聖なる瞬間において、私たちは聖霊による知覚認識機能をもってあらゆる知覚経験をおこなうことができるのだが、これは言い換えれば罪なき目であらゆるものを見るということでもある。今まで現実だと思われていた光景は聖なる光に照らされて変容する。そこにはもはや「他者」などいない。あなた自身でもある神のひとり子が見えるだけである。人を見たら聖霊と思え!救い主キリストは聖霊でもあるのだから、あらゆる人の中にキリストを見ればあらゆる人が救い主になる。あらゆる人を聖霊と見ることによって、あらゆる人の中にキリストを見ることによって、あなたも相手も同時に解放され癒されるのである。

さて,「コース」学習における動機づけは「マインドの平和」を得ることだった。覚えていらっしゃるだろうか?本当の愛だの真理だのと言われても今一つピンとこないだろうし、歪んだ知覚認識機能を正すと言われてもいま現在歪んでいる自覚がなければやっぱりピンとこないだろうし、そういうものは動機づけになりにくい。しかし「マインドの平和」なら、つまり恐怖も不安も怒りも何もなくマインドが穏やかで満ち足りた状態というのであれば誰だって何となく見当はつくだろうし、なるべくしょっちゅうそういう状態でいられたらいいなと思うだろう。本当は幻想であるあれこれがあってもなくても、とにかくマインドが平和で満ち足りていれば人は幸せなのである。

私たちのマインドの奥深い部分はいつも平和で満ち足りた状態なのであり、それを与え教えていれば拡大あるいは投影の原理によって私たち自身もまた周囲の人々も平和を受け取り、更には「神の子すべて」に及んでいくことになるのである。しかし、例によって私たちはそれを阻む障害物を作り出してしまっている。どれも私たちが自ら作り出したものだが、その中には「自分以外の何かによって邪魔された」みたいに感じられるものも多い。私は平和でいようとしたのだけれど、相手が暴言を吐いたから・仕事をクビになったから・戦争が起こったから平和ではいられなくなった、などと思うわけである。

平和を与え教えようとする過程において、私たちはこれらの障害物に必ず突き当たると「コース」は言っている。ここではもちろんその対処方法について教えてもらえるのである。

これもまたおさらいなのだが、目的地が「平和」だとするとその手段は「聖なる人間関係」なのだった。ひとりっきりで平和になるのはそれほど難しくない。自分以外の何かから邪魔されたと認識してしまわないようにするのが課題なのだ。別に自然災害や戦争を待つ必要もないのであって、日常的な人とのかかわりの中で十分ワークができる。きょうは一日平和でいようと思った矢先に駅で変なオッサンにぶつかられただけでぶち壊し、なんてことだってあるからだ。どんな場面においても心乱されることなく平和でいられたらどんなによいだろう!と思いませんか?だったら他人のせいにしないで頑張ってみよう。

忘れてはならない。私たちのマインドの奥深い部分が平和で満たされているのと同じように、私たちが出会うあらゆる人のマインドもまた奥深い部分は平和で満たされているのだ。たとえその人がどんなに荒れ狂っていても、である。相手がもともと「持ってない」ものを与えるのではなく、同じものが共鳴し響きあい増幅するようなイメージだと思ってほしい。前に出てきた「相手を信頼する」とは、相手の中にもまた聖なる平和があるのだと確信することでもある。そして、誰かにやすらぎを与えるとは、その誰かが自分の中にある平和に気づきそれを受け入れることでもあるのだ。

こういうことが歪んだマインドにできるわけもない。当然ながら例によって聖霊の助けと導きが必要になる。平和が乱された、と感じたらその障害物と見えるものには注意を払わず、すぐに全てを聖霊に委ねるのだ。そう言ってわかりにくければ、ムカッと来たらとりあえず「理由なく」感謝の気持ちになってみてほしい。そしてその気持ちのままで相手を見てみてほしい。そのときあなたは聖霊の目で相手を見ているのであり、相手を聖霊と見ているのである。目の前の人間関係に聖霊を招き入れるとはこういうことなのだ。もちろん、このとき過去のあれこれはあなたの認識に何の作用も及ぼさなくなっているはずである。そしてこのときあなたの中にある平和があらゆる人々に及び、あらゆる人々を包み込むことになる。あなたの知覚認識はすっかり変容している。そしてついにはもはや何も認識する必要のない境地にまで至るのである。

「平和を乱す第一の障害物=平和を排除したいという気持ち」ときた。まさかそんな!と思うだろうが、平和でいるかいないか決めるのはあなた自身を措いてない。自分以外の何ものかに左右されるとしても、そのような影響を受けるかどうか決めるのもまたあなた自身を措いてないのだ。かといってそれら「障害物に見えるもの」を取り除こうとするのもまた間違っている。誰かにひどいことを言われたからもうその人とは絶交するとか、戦争は平和を乱すから戦争反対運動をするとか、恋人がいなくて不安定だから恋人を作ろうとするとか、そういうのは全部これに当てはまる。これがなぜダメなのか、なぜおかしいのか、もうわかりますね。これら障害物に見えるものは全てあなたが作り出した幻に過ぎないからである。実在しないものを「ある」と認定したうえでそれを取り除こうとするなんてバカバカしいの一言に尽きる。バルタン星人を実在のものと勝手に認定して日々それと闘うのがバカバカしいのと同じなのだ。

平和はあなたの中にある。より正確に言うならば平和は本当のあなたの中にある。それを排除しようとするとは、もっとも本当に排除なんてできるわけもないのだが、たとえば「こんなことされて平和でいられるわけなんかないわよっ」とばかりにそれを投げ捨てるような、まあ珍しくもない日常茶飯事の現象である。それが「平和を排除したいという願望だ」と言われたら少しはギクッとするのではないだろうか?いくら「やむを得ずそうなった」と言い訳したってダメなのだ。これはもうどうしたって「願望」と分類されてしまう。しかも「神の御心」に反するものである。

簡単に言えば誰かに対して「ムカつく、頭にくる、理由はどうあれ批判したくなる」というのは全て「平和を排除したい願望」だと認定される、これを肝に銘じてほしい。そうしている限り、キリストもあなたを助けられなくなるのだ。

誰でも覚えがあるだろうが、カーッと来ている時とか不安で死にそうな時などにはもう神も宇宙も真理も聖霊も何も「どうでもいい」と思ってしまうものだ。そんなもの何になるのよ!

おそろしいことに、ちょっとした怒りや不安感や憎しみが神や宇宙さえも遠くに追いやってしまうのだ。こんなときこそ癒しや救いが必要なのに、それらをもたらしてくれるはずのものを追い払ってしまうのだ。仕方ない、やむを得なかったとは「コース」を学んでいる以上もう言えない。それに、こんなことは「コース」学習以前の問題としてちょっと冷静に考えればどれほどバカバカしいかわかるはずである。

平和を乱すように思えるあれこれは実は「ない」ものなので、あなたがそれらを相手にしない限り平和はそれらを越えて流れていくことができるのである。

これもまたおさらいなのだが、あなたが誰かを自分(のマインド)において解放すればあなたもまた解放され救われる、つまりその誰かはあなたを解放する救い主の役割を果たしてくれるのだった。そんなありがたい存在を邪険に扱ってどうする?

このバカバカしさ、愚かさをこそ直視してほしい。

聖霊の目的である救いは既にあなたのなかにある。しかし、あなたがそれに気づいて目的をともにしない限り、聖霊はうまく作用をもたらすことができない。そして、あらゆる人が救いを求めている。聖霊もあなたも、あなたとは別の存在に見えるあらゆる人々がみな救いを求めている。あなたと敵対関係にあるように見える誰かもまた救いを求めている。みんな同じ目的を持っているのだ!このこともまた忘れないでいただきたい。

平和の障害物になっているのは当然のことながら罪悪感と深く結びついている、というか罪悪感そのものである。怒りや憎しみや落胆などの感情ももちろんだが、自分と相手を「別の人間」つまり身体だと見ているからこそこれらの感情は生じるのだということを思い出してほしい。この障害物を無視できればこの世界を超越することもできるし、もちろん奇跡をもたらすこともできる。人間関係が浄化されるという奇跡も、病をいやす奇跡も結局はみな同じものなのである。罪も罪悪感もほんとうは「ない」ものなので、私たちがそれに力を与えない限り何の作用も及ぼすことはできないのだ。私たちひとりひとりはあらゆる幻想の壁によって分かたれ隔てられているように思えるが、それがどんなに強固なものに感じられても「ない」ものは「ない」のである。「ない」と気づくことによってそれは本当になくなる。奇跡がもたらされるとはそういうことであって、何もかもが本来あるべきようにある、それがそのまま知覚認識されることなのだ。

ひとつの奇跡はひとつの幻想の終焉である。全ての幻想がことごとく終焉するとき私たちは真理を知る、というか真理と一つになる。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 165

第19章 その5

思い込みの力というのはちょっと想像できないくらいに強烈なものである。目の前にあるこの世界が実は「あるように見えている、あると思い込んでいる」だけであって本当には「ない」なんて!しかし、真実から自分を遠ざけていた障害物を相手にしないでいれば、それらはいきなり消失することはなくても今までのように「絶対に確かなもの」ではなくなる。そのとき私たちは少々心もとない気分になったりする。あんなに夢中だったのに、悔しかったのに、心配だったのにあれはどこに行っちゃったのか?これでいいのか?これらを無視してもいいのか?そんな感じになることがある。自分にとって絶対に確かだったものが「吹けば飛ぶような」ものになってその辺をヒラヒラ浮いている、これは奇妙な感覚かもしれない。

このとき、実は世界全体があなたにとって「吹けば飛ぶような」ものになっているのである。今まで「絶対確実だ」と思って疑いもしなかったこの地面が「実はなかった」とわかれば、しかも「なくても別に困らないし却って楽じゃないか」とわかれば、「今までのあれは何だったのか」という思いも含めてそりゃあ奇妙な感じにもなりますよね。本当は今までの世界やそこでの生活に付随する感情や認識のほうがよほど奇妙なのだが、私たちはさかさまの世界に生きていたためにそう感じてしまうのだ。幻想が消えるとき、私たちは悲しむだろうか?幻想ははかないものに決まっている。一応身体としては日本人である私たちには「はかなさ」に対する「もののあはれ」という感覚があるが、「コース」の世界はもっと積極的に明るい。(ちょっと話がそれるが、ここで「コース」は「雪の上に降り注ぐ太陽の光をありがたいと思うより、冬の寒さを思って溶けていく雪を惜しむなんてことがあろうか」などと言っているが、比喩表現だとはいえ日本人なら「溶けていく雪を惜しむ」もアリだし、だからといって幻想を現実と思い込むことにもならないだろうに、と感じた。)

とにかく、幻想が消えるときには意味のないものの意味のなさが、絶対不確かなものの不確かさがわかる、そういってもよいと思う。しかし、今までの地面は幻想であっても、本当に絶対確実な地盤の上に私たちは立っている。そこまでわかれば奇妙な感覚は消えるのである。(もっとも、奇妙なままでしかも正気を保って過ごすという手もなくはないのだ。それでもこの世界や身体的な認識からは十分に解放される。)

またおさらいである。神に造られたままの本来の状態・本当の世界には愛しかなく、一方でこの身体である私たちや私たちの住まう世界は罪悪感あるいは恐怖によってできている。両者はどこまでいっても全く一致するところがなく、一切の接点がない。それぞれが全く別の次元にあると考えてよい。私たちは同時に両方の次元に身を置くことはできないし、私たちの判断も知覚認識機能もそれぞれの次元を即ちそれぞれの思考システムを基盤にしている。そして、与えるものを受け取るという原理により愛の次元ではあらゆるものが愛になり、恐怖あるいは罪悪感の次元ではあらゆるものが恐怖や罪悪感になる。

これは「在り方」の問題だと捉えても良いと思う。たとえば、愛である人なら何をしようがしまいが全てが愛になるのだし、罪悪感や恐怖の人なら何を見ようが聴こうが話そうが全て罪悪感や恐怖を投影したものになる。当然のことながら、あらゆる人間関係にもこの仕組みが反映される。

罪悪感にさいなまれるのは苦しいことだが、実は罪悪感を持たないでいるのはもっと苦しいことだったりする。これは特に珍しいことではない。たとえば身近な人に不幸があったような場合に、「私はもっといろいろしてあげられたのではないか」と思って苦しむ人は少なくない。相手に悪いことをしたのではないか、と思わないでいることもできるのにそうしない、罪悪感を抱かずにいるほうがより罪深いように感じてしまうからである。

更に、ちょっと見回してもわかるように、この世界では常に「悪者」「罪びと」が必要とされている。みな自分の恐怖や罪悪感をそこに投影して攻撃したり怖がったりするのである。戦争なら敵国は「悪の枢軸」や「鬼畜」になるし、日常レベルの報道でも扇情的なマスメディアはこれをうまく利用しているし、身近な人間関係の中でもそういった苛めのような現象は少なくない。それどころか1対1の関係においてさえも「私を理解せずに苦しめる」相手は罪悪感を抱くべき悪者だったり、相手の期待に応えられない自分は罪深い悪者だったりという現象が繰り返される。他人の中に罪を探す人は自分の中にも罪がある(と思っている)はずなのだ。たとえその自覚がなくても、である。というか、たいてい自覚がないから厄介なのである。批判的な人なんて珍しくもないが、彼らに「自分は罪深くて怖がりです」なんて自覚があるだろうか?たいていの場合は「正義の味方です」「あなたのためを考えて」「深くコミットしたい」などなど、それぞれの大義名分による自己欺瞞に陥っているのではないだろうか?実は、自分が罰を受けるのが怖いからその前に誰か他の人(家族でも恋人でも上司でも芸能人でも政治家でもいいのである)に罰を与えようとしているだけなのだ。対象はコロコロ変わるが構造は同じである。

この世界を支配しているのはエゴである。誰の、というわけでもなくて誰にでもあるエゴである。支配されている私たちはエゴの喜ぶことをする。相手の間違いを探して非難したり責めたり批判したりすれば一見スッキリいい気分になったように錯覚するものの、実際には自分の中の罪悪感や恐怖が増すのである。これでエゴは肥大化していく。

エゴの思考システムはエゴを維持することが目的になっているので、その中で生きている限り私たちは自動的にというか当然の帰結として罪悪感や恐怖を求め、またそれらに惹きつけられるようになってしまう。変わりゆくもの、滅びるもの、堕落するようなものばかりに惹かれ、悪循環のごとく恐怖や苦痛を生み出し続け、そこから逃れようとしてまたしても良からぬものに惹かれてしまったり、犠牲を求めたりしてしまう。エゴの思考システムの中で、あるいはエゴのやり方で救いを求めても絶対に得られないことについては既に何度も述べてきた。

聖霊は愛を運び伝えるものである。恐怖や罪悪感を一切用いないやり方は私たちが慣れ親しんだものとあまりにも違ううえ、エゴにとっては自らの存亡にかかわる危険なものであるためにエゴと同化している私たちにとっても聖霊のやり方は恐怖に感じられることがある。エゴであれ聖霊であれ「与えるものを受け取る」原理には変わりないので、聖霊の思考システムの中にいれば私たちは良きものだけを知覚認識し続けることになる。どんな小さなものでも見逃さず、というこれもまたエゴと同じなのだが、もちろんエゴが「どんな小さなアラも見逃さず批判や心配のタネにする」のに対して聖霊はあらゆるものを救いの機会として活用するのである。

私たちが聖霊にのみ従おう!と決めていれば、即ち愛と感謝と平和だけを与えようと決めていればそこに恐怖や罪悪感などが入り込む余地はなくなる。これはまあ当然のことなのだが、実際にやってみれば非常に画期的で劇的な方法だということがわかると思う。まず自分が何を与えるか?それによって世界が決定されるのだ。そんなバカな!と思うならまずやってみてください。世界はあなたが知覚認識するとおりに存在するのであってその逆ではないのだ。

どちらの思考システムも構造は同じである。私たちはその基盤に従って投影・判断つまり知覚認識し、与えるものを受け取ることになる。あなたの中に恐怖や罪悪感がなければ、あなた以外の何ものもあなたに恐怖や苦痛を与えることはできない。愛や平和もまた同様である。あなたが聖霊に全てを委ねれば愛が運ばれ、それはあなたを通して周囲の人々に与えられるのであなたも愛を受け取ることになる。

自分の血や肉を分かち合えなんて言った覚えはない!とキリストが述べていたのを覚えていらっしゃるだろうか?聖体拝受というのはそういう意味ではなくて、真に分かち合えるものだけを分かち合う場なのである。そして当然のことながらこれは教会堂の祭壇の前のテーブルだけでなされるものではなく、聖なる瞬間にあれば受洗の有無にかかわらずいつでもどこでもなされるものなのだ。キリストは私たちとともにある、それは聖書でも約束されているとおりである。私たちに迎える準備さえあれば、私たちの中に常に在るキリストに私たち自身が気づくようになるのだ。

私たちはキリストを赦さなければならない。というのも、まずキリストは「神のひとり子」の総称なのだから、自分自身や誰かを赦すとは取りも直さずキリストを赦すことに他ならない。そして、私たちはキリストに自らの罪悪感を投影してきた。言うまでもなく、キリストは私たちの罪をあがなうために十字架に懸けられて死んだことになっている。これが投影による間違いであることは既に述べた。だいたい、もし本当にそうだったら「私たちの罪を肩代わりして下さってありがとうございますイエス様」では済まない話である。キリストにそんなとんでもないことをさせてしまった私たちはますます罪深くなってしまう。その証拠に、キリストの十字架以降2000年以上人類は全く変わっていないではないか。相変わらず苦痛の絶えない世界に生きているではないか。

死によって罪をあがなうという発想自体がまずエゴのものである。それにキリストはとっくに身体なんてものを超越しているに決まっている、つまり身体なんかに価値をおいていないわけだからそんな「実はない」ようなものを使って私たちを救おうなんて考えるわけもない。むしろキリストは磔刑とそれに続く復活によって「身体はないのだ」ということを示したのである。誰かの代わりに死ぬなんてことはできるわけがないし、ただ死んだってあがないなんかにはならないのだ、とキリストはここではっきり言っている。身体は「ない」んだから、ないものが死んだって何もならないではないか。

つまり、私たちは身体に価値を置きすぎているのである。身体が快楽を与えてくれると思っている反面、身体から来る苦痛にも悩まされている。ところがこの二つは実はコインの両面のようなものでありどちらか一方だけを得ることはできないようになっている。身体が実在し何ものかを与えてくれるという考えの背後には既に罪悪感があるからである。

身体に限定される幸せなど大したものじゃない上に苦痛までセットになってついてくるなんてとんでもないことではないか。しかし、私たちの人生はそんな「苦あれば楽あり」「苦は楽の種、楽は苦の種」みたいなものとして認識されている。罪悪感がある限り、どんな幸せもそのままでは済まされない、そういう構造になっているのだ。必ずそれは「奪われる」つまり罰を受けるという代償がついて回るからである。身体を超越してしまえばこの連鎖からも抜けられる。なぜならそれは罪悪感から解放されるのと同じことだからである。

第240回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 162・163

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 162

第19章 その2

癒しとは解放である。そして癒しは聖霊を全的にかつ深く信頼する、つまり全てを聖霊に委ねることによってもたらされる。

人間関係を例にとってみよう。いまや「コース」の常識としてみなさんご承知だろうが、癒しは同時にもたらされる。ゆるしや癒しとはまず「歪んだ目で相手を見ている自分の知覚認識機能」を正すことであり、それは自分のマインドを癒し過去から解放することに他ならない。それが相手をも解放し癒すことになるのである。なぜならこのとき私たちは「全てであるようなひとつのもの」になっているからであり、ならば当然そこにはもはや「身体」がなくなっている、つまり私たちをバラバラの存在にしていた防壁がなくなっているからである。

ところで、以前にも述べたように「コース」の長大なテキストは「初めから終わりまで同じことしか書いてない」「どこをとっても同じことを言っている」という、ある意味ですごいものである。その都度アプローチの仕方が多少違う(ように見える)だけで、実際には全部同じことの繰り返しなのだ。今回のfaith(信仰・信頼・信念)もまた然りであって、これは要するに「愛」と同じように「特定の対象に向けられるものではない、一つの満遍ない状態」なのである。愛と同様、信念があるところにエゴはなく従って恐怖も不安もない。一切の過去を持ち込まずに相手を見ることができる。この種の信頼は「誰かには向けられるが別の誰かには向けられない」ということがありえない。愛との違いは、学ぶことのできない愛に対して信頼や信念は「意志によって身につける」ものだという点である。そして、これも例によって逆説的なのだが「その状態」になってしまえばもはやわざわざ信じる必要もなくなるので信念も信頼も信仰も不要になる。私はいま信念を持っているんだ〜!と思っているうちはまだ「そうなってない」ということになる。

誰かを全的に丸ごと信頼しているとき、私たちはあらゆるものを、より正確に言えばあらゆる真なるものを信頼していることになり、揺るぎない信念を持っていることになる。偽なるものを全的に信頼したり愛したりすることはできない、そういうふうになっている。何故なら、偽なるものを真なりと思うのは分裂したマインドだけだからである。

また、身体であるところの他者をこのように愛したり信じたりすることは絶対に不可能だ。というより、そういうfaith状態になっているときの私たちは既に身体としての存在ではないのである。

ここで言われる信念・信頼などというのは聖霊でも何でもとにかく「真なるもの」と一つになった状態を指す。たとえば聖なる瞬間において私たちは自動的にそういう状態になる。それを「コース」はここでは「神から与えられた信頼を相手に与える」などというふうに表現しているのだが、そのとき私たちは当然ながら「正しく知覚認識」することができている。つまり、相手を身体として見なくなっているわけだ。

聖性は身体の目では見えない。にもかかわらず、聖霊の知覚認識機能ならばそれは目に見える。というか、目に映るすべてが聖性をおびたものとなるのである。

神の恩寵は、身体ではなくマインドに与えられる。神の恩寵が与えられる、とは即ち私たちが身体ではなくエゴでもなく神に造られたとおりのスピリットである自分に戻ることでもある。「コース」は、恩寵がマインドの中の「祭壇」つまりスピリットの部分で受け取られるのだと言っているが、スピリットは既に恩寵を与えられてしまっているので(というかそもそも恩寵によって創造されたものなので!)今更受け取るも何もないだろうと思わなくもない。が、神の恩寵はそこにおいてこそ恩寵たることができるのだ。つまり「神においてあらゆるものと一つである」という事実に気づきそれを受け入れることこそがまさに恩寵なのであり、その時にこそ私たちのマインドは癒される・・分裂したマインドではなく本来の姿に戻るのである。しかも、その祭壇たるスピリットは「ひとつ」である。私においてスピリットが恩寵を受ければ、あらゆる人において恩寵が施されることになるのだ。

恩寵を受けるために必要なのが聖なる瞬間であり、そこにはこの全的な信頼・信念が不可欠である。もちろん感謝であり平和でもよい。これらすべてはつながっているからである。感謝もできないような相手を全的に信頼することなど不可能ではないか。ここにおいて私たちはあらゆる過去から解放されて相手を見ることができるのであり、その解放によって奇跡がもたらされることは既に述べられている。ここで留意していただきたいのは、感謝であれ信頼であれ「この世的な理由によるもの」ではダメだという点である。つまり「あのときああしてくれたから感謝する、こうしてくれたから信頼できる」ではダメなのである。何故ならいずれも「過去の、しかもエゴ的な利益に基づく判断」だからである。だから私はいつも「理由なくただ感謝せよ」としつこく繰り返しているのだ。信頼もまた同様である。相手を全的に信頼しているとき私たちに恐怖はない。これはわかりますね。この人、何かしてくるんじゃないかしら、油断できないわなどと自分を守る必要が一切なくなる。自分を守るための防壁=身体が要らなくなる。完全にオープンでリラックスした状態になれる。すなわち「完全に委ねた」状態になれるのである。

それをいきなり目の前の他人に対してやれ、というのが難しければまず「聖霊を信頼し全てを委ね」ればよい。全的な信頼は満遍ない状態なので、聖霊を全的に丸ごと信頼すればそれはそのまま目の前の誰かに対しても適用されることになるのである。相手を聖霊と思え、とはこういうことでもあるのだ。

聖なる瞬間は「愛を運んでくれるもの」だが、その愛は神と神に直接つながるスピリットから湧き出していることを考えてみてほしい。だったらこの愛はもともと私たちそのものではないか!私たちが忘れ果てているこの事実に気づかせてくれるのが聖なる瞬間なのである。

信頼・平和・感謝などという状態がマインドに訪れれば私たちは「幻想の世界」から「本当の世界」の住人になることができる。ここまでくれば真理や直接知まであと一歩だ、とは既に述べられているとおりである。

過去のあれこれに囚われず、未来のあれこれを心配したり期待したりせず、ただ常に「今ここ」で永遠不変であるようなものにだけマインドを向けエネルギーを注ぎこもう。たとえば感謝・平和・信頼などである。これらは愛や真理につながるものなのだ。こういうものを邪険に扱うのは取りも直さず自分自身を粗末にしていることになってしまう。まあ、ありていに言えば「謝った自己認識」に基づいて自覚のないままに自己否定や自己攻撃をしていることになるのだ。

身体とは「ひとつの考え」に過ぎない、というとわかりにくいかもしれないが「あらゆるものは実は考え=エネルギーである」ことを思い出してほしい。身体はどうにもならない物体などではなく、マインドがそれをどう捉えどう使うかによっていくらでも変わる可塑的なものなのだ。マインドを閉じ込める牢獄として身体を用いるかどうか決めるのはマインド自身なのである。

さて「間違いと罪」についての詳しい考察が始まった。待ってました!という感じである。私たちは間違いと罪を混同してしまいがちである。間違いはただ正せばよいだけのものだが、罪には罰が伴いしかもその罰の最終形は「死」である。乱暴な喩えだが、故障したパソコンを「罪深いパソコンめ!罰を与えてやる!」とか言って叩いたり踏みつけたりして破損してしまうならその人は正気じゃない。故障したら修理に出せばよいだけの話ではないか。しかし、私たちが日々やっているのはこれと同じようなことなのである。

「あら、間違えちゃった」というのなら、せいぜいが「ただのバカ」だが「悪いことをした、罪深い」のは「私はダメだ、価値がない」という自己否定に直結し、更に「こんな自分なんだからひどい目にあうだろう、どうしよう」などと懲罰を恐れるようにもなる。それどころか私たちは単に間違えちゃった場合でさえも罪悪感を抱く傾向がある。間違いと罪を混同しているからである。

「コース」によれば、私たちは罪悪感に惹きつけられているのだそうだ。このあたりはおさらいになるのだが、エゴにとって罪悪感とは最大の武器なのだ。なにしろキリスト教には原罪なるものがあるのだし、普通に考えれば生まれてこのかた「悪いこと」を一回もしたことがありませんという人はまあいないだろうし、過去生を見れば人のひとりやふたり殺していたっておかしくないし、と私たちはとにかく「罪深い」存在でなくてはならないのである、しかも、自分の罪深さを認めることこそ崇高にして聖なる行為であり、私は無垢な存在ですなどと思ったりすればとんでもなく傲慢すなわちますます罪深いことになり、私たちは罰を受けるか神によって許されるかどちらかになるのだが、許されるためには受難=ひどい目にあって罪を償わなくてはならないのであり、おまけにしょっちゅう自分の罪深さを認めては神に告白するのがこれまた崇高な行為とされる、というふうになっている。罪悪感こそ聖なるものだ!神聖不可侵なものだ!と、これこそがエゴの教義なのである。罪悪感があればあるほど高貴で謙虚な人だとされ、他人にも罪悪感を強要し、ただ反省すればよいところを「罪の意識にさいなまれて苦しむべきだ」と期待する。

罪悪感のもともとの起源は「私たちは神に逆らってバラバラの個体=身体になりました」と思い込んだ「勘違い」なのだから、罪悪感を保っている間はその勘違いが現実化されている、つまり私たちは「神と一つである本来の状態」ではない「幻想の世界」にとどまっていることになる。これを裏から見れば、罪悪感こそ「神からの分離」を保持し幻想の世界を守るもの、エゴのシステムを守るものだ、ということになる。となれば、そういうものを守りたい、今の現実を壊したくないと思っている限り罪悪感に惹きつけられるのも道理なのである。誰だって自分のことを「ただのバカ」とは思いたくない、それよりは「ああ、私ってダメだ」と思うほうが苦しいけど高尚なことをしていると感じられたりするんじゃないだろうか?


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 163

第19章 その3

別に自分が罪深い存在だと思っていないつもりの人でも、たとえば心配や不安が絶えないのであれば実はやっぱり自分のことを罪深いと思っているのである。恐怖は罪悪感の裏打ちがあるからこそ生じるものだからだ。そして、苦しいのにもかかわらずどうしても不安や恐怖がぬぐえないのもやっぱり罪悪感につい惹きつけられているからなのだ。守りたいものを間違えてしまっているので、守っているつもりが却って苦しむ結果をもたらすようになる。

ところで、自分のしている(していた)ことが「悪いこと」ではなく「単なる間違い」だったほうが嬉しいしホッとするはずなのだが、前回の最後に書いた理由から私たちはどうしても「いや、これは悪いことなのよ!」と思う方向に流されがちである。自分のことでさえそうなのだからましてや他人に関してはもう確実に「間違いでは済まされない、これは悪いことなんだ、罪なんだ、謝って済むと思うな、恥じ入って苦しめ!」くらい平気で思うのである。おまけに、それが本当に「悪いこと=罪」だったらいくら許されたとしても消えてなくなることはないのだ。罪こそが本当の現実であり、来世にもまたその次の生にも影響を及ぼしていく、つまり「永遠不変」のものになってしまっている。そうじゃなかったら、というか私たちがそう信じているのでなかったら、性懲りもなく何回も何十回も身体として生まれ変わったりするものか。

罪と罪深さを本当の現実だと思い込むことはできても、それらに対して信頼を寄せたり信念を抱くことはできない。何故なら信頼や信念のなさこそが罪になっているからであり、信頼や信念があるところに「過去」という時間はなく一方で罪悪感は必ず過去と結びついているからである。

もう本当にしつこいのを承知の上だが、一般的なキリスト教では「私たちはありがたくも神に造られたものなのだが、神に逆らうという罪を犯した罪深い存在だ。だから地獄に落ちるという罰を受けないように自ら苦しんで罪をつぐない神に赦してもらわなくてはならない」のに対して、「コース」では「神に逆らったというのは単なる思い込みであり、本当は何も起こっていない。だから私たちは罪などない無垢な存在のままである。その勘違いを正すことこそがあがないだ」となる。自分の罪深さを認めないのは傲慢なようだが、神に逆らって何かできる、神の造った現実を変えられるなんて思うほうが余程傲慢ではないだろうか。神に逆らうなんて思うことはできても実際にはできっこないのである。なぜなら私たちは神の一部だからだ。前にも書かれていたほうに「さざ波が大海に逆らうことなどできない」のと同じことである。

しかし「逆らったと思った」のは罪ではないのか?心でチラッとよからぬことを考えるのは罪ではないのか?罪ではない、と「コース」は言っている。マインドは自ら攻撃することもされることもできない。が、攻撃したりされたりすると「思い込む」つまり自らを欺くことはできる。そして身体に命じて代行させるわけである。しかし身体は「ない」=無である。身体が「ない」のなら身体によってなされるあれこれもまた「ない」わけで、要するに夢やら映画のスクリーンを見ているようなものに過ぎないのである。「こんなに恐ろしいことを考えてしまった」と罪悪感に陥るとき、私たちはたいてい「実際にはやらないにしても一応は実行可能だと思われる」ことを考えている。あいつを殺してやりたい!なんていうのもそうである。そんなこと実際にはしないしできないだろうが、刺したり絞めたり突き落したりするのは一応「身体的には」可能なことだからだ。それに対して「火星を征服して火星人を撲滅する」とか、ハナから不可能なことを思いついて、それが不可能であるとも気づかず「こんなこと考えるなんて私はひどい人間だ」と真剣に悩むのはミもフタもない言い方をすれば「ただのバカ」である。良く言っても「妄想狂」くらいだろう。

しかし、マインドが攻撃することもされることもできないという事実を考えればどれも「本当には」実行不可能なことばかりなのだから、結局罪ではなくて「ただのバカ」になるというわけだ。あなたは「罪人」と「ただのバカ」のどちらがよいですか?

自分のしていることが「罪ではなくてただの間違いだ」とはわかっても「間違いだとわかっているのにやめられない」のでやっぱり罪悪感を抱くケースは少なくない。早起きしなくちゃと思ったのに寝坊した、これを罪だと思う人はいないだろうが「わかっちゃいるのについ毎日寝坊してしまう」になると往々にして罪悪感が生じる。これも、前に述べた理由で「罪悪感に惹きつけられる」からである。

罪悪感と恐怖と攻撃は三つ巴の関係だったことを思い出していただきたい。あらゆる恐怖の原型は「罪深いのだから罰を受けるはず」である。裏から見ればこれは「懲罰に対する恐怖が、あるいは懲罰を与えたいという攻撃性が、罪悪感を保持させている」ことになる。だからこそ先にも書いたように、罪悪感については自覚がなくても不安症だったりすぐ怒りに囚われて相手に批判や怒りを向けたりする人は罪悪感が強いと言える。罪悪感が強ければ強いほど人生は苦しいものになる、にもかかわらず私たちは「身体であるところのこの私」と「この世界」を守ろうとしているので、結果ますます罪悪感に惹きつけられていく。

しかし、これも繰り返しになるが、あなた自身以外にあなたを罰する人など誰もいないのだ。

もちろん聖霊も罪を罰することはない。それが罪ではなく間違いであるとわかっているからだ。そしてその間違いを正すのである。正すことのできない間違いなどありえない、というより正されるべきものだけを間違いと呼ぶのであり、間違えている人は本当は懲罰ではなく愛を求めているのだと認めるべきなのだ。どちらにしろ浄化力のあるのは愛だけであって懲罰にそんな力はない。

以前、マインドをオープンにするためには「何かを隠そう」という姿勢をとってはならない、と書いたことがある。誰だって悪いこと=罪は隠したい。自分の間違いを隠したいと思っているならそれは間違いと罪を混同していることになる。どんなものでも聖霊の或いは純粋理性の光で照らされれば「ただの間違いだった」とわかり、その瞬間に正される。だから隠そうとしてはならないのだ。実際には隠すことなどできないのだし、隠そうとするそのマインドの閉じた姿勢が聖霊を拒むことになるからだ。

今更ですがハッキリ言いましょう。「間違いを罪だと思い込みそのように知覚認識することこそが間違いなのである」ついでに「間違ったマインドには間違いを見分けることも正すこともできない」。つまり、罪というものが確かにあるのだとマインドが信じている限り知覚認識機能は歪んだままになり、たまさかマトモな知覚認識ができてしまった場合には「おかしくなった」と判断されて終わるのだ。正気が極まると狂気に見えることもある(何しろ私たちは「さかさまの世界」に住んでいるのだから)!

そういうわけで、「変わりたい」と望んでいるはずの私たちはその一方で「今までと違う知覚認識なんて怖い、おそろしい」と恐れてもいる。エゴが真実を恐れるのと全く同じように、だ。

さて、これも基本中の基本のおさらいなのだが「神は完全で永遠不変の存在である」これは良いですね。というか、そういうものをこそ神と呼ぶのでしたね。神には罪も間違いもありませんね。そして「私たちは神によって創造された神の一部である」これも良いですね。神によって創造されたけど、神とは別の「人間存在」ではないのだ。ここを間違えてはいけない!私たちは身体ではない、とはそういうことなのである。私たちが神の一部なら、私たちの存在も込みで神は完全なのだ。自らの一部である私たちが「罪深い汚れたもの」だったら、それは取りも直さず「神の一部が罪深く汚れている」=「神は完全ではない、その一部は汚れている」ものになってしまう。これはありえない。それこそ「神を冒涜する考え」ではないか。自らの罪を進んで認める、これのどこが崇高で神聖な考えなのか、冷静に見れば全く正反対である。罪という考えがいかに間違っているか、これでよくおわかりになったのではないかと思う。

神からの分離(という思い込み)の結果として生じたものが身体なら、身体は罪と深く結びついているのも道理である。かといって別に「身体は罪深いものだ」というわけではない。なぜなら身体は「ない」からだ。「ない」ものには愛も罪も何もないに決まっている。問題は、私たちがそれぞれお互いを「自分とは別の他人」だと知覚認識し、別々の肉体どうしでかかわりあってお互いに救いを求めあったり一緒になりたがったりしていることである。「特別な人との特別な関係」などがまさにその代表例である。神でも真理でもなく「自分とは別の誰か」に救いを求め、その誰かを自分にとっての偶像の神のごとくに扱う、これがいわゆる「恋愛」である。端的に言って、恋愛に惹かれたり夢中になったりそれで苦しんだりするのは罪や罪悪感に惹かれるのと全く同じことなのだ。いくら「運命の恋だ、ソウルメイトだ」と誤魔化したってダメである。あなたは相手が、そして自分が身体であると認識しているのだ。このあたりについては以前詳しく説明されているが、恋愛感情と罪悪感がセットになっているというのは改めて衝撃かもしれない。ここで「コース」は「(あなたにとって)罪は神以上の力を持つものになっている」と述べているのだが、この「罪」を恋愛とか執着とか(この世における)「愛」と呼ばれるものに置き換えてみればよりわかりやすくなると思う。これが正気の沙汰だと言えるだろうか?

また、もしも罪というものが本当にあるならば癒しなどありえないことになる。罪が許されれば癒されるんじゃないの?と思うかもしれないが、本当に罪だったら表面的に許されることはあってもそこでおしまいである。罪を犯したところの「過去」全てから解放されることはありえない。ゆるされたところで罪が、そしてそれを犯したというあなたの過去が消えるわけではないのだ。

更に、先ほど述べたことからもわかるように私たちが本当に罪深いなら神も不完全な存在になってしまい、不完全な神に私たちをゆるし癒す力があるのかどうかも不確かになってしまう。何しろ、完全な神を不完全で汚れた存在にできるほどの力が私たちにはあると仮定されたその時点で私たちは神の力を否定してしまったことになるのだ。果たしてそんなことがありうるだろうか?この仮定を真なりと思えるだろうか?

第239回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 160・161

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 160

第18章 その8

何生も何十生もかかったかに見えた長く苦しい旅は既に終わっている。というよりあなたはずっとここにいて、初めからどこにも行っていなかったのだ。そのことに早く気づきなさい。その気づきこそが愛を受け取り神を知るということだ。真理からあなたを阻んでいたかに見える壁=身体は、それがただ「あるように見える」だけに過ぎないと分かったいま、あなたに何の制限も加えないだろう。あなたはただ一つであり全てであるような限りない「自己」として在り、またあらゆる人々も同じように在るだろう。

その永遠不変にして限りない自己が本当の私たちなのであれば、今までの私たちが「自分」だと思っていたものなどもう考えられないくらいにちっぽけなのだ。逆に言えば、私たちが正さなくてはならない部分も同じだけちっぽけなのである。ここだけ聖霊に委ねればよいのだが、まあ今までそれが「自分のすべて」だと思っていた知覚認識から考えればやはり結構すごいことではある。

さざ波がいくら頑張ってあれこれやっていたって大海には適わない。むしろ自分は大海の一部だと自覚しているほうがよりたくさんの力を受け取れる。だからそこに帰ろう。ちっぽけな自分=エゴを捨てれば大いなる自己あるいは真我が目覚めるとはそういうことだ。大海はあなたを見捨てたりしていない。ただあなたのほうが拒絶していただけなのだ、聖なる瞬間を招き入れれば、つまり感謝を平和でマインドを満たせば、自分が築いたと思っていた防壁は消える。これは身体でしか感じられないもの、つまり視覚・聴覚・触覚などの知覚器官を通してしか認識できないものなのだ。そしてこれらの知覚機能は、それどころか私たちが「直感」だと思っているものさえも歪んでいるのだ。何と言ったらいいか、故障した測定器で何かの数値を測り、ちゃんと数値が出ているんだからこの物質は存在するんだと思っているようなものである。

当然とはいえ驚くべきことに、恐ろしいものはことごとくその「歪んだ知覚器官」にしか認識されない。これら「身体の機能」は、身体が現実であり「神から離れてみんなバラバラ」の世界が現実であることを証明するために働いていると言ってもよい。夢の中で起きたことは夢の中でだけ現実に見えるのと同じ道理である。

この世界は勘違いから生じた、罪悪感とそこから来る恐怖が基盤になってマインドが投影したものだということを思い出してほしい。懲罰、復讐、裏切りなどの恐怖は全て「神から離れてバラバラになった、神に逆らった」という罪悪感に基づくものなのだが、通常は巧みに隠されて表に出ることがない。表に出たらもう本当にとんでもない大惨事になる!と思われているからだ。しかし、正体見たり枯れ尾花のごとく「本当はやってなかった」とわかれば済む話なのであって、隠しているうちはそのことさえわからない、だから恐怖はなくならない、世界もなくならない、というわけなのである。極端に言ってしまうと、人間・人類というものの存在自体が疑われなくてはならないのだし、更に極端に言えば人類は人類でいる限り幸福にはなれないだろう、となる。どうしてもそうなる。何故なら身体の存在を信じている限り、罪悪感からも恐怖からも免れていないことになるからだ。身体とエゴとの関係については以前教えられたが、身体はある意味でエゴの住処でありエゴの支配下におかれている。あるいは、エゴによるマインド支配を体現する場所になっている。

身体は実在しないのだと理解した後のほうが、身体をより有効に使えるという逆説がある。身体によるあらゆる制限から解放され、マインドの攻撃の道具としてではなく学びと救いの道具として活用できるようになるからである。別に、身体をなくせ!つまり「死ね」と言われているわけではないので慌てないでいただきたい。身体があっても「ない」のと同じように扱えるという意味である。(肉体意識を持ったまま死んだ人のマインドはちょうどこの逆なのだと思う)

当たり前だが、マインドに比べて身体は脆弱だ。本来「実在しない」ものだからでもあるのだが、傷ついたり病んだり死んだりする物質という意味においてやはり「はかないものだ」と言える。その程度のものに本当の愛や真理を阻む力などあるわけがないではないか!

身体が重量のある固体だと思うのは幻想に過ぎないと「コース」は言っている。とても信じられず受け入れられないと思うかもしれないが、今はそれでも構わない。身体は健康だけど心が病んでいるというのは、単にマインドの歪みをマインドで表現して身体に投影していないだけの話である。

何もかもはっきりしているように感じられるこの世界は、実は罪悪感という暗い雲みたいなものなのだ。そのすぐ向こうに或いはすぐ下に光の世界=本当の世界がある。ここには雲の陰りも及ばず、手つかずのままで輝いている。いったんこの世界の住人になってから暗い雲を見れば、あら不思議!そんなものはなくなっている!あなたの目に映る光景は以前と同じであって同じではない。全てが浄化されゆるされて罪悪感も恐怖もなしに、それらを投影することなしにあらゆるものを知覚認識することができる。これが正しい知覚認識作用なのであり、この世にあってこの世にない在り方=在俗超俗なのである、身体はもう攻撃の道具ではない。

ゆるしは最終目的ではなく手段なのだった。ゆるしには浄化や癒しの作用があるのだが、創造する力はない。愛を伝える手段ではあるが、愛の源泉ではない。

覚醒の最後の一歩、もはや知覚認識すらありえない境地への変容は私たちが自分でおこなうものではなく「神によってなされる」ものだと以前にも言われたことがある。ここにはもうゆるされるべきものもあがなわれるべきものもない、変容すべきものもない。そこはまさに愛の源泉、光の源泉なのである。

初めからハッキリ言われていることだが、この「コース」は愛を学ぶものでもないし直接知を教えるものでもない。そんなことは端から不可能だからだ。それらは学ぶことができない。愛の意味を学ぶというのも不可能だ。愛はそれ自体がそのまま意味であるようなものだからである。私たちは愛であるかないか、知っているか知らないかのどちらかなのだ。「コース」学習の目的は、愛や直接知に至る途上にあるさまざまな障害を取り去ること、間違った学びを解体することだけである。そうして本当の世界まで至った人は、まあたいてい間違いなく「学ぶことのできない段階」まで到達するようになっている。言い換えれば、私たちはあるところまでは学べるがそこから先は神の領域なのである。

そこに至ったとき、今まで学んだことは全て無意味だったとわかる。逆説的だがそうなのである。じゃあ初めから何も学ばなくていいかというとそんなことはないのであって、やっぱり努力は必要なのだ。私たちは長年の習慣からどうしても「本来の在り方」とは逆方向に走りがちであり、個人差はあってもこの部分の方向修正については自覚的な努力が必要である。しかし、ある程度までわかってしまえばそれほど苦労しなくなる。要するに、抵抗しているうちは苦しいということだ。

私たちはゆるしによって罪悪感に代表されるような「本当の愛を阻んでいる障害物」を浄化するからこそ、ゆるしの更に先にある本当の愛を受け取ることができるのだ。ところで、聖なる瞬間はゆるしの時でもある。これはまあ考えるまでもない当たり前のことだ。ならば、聖なる瞬間は本当の愛を運んでくるものだということもわかる。

「コース」などによって「ゆるしが大切だ」と学び、それを実践しようとしても「ゆるさなければっ!」と力んでしまうとうまくいかないことが多い。そういうときは「聖なる瞬間」に入ることをまず試してみてほしい。一瞬だけでもマインドを感謝と平和で満たす、おそらくこの方がずっと楽で確実なはずである。

いったん神を思い出してしまうと、そのほかの「過去の記憶」「今までに覚えたあれこれ」はどうでもよくなる。それらが無意味であるとわかる。そこにおいて私たちは神と同じように創造するのだ。

ともあれ、私たちの当面の目的は「歪んでしまった知覚認識機能を正す或いは癒す」ことなのであり、それはマインドの全的な平和を得ることでもある。いきなり「癒しと救いこそ私たちの目的」と思ってしまうと「無理よ〜」と感じるかもしれないが、もっと身近なところから始めればよいわけだ。まずは聖なる瞬間をできるだけ多く招き入れることを日常的に実践してみていただきたい。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 161

第19章 その1

身体についてはこれまでにも少々語られていたが、今回は更に過激である。もっとも今までの内容を考えれば当然の論理展開なのだが、とにかく非常に画期的なことが書いてある。

まず、しつこいようだが「身体は実在しない」つまり「身体それ自身としては何もしないしできない」ということを思い出していただきたい。私たちの身体の中で行われているとされているあらゆる機能は、身体が自律的にやっているものではないのである。これだけでも結構びっくりする。消化したり再生したり血液が循環したり、などの働きは「身体が勝手にやっているもの」と考えるのが常識だからだ。脳がそのように命じているからだという人もいるだろうが、脳だって脳神経だって身体の一部である。これらは全てマインドがそのように指示しているわけなのだが、「そんな指示を出した覚えはない」と誰もが思うだろう。しかし、これは分裂したマインドどうしの意思疎通がないからであって、まあ俗な言い方をすれば「顕在意識には潜在意識の考えていることがわからない」のと同じような道理なのである。

即ち、病んだり傷ついたりするのは「身体ではない」のである!よって、「身体そのものは癒されることができないしその必要もない」。身体そのものに働きかけて何とかしようというのは(通常の医療はこれである)全て「魔術」なのであった。世間一般の常識からみると、「コース」の言うような「霊的な奇跡治癒」のほうが余程「非科学的なまじない」つまり魔術めいたように思えるのだろうが、例によって世間の常識はコースの非常識なのである。

要するに全ては「マインドが身体をどのような目的で用いるか」にかかっているのだ。罪悪感による「懲罰」や攻撃のために用いていれば、私たちは何をしたって常にどこか不調を抱え続け、健康になることはないだろう。

更に、これもしつこく言われていることなのだが「マインドが身体をどのように知覚認識するか」ということでもある。上記した罪悪感や攻撃を「現実にあるものだ」と信じていれば、つまり「私たちは神から離れてバラバラの存在だ」と信じていれば、私たちのマインドはその「幻想」を現実化するために身体を用いるようになる。簡単に言えば、身体が病んだり傷んだりしているように見たり感じたりするのはやっぱり身体の知覚器官であって、その知覚器官の機能が歪んでいるからこそそのように見えたり感じられたりするわけだ。神から離れてみんなバラバラという幻想を信じていれば当然「自分とは違う、異物であるところの他者」が必ず存在してしまうわけで、それはもちろん自分を攻撃する敵にもなりうる。相手は人間とは限らない。新しいウィルスや病気が次々に出現して私たちの健康を脅かす(ように見える)のも、上記のような幻想が身体によって現実化されている一つの例である。

私たちは身体を「一つになる」のではなく「分かつ」目的に用い、かつそのように知覚認識してしまっている。つまり他人を「身体」として認識してしまっている。相手が「身体」なら投影の原理によりそのように知覚認識しているこの自分もまた「身体」になり、これでは「一つになる」のは不可能である。

「コース」によれば、こういうふうになってしまうのは私たちが真理や神に対して不信心だからであるそうだ。誰かを「神のひとり子」だと見ないことはその人に対して不誠実であり、神や真理を信じていないことになる。神や真理こそ全てだ!という信念を抱いていない限り癒しはもたらされないと言っているのである。

これも以前言われたことだが、あらゆる状況を真理(あるいは神あるいは聖霊)に丸ごと委ねれば嫌でも平和が訪れる。ちょっとだけ委ねてみたんだけど、では完全な平和は訪れない。正しい知覚認識をもってすればあらゆる状況は私たちに癒しをもたらす機会になる。しかも、その場にいるあらゆる人々が同時に癒される。聖霊の導きによって私たちは一つになる。一つになるということは即ち「幻想が消える」ことでもあるので、幻想であるところの苦痛なども全て消え去ってしまうのである。一つになるということは「身体ではなくなる」ことでもある。私たちの身体は正しく認識されることによって、即ち「存在しない」状態になることによって癒されるのである。

これは「コース」以外でも時々言われていることで、たとえば「病気は忘れることによって治る」と言っている人もいる。

病気とは誰にとってもイヤな、困ったもの、苦痛をもたらすものである。病気が私たちの身体を攻撃しているように感じるが、このとき私たちのマインドは身体を攻撃の道具として用いている。お腹が痛ければ、そのお腹=身体が私たちにとってまるで「敵」のような存在になっている。病気と闘う、という表現はよく使われるが非常に象徴的である。病気は「敵」であり、敵がいると思うこと自体「幻想を現実のもの」にしてしまっているのである。

信念があるとかないとか、そういう表現はちょっとわかりにくいかと思う。いっそ「信仰」「不信心」と言ってしまってもいいのだが、やはり「コース」はいわゆる宗教とは違うので何だかこれらの表現もそぐわないし却って混乱を招きそうな気がする。確かに、正しい信仰を持っていればエゴが入る余地はない。とにかく重要なのは「私たちは真理も神も忘れていて、理解できる状態にない。理解していれば信じる必要などないのだが、そうでない間は信じるしかない」ことであって、たとえば理解できなくても受け入れられなくても前に進め!と私たちが「コース学習」を続けるのは「これをやっていれば必ず何とかなる」と信じているから、そのような信念を持っているからである。しかし、だからといって「コース」に対する信仰だの信心などという言い方はちょっとおかしい、そう感じる方は多いと思う。というわけで、ここでは「神や真理に対する信念」という意味合いで「信念がある、ない」あるいは「信頼」と訳させていただくことにする。「信仰」という語に抵抗がない方は適宜置き換えてお読みください。

信念を無くしているとき、つまりエゴに支配されているとき私たちは幻想にどっぷり浸かり、神のひとり子である自分や兄弟姉妹と真実の間に壁を作り、神の愛に派生するあらゆるものを破壊し分離してしまう。強い信念はそれらの全てを取り去り癒して私たちを完全な一つのものにする。信念が向けられるのは真理に対してのみなのである。

もうご存知のように「ちょっとだけ信念を持つ」ことは不可能だ。何故なら、真理の中に少しでも幻想=間違いが入り込んでしまったらそれはもう真理とは言えなくなってしまうからである。完全な信念を持つか、まったく持たないか。これは「聖霊かエゴか」と同じことであり、例によってこの二つ以外に選択肢はない。そしてこれは「マインドか身体か」ということでもあるのだ。

身体は病むことができない。病むのはマインドである。身体を癒すことはできない。癒されるべきはマインドだけである。身体が癒されるとしたらそれはマインドが癒された結果なのだ。

身体だけを癒せばよいと考えるなら、それはあたかも「マインドは身体の中にあって身体の一部である」とか「マインドが身体に支配されたり影響されたりする」などと信じているようなものである。マインドが幻想だと思う人はまあいないだろうが、たいていの人はマインドも身体も両方「現実のものだ」と思っている。この前提に立っている限り癒しは不可能だ。

間違いはそれが起きたところで正されなくてはならない。病もそれが生じたところを癒さなくてはならない。上述したように、病が生じるのは常にマインドにおいてであり身体はそれを映し出しているだけなのであるから、癒すべきところはマインドを措いてない。そして、そもそも「病」とは幻想なのだからその幻想が生じたおおもとの思い込み=神と離れてバラバラという勘違いこそが唯一正すべきものであり、そこを正せばマインドは癒され当然の帰結として身体も癒される。

繰り返すが、身体は分離の産物であり、分離を正当化するために使われているようなものである。もちろんこれは「幻想=エゴの思考システム」内の現象だが、そのシステムの中では全てに整合性があり全てが連結しているので間違いを間違いだと認めることができない。信念と信頼をもって聖霊に全てを委ねれば私たちは真理を投影した知覚認識ができるので、上記の間違いに気づけるようになる。

ちょっとややこしいのだが、「この私」というマインドは、まあはっきり言えばエゴは「この私」が身体であると思っている。つまり「他の誰とも違う、神ではないこの私」「日本人で女性で35歳のこの私」などである。そう思い込めれば「実はあらゆるものが神と一つであり全てである」という真理を忘れていられる。それを封じ込めておけるような気がする。エゴに支配された私たちは真理を恐れているのだった。だから真理など忘れていたいのである。

分離から派生するところの外敵や攻撃(という考え)を現実のものだと思っていれば、それが実際に投影されて私たちは「自分ではない何ものかに攻撃されている」状態に陥る(ように見える)。病も例外ではない。

さて、たいていの人は健康になれば「ああ、楽になった。痛みや苦しみから解放された」と感じますね。そうなのだ。治癒とは解放に他ならないのである。

第238回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 158・159

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 158

第18章 その6

言うまでもないことだが、身体を超越し身体の存在を忘れているときには「身体に気を付けて健康にならなくちゃ」なんて絶対に考えもしない。それで何も困ることがない。身体はマインドの一部でありマインドの指示に従うしかない「存在」である。マインドが十全で自由な状態にあれば身体もまた同じようになっている。

前回書いた通り、私たちは誰でも多かれ少なかれ「身体を忘れ身体を超越した時間」を持つことがある。が、たいていの場合はすぐに日常的な「現実」というかまあ「自分たちの作り出した偽りの現実世界」に引き戻されてしまう。

とはいうものの、あがないや奇跡や癒しがもたらされるのはやっぱりこういう瞬間にしかないのである。どんな重病人でも自分の病気のことや身体のことを忘れている瞬間がある。これこそが本来の姿なのだ、とマインドが正しく知覚認識すれば、いわゆる「奇跡」によって一瞬にして病が癒された、ということになるわけだ。いずれにせよ、身体を忘れ身体を超越するような「聖なる瞬間」を全的に経験してしまうと身体の見方がそれ以前とは違ってくる。

誰でもやってみればわかることだが、「今ここ」にあるとき私たちは必ず身体の存在を忘れているものなのだ。過去や未来という「時間」が入り込んでくる時に身体は「現実のもの」として認識される。身体と時間とは明らかに一体になっているからである。もちろん、前にも書いたように罪悪感や恐怖も「今ここ」にはありえないものなので、身体が忘れられているときには罪悪感や恐怖も時間もみんな忘れられていることになる。実在しないものは、忘れられてしまえば文字通り「ない」ものになる。わかりやすく言えば、それらが忘れられたとき、私たちの愛や平和や救いがそれらによって邪魔され阻まれることもなくなるわけだ。

しかも、何と「コース」によれば身体の痛みでさえも罪悪感から生じる攻撃だと言うのである。前にもちょっと書いたことがあるのだが、身体の声を聴きましょうというアプローチは「身体とマインドが別物」なのではなく「身体もマインドの一部だが、分裂しているので別物に思える」ことを前提に考えれば間違ってはいない。しかし、ここで「身体はマインドと別物で、大切にしてあげないとマインドを攻撃するものだ」つまり「身体は敵にもなりうる存在だから大切にして味方にしましょう」と考えてしまうのなら、根本的な部分で全く「コース」の教えとはズレたものになる。

また、マインドの中のいろいろなブロックを溶かすことによって身体の不具合や痛みを取り去るというワークもあり、ある程度は効果を上げているようなのだが、「コース」に言わせれば「ブロックなどない」のであり「ないはずのブロックをあると認識するのは間違いを現実化することだ」になってしまう。

将来に備えて準備をする、という考えじたいが「コース」に言わせるともうアウトなのである。これは別に「何もしないでヘラヘラ過ごしていればいいんですよ」という意味ではない。常に今ここにある人は、全く自然のこととして「今すべきこと」がわかり、普通にそれをする。そしてこれまた全く自然のこととしてそれが将来にもつながるようになっている。しかし、たいていの人はそういう状態にない。だからこそ私などのリーディングが少しは必要とされるのであって、これはまあ言うなれば「全く自然にしていれば自然にやるだろうこと」がわからない方々に「こうしておくといいですよ」という情報を提供しているようなものでもある。そうすれば余計なことをしたり必要なことをしなかったりしないで済む。将来を心配して自分であれこれ考えたってエネルギーの浪費になるだけだ。

「コース」がしようとしているのもやっぱり「あがないのために費やす時間を節約する」ことである。罪や罪悪感や恐怖と闘いながら癒しや救いやあがないなどを求めれば、もう本当に重い荷物を背負って苦しく長い道のりを旅しなくてはならなくなる。一生かかっても終わらなくて何回も生まれ変わって同じことをする羽目になるかもしれない。自分にムチ打ってあらゆる誘惑と「闘い」、山にこもって苦行をしたり、一生かけて瞑想したりしなくてはならないかもしれない。何か大惨事に巻き込まれなくてはならないかもしれない。そういうものを通して癒しや救いやあがないが得られることももちろんある。それは癒し・救い・あがないという目的が「絶対確実」なものだからなのであって、手段が素晴らしいからではない。実は救われあがなわれるためにそんなあれこれを介する必要など全くないのである。もっと楽々と軽々と同じ事ができてしまうはずなのだ。そのやり方を学ぶのが「コース」学習なのである。「気づき」「目覚め」「聖なる瞬間」などというものは、いつかどこかにあるものではない。いつかどこかでそうなることを目指して準備する、これは別にどこもおかしくないように見えるが一歩間違うと気づきも目覚めも聖なる瞬間もずーっと「いつかどこか」のもののままであり続ける危険が生じる。

上記のような「苦行」的方法は、その先に救いや癒しがあると思えばこそ何とか続けられるのであって、それをしている最中は全然楽しくないことが多い。いつか訪れるはずの救いや癒しには価値があるが、今のこの自分はまだ罪深い存在で価値がなく今この瞬間にも喜びがない、そういうものである。しかし「コース」の教えるやり方なら、あらゆる努力がすぐに幸せや喜びに直結するのだ。これもやってみればわかる。

ここで「コース」は同じ目的を達成する手段として「関係性」を使えと言っている。主に人間関係を指しているのだろうが、それも特別な人間関係に限らずあらゆる関係性、それどころか人間以外のあらゆるものとのかかわりを想定してもよいと思う。一人で生活する人はたくさんいるが、自分以外のものと一切かかわらずに生活することは不可能だからである。

私事だが、以前大変お世話になった方に「特別なことをする必要はない、常に今ここが道場であり、出会う全ての人々がマスターなのだ」と言われたことがあるが、おそらくそれとほぼ同じことがここでも言われているのだと思う。

誰か・何かとのかかわりにおいて「期待も不安も恐怖も罪悪感も怒りも抱かず、感謝の気持ちをもってただそこにいる」こと以外は何も必要ないのだ。繰り返すが、余計なことをしてはならないのだ。この人を癒してあげよう、救ってあげよう、さあ頑張ろうなんて思うのも余計なことである。それは聖霊がやってくれるのだから邪魔しないようにしなくてはならない。かといって「聖霊様、お願いしますお願いします、うう〜」みたいになってしまってもこれまたアウトだと思う。やっぱり期待や力みや「ダメだったらどうしよう」という不安が入っているに違いないからだ。何もしなくていいというのがどうしても心もとないなら、常にあらゆる人から「学ばせていただく」という姿勢でいればよい。そうすれば自然に感謝の気もちが沸き起こる。

「何もしなくていい」!もしかして誤読する方がいらっしゃるかも一応説明しておきますが、これはあくまで「マインド」の中の問題、マインドの姿勢の問題なのである。何もしなくていいと「コース」に書いてあったからと言って、自分に課せられた仕事もしないとか一切家事もしないで一日寝てるとかいうのはズレズレだし、何もしない=間違いを正そうともしない=エゴ野放し、ではお話にならない。

自分以外の「他者」とはもう自分のマインドの投影に決まっているのである。人のふり見て我がふり直せ、じゃないけど、鏡に映った像がひどい姿だったら誰だって「ゲッまずい、何とかしなきゃ」と思うだろう。鏡に映っている像のほうをこすったり叩いたりして直そうなんて人はいないはずだ。しかし、私たちは日常的にほぼこれと同じことをしようとしているのである!

それとは逆に、自分(のマインド)の間違いを正して、ついでに歪んで曇った眼鏡も直して鏡を見れば、あらまあ何と美しく愛すべき姿が映っているではないか。ここにおいて私たちも相手も同時に解放されたことになるのである。

マインドが間違えたり知覚認識機能が歪んだりするのは私たちが「余計なこと」をしたからである。間違ったマインドで良かれと思うことなんかやっぱり間違っているに決まっている。だからこそ「コース」は「何もしなくていい」つまり「間違ったマインドに何もさせない訓練をしろ」と言っているのだが、これは「聖なる瞬間を招き入れる」のと同じことである。この方法なら、100年かけて修行しても得られないようなものが即座に得られるのだそうだ。普通の修行は、まず打ち勝つべき「敵」があり(←本当は「ない」のだが、私たちは自分でこれを作り出し現実化しているので「ある」ように思える)しかもその「敵」はひっきりなしに私たちを誘惑してくるのでこちらも大変な努力をして戦わなくてはならないというものだ。「敵」とはエゴでもあるのだが、「コース」のやり方が他の方法と違うのは「敵だと思うものに力を与えない」「それを実体のある現実的な何かにしない」点である。敵を作っておいてからそれと戦って打ち勝つのではなく、いきなりそういう次元から抜け出してしまうわけだ。

あるいは、「霊能力を開発したい」「空中浮遊できるようになりたい」などという類の「誘惑」もある。別にこれらが悪いことではないのだが、それらは覚醒や救いや癒しとは直接的には何の関係もないものなのだ。そういうものを「得たい」と思うのはまずたいていエゴ的な願望なので、それを身につけられたところで救いやあがないについてはまた別途頑張らなくてはならなくなる。やっぱり回り道であることには変わりない。

自他の区別なく癒し救う、いま遠いどこかで見知らぬ誰かが目の前の人との関係を浄化して救いや癒しをもたらしているのなら、それはたとえ認識はできなくても確実にあなたにも作用しているのだ。なぜならすべては一つだからである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース 159

第18章 その7

私たちは身体を使って生活している。たとえば私がこのブログを書くのだって身体を使っているわけだ。しかし、そういうとき普通は身体の存在を意識していない。誰でも健康な時は身体のことを忘れているではないか。頭やお腹が痛くなってはじめて身体の存在を強く認識する。「コース」が言うのはそれ以上のことであって、たとえ身体がどこも痛くなくて健康であってもマインドが怒りや不安や罪悪感などなどにまみれていれば、つまりマインドが苦痛を味わっていれば私たちは身体=バラバラの個として存在していることになるのだ。いくら健康に配慮して身体を大切にしているつもりでも、こうしてマインドが間違ったままでいれば何にもならない。

身体を通して外側に向かって表されるあれこれの言動は本質ではない。本質とは常に「マインドの姿勢・在り方」である。前回にも書いたように「マインドに余計なことをさせない=何もしない」という在り方、より俗的な表現を用いれば「無我」とか「肝が据わっている」とか言ってもよいのだが、そういう姿勢でいる限り私たちは内側において平安であり、これもより俗的に言えば深くリラックスした状態になる。実はこういう時こそ私たちはもっとも研ぎ澄まされ集中力も増すのである。こういうことは、昔ブログで紹介したオイゲン・ヘリゲルの「禅と弓道」でも言及されているし、和尚は「doではなくbeだ」つまり「何かしようとするな、ただ在れ」みたいな言い方で表しているので、禅の発想に近いと考えてよいと思う。

「何もするなって言われてもちょっとは何かしないと心配だし〜」「実際に動かなければいいんでしょ、やっぱりちょっとは考えとかないとマズイと思って〜」ではダメなのだ。そこにはまだ不安や欲を覚えるところの「我」=エゴに支配されたマインドがある。無我にはなっていない。

こういう状態を「コース」は、どんなすさまじい嵐が吹き荒れても静かな平安に満たされている「台風の目」だとここでは表現している。そういうものが私たちのマインドの中にあり、外界で何が起ころうが私たちはいつでもそこに戻ってくることができる。いかなる状況においてもパニックにならずに冷静さを保てる、ということでもある。この状態にあれば、私たちは身体に不要な注意を払わないで済む。自分の身体だけではなく、他人についても同様なのだ。つまり誰が何を言おうが何をしていようが、その言動に惑わされることがなくなる。歪んだ知覚認識に騙されなくなる。純粋理性が何ものにも邪魔されずに正しく働くので、自然に正しい言動が出てくると言ってもよい。これは、人間関係においてのみならず、あなたがどんな状況におかれていようが可能なことなのである。

身体の存在が意識されている限り完全な愛は不可能である、というのも当然のことであって身体は愛の不在であるところの罪悪感や恐怖と結びついているからである。もともと身体は「永遠不変であるもの」に制限を加えるべく作り出されたものでもある。

身体・・というか「姿かたち」と思ってもよいのだが・・・を介さずに自分自身を或いは誰か・何かを認識することがあなたにはできるだろうか?何かを思い浮かべるとき「姿かたち」なしにそうすることができるだろうか?自分自身を含めてあらゆるものが「考え」=エネルギーであると認識できるだろうか?

身体による認識、つまり知覚認識機能は非常に限られている。それどころか今の私たちにおいては歪んでもいるので、正確さという点では相当信用できないものになっている。そもそも身体がそれ自身でできることというのは「ない」。常にマインドからの指示に従っているのだが、今の私たちはまるで身体にマインドが振り回されているように感じている。これもマインドが分裂しているせいである。

「コース」に言わせれば身体なんて塵みたいなものに過ぎない。「コース」は、ちょっと乱暴だがわかりやすい喩えを用いていて、神でも天国でも「存在そのもの」でも何でもいいが「全てであり一つである」ような考え=エネルギーのうちのちっぽけな部分に線を引いて無理やり囲って区分してみたのが「身体」だ、と言っている。しかし、当然のことながら実際に切り取ったわけではない。そんなことは端から不可能だ。

そういうふうにして「囲った」ことにしてある部分をエゴが支配している。というかエゴが支配できるのはせいぜいそこだけだ。本来の私たちはそんな小さなところに限定されるようなものではないのである。

乱暴だがわかりやすい喩えは続く。大海の中の小さなさざ波、太陽から放たれる小さな光線だけを取り出してそれを自分自身だと思い込み「私は海の一部ではありません、太陽の一部ではありません、大海や太陽がなくても生きていけます」と言っているようなものなのである。これが傲慢でなくて何だろうか。単なるバカという感じさえする。

しかし、大海も太陽もさざ波や光線がそう思い込んだところで別に意に介さないだろう。ケシカラン奴だ、とっちめてやろうなんて思わないだろう。何も起きていないとしか感じないだろう。だから私たちは罪悪感を抱く必要も恐れる必要も何もないわけである。だって実際には何もしてないんだから!(ま〜、傲慢な考えを抱いたというのは「コース」によると単なる勘違いであって罪にはならないようなのだ。キリスト教だと「心で思っただけでもダメ」なはずなのでは?と思わなくもないのだが、このあたりはおそらく後述さ

れるであろう)

ちょっと想像してみてほしい。大海のさざ波の一つ一つが「私たちは海じゃありません。私たちはみんな別々のさざ波です」「あのさざ波は私のことを嫌っていますから私はこっちのさざ波のほうが好きです」「私は海に逆らってしまった!きっと罰を受ける、どうしよう」などと思っているという光景は、もう冗談にもならないくらい滑稽ではないか。

さざ波ひとつには何の意味もない、それが大海の一部だとわかって初めて意味を持つことができる。ひとつのさざ波だけを見れば「海」とは思えないかもしれない。しかし「海を見ないで一つのさざ波だけを見る」ことなど不可能ではないか。

さざ波一つ一つはもしかしたら自分の周りに「身体」という壁を作っているつもりなのかもしれない。しかし、実際にはそんなことはありえない。どこまで行ってもそれらは大海の一部であり、また大海の性質をそっくりそのまま持っている。どう見たって「分離」などしていない。ほかのさざ波や大海から離れて存在などしていない。

太陽においても同様だ。ここに当たっている日の光とあそこに当たっている日の光が別物だなんてことはありえないし、それぞれが太陽なしには存在できないし、また日の光がない太陽なんてものもありえない。

これらはあくまで乱暴な喩えである。どこかの童話作家が「小さなさざ波は一生懸命頑張っていましたが、ついに海に飲み込まれて死んでしまいました」なんて書いてもおかしくない。もっともそれは当人がそのように見ているからに過ぎないのだが・・。まあ、「コース」の言いたいことはよくわかる。それに、本来の私たちの存在基盤といったら大海や太陽なんてものじゃない。そしてそのすべての力が私たちにもあり、深い満足を与えてくれるのである。

本来の愛には限りがなく、限りがないからこそ愛だと言えるのだ。愛は身体という幻想の壁など全く関係なく至る所に溢れており、しかも常に広がり続けている。しかし、幻想の壁を現実のものだと思い込んでいる私たちにはそれがわからない。自分たちはカラカラに乾いた砂漠で飢えているのだと思い込み、愛はどこか別のところから与えられるものだと思い込んで虚しく求め続けている。自分が「いくら飲んでも尽きない底なしの」ペットボトルを抱えているのに気付かず枯渇しているようなものである。

身体の存在を忘れたくないと思っているうちは愛に気付けない。身体の中に愛が入ってくるのではなく、身体がないとわかるからこそ愛の存在に気付くことできるのである。そのとき、カラカラの砂漠に見えていたものは緑あふれる素晴らしい庭になり、そこを訪れる全ての疲れた人々、道に迷った人々に安らぎを与える。その中に入るときには彼らにも神なる愛が与えられるので、私たちの庭はますます多くの愛で満たされ、緑はいっそう深くなりたくさんの新鮮な水を湛えて庭そのものがどんどん拡大していく。そしてついには天国に姿を変える、というのは前にも述べた「本当の世界」から「本当の現実=天国」への変容と同じことである。

さあ、外に出て道に迷った人々を見出そう、とは「マインドを開いて」という意味だと捉えたほうがよいと思う。もちろん具体的に、たとえばマザーテレサがしたような活動に身を投じてもよいのだが、たぶんここではもっと日常的なレベルのことが言われているはずだ。

私たちの準備が出来さえすれば愛は必ず応えてくれる。そのとき私たちはこの身体に閉じ込められたちっぽけでバラバラの人間ではなく、大いなる自己というか絶対的な自己になっている(念のために付け加えれば、「私の大いなる自己」「あなたの大いなる自己」というものはありえない!これは全てでありひとつであるところの本来の私、なのだ)。あなたの庭に来た人々はあなたと同じ「大きな自己」なのである。

前にも言われていたように私たちの「特別な関係」は聖霊によって浄化される。ところが実は浄化されるべきはそれにかかわる私たちの思考というかマインドなのであって、関係そのものには既に愛が入り込んできているのだ。それを見えなくしているのが私たちの歪んだ思考システムなのである。自分と他者とを分け隔てる防壁を作っている限り、実は既に私たちを満たしている愛に気付くことができないのだ。

第237回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 156・157

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 156

第18章 その4

愛がほしければ他のことは一切考えずにただマインドを感謝と平和で満たせばよい。愛がほしいからそのためにあれもこれもやっておこう!と考えるのはエゴであって、要するに「もし得られなかったらどうしよう」という恐怖によって生じる考えなのである。私たちが「自分で」何かしようとするのは逆効果でしかないのだ。そもそも神とは別に「自分で」何かしようとしたからこそ苦痛を生じるような事態になったのだから、その同じ自分が何かしたところでどうせろくでもないのに決まっている。これは前に述べたように「ある間違いを、その間違いを生み出したのと同じマインドで正せるわけがない」のと同じ道理である。

聖霊に従うとは純粋理性によって思考することでもある。断言するが、通常のエゴまみれのマインドで思考(とは言えない代物で、ただ感情にひきずられているだけなのだが)しているときと、純粋理性が働いているときの違いは明らかにわかるものである。

別の言い方をすれば私たちの側ですべきことは「自分を捨てる」=放下=surrenderなのである。感謝と平和でマインドが満たされているとき、既に「この私」と思われていたものはどこにも存在しない。やってみればわかる!

聖霊を招き入れるのに必要なことは「何もない」に等しいくらいなのだが、これが私たちには却って難しく感じるのである。常にマインドをどうでもいいようなこと(←当人は「どうでもよくない、大事なこと」だと思っている!)でいっぱいにしておくのにあまりにも慣れてしまっていて、それらなしでいる状態がどうにも心もとなく感じるからだ。しかし、「コース」学習になじんでくると、むしろそういう「不要なガラクタを詰め込んだ袋を抱えた」ような状態のほうが苦しくなってくるはずだ。

あるいは、ものすごく勉強したり修行したりして「理解」しておかないとダメだと思い込んだりもする。それも実際のところ全く不要なのである。「コース」もスピリチュアルも全く知らず、それどころか字も読めないような人々の中にも聖霊と交流しスピリットとして生きている人はたくさんいるのだ。キリストが「幼児のようでありなさい」と言ったのはそういう意味でもあると思う。

いま既に私たちが持っているものを与えさえすれば救いは即座に訪れる。理解できなくても覚えておいてほしい。本来とてもシンプルで簡単なものをわざわざ難しくしているのは他でもない私たち自身であり、私たち自身がそのように「決めつけて」しまっているだけなのである。分裂したマインドである「アタマ」の能力なんか全然あてにしないほうがよい。何しろ私たちの「アタマ」は、自分が前進しているのか後退しているのかさえわかっていないのだ。だから、そういう判断もすべきではない。そんなことをしているうちは奇跡など到底もたらせなくなってしまう。奇跡とは「自然に可能なもの」どころか、既に起きてしまっているものなのだ!過去という幻想が消え失せたときにそのことがわかる。

また、よくある間違いなのだが、自分のマインドの奥底の隅々まで覗き込んで、過去生までさかのぼってそこにある(ように見える)全ての恐怖やら罪悪感やらを一掃してからでないとダメだと思い込むケースもある。これらはみな「幻想」であって「実在しない」のだから、それに対して何かするというのは「幻想を現実のものとみる」ことに他ならないのだ。そんなものは全部無視して、ただ今この瞬間において、ほんの一瞬だけでも「感謝と平和」に満たされればそれで充分なのである。思い出してください、時間は存在しないのです。今ここで癒されれば過去(生)と思えるあれこれも一緒に癒され解放されるのだ。それらは聖霊の或いは聖なる瞬間の持つ役割なのであって、あなたがやることではない。スピリチュアル系のあれこれの方法にはここを完全に勘違いしているものが少なくない。

私たちに対して為されようとしていることは(というか本当は既に為されてしまっているのだが)私たちの「アタマ」ではとても考えきれないような、想像も及ばないようなものなのである。出会う全ての人々との関係の中で、それがたとえ通りすがりの人との数秒のものであっても、浄化や癒しが為されるだけで十分にすごいことではないか。

神や聖霊から与えられた目的は救いでありあがないである。そのために私たちに与えられた手段が聖なる瞬間であり奇跡なのである。この目的から離れないこと、別の手段を用いようなどとしないこと、これが大切なのだ。

悪夢のような幻想の世界から天国に至る途上にある「本当の世界」は「幸せな夢」でもある。幸せな夢は現実のものになる。なぜなら幸せとは神の御心であり、神の御心は既に為されてしまっているからだ。「これじゃなくて別のがほしいの」なんて言ってはいけない。まあ普通はそう思わないだろうが、「こんなのでいいのかしら」という不安に陥る人もいるのである。

特別な関係も浄化されて「幸せな夢」になるのだが、物理的な特別さが残っていればやはり依然として「夢」の段階にとどまることになる。たとえば、身体がなければ肉親というものもない、ついでに場所も時間もなければ「誰かと時代をともにする」こともありえない。私たちは生まれも死にもしない、そういう本来の状態においてはあらゆる意味での特別さがありえないのである。特別な関係が聖霊によって有効利用される際には、まさにその「特別さ」がうまく活用されることになる。通りすがりのどうでもいい人なら見過ごせるようなことを特別な位置づけにある人に対しては見過ごせない。それが自分自身にかかわることでもあるからだ。もっといえばそこに自分自身の恐怖がからんでいるからだ。この人にこんなことをされたら困る、この人がああなったら心配だ、こう言われたから頭にくる、引け目を感じる云々すべて恐怖と罪悪感に端を発するものである。しかし、それらの恐怖や罪悪感が一掃されて愛と自由だけになったらどうだろうか?特別な位置づけにある分、喜びも幸せもより大きなものになり周囲のあらゆる人々に影響していくのではないだろうか?

自分の周囲の「特別な関係」から聖性が失われそうになったら、すかさずそれを聖霊に委ねよう、つまりとにかく感謝と平和でマインドを満たそう。どちらか一方が聖なる瞬間に入れれば他方もまたそうならざるを得ないのである。相手にはその自覚がなかったとしても、あがないや解放は同時に為されるのだ。逆もまたしかり、どちらか一方が幻想まみれになれば、うかうかしているともう一方も同じようになってしまう。先に気付いたほうがやる、先に気付いた者にはその責任がある、それでよいのだ。先に気付いたことに喜び感謝しよう。

「この聖なる瞬間を私は愛する兄弟姉妹と分かち合いたい。彼(女)なくして、私ひとりがこの聖なる瞬間を享受することはできないし、彼(女)が私なしに享受することもできない。いまここで、ともに分かち合うことのみが可能なのだ。

私は今この瞬間を聖霊に捧げよう。聖霊の祝福が私たち二人の上に降り注ぎ、私たちを平和でいさせてくれるように」

さて、ここからは久しぶりに身体についての考察である。

身体も、そして天国・神の国も含めて私たち(のマインド)の外側には何もない、私たちが最終的に学ぶべきはこのことである。これはなかなか実感しにくいものなのだ。

神の国=天国とは言うまでもなく「場所」ではないが、何らかの状態とも違う。全ては一つであるという真理を知ることなのだ。神は知である。神を知ることは神と一つになることであり、それこそが天国なのである。私たちの現実はそこにしかない。

ところが、今の私たちのマインドはいくつもに分裂しておりそれぞれがエゴに支配されて訳が分からなくなっている状態なので、自覚はなくても相当おかしいことを日々やってのけている。

たとえば、私たちは完全にマインドと身体とを混同している。「コース」もその前提に立って読まないとわからない箇所がたくさんあるので注意してほしい。

まず、身体とはマインドの一部が外界に投影されたものである、つまりマインドの一部である。そして、「私たちは生きて死ぬバラバラの個人である」という幻想を体現させる場としてマインドは身体を使っている。マインドは自分にできないことを、つまり「本来の私たちには不可能なこと」を身体に肩代わりさせ、それが投影された像を見て「これが現実だ」とますます強固に思い込んでいるのである。このあたり、原理はとてもシンプルなのだが、現象としてのあらわれ方はかなり巧妙というか私たちの知覚認識機能を欺くのに十分なものになっている。

ここでもっとも重要なのは「身体はマインドの指示に従うものであり、身体そのものとしては何もできない」ということである。身体はマインドの一部であり、それがマインドの外部に投影された「像」である。スクリーンに映ったものがフィルムや映写機を無視して勝手に何か決めたり動いたりできないのと同じである。マインドが歪めば身体も病気になるとか、マインドが健康になれば治るなどというレベルではない。身体は生まれて死ぬものだ、性差があるものだ、変化し老化するものだ、切れば血が出るものだ、などなどもう「大常識」に属するような部分まで含めての話である。自覚はなくても、無意識とか集合無意識などのレベルでそう指示されているのである。すべてが変化や相違をあらわしている点に着目していただきたい。上述したように、身体はこうして「分離・分裂」というマインドの幻想を投影され、それを体現しているのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 157

第18章 その5

マインドは、その投影であるところの「身体」に自らの幻想を現実化させている。しかし、幻想が本当の意味で現実化することはありえないので、より正確に言えば「現実化させたかのように見せている」ということになる。分裂したマインドのある部分が私たちの意識というマインドを欺いている。

身体が幻想であり実在しない、というのは「コース」の論理に即して考えれば至極当たり前のことであって、変化した挙句に無くなるようなものは絶対普遍じゃないのだから真実在ではない、ゆえに成長老化した挙句に死んで白骨化するようなものも真実在ではない、と非常に明快なのである。しかしいくら「実在しない」と言われても通常の知覚認識では実感しづらいと思う。見えるし触れるし聞こえるじゃないか!と思うからである。しかし、考えてみて下さい、これらは全て「身体の機能」ですよね。その身体が幻想だったらそこで機能していると思われるものも全部幻想に決まっているではないか。間違いを、その間違いが生じたところの同じマインドによって認識したり正したりすることはできない、というのと同じ道理である。

まず、あらゆるマインドは実は「ひとつ」であるのに対して、身体は文字通り「みんなバラバラ」だ。しかし、分裂してしまった(ように見える)私たちは、マインドもまたバラバラであってそれぞれの身体の中に閉じ込められているように感じている。それぞれ身体の中に心があるからお互いに見えないしわからない、身体によってマインドが隔てられているように感じている。つまり、私たちは「身体もバラバラ、心もバラバラ」な世界に生きていることになる。

マインドは罪悪感を抱えている。罪があれば罰を受けなくてはならないわけだが、マインドは罪悪感も懲罰も身体に肩代わりさせている。つまり、思い通りにならなかったり病んだり怪我したり死んだりするのは全て身体なのだ。こうしてマインドは身体を攻撃しているのである。

ところで、前にも見たようにマインド自らは攻撃などできない。攻撃していると思い込むことはできるが=幻想=実際にはできない。しかし、これも身体に肩代わりさせることで「現実のものだ」と思えるようになる。マインドの指示を受けた身体の各部分が攻撃したりされたりしている、ように見えるのである。

「コース」によると、私たちは身体を憎んでいるそうである。そんな!私はすごく身体を大切にしているわ、と思う方もいるだろうが、まあたいていの人は自分の身体が自分の思い通りにならないものだと考えているのではなかろうか?身体に不調が出れば苦しい。そのとき私たちは自分の身体によって攻撃されている(ように感じる)のである。苦しいのは身体ではなくマインドなのだ。極端な話、マインドがそのように判断し受け取らなければ大怪我をしても痛くもかゆくもないのである。これを要するに、マインドが身体を使って自らを攻撃しているわけである。ということは、実はマインドはマインド自身を憎んでいる、私たちは自分自身を憎んでいるのだ。神に逆らった(と思い込んだ)ために「罪深い憎むべきもの」になってしまったからである。

現代において信じられているような身体の仕組みについての知識は全てマインドが作り出したもの、マインドがそうあるべきように身体に指示したものなのだ。医学や科学がどんなに発展しようが、それらによって解明されたように見えるあれこれはみな幻想である。

身体は分離の産物であり、神からの分離は愛の否定に等しいのであるから、身体は愛によって造られたものではないと容易にわかる。神(の御心・愛)によって造られたもの以外は実在しない、これはもうご承知だろう。あるいはこう言ってもよい「神は身体ではない。神は自らに似せて私たちを創造したのだから私たちは身体ではない」。

さて、傷ついたり病んだり死んだりして思い通りにならないこの身体を、私たちは「自分だ」と思い込んでいる。たとえば「日本人で、女性で、何歳で」云々というのは全て「身体」の情報だ。私たちは身体(の生命)を自分にとってかけがえのない財産だと思っている。一方では憎み敵視しているのに!思い通りにならないものだからこそ大切にするというのは、まさにエゴの箴言「求めよ、されど見出すな」ではないか。

私たちは身体を「他者と自分とを隔てる壁、マインドを閉じ込める牢獄」にしている。自分で牢獄を作っておいてそれを自分で攻撃し破壊しようとしている。しかし、身体を破壊したところで罪悪感の根本原因である「神に逆らってバラバラになった」という勘違いがなくならない限りマインドは、つまり私たちは苦しみから解放されないのだ。

ところが、やはりその身体も聖霊に従えば「分離を現実化し苦痛をもたらす道具」から「救いをもたらす道具」に変容することができる。変な話、下手な健康法をあれこれ試すよりこの教えを学んだほうがよほど早くて確実のような気がする。

まず、身体には限界があって、時間や空間の制限を受けている。一方でマインドは無限である。その果てしない奥行というものについてちょっと考えてみてほしい。宇宙がすっぽり入ってしまうなんてものでは済まないのである。

本来は内も外もないのだが、ここで「コース」はおそらく身体と対比させるために敢えて「マインドは外に向かうのではなく内に向かっていくものだ」と述べている。身体でコミュニケーションを取ろうとすれば外に向かって何かしら動かなくてはならないのだが、マインドのコミュニケーションはそういうものではない。

マインドの中にあらゆるものがあり、あらゆるものがマインドである。本来、私のマインド・あなたのマインドというものはない。すべては一つのマインドである。私たちが「自分」と思っているものも、「あなた」「彼(女)」と思っているものも全てこのマインドの中にあり、マインドの外側というものはない。集合無意識というレベルのものではない。何故ならここにはやっぱりエゴが入り込んでいるからである。実感しにくいとは思うが、折に触れてこのことを意識するようにしていただきたい。

すなわち、身体が私たちそれぞれを、あるいは私たちと神を隔てているということこそが「幻想」なのである。これはしつこいほど繰り返されてきたことだ。

誰でも、「我を忘れる」ように、つまりこの「自分」=身体を忘れるように感じる経験を持っているのではないかと思う。何かに没頭して完全に無我の境地になっているときに重力から解放されあらゆる制限を解かれるような感覚になるのだが、これは神や宇宙との「一体感」を味わっているのである。自分と何かとが一体化しているというより、もはや自分という感覚すらなくなっている。その解放感たるや、通常の現実の中ではちょっと経験できないものである。ここにおいて私たちは恐怖をはじめとするあらゆる幻想から解放されているのだ。マインドは外に向かっていない、これは明らかだ。内に向かって限りなく開けている状態であり、「ひとつであること」が間違いなく現実のものとなっている。(もっとも、恐怖や怒りで「我を忘れる」こともあると思う。この場合は身体が完全に「血迷ったマインド」の奴隷になっているのであって、更なる不自由と分離がもたらされている)。

どんなものでも没頭したり一体化したりする対象になりうる。2000年前に遠い国で書かれた文章に夢中になる、200年前に作られた音楽に我を忘れて聴き入る、夢中で何かを考えているときに考えている自分がなくなってしまうように感じる(特に形而上的な思考の場合)、過去の思い出に浸り切る、などなどこれらは時間も場所も何も一切関係ないものである。逆説的だが、身体を極限まで動かしているときに身体がなくなったような自由な感覚になったり、体が不自由なはずの人が「火事場の馬鹿力」で重いものを持ち上げて運んだりすることもある。

このとき私たちは完全に身体を忘れ、身体を超えて、身体によるあらゆる物理的な制限から完全に解放されているのだ。何か特別な対象と一体化しているという状態すら超えてあらゆる存在と溶け合い、一つになっている。もはや恐怖はない。恐怖がなければそこにあるのは愛と平和だけである。そしてこれこそが「現実」であり、聖なる瞬間でもあるのだ。そういうとき私たちは「現実とは何だろう」なんて考えもせず、ただそれを受け入れている。

身体は私たちのマインドがそう決めない限り私たちを縛り付けるものではないし、また身体の中に私たちが閉じ込められることもない。身体は私たちの邪魔をしないし私たちもア身体を攻撃しない、そうマインドが決めれば身体はそれに従うのだ。これぞ究極の健康法!なのではないだろうか?

私たちの多くが「身体を丈夫にしたい」と考えていて、そのためにいろいろなことをしている。ボロボロに弱っているより丈夫なほうがよいに決まっていると思うだろうが、下手すると丈夫で健康になること自体が目的になってしまう。これは本来目的ではなくて手段であるはずなのに、やはり私たちは身体に価値を置きすぎているようだ。

それが何か問題なのか?というと実は大問題なのである。ほんらい身体は神からの分離の象徴であることを思い出していただきたい。神からの分離の象徴ならば、当然のことながら身体は罪悪感と恐怖の投影像であり、その身体に価値をおけばおくほど私たちは自分の罪深さとそれに伴う恐怖をいっそう強く現実のものにしてしまうようになる。つまり、救いもあがないもそれだけ遠のいてしまうのだ。繰り返すが、救われるのは身体ではない!乱暴に言えば、救われたりあがなわれたりするとき私たちは身体など超越してしまっているのである。それに、身体そのものを丈夫にしようという考えの裏には必ず「こうやって気を付けていないと身体は病んだり弱ったり傷んだりする」という考えがある。それが前提になっている。つまり、私たちは「身体に対する攻撃」が現実のものだと認めていてそこから出発していることになるのである。

第236回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 154・155

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 154

第18章 その2

世界とは何か!言うまでもなく「あなたが知覚認識する外界」が「あなたにとっての世界」である。そして、いま私たちが「現実の世界」だと思っているものは実際には「ほんとうの現実」ではなく、それが歪められてスクリーンに映った像なのである。なぜ歪んだかと言えば、「歪めたい」と願ったからだ。そんな覚えはないかもしれないが、私たちがエゴに同化してしまえばどうしたって「攻撃にさらされ、傷つくのが当たり前」という世界を体現する羽目になるのである。

夜眠っている時に見る夢のことを考えてみてほしい。楽しいものであれ怖いものであれ、それらはたいてい「めちゃくちゃ」なものだ。時間も空間も登場人物も目が覚めている時の「現実」の中のものとは違う。ありえないことが平気で起こる。相当おかしい人でない限り、夢と現実を混同はしない。目が覚めれば「あ〜夢だったか」で終わる。そしてそのうち忘れてしまう。

夢の中では文字通り「目覚めているときの現実」が「仮想現実・幻想」に置き換わってしまっている。エゴは本当の現実に耐えられず、私たちは本当の現実を変えたがっている事実を示すよい例である。無意識という分裂したマインドの中にももちろんエゴは居座っているのだし、むしろ野放しになってさえいるのだ。普段は冷静な人でさえ夢の中では絶叫したりする。自分ではまったく望んでいないような怖い夢でさえ、実際には一種の「願望」なのである。

夢というのは「予知夢」なども含めて全て幻想である。予知される内容はこの世のあれこれに決まっているからだ。目の前にある現実でさえ本当は幻想だというのなら、いわんや夢など幻想の最たるものである。寝ているときに夢を見て、夢の中ではそれが現実だと思い込めるという現象は、「ある幻想をほかの幻想で置き換える」のであり、私たちが「自分の現実を作り出す」願望と能力を持つことを示しているのだ。目覚めているときの現実と夢を混同する人は、やっぱり「ある幻想をほかの幻想で置き換えている」わけだ。(私はたまに夢の中で「これは夢だ」とわかって、しかも「気に入らないストーリーだから巻き戻して作り直す」ということをしていたのだが、これをやると目覚めたときにすごく疲れた)。

あらゆる幻想の根底には恐怖がある。目の前の現実と寝ているときの夢とどちらが恐ろしいかはその時々によって違うだろうが、どちらにしても「幻想で幻想を置き換えている」のには変わりない。要は、私たちがエゴと同化したことによって「全ては一つであるという本当の現実」を恐れているところが原点である。本当の現実を恐ろしいと思ったことじたいがそもそも「幻想」なのだ。

さて、ここで目の前の現実を夢だと考えてみてほしい。夢の中の「外界」はあなたの「マインド(或いは無意識)」だ。これはわかりますね。夢の中の登場人物もあなたのマインドの中にあるものであって実際の彼らではない。彼らを「動かして」いるのはあなたのマインドである。しかし、夢の中であなたは彼らがあたかも「実際の彼ら」であるかのように反応している。それを疑いもしない。夢の中で彼らがあなたにひどいことをしようが、熱烈に愛してくれようが、それはあなたのマインドが作ったシナリオに過ぎない。もし本当に自分がそんなことをしているとわかったら、誰だって「相手を自分の思い通りに、まるで人形のように動かすなんて悪いことだ」「夢の中とはいえ相手を悪人にしてしまったなんて!」と罪悪感にまみれてしまうだろう。

しかし!!私たちは、実のところ目が覚めているときにもこれをやっているのである。本当の意味で真理に目覚めないから気づかない、通常の「目覚め」はある幻想からもう一つの幻想に移行しただけなのだ。先に書いた「原点」の部分すなわち「本当の現実は恐ろしいという思い込み」「本当の現実とは別の世界を作り出したいという願い」は残っているからである。

そして、神によって造られたただ一つの「現実」を自分の思い通りに変えようという願いは、無意識にであれどうしても罪悪感を生じさせていることになる。罪悪感が強まるとともに恐怖や不安もまた強化されてしまう。

まとめると、まず私たちは「本当の現実は恐ろしい」と思い込んでいるためにその現実から逃れて別の現実を作り上げようとし、救われるために自分以外のところに特別な何か・誰かを求める。その特別な何か・誰かに自分のマインドの中のあれこれを投影しては一喜一憂するのである。

かといって「夢を見るのは一切やめよう」なんて思ってもなかなかその通りにはならない。そこでまた聖霊の登場なのである。聖霊は私たちの夢をも浄化し変容させて有効利用してくれるのだ。今までの私たちは「閉じたマインド」を守るために夢を利用してきたようなものだが、聖霊は夢を「目覚めるための助け」として使う。恐ろしい夢ではなく、楽しくハッピーな夢つまり「本当の現実」に限りなく近い夢を見ることができるようになる。

たとえば「特別な関係」も無理やりあなたから奪うなんてことはしないで、それを罪悪感と苦痛を生み出すものから喜びと自由をもたらすものに変容するわけだ。ただ、非常に逆説的なのだが、そうなるとこれはもはや「特別な人」でも「特別な関係」でもなくなるのである。家族などに代表されるように、この世における身体的・物理的な意味での特別性は残るかもしれないが、それ以上の意味において「特別」なことなどありえない。

ちょっと乱暴な言い方をさせていただくと、私たちの人間関係は全て「自然現象」のようになる感じなのだ。来る者は来させ、去る者は去らせる。どんな相手に対しても同じことをし、同じものを与えられる。たまたま「この世のご縁」で近い関係になればそれだけかかわる時間も頻度も長くわけだが、だからといって「より特別」というものではない。

当たり前のことだが、聖霊には愛と感謝の波動しかない。私たちの「特別な関係」に聖霊を招き入れれば或いはそれを聖霊に委ねれば、どんな関係にあるどんな人でも癒されるのだ。苦しい関係から解放されるとは、その相手と別れることだとは限らない。ただ別れたって解放されていないケースのほうが多いんじゃないかと思うくらいだ。正しい意味においての「解放」とは、幻想からの解放に他ならない。つまり罪悪感や苦痛から解き放たれて自由になるのだ。そしてそうなったとき私たちはもはや「特別な何か・誰か」など必要としなくなっているのである。言い方を変えれば、あらゆる人が「特別な人」になり、あらゆる関係が「特別な関係」になる。日々出会うあらゆる人があなたの「マスター」になる。そこには聖性があり、その関係を通してあなたも相手も癒され解放され救われるからである。私たちの関係の目的が「本当の現実から逃げる」ことではなく「本当の現実を受け入れる」ものに変容するからである。

ところが実際にそうなってみると、普段の現実とあまりにも違う、ちょっと考えられない事態であるため、また夢を現実だと思い込むことに慣れすぎているために私たちは「こんなことは夢なんじゃないか」と思ったりすることもあるし、またすぐ元に戻ってしまうこともある。が、それでもやはり私たちは次第に「夢から夢へ」ではなく「夢から現実へ」移行していくようになる。

(余談だが、本当に覚醒してしまった人は夢を一切見なくなるらしい。それどころか「休む」ことはあっても「眠る」ことがなくなるらしい。)

前にも書かれていたが、「コース」は「悪夢からいきなり叩き起こされると却ってパニックになる」ので「まず幸せな夢を見させて自然に目を覚まさせる」方法を推奨している。

この「幸せな夢」の状態こそが天国に至る手前の段階である「本当の世界」なのだ。これらは全て「神の御心のままに受け入れる」という意志から生じるものである。私たちの日常世界と夜見る夢がともに「別の現実を作り出そう」という、神の御心に反した願望から生じているのと対をなしている。両方とも「夢と現実に大差がない」点において共通しているわけだ。

夢の中で救いを得ようとするとどうなるか?更なる夢を見る羽目になる。もっと悪くなったように思えても、或いはちょっとましになったように思えても同じことだ。眠りはますます深くなってしまう。光を求めているつもりで気づかない間にどんどん深い闇の中に入り込んでしまうのと同じである。闇の中にとどまったままで、すなわち真理の光から目をそらしたままで救いを求めているうちは何をどうしたってダメなのだ。しかし、真理の光は見えなくなることはあっても失われることはない。しかもそれは私たちの中にあるのだ!見ないふりをすることはできるが失うことはない。真理は逃げも隠れもせず、常に今ここにある。

私たちはこんなに愛や癒しや救いを求めているにもかかわらず、どうしてもこの光=本当の現実を怖がってすくんでしまう癖がある。ちょっと光が見えても「これこそが真実だったのだ」という確信を持つことができず、怖気づいてしまうのだ。

恐怖や不安は闇の中にある、ように見える。実際には闇の中には何もない。逆に、恐怖や不安に襲われているとき私たちは闇の中にいるのだ。「過去に見聞きした経験を基準にして未来のことを恐れる」以外の恐怖はありえない。ここを本当によく考えてほしい。

闇から抜け出して光の中に入るためには、実は何の苦労も要らないのである。ただ勇気を出して目を開きさえすればよい。一瞬で済んでしまうことなのだ。幻想=闇の中で救いを求めてしまえば一生かかっても何度生まれ変わっても苦しい旅が続く。私たちは今までずっとそうしてきたため、救いを得るのはとてつもなく困難だと思い込んでいる。ゆえに「光を見つけるのは不可能なくらい大変な苦難の旅に違いない」と思ってしまうのだ。

本当の現実は恐ろしい、そう信じることは真理を求めつつ真理を恐れ、愛を求めつつ愛を恐れ、救いを求めつつ救いを恐れることに等しい。どちらを選ぶかは私たちの決断次第、馴染みがあるからといってそれが楽で自然な道なわけではないことにくれぐれも留意してほしい。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 155

第18章 その3

またしてもしつこく繰り返す。不安や恐怖や罪悪感に流されてしまうのは簡単なことだが、それは単に「今までそうして来たので癖になっている」からである。それらを抱えれば楽ではないし、苦しいに決まっている。何故なら本来の私たちにとってそれらが「自然なことではない、自然に逆らっている」状態だからである。感謝と平安に満たされていたほうが誰だって気分がいいはずだ。誰だって自然にしていれば楽だし自然に逆らっていれば苦痛ではないか!ただ、それが「自分の選択次第」だということが皆なかなか理解できない。自分に制御不能の何かがそれを阻んでいると思い込んでしまっているのである。自分が「怖い、どうしよう」と思わない限り、怖いものなど「実在」はしないのだ。また、以前「感情移入」についてもいろいろ教えられたが、相手の苦痛に感情移入すれば双方の闇をますます深くしてしまうことになる。ここはもう何度繰り返しても足りないのではないかと私は感じている。

私たちはひとりでいようが、誰と一緒にいようが常にキリストと或いは聖霊とともにいるのであり、神と神の賜物を受け入れているのである。言い換えれば、スピリットとして在りスピリットとして誰かとかかわることは誰にとっても可能であり、尚且つ却って自然なことなのである。その時にはあらゆる人間関係が世を照らす光になる。逆に、私たちが誰かに背を向ければそれはキリストに背を向けたことになってしまうのだ。

こういうことがよく理解できなくても全然構わない。所詮、今の私たちには何も理解などできないのだ。「そうなってみればわかる」のだから、まずは「そうなってみよう」と強く願い意志することが肝要である。

ものすごくシンプルなことなのだ。難しいと感じるとすればそれはただ慣れていないからに過ぎない。要するに、常に自分のマインドを見張って「幻想」が入り込まないように、「幻想」に飲み込まれないように注意すること。そして、やはり常に自分のマインドを感謝と平和で満たしておくこと(それを「コース」は「聖なるものでいよう、という願いだと言っており、更にその願いはとっくに叶えられてしまっていると言っている」。これだけなのだ。これは自分がそう決めさえすれば常に「今ここで」できることなのである。そんな場合じゃないのよっ!だって今はあれとこれが大変なんだから云々なんていうのは寝言に近い言い訳である。何故ならその「あれとこれが大変」と認識することじたいが幻想だからだ。

私たちの目的地(ゴール)は絶対確実なものである。そこに到達しようという意志を保ち続けさえすれば誰でも必ず到達できる、というか到達した暁には「何だ、初めからここにいたんじゃないか」とわかるようなものなのだ。

本来の状態には「願望」というものが存在しない。全てがあるところには願望など必要ないからである。願望とは分離の産物だ。「神から離れてバラバラになった」という勘違いに端を発するこの世界の私たちにしかないものだ。しかし、その「願望」もまた聖霊によって上記のように有効利用されれば「神の御心」と合致するものになり、救いに至る学びを助けてくれるものになる。

冒頭に書いたことと関連するのだが、私たちがキリストとともに歩みつつ誰かとかかわれば私たちはその相手を闇から救い出してやれる。これもまた「人を見たら聖霊と思え」と同じことである。

忘れてしまった人もいるかもしれないのでちょっとおさらいしておこう。スピリットとエゴは全く疎通ができないのである。相手を聖霊だと見る以上、私たちはスピリットとして存在しているのであり、そうなればイヤでも相手のエゴはそれこそ「相手にならない」のだ。自動的にスピリットどうしのかかわりにならざるを得ない。そこに私たちは光を持ち込んでしまったのだから闇は消えざるを得ないではないか。奇跡がもたらされるのはそういう時なのである。私たちを苦しめていた(ように見えた)あれこれが、「本当は存在しなかった」ことが知覚認識されるのは、幻想という闇に光が持ち込まれた結果として闇が消えてしまったからなのだ。

キリストや聖霊(あるいはスピリット)を心から信じれば、またその「あかし」として誰か兄弟姉妹を心から信じれば、私たちは聖霊やキリストに力を与えることになる。与えたものを受け取るという原理に従い、私たちはそれらの力を受け取ることができる。闇に光をもたらすこと、これこそが癒し・救いであり、またこれだけが私たちに与えられた役割なのである。既に目覚めつつある私たちはその光を持って人々の中に入っていき、彼らの闇を照らすのである。

どれだけ時間がかかるんだ、などと悩まないでほしい。悩むことじたい、あなたがまたしても幻想に落ちいってしまっている証左だ。そちらに気を取られないようくれぐれも注意してほしい。

私たちは何生にもわたってバラバラに生きていた。その過去はもはや「なかった」のだということが明らかになろうとしている。光に照らされれば今まで見えなかったものが見えるようになる。恐ろしいものが隠れているんじゃないかと思って目を凝らし「敵」を探しているとき、私たちは光をもたらしたつもりでますます深い闇の中に潜り込んでしまうのだ。そんなものは「ない」、本当に光が持ち込まれればそれがわかる。

私たちがあらゆる人々とともに天国に向かって歩む間中、天国からの或いは神からの光は一つ残らず私たちを照らし続ける。ものすごく比喩的な表現をゆるしていただければ、神の光はあまりにも強烈で明るいのでそれに照らされれば光以外の何も見えなくなってしまい、その光こそが真理であり神であり私たち自身でもある、そういう感じである。

聖霊に委ねるというときに「あれとこれをこうして下さいお願いします」なんて言ったらもうエゴが入ってきている危険がある。聖霊に委ねるときにはとにかく「邪魔をしない」に限る。すなわちただ「感謝と平和の波動」になる、そして「どんな幻想よりも聖なる瞬間のほうを選ぶ」と決める。これだけなのだ。そうすればすぐに結果が出る。信じられないだろうか?だとしたら、あなたは自分のあらゆる知覚認識とそれに伴う感情が専ら「自分がそう決めたから」という、自分の判断の結果であることについて自覚が足りないのだ。まずそれを認めよう。今からやろうとしていることはちょうどその裏返しなのだから、「自分で決めればそうなる」という部分だけは理解しておかないと難しくなってしまう。しかし、それ以上の理解は必要ない、というより聖霊のわざはそもそも私たちの理解を超えているのである。

自分の了見で良かれと思うあれこれについてはこの際無視してほしい。何がどうなるかなど考えず、ただ聖霊を信頼して委ねるのだ。「望むことを具体的にありありと思い浮かべて云々」という凡俗な願望実現のハウツーと「コース」とはその出発点から違うのである。自分自身も含めて何もかもがあるがままにある、実はこれこそが奇跡の極意なのである。「コース」は繰り返し「奇跡はごく自然な現象である」と言っているではないか。何か特別なことをする必要はないのであって、ただひたすら「邪魔をしない」つまり「完全に委ねる」こと、そうしようという決心だけが必要なのだ。

委ねる、というのは本当に信頼していなければできないことだ。聖霊に委ねられないのならあなたは聖霊を信頼していない、つまり「自分よりはるかに賢くすばらしく力強い」存在だと思っていないことになる。これは「エゴの傲慢」である。

一方で、「聖なる瞬間なんて私にはとても無理よ」というのが「エゴの謙虚」であり、謙虚に見えて実際には傲慢なのである。聖なるものが自分にふさわしくないというのは「神に造られたまま、ありのまま」を否定することになり、自分が神とは別物だと思っている点において真理を否定したことになり、つまりは神をも否定したことになるからだ。

聖なる瞬間は自分で作り出すものではない。全てを聖霊に或いは神の御心に委ねれば自動的に与えられるものである。先に書いたように、委ねようという決心だけが必要なのだ。

神に何かしてもらうにはまずそれにふさわしく素晴らしい人間になっていなくてはならない!と思うのは間違っているそうだ。委ねるために必要なこと・・信頼、感謝、平和・・はしなくてはならないが、それは一瞬でできることである。何年もかけてとんでもない修行をする必要はないのだ。

ここでもまた私たちに必要なのは「邪魔をしない」「余計なことをしない」という、それだけなのである。必要なものは全て既に用意されてしまっているのだ。私たちがいくらわからなかろうが拒絶しようが何だろうが、あるものはあるがままにある。それは揺るがない。余計なことをして邪魔さえしなければ私たちにもそれが「わかる」ようになる。

それと同じ道理で、まず自分が素晴らしくなって奇跡を起こせるようにならないと他人のために奇跡を起こしたりして「教える」ことができない、まず自分があがなわれないと他人をあがなうこともできない、というのも間違いなのだ。教えることは学ぶことであり、教える者は学ぶ者でもある。あがないは同時になされる。そこに区別はありえない。

「聖なるものでいよう」と「聖なるものになろう」とは違う。前者は「ありのままでいよう」ということだが後者は「今の自分とは別の何かになろう」という意味合いがあるのはおわかりだと思う。今は凡俗なものですが努力して聖なるものになります、というのは一見謙虚だが「間違っている」=「真理・神の否定」=「真理・神への攻撃」になるので結局傲慢なのは上に述べたとおりである。あなたを聖なるものとして造ったのは神であってあなたではないのだ。浄化は「神によるありのまま」の自然なことであって、あなたが自分で浄化するのではないのだ。

で、こうなるのである。

「神を迎えることができる私は神にふさわしいものだ。私の中には神の住処があり、神はあるべきようにそれを造られた。私は神を迎えるために特別な用意などする必要はない。私には既に神を迎える用意ができている。神はそのことを私に思い出させ気づかせて下さるだろう。余計なことをしてその邪魔をしてはならない。私なりの流儀でやろうなどと思えば神の思し召しを受け取ることができなくなってしまうだろう」

第235回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 152・153

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 152

第17章 その7

全てが神においてひとつであるような本来の状態なら、信念などわざわざ努力して持つ必要すらなかったに違いない。ただ了解すればよいだけのことだったはずだ。本当の現実あるいは真理はイヤでも間違いなく「常にそこにある」のであり、それが信念の基盤をなす事実となっている。

生まれてこのかた、いやそれどころか過去生においても「一度もイヤな目に遭ったことはありません」という人ならともかく、私たちは誰でも「失敗」「挫折」を学習して身につけてしまっている。つまり、真理に対する信念が保てない「根拠」をもっているわけだ。「けっきょくまたああなるんじゃないか」と思ってしまったりするのである。

しかし、以前からの繰り返しになるがあらゆる知覚認識経験は「自分自身の」マインドしかも分裂したマインドの投影なのであった。「あの人にこんなことをされたから」「あの時あんな目にあったから」などというのは全て「あなたがそう判断した」だけなのであって「コース」に言わせれば「本当は何も起きていない」のである。というより「身体として」経験したあらゆることがみんな「ただの夢・幻想」なのだった。つまり、上に書いた「信念が保てない根拠」など実は「ない」のである。夢の中であなたを殴った人を恨んだり憎んだりするものでしょうか?そういうことなのだ。残念ながら、いやありがたいことに正しい信念が保てないのを正当化できる根拠は何もないのだった。

スピリチュアル系の人々でさえ「あの人は目覚めていないからダメだ」「あの人の波長はよくない、合わないからダメだ」「あの人のエネルギーは私の足を引っ張る」みたいなことを言っている。スピリチュアル系独特の排他性・選民意識は厄介だ。たとえあの人が「目覚めてなくて波長が合わなくてエネルギーがおかしくて」も、だからといって排除してはならないのである。別に「親しく付き合え」と言っているのではない。それは「身体的な考え」である。表面的に親しく付き合っていても心の中で批判していては何にもならない。

特別な関係の特別な相手に限らない。「あの人」との関係は、ほかの全ての関係と別物ではない。あなたが今生でかかわるすべての人々が「救い」という目的のためにそれぞれの役割を完璧に果たしているのだから、あなたはそれぞれに対して「聖なる目的に向かって一緒に歩む同志だ」と思わなくてはならないわけである。たとえ「とんでもない大バカ者」に見えたとしても、何か理由があって物理的には離れることになったとしても、だ。自分には全体像が見えないのだということを忘れず、部分だけ切り取って勝手な判断・解釈をすることのないように注意したい。

ここでもまた「与えるものを受け取る」とか「投影」などの原理が働くことになる。あなたが誰かを「聖なる目的に向かって一緒に歩む同志」だと見れば、つまりそのような信念を持てば、その人は本当にそのようになるのである。そのように見えないなら、それはあなたの信念が足りないのだ。

信念が完全であればあるほどあなたのなかにある神の無限の力は解き放たれ、正しく安全なやり方で用いられる。つまり、奇跡もそれだけ生じやすくなるわけである。

さて、真理とは本来「間違いようのない明らかさをもってそこにある」ものだったのだが、学習途上の私たちにとってはまだそうなってはいない。当面の間、真理は「これこそが間違いなく正しいものだ」と信じられなくてはならないのである。真理は信頼されることを要求している。心から信じたものはそれが幻想ならば「投影」され、真理=現実ならば「拡大・シェア」される。

しかし、私たちは真理でなく幻想のほうを信じ信頼してしまうという間違いを犯す。たとえば、例の「過去の経験を関係に持ち込む」などである。一見そのほうがわかりやすいからだ。しかし、いったん「聖なる関係を構築しよう」という目的を定めてしまったからにはその信念を貫かないと却って苦しいことになってしまう。

幻想のほうを信じたくなったら、たとえば怒りや不安や恐怖などに襲われたら「ちょっと待て」とストップをかけてまずは保留にすることだ。これくらいならできるでしょう?今までのように「坂道転げ落ち」にならないだけでもかなり違う。この「保留にする」ときこそが「聖なる瞬間」を招き入れるチャンスなのだ。

ところで、今回の教えは「あらゆる関係、あらゆる状況には意味があり学びにつながる」というふうに解釈されてしまうかもしれないが、それは間違っている。状況に意味があるとしたらそれはあなたが「真理に対する強い信念を保っている」つまり「苦しみは存在しない」とわかっているときだけだ。前者の考え方でいくと、たとえば「今のこの苦しみには意味がある」「この辛さから何かを学べる」というふうになってしまう。「コース」(というか私のガイドブックでもいいのだが)を学んだ方はもうご存じのはずだが「あらゆる苦痛は幻想であり実在しないので意味もない、無意味」なのである。もっと言えば、苦痛とは「信念を失い、幻想のほうを信じた」ことの表れなのだ。ゆえに苦痛から学ぶことはできない。敢えて「ある」とすれば、苦痛には意味がないと知ることのみである。ここをくれぐれもお間違いなきように。

坂道を転げ落ちる寸前に「待て」と号令をかけ、あらゆる判断を停止する。でないと聖なる瞬間を招き入れることができないからだ。あるがままの真理をあるがままにあらしめるのを邪魔することになるからだ。本来、真理は何も求めたりしない。今の私たちは真理を知らないからとりあえず信じなくてはならないのだ。ただ邪魔しない、つまり「いやです、あっちへ行って」などと攻防しない、というこの最低限のマナーだけを聖霊は私たちに求めているのである。私たちが邪魔さえしなければそれは自然に姿を見せる。

私たちのほとんどは真理・真実に抵抗してあたかも「武器を持って戦っている」ごとくになっている。そして自分の幻想を守っているのだ。実は!苦痛とは他ならないそのことなのである。本来の私たちにとって自然な状態である「真実」を信じずに否定して、「ないもの」を必死て守るというのはどうしたって無理がある。無理がある上に徒労なのだから苦しいに決まっている。

たとえば、あなたが何か「大切なものを失った」(と思った)として、それが「実は幻想でした、あなたの錯覚でした、初めから『なかった』のです、だから何も失わないし、失ってないのです」と言われたらどうだろう?あれが幻想だったなんて認めたくない!本当に本当だったのよっ!と猛烈に抵抗するのではないだろうか?苦痛の原因は「大切なものを失った」ことではないのだ!恐怖の原因は「失うかもしれない」ことではないのだ!「いやいやいやぁっ!」と抵抗するまさにそのことが苦痛や恐怖を生み出しているのである。ああ、あれは初めからなかったのだ、夢だったのだと悟っても「なあんだ、よかった」になるとは限らない。やっぱり私たちは涙を流すかもしれない。しかしそこにはもはやいかなる苦痛も恐怖もない。むしろ妙に明るく清々しいものなのである。

救い主の呼び声を少しでも耳にしてしまったあとは、その抵抗が今までにも増して苦しいものになったと感じるかもしれない。さっさと諦めて従ってしまったほうがずっと楽なのに・・これがスピリチュアルなどで「明け渡し(surrender)」と言われるものである。当たり前なのだ。誰だって無理なことをして苦しむより自然のままでいられるほうが楽に決まっているではないか!

あなたが誰かに対して苦痛や怒りや罪悪感や恐怖や執着を抱いているなら、考えてみてほしい。それらの「原因」だとあなたが思っているものは、実は本当の原因なんかではない。もちろん愛でもない。むしろ愛を否定している状態だからそれらが生じると言ってよい。

彼(女)をあなたの間違いの原因にしてしまってはいけない。彼(女)の中に真実を見ようとしない限り、それを信じない限りあなたは彼(女)を救うことも、またあなた自身を救うこともできないのである。

真実を信じることによって相手を救う、これだけを目的にしなさい。どんな状況においてもこれだけを見るようにしなさい。そうすれば、あらゆる状況が救いをもたらす手段になるだろう。

あなたの人間関係は全て真実を目指す手段である。そのことを受け入れればあなたは平和のもたらし手になれる。真理・真実を本気で「これこそが正しい現実なのだ」と信じるならば自動的に平和がもたらされるようになっているからだ。本当の平和は本当の現実の中にしかないのであり、私たちは本当に信じることのみを現実だと感じるようにできているからだ。

今までの人間関係の地平を越えよう。あらゆる状況が愛と平和と救いをもたらす手段であり、あらゆる状況によって私たちはそれらに至るのだ、と目的地をハッキリ定め、それを心から信じ続けるのである。この目的地は普遍的なものなので決して変わることがない。相手が何かしてくれるのを待つのではなく、まず自分がやる。与えることは受け取ることなのだ。



碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 153

第18章 その1

前回までにも見たことだが、私たちは通常あれとこれとを比べてより良いほうを選ぶ。より良くないと判断されたものは、より良いものに置き換えられる。「コース」学習においてこれが通用するのは「幻想を捨てて本当の現実に置き換える」場合のみである。そもそも、何かの代わりに何かを選ぶというのは「神の代わりにバラバラの個」を選んでしまった(と思い込んだ)ところに端を発するのである。そんなものが神の代用になりうると思ってしまったわけだ。

私たちは、幻想であるこの世において常にこういうことをしている。すなわち「あの人がダメだったから代わりにこの人を」「この仕事はダメだったから代わりにあの仕事を」「これが壊れたから新しいのを買おう」「これを得たけど大して幸せになれなかったから今度はあれを」などなど、それは際限なく続いて決して満足することがない。

それとは全く逆に、何か大きな不安を抱いていた人がそれとは全然関係ない問題が生じたために「不安の種」が置き換えられるというケースも珍しくはない。

そもそも「この世」なるものが、上記の「原罪」ならぬ「原ミス」によって天国の代用品として投影され作り上げられたものなのだ。本来の状態においては「分割」とか「別々のもの」ということ自体が不可能なのである。ありえない。しかし、身体を持って生きているこの世において、エゴは次々に新しい幻想あるいは新しい偶像の神を私たちに与え続け、私たちが真理から目をそむけたままでいるように仕向けるのである。

私たちの世界はあまりにも細分化されすぎていて、もとは「ひとつ」だったことなどなかなかわからなくなってしまっている。ひとりひとり身体が違い、身体によって区別できるようになってしまっているのだし、その身体でさえ「目は見るところ、耳は聴くところ、胃は消化するところ」などと役割を分割され、科学の進歩?とともに更に細分化された捉えられ方をするようになった。身体は、恐怖が病や負傷という形で表現されるところという役割を担うことにもなった。

愛は何物によっても代用することなどできない。が、私たちは愛の代わりに恐怖を信じるようになってしまった、というか恐怖を愛だと思い込むようになってしまった。そして、ほんらい幻想であるところの恐怖はいろいろな形を取ってあらわれ、それが一見恐怖には思えないようにもなってしまった。怒り、攻撃、罪悪感、執着、憎しみなどのほかに前回までに見たような「愛(という名の幻想)」も、それを軸とした「特別な相手との特別な関係」もまた恐怖の一変形に過ぎない。これらは全てただ一つの「間違い・勘違い」による恐怖から派生したものなのだが、私たちはそのことに気付いていないのでそれら全てが別個の問題のように見えてしまう。それぞれ別個に何とか解決しようとしたってどうにもならないのだ。

この「原ミス」がどれほどのものなのか、私たちにはなかなかわからない。「私たちは神と別のもの、みんな別々の個体」という信念こそが人間を、そして全世界あるいは全宇宙を作り出したのである。どうしても「実在」するようにしか思えないそれらは、実際にはその「間違った信念」が投影されたものである。

これはなかなか実感しにくいのだと思う。しかし、ちょっと考えてみてほしいのだが、私たちは「時は過ぎ去る」とか「時とともに過ぎ去る」などと言うではないか。楽しかったことも苦しかったことも、若さも肉体も何もかも過ぎ去っていくではないか。過ぎ去っていくようなものが真理であるわけがない!どう考えたってそれは夢や幻想ではないか。

その「原ミス」が外部に投影されたものが世界であり私たちが知覚認識する物理的宇宙なのである。「コース」はそう言ってはいないのだが、私は「人類」もそのようにして生じたものだと考えている。

以前から繰り返し述べられているように、これは単なるミス=勘違いの思い込みであり「罪」ではない。せいぜい「頭おかしいんじゃないの?」である。なーんだ、バカだったわ、あははは、で済むような話なのだから、「私は何ということを思ってしまったのだろうか!」などと深刻にとらえて罪悪感や恐怖におののく必要はないのである。

全てが細分化されてバラバラであるというのは考えてみれば結構恐ろしいことなのだ。何故ならそれぞれが互いに「他者」であり、互いに理解もできず思い通りにならないからである。人間どうしの関係のみならず、自然と人間との関係もまた然りなのだろう。更に恐ろしいことに、人間と神との関係でさえも同様になってしまっている。だから私たちは神をあるいは運命を恐れるのである。「大切なものを奪われる」、これがあらゆる恐怖の核心になっている。これは自らの「原ミス」による罪悪感から派生するものであり、私たちはそれを神だの運命だのに投影してしまうのだ。

だからこそ、恐ろしいと感じるときにはこう言おう「神は恐ろしいものではなくて愛なのだ」。

あなたの外側の世界で起こるあれこれに振り回されるな。真理は内側にしかなく(というより、そもそもマインドの外側なんてものはありえないのだが)、真理だけがあなたを救う。

これはダメだ、どうしよう!代わりにあれができるかしら、できなかったらどうしよう1

そんなふうに私たちのマインドは常にあれやこれやに振り回されていて、どこに連れて行かれるかわからない。そういうものにいちいち対応するのは全く無意味である、と「コース」は言っている。それらは全然違うものに見えて実は全く同じ一つの「勘違いによる思い込み」なのであり「どうでもいいことだ」という共通点しかないのである。より俗な言いかたをすれば「目に映ること、耳に聞こえること、マインドを去来することに振り回されない」とか「何があってもジタバタせず冷静に、泰然自若として構えているほうがよほどうまくいく」などということになるだろう。

マインドの中に聖なる静寂を見つけてそこで落ち着くのだ。そこにこそ神が住まい、そこから真理が放射されている。そこにおいて純粋理性も働くのである。私たちもそこに身を置きそこからあらゆるものを認識すれば何もかもが変容し、癒しも奇跡ももたらされることになる。何度も書いてきたことだが、不安や恐怖に右往左往しながら癒しや奇跡を求めたって何にもならないのである。

「コース」の論理に従えば、何かに置き換えられたり代用できたりするようなものは「実在しない」ので本当の意味においてはシェアすることもできない。たとえば、恐怖や憎しみや執着は「愛」という名を与えられ「愛」にとって代わられるが、共に分かち合うことはできない。一緒に怒ったり憎んだりするようなこともこの世ではよくありそうに思えるが、何のことはない、これはそれぞれの人がそれぞれのマインドを勝手に投影しているだけであって、身体は同じことをやっているように見えてそれぞれのマインドの中はバラバラなのである。

「コース」は、完全な愛が可能なところ(マインドの中の聖なる部分=スピリット)に私たちを導いてくれるのは聖霊だと言っているが、相手を聖霊と見れば自分もまた聖霊なのだからそのスピリットどうしのかかわりにおいては嫌でも完全な愛しかなくなるわけである。人を見たら聖霊だと思え、とはここでの「コース」の言い方を借りれば「ささやかでいいから誰かを心から信頼して、それを聖霊に委ねなさい」ということになる。

私たちは神によって造られた、これだけが真実なのである。神のみ存在する、とは要するに「存在だけが存在する」ということで、神の一部である私たちについても全く同じことが言えるのだ。これを言い換えると「すべてはひとつである」となる。

当然のことながら、全ての情報から遮断されて一人きりでいればイヤでも平和になれる(話す人もいないなんて淋しいし情報がなければ却って不安だ、という人が多いのだろうが!!)。しかし、「コース」の教えはこれを認めない。どんな人とのどんな関係であれ、それを通して天国を取り戻せるのだし、またそうでなければならないのである。「全てはひとつである」という事実に一人きりで目覚めてしまうことも少なくないのだが、それを心底から確認できるのが「人間関係」という場所なのだ。それがどんなに素晴らしいことなのか、「コース」はいろいろな表現を用いて語っているが、やっぱり「そうなってみないとわからない」ことだし誤読のもとなのでここでは割愛する。

真理を何かに置き換える、何かで代用するということじたいがもともと不可能なのだが、いったんそれが可能だと思い込まれた世界においてはもう次々と置き換えがなされることになる。簡単に言えば「幻想を幻想によって何とかしよう」とするわけだ。そうすれば問題(に見えたもの)は、いったん解決したかのように見える。しかし、結局何も変わっていないのだ。むしろ、分離や分裂が強化されるので、却って破壊的な方に向かってしまう可能性が高くなる。病気と医療の関係などを考えればわかりやすいのではないか。

本当の意味で救おう、癒そうとするなら今までのやり方ではどうしてもダメなのだ。そして、間違いから生じたこの世において本当の救いや癒しをもたらすことこそが私たちに与えられた聖なる役割なのである。与えることは受け取ることなのだ、この役割を果たせば私たち自身も癒され救われる。聖なる光は与えるほどに受け取ることができ、ますます増幅していくのだ。

第234回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 150・151

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 150

第17章 その5

今までの「邪悪な関係」に聖霊の光が当たれば、まず化けの皮がはがれて正体が明らかになるのだった。その混乱状態を「相手が目覚めていないから、ついてこられないから」などと「相手のせい」にしてはならない。むしろ、その相手を聖霊だと思って感謝すべきだと「コース」は言っている。いったい相手の何に対してどう感謝すればいいのか、と悩まないでほしい。というか、そういうことはむしろ考えないほうがよい。とにかくただ感謝するのだ。あなたが相手を攻撃しようがどうしようが聖なる瞬間は依然として続いている、というかそもそもこれは「永遠不変」であり「時間の枠外」のものだったはずだ。が、感謝を忘れてしまうと自分がそこにいることもわからなくなる。聖なる瞬間の恩恵をこうむることができなくなる。これは「時の始まる前から神と一つのままなのに、それを忘れて自分たちはバラバラの存在だと思い込んでいる」のと相似形ではないか。

聖なる瞬間を招き入れるのは「聖なる目的」を受け入れることでもある。その目的を達成するための手段がたとえば「更なる感謝」なのである。自分や相手を批判したり攻撃したりしてしまったら「目的は受け入れたが手段はちょっと」、と思っていることになる。これではどうしようもない。聖なる瞬間を受け入れたら、今度はそれを十分に活用しなくては意味がない。ここは意識的に努力する必要がありそうだ。自分に与えられた恩恵を、そうなのだと認めて受け入れ今度はそれをほかの人たちにどんどん与える。簡単に言えばそれが「感謝する」ということだと思ってしまってよいだろう。そうしていれば間違いが正され、それによって間違いから解放される。解放することは解放されることでもある。つまり見方を変えれば、あなたは目の前の彼(女)によって解放されたとも言えるのだ!だからますます感謝するようになり、そしてついには神の子全体を解放することもできるようになると「コース」は言っている。

聖霊の目的はあがないであり救いである。それが私たちひとりひとりにおいて実際にあるいは具体的にどういう形をとって現われるのか、そこを知りたいと誰もが思うだろう。そのために過去生を知る必要など一切ない。あまりにもシンプルでわかりやすいことだからだ。まあ、何でもそうなのだがことの本質をしっかりつかんでいればどんな状況にあっても、いかようにも応用が利くものなのである。

しかし初学者にとっては、状況が変わるたびにいちいち「これにはどうあてはめたらいいのか」という迷いが生じてしまうかもしれない。ということで、わからなかったらまずこう考えなさい、「私はこれがどうなってほしいのか?これは何のためなのか?」いうまでもないですね、「癒しと救いを得たい」「愛と平和を得たい」に決まってます。それ以外のものはおそらく全てエゴの自己保全のために「分離を促進させる」ようなものに違いない。

こうして、まず「目的地」を定める、つまり先に「結果」を決めてしまうことが肝要なのである。そうすれば一見全く異なるどんな状況であってもすべて「学びのための機会」にできるのだし、そこで起きることは全て「愛や平和や救いのための学び」にならざるを得ないのだ。いや、本当に腰を抜かすほどシンプルでわかりやすいではないか!

常に「何が起きてしまうんだろう」と冷や冷やしながら或いは期待満々で待ち受けるのではなく、「愛や平和や救いのための学びが起きる」と決めてしまうのだ。スピリチュアル系の人々はみんな「この状況には意味がある!状況から学ぶのだ」と言うものだが、やっぱり「コース」はその先を行っている。起こってしまった状況から学ぶなんてまだまだ甘い!というか何らかの状況が起きてしまってからアタフタして「ここから何を学んだらいいの?」なんていうのはマヌケな奴だと言わんばかりなのである。

起こってしまった状況から学ぶことの危険性は、そこにどうしても「判断・解釈」が入り込む点にある。つまり容易にエゴの侵入を許してしまう恐れがあるのだ。あのときのあれはきっとこういう意味があるんだ、と自分で行うその解釈にはよほど注意していないとエゴが入り込む。だいたい、エゴは状況が進んでどこかに至るまでは結果などわからないと思っているのである。というか、普通の人はみんなそう思っているに違いない。

あなたはどういうことが起きてほしいのか?それを先に決めてしまうのである。そりゃあよいことが起きてほしいに決まっているじゃないか、と思うだろうが、これが「エゴにとって良いこと」だったら目も当てられない。だいたいそんなこと実現するわけもない。

このように、先に目的あるいは結果を決めてしまうと何が起きても、それが他人や昔のあなたにとってどのように映ろうとも、すべて「愛や平和や救いを学ぶ出来事」として認識されるようになる。愛と平和をもたらしてほしいと思えば、あらゆる状況が愛と平和をもたらすための手段になる。もちろん、一切の例外なしに!である。これはかなりすごいことだ。明らかで「現実的」な結果が先に定まっている場合のみ、起こる状況は何らかの意味を持つことができる。何かが起きてから意味を考えるのでは確実な学びが得にくくなってしまう。

そう考えていて実際に何かが起きたとする。そこで「じゃあここからどうやって愛や平和や救いを学べばいいの?」と思うならあなたはわかっていなかったのである。投影を止めて感謝する。聖なる瞬間を招き入れる。これだけなのだ。

これはもう実際にやってみないとわからないと思う。その代り、やってみれば「ああ、こういうことだったか」と簡単に納得できるのだ。

いずれにせよ、このような目的を先に定めてそれに沿って動いていれば、結果として訪れるのは「平和」しかない。この世の現実としての「結果」がどういうものになるのか、それはわからない。が、実際に起きていること=この世での現象は「起きているように見える」だけであって、すべて幻だということを思い出してほしい。

愛や平和を得るためという目的に合わないもの、たとえば批判や攻撃や怒りや罪悪感などなどは自然に排除されることになるのだし、また排除されなくてはならない。そして、平和が得られたというそのことが、あなたが正しくやりおおせた事実を示しているのでもある。

この世においてあらゆる認識経験は個人的なものである。つまり、全く同じ状況下におかれても人によって経験するものが違うのだ。これはわかりますね?私たちのマインドがバラバラになっていて、それぞれが自分の中にあるものを投影するからだ。しかし聖霊によるならば、あらゆる状況も経験もあらかじめ定めた目的地に沿ったものになる。

これを実践するうえで必要なのはやはり「信じること」である。もういっそのこと「信仰」と言ってしまっても良さそうな気がする。目の前の状況がどのように見えても、これは愛と平和と救いをもたらすありがたいものなのだと信じ続けることだ。そうすれば喜びを持って対処することができる。苦しい経験というのがありえなくなる。まったくすごいことではないか!とてもじゃないけどそんなことできない、厳しすぎるわと思うのはエゴの観点から見ているからである。思い出してください!苦しむのはエゴに支配されているときだけなのですよ。

だって、あの人がこんなことをするし、この人はあんなことをするんですよ。どこに愛と平和があるのよ?と思う方もいるだろう。しかし、それぞれがそれぞれの役割を果たしているのである。あなたにはその全体像が見えないだけだ。見えてしまえばもはや「信じる」必要もない、見ればわかることだからだ。しかし、今は見えない以上「信じる」しかないではないか!この「信」が揺らげば、ああまたしてもエゴは簡単に侵入できてしまうのだ。もちろんエゴには全体像など見えない。分離の産物だからである。だから、あちこちを切り取って(つまり分割して)それぞれに対処し、そうしているうちにもう何が何だかわからないくらいおかしなことになってしまうのだ。誰にでも覚えがあると思う。

ものすごくクダラナイ例で恐縮だが、よく「好きな人からメールの返事が来ない」というので発狂寸前になっている方がいる。返事を何とかもらおうとしてしつこくメールを出し続け、結局嫌われてしまうのだ。好きな人と親しくなりたいのが目的だったはずなのに、メールの返事が来ないのは単に忙しかっただけかもしれないのに、分割された細部にこだわって全体像が見えなくなりみごと玉砕してしまうのである。私のリーディングは全体像を提供することでもあるのでご興味のある方は是非ご利用ください。以上、宣伝です。

とにかく、いったん聖霊に委ねたらそれを信じ切ることがどうしても不可欠なのだ。自分よりはるかに力があり頼れるような相手に預けたものを「やっぱり返してよ、自分でやるわ」になってはダメなのである。本当にこれで大丈夫なのかしらという不安は、既にエゴが侵入し始めていることを示している。それ以上の侵入を許してはならない。状況の全体像を無視してバラバラに分割して対処しても「何とかなる」ことはある。もしかしたら「ひどい目に遭わなくて済んだ」と思うかもしれない。しかし、そこにはもう聖霊および自分自身や兄弟姉妹に対する信頼はない。むしろ「信じられないから自分で勝手に処理しました」ということになる。これでは束の間偽りの平和=幻想の平和を得るだけに終わる。その状況が真にもたらしたはずの学びを、あるいは本当の平和や愛をあなたは逃したのだ。

当たり前のことだが、「問題がある」というとき私たちはものごとがうまく行っていない或いはうまく行かないかもしれない、困ったと思っているのである。しかし、そもそも問題というのはその当人が「困った、これは問題である」と判断・解釈しない限り、つまり問題だと認識しない限り存在しえないものだ。もしもあなたが全てを聖霊に(でも神でもキリストでも宇宙でも構いません)委ねて、こんなすごいものに委ねたんだから何もかもうまくいかないわけがないと心底信じ切っていられたらどうだろう?これは、「私は愛と平和と救いを得たいのだから、そういうことだけが起きるようにしてもらおう」のように予め目的地や結果を定めてしまうのと同じことなのだ。結果がありがたいものだと予め決まっているのなら、いったい何を心配する必要があるのだろう?心底それを信じていれば目の前で何が起ころうともうろたえないはずではないか?

ということは!何かについて「問題がある、問題だ」と思ってしまうのは上記のような確信が足りない証拠なのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 151

第17章 その6

前回あたりからよく出てくる「faith」という語をどう訳したらピッタリくるか、ちょっと困っている。信念・確信などのほうがただの「信頼」より近いとは思うが、「信仰」にしてしまうと何だか妙なニュアンスがくっついてくるような気がする。

それはさておき、私たちが「問題だ」と認識するものは全て「それが無事に解決される」という確信がないことから生じている。わかりますね?もし素晴らしい形で解決されることが明白だったら別に困らないし、第一わざわざ「問題だ!」と思ったりしないでしょう。従って、あらゆる問題の根源はこの「確信のなさ」であるとわかる。しかし、エゴに支配された私たちにはそれがわからない。例によって表面的なあれこれを「原因」だと思い込みそれぞれについて対処しようとして、結局は失敗する羽目になるのである。

そんな!よい結果がもたらされると確信すれば、そういう信念を持てば問題はなくなるなんて、そんな簡単にいくもんですか!と思う人もいるだろう。しかし、本当にそうなのだ。これは投影でもあり引き寄せの原理からも説明できる。私たちは先に結果を定め、それが必ずもたらされるという確信を抱いて聖霊に委ねた。ならば、そうならないわけがないのである。そうならないのはあなたの信念が足りなかったからだ。スイッチを入れたら放っておけばよいのに、ちょっと音がしたりするともう心配になって途中でふたを開けたり電源を切ったりまた入れたりするから何もかも台無しになるのだ。まあ、もっとも「よい結果」とはあくまでも「マインドに愛と平和と救いがもたらされる」のであって、それがこの世の事象としてどういう形になるかはわからないしわからなくていい。そこまで、つまり個々の事象まで予め決めようとするのはエゴである。

信念とは本当にすごいものなのだ。多くの人が「結果が見えないことは不安だから嫌だ」とかおっしゃる。だったら先に結果を見てしまいましょうと「コース」は言っているのだが、「そんなものどこにあるのよ、見えないじゃない!」と思ってしまえばそれまでだ。今のあなたには見えない、だからこその「信念」なのではないか。

ここでは「人間関係」がテーマなので、それに沿って話が進められている。たとえばあなたが誰か特別な相手との間で「問題を抱えている」として、その平和解決という結果をまず定めてしまうとする。そうすれば、二人の間の状況やそこで起きること全てが「愛と平和と救いをもたらすためのもの」になる。それら個々の出来事についてあーだこーだと判断するのはやっぱりエゴなのである。

その実践においては信念の強さが何よりも要求されている。愛と平和と救いがもたらされた結果、実際にはあなたと彼(女)は結婚するかもしれないし離婚するかもしれない。しかしそんなこと「どうでもいい」のである。そういう時事的事象というかこの世の時間内の事象にこだわっているうちは「コース」の実践はできません。

だが、多くの人が「実際にどうなるのか」という「表に現れる」事象にこだわる。これらを「コース」は「身体的な考え(方)」と表現しているが、まさに言いえて妙である。「実際に」動くのは身体だけだからだ。あの人と「つきあう」のか、この人と「共同で仕事をする」のか、あの人に「出資する」のか、この人と「どういう形でかかわる」のか。そういうことについてお互いの考えが一致していないからこそ「問題」があるように見えるのではなかったか。そうでしょう?

ところで、前にも述べられていたようにあらゆる問題は、そして救いも癒しも「マインドのもの」でしかない。身体はいくらあなたが「ちゃんとあるわよっ」と言ってみたところで実在しない「無」なのだ。身体が癒され救われたように見えても、それに先立ってまずマインドが癒され救われているのであり、それを投影された身体が新たに作り出されただけなのだ。

つまり、まずは問題の本当の「在り処」をハッキリわかっておく必要がある。それは「あの人がこうだから、ああだから」などという個々の現象の中にあるのではなく、専ら「うまくいかないかも」という「確信のなさ」であり、自分のマインドの中にしか存在しないものなのだ。だから解決したければそこをどうにかするしか方法がないのである。

絶対的な確信を持てば、もう不安も心配も余計な期待もしないようになる。そうすれば不安や心配が投影されたような知覚認識経験をしたりそれらに呼応するものが引き寄せられたりすることがなくなるのだが、ここがなかなか難しいみたいなのだ。私たちはあまりにも「不安・心配」することに慣れすぎてしまっている。それが「ない」と何だか心もとなく感じたり「これでいいのか」と不安に(!)なったりする。中には「信じているんですけど不安で不安で」などと真顔でおっしゃる方もある。あああ〜、信じていないから不安になるんでしょ!

また、先にも述べたように一見「悪いこと、目指しているものと逆のこと」が起きたりすると「ああ、やっぱり駄目だった」と早々に「判断・解釈」してエゴの支配下に逆戻りするケースも少なくない。これについては「具体的にこういうこと=事象が起きてほしい」というエゴ的な期待・・たいていは「相手にこうなってほしい」という期待、もっとはっきり言えば「相手を自分の思い通りにしたい」という期待である・・・を手放すことでかなり防御できると思う。これらもやっぱり「身体的な考え」なのである。たとえば「私はちゃんとやっているのに、あの人がこう言ったんですよ、ああいうことをしたんですよ、だからうまくいきません」みたいなものなのだが、ここに囚われて「だから私は悪くない」「あの人がこうしてくれない限り、もう何も信じられない」になってしまえばアウトである。あなたは自分の信念が挫折したのにそれを正当化してしまったのだ。信念を持つか失うか、それは常に外部(に見えるもの)のあれこれによらず自分のマインドの中だけの問題なのだ。つまり失った信念を回復するかどうかは完全に自分次第、相手がどうかなど関係ないのである。そもそも一つの身体として存在している「相手」なんて、実はあなたのマインドの中にしか存在していないんですよ。

いずれにせよ、いったん聖霊に委ねたら個々の時事的事象を相手にせず、「あらゆる状況が愛と平和と救いをもたらすものになる」という信念を手放すな!!!と肝に銘じていただきたい。あなたが予め定めた目的地「愛と平和と救いがもたらされること」とは、幻想ではなく真実である。そんなもの来ないんじゃないの?と疑うのは取りも直さず「真理を疑う」ことになり、もう何もかもぶち壊しになってしまうのだ。

信念のないところに聖性はあらわれない。あなたが人間関係を本当に聖なるものにしたかったらまずそれにふさわしい信念を持つしかないのだ。また、信念のないところには平和も訪れない。確信できていれば安心だ、というのは誰でもわかるだろう。ここで結構勘違いされるのが「相手を信じる」ことの内容である。相手が「私とは別の身体である存在」だと見てしまえば、相手を信じるとはどうしても「あの人は私を裏切らないわ=私が嫌がることをしないはずだわ=私の思い通りに動くはずだわ」という身体レベルに成り下がるのだ。これは挫折するに決まっている。じゃあどうすればいいのか?やっぱりただ「聖霊の導きを信じる」に終始するほうが楽だと思う。どのみち聖霊は相手の中にもあるものだからだ。

そして、これが重要なのだが「愛と平和をもたらすはずのいかなる状況においても、それぞれがそれぞれの役割を完璧に果たしている」のを信じていただきたい。あの人は明らかに邪魔している!というように見えたとしても、である。どうしてもそう見えてしまったら「いまの私には全体像が見えないのだ」と思ってほしい。今はとんでもない状態に思えても、いつどこでどんな奇跡がもたらされるかわからないのだから、その邪魔をしないようにしよう。スピリチュアルふうに言えば「宇宙の流れに任せなさい」あるいは「なるようになる」と言っても同じことだ。

「コース」の要求は厳しいようだが、論理的にはどうしたってそうなるしかないことなのだから仕方ないと思ってほしい。「コース」いわく、誰かとの関係の中で自分がどういう状態(考え・感情)にあるか、それが「愛と平和と救いをもたらす」目的に合致していないときあなたは信念を失っている。

かといって、学習途上の私たちなのだから誰でも一度や二度は信念が揺らいで当たり前なのだ。そんな時にも、「やっぱりこうなんじゃないの?」という誘惑に乗らないでほしい。あ、疑っちゃったわと思うのは構わないのだが、そこから先は注意しなくてはならない。つまり「やっぱりそうよ、きっとそうなんだわ!だったらいま何とかしなくちゃ」と幻想(あるいは妄想)に向かってまっしぐらになる危険性が大きいのだ。

信念を持っていれば必ず愛と平和がもたらされる、と思っていたはずが「もうそんなことどうでもいいわ」みたいになってしまう。目先の問題(に見えること)を「いま」何とかするほうがずっと重要に思えてしまうのだ。多くの人がこうして挫折しているのだと思う。しかし、何度挫折しても何度でもやり直しはきくのだから諦めないでほしい。

繰り返しになるが、くれぐれも「よい結果を信じて心配しながら待つ」なんてことにならないように!

第234回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 148・149

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 148

第17章 その3

神を離れて本当の幸せはあり得ない。これには異論がないと思う。しかし、神に造られた私たちの役割は幸せになること、その幸せを広めることだと言われると抵抗を覚える人も少なくないのではないか?エゴの解釈では「自分の幸せ=他人の不幸」になってしまうからである。これはもう絶対にありえないことだと頭に叩き込んでいただきたい。神の御心のままになっていればもっとも幸せなのだが、これも「何か大きなものに飲み込まれて自分を失う」ことだと思われてしまったりする。これはまさしく「エゴが神の御心を脅威に感じている」事態そのものだ。神の御心と私たちの意志は本来「同じもの」だという事実は忘れ去られ、下手すると「私たちの意志を妨害するようなもの」だと思ってしまうのだ。

どっぷり「この世」に首まで浸かっているとやはり本当の意味で幸せになるのは難しい。なぜならこの世界とは「ほんとうの幸せの源泉」である神から離れたところから始まり、その状態を維持すべく動いているものだからだ。

にもかかわらず、この世にあってこの世にないような「在り方」をしていればこの世にあっても本当の幸せを得ることができる。それが聖霊に委ねることであり聖なる瞬間を招き入れることなのである。この世にあるあらゆるものに神の光を当てて神の目的に合致するものへと変容させてしまうのだ。

醜悪で邪悪になりかねない人間関係もまた然りである。聖霊の光で浄化されれば本当の関係に変容させることができる。それどころか、私たちは気づかぬうちに本当の関係=聖霊を介したあるいはスピリットどうしの関係を作っていることもあるのだ。ただ、「特別な相手との特別な関係」にあまりに重きをおいているために目が曇ってしまっている。というより、そんな素晴らしい関係ができてしまったらエゴにとっては脅威になるので、エゴはあなたにそれを「どうでもいいものだ、だってあんなの特別じゃないんだから」と思わせるように仕向ける。エゴに支配されているマインドはそれに従ってしまう。神や聖霊との関係と相似形であるような祝福された人間関係から私たちの目を背けさせることによって、愛や真理から私たちを遠ざけてしまうのだ。しかし、いくらマインドが分裂していても、いや分裂しているからこそマインドには「まとも」な部分も残されているはずなのだ。私たちはその部分を働かせるようにしなくてはならないのだし、そうしていれば次第にエゴに騙されることは少なくなってくる。

エゴに支配されているうちは、つまりエゴの思考システムに従っているうちはどうしても厄介なことになる。その狂った論理の中においては「狂っている」ものがまともに見えるからである。エゴの思考システムは幻想や妄想を保持するためのものだ。神からの分離というのは本来ありえないのだから、それが「ある」と考えること自体おかしい。その「おかしい」ものを守ろうとする行為もまたおかしいに決まっている。ゆえに真理から身を守り「神からの分離」を保持させるのが目的の「特別な関係」はどうしたってまともじゃないのである。

にもかかわらず、エゴを放棄してスピリチュアルに生きたいと思っている人々でさえも、それどころかスピリチュアルを教えている人々でさえも「特別な相手との特別な関係」には騙されてしまう。でなかったら「前世の縁」とか「ソウルメイト」「ツインソウル」「魂のパートナー」なんてものがこれほどまでに巷の興味をひくわけがない。ソウルはツインどころか「すべて一つ」なんですよっ。あなたと私だけ特別よ〜というならそれは魂ではなく「肉体意識」に決まっているではないか。スピリチュアルでこうなると本当に始末が悪い。私が目指しているのはその辺の俗っぽい関係じゃありませんのことよ、という特権意識や選民意識まで混じってしまうからだ。

「特別な相手との特別な関係」がこれほどまでに魅力的な響きを持つのは、そこに「愛」と呼ばれるものが、正確に言えば「愛という幻想」あるいは「まやかし・偽りの愛」が絡んでいるからだ。あなたは自分自身が愛であることを忘れ果てたため、マインドの奥底で本当の愛を求めている。なのにうっかりエゴの口車に乗って「愛の代用品」、いやそれどころか「愛と正反対のもの」を求めてしまうのだ。

ゆえに、いくら「エゴを手放して覚醒したいんです」と思っていてもこの「特別な人との特別な関係」の正体・・虚構性を見抜かない限りはどうしてもダメなのである。

落ち着いて眺めればわからないわけはないのだ。愛と救いを求めて特別な関係を目指しているつもりが、どうにもこうにも苦しくて仕方がない、孤独感もある。こんな事例は至る所に溢れている。苦しいならそれは愛じゃない!救いでもない!そんなの当然ではないか。なのに、ああ「好きだから苦しいんだ」「愛しているから苦しいんだ」と思い込んでしまう。違います。間違いを現実にしようとしているから苦しいんです。

分離を防衛する手段として使われるものはやっぱり分離である。ほかの国とは違う我が祖国を防衛するために戦争が起きるという事態を考えてみてほしい。狂ったものを守るには狂った手段が用いられ、一方で愛を守るには愛(およびその派生物)という手段が用いられる、そういう原理がある。そして、ある思考システムに従えばその思考システムが守っているものを与えられる、つまりエゴのそれに従っていれば更なる分離(とその派生物である罪悪感や恐怖)を与えられ、聖霊のそれに従っていれば更なる愛や平和を与えられるというこれもまた原理である。

愛や救いをもたらしてくれる「特別な人との特別な関係」という一見ロマンチックでゴージャスな額縁の中に入っているのは煩悩という魑魅魍魎が跋扈している地獄絵である。あなたは額縁とその中の絵と、どちらが重要だと思いますか?明らかに苦しいのに愛を求めているのだと思えば真相を見ないで済む、つまり額縁が美しければ絵を見ないで済むと思いますか?ちゃんと見えているはずなのだ!ただ、あなたは愛という幻想=張りぼてのような額縁にごまかされてしまっている。

おまけにその一見ロマンチックでゴージャスな額縁も実はルビーに見えたものは血だったりダイヤモンドに見えたものは涙だったり、犠牲や自己破壊などが巧みに織り込まれていたりする代物である。エゴが提供する「一見すばらしいもの」の正体なんてこんなものです、いやそれどころか「実は存在すらしない」つまり「ない」のであった!

いずれにしろ、額縁は額縁に過ぎず主役は絵である。これに異論はないですね。一見すてきな額縁だけ見ていればよい気分に浸れる。当たり前だ・・・。しかし中の絵を見ればあなたは混乱する。目を凝らして見なくても、額縁とは似ても似つかぬ醜悪なものだとすぐわかるからだ。特別な関係に限らず、これがエゴの「贈り物」の特徴である。初めから私たちを騙して幸せになれないように仕組んでいるわけだ。こんなものに騙されないよう常に注意を払うしかないのだが(これはその気になれば必ずできることである!)、その際特に役に立つのが例の「聖なる瞬間」である。

エゴに同調するのは、本来「愛」であり「真理」である自分に対する攻撃である。私たちはそこから身を守らなければならないのだ。聖なる瞬間においては、神の限りない力と愛をはじめ、キリストのスピリットなどが総結集して私たちを「ミニ天国」のような時空間に導く。これがあらゆる「間違い」に対するシェルターのような役割を果たすのだ。言い方を変えれば、聖なる瞬間を招き入れるたびに私たちは浄化されるのである。更に言いかを変えれば「聖なる瞬間」を招き入れるとは「今ここ」すなわち「永遠」(に最も近いところ)にのみ在るということでもあるし、いっそ「無我の境地」と言ってしまってもよいかもしれない。

ここで言われている「絵」とは要するに「投影による知覚認識」の比喩的表現である。ゆえに、そこに描かれているのは「天国そのもの」「永遠そのもの」ではない。時間に仮留めされた永遠、この世というとりあえずの額縁に仮留めされた天国という「絵」である。重要なのは絵だけなので、額縁はなかったり簡素だったりしてごく簡単に取り付けられている。本来必要ないものだからである。私たちがこの世あるいは時間の中にいる間は、どんなに素晴らしいものであってもやっぱり「絵」なのだが、額縁を外してしまえばそれはもはや「絵」ではなく「本当の現実」なのだとわかる。

一方で、エゴの提供する「絵」は先に述べたような地獄絵だったり、すすけてみすぼらしくイヤらしいものだったりする。誰だってほしがらない。しかし、額縁はちょっと、あるいはかなり素敵に見えてしまう。私たちは、聖霊が提供する絵も魅力的だけどあっちの額縁はホントに素敵で捨てがたいの!などと思ってしまい、片方の絵と片方の額縁を或いは本質ではない額縁どうしを比べるというわけのわからないことをしてしまっている。

両方の絵だけを見比べなさい!と「コース」は言っている。エゴが提供する絵はとんでもなくみすぼらしく醜悪なものだが、見てみればそれは「絵に過ぎない」ということがわかるはずだ。絵であって現実ではない。たとえ地獄絵であってもそれは現実ではないのだから別に恐ろしくもないとわかる。そしてその向こうには何も「ない」。無、である。これが聖霊の提供する絵との大きな違いである。

こちらは「絵」に見えたものが実は「永遠に変わることのない現実」だということがわかる。ここにおいて、あらゆるものが完全に癒され回復されたことになるのだ。なぜならそのとき私たちはもはや人間ではなくこの世にもいないからである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 149

第17章 その4

聖霊はこの世のあらゆるものを浄化し、救いという目的のために有効利用することができるのだった。あらゆるものが学びのために役立てられるのであった。ところで、私たちが救われたくて求める「特別な関係」あるいは「邪悪な関係」は、もともとエゴの保全のためによりいっそうの分離をもたらすという目的を持っている。だからその目的に沿って始まり、進展してついにはその目的が達成される。要するに「関係が壊れてバラバラの感覚が強化される」わけである。

ここに注意してほしい。特別な関係になりたい、特別な相手になりたい、特別な相手になってほしいと思った瞬間あなたは「分離に向かってまっしぐら」つまり「苦痛や惨めさに向かって坂道を転げ落ちて」いるのである!

ところが、聖なる瞬間においてはあらゆる関係が「全ては神において一つ」すなわち究極の調和と和合・平和などを志向するものとなる、というよりならざるを得ない。そして、その目的はすぐに達成されてしまうのだ。

なぜならそこには持ち込まれるべき一切の「過去」がなく、ある意味では自他の区別さえなくなっているからだ。スピリットどうし、純粋精神どうしの関係が生じるからだ。そこにはもはや年齢も性別も何もない。聖霊のもたらす光によってあらゆる「分離」の産物やエゴの闇が駆逐されると考えてもよい。

これは明らかにそうであると誰もが納得できる形で経験される。聖なる瞬間の作用は絶対確実なものなのだが、それが明らかな形で表に現れないとなかなかそのありがたみを身に染みてわかることができない。邪悪な関係は、浄化され全く正反対のものに変容される。

一番しんどいのは、特別な相手・特別な関係を目の前にして聖なる瞬間を呼び込む部分、つまり最初の段階である。どうしても自分のこだわりを手放せない、自分の正当性を手放せない、手放す=失うのではないかという恐怖があるからだ。そこさえ乗り越えて、実際に聖なる瞬間に入ってしまえば結果はすぐにもたらされる。

とはいうものの、変容の最初の段階では関係が混乱する場合も少なくない。今までは「分離=自己攻撃」というゴールに向かってまっしぐらだったものが、もはやそこをめざすことができなくなる・・即ち目的を失うからだ。ここでたいていの関係は壊れてしまう。あ〜、やっぱり!何も失わないなんて嘘ばっかりじゃない!そう思われるだろうが、そりゃしょうがないですよ、今までが間違っていたんだから。「今までの」関係が終わるべくして終わるということであって、何も目の前の人と縁が切れるとは限らない。いったん新たな目的を受け入れてしまえばもう前と同じではいられず、しかも後戻りはできない。恐れずに前に進むしかないのである。

そして!!もちろん存亡の危機に瀕したエゴが抵抗しないわけはないのだった。「邪悪な関係」の目的は分離の促進と保全であり、そのために「身体である私が別の身体である誰かを特別な存在として求める」という構造が必要である。既にその目的は失われ、新たに「全ては神において一つである」という救いが目的になった。この部分はもう変えられない。目的と構造は一本化していないとならないので、新たな目的に対して今までの構造はもう使えない。今度は関係の構造のほうを変化させなくてはならないのである。

しかし、誰もがこの「特別なのよ〜」という構造にこそ魅力を感じていたのだから、そうそう簡単に手放せるわけもない。一方で、新たな「聖なる目的」に対して以前の構造を保ち続けるのはとんでもなく苦しいことなのである。今までそれなりにうまくやっていたものがうまくいかなくなったように感じる。聖なる関係にしましょうと双方が合意しあうなんていうのは滅多にないことなのだが、そういう場合でさえこの「トンネル」は免れにくい。ましてや、たいていの場合相手は何も知らないのだから、相手のエゴも抵抗するだろう。文字通り引き裂かれるような感じだと思う。あ〜、聖書にあるように「古いブドウ酒を新しい革袋に入れれば両方ともダメになる」「新しい革袋には新しいブドウ酒をいれなくてはならない」わけなのだ。

ここでモタモタしていればエゴに追いつかれてしまう。何しろエゴにとっては生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから必死にもなるだろう。そこで起きている(ように見える)ことについて、都合のよい解釈を与えようとする。いろいろなケースがあるので逐一列挙することはできないが、たとえば「自分は目覚めているが、相手はわかっていなくて駄目だ」というようなものなどがある。これじゃあ、またしても分離じゃないですか!

関係に過去を持ち込むことによって自分のマインドにあるあれこれを相手に投影するのをまずやめる。しかし、相手はその人自身のマインドの中身をあなたに投影してくる。それをあなたは「現実のもの」にしてはならないのだ。

また、このエゴの策略は「先が見えなくなる」という不安として現れることもある。見えなくて当たり前でしょ!そんなのあなたに見えるわけがないじゃないですか。だからこそ聖霊に委ねたんじゃないでしょうか?だいたい、それじゃあ今までは関係の行く末がちゃんと見えていたんですか?バカを言っちゃいけません。

何を目指してよいかわからなくなった、というならそれは聖霊が働いて「エゴ的な自分の目的」が既に放棄されてしまった証拠であり、むしろ喜ぶべきことなのである。私たちの関係がうまくいかないのは「相手のせいだ」と相手を責めるのは簡単だ。そうやって相手を責め、罪悪感を抱かせて思い通りにしよう、という形によって今までの関係は続いていたのだ。「私が駄目だから嫌われるんだわ」というのも表れ方が違うだけであって本質的には「罪悪感と攻撃」パターンに違いないのである。しかし、この時期になると「相手を責めたってしょうがない、こんなことしたってしょうがない」ということがハッキリ見えてくる。すると、今度はそのエネルギーをどこに注いだらいいのか一瞬わからなくなるのだ。混乱するとはそういうことでもある。聖霊にとっての喜びはエゴにとって苦痛なのだという事実を思い出してほしい。

とにかくここまできたら前に進むしかないのである。関係が悪化したのではない。今までの化けの皮が一気に剥がれて「間違い」が見えるようになっただけなのだ。従って、一見うまくいっていた頃に戻ろうなんて絶対に考えてはならない。それは「うまくいっていたように“見えていた”」だけだったのだ。また、「もうだめだ、おしまいだ」と簡単に投げ出してもいけない。関係が変容したとき、これまでの「特別な関係」は放棄されるのでその結果として実生活においては文字通り「解散」「解消」することもある。が、それは関係自体を投げ出すのとは違うのだ。ここで相手を放り出してしまうのは聖霊を放り出すことでもあり、あるいは脚が痛いからと言って脚そのものを切断するのと同じようなものである。代わりの脚は生えてこないが、あなたは「彼(女)の代わりを探そう」などと考えてしまうのだ。

あるいは、「この人ってこういう人だったのか。もう幻想を抱いたり期待したりするのはやめて何とかやっていこう」と考えるかもしれない。一般的にはわりと「賢明」な考え方だろうが、「コース」にあってはこんなもの「全否定」である。なぜなら、これは「彼(女)の中で自分が気に入る部分は認め、そうでない部分は受け入れるけど認めない」ことであり、要するに「自分勝手な基準で相手を分断している」ことになるからだ。

いまや、信じることが大切な時期なのである。聖霊でも神でもキリストでもいい、必ず「関係が浄化されてよい方向に導かれている」と信じるのだ。更に、この嵐のような試練の時(に見えるだけなのだが)にあっても相手を信じる、つまりこの人もまた神に造られたとおりの完全な存在である、スピリットであると見るのである。

聖霊はちゃんと働いている、明らかな答えを示してくれている。関係は「破壊された」のではなく「救われて」いるのである。だからこそ今までの関係の間違いや無意味さが、イヤでもわかるくらい明らかに表れているのではないか!だったら、そこから先も信じ続ければよいのだ。

聖霊の光によって浄化されれば、あなたと「彼(女)」は神というゴールに向かって(これってゴールというより本来はスタートなんですが)手に手を取って一緒に新たな出発をすることになる、という書き方は下手したら誤読されるような気がする。これはもちろん「特別なパートナーとして一緒に歩む」ということでは全くないわけであって、あなたも彼(女)も誰も彼も「全てはひとつ」だと分かった今、たとえ物理的には離れていても「一緒に歩む」ことになるのは当然なのである。

あなたと彼(女)とは、いまや「特別な関係」なる鎖を解かれて自由の身になったのだ。そして、自由だからこそ本来の意味において「一緒に」が可能なのである。今までは、物理的に一緒にいる(あるいは常に心の中で“思っている”)だけであって実際には「バラバラ」だったのだ。聖なる瞬間においては、彼(女)とだけでなく「あらゆるもの」と一つになる。特別なものなどもうどこにもないのだ。自由とはそういうことでもある。

聖霊を招き入れることによって私たちは「すべてとひとつ」になれる、というより瞬間であれ「すべてとひとつ」を受け入れられたから聖霊が入ってこられたとも言える。でなければ聖霊が働くことはできないからだ。

ともあれ、聖霊の働きは明らかなのである。そして!「人を見たら聖霊と思え」なのだから、目の前の関係が少しの間混乱したとしても相手のせいにするなんてとんでもないことなのだ。なぜならその人もまた「聖霊」なのだから!

第233回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 148・149

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 148

第17章 その3

神を離れて本当の幸せはあり得ない。これには異論がないと思う。しかし、神に造られた私たちの役割は幸せになること、その幸せを広めることだと言われると抵抗を覚える人も少なくないのではないか?エゴの解釈では「自分の幸せ=他人の不幸」になってしまうからである。これはもう絶対にありえないことだと頭に叩き込んでいただきたい。神の御心のままになっていればもっとも幸せなのだが、これも「何か大きなものに飲み込まれて自分を失う」ことだと思われてしまったりする。これはまさしく「エゴが神の御心を脅威に感じている」事態そのものだ。神の御心と私たちの意志は本来「同じもの」だという事実は忘れ去られ、下手すると「私たちの意志を妨害するようなもの」だと思ってしまうのだ。

どっぷり「この世」に首まで浸かっているとやはり本当の意味で幸せになるのは難しい。なぜならこの世界とは「ほんとうの幸せの源泉」である神から離れたところから始まり、その状態を維持すべく動いているものだからだ。

にもかかわらず、この世にあってこの世にないような「在り方」をしていればこの世にあっても本当の幸せを得ることができる。それが聖霊に委ねることであり聖なる瞬間を招き入れることなのである。この世にあるあらゆるものに神の光を当てて神の目的に合致するものへと変容させてしまうのだ。

醜悪で邪悪になりかねない人間関係もまた然りである。聖霊の光で浄化されれば本当の関係に変容させることができる。それどころか、私たちは気づかぬうちに本当の関係=聖霊を介したあるいはスピリットどうしの関係を作っていることもあるのだ。ただ、「特別な相手との特別な関係」にあまりに重きをおいているために目が曇ってしまっている。というより、そんな素晴らしい関係ができてしまったらエゴにとっては脅威になるので、エゴはあなたにそれを「どうでもいいものだ、だってあんなの特別じゃないんだから」と思わせるように仕向ける。エゴに支配されているマインドはそれに従ってしまう。神や聖霊との関係と相似形であるような祝福された人間関係から私たちの目を背けさせることによって、愛や真理から私たちを遠ざけてしまうのだ。しかし、いくらマインドが分裂していても、いや分裂しているからこそマインドには「まとも」な部分も残されているはずなのだ。私たちはその部分を働かせるようにしなくてはならないのだし、そうしていれば次第にエゴに騙されることは少なくなってくる。

エゴに支配されているうちは、つまりエゴの思考システムに従っているうちはどうしても厄介なことになる。その狂った論理の中においては「狂っている」ものがまともに見えるからである。エゴの思考システムは幻想や妄想を保持するためのものだ。神からの分離というのは本来ありえないのだから、それが「ある」と考えること自体おかしい。その「おかしい」ものを守ろうとする行為もまたおかしいに決まっている。ゆえに真理から身を守り「神からの分離」を保持させるのが目的の「特別な関係」はどうしたってまともじゃないのである。

にもかかわらず、エゴを放棄してスピリチュアルに生きたいと思っている人々でさえも、それどころかスピリチュアルを教えている人々でさえも「特別な相手との特別な関係」には騙されてしまう。でなかったら「前世の縁」とか「ソウルメイト」「ツインソウル」「魂のパートナー」なんてものがこれほどまでに巷の興味をひくわけがない。ソウルはツインどころか「すべて一つ」なんですよっ。あなたと私だけ特別よ〜というならそれは魂ではなく「肉体意識」に決まっているではないか。スピリチュアルでこうなると本当に始末が悪い。私が目指しているのはその辺の俗っぽい関係じゃありませんのことよ、という特権意識や選民意識まで混じってしまうからだ。

「特別な相手との特別な関係」がこれほどまでに魅力的な響きを持つのは、そこに「愛」と呼ばれるものが、正確に言えば「愛という幻想」あるいは「まやかし・偽りの愛」が絡んでいるからだ。あなたは自分自身が愛であることを忘れ果てたため、マインドの奥底で本当の愛を求めている。なのにうっかりエゴの口車に乗って「愛の代用品」、いやそれどころか「愛と正反対のもの」を求めてしまうのだ。

ゆえに、いくら「エゴを手放して覚醒したいんです」と思っていてもこの「特別な人との特別な関係」の正体・・虚構性を見抜かない限りはどうしてもダメなのである。

落ち着いて眺めればわからないわけはないのだ。愛と救いを求めて特別な関係を目指しているつもりが、どうにもこうにも苦しくて仕方がない、孤独感もある。こんな事例は至る所に溢れている。苦しいならそれは愛じゃない!救いでもない!そんなの当然ではないか。なのに、ああ「好きだから苦しいんだ」「愛しているから苦しいんだ」と思い込んでしまう。違います。間違いを現実にしようとしているから苦しいんです。

分離を防衛する手段として使われるものはやっぱり分離である。ほかの国とは違う我が祖国を防衛するために戦争が起きるという事態を考えてみてほしい。狂ったものを守るには狂った手段が用いられ、一方で愛を守るには愛(およびその派生物)という手段が用いられる、そういう原理がある。そして、ある思考システムに従えばその思考システムが守っているものを与えられる、つまりエゴのそれに従っていれば更なる分離(とその派生物である罪悪感や恐怖)を与えられ、聖霊のそれに従っていれば更なる愛や平和を与えられるというこれもまた原理である。

愛や救いをもたらしてくれる「特別な人との特別な関係」という一見ロマンチックでゴージャスな額縁の中に入っているのは煩悩という魑魅魍魎が跋扈している地獄絵である。あなたは額縁とその中の絵と、どちらが重要だと思いますか?明らかに苦しいのに愛を求めているのだと思えば真相を見ないで済む、つまり額縁が美しければ絵を見ないで済むと思いますか?ちゃんと見えているはずなのだ!ただ、あなたは愛という幻想=張りぼてのような額縁にごまかされてしまっている。

おまけにその一見ロマンチックでゴージャスな額縁も実はルビーに見えたものは血だったりダイヤモンドに見えたものは涙だったり、犠牲や自己破壊などが巧みに織り込まれていたりする代物である。エゴが提供する「一見すばらしいもの」の正体なんてこんなものです、いやそれどころか「実は存在すらしない」つまり「ない」のであった!

いずれにしろ、額縁は額縁に過ぎず主役は絵である。これに異論はないですね。一見すてきな額縁だけ見ていればよい気分に浸れる。当たり前だ・・・。しかし中の絵を見ればあなたは混乱する。目を凝らして見なくても、額縁とは似ても似つかぬ醜悪なものだとすぐわかるからだ。特別な関係に限らず、これがエゴの「贈り物」の特徴である。初めから私たちを騙して幸せになれないように仕組んでいるわけだ。こんなものに騙されないよう常に注意を払うしかないのだが(これはその気になれば必ずできることである!)、その際特に役に立つのが例の「聖なる瞬間」である。

エゴに同調するのは、本来「愛」であり「真理」である自分に対する攻撃である。私たちはそこから身を守らなければならないのだ。聖なる瞬間においては、神の限りない力と愛をはじめ、キリストのスピリットなどが総結集して私たちを「ミニ天国」のような時空間に導く。これがあらゆる「間違い」に対するシェルターのような役割を果たすのだ。言い方を変えれば、聖なる瞬間を招き入れるたびに私たちは浄化されるのである。更に言いかを変えれば「聖なる瞬間」を招き入れるとは「今ここ」すなわち「永遠」(に最も近いところ)にのみ在るということでもあるし、いっそ「無我の境地」と言ってしまってもよいかもしれない。

ここで言われている「絵」とは要するに「投影による知覚認識」の比喩的表現である。ゆえに、そこに描かれているのは「天国そのもの」「永遠そのもの」ではない。時間に仮留めされた永遠、この世というとりあえずの額縁に仮留めされた天国という「絵」である。重要なのは絵だけなので、額縁はなかったり簡素だったりしてごく簡単に取り付けられている。本来必要ないものだからである。私たちがこの世あるいは時間の中にいる間は、どんなに素晴らしいものであってもやっぱり「絵」なのだが、額縁を外してしまえばそれはもはや「絵」ではなく「本当の現実」なのだとわかる。

一方で、エゴの提供する「絵」は先に述べたような地獄絵だったり、すすけてみすぼらしくイヤらしいものだったりする。誰だってほしがらない。しかし、額縁はちょっと、あるいはかなり素敵に見えてしまう。私たちは、聖霊が提供する絵も魅力的だけどあっちの額縁はホントに素敵で捨てがたいの!などと思ってしまい、片方の絵と片方の額縁を或いは本質ではない額縁どうしを比べるというわけのわからないことをしてしまっている。

両方の絵だけを見比べなさい!と「コース」は言っている。エゴが提供する絵はとんでもなくみすぼらしく醜悪なものだが、見てみればそれは「絵に過ぎない」ということがわかるはずだ。絵であって現実ではない。たとえ地獄絵であってもそれは現実ではないのだから別に恐ろしくもないとわかる。そしてその向こうには何も「ない」。無、である。これが聖霊の提供する絵との大きな違いである。

こちらは「絵」に見えたものが実は「永遠に変わることのない現実」だということがわかる。ここにおいて、あらゆるものが完全に癒され回復されたことになるのだ。なぜならそのとき私たちはもはや人間ではなくこの世にもいないからである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 149

第17章 その4

聖霊はこの世のあらゆるものを浄化し、救いという目的のために有効利用することができるのだった。あらゆるものが学びのために役立てられるのであった。ところで、私たちが救われたくて求める「特別な関係」あるいは「邪悪な関係」は、もともとエゴの保全のためによりいっそうの分離をもたらすという目的を持っている。だからその目的に沿って始まり、進展してついにはその目的が達成される。要するに「関係が壊れてバラバラの感覚が強化される」わけである。

ここに注意してほしい。特別な関係になりたい、特別な相手になりたい、特別な相手になってほしいと思った瞬間あなたは「分離に向かってまっしぐら」つまり「苦痛や惨めさに向かって坂道を転げ落ちて」いるのである!

ところが、聖なる瞬間においてはあらゆる関係が「全ては神において一つ」すなわち究極の調和と和合・平和などを志向するものとなる、というよりならざるを得ない。そして、その目的はすぐに達成されてしまうのだ。

なぜならそこには持ち込まれるべき一切の「過去」がなく、ある意味では自他の区別さえなくなっているからだ。スピリットどうし、純粋精神どうしの関係が生じるからだ。そこにはもはや年齢も性別も何もない。聖霊のもたらす光によってあらゆる「分離」の産物やエゴの闇が駆逐されると考えてもよい。

これは明らかにそうであると誰もが納得できる形で経験される。聖なる瞬間の作用は絶対確実なものなのだが、それが明らかな形で表に現れないとなかなかそのありがたみを身に染みてわかることができない。邪悪な関係は、浄化され全く正反対のものに変容される。

一番しんどいのは、特別な相手・特別な関係を目の前にして聖なる瞬間を呼び込む部分、つまり最初の段階である。どうしても自分のこだわりを手放せない、自分の正当性を手放せない、手放す=失うのではないかという恐怖があるからだ。そこさえ乗り越えて、実際に聖なる瞬間に入ってしまえば結果はすぐにもたらされる。

とはいうものの、変容の最初の段階では関係が混乱する場合も少なくない。今までは「分離=自己攻撃」というゴールに向かってまっしぐらだったものが、もはやそこをめざすことができなくなる・・即ち目的を失うからだ。ここでたいていの関係は壊れてしまう。あ〜、やっぱり!何も失わないなんて嘘ばっかりじゃない!そう思われるだろうが、そりゃしょうがないですよ、今までが間違っていたんだから。「今までの」関係が終わるべくして終わるということであって、何も目の前の人と縁が切れるとは限らない。いったん新たな目的を受け入れてしまえばもう前と同じではいられず、しかも後戻りはできない。恐れずに前に進むしかないのである。

そして!!もちろん存亡の危機に瀕したエゴが抵抗しないわけはないのだった。「邪悪な関係」の目的は分離の促進と保全であり、そのために「身体である私が別の身体である誰かを特別な存在として求める」という構造が必要である。既にその目的は失われ、新たに「全ては神において一つである」という救いが目的になった。この部分はもう変えられない。目的と構造は一本化していないとならないので、新たな目的に対して今までの構造はもう使えない。今度は関係の構造のほうを変化させなくてはならないのである。

しかし、誰もがこの「特別なのよ〜」という構造にこそ魅力を感じていたのだから、そうそう簡単に手放せるわけもない。一方で、新たな「聖なる目的」に対して以前の構造を保ち続けるのはとんでもなく苦しいことなのである。今までそれなりにうまくやっていたものがうまくいかなくなったように感じる。聖なる関係にしましょうと双方が合意しあうなんていうのは滅多にないことなのだが、そういう場合でさえこの「トンネル」は免れにくい。ましてや、たいていの場合相手は何も知らないのだから、相手のエゴも抵抗するだろう。文字通り引き裂かれるような感じだと思う。あ〜、聖書にあるように「古いブドウ酒を新しい革袋に入れれば両方ともダメになる」「新しい革袋には新しいブドウ酒をいれなくてはならない」わけなのだ。

ここでモタモタしていればエゴに追いつかれてしまう。何しろエゴにとっては生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから必死にもなるだろう。そこで起きている(ように見える)ことについて、都合のよい解釈を与えようとする。いろいろなケースがあるので逐一列挙することはできないが、たとえば「自分は目覚めているが、相手はわかっていなくて駄目だ」というようなものなどがある。これじゃあ、またしても分離じゃないですか!

関係に過去を持ち込むことによって自分のマインドにあるあれこれを相手に投影するのをまずやめる。しかし、相手はその人自身のマインドの中身をあなたに投影してくる。それをあなたは「現実のもの」にしてはならないのだ。

また、このエゴの策略は「先が見えなくなる」という不安として現れることもある。見えなくて当たり前でしょ!そんなのあなたに見えるわけがないじゃないですか。だからこそ聖霊に委ねたんじゃないでしょうか?だいたい、それじゃあ今までは関係の行く末がちゃんと見えていたんですか?バカを言っちゃいけません。

何を目指してよいかわからなくなった、というならそれは聖霊が働いて「エゴ的な自分の目的」が既に放棄されてしまった証拠であり、むしろ喜ぶべきことなのである。私たちの関係がうまくいかないのは「相手のせいだ」と相手を責めるのは簡単だ。そうやって相手を責め、罪悪感を抱かせて思い通りにしよう、という形によって今までの関係は続いていたのだ。「私が駄目だから嫌われるんだわ」というのも表れ方が違うだけであって本質的には「罪悪感と攻撃」パターンに違いないのである。しかし、この時期になると「相手を責めたってしょうがない、こんなことしたってしょうがない」ということがハッキリ見えてくる。すると、今度はそのエネルギーをどこに注いだらいいのか一瞬わからなくなるのだ。混乱するとはそういうことでもある。聖霊にとっての喜びはエゴにとって苦痛なのだという事実を思い出してほしい。

とにかくここまできたら前に進むしかないのである。関係が悪化したのではない。今までの化けの皮が一気に剥がれて「間違い」が見えるようになっただけなのだ。従って、一見うまくいっていた頃に戻ろうなんて絶対に考えてはならない。それは「うまくいっていたように“見えていた”」だけだったのだ。また、「もうだめだ、おしまいだ」と簡単に投げ出してもいけない。関係が変容したとき、これまでの「特別な関係」は放棄されるのでその結果として実生活においては文字通り「解散」「解消」することもある。が、それは関係自体を投げ出すのとは違うのだ。ここで相手を放り出してしまうのは聖霊を放り出すことでもあり、あるいは脚が痛いからと言って脚そのものを切断するのと同じようなものである。代わりの脚は生えてこないが、あなたは「彼(女)の代わりを探そう」などと考えてしまうのだ。

あるいは、「この人ってこういう人だったのか。もう幻想を抱いたり期待したりするのはやめて何とかやっていこう」と考えるかもしれない。一般的にはわりと「賢明」な考え方だろうが、「コース」にあってはこんなもの「全否定」である。なぜなら、これは「彼(女)の中で自分が気に入る部分は認め、そうでない部分は受け入れるけど認めない」ことであり、要するに「自分勝手な基準で相手を分断している」ことになるからだ。

いまや、信じることが大切な時期なのである。聖霊でも神でもキリストでもいい、必ず「関係が浄化されてよい方向に導かれている」と信じるのだ。更に、この嵐のような試練の時(に見えるだけなのだが)にあっても相手を信じる、つまりこの人もまた神に造られたとおりの完全な存在である、スピリットであると見るのである。

聖霊はちゃんと働いている、明らかな答えを示してくれている。関係は「破壊された」のではなく「救われて」いるのである。だからこそ今までの関係の間違いや無意味さが、イヤでもわかるくらい明らかに表れているのではないか!だったら、そこから先も信じ続ければよいのだ。

聖霊の光によって浄化されれば、あなたと「彼(女)」は神というゴールに向かって(これってゴールというより本来はスタートなんですが)手に手を取って一緒に新たな出発をすることになる、という書き方は下手したら誤読されるような気がする。これはもちろん「特別なパートナーとして一緒に歩む」ということでは全くないわけであって、あなたも彼(女)も誰も彼も「全てはひとつ」だと分かった今、たとえ物理的には離れていても「一緒に歩む」ことになるのは当然なのである。

あなたと彼(女)とは、いまや「特別な関係」なる鎖を解かれて自由の身になったのだ。そして、自由だからこそ本来の意味において「一緒に」が可能なのである。今までは、物理的に一緒にいる(あるいは常に心の中で“思っている”)だけであって実際には「バラバラ」だったのだ。聖なる瞬間においては、彼(女)とだけでなく「あらゆるもの」と一つになる。特別なものなどもうどこにもないのだ。自由とはそういうことでもある。

聖霊を招き入れることによって私たちは「すべてとひとつ」になれる、というより瞬間であれ「すべてとひとつ」を受け入れられたから聖霊が入ってこられたとも言える。でなければ聖霊が働くことはできないからだ。

ともあれ、聖霊の働きは明らかなのである。そして!「人を見たら聖霊と思え」なのだから、目の前の関係が少しの間混乱したとしても相手のせいにするなんてとんでもないことなのだ。なぜならその人もまた「聖霊」なのだから!

第232回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 146・147

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 146

第17章 その1

「コース」は最初から「赦し、赦し」と盛んに繰り返しているが、本当は赦しなど必要ない、とここで言っている。私たちはただ夢から目覚めればよいのだ。そうすれば「私たちは神によって神と同じように造られた完全な存在なのだ」という事実に気付く。既に赦されていたというか、そもそも赦しなど必要なかったことに気付くのである。

夢の中にいるままで「これは夢だ」と気づくこともないではないが、とにかく目覚めてみないことには完全な解放はありえないのだ。

私たちは、神に背いてバラバラの存在になることによって神を裏切り、神とひとつであるところの自分や兄弟姉妹までも裏切った。これがいわゆる神からの分離という「原罪」なのだが、繰り返されているようにそんなこと実際には起こっていない。私たちのマインドの思い込み、いわば想像(妄想?)上の罪なのだった。しかし、現に身体をもった個人として生きている(つもりの)私たちは、とりあえずその「罪」を現実のものとし、そこを基盤として世界を作り上げたのだ。言い換えれば「別の現実だってあるんだ」という願望を抱いて妄想に浸っているようなものである。ともかく、分離を基盤としたこの世界の特徴は、限りがあること・変化すること・差異があることなどなどである。

翻って現実=本来の状態において、また「この世にあってこの世のものではない」ところの奇跡においてはこれらの特徴が全て消えてしまうのだ。まあ、だからこそ「奇跡」と呼ばれるようなものであるのだが。

現実にはないものなのだから、これらの特徴は全て「実在しない」幻想なのであった。これもまあ、その成立基盤じたいが幻想なのだから当然と言えば当然である。

以前から述べられているように、奇跡には難易度というものがありえない。私たちの中には奇跡の存在を認めつつも同時に難易度の存在も認めている人が少なくない。これは大したことじゃないから簡単にできたけど、さすがにあれは無理よねえ。そういう認識が当たり前になっている。本当の現実には「限りも変化も差異もない」のだから、難易度などあろうはずもないのだ。真理に幻想を持ち込んでいるというか、真理の一部を拒絶しているというか、そんな事態である。どんなにささやかなことであれ、真理というのは丸ごと受け入れるか全く受け入れないか、どちらかしかありえない。一部だけ受け入れた、というのは「全く受け入れない」のと同じことになる。「コース」によれば「真理を台無しに」してしまっている。

マインドの力は強大なので、何であれ本気で信じ込まれたことはそのマインドにとっては現実のものとして経験される。つまり、難易度があるというのは空想に過ぎないのだが、空想なのに「当たり前の現実」として経験されることになってしまう。せっかく聖霊が「やってあげますよ」と助けてくれようとしているのに、いいえ結構よ、自分でやるわ!と、自分ではできないくせに虚しく頑張っているようなものである。

そう、私たちは「自力ではできない」のだ!少なくとも、スピリットでない「この私」にはできない。それをさっさと認めてしまったほうがよい。自分が今まで正しいとか当たり前だとか信じていたことは全て間違っているのかもしれない、と認めてあらゆる判断を聖霊に委ねてしまうほうがよいに決まっている。

歪んで曇った眼鏡をかけていれば正しくものを見ることはできない。眼鏡の曇りと歪みにすら気づかなければ、自分の目に映ったものがおかしいことにも気づかない。そういうものだ、と了解されたままになる。どこがおかしいのよ、だってそう見えるじゃない!としか思えないのである。しかし、これって実はおかしいのかもと疑って眼鏡を外してみればやっと真実が見える。そして今まで見ていたものは「ウソだった」とわかるのである。

本当の現実には「程度」というものがない、今まであると思っていたけどそれは私の見方がおかしかったからだ、あれはウソだった。そう気づくためには、まず今までの自分の見方・捉え方を「実はおかしいんじゃないか」と疑ってみるべきなのだ。それ以外に正しいものがあるのなら受け入れようと本気で求めるためには、まず「すべて疑え」なのである。

あの人は私に対してこういうことをしているように見えるけど、本当にそうなんだろうか?今まで見えたことや考えたことを全て手放して聖霊に委ねてみれば「何だ、違ったじゃない」とわかる。そして「何も起きていなかったのだ」という赦しが起きる。このとき私たちは自分も相手も両方とも赦して解放したことになるのである。

私たちは普通「空想の世界にこそ美しくて素敵なものがある、現実にはありえない」と考えてしまう。が、これも「コース」に言わせれば全く逆なのだった。本当の現実の中にこそ、というよりそこにしか究極の美しさや素晴らしさは存在しない。あらゆるものが愛すべき姿である。これは聖霊による知覚認識に従えばわかることであり、そのように見え聞こえたとき私たちは神に感謝せずにはいられなくなる。

「こちら」から「あちら」への移行はほんの一歩だ。それも「私は今まさにそこを渡っている」なんて自覚はできない。学びによって準備ができた者にはごく自然に「起こる」ことであり、「コース」流にいえば「神によってなされる」ものだからだ。たいていは気づかないうちに起こり「あれ?」みたいな感じになる。小さな一歩だが偉大な一歩、ではないが、変容というのはそうしたものだ。

そこにおいてはまだ「知覚認識」がある。但し、もちろん「分裂したマインドが自分の中のグチャグチャを投影する」ようなものではなく、聖霊のそれである。従ってあらゆるものが愛しく素晴らしく見えるようになる。本当に「違って」見えてしまうのだ!知覚機能が正され浄化されるからである。悪夢から楽しい夢への移行だとか「本当の世界」などと言ってもよい。

しかし、ここまでくるともはや知覚認識が不要になる段階=本来の状態まであと一歩なのだ。そこには変化も差異も程度も陰影も何もない。そんなところで知覚認識などハナから不可能ではないか!私たちは何一つ認識できない、する必要がないからである。

その手前の状態、即ちいかなる過去も思い込みも個別性もない、純粋理性の純粋認識。この状態を「コース」は「赦された世界」だと言っている。いまの世界が生じたのは「神から離れてバラバラになった」と思い込んだからなのだが、それが単なる「思い込み」だったとわかるのは聖霊あるいは純粋理性によるしかない。ただ、この状態はまだ「夢の続き」なのである。

完全に目覚めた本来の状態においては、もはや「救い」さえ存在理由を失っている。「救い」とは夢から覚める瞬間のもの、「あ、夢だったのか」という気づきなのである。

赦しとは、過去において抱いたあれこれの「考え」の中で愛すべきものだけを、つまり神と共有できるものだけを思い出すことでもある。過去の「経験」や「人間」でなく、それを作っているところの「考え」だというところに留意したい。人間なんて「コース」に言わせれば「人影」に過ぎないのだ。幻想なのにもかかわらず「人影」が実体を持った確固たる「個人」に見えてしまうのには理由がある。まず、「私たちは神から離れたバラバラの個人だ」という思い込みを現実として維持するため、つまりエゴの自己保全のためである。次に、例の「エゴ流の救い」のため、つまり自分の中にある「見たくないもの」を投影したり、過去の遺恨に対して仕返しや復讐を試みたりするためにはその対象となる「他人=別の身体を持った存在」がどうしても必要になるからだ。目の前の相手はあなたの過去になんか全く関係ない人であるにもかかわらず、あなたは彼(女)にそういう役割を負わせることになる。こういうことをお互いにやったらどうなるか?考えるだに恐ろしい光景ではないか。そして、これに毒々しい砂糖衣をかけると「愛しあうためには他人の存在が必要」というふうになる。もちろんこれは愛ではなくて「愛という名の幻想」に過ぎない。もっとはっきり言えば、エゴを保全するためのあれこれを私たちはふだん「愛」だと思っているだけなのだ。

この「人影」どうしがグチャグチャやっている「特別な関係」については今までにもさんざん述べられてきたが、ここでもまた繰り返されている。「コース」いわく「真理を締め出すのを目的とする邪悪な(unholy)関係」だそうだ。邪悪とは過激な表現かもしれないが、常に「復讐・仕返し」が含まれているのならそう言って言い過ぎでもないと思う。

言うまでもなく「特別な関係」とは身体を現実のものとみなしたうえでの身体どうしの関係だ。このことについては前にも述べたので異論はないと思うが、更に「身体なしに復讐は不可能である」という事情もある(ついでに言えば、所有したり独占したりすることもできない)。これも普通は異論がなかろうと思うのだが、たまに「霊界」のお話なんかをする人が「肉体のない霊どうしの戦い」みたいなことも言っているようなのでローバ心ながら補足しておく。

そういう霊は目覚めていない、分離したままなのである。つまり、文字通り肉体をなくしているにもかかわらず、依然として肉体意識のままでいるような存在だ。要するに私たちと大した違いはないのである。ゆえに「身体として」戦ったり復讐したりしようと思うことはできるし、そう思えばそれはあたかも現実のごとくになるわけだ。

少々ややこしい書き方になってしまうのだが、「コース」の教える本来の赦しは「起きたこと・やってしまったこと」について「あれはもういいんですよ」というものではない。何もして(されて)いない、何も起きていないんだと認め教えることなのである。が、目の前の誰かを「身体」だと捉えてしまえばもうその時点で「神から分離してバラバラの個人になった」ことが確かに起きたのだと認めてしまうことになる。つまり、赦しを放棄したことになるわけだ。

とにかく、邪悪な関係に陥ってしまう人々は必ず身体を現実のものだと信じている、ここだけを了解しておいていただきたい。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 147

第17章 その2

私たち人間は過去の経験の集積物だという人もいる。なるほど「人間」ならそうかもしれないが、本来の私たちはスピリットでありスピリットは人間ではない。

まあそれはそれとして、私たちは目の前の人間関係に過去(生)のあらゆる人間関係における経験を持ち込んでしまう。あるやり方で相手に裏切られた人は、全然関係ない別の相手についても同じ不安や恐れを抱いてしまうのだし、幼少期に十分な愛を与えられなかった人は大人になってから出会う誰に対しても完全に心を開けず素直になれなかったりする。

このように「邪悪な関係」においては、当の相手以外に「そこにいないたくさんの人々」の人影がもちこまれてしまうのだ。個々人の存在が幻想だという以前に、そのたくさんの人々は現実の彼らではなく「あなたのマインドの中の彼ら」であるという点においてもこれらは実体でなく「人影」に過ぎないと言える。

こんな状態で誰か特定の人と十全に向き合えるわけがない。どんなに「向き合いたい」と思っていても、だ。そして、あなたの過去とは全然関係ない人に自分自身の過去の遺恨を引き受けてもらおうという「江戸の仇を長崎で」状態になる。こんなことをしていれば関係が悪化するのは目に見えているのだが、「特別な関係」はそうなるしかないものなのだ。始まった瞬間から疑いや不安がチラチラと見え隠れする。そもそも、その関係の目的からして「エゴの自己保全」なのだが、それを維持しようとするときも破壊するときもエゴはますます肥大化し強化される。

あなたを救ってくれるという夢を抱かせてくれた相手は、時間の経過とともに即ちその夢が壊れゆくとともにあなたの「敵」になる。もはや人生から排除すべき存在になる。が、この段階ではまだそうと自覚できていないことが多い。苦しみをもたらす相手になってしまっていても「好きだから、愛しているから苦しいんだ」と思い込めるからである。しかし、そもそもの初めから「個人としての相手の本来の姿」はどうでも良かったのである。あなたは自分を救ってくれるような、過去に仕返しできるような道具としてその人を選んだに過ぎなかったのだ。その相手を勝手に自分の空想物語の登場人物に仕立てあげてしまっただけだったのだ。その部分が満たされれば相手のそのほかの部分なんかどうでもいい、むしろ「要らない」ものだった。相手には当然あなたの気に入らない部分だってあるわけだが、そこは「要らない」、私の望む通りの存在でいてくれればいいのよというのが本音だったのだ。

これは「あなたという人を丸ごと受け入れる気なんかありません、私にとって必要なものだけ与えてくれればいいんです」という、まあその「相手」である誰かを「排除しつつ取り込む」ようなおかしな事態なのである。簡単に言えば「いいとこ取り」をしたかったのだ。しかしそのとき「相手その人」という存在は一体何なのか?(「コース」いわく、エゴは意地悪なやり方で「時間」を用いるのだそうだ。たとえば「年を取るのが怖い」とか「昔はあんなに素敵だったのに」とか、ものごとが時間の経過とともに悪くなっていくという方向性を帯びていることを意味する。)

さて、分離の象徴である身体を聖霊はどのように有効利用するのか?以前「コミュニケーションツールとして」使うと述べられていたが、分離を促進してしまうような関係においてもそんな用い方が可能なのか?

結論から言うともちろん可能である。ここでも赦しがポイントになる。エゴに支配されていれば過去は私たちを縛るものにしかならず、過去を癒そうと思ったら「そんなものなかったのだ」と気づくしかない、と述べられてはいたものの、まさか過去の記憶がいきなり消えるわけでもないし、なかなか「実は全部夢でした」なんて思えない。そこで、聖霊は正しいやり方で過去を変容させるのだ。私たちがこれを「自力」でやろうとするとまるで「捏造」のような有様になってしまうのだが、聖霊は過去の中にある「正しいもの、真実であるもの」だけを選り分けることによって浄化するのである。すると、過去もまた「今ここ」と同じようにまっさらなものになり、現在を脅かすようなものではなくなる。聖霊に従って知覚認識すれば、過去の見方・捉え方もまた一変するのだ。

より具体的に言えば、過去において為した・された・起きた「嫌なこと」が本当はそういうものではなかったのだ、あのときはそう感じて「ひどい経験」だと思い込んできたけれど、実はそうじゃなかったんだ、というように認識を変えればよいのである。無理やりそう思い込もうとすれば「捏造」になってしまうのだが、愛の光で照らしてみれば「ああ、そうだったのか」と、今まであなたを苦しめていた過去の経験が全く別のものになって姿を現す。そのようにして浄化された過去ならいくら持ち込んだところで現在の関係は汚染されずに済む。

時間というものが持ち込まれたマインドである私たちにとって、間違いは過去において起こりそのためにいま罪悪感や恐怖に囚われている、そういう構造がある。その間違いが単なる「勘違いの思い込み」だったとわかること、これが「あがない」なのだった。そういう意味において「あがない」とは過去の浄化であるともいえる。

どんな問題でも根本的な原因を何とかしない限り本当には解決しない。が、エゴは(問題が解決してしまったら困るので!)見当違いなところで解決しようとして失敗することになっている。いや、失敗するのはエゴに従った私たちであってエゴにとっては成功なのかもしれない。

私たちが抱えるあらゆる問題の根本原因は「神から離れてバラバラになってしまった」という思い込みにある。ということは、実は「全てはひとつなのだ」とわかるようになればあらゆる問題が自動的に解決してしまうともいえる。

とてもおかしなことに聞こえてしまうだろうが、聖霊の光によって浄化された関係はもはや以前のような意味では「特別」でなくなり、にもかかわらずより密接になるのである。分離がなくなってくるのだから距離が縮まるのは当たり前だ。今まで「復讐心」によってますます分離してしまっていたものに聖霊の光が当たれば、今までは見えなかった素晴らしさが姿を現すのである。「特別な・邪悪な関係」は、ドロドロ執着のために「密接」のように錯覚できていただけだったのだ。

しかし、このような「関係の浄化」は、それが特別なものとして捉えられていればいるほど難しくなる傾向にあることも否めない。一瞬にして全てが変わるのは無理かもしれないが、続けていれば必ずや何か大きな変容が起きるのは間違いない。そして、聖霊はあなたから何も奪わない、というこの表現は微妙である。特別な関係が浄化されて解消されることもありうるからだ。しかしそれは「奪われた」のではないし、あなたも「失った」とは思わないだろう。

とにかく聖霊は「特別な関係」を厄介なものにしている表面的な理由には頓着せず、ただ「分離をなくさせる」ことだけに終始する。それがどういう形で現れどういう結果になるかは、それこそ「個々のケースによって」違うのだ。やってみなくてはわからない。ただ怖がらないでほしい。なぜならば、聖霊の目的はひたすら「幸せにする」ことだけだからである。

神の御心によらないものは「ほんもの」ではなく、それゆえに「聖性」もない。私たちは幻想である過去を持ち込むことによって「特別な関係」を本当の現実とはかけ離れた邪悪なものにしてしまっている。なぜ過去を持ち込んでしまうのかについては前にも述べられているのだが、「あんな目にあったんだから今こうなっていても当然よ」などと正当化したところでいったいあなたに何の利益があるのか?不幸や惨めさを正当化すれば幸せになれるとでも思っているのか?これも以前書いたことだが、人間関係に過去を持ち込んで投影まみれになってしまえばもう「何が何に対して何しているのか」さっぱりわからないメチャクチャ状態になり、目の前の関係も醜悪でおかしなものになるのは当然なのだ。そういうことに陥ってしまう人はたくさんいる。

さあ、あなたはどちらを選びますか?どちらにより価値があると思いますか?聖霊かエゴか、ほんとうの世界か罪悪感と恐怖にまみれた世界か、美しさか醜さか、自由か奴隷か。例によって「常にどちらか一つしか選べず、どちらか一つを必ず選ばなくてはならない」のだ。もちろん、神の御心と合致する考えだけが真実であり、真実だけが美しく私たちを自由にする。

キリストは聖霊でもあるので、このあたりはキリストが聖霊として語ってくれている。あなたたちの人間関係に私を招き入れなさい、そうすれば兄弟姉妹を正しく知覚認識させてそこに平和をもたらしてあげる。彼らはあなたを傷つけるために創造されたのではないし、あなたは彼らによって傷つくために創造されたのでもない。ともに創造するために造られたのだ。

あらゆる関係性の基本・原点にあるのが「神と私たちの関係」である。これこそが正しい意味で「特別な関係」といえるものだ。私たちが実生活において築くあらゆる関係がこの神との関係の相似形であればよいのだし、またそうなるべきなのである。なぜならその関係は「幸せになる」ためのものだからだ。誰がわざわざ不幸を目指して誰かと関係を築いたりするだろう?人間関係を通じて幸せになりたかったらここでよく考えてみてほしい。

第231回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 144・145

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 144

第16章 その7

自分自身が愛であり全てはひとつなのであれば、愛は至るところに溢れている。与えようなどと思わなくても勝手に与えられ、受け取らないわけにはいかない、そういうふうになっている。わざわざどこか・誰かに求める必要がない、というか求めることなどできない。これを読んで「そんな!」と青くなってしまった方は残念ながらエゴに支配されている。エゴにとって愛とはわざわざ求めなくては得られない特別なものであり、空気みたいにその辺に蔓延しているなんて、そんなの「価値がない」のと同じことになってしまうのだ。

愛と平和と真理と自由とは同じものだ。全て神の御心だからである。特別な関係によって束縛しあい(別に相手があなたを束縛しなくてもあなた自身が自分の妄想でがんじがらめになる可能性は大いにある)、不安定な状態に陥ってしまえばもうそこに愛など入る余地はない。

神の愛は私たちを解放するものであって束縛など断じてありえない。愛とは神の御心に他ならないのだ。そうでないものはいくら愛と呼ばれていても姿を変えた恐怖に過ぎないのである。そんな!これ以上「コース」を学ぶのが嫌になってしまった人もいるかもしれない。

しかし、とにかく「そうなってみないとわからない」のだから、納得するのは後回しでもいいのだから、あれこれ考えずにやってみてほしい。

ちょっと補足説明。「コース」が「特別な関係を求めるな」というのは、「近しい関係がいけない」のではなく「特別さを求める」のがダメだと言っているのである。たとえば「家族」に代表されるように、身体をもって生きているこの世で何のご縁か「たまたま」か、物理的にあるいは生活上「近い・かかわりの度合いが多い」関係になってしまう人々は必ずいるわけだ。それだけでは「コース」の言う「特別な関係」とは呼べない。そこに何か「ほかの人にはない特別な意味・役割」を求め期待するようになって初めて「罪悪感に裏打ちされた特別な関係」になってしまうのである。

さて、初めから苦しみたくて特別な愛情関係を求める人はいない。より幸せになりたいとか解放されたい、自由になりたいと思うからこそ求めるのだ。この場合の「自由」とは、文字通り「悩みや苦しみや自己嫌悪=罪悪感などから解放される」というマインドの自由のことである。だが、特別な愛情関係は結局「自縄自縛」を招いてしまうことが多い。相手があなたを「ほったらかし」にした場合「自由でうれしい」と思う人はあまりいないのではないか?どうしてもっと大切にしてくれないのか、愛情を与えてくれないのか、と悩み、その「悩みと苦しみ」に囚われてしまうのではないか。

前回にも少し触れたが、特別な愛情関係は「身体」どうしの関係である。そういって語弊があれば「互いに別々の身体を持つ別々の個人どうし」の関係である。ここからして既に「分離の産物であり分離を促進するもの」だとわかる。というか、「互いに別々の身体を持った個人」だと思っていなければ特別な関係など初めから求めようとするわけもないのだが・・・。

とにかく、ここのところをよくよく考えてみてほしい。私は心と心の関係がほしいの!精神的な関係がほしいの!と思っているつもりでも「私の心、あなたの心」が基本的に別個のものだと思ってもいるのであれば、これは取りも直さず「私の身体、あなたの身体」と言っているのと同じなのだ。だいいち、特別な関係とはまず「ほかの誰でもないあの人が目の前にいなければダメ」というのが前提ではないだろうか。これが身体でなくて何だろう。精神だの心だのと言いながら、実際には身体を求めていることにならないだろうか?「身体が目的なんかじゃないわよっ」といいたくなるのは身体=セックスだと思っているからである。

「コース」の教え以前の問題である。よく考えてみてほしい。脳は身体なので、脳には個体差も性差もある。しかし、魂や純粋理性には性差も年齢も何もないではないか。魂のパートナー=ソウルメイトというならそこには既に性別も年齢もないはずだ。顔も身体もないはずだ。生死すら超越しているはずだ。あなたは顔も身体も年齢も性別も無視して「特別なパートナー」を求めることができますか?既に肉体をなくしている魂を「特別なパートナー」にしたいと思いますか?

そういう意味においても特別な関係とは「魂や純粋理性まで含めてトータルな私」と「同じくトータルなあなた」という個人どうしの全的な関係ですらないのである。

あなたがたまたま目の前の誰かと本当に「魂どうし」というレベルで完全に一体になるなら、その時あなたも相手も「あらゆるものと、そして神と」一体になっているのである。しかし!!!ああ、エゴはしぶとく巧妙なのだ。そういう瞬間にもすかさずあなたのマインドに入り込んで「何て素晴らしい関係じゃないか!この人は特別だ、絶対失ってはならないよ。この人を失ったら生きる意味はないよ」などとささやいて全てをぶち壊しにするのである。

「コース」いわく、聖なる瞬間にあればヒトの身体は「輝く光線」と化してしまうそうだ。そこには既に個体差などない。実際にそうなってみれば身体の「非在」「無意味さ」もよくわかるであろう。少なくとも身体に幻想の、なおかつ過剰な意味づけをしないで済むようになるだろう。

特別な相手を自分の「偶像の神」に仕立ててしまえば「神に仕える自分」は当然それより無力なものにならざるを得ない。特別な関係が構築できた!私ってすごいわ、と一見「力強く」なったように感じるものの、その力強さ(に見えるもの)は「特別な相手」あってのことだ。いきなりその相手が消えてしまったらあなたは以前にもまして自信を失い弱体化するであろう。本当の神なら失うことなどないはずなのに!

ものの見方・捉え方が「まとも」になれば、特別な相手だの関係だのそんなものは求める気持ちにならなくなるのである。が、認識の仕方が劇的に変わるときというのはそれがいくら「歪んだもの」から「まともなもの」への変化であっても一時的に混乱をきたす。どうしよう!どうなるの?私はおかしくなっちゃったのかしら?それは長いこと歪みに慣れすぎてきたせいである。暗い映画館から明るい戸外に出たときとか、度の合わない眼鏡を替えたときなど本当は「見えやすく」なっているはずなのに一瞬クラクラするのと同じようなものである。が、この混乱の時期は非常に短いので安心してほしい。それに私たちには一応「時間」というものがある。時間をかけて慣れていくこともできるのだ。

この時期は抵抗すればするほどますます苦しいものになる。ここまで来てしまった人はもう後戻りができないからである。前に行くしかないのに抵抗してとどまれば八方ふさがりのようになってしまう。これは苦しい。今まで価値があると思っていたものが実はそうじゃなかったとわかるようになり、かといって別の価値を本気で信じることができないという過渡期が苦しいのは、エゴと聖霊の思考システムが「共存できず、常にどちらか一方だけを選ばなくてはならない」ものであるのに、そのどちらも選びきれないせいでもある。しかし、ここで下手に絶望せずむしろ「あそこから抜け出せたのは本当によかった」と思ったほうがよい。間違いを間違いだと認められただけでも進歩であり救いではないか。

特別なパートナーがほしいと思っていたのに、それを諦めなきゃならないの?とがっくりきている方もいるかもしれないが、私たちは何一つ諦める必要がないのである。諦めるのではなく単に「要らなくなる」のだ。これもまた「そうなってみればわかること」なのだが、そうなってみれば本当に「何と、私は何一つ諦めたり失ったりしていないではないか!」わかってびっくりするはずである。何だ、こんなことだったのか・・と別の意味でガックリするかもしれないくらいなのだ。

そこに至るために私たちがすべきなのは、例の「聖なる瞬間」を招き入れることだけである。例によってあとは聖霊がやってくれる。前に述べられていたように「何一つ隠し立てしないこと」が重要だ。自分には抵抗がある、受け入れがたいと思うならそれを隠さずごまかさずそのまま聖霊に委ねてみよう。そのオープンさが聖霊を招き入れ、神の御心でもある聖霊の意志がそのまま私たちの意志になる。つまり「完全に受け入れる」マインドになれるのだ。

またまた衝撃的な記述である。一つでも特別な関係を求めているうちは過去からの解放もありえない!ま〜論理的に考えれば至極あたりまえのことなのだが、過去生も含めて過去のトラウマやカルマのあれこれから解放されたい!と願いいろいろなワークにいくら励んでいても、特別な相手との特別な関係に囚われていたり「魂の伴侶がほしい」などと望んでいたりすれば「全てパア」だなんて、スピリチュアル系の方々にはかなりショックなのではないだろうか?

特別な関係には過去が反映されざるを得ない。これはもう絶対にそうなのである。乱暴に言えば「過去の経験を繰り返す場」に過ぎない。過去生のカルマによって出会った、なんてまさに文字通り「過去の経験を繰り返し」ているのであり、繰り返す必要がなければそもそも出会う必要もなかったはずではないか。

あるいは、過去の傷を癒し学ぶためにはそれにふさわしい特別なパートナーが必要だ、という人もいる。過去の傷を癒して損なわれてしまった自己評価を回復する、これは言ってみれば過去の失敗を新たな経験によって「上書き」するような試みなのであり、「コース」に言わせると「過去を変えようとして」いるだけなのだ。

以前から教えられてきたように、過去は変えることも癒すこともできない。なぜなら過去などというものはそもそも「存在しない」からである。「ない」ものをどうこうするなんてできないに決まっているではないか。過去は「存在しないのだ」とわかることによってのみ癒されるようなものなのだ。従って「過去生をともにした相手と今生でも同じ経験をトレースする」ことじたいが「夢の続き」に過ぎないのである。学ぶために出会うのだという人もいるが、出会わなくても学べます。というかさっさと学んでしまえば出会う必要がなくなります。このあたりも凡俗のスピリチュアルとは一線を画している。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 145

第16章 その7

前回にも見たように、特別なパートナーを選ぶ際には自覚的にであれ、過去生の記憶のように無意識であれ、必ず過去の経験が基準になっている。過去の「傷」、トラウマでもカルマでも何でもいい、言い換えれば「罪」をその特別な相手によって「あがなって」もらいたいわけである。ここでもうレッドカードの退場なのは明白である。あがないをもたらすのは聖霊であって生身の誰かではないからだ。もちろん生身の誰かが聖霊の担い手のような役割を果たすことはある。しかしそれは近所のスーパーのレジのおばさんでもたまたま乗ったタクシーの運転手でも誰でもいいわけであって、別に「特別なパートナー」である必要など全くない。なぜ「特定の相手」にそれを求めようとするのか?そういう相手を探そうとするのか?いま目の前にいる特定の誰かにその役割を負わせようとするのか?

私も断言できるのだが、私たちはどんな関係のどんな相手からでもとんでもなく素晴らしいことを学べるし気づきをもたらしてもらえるのだ。またそうでなくてはならないのだ。「人を見たら聖霊と思え」なのである。他人=兄弟姉妹を自分勝手に選り分けてはならない。

癒されたい、自分を癒したいと思っている人はたくさんいるだろうが、癒すべきものは常に過去(の傷)であり過去にしかない。「コース」のいう癒しは「過去の傷を現実のものだと認めたうえでそれを癒し回復させる」のではなく「歪んだ知覚認識機能を正すことによってあらゆる苦痛が実は幻想にすぎなかったとわかれば自動的にそこから解放される」というものだったことを今一度思い出してほしい。救いも然り、私たちは既に救われている或いはもともと救われる必要などなかったという事実を認めることがそのまま救いになるのだった。

ところが、エゴ支配下の私たちにとって救いとは「過去に対する復讐」みたいなものなのだ。今までひどい目にあってきた、今度こそ幸せになりたい!前回私は「過去の経験を上書きする」ようなものだと書いたがそれどころではなかった。

そもそも「癒されるべき過去」なるものがあるということ、そんなものを今のあなたが抱えて(或いは、しがみついて)いるということがまず問題なのだ。「コース」によれば「過去に起こったと思われることすべてが実は幻想である・何も起きていない、全てはあなたの分裂したマインドの見た夢である」となるのだが、ここまで過激になれなくても「過去とは既に過ぎ去ったものである」から「今はもうない」、これくらいは誰でもわかるだろう。にもかかわらず、今は「ない」はずの過去はあなたのマインドの中だけで生き続け、あなたに影響を与え続けている。それはあなたが過去を手放さないからなのだ。エゴがそう仕向けていると言ってもよい。苦しい記憶であるにもかかわらず、なぜ手放してしまえないのか?

これこそが「エゴ流の救い」の特徴なのだ。手放してしまったらどうやって癒すのだ?どうやって「失地回復」「名誉挽回」するのだ?その苦しみを全て打ち消すような幸せを得て初めて私たちは癒され、自分自身の尊厳を回復できる、だから忘れるわけにはいかないのだ。これがエゴによる「救い」の考え方である。お気づきの方もいらっしゃるだろうが、これって完全に「仇討ち」の構造になってませんか?江戸の仇を長崎で討つ、ではないが「過去の仇を現在に討つ」「あの人とはダメだったことをこの人とはうまくやって幸せになる」「過去生の失敗を今生で挽回する」、これらは別におかしく感じられないかもしれないが、「コース」の論理に照らして考えると見当違いも甚だしいところの不可能事だとわかる。

癒され救われるために「過去に復讐=仕返し」しなくてはならない。忘れたり手放したりしてしまったら復讐できなくなる、つまり救われなくなる。ずっと「敗者」のままになってしまう。だから過去を手放さない。その結果、癒され救われるどころかますます苦痛を重ねることになる。何故なら、私たちは「復讐」によっては癒されることも救われることもないからである。過去という幻想にしがみついたままでは本当の救いとなる「現実」=神に造られたままの姿を見ることはできないからである。

そして、この「過去に対する復讐」のために私たちは特別な相手を求めるのだ。奪われたものをこの人が与えてくれれば私は救われるわ!みたいなもんである。愛であれ何であれ「私には特別な価値がある」と思わせてくれることを望むわけである。

過去に仕返しするために作られるこのような関係において、「今ここ」にいることはかなり難しい。なぜなら、その関係の中で「今ここ」という在り方をしてしまったら復讐すべきものが消え失せてしまい、復讐できなければ癒されることも救われることもできなくなってしまうからである。今ここ=過去から解放された状態にあったら「エゴの救いや癒し」という目的が果たせなくなってしまうのだ。

恐ろしいことに、この「過去に対する復讐」は取りも直さず「自分自身に対する復讐」となる。なぜならすべては一つだからであり、与えたものが受け取られるからだ。この観点からしてもエゴ流の「救い」は、何のことはない単なる自己破壊に過ぎないものなのである。

もちろん、こんな「実態」は「愛という幻想」という毒々しい砂糖衣によって巧妙に隠されている。でなければ誰が自分を破壊するようなものを切実に求めたりするだろうか?

ここまで読めばよくわかると思うが、別に「特定の関係」そのものが悪いわけではないのだ。慌て者の方は、特別な相手との特別な関係はダメなのね!だったらすぐ別れよう!と思ってしまうかもしれないが、そういう問題ではない。奪われた(ように見える)ものを取り返して過去に復讐し救われようとする試みには、ほかにいくらでもやり方があるからだ。ここでは単にそれを「人間関係に求める」パターンについて述べられているに過ぎない。

むしろ、いま現にある「特別な人との特別な関係」も聖霊によって学びのツールにしてしまうほうがずっと望ましいのである。どうすればよいのか?先に述べたことの逆をすればよい。すなわち、聖なる瞬間を招き入れることだ。常に「今ここ」に在ることだ。以前にも述べられていたように、他者を見るときに過去を一切持ち込まないようにすることだ。「人を見たら聖霊と思え」である。そうしたとき、もはや目の前の相手は「特別な人」ではなくなる。言いかえれば、あらゆる人が特別な人になってしまうのでもある。とにかく、目の前の相手が特別な人でなくなれば今までの関係も何らかの形で変容する。どのような現象としてあらわれるか、それはわからない。しかし恐れないでいただきたい。なぜなら私たちは「何一つ失うことなく、諦めることなくあらゆるものを得る」ようになるからである。

学びの過程においては、完全に聖なる瞬間を経験するのは難しいこともある。あるいはそれを維持しにくいこともある。どうしても多少の幻想が混じってしまい、どちらが幻想でどちらが現実かよくわからなくなってしまうのだ。しかし、繰り返し述べられているとおり、本来真理は幻想よりはるかに強力なので次第にうまくできるようになってくる。幻想の中にときたま「聖なる瞬間」が混じっていたものが逆転して、聖なる瞬間の連続の合間に時たま幻想が混じる程度になってくるのだ。

神は私たちに全てを与えた。これは神の御心なのだから「既になされてしまっている」、つまり神と一つである私たちがそれを受け取らないなんてことはありえない。が、受け取っていることに気付いていないという事態が起きているのである。気づいて初めて私たちは何物にもとらわれず縛られない自由を享受するのだ。

「赦すべきものは幻想だけである」、この「ゆるす」とは「手放す・浄化する」に近い。どうも日本語で「ゆるす」というと「認める」に近い意味になってしまうのでわかりにくい場合もあるかもしれない。「こんな規則、絶対ゆるせないわよ」というのは「とてもじゃないが認められない」という意味でしょう?

とにかく、赦せば解放される。誰かが自分の作り出した幻想でがんじがらめになっているなら、まずあなたが「自分の認識において」それを赦し浄化するのだ。たとえば誰かが病気で苦しんでいるとして、あなたの目には確かにその人が「病気で苦しんでいる」と映る。しかし、それは「歪んだ知覚認識」あるいは「幻想の共有」なのであり、本来の彼(女)は神に造られたとおりの完璧な姿であるはずなのだ。その認識を自分においてまず正す、これが赦しであり癒しになるのである。更に、それによってあなたは自分もまた赦され癒されたことがわかるようになる。

くれぐれもエゴの「あがない」「救い」に騙されないように!過去の傷という幻想を信じ、新たな幻想の中に救いを求めても無駄なことだ。私たちは聖霊とだけ関係を結べばそれで足りる。どんな人とかかわるのでも聖霊を通してかかわれば間違いないからだ。人を見たら聖霊と思え!どんな人とかかわるときも聖霊とかかわっているのだと捉えればよいのである。そうすればあらゆる関係に聖性がもたらされ、幻想と妄想まみれの関係が消失して「本当の関係」が姿を現すのだ。

お祈りいたしましょう!「父よ、私たちの幻想をおゆるしください。あなたとの間の真実の関係を私たちが受け入れられるようお助け下さい。そこにはひとかけらの幻想も入り込む余地がありません。あなたと同じく私たちも聖なる存在です。あなたの聖性が完全なら私たちのそれも完全なはず、赦すべきものなどあろうはずもないのです。私たちは忘れっぽく眠りに陥ってもいるのであなたの愛とゆるしをなかなか思い出そうとしなくなっているのです。神の子である私たちを誘惑の中にさまよわせないようにしてください。それはあなたの御心ではないからです。あなたが私たちにお与えになったものだけを私たちが受け取れるようにしてください。それを、あなたが愛をもってお造りになった私たちのマインドで受け入れられるようにしてください。アーメン」

第230回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 142・143

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 142

第16章 その5

神は定義によりもともと完成された存在である。その神の一部として創造された私たちは、神と同様にその創造の初めから既に完成されてしまっている存在である。しかし、今の私たちの(マインドの)側から見れば、学びが完成することによって本来の自己もまた完成していると知られるのである。そこには既に幻想などなく、ゆえに恐怖もない、特別なものもない、ただひとつの結びつき(union)だけがある。そう「コース」は言うのだが、小うるさくしつこい私にはこの表現が少々気になってしまうのだ。すべてが一つであるのなら今更何と何が結びつくというのか!これは「ひとつであること」の別名だと考えるのがよいだろう。

幻想を抜けて本当の現実に至る道、これこそが直接知に至る道でもある。そのためには何が幻想なのか、恐れずにそれをしっかり見定めなくてはならない。幻想を持ちながら真実を見るなんてことは絶対にできないのである。私たちには常に愛の呼びかけがなされているのだが、にもかかわらず憎しみ・恐怖といった幻想からの呼びかけのほうに応じてしまうのは幻想にとどまっているほうが楽に感じるからなのだ。今まで価値があると思っていたものを手放すのが嫌だ、この感情を手放すのは敗北になるんじゃないか、そんなふうに感じるからである。本当の愛を求めているのよ、と言いながら幻想の愛を求めてしまっている、そしてそれを手放すのを嫌がっている。幻想の中に本当の愛などない!というか幻想が一切ないものをこそ本当の愛というのである。

このあたり、神はあなたを決して忘れないとか何とか、ええっ忘れないですって、そんなの当たり前でしょ!だいたい存在そのものである存在が忘れたり思い出したり覚えていたりするなんて考えるまでもなくあり得ないだろーに、そんな言葉を用いること自体無理があるだろうに。それはただ「在り在り在る」のだ、全てなのだ、それで充分なんじゃないの?ま、「神はあなたを決して忘れないんだよ」と言われて感涙にむせぶような方々もいらっしゃるのだろうが、ここで「コース」が言いたいのは「忘れるなどということは神にはありえない、私たちが神を思い出さないこともそれと同じくらいありえない」と、その確実さを強調しているだけなのである。ああ、面倒くさい。

以前「コース」は私たちが神から離れたという勘違いを起こしたときに神は私たちを救うために聖霊を遣わした、という言い方をしていた。しかし、ここでは聖霊は私たちの意志によって神から分かたれ生じたものだと言っている。このほうが正確だと思う。私たちのマインドの中には「本来の姿に戻りたい」という意志があったのだ。

目覚めない限り私たちの旅には終わりがない。つまり何百回でも生まれ変わって同じことをする、そういう夢を見続けるのである。そんなものはもうこれでおしまいにしよう、とキリストは言っている。乱暴を承知で言い換えれば「身体という幻想をもって生きるのはこの人生で最後にしよう」ということだ。この夢が終わったら別の夢に移行する、そんな繰り返しはもうやめよう。時間の中で生きるのはもうやめて永劫の中で生きよう。こちら側の世界にいるうちは何も知ることができないのだ。あちら側に到達して初めて全てがありのままに知られ、完全な存在である私たちは完全であるがゆえに永遠に守られるようになる。

さて、再び「特別な愛情関係」についての考察である。ここまでしつこく扱うというのはそれが私たちにとって相当厄介な問題だからだ。生きることは愛することよ!なんて昔からいろんな人がサンザン言い散らしてきたわけだが、それはたいていこの「特別な愛情関係」のことだったりするのである。

まず簡単におさらい。特別な愛情関係は1対1のものであれ集団的なものであれ本質的に分離を促進すものであり、その裏側には恐怖や憎しみや罪悪感が潜んでいる。だからこういう関係には「特別な苦痛」が付き物なのだが、多くの人はそれを「愛するが故の苦しみ」だと思ってしまう。自分の中の罪悪感を相手に投影し、相手に罪悪感を抱かせるべくいろいろな形の攻撃をすることによって自分自身をも攻撃し、その結果自分の罪悪感も増大してしまう。これが愛の破壊でなくて何だろう?

それだけではない。相手に対してすることは自分自身に対してするのと同じであり、ひいては神に対してするのと同じでもあるのだった。特別な愛情関係にどっぷり浸かれば浸かるほど、込み入った形の攻撃(不安や不信感もその中に含まれる)が日常茶飯事になる。つまり、日常的に神を攻撃していることになるわけだ。何と、特別な愛情関係は「神を攻撃するための武器」なのだった!エゴはこうして私たちを心理や天国から遠ざけることに成功する。だからこそ「お互いに特別な存在として愛し合えるんだから特別な愛情関係って素晴らしいものだよ、それがないなんて惨めな人生だよ」と私たちに囁きかけてそれを求めさせるのである。“求めよ、されど見出すな”。見出せるわけがないのである。しかし、特別な人にとっての特別な存在になればそれだけ自分に価値があると思える、それが「救い」になる、みんなそう考えているからこそ必死で「パートナー」を求めるのではないか。

それは全き幻想なのだ。エゴを救ってどうするんですか?「コース」が更に追い打ちをかけて一網打尽にしてくれる。

だいたい、少なくとも今の時代に生きる私たちにとって誰か特別に好きな人ができて、相手からも特別だと思われたい、うまくいかなかったりすればキーッ悔しい!頭にくる!というのはものすごく普通で自然なことだとされている。そんな経験一度もありません、なんて言ったら「おかしいんじゃないの」である。しかし、「コース」の常識は私たちの非常識なのだった。いくら人間にとって自然なことであってもスピリットにとっては不自然だ。なぜならスピリットは人間じゃないからである。

言うまでもないのだが「特別な愛情関係」は閉じていて排他的であり、排他的であればあるほど「特別な存在として愛し合っている」ことになると見なされる。あなたと私二人だけ、ほかの人には入ってほしくないの。大好きな人から「あなたは自分にとって特別な人だ」と思われ、私だけが大切にされる。彼(女)は私以外の人に目もくれない、ああ何て素敵なの、幸せだわ、まるで天国だわ!と思うかもしれないが「コース」に言わせれば何のことはない、それは「地獄」なのである。せいぜいが「天国の仮面をかぶった地獄」つまり幻想である。なぜならそれだけ分離が促進されて神から遠ざかってしまうからである。それに、「素敵、天国だわ」と思える状態にちょっとでもヒビが入ろうものなら「ひどい、くやしい、私だけを見てほしいのに!」で、自分の内外に対して攻撃が始まる。たちまち「地獄」になるではないか。こんなの、少なくともスピリットにとっては自然なことじゃないのだ。

スピリットにとって自然な状態とは言うまでもなく「全てがひとつ」なのであり、本当の愛とはその「一つであること」の中にしかないのだった。私たちが特別な関係を求めるのは救われたいからであり、要するに本当のところは「神の愛を求めている」のである。ただその自覚が全くないので、平気で見当違いなところにどうしようもない代用品を求めて苦しむ羽目になる。ところが、これは代用品どころか単に神と神の愛を否定するものでしかない。だからこその地獄なのである。

私たちは完成されている、というのは「神と一つ」であり更にその状態をどんどん拡大していくことに他ならないのだが、エゴにとっての「完成」とは次々に自らの欲望を満たしていくという意味での「自己実現」(エゴ実現ですね)なのであり、ついには「神をも超える」ことを目指している。神になんか支配されるものか、自分の運命は自分で決めて自分のほしいものは自分で手に入れる!結びつきとか「一つであること」なんか、それが自分=エゴの現世的な損得勘定に合わない限りは前進の邪魔になるだけである。二人だけの特別な関係に別な人たちが入ってきた!邪魔だわ、こんなの地獄よ。そういう感じである。(別に浮気だのハーレム形成だの、そんなことを奨励しているわけではない。それらは全て身体のものであるという点において何ら価値はないのだから、奨励などしようがない)。

特別な愛情関係とは本当に「ヘンテコ」なものなのだ。「あなたと私は一つよ」と言いながら「私たち以外の人々」は排除されている、言ってみれば排除や排他によって「ひとつであること」を実現しようという試みなのである。誰だって別にこれが「ヘンテコで、おかしいこと」だとは思わないだろうが、この世の常識は「コース」の非常識なのだった。

誰もが、何らかの意味で自分にとって価値があると思われる人を好きになったり「特別な存在」にしたりする。言い換えれば、価値があると思えるものを与えてくれる人を選ぶわけである。熱烈に愛される、安心感を与えてくれるなどである。それが結局「蔑まれて虐待される」羽目になってしまえば幻想が幻滅に変わったり、あるいは特別じゃなくなった自分が悪いのだと思い込んだりする。

私たちは、少なくとも相手にとって特別な存在であればあるほど価値があり、それだけ強く愛されると思い込んでいる。そうすれば自分は完全な存在になり救われると思い込んでいる。だからいっそう特別になろうとし、特別だと思われようとして自分を犠牲にさえする。そして相手が自分をどう思っているかを気にかける。それほどでもないみたい、と感じれば落ちこむのだが、これは要するに「私ってダメね」という罪悪感なのである。

反対に、「特別な愛情関係」が一見うまくいっているときは「私はダメじゃないんだわ」と罪悪感を忘れられる。忘れるだけであって、なくなるわけではないことに注意してほしい。

愛されている私は以前とは違う自分になったみたい!ダメな自分じゃなくて特別なものになったみたい!これは幻想の天国、またの名を地獄というのだが、とにかく私たちには大変スウィートで魅力的に感じられるのだ。しかし、幻想の根っこには恐怖があるのだった。ならばこの「特別な関係という天国」は魅力的に飾り立てられた恐怖に過ぎないことになる。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 143

第16章 その6

「特別な愛情関係」とは何も1対1の個人的な関係に限らない。キリスト教を初め、あらゆる宗教やスピリチュアルを基盤にした組織や団体でもこのようなことは頻繁に起きている。「あなたは選ばれた特別な人です」「私たちの仲間に入らないのは救われないダメな人たちです」みたいな、一種の選民思想が生まれてしまうのだ。もしかして「コース」の学習グループでさえこの種の過ちを免れていないかもしれない。

私たちは神から離れてしまったと思い込んでいる。全能の神から離れたのだからそれだけ力を失った、そう感じるのも道理である。バラバラになり身体を持った個人として生きている私たちのマインドの奥底には「偉大なものを失った」という喪失感や欠乏感が常に渦巻いている。だからこそ、それを埋め合わせるために特別なパートナーなどを求めてしまうのだ。身体を持ち身体に支配されてしまっている以上、身体の要求として他者の身体を求めるのが性欲なわけだが、もちろんこれも幻想なのである。何故なら、そもそも身体の存在自体が幻想だからだ。それどころか、私たちのマインドは性的なあれこれにも過剰な意味を付加しているような気がする。そういったものは私たちがわざわざ意味付けをしない限り愛とは何の関係もないはずだし、ましてや本当の愛やスピリチュアルなんかとは全く無縁のはずである。どうも一部のスピリチュアル系においてはこのあたりが混同されているようである。

かくのごとく、エゴによる幻想はエゴにとってはこの上なく現実的であり、どうしたって幻想などとは思えないという様相を呈する。ゆえに、人類もこの世界もそこで起こるあれこれも全て「現実に決まってるでしょ」になってしまうのだ。

神を失った(と思い込んでいる)私たちは、マインドのどこかで強烈に神を求めている。だったらまっすぐ神を求めればいいのに、幻想の中に埋もれてその事実に気付かない・気づきたくないため、実際には「神の代用品」=偶像を求めてしまう羽目になる。偶像は偽物に過ぎず、愛や真理の代用品になることなどありえない。むしろ私たちの罪悪感・恐怖・欠乏感を投影するものに過ぎないので、愛や真理からはますます遠ざかるばかりである。守られるどころかますます危険な方向に流れてしまうのだ。

要するに「自分を何だと思っているのか」これが出発点である。かなり乱暴に整理すると以下のようになる。

私たちは神に逆らった罪深いものだ→神の怒りと懲罰が恐ろしくて仕方がない→そこから何とか自分を守りたい→ダメな自分=幻想の自己=エゴを守ってくれそうなものを求める→当然の帰結として失敗する・・何故なら「自分とは何か」という出発点が間違っているからである!

自分を守ってくれているように見えるあれこれを失うかもしれないと思うと恐怖や不安に襲われるのは当然である。守られなくなるから怖いのではない。本当の自分(と思っているもの)を見るのが怖いのだ。どうしようもなく罪深くて罰当たりな自分、惨めな自分というものを直視するのが怖いのだ。しかし、これは完全に幻想・間違いなのだった!そこがわからないうちはいくらひどい目にあっても懲りずに次々と「新しい特別な関係」を求め続けるのである。あの人はダメだった、今度こそ真のソウルメイトを!彼(女)は、ほかの人とは全然違うの、特別なのよ!ああ、でも結局同じことなのよ。

そういう関係において、ダメで惨めな自分は「よりよい自分」に更新されたように見える。ややこしいのだが、「相手の目に映った自分、と思われるものを自分が見て満足する」、これってもう投影が幾重にもなされているだけじゃないですか!実際よりスマートに見えるような歪んだ鏡が壁一面にある部屋で自己陶酔しているのに似ているかもしれない。

ちなみに「アタクシは素晴らしくてスピリチュアルな人間だから、目覚めていないような程度の低い人は相手にしませんのことよ」という、まあ一見ダメでも罪深くもないような人だって結局は同じことなのだ。何故なら「程度が低い」とされる誰かと釣り合ったのでは自分が「程度が低く惨めでダメな人」になってしまうと考えているからである。方向が違うだけで発想は全く同じなのだ。

特別な関係を構築するのは、宗教の儀式に似ている。お互いに「ダメな自分」を殺して「よりよい自分」に更新しあうのである。この場合の「よりよい」とは神に近いのでも本来のスピリットに近いのでもなく、それとは正反対に「より特別」あるいは「特別な相手に釣り合う自分」という意味合いである。

大多数の人が特別な人との特別な関係を求めている昨今、当然のことながらリーディングに持ち込まれる問題もそれに関するものが非常に多い。だから私も断言できるのだが、みなさん実に「形にこだわっている」のである。別に結婚でなくてもいいのだが「ちゃんとつきあっている」「カップルとして認知されている」など、そこに何らかの形がないと不安で仕方ないのだ。形さえあれば中身はどうでもいい、なんて考えているわけではないだろうが、その中身にしたって「私のことをどれだけ特別だと思っているか」を示すものであれば何でもいいような感じなのだ。でもねえ、目に見え耳に聞こえるもの、言葉や態度、それって中身じゃなくて形なんじゃないですか?そして「コース」も言っている、「特別な関係を求める人は形を求めているに過ぎない」が「愛は形ではなく内容である、特別な関係に内容はない」のだそうだ。私たちの関係には内容だってちゃんとあるわよっ、と思うかもしれないが、ここで言われている「内容」とは真理に合致するもののことなので、分離を基盤にしているところの「特別な関係」においては出る幕がないのである。

守られ救われるために特別な関係を求めたところで、実際に得られるのは自分の中にある罪悪感や恐怖をより強力に投影できる鏡だけなのだ。これは考えるだに恐ろしいことである。お互いに自分を犠牲にしあい、というか犠牲にしていると思い込み、お互いに罪悪感を投影しあって相手に罪悪感を抱かせ、そのような攻撃によって自分が優位に立とうとする。気持ちが通じた、わかってもらえた、などもその実態は「罪悪感を抱かせて優位に立った」ものである場合が少なくない。

特別な関係を構築する「儀式」のもっとも言語道断で恐ろしい点は、それが「神を殺して自分が生き延びる」のを意味することである。神の代わりに偶像をおいて救ってもらおうとするからだ。真理を生贄にして幻想を選んでしまうからだ。もちろん、実際にはそういうことは不可能なのであり、従って「本当は何も起きていない」のである。それと知らない当人にとっては現実そのものなのだから、というかマインドには実際に起きたこととして認識され、その結果としての代価を支払うことになってしまう。すなわち、更なる苦痛を味わうことになるのである。

結局いつもここに戻ってくるのだが、幻想の中に救いはない。幻想を排して真実だけを見ることの中にのみ救いがある。幻想は現実になることができない。なのに私たちは自分が作り出した幻想を現実だと思い込みたがる。全く未知の世界に飛び込む勇気がないから、できればこの幻想の中で何とか間に合わせたいと思ったりもする。しかし、恐怖と幻想とは地続きなのだから、幻想で間に合わせている限り恐怖から逃れることもできなくなるというジレンマに陥る。選択はとてもシンプルなのだ、真実か幻想か?神か偶像か?これだけなのである。なぜこれができないのか?

先ほども書いたように「本当の自分とは何か」という出発点の理解が間違っているからである。直視するのさえ恐ろしいくらいにどうしようもなく罪深い存在だ、と思っていれば「本当の自分」=本当の現実、真実を知ることなどもっとも避けたいに違いない。真実は恐ろしいものだと思い込まれてしまっているのである。そんなの本当は真実なんかじゃなくて幻想なのに、目をそらした挙句に目が曇ってしまってその事実までわからなくなっているのである。おまけに、この世のあらゆる教育・常識は「幻想を現実だと思い込ませる」方向のものばかりときている。どんなものだって、本人がそこに現実感を付与できれば本人にとっては「現実」になってしまう。これを他人ごとでない「自分のことだ」と捉えて常に意識していただきたい。

分離とは、取りも直さず「全てでありひとつであるような本来の自己を知ろうとしないこと」つまり「現実を認めないこと」なのだ。今まで信じてきた「現実」(実は虚構であり幻想である)とその中にあるであろう「希望」を捨てたくない。そんなところにしがみついていたってこれから先も一切希望などないとわかればしがみついていたその手を放すかもしれないが、ここでまた勘違いして死んだり発狂したりする人も多分いるはずだ。絶望の仕方を間違えるからである。

いずれにせよ私たちは、「現実か虚構か」「天国か地獄か」などという、これ以上ないくらいシンプルな選択がなかなかできないのだが、それができるくらいだったら初めから「コース」なんか読んでいないだろう。それがどれほどシンプルな選択であり、わざわざ選ぶまでもないようなことなのかをわかるための「コース」学習なのである。

第229回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 140・141

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 140

第16章 その3

与えることは受け取ることであり、教えることは学ぶことである。これは間違いない。しかしくれぐれも注意してほしい、この原理が正しく働く場合の主体は「バラバラの個人であるワタシ」ではなく「スピリットである私」「全てであり神と一つであるような私」なのである。従ってそういう「私」がいくら与え教えていたって、それと一つではない分裂したマインドである「ワタシ」つまり「エゴたるワタシ」には何が起こっているのか全然わからない。目の前で奇跡が生じていても、つまり聖霊が働いてその作用が明らかになっていても、「何それ〜」で終わってしまう。あるいは、実際には「エゴたるワタシ」という自分が与えたものを見事に受け取っているのにそのことに気付けず「一方的にやられた」などと思って恨んだり怒ったりすることもある。

与える・受け取る・教える・学ぶ。この4つのうち、少なくとも「学ぶ」ことだけには自覚が必要なのだ。でないと与えたことも受け取ったこともわからない。知らないうちに身に付いちゃったような場合でさえ「身についている」という自覚だけは必要だ。でなければ使えない。

エゴにはエゴのことしかわからない。マタイによる福音書第7章、イエスが「偽預言者を警戒しろ」と弟子たちに話しているところで「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」とあるが、「コース」に言わせればこれは自分自身についても適用できる。攻撃してしまったらそれは自分がエゴだと自分に教えていることになるわけだ。しかし、エゴたる自分が相手を攻撃したつもりだったのに何故か相手は癒されて感謝してしまった、なんてことが起こればもう狐につままれた思いになる。エゴにはわからないからだ。

で、「ワタシは何もしてないのに変ね」となる。そりゃそーだ。確かに「エゴたるワタシ」は何もしていない!した「つもり」でも実際には何も起こっていない。だからこそ聖霊が働けたのではないか!下手に何かしたら聖霊の邪魔をすることになる。だからこそ!!邪魔したあなたのほうは目の前で生じているにもかかわらず聖霊のわざを正しく認識できない。

あるいは「ワタシは何もしてないのに、奇跡だわ!カミサマがして下さったんだわ!」と思う人もいる。まあそう言えなくもないのだが、これを「偶然」「僥倖」と捉えて感謝するだけではダメなのだ。せっかく「コース」を学んでいるのだからここはもう少し深く考えてみてほしい。

「コース」は今まで「自分が与え教えたものを見れば、それが自分の中にもともとあったのだとわかるはず」だと言い続けてきた。これは非常に大きな「気づき」なのであり、エゴに支配されてボーッとしていれば「わかるはず」のものもわからないままになる。何しろ私たちは「見ればわかるはず」のことさえ「いくら見ても考えてもわかりません」、そういう地点から始めたのだ。

今までできなかったことができるようになった、今までは絶対ありえなかったことが普通に生じるようになった、これを「進歩」「成長」と捉えることもできるし、ある意味ではその通りでもある。自分の中にもともと神や宇宙とつながっている部分があり、そこが次第に開けてきた、自分はもともとそういう存在であった、受け取ってくれた相手もまた自分と同じような存在だったのだ。それを認めて感謝するなら理にかなっている。

「この自分」などというものを捨て去って「神の道具」になる、そういう考え方もあるしそう考えてもよいと思う。この自分の意志で動くのではなく、御心が自分を通して行われることを求める。すると、奇跡が、愛が、癒しが神によってこの自分を通してもたらされる。目の前の相手はあなたに感謝するかもしれないが、あなたは神に感謝し、目の前にいる「神のひとり子」である相手にも感謝する。目の前で起きていることを見て神の御心と「神のわざ」と力を知る。それは「ワタシ」の力なんかじゃない。これだけでも十分だ。

しかし、「コース」はそこに留まらない。「わたし」というものの概念をすっかり取り替えろというのである。小さく無力な「このワタシ」は本当の自分じゃない、本当の私は神によって造られ神とひとつであるような神のひとり子だ。

私がそうであるなら、あなたも彼も彼女も誰もかれもみんな同じ「神のひとり子」だ。なぜなら全ては一つだからだ。そして私は「神と一つである、一つのマインド」なのである。分裂した挙句たくさんの層を成し、無意識下の願望だの恐れだのわけのわからないものが跋扈しているのに顕在意識はそれを知らず、身体は心のいうことを聞かない。あなたはそんな分裂したマインドの集積物ではない。あらゆるものとつながったひとつのマインドなのだ!

そこに気付けば、それを自覚できれば「与えたもの、教えたもの」を既に自分が持っていたということもわかる。それが無理ならせめて先ほど書いたように「私は自分をなくして神の道具になったのだ」くらいの自覚を持っていただきたい。そうすれば自己についての概念が「バラバラの個人であるこのワタシ」から「もはやワタシとは言えない、偉大な神の道具」へとシフトする。

この種の自覚・気づきがもたらされて「オレはすごいんだ!聖霊なんだぞ、もうできないことは何もないんだ」になってしまったらもう「さようなら、おとといおいで」なのだが、たいていは畏怖の念に打たれ感謝に満たされ、正しい意味で謙虚になる。

一つであり全てである神によって造られたものは一つであり全てである。このことをハッキリ確信できていない限り奇跡は生じない。逆に言えば、「何もしてないしわかってもいない」つもりなのに奇跡が生じてしまったなら、それはあなたの中に「わからないワタシ」ではない「はっきり確信できている存在」があるという証左なのだ。こんなに明らかなものを目にしてもまだ認めない、わからないというのか!いつまで目を閉じているつもりなのか!「コース」はそう言っているのである。

「わからないワタシ」こそ「ひとつのマインド」にとっては他所ものなのだ。そんなものを私たちは「自分」だと思い込んで長年、いや何生にもわたって生きてきたのだ。さまざまなやり方で何らかの気づきを得てもなお、私たちは自分の中に「このワタシ」と「神や宇宙とつながっている私」の両方が共存しているなどと思ったりする。

このようなことはありえないのだ!ありうる、と考えている限り私たちのマインドは文字通り分裂したままである。だって、「自分の中に対立する2つのものがある」と認めていることになるんですよ。これが分裂でなくて何だろう。神とつながった私の他に神ではないワタシも存在する?神とひとつでないものは「存在しない」のではなかったか。

今更ながらハッキリ言ってしまえば、私たちが今まで「自分」だと思ってきたものなど本当は「ない」のである。そんなものは「ない」!無限の宇宙の外には何もないのと同じことなのである。宇宙=神=私、だからだ。

(聖霊は私たちの中にあり私たちを、また私たちが無意識であってもマインドを開いてかかわった全てのものを守っていると「コース」は書いているが、スピリットならば本来守りなど必要としない。神と分裂してバラバラになったという最初の思い込みさえなければ「神と私たちとをつなぐ」ための聖霊など不要だったのだ。聖霊は私たちが本来の自己に戻る旅路のガイド役ゆえ、旅が終わればその役割を終えるのだろう。)

全てはありのままに、もとの姿のままに常に今ここにある。今の私たち(のマインド)だけがそのことに気付いていない。自分があるいは周囲の誰かが愛や平和や感謝に満たされるとき、私たちは「これが本来の姿なのだ」という自覚を持とう。「教え学ぶ」とはそういうことだ。ひとりでいるときでさえ、突然何もかもがありがたく思えて得も言われぬ幸福感に襲われるようなことがある。これは自分自身が教え示したものを自分が認識し、受け取って学んだのである。エゴであれ聖霊であれ「教え示す」のに特定の対象は要らない、というかこれはまず常に自分自身に対してなされていることなのだ。その結果が「認識」となって現われ、私たちはそこから学ぶようになっている。

聖霊とつながっているところの「私」、これを大切にして愛することこそが真の意味での「自己愛」である。ただ、そのときにはいわゆる「この自分」などというものは既に消え失せている。そうなってみればわかることである。

「コース」の記述には象徴的な表現が多用されている。ここでも「分裂した自己から大いなる自己への架け橋」なんて書いてあるが、まあ要するに私たちは学びの途上にあるということだ。具体的に「私A」から「私B」に移行するなんてことはありえないし、仮にあるとしたらこの世=虚偽の世界での多重人格者くらいなものだ。本当の現実は常に不変であり、本来の自己は常に今ここにあるのだから、余計なものを落としていけばイヤでも本来の自己だけが残ることになる。以前も書いたように学びとは全て自覚と気づきの問題なのである。

神の道具となることについて。私事だが、旧約聖書詩篇にある「主よ、わが岩よ わが贖い主よ。 わが口の言葉 わが心の思いを御心に適わしめたまえ」、大昔からこの章句が大好きで座右の銘のごとくにしている。(いま普及している共同訳では少し違った文章になっている。)

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 141

第16章 その4

以前にも出てきた「特別な人との特別な関係」について更に深い考察がなされている。解説に入る前にちょっと注意事項。こういうことについて学ぶにあたって「特別な関係なんてないわよ、だって別につきあってるわけじゃないもの」なんて言い草は一切通用しない。問題になるのは常にあなたのマインドだけだからである。ゆえに、誰かに一方通行の思いを抱いている人もそれどころか一生会う可能性もなさそうなアイドルのファンであるというだけの人も「私には関係ないわ」などと思わず「自分の問題」としてお読みください。

さて、多くの人が「特別な人との特別な関係」を求めるのは簡単に言えば救われたい・守られたいからである。何から救われ何から守られたいのか?恐ろしい世の中でも悪魔でもない。それらは自分のマインドの投影に過ぎない。ということは、私たちは自分のマインドの中に巣食っている恐怖や罪悪感や怒り・憎しみなどから身を守ろうとして「特別な関係」に逃げ込むのである。いわば「避難所」を求めているのだ。

このような関係には「怒り」と「罪悪感」が不可避的に伴うものだった。となれば、特別な関係の背後には常に「憎しみ」が潜伏していることになる。しかも、厄介なことに当の本人はそれを自覚していない場合が多いのだ。特別なあの人に対する気持ちの中に憎しみなんてものがあってはならない!あるはずがない!そりゃあちょっとは頭に来るけど、それは愛しているからよ!そう思いたいからそう思い込む。見なかったことにする。そのほうが楽だからである。

そもそも、多くの人が「特別な人との特別な関係」を求めるのはそれによって救われたい・守られたいからである。何から守られたいのか?恐ろしい世の中、ではない。それは自分のマインドの投影に過ぎない。ということは、私たちは自分のマインドに巣食っている数々の憎しみや罪悪感や怒り・恐怖などがあまりに恐ろしいので「特別な人との特別な関係」を作ってそこに逃げ込もうとするのだ。いわば避難所である。

罪悪感や憎しみ、そういったものを私たちがどれほど恐れているか、それについても私たちはあまり自覚していない。エゴの策略が功を奏してうまく誤魔化してこられたからだ。しかし、これはもう殆ど死の恐怖と同じくらい強烈なものなのである。だからこそどうしたってマインドには逃げ場が必要になる。

もちろん、いくら逃げたつもりでも見ないふりをしたつもりでも、マインドに巣食ったあれこれが消えてなくなるわけではない。そしてそこから目を背けている限り救いはもたらされないし、真の愛もわからないままなのだ。「コース」は言う、「直視しろ」。間違いは、それが間違いだと認めない限り正すこともできないのだし、前に教えられたとおり何かを隠そうとすればマインドを閉じることになり、愛や救いをもたらすはずの聖霊をもシャットアウトしてしまうようになるからだ。

特別な関係の中にも外にも憎しみは潜伏する。守ってくれるはずの相手がいずれは憎むべき相手になってしまうこともある。幻想が壊れて幻滅に変わる、これも全然珍しいことじゃない。

憎しみは神のものではないから本当には存在しない、すなわち幻想である。一方で愛は幻想ではなく「変わることのない」事実である。愛と憎しみとの間には何の関係も「ない」。ゆえに真の愛が憎しみに変化することなどありえない。絵に描いた月が本物の月に変わることなどありえないのと同じである。そして、冷めたり幻滅したりするようなものならそれは愛じゃない。幻想の愛、あるいは愛と呼ばれる幻想に過ぎないものだ。愛という幻想が冷めて憎しみという幻想にとってかわることならしょっちゅうある。その逆に、幻想の愛がやはり幻想である憎しみに打ち勝ったように見えることもある。いずれにしろ、勘違いまみれのマインドの中の喜悲劇というかドタバタ劇に過ぎないわけだ。ま〜、身体として生きている間の暇つぶしくらいにはなるんだろうが、あまりにもバカバカしくないだろうか。

これって結局各人の好みの問題なのよね、と私は考えている。好きで幻想を選んで好きでドロドロ、バタバタを繰り返しているのだ。こんなこと好きでやってるわけないでしょ!と言われるのは間違いないが、じじつ「好きでやっている」のである。マインドが分裂しているのでそれがわからないだけなのだ。

と、ここに結構衝撃的な記述があるのでそのまま引用する。「生活の中のどんな局面においても(つまり公私どちらでも)、他の人たちとではできないようなことを一緒にやるために特定の誰かをパートナーに選ぶ人々は、罪悪感のために死んでしまうより罪悪感とともに生きることを選んでいるに過ぎない」。何とまあミもフタもないのだが、要するに愛や救いを求めたつもりで罪悪感を求めてしまっているだけだ、と言っているのである。

おかしな話だが、「いま平和で幸せだから愛を求めている」なんて人はほとんどいないと思う。たいていの場合、「このままだと苦しくてたまらないから愛がほしい、愛し合える関係がほしい」と、それこそ「必死の思いで」求めるのである。これじゃあますます絶望的な状況になるだけなのは投影や引き寄せの原理からみても明らかだ。

上述したように、愛と憎しみとは何の関係もないし共存もできない。一方は真実で他方は虚偽だからだ。そしてマインドのどこかに「憎しみ」がある限りにおいてあなたは「虚偽」を信じ「虚偽の世界」に生きていることになる。つまり本当の愛は得られない。あの人のことは大嫌いだけどこの人のことは愛しているの、というならその「愛」は言うまでもなく「愛という名の幻想」に過ぎない。

多くの人がこの二つの幻想の間を行ったり来たりしている。憎しみやら恐怖やら、そんなものが現実にあると思っているうちは本当の愛など得られないのに、救われたくて本当の愛を求めようとする、そのつもりで実は「幻想の愛」を求めてしまっている。こっちの幻想に幻滅したから次はあっちの幻想、てなもんである。どちらを選ぶか、なんて全然問題じゃないのだ、だってどうせ両方とも幻想なんだからさ、結局似たようなものなのよ。出口なしの救われなさである。

とはいえ、いきなり真実の愛を求めるのは無理そうなので、まず私たちがやるべきなのは「間違いを間違いだと認めること」である。真実の愛を求めるのに邪魔になっているものを見極め手放すことである。簡単に言えば「恐怖を手放す」ことである。なぜなら、どんな形をとっていようともあらゆる幻想の根っこには恐怖があるからだ。

そんなこと言われても!と思うかもしれないが、とりあえず「自分以外のものに救いを求める」のは止める!と決心してみよう。なぜならば「絶対に失敗する」からだ。自分の(マインドの)外側には「何もない」のである!それどころか、自分以外のところに愛を求めている時私たちは自分の中の憎しみから目をそらそうとしているだけなのだ。まずそこをしっかり自覚してほしい。

自分以外のところに愛や救いを求める人々も結局は「愛や救い」を求めていることには違いないのだが、見当違いのところでいくら頑張ってもダメなのである。いくら必死になって求めても今一つうまくいかなかったのは探し方が間違っていたからだ、ここだけはどうしても認めなくてはならない。このあたりは引き寄せの原理からみても正しい。まず自分が愛に満たされていればより多くの愛が引き寄せられてくるはずだからだ。欠乏感から出発していたのでは更なる欠乏を引き寄せるだけになる。

とにかく「特別な人との特別な関係」なんか求めてしまった日には、愛を得るどころか破壊する結果にしかならないのだ!だって真実を犠牲にして虚偽を選んでしまうんですよ!偽物の一体感は結局「更なる分離」なんですよ!「コース」は別に今のパートナーと別れろとか今の恋を諦めろなんて言っているわけではない。その特定の誰かから特別な何かを得ようとするのをやめればよいだけの話だ。それで壊れるような関係なら、大事に守ろうとしたところで早晩絶対に壊れるだろう。たまたまか「過去生からのカルマ」か、この世でのご縁というものは確かにあるわけだが、それをあまり重大にとらえないほうがよいのだと思う。どうもスピリチュアル系の方々は「魂のパートナーだ、ソウルメイトだ」と、とりわけ特別な相手を求めたがり、しかも運命論的な考え方に傾きがちなので注意していただきたい。

スピリットとしての私たちが休みなく創造してきたもの・し続けているもの、それは確かに私たちの中に存在している。それらの存在に気づいたとき私たちは自らが「何一つ欠けるところのない完全な存在」だという事実にも気づく。もはや自分以外のところに何かを求める必要もないとわかる。この地点からなら罪悪感を全く伴わない完全な関係が可能になる。スピリットとして創造するものはあらゆる存在を包含しているからだ。全てはひとつ、特別なものなど初めからありえないのである。

神がそうであるように、私たちもまた完成されている存在だ。全てであるような一つとして完全な存在であるならば、自分に欠けているものを何かで埋め合わせる必要など全く生じない。欠けていると思うことじたいが勘違いの幻想なのだ。それもこれも全て「神から離れてしまった」と思い込んだことに端を発している。特別な人がいないなんて!私は誰かの特別な存在じゃないなんて!そんなのは淋しい、と考えないでいただきたい。これほど豊かな状態はないのである。もっとも、これもまた「そうなってみないとわからない」のだからあまり考え込まずに前に進むことにしよう。

第228回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 138・139

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 138

第16章 その2

感情移入の巻、まずエゴ篇である。言うまでもないことだが、エゴによる感情移入の主役=主体はエゴである。自分のエゴが相手のエゴに感情移入するわけだ。エゴは私たちの意識を「神からどんどん離れさせる」ことで自らを保全しようとする。神から離れれば(そういうことは実際にはありえないのだが、マインドはそのパワーによってどんな錯覚でも妄想でも現実化できてしまう)マインドはそれだけ弱まる。無限の力の源泉から遠ざかればそれだけ弱まるに決まっているではないか。相手の苦しみに共感するのは相手を力づけるためだと思うかもしれないが、実際には「間違いを現実にしてしまう」事態がますます強化されるので、結果エゴだけが強化されマインドそのものは弱体化することになる。簡単に言えば、エゴによる感情移入はエゴを強化させ、救いや癒しからマインドを遠ざけるだけなのだ。もっともわかりやすい例としては、落ち込んでいる相手とかかわっているうちに自分も落ち込んでしまうケースが挙げられる。うつが伝染る、ということもある。

更に、エゴの感情移入とはだいたい「苦しみをわかってもらう」ことだと相場が決まっている。それができればできるほど相手は「素晴らしい、特別な人」だということになる。何のことはない、自分の妄想を否定しないで現実だと認めてほしい、そう言っているに過ぎないわけだ。おまけに、苦しみとは必ず「過去に起きたこと」が原因になっている。一分前の出来事でも10年前のそれでも良いのだが、それが現在において苦しさをもたらしているわけだ。となると相手の苦しみに感情移入するとは、「ない」はずの過去を「現実」にしてしまうことになる。やはり間違いの強化である。

また当然のことながらエゴの感情移入は特定の条件下においてのみ可能なものである。たとえばお金に困ったことのない人はお金で苦しんでいる人に感情移入しにくいし、戦争を経験していなければ戦禍で苦しむ人々には感情移入しにくい。つまりエゴの感情移入は普遍的ではないのである。同じ経験をしたことがないというだけで「あの人にはわからないわ」になってしまう場合も少なくない。そうでない場合、つまり実際に経験したことがなくても感情移入できるのは、たとえば本や画像や映像から情報を得ていたり、あるいは誰かの話を聞いたり身近に似たような人がいたりして、つまりいうなれば「疑似体験」みたいなことをしていたために想像力が働くからである。これらの疑似体験もまた全て「過去」においてなされたものであり、言い換えればエゴの感情移入とは過去に基づき「過去を共有」することでもある。ところですべての過去は幻想であり実際には「存在しない」ものだった。となると、エゴの感情移入はやはりどうしても「ないものをあると思い込む間違い」を強化することにしかならないのだ!

またまた更に、苦しみをわかってあげたとかわかってもらったとかいうこと自体が既に「勘違い」という場合さえある。それぞれがそれぞれのマインドの中にあるものを投影しあっているからだ。実際にはまったく別のことを想像していても「わかるわ〜」とか言って一緒に泣いてあげれば「わかってくれた」になり、後日その「誤解」が明らかになれば「わかってくれたと思っていたのにひどい!」になる。

ここまで見てきただけでも十分ウンザリしてしまうが、極めつけ、エゴの感情移入は癒しや救いをもたらすどころか「マインドを弱体化させるための攻撃」に過ぎないと「コース」は言っている。

例の「和尚」はこう言っている。「あなたたちは幸せな時はひとりでいるくせに、辛いときや悲しいときだけ人前に出てきて泣く。」

苦しみを「分かち合う」ことこそシェアだ、魂の叫びだ、オープンでスピリチュアルなコミュニケーションだ、と思っている方も多いのではないか。でもこれって単に毒ガスをまき散らしているようなもんじゃないの?ハタ迷惑というかマナー違反じゃないの?と普通に考えてもそう感じる。

じゃあどうしたらいいの?やっぱり聖霊に委ねるしかないのである。自分自身では何もするな、何かできるとも思うな、だってあなたたちは癒しがどういうものかさえわかっていないのだから。むしろ聖霊の邪魔をしないように自分をひっこめろ。この人が今どういう状況にあって何を求めているのか、私はどうしたらいいのか、など自分自身で判断しようとするな。自分自身の判断で「良い」と思われることをするな。

つまり、正しい意味で謙虚になれと言っているのだ。どこまでいっても聖霊が教師で私たちは学習者なのである。教師をさしおいて生徒が勝手にあれこれ判断して動いたら危険きわまりないではないか。そんな、見たこともないような聖霊なんかに頼れるもんか、などと思ってはならないのである。目の前で苦しんでいるこの人に対して何とかしなくては、何かしてあげなくては、という気持ちさえ捨てるのだ。ただ聖霊に全てを委ねてマインドを鎮めるのである。そして具体的にどうするか?あなたにはわからない、わからなくていいのだ。言葉としてはエゴの感情移入と同じように「わかるわ〜」というかもしれない。微笑むかもしれないし大笑いするかもしれない。泣くかもしれない。もしかしたら絶叫するかもしれないし相手をひっぱたくかもしれない。それでもいいのである。本質と表現とは別物だということを忘れないでほしい。

聖霊に従えば、私たちは相手の表面的な要求と真の要求の両方を満たしてやることができる。「ちょっとあの人殺してきてよ」という要求、つまり「とんでもないように見えて実はどうでもいいこと」は、実はすべて「愛と助けを求める叫び」なのだった。その両方を満たすというのは、本当に誰かを殺してきてあげることではない。それでは自分も相手も傷つけることになる。聖霊の導きによって対応するならば、相手は自分のメチャクチャな表面的要求が拒絶されたとは感じないものなのだ。まあ簡単に言えば「満足してしまう」というか「どうでもよくなって落ち着いてしまう」わけである。このあたりが文字通りの内容として誤読されたら、と思うとゲンナリする。かといって「あなたのそのとんでもない要求は、実は愛と助けを求めているんですよ。とんでもない要求には応えられませんが愛と助けなら与えてあげましょう」と聖霊がいうわけでもない。あなたが相手にいきなりこんなことを言っても絶対納得されないだろう。

論理的にはガックリくるほど簡単なことなのだ。癒されていないものが癒すことはできない。まだ癒され解放されていない私たちが、その分裂したマインドの部分で相手を癒し救うことはできない。それは完全に癒され救われている、というか元からそんなものを必要とさえしていない聖霊にしかできない技なのだ。自分にできないことを完全にできてしかも親切な人がすごく身近にいたら自分に代わってやってもらう、これは当たり前ではないか。いやよ、どうしても私が全部自分でやりたいの!というのはたぶん「私が」感謝されたい、認められたいと思っているからであって、つまりエゴなのである。

残念ながらそれは不可能だ。誰だって「この私」でいるうちは絶対にできない芸当だ。なぜなら「スピリットでないこの私」にはそういう能力が備わらないことになっているからだ。そして自分自身が聖霊とひとつであるスピリットになってしまえば、もはや「自分が」やっているという感覚は消失する。

相手のエゴにではなく聖霊に感情移入しろ、そんなことを「コース」は言っているが、これはたとえばまずともかくも感謝の気持ちでマインドを満たしてみるとかそういうことだと解釈してよいと思う。聖霊の導きを得られる状態のマインドになっていなくてはならないからだ。そのためには聖霊と同じ波長になっていなくてはならないからだ。

エゴによって感情移入しあうような関係に愛はない。これもかなり衝撃的な事実だと思う。通常はそういう関係こそもっとも愛に満ちたものだと考えられているからだ。愛と犠牲を混同するのと同じ類の間違いである。もちろん癒しは愛の力によってなされるのであり、エゴとは共存しえない。エゴあるところに癒しは起こらない。

奇跡を為すものになりなさい、癒しを為しなさいなどと散々言っていた「コース」がここにきてやっと「奇跡はあなたたちが起こすものではない」と言い出した。まあこれは当然すぎるほど当然のことなのだが、miracle workerという言葉もまた誤読されれば「さあ奇跡を起こそう、頑張ろう」なんて力んでしまう人が出てくるだろう。ローバ心ながらそれを懸念したため、今までこのブログの中では奇跡も癒しも「もたらされる」「生じる」という表現を使ってきたのだ。

奇跡も癒しもその本質からして条件さえ揃えば「自然に、イヤでも生じてしまう」ものなのである。私たちの役割は、それらが自ら生じるのを邪魔しないこと、それらが生じるためのマインド環境を整えることなのだ。「コース」学習もそのためのものだ。

奇跡を起こしたい!という願望の中には「特別な能力をもった特別な人になりたい」という願望が隠されている。言うまでもなくこれはエゴのものであり「すべてはひとつ」と正反対の方向を目指すもの、癒しや救いを得るどころかその可能性すら摘みとってしまうようなものである。別に病気や怪我を治すような現象に限らない。ここでこの人を慰め元気づけてあげれば奇跡が起こって愛が芽生えるかもしれないわ、お金を貸してくれるかもしれないわ、というようなものも含まれるのだ。そういうことって誰でも一度や二度は覚えがあるんじゃないだろうか?でもねえ、それってエゴでしょ。エゴに奇跡は起こせません。奇跡のように見えたとしてもそれは「コース」のいう奇跡ではなく「魔術」なのである。これでは「すべてがひとつである神のひとり子」の境地にはなれない、つまり真の癒しも解放も得られないのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 139

第16章 その3

この世における「要求」と真の要求とはどう違うか?この世では誰かの要求をかなえてやれば別の誰かの要求はかなえられなくなるようなことが普通に起きる。ひとりの人の中にさえ同時には叶えられないような相反する要求がある。Aが成立すればAと相反するBは成立しない、こんなのは当たり前のように感じられる。しかし聖霊においてはまるで違っているのだ。何しろ「相反する要求」などというものはなく、いろいろな形をとって現われるように見えても真の要求はただひとつ「愛と助けを求める」ものだけであり、その愛とは真の愛に他ならない、つまり普遍的な愛なのである。特定の誰かにだけ向けられるようなものではない。

聖霊を通してなされるものは、言い換えればスピリットとしてなされるものは目の前の相手に向けられているように見えて実は「あらゆる存在」に対して向けられている。あらゆる存在は「ひとつ」であり、スピリットも「ひとつ」なのだからスピリットとして相手のスピリットに働きかければそれは「あらゆるスピリット」に働きかけたのと同じことになるのである。もともと「全てがひとつ」なのだから部分も全体もないのだ。部分の中に全体があり、どの部分をとってもそれが丸ごと全体と同じものである。

この論理に従えば、誰かにだけこっそり何かしてあげるというのは不可能になる。部分に対してしたことは全体に対してもしたことになる。これはとんでもない事態だと思うかもしれない。が、だからこそ「奇跡」なのである。奇跡はその性質の中に「無限に広がる」という要素があるのだ。だいたい、奇跡とは「通常の理解を超えたもの」つまり「奇跡的」だから奇跡と呼ばれるわけであって、そんなもの起きて当然よ〜と思う人は今更「コース」学習など必要としないはずだ。

だから、今の私たちのアタマで理解できるとか理解しようなどと思ってはいけないのである。分裂したマインドに理解できるようなものではない。だが、理解していなくても生じるものは生じるので安心してほしい。私たちの分裂したマインドには理解できなくても、マインドのどこかでは理解できている、だからこそ奇跡を受け入れることもできる。そのようになっているのである。現時点では理解できないものを受け入れられない、という姿勢を捨てることがここでは重要なのである。

奇跡は本来このうえなく「自然」なものなのだが、私たちにとっては「理解を超えた不自然なこと、当たり前ではないこと」と感じられる。それは、私たちのマインドが本来の自然な状態ではなくなってしまったからであり、その逆転を回復させるためにこそ奇跡などというものも必要になったのだ。

毎度のことながら「コース」の常識は私たちの「非常識」である。今の自分の常識でとらえよう、理解しようとしてはならない。だからこそいつも「わからなくても受け入れられなくても構わず前に進め」と言われるのである。言い方を変えれば、理解できないことは聖霊にあるいはスピリットに任せればよい、学んでいるうちにわかるようになるだろう、くらいに思っていればよい。

理解できないことはやりたくない、そう思っていると奇跡・・つまり本当の現実を受け入れることができなくなる。頭では奇跡を望んでいるつもりでも実際には拒絶している状態になってしまうのだ。理解できないことを実践するのは危険に思われるし少々勇気がいる。しかし、宇宙のすべてを理解しているわけでもない自分のアタマで考えるのと聖霊に従うのと、実際にはどちらが危険でどちらが安全か考えてみてほしい。今まで自分が理解していると思っていたこと、真実だと思っていたことはすべて間違いなのかもしれない、くらいの気持ちでいていただきたい。自分が閉じ込められている牢獄の外に素晴らしく安全で幸せな世界があると聞かされても、慣れ親しんだ牢獄を出るのは恐ろしい、それではあまりにもバカバカしく勿体ないではないか。

奇跡がどこでどのような形でもたらされるか、分裂したマインドの私たちにはわからない。予想したり期待したりしてしまえばそこに「囚われ」が起きる。考えも及ばないような形で奇跡がもたらされるのを怖がるようになる。少しでも予想と違うこと、一見「悪くなった」ように感じられることが起きると、もう一気に拒絶→恐怖モードに入ってしまう。そしてもたらされるはずの奇跡を、それがすぐそこまで来ているのに、受け入れらない状態になってしまうのだ。歪んだ知覚機能によって認識された現象に囚われてしまうためである。やっぱり世界は災いに満ちているんじゃないか、そう思えて常に心配していないと安心できなくなる。

忘れてはならないことがある。聖なるもの=神によって造られたものには無限の力がある。そして私たちは本来聖なるものである。私たちの中にはスピリットがあり、というか私たちはスピリットなのであり、聖霊は私たちの中にありスピリットと一つのものでもある。ゆえに!実は、日常生活において私たちにはしょっちゅう聖霊の声が届いているのだ。聖霊もスピリットも「すべてでありひとつである」ゆえ、それらは常にあらゆるところに遍在している。誰かのちょっとした言葉、ふと心に浮かんだ考え、目についた何か、身近な人とのいつものような会話、どこにでも聖霊は介在している。以前学んだことを思い出してほしい。私たちの姿勢ひとつで、すなわちマインドを開く用意さえあれば、あらゆるところに聖なる瞬間をもたらすことができるのだった!しかし私たちはそれらの機会を無視し、素通りさせてしまう。もちろん、たまたま聖霊に従って判断→認識できているときもある。生まれてこの方一度もそんなことがなかった、なんて人は絶対にいない!ただ忘れているだけである。たまたまであってもとにかく聖霊によって認識していたのだから、そこでは間違いなく喜びが私たちのマインドを満たしていたはずである。とんでもない修羅場になるはずだったものが何故か平和に解決してしまったりする。こんなに楽で幸せなのだったら今度からはいつもこうしようと考えたっていいだろうに、たいていはそうならない。そこでもたらされた喜びや幸せが聖霊あるいはスピリットに従った結果だと自覚できていないからである。つまり「学び」になっていないのだ。なぜかわからないけどたまたまそうなった、ラッキー、とか「自分は特別なんだ」あるいは「この人は特別なんだ、救ってもらおう」などと見当違いの解釈をしたりする。そしてまた「自分が作り上げた思い込みの現実」世界に戻ってきて、たとえばそこで味わった喜びを再び自分のものにすべく虚しくも見当違いの努力を始めてみたりもするのだ。だから、今こそ自覚的に聖霊の「聖なる考え」を持ってあらゆる現象を認識しなさい、それらの持つ無限の力を知りなさい、そのようなことを「コース」は言っている。

バラバラの個人としての私たちは「自力」で問題を解決することなどできない。スッキリ解決できちゃった、あるいは「初めから問題なんかなかった」みたいになるのは「このワタシ」の力ではなく、聖霊やスピリットという「すべてでありひとつである神」という無限の力の源泉と直接つながった力なのだ。じゃあいつもそことつながっていよう!と思って、力んでエゴ的にスピリチュアルな努力をしてみたところで何にもならない。そのためにはただマインドを「オープン」にしておくこと、その方法は以前述べたとおりだがここに別のヒントが書いてある。いわく「愛があなたに求めるものは幸せでいることだけだ」、つまり特別な理由などなくても心底豊かでハッピーな気持ちでいれば私たちは自分の中にあり実は自分自身でもあるところの真の愛と触れ合えるのである。なぜなら「愛はあなたを幸せにするものなら何でも与えてくれる」からである。逆に言えば、真の愛がない限り幸せにはなれないのだ。そして、真の愛は常に至るところに、私たちの中にあるのだった!真の愛をどこか特別なところに求めれば、その時点でそれはもはや「普遍的な愛」ではなくなってしまう。

さて、与えることは受け取ることであり、教えることは学ぶことであった。ならば教えることは受け取ることでもある。

私たちはその気になれば、つまり「人を見たら聖霊だと思え」ば、あらゆるところから学ぶことができる。ふーん、だったら私がいくらエゴまみれでダラダラしていても、ちゃんとした人は私から学べるわけね。確かにまあその通りなのだが、それではあなたが学ぶことも受け取ることもできなくなってしまいます。

実際にそういうことが多々あるのだ!誰かがあなたから愛や自由を学び受け取った。なのにあなたは愛も自由も味わっていない。どうすれば愛や自由が得られるのかわからないままだ。自分が教えたものを見れば学べるはずなのに?

これこそが、愛や自由を教えたのは「このワタシ」なんかではない証拠なのである。じゃあ何なのか?それは明らかだ。今のあなたが気づいていない「自分」、すなわちスピリットとか大いなる自己などと呼ばれるような「すべてでありひとつであるような私」があり、その「私」が教えたのである。その「私」には既に愛も自由もあるからそれらを教え与えることができたのだ。

しかし、少なくとも「コース」を学ぶ以前の私たちはなかなかそのことに気付けない、自覚ができない。さきほども書いたように「たまたまそうなっちゃっただけ」のようにしか思えない。目の前の誰かがあなたに癒されたといって感謝していても「どうなってるの?私は何もしていないのに・・・。この人、何か勘違いしちゃってる?おかしいんじゃないの?」とさえ思ったりする。教えることは学ぶことであり受け取ることでもあったのに、なぜそれがうまくできないのだろうか?

第227回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 136・137

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 136

第15章 その10

少しでも罪悪感があるとき私たちは神に背を向けている。罪悪感か愛か、エゴか神か。常にどちらか一つしかマインドには選べないのだった。ちょっとは罪悪感があるけどちゃんとカミサマのほうを見ているわ、というのは不可能なのだ。

エゴか神か、どちらを選びますか。そう訊かれれば「コース」を学んでいる方々ならもう「神に決まってます」と言うだろう。でもそういいながら「特別な人との特別な関係」を望んだりそれにこだわったりしてはいないだろうか?お互いに学びあうスピリチュアルなパートナーがほしいの!などと思ってはいないだろうか?傷つくのなんか愛していれば当たり前よ、愛するもののために犠牲を払うなんてスバラシイことだわ!と思っていないだろうか?

愛と犠牲は全く相容れないものである。愛は犠牲など必要としない。犠牲を必要とするのはエゴだけなのである。犠牲を払うことによって見るものに罪悪感を抱かせるという攻撃の一つの形なのだ。それじゃあ、愛と犠牲がワンセットだと思っているとどうなるのだろうか?

まず、大いなる愛にはそれだけ大いなる犠牲が伴うと思いこむことになる。犠牲が大きければ大きいほど崇高な愛だということになる。だったら神の愛ほど大きな犠牲を要求されるものはない、おそろしい、ということにもなる。しかし、それは当人の罪悪感のせいなのである。罪深い自分が救われるためにはそれだけ多くの犠牲を払う=罰を受ける必要がある、と思ってしまうのだ。そしてこれがまた恐怖になる。

目の前の或いは心の中の誰かとの関係で生じる犠牲や忍耐なんて、カミサマの愛を得るために必要な犠牲や忍耐に比べれば全然大したことないわ。だってカミサマの愛を得るためには命を捧げたり何もかも失ったりしなくちゃならないんでしょ。イエス様とか殉教した聖人たちもそうだったでしょ。そんな怖ろしいものなら要らないわよ、だったら私はこの人でいいわ。それに私だけが我慢したり犠牲を払ったりするとは限らないじゃない?うまくやれば相手のほうが多く犠牲を払ってくれるかもしれないじゃない?カミサマが相手だったらそうはいかないものね。

あ〜あ、この方は欲をかかずに謙虚になったつもりがエゴの餌食になってしまった。愛はかくして取引になり「食うか食われるか」「どちらがより傷つくか」の戦いになってしまった。神に守られるどころか、神から自分の身を守る(しかもエゴによって!)つもりになってしまった。全て、「愛には犠牲がつきものだ」という思い込みのせいである。

断っておくが、犠牲とはその当人が犠牲だと思わなければ成立しないようなものである。何かのために何かを捨てた、それが周囲にとってはいくら「犠牲」に見えても当の本人にとっては全く違うものかもしれないのだ。卑近な例だが、素晴らしいキャリアを築いてきた女性が出産して仕事を辞めた。周囲には「子供のためにキャリアを捨てた、犠牲にした」と映るかもしれないが、本人にとっては至極自然なことであって犠牲でも何でもなかったりする。キリストの磔刑でさえそうだったではないか。そもそも「犠牲」という発想じたいがエゴのものなのである。逆に言えば、自分について何かを「犠牲にした」と感じるとき、そこに愛はなくなっている。

ともかく、神よりエゴがよいのかもしれないと思うこと即ち「神は恐ろしい存在かもしれない、神に忠誠を誓ったらとんでもない目に遭わされるかもしれない」と考えることじたいが大間違いなわけである。

前回にも書いたことだが、私たちにとってまず何を措いても必要なのは「間違い」をありのままに直視すること、間違いを間違いだと認めることである。愛か、愛でないか。愛でないものは全て間違いなのだ。しかし、この世で「愛」と言われているものは往々にして恐怖や罪悪感だから始末が悪い。エゴはとても狡猾にあなたを欺き騙すのだ。誰だって「私のこの気持ちが愛じゃないなんて!」認めたくないだろう。しかし、それを認めない限り誰もこの世で「愛」と呼ばれているものに伴う苦しみから逃れることはできないのである。救いについても同様だ。大きな犠牲を払った人ほど救われる、私は救われたいけど犠牲を払う勇気なんかない、どうしようと思って苦しむ人もいるだろう。しかし!不要なもの、あるいは自分にとって有害なものを手放すのが犠牲と言えるだろうか?なあんだ、こんなものが大切だと思ってたなんてバカみたい、そういうふうに何かを手放した人は自分が「犠牲」を払ったなんて全然感じないはずなのだ。「コース」は、犠牲など全く不要だと言ってはいるが、かといって何も手放さなくてよいとは言っていない。間違いは手放さなくてはならないのである。問題は、その間違いを「実体のある現実・真実」だと思いこんでいるうちは手放す気になれない、手放すのが怖いということだ。だから「直視しろ」になるのである。

エゴに従えばその代償ははるかに高くつく。しかし、エゴは狡猾なので「自分に従えばあなたは安全だよ、得するよ」と囁くのである。悪いことは全部誰かの、何かのせいにしてしまえばあなたは「いい人」「正しい人」でいられる。怒りや罪悪感はマインドの中で蓋をされ抑圧されて見えなくなっている、つまり「見なくて済む」ようになっている。しかしその代価は「一生の間、それどころか生まれ変わった後でもずっと続く苦痛と不幸」である。まあ、どちらを選ぶかは本人の好みなのだし「不幸でもいいから自分のことをいい人だと思いたいの!」と言われれば私にはもう何も言うことがない。

「コース」には書いてないのだが、エゴの謀略に騙されるのを怖れ、それによるダメージを怖れる場合はどうなるのだろうか?それもまた「恐怖」の一つには違いないのだし、恐怖である以上愛ではない。つまり、この場合の処方箋も同じだということになる。エゴは確かに始末が悪く恐ろしいものである。が、所詮それはマインドの寄生物であり、私たちが作り上げた空想上のロボットに過ぎず実体はない。つまり、警戒する必要はあっても怖れる必要はないわけだ。

いつのまにか私たちは自分以外の全てのものが自分に犠牲や我慢を強いるかもしれない恐ろしい存在になる可能性がある、と思いこむようになってしまった。しかし、自分以外の誰か・何かが私たちに犠牲を強いることはない。そうしているのは実は他ならぬ私たち自身なのである。つまり、投影しているのだ。嫌なものや怖いものつまり「地獄」が常に自分の中にあれば相当不愉快なはずなので、それらを「自分以外の何か」だと思うことにして追い出したつもりになっているだけだ。それを私たちはなかなか認められない。まさか、私が自分で自分に犠牲を強いるなんて、わざわざそんなことするわけないでしょ!と思いこんでいるのだ。そして、そう思いこんでいるうちは恐怖や犠牲から逃れることもできないのである。私は悪くないのよ!と思いこみたい気持ちもあるだろうが、その代償は大きい。

私はそこまでバカじゃないわ、とばかりに「エゴと神のいいとこ取り」をしようとする人もいる。しかし、残念ながらそれは不可能なのである。エゴか神か、常にその都度どちらか一方しか選べないようにできているのだ。その選択は毎瞬なされているため、さっきはエゴに従っちゃったけど今は聖霊に従っているというような事態はもちろんありうる。時間が連続しているように感じられるため、両方に従うこともできると思ってしまいがちなのだ。そして、たとえば一日のうちで交互に、しかも無自覚にそれぞれに従ったりすればもう訳がわからなくなってしまう。「コース」の教えを実践していれば少なくともそのことに自覚的にはなれるのである。

すべては自分のマインドの中にある、これをくれぐれも忘れないでほしい。犠牲を求める気持ちも救いも全て自分の中にしかないのだ。誰か特別な人との特別な関係など、そういう救いのないところに救いを求めるからうまく行かなくて苦しむ羽目になるのである。

とにかく、聖霊かエゴか、完全な自由か完全な囚われかのどちらか一方なのだ。その選択はこれほどまでにシンプルで故に簡単なのにもかかわらず、私たちはあれこれに目をくらまされて「選ぶのは難しい」とか「ここはこれに従うけどあそこはあれに」なんて思ってしまうのである。もっとも、いくら「絶対聖霊だ!」と決心したところでいきなり完全に実践できるはずもないわけで、先に書いたように常に自分のマインドをチェックしつつ毎日学んでいけばよいのだと思う。

あなたの考えを「偉大な考え」と別物にしてはいけない,と「コース」は言っているが、これは乱暴に言えば常に純粋精神であれ、純粋理性だけで生きろというようなことである。身体を持って生活している以上、「夕食の献立はどうしよう」とか「どういう経路で行くのが一番早く着くだろう」とかある程度は「個人的な事情」がマインドに入り込んでくるのは致し方ないと思う。本来「どうでもいいこと」であっても「まったく考えない、構わない」というわけにもいかなかったりする。しかし、面白いことに「その程度のことなんだ」と自覚しているほうが何でも簡単に間違いない決断や選択ができるようにもなるのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 137

第15章 その11

どうやらこのあたりはクリスマスシーズンに読まれることを想定しているみたいだ。基本的にテキストは31章から成っていて毎日一章ずつ読めば一か月で読了することになる。12月から読み始めて年が明けたら元日から365日のワークブックをするようにできているのだろうか?と思うとそうでもないのだ。まあ、別にいつ始めても順番通りにやればよい、とも書いてあるのだが。

神のひとり子がこの世に生まれた、それはこの世で自分を神とは別物の存在、身体を持った有限にして罪深い存在である私たちが本当は「キリスト」と同じように完全に無垢で永遠の命をもった完全な存在なのだと伝えられるためである。世の罪を除きたもう神の子羊とはそういうことだ。その気づきは常に「今ここ」においてなされる。だから、自分を傷つけるようなものをすべて聖霊に捧げなさい。自分以外の何かに投影しないで、自分の中にある聖霊に捧げて浄化するのだ。そうすれば私たちは癒され解放される。解放とは全的

なものであって本来はどこか局地的になされるものではない。たとえそのように見えても、である。すべてのマインドはひとつだからだ。

実にさまざまな形をとって現われるにもかかわらず、私たちの間違いはたった一つだけである。だからこそ素晴らしくシンプルに癒しや奇跡がもたらされる。間違いの現われ方の一つとして「自分は身体である」とか「身体は現実である」という思い込みがある。そう信じるなら当然の帰結として私たちは「他とは違うバラバラの存在」「いずれば滅びゆく限りある弱い存在」になり、言うまでもなくこれは「真理でない」つまり「真理に対する攻撃」ひいては「神に対する攻撃」になり、罪悪感を抱くことになる。守ってほしくて救われたくて何か特別なものに救いを求めてしまうが、出発点が間違っているので絶対にうまくいかない。

それどころか、自分たちが身体だと信じ込んでいれば「生きる=肉体の生存」と信じることにもなる。文字通り食うか食われるかの世界になってしまうのだ!オレが生きるためにはお前が邪魔だ、あなたの幸せは私の不幸、やられるまえにやってやれ、ここにおいては「攻撃」こそが救いをもたらす手段になる。しかし、相手だって同じことを考えているのだから同じ理屈であなたを攻撃するだろう。一方にとっての救いがそのまま他方を滅ぼすものになる。それがこの世のオキテみたいなものだ。じじつ、世界史・人類史はそういう原理で出来上がっているではないか。「勝つか負けるか、負ければ奪われる。今回は勝っても次回は保証できない」という考えが根底にある限り攻撃は免れず、私たちは片時も完全に平安な心にはなれない。自分から負けてあげればそれは「犠牲を伴う崇高な愛」ということになるのだ!「コース」に言わせればこんなもの大勘違いなのである。

私たちには永遠の命が与えられている、今更とは思うがこれは「肉体の生命」のことではない。私たちは身体ではなく、身体は本当には「存在しない」。「コース」も「身体は滅びるものだ」とはっきり言っている。だからこそ「本当の現実」ではないのだ。身体はそれがあるうちは学びや救いのために有効利用されるべきものであり、いくら「本当には存在しない無意味なもの」だからといって、いたずらに否定したり粗末にするわけにはいかない。身体を「愛や真理に対する防壁」として使ってはならないだけだ。

さて、古今東西、肉体としての命を差し出すことはもっとも大きな犠牲であり崇高な行為だとだと思われている。しかし、ここでまた「コース」は「そんなもの何もならないんだ」とはっきり言っている。「犠牲」とは「大切なものを更に大切なもののために捧げる=失う」行為である。初めから「ない」ものは失うことさえできない。本当に「ある」ものは何があっても決して失われない。従って「犠牲」という事態は文字通り「ありえない」。心情に流されず論理で考えてください!崇高な目的のために命を投げ出したように見える人たち、あの人たちは自分の身体を使って「教え示した」のである。身体の有効利用にはそういう使い方もあるのだ。しかしそれは「身体を教え学ぶツールとして使った」のであって犠牲ではなく、ただの「愛」である。エゴ的なマインドで判断・認識していたのではわからないことだ。見た目の現象に惑わされてはいけない。

犠牲はどこにもなく、愛は至るところにある。これが本当の現実でありキリストのメッセージなのだ。真のコミュニケーションが成立するためにはただ「愛と平和」が必要なのだが、それらはスピリットのものである。身体ではない。

イエス・キリストの生涯を思うとイースターはともかくクリスマスを素直に祝う気にはなれない、と言う人もいる。そう見ちゃったら確かにそうなるだろうな、と思う。一人の人間の生涯なんかの問題ではないのに!クリスマスはキリストのとき、本当の現実・本当の自己に目覚めるとき、そういう意味での誕生(←比喩的な表現ではあるが)のときである。本当の現実に目覚めれば、もう何も奪われることがないとわかる!恐れるものは何もないとわかる、これはとんでもなく嬉しくめでたいことではないのか?

失ってしまったと思い込んでいるが本来は知っていたはずの「真の愛」を私たちはおぼえげに覚えていて、本能的にそれを求めている。しかし、今の私たちには「真の愛」などわからなくなってしまった。だから救いを、それが絶対にありえないようなところに求めて四苦八苦している。愛を求めるつもりで犠牲を求めてしまっている。神とひとつでないもの、神から派生していないものは一切の意味を持たない、持つことができないのだ。無意味なものにしがみついているうちは、愛も真理も普遍的な宇宙もわからないままなのである。

神と私たちとはもともと「ひとつのもの」なのだが、私たちがそのことに気づき祝福すれば愛も平和もいや増していく。自分自身が何一つかけるもののない完全な存在だという事実がますます明らかになり、ますます感謝と祝福を捧げずにはいられなくなる。こうして与えるものを与えられ、それらはどんどん拡大していく。それがコミュニケーションであり創造なのだ。ここにおいてこそ、私たちの真に求めるものが得られるのである。

だから、あなたの兄弟姉妹にこう言いましょう。

「私は自分の一部である聖霊をあなたに捧げます。私自身がそう望まない限り、あなたは私を不自由にする他者にはなりません。私がそんなふうにしなければあなたもまた解放されるはずなのです。私自身が自由ならあなたも解放されているのです。なぜなら私たちは別々にではなく、ともに解放されるはずだからです」

もうこれ以上待つ必要はない、だらだらしている必要もない。今こそ目覚めを、聖なる瞬間を!すべての人間関係を聖なるものに!これこそが私たちの意志なのだ。

第16章 その1

多くの人が「理解し共感しあえる関係」を求めている。そこにある種の癒しと救いを求めている。つまり「感情移入」を価値あるものとして評価しているわけだ。

「私の苦しみを自分のことのようにわかってくれた」「一緒に泣いてくれた」なんてことがあればその相手は「私を理解してくれるすごくいい人」になったりする。しかし、「コース」によればこれもまた大勘違いなのであった。すなわち、苦しみに感情移入するのは間違いを共有しているのに過ぎない。間違いを「現実」だと積極的に認めてあげてしまっていることになるわけだ。これがどうして救いになりますか?癒しとは「今まで現実だと思っていたことは実は妄想だった、という間違いを正す」ことであり、それによって「苦しい現実」が実はなかったのだと悟り、そこから解放されるのが救いなのではないか。

だからといって苦しんでいる相手に向かって「あなたのその苦しみは全部妄想なんですよ。間違っているんですよ。だから私はあなたの苦しみなんか全然わからないわね。だいたい、あなたは神のひとり子なんですよ」とそのまま言葉で伝えたところで何もならない、癒しにも救いにもならないだろう。そういうことをしろと言っているのではない。以前、相手にどんなとんでもないことを頼まれても断るな、というのが出てきたときもこれは「だったら相手の言いなりになればよい」という意味ではないと述べたことがある。それと同じ道理で、本質と表現とはまったく別物なのである。表現についてはその都度その状況にもっともふさわしいものが聖霊によって示されるはずなのだ。私たちはただそれに従っていればよい。これについてはまた後述される。

ということで、ここではエゴによる間違った感情移入と聖霊による正しい利用法について解説されている。

第226回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 134・135

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 134

第15章 その8

「コース」によれば、身体を使わなくても本当のコミュニケーションは可能である。というより、スピリットは身体ではないことを考えれば本当のコミュニケーションは身体によっては不可能だ、と言っても過言ではないのである。少なくとも「身体」どうしがただ一緒にいるだけでは何の意味もないのだ。目の前にいなくても、電話やメールや手紙などで「身体の器官」を使ってかかわるのであってもたぶん同じことである。

たとえば、「キリストと共に在る」とか「キリストとのコミュニケーション」というとき、まさか二千年以上前の遠い外国に生きていた男性と一緒に何かする、と思う人はいないだろう。ここでハッキリしておきたいのは「コミュニケーションができるのはマインドだけである」ということだ。身体はそのための道具に過ぎず、究極的には「必要ない」。もっと一般的な表現を用いれば「魂どうしの関係」になっているかどうか、これがポイントなのだ。魂は身体ではない、つまり年齢も性別も人種も何も関係ないのである。魂でなく「純粋精神」「純粋意識」どうしの関係だといっても同じことだ。

とは言うものの、とりあえずこの世で身体を持って生きている私たちにとっては、身体がなければコミュニケーションのとりようがない、そういう意味では身体が不可欠になっている。「コース」も、いきなり「身体なしでコミュニケーションをとれ」などとは言わない。身体を実体ではなく「道具」として有効に用いるように、と言っているのだ。身体を自分と他人を分かつ「壁」にしてしまってはいけない。壁は真のコミュニケーションを阻み、エゴたる自分を守るものになる。何となく、なのだが私たちは身体の中、その奥深くに「心」というものがあってそれは他人には見えないし他人のそれも見ることができない、というふうに捉えてしまっている。しかし、どちらかといえば事態は逆で、マインドの中に身体がありその部分だけが可視的だと言ったほうが正しいのである。本当に「関係できる」「コミュニケートできる」のはマインドだけなのだ。そのマインドを身体によって守り閉じてしまい(実際にはこんなことは不可能なのだ!なぜなら身体は実在しないからである)、ある部分だけを表に出して都合の悪い部分は隠して、まあ通常はみんなそうなのだが、これでは真の関係などというものは望むべくもないのである。

だからといって、霊視者のように「相手の心を読め」というのとも違う。エゴの部分を読み取っても意味がないからだ。それでは「真の関係」にはならない。魂ではなく「分裂したマインド」の断片を垣間見ただけでは、基本的な構造が「身体どうし」の関係と何ら変わるところがないからだ。同じ意味で、隠すのが良くないからといって自分の心の中にあることを何もかも言動に表せば「ホンモノのオープンな関係」ができるわけでもない。

身体どうしでいるうちは「赦す」ことができない。赦しが起きるとき、私たちはマインドどうしになっている。逆に言えば、自分を(従って同時に相手も)身体だと思っているならそれは「罪悪感」から解放されていないことを意味する。

身体が一緒にいれば(連絡を取り合うことも含めて)淋しくない、というのはエゴの策略による考え方なのである。一緒にいようが連絡を取りまくろうがスピリットどうしで関わらない限り淋しさは癒されない。これもまた「求めよ、されど見出すな」の一つである。更におそろしいことに、私たちは相手に、それこそいろいろな形で明に暗に罪悪感を抱かせることによって自分の淋しさが癒されるとまで思い込んでいる。その試みは当然うまくいかず、結局更なる孤独感を生じるだけである。なのにそういう悪循環から逃れられない、というより悪循環であることに気づけない。こんな例は珍しくないどころか至るところに見られるものだ。

聖なる瞬間において私たちは身体を超えている。そこでは単純にスピリットどうしとして相手とかかわることが可能になる。通常はとても不可能に思えることがそこでは可能なのだ。私たちは真に愛情に満ちた「ほんものの関係」を望んでいるつもりでそれを怖れている。身体をなくせば自分がなくなってしまうような気がするからだ。また、何もかも隠さないでいるということの意味を取り違えているからだ。誰かと「関係」を持ってコミュニケーションをとれば、どうしても批判したりされたり傷つけあったりと苦労や我慢がつきものだと思ってしまっているからだ。

このあたりの「誤解・思い違い」は聖なる瞬間を通して消失し、コミュニケーションこそが救いなのだとハッキリわかるように示される。本当のコミュニケーションとは創造の別名なのだった。全てであるようなただ一つの完全無欠なものとして存在するとき、創造は自然に行われる。もともと何一つ欠けることなく充足しているのだから淋しさなど生じるわけもない。どんな相手でも自分と同じ神のひとり子であり、欠くことのできない必要な存在なのだとわかる。少々凝った言い方をすれば、どんなものであれ存在するからには存在に必要とされているのである。

それにしても、つくづく無理を承知で無理なことを書いているなあと思ってしまう。だいたい「関係」という言葉からして既にクセモノなのだ。この世で考えられているような「関係」なるものが「全てが一つ」というところにおいて存在しうるだろうか?私たちはもともと「ただ一つのスピリット」なのである。神は創造し私たちは創造された、そういう意味では神と私たちは「創造主と被造物」の関係にある。これだけが唯一にして本物の関係である。しかし、それでいて神と私たちとは一つなのだ。これは明らかにこの世におけるいかなる「関係性」をも超えている。

強いて言えば、「コース」はこの世における諸々の「関係」を変容させて本物の関係を経験させようとしているのだが、本物の関係が生じるところには既に「私とあなた」という別々の存在はなくなっているのだ。そこに至ってはもはや「関係」という言葉さえ使わずに済む、あるいは使えないのではないかと思う。いわんや「特別な関係」などあろうはずもない。なぜなら本来は「特別」ということじたいがありえないからである。程度も差異もないところに「特別」だなんて不可能じゃないですか。たまたま時間や身体をもってしまった(ように見える)から「毎日顔を合わせる人」と「たまにしか会わない人」が存在することになる。それだけの話なのだ。

私たちは自分が捨ててしまった(と思っている)愛や真理の代用品を、やはり捨ててしまった(と思っている)神の代用品によって得ようとして「特別な人」との「特別な関係」を求めてしまう。見当違いなところに「救い主」を求め、しかも「罪悪感」によって救われようとする。しかし、例によってこんなものは代用品としてもお粗末な代物であり何の役にも立たないどころかよけいに苦痛をもたらすだけである。

さて「聖なる瞬間」を経験できるようになってもまだまだ学びは続く。学びとは学びが必要なくなるまで続くものだが、それはあらゆる瞬間が全て聖なる瞬間となる地点でもある。これこそ私たちが究極的に目指すべきものだが、バラバラに存在しているように見える私たちはキリストを通して、つまり正真正銘の「神のひとり子」であるスピリットに戻ることを通してそこに至る。ここにおいてのみ神との「関係」が、また私たちの本当の在り方という真理が示されるのだ。神は不変であり普遍的宇宙でもある。私たちはその中にあり、私たちの中にそれはある。どちらでも同じことだ。

たま〜にしか経験できなかったものがしょっちゅうできるようになる、そうやって段階を踏んで進んでいくのがこの世での学びである。速く学びたかったら何もかも聖霊に差し出しなさい。その意志さえあれば聖霊はいかなる機会でも例外なしに活用してくれるのだ。ほんとうの関係・コミュニケーションに「赦し」は不可欠である。赦しは「敗北」ではなく「解放・救い」であり、ついには「私たちはみな完全な存在であり、赦すべきものなど何もなかったのだ」という理解に至れば私たちは完全に救われ解放される。この部分は「神から離れてバラバラの自己」としていくら頑張っても絶対に不可能なのだ。聖霊に委ねなければできないことなのである。

確認のために繰り返すが、聖霊は私たちの中にある。ともにある、といっても良いのだがとにかく自分以外のどこか上のほうにあるようなものではない。そもそもマインドの外側なんてものは「ない」のである。場合によっては「純粋理性」とか言ってしまったほうがしっくり来るような気がする。聖霊は或いは純粋理性はこの世のあれこれをこの世でない地点から眺めることができる。聖霊に委ねる、とは言い換えれば感情に囚われたりグダグダ考えたりするのを止めて自分の中の純粋理性に委ねることでもある。「この私」によるあらゆる判断を捨てて普遍的理性に委ねる、つまり「この私」の個人的意見、感情、好み等々は全て捨てる、オープンであるとはそういうことだ。そのようになっていなければ聖霊も純粋理性も働きようがないのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 135

第15章 その9

永遠になくなることがないものとだけかかわりなさい。変わりゆくものに救いを求めるから絶望するのだ。だってそんなものは元から「存在しない」のだから!本来の私たちは何一つ欠けるものがなくそれ自体として充足した存在である。それを自覚しなさい、と言われてもそんなことできないわ〜と思ってしまう。しかし「できない」ということもまた本来は「ありえない」のだ。これもまた「神から離れてバラバラになった、神とは違う自分」という勘違いの副産物である。故に、聖霊にとってできないとか失敗するなどということはありえない。私たちはそこに全幅の信頼をおくことができる。できないように見えるならそれは私たちの側にまだ解放に対する、或いは愛に対する恐怖があるからだ。神は常にオープンだが私たちはそうでない。だから神とのパイプが切れているように感じてしまうのだ。

「神は自らに似せて私たちを創造した」このことを一瞬でいいから考えてみなさいと「コース」は言っている。神自身の性質と力をそのまま授けられたわけだから私たちもまた普遍的な存在なのだ。普遍的宇宙の中にバラバラと存在する個体なんかではないのである。

私たちには通常他人が「身体」に見える。あるいは「自分と違う個体」として認識される。しかし、キリストのヴィジョンをもってすれば何と「大いなる光線」のように、それぞれから全く同じ偉大な光線が発しているように見えるのだそうだ。見えるといっても肉体の目で見るわけではない。肉眼でそう見えるようになる人もいるみたいだが、必ずしもそうである必要はない。とにかく、聖なる瞬間においてはそういうことになる。そこに個々の身体というものはない。前にも言われていたように、この状態が「常態」になることが私たちの最終目的であり、そこから先は神によって直接知の世界に導かれるようになる。ただ「この状態がずっと続きますように」などとそれを無理やり固定しようとした途端にエゴが介入してしまう。私たちに必要なのはこの状態すなわち聖なる瞬間をもたらすための条件を常に保つこと、つまりいつでもオープンであり続けることだけである。この状態は「固定」できない。瞬間ごとにそのつど新鮮なものでなくてはならないはずだからだ。毎瞬それを続けていくというのは怖ろしく大変なことに感じるが、いったんその素晴らしさを経験してしまえば誰だってそちらのほうが良いと思うに違いない。

そして、そのためにまず必要になるのが「間違いを間違いとして認めること」間違いから目を逸らさずに直視することなのだ。今までこんなバカなことをしていたのか!と気づかなければ次のステップに進むのは難しくなる。いや〜わかってるつもりなんだけどね、ではダメなのだ。今まで「当たり前」だと思っていたことが実は「大間違い」だったら!これほどありがたいことがあるだろうか。正しいことをしているのに苦労が耐えないのなら悲惨だが、間違っていたせいで苦労したのなら「なあんだ、バカだったわ」で間違いを正せば済むではないか。

たとえば、今まで私たちは「人と関わっている」つもりで、コミュニケーションをとっているつもりで実はそれらを破壊してきたのである。だから誰か或いは何かとかかわりを持つたびに「我慢」や「犠牲」を強いられ怒りや悲しみや苦しみが絶えなかったのだ。

身体はエゴの象徴であり、エゴは分離の象徴である。ゆえに、身体を中心としたコミュニケーションはますます分離を助長する。いいえ、私は心の交流が大事だと知っていますわ、とおっしゃるかたも聴いてください。あなたの心、私の心、なんてものがあると思っているうちはやっぱりダメなのだ。それらは「あなたの身体、私の身体」に付随するようなもの、つまりこれらもまた分離の象徴に過ぎないものだからである。

身体は赦しもしないし救うこともできない。身体は常にマインドの指示に従うだけのものである。また、身体と対になっているところの「個々人の心」もまた赦しや救いを為すことはできない。この部分はスピリットではなく聖霊ともつながりがないからだ。

相手がわかってくれない!心が通じない!これは身体を持って生きている(つもりの)万人に共通の苦しみだろうが、「コース」の論理に従えばそういうとき私たちは自分も相手も「身体」であり「別々の身体の中に押し込められた別々の心」があると思っていることになる。そういうものがある、と思いこめばそのとおりになる、これが「マインドの強大なパワー」によって作り出すことであり、また投影の原理でもある。

あらゆる「限界」「制限」はこの世のものである。いうなればエゴからの贈り物であり命令でもある。しかし、制限や限界があるところに真のコミュニケーションは成り立たない。たとえば、身体を「他人から自分を守る境界線」のように用いればあなたの心は身体の中にあって身体によって守られていることになり、この状態では真のかかわりあいなど不可能である。

だいたい、真のコミュニケーションとは「創造」あるいは「分かち合い」の別名なのであり、創造とは神を源泉としてなされるものなのだ。私たちが勝手に作り上げるようなものを「コース」では創造とは言わない。また真に分かち合えるものは絶対にして不変なものだけである。身体はこの世におけるコミュニケーションツールにはなるが、主体にも対象にもなりえない。こういうことを私たちはうまく認識できていないのだ。私があの人と一緒にいるのは身体目当てでもお金目当てでもないわよっ、失礼ね!と思うかもしれないが、そういうレベルの問題ではない。私たちはあまりにもエゴに目をくらまされているので自分のしていることさえわからなくなっている。わかったら止めるに決まっているようなとんでもないことなのだが、止められたらエゴは存亡の危機に瀕する。とんでもなくナンセンスで有害なことをしているのに「ものすごく崇高でロマンチックなこと」をしているように錯覚させるなどエゴにとっては赤子の手を捻るくらい簡単なことであり、しかもいわゆる「スピリチュアル系」の仮面をかぶって現れる場合さえ珍しくないのである。だから、聖霊の助けを借りて全てを白日の下にさらし、その実体を暴かなくてはならないのだ。この部分に抵抗を覚える人は少なくないだろう。実体が暴かれて、それを認めてしまったら今までの私はどうなるの?はい、めでたく消えうせてしまいます、ブラボー。なのだが、これが恐怖になる。しかし、やってみて下さい。変な言い方だが、やって損はない!「コース」はあなたに損などさせません。しかも、潔く徹底的にやればそれだけスバラシイ収穫が約束されている。

私たちには神の力がそのまま与えられており、それは本来神のように「創造」するための力だったのだが、自由意志の誤用によって私たちはこの偉大な力を別の方向に用いてしまった。つまり「分離・分裂」という思い込みに力を与え、あたかも現実らしく思わせる、現実としか思えないような経験を自分自身に与えるようになったのであり、しかもそのことに気づいていない。気づけ!と言われても無理なので「コース」に従ってできることはやってみよう。ということでまず「兄弟姉妹=他人を身体として見ないようにする」。どうやって!?そんなことができるのか?これもまた聖なる瞬間においては可能なのである。日常的なワークとしては、たとえば感謝の気持ちだけをもって相手の中の聖霊に接するようなつもりで相手を見てみる。相手の身体が視界から消えるわけではなくても確実に何かが変わる、そのことはハッキリわかると思う。

聖なる瞬間において私たちは「神との結合」を経験し理解する。ここにのみ真の「関係」があり「真理」がある、というかここには全てがあるのだ。

キリストは救い主であると言われるが、ナザレのイエスという肉体を持った一人の男性が私たちを救ってくれるなどという意味に限定しないで考えなくてはならない。キリストとは「神のひとり子」の総称であり、完全に救われた純粋無垢なマインド、神に造られたままのスピリットのことでもある。従って、いつも言われているとおり私たちひとりひとりのマインドの中にキリストが存在し、自分の中のキリストに目覚めることが救いであり解放でもある。いわゆる12月25日のクリスマス(東方正教では別の日)に限らず、いつでも自分の中のキリストに目覚め自分の中のキリストを解放するときがクリスマスなのであり、それは聖なる瞬間の別名だ。そのとき私たちはあらゆる人々の中にもキリストを見るようになる。神と一つであることに気づけばそれはそのままキリストへの贈り物になり、与えたものを受取るという原理によって私たち自身にもそれが与えられる。本来の意味においては「与える」ことに特定の対象など存在しない。あるいは「全てはひとつ」だから、と言ってもよいのだが、とにかくどこかで与えればそれはあらゆる人に与えたということになり、あらゆる人から受取ったということにもなる。以前、「愛とはひとつの満遍ない状態なので特定の対象に向けられるようなものではない」と書いたのはこれと同じことである。

今更ながら「コース」の教えには「罪悪感」についての考察がたびたび出てくるのだが、この「罪悪感」は「自己否定」と置き換えてみても構わない。

さて、少しでも罪悪感があるとき私たちは神に背を向けている。罪悪感か愛か、エゴか神か。常にどちらか一つしかマインドには選べないのだった。ちょっとは罪悪感があるけどちゃんとカミサマのほうを見ているわ、というのは不可能なのだ。

エゴか神か、どちらを選びますか。そう訊かれれば「コース」を学んでいる方々ならもう「神に決まってます」と言うだろう。でもそういいながら「特別な人との特別な関係」を望んだりそれにこだわったりしてはいないだろうか?お互いに学びあうスピリチュアルなパートナーがほしいの!などと思ってはいないだろうか?傷つくのなんか愛していれば当たり前よ、愛するもののために犠牲を払うなんてスバラシイことだわ!と思っていないだろうか?

愛と犠牲は全く相容れないものである。愛は犠牲など必要としない。犠牲を必要とするのは罪悪感や恐怖や怒り、つまりエゴだけなのである。愛と犠牲がワンセットだと思っているとどうなるのだろうか?

大いなる愛にはそれだけ大いなる犠牲が伴うことになる。目の前の或いは心の中の誰かとの関係で生じる犠牲や忍耐なんて、カミサマの愛を得るために必要な犠牲や忍耐に比べれば全然大したことないわ。だってカミサマの愛を得るためには命を捧げたり何もかも失ったりしなくちゃならないんでしょ。イエス様とか殉教した聖人たちもそうだったでしょ。そんな怖ろしいものなら要らないわよ、だったら私はこの人でいいわ。それに私だけが我慢したり犠牲を払ったりするとは限らないじゃない?うまくやれば相手のほうが多く犠牲を払ってくれるかもしれないじゃない?カミサマが相手だったらそうはいかないものね。

あ〜あ、この方は欲をかかずに謙虚になったつもりがエゴの餌食になってしまった。愛はかくして取引になり「食うか食われるか」「どちらがより傷つくか」の戦いになってしまった。全て、「愛には犠牲がつきものだ」という思い込みのせいである。

断っておくが、犠牲とはその当人が犠牲だと思わなければ成立しないようなものである。何かのために何かを捨てた、それが周囲にとってはいくら「犠牲」に見えても当の本人にとっては全く違うものかもしれないのだ。卑近な例だが、素晴らしいキャリアを築いてきた女性が出産して仕事を辞めた。周囲には「子供のためにキャリアを捨てた、犠牲にした」と映るかもしれないが、本人にとっては至極自然なことであって犠牲でも何でもなかったりする。キリストの磔刑でさえそうだったではないか。そもそも「犠牲」という発想じたいがエゴのものなのである。逆に言えば、自分について何かを「犠牲にした」と感じるとき、そこに愛はなくなっている。

第225回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 132・133

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 132

第15章 その6

ある人を憎みながら別の人を愛することはできない。これは新約聖書にも出てくるのでご存知かもしれない。しかし、これもまたこの世においてはあまりにもありえない光景である。誰だって好きな人もいれば嫌いな人もいる。全ての人を好きになりなさい、と言われたって無理だと思うだろう。だが、それはあなたが自分をそして相手を「別々の身体を持った別々の個人」だと思っているからなのだ。分裂したマインド=個人のままで「あらゆる人を愛しましょう」と言われても普通は不可能だ。「コース」はそういうことを言っているのではない。とんでもなく意地悪でイケ好かない人が目の前にいたとしてもひと皮剥けばやっぱり「神のひとり子」だ、という事実に変わりはないことを思い出してほしい。いいかげんしつこいが、人を見たら聖霊と思え、なのである。スピリットどうしであれば私もあなたも彼も彼女も「ひとつ」なのだから、そしてそこには「愛」しかないのだから、いくらあなたが「そんなことは不可能だ」と主張しても「あらゆる存在を愛する」ことになってしまうのだ。別にわざわざ「愛しましょう」なんて思わなくても聖なる瞬間にあって自分がスピリットとして生きているときには自分自身が愛であり、その愛は勝手に全方位的に放射されてしまうことになる。何というかそういう「在り方」になるのである。

誰か一人でも嫌ったり憎んだり批判したり、あるいは自分を不安にさせるような人だと思ったりしているならあなたには罪悪感があるのだ。なぜならあなたは誰かを「神のひとり子」ではなくしてしまったからである。極言すれば「神のひとり子」を殺してしまったからである。少しでも罪悪感があるうちは自分を完全に信じる(faith)ことなど不可能である。引き寄せだの願望実現だの、いくらやってもダメなのは自分を完全に信じていないから、結局は罪悪感を抱いたまま頑張ってもダメだということにもなる。

聖なる瞬間においては「完全に信頼する」ことが可能になる。この信頼と愛とは不可分のものなので、完全に信頼するところには完全な愛がある。自分の中に完全な愛があるのならどうして自分の外側に「愛し愛される誰か」など求める必要があろうか?

そもそも「自分の外側」に何かを求めることじたいが不可能なのである。なぜならあらゆるものはマインドの中にしかないからだ。外側にあるように見えるものも実はマインドの中のものが投影され、更に自分のマインドがそれを知覚認識しているのに過ぎないのだった。

聖なる瞬間においては、何に対して、というわけでなくただ「完璧な信頼」がある。神も聖霊もキリストも私たちも「ひとつ」なのだから今更「何に」なんて出てくるわけがないのだ。そのとき当然ながらマインドは完璧にオープンになっている。完全にオープンなマインドだけがあらゆる存在と「全面的にかかわりあう」ことができるのだ。(余談だが、「コース」はこういうとき「全ての兄弟たちと」と言っている。「兄弟たち」には人間以外の生物も含まれるのだろうか?だから私は敢えて「あらゆる存在」と言ってみたい。)完璧な信頼もまた愛と同様に拡大されシェアされる。とにかく信頼も聖性も平安もみんな愛から生じるものなのだから不可避的に拡大していかざるを得ないのである。そんなもの私のところにはきたことがない、と思うならそれは単にあなたが気づいていないからだ。気づきたいなら本気で聖なる瞬間を受け容れようとするしかない。

本当に存在するものは与えればますます増える。失うことができるようなものはもともと存在していないのだ。これもなかなか実感としてわかりにくいだろうが、そういうものだと思っていてほしい。

誰かの祈りが聞き届けられたけど自分の祈りは叶わなかった、というとき「私はダメだわ、運が悪いんだわ、修行が足りないんだわ」とは思うかもしれないが「カミサマはあの人のためにエネルギーを使っちゃったから私のために使う分はなくなったんだわ」と思う人はいないだろう。神の力は尽きることがない、これは神の定義からして当然のことである。が、以前にも見たように神は「考え」なのだ。これもわかりにくいですよね。「神は想像の産物だ」とか「私たちの考えの中に存在する」などというふうに誤読されてしまうかもしれない。神が自身を分かち合って創造したものが私たちだ、と聞いて「じゃあ、カミサマはその分ちいさくなっちゃったの?」と思うかもしれない。それもこれも私たちがあまりにも身体に支配されているためだろうと思う。ともかくも、神は考えであり、そうであるからこそ与えればますます増えるのであり、更に神が考えならば神によって神に似せて造られ神と一つである私たちもまた「考え」である。身体ではない。(ああ、もういっそ「人間ではない」と言っちゃってもいいのに!)あらゆる考えは分かち合うことによって増えていく。ならば、私たちもまた「自分自身を与える」ことができるはずであり、それによって何かを失うどころかますます豊かになるはずなのだ。臓器移植のことじゃないですよ。

言い換えれば、私たちは少なくとも身体ではなくマインドであり、だからこそ理解やコミュニケーションが可能なのだ。マインドが分裂していれば他人との間ではもちろん自分自身の中においてさえ理解やコミュニケーションに不具合が生じるが、それでも普通の意味合いにおいて何とか意思疎通らしきものができてそれなりに生活できているのは、私たちが身体ではなくマインドだということを端的に表している現象である。

あらゆる知覚認識も直接知も全てマインドにおいて行われる。マインドは「考え」でできている、といっても「マインドが何らかの考えを抱く」という意味ではない。

ともかく神と同様、私たちは考えであり「愛」でもあるのだから、聖なる瞬間においては先に見たようにその「愛や平安」が自然に放射されていく。それが「自分自身を与える」ことなのだ。ここにおいて初めて「愛」が意味を持ち、理解されるに至る。

たぶん、こういうことは私たちが自覚していないだけで、毎日のように、しかも意外なほどしばしば起きていると思う。一見は日常生活の中のほんの一こまに過ぎない形で訪れるので、多くの人がそこにあまり大きな意味を見出さないのだろう。あるいは、エゴが脅威を感じ抵抗して「あれは何てことない、小さな出来事だ」というふうに私たちに思わせ忘れさせてしまうのだろう。「コース」を学んで意識的に「聖なる瞬間」を受け容れるようになれば、今まで自覚できていなかったあれこれの事実にも気づくことができる。聖なる瞬間を自覚できればそれを最大限に活用することもできる。

この世には愛も平和も平安もない。今も、今までも、これからもずっとないであろう。なぜならこの世界は本当の平和・平安を捨てた(と思い込んだ)ところから生じたものだからである。あらゆるものが豊かに満ち溢れるところを捨てて(と思い込んで)作り上げられたこの世界には「欠乏」がついて回る。暗澹たることだがそういう風に作ってしまったんだから仕方ない。これが全て夢であり本当には存在しない、ということがどれほどの福音か!

しかし「聖なる瞬間」においてはこの世界を抜け出すことができるのだ。そこではこの世のあらゆる法則が意味を失う。だからこそ「この世ではありえない」ことが起きる、つまり奇跡が可能になる。

以前、私たちが通常使用している言語は「コミュニケーションを円滑にするどころか破壊するものだ」と書いてあった。実際、私たちは日常生活で「どうやったらこれがちゃんと伝えられるのか」と四苦八苦したり、誤解したりされたりと大変苦しんでいるではないか。「聖なる瞬間」には全面的なかかわり、本当の意味でのコミュニケーションが可能になるのだから、というかそれが自然にできてしまうのだから、当然そのための具体的な方法もその都度自然にわかってしまうようになっている。ここでニッコリして、あそこでちょっと泣けば効果的だわ、などという計算ずくのものではなく、本当に自然に湧き出てくるのである。ものすごく卑近な言葉で表すと「自然体」ということになるのだろう。身体を介しているようではあってもそれはマインドどうしの、あるいは「考え」どうしのより直接的なコミュニケーションである。

聖なる瞬間においてこそ私たちを「バラバラの個体」にしていた原因、神から離れてしまったという思い込みが消失し、その代わりに私たちの本当の源泉たる神とその御力が流れ込んでくる。そうして私たちは神を、更に本来の自己を思い出すのである。

そこには既に「特別」などという排他的なものは存在しない。

さて、そもそも「関係」とは自分と特定の他者との間に成立するものである。関係ないものは「関係」がないのだ。つまり、わざわざ「特別な関係」でなくても何らかの「関係」が生じた時点で既に先方は私たちにとって「他とは違う、特別」なものになってしまっている。これは「この世の法則・きまりごと」みたいなものであり、しかも特別であればあるほど多くの問題が生じるのである。私たちは、他人とのかかわりの中では特にエゴに支配されやすくなるからだ。

エゴにとっては、あらゆる人間関係(相手は個人と限らない。組織でも社会でも国家でも同じことである)がことごとく「怒りと罪悪感と損得勘定によって成立し結びついている」のだそうだ!詳しい説明を聴いてみよう。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 133

第15章 その7

このあたりの「人間関係」とは、概ね誰か特定の相手とのパートナーシップについて書かれていると思っていただいてよいのだが、それに限定せずあなたの周囲のあらゆる人間関係についても当てはまるものだと思ってお読みください。

まず、エゴに支配された「通常の人間関係」が如何にとんでもなく怖ろしくて馬鹿げたものか、その実体を知らなくてはならない。その上でそれらを聖霊に委ねて浄化し変容させるのだ。

さて、この世では本当の愛も平和も不可能だというのは以前に見たとおりである。ならば、「別々の個体」どうしでは愛や平和を基盤にした、或いはそれらが満ち溢れるような関係を構築することもまた不可能だ。

他人とのかかわりにおいてエゴは強化されやすいので、エゴはあらゆる「人間関係」を自己保全のために大いに利用しているのである。ただ、いくら私たちでも「怒りと罪悪感と損得勘定」まみれになって苦しむだけだとわかっていれば、そんなものは初めからゴメンだわ、と敬遠してしまう。だからエゴは「愛しあうステキな関係」「お互いにメリットのある良好な関係」などと私たちに信じ込ませて求めさせ、更には執着させるのである。食べたら確実にお腹を壊すような泥まんじゅうを美しいデコレーションで誤魔化してショーケースに並べているようなもので、正体がわかればそんなものに近づこうとする人など誰もいない。それが見えない私たちは愛を求めているつもりで怒りや罪悪感を求めてしまっている。

つまり、怖ろしいことだが、私たちは親しみ合い愛し合う相手を求めているつもりで自分のマインドの中にもともとあった怒りや罪悪感を投影する相手を求めているに過ぎないのだ。乱暴に言うと、怒りや罪悪感を誰かに投影して=押し付けてしまえば自分自身は「良い人」でいられる、悪いのはいつも「相手」なんだから、ということになる。「私だって悪いかもしれません、でもね!」と、結局は「相手のほうにより非があるのだ」からと自分の正当性を主張できるのである。

自分とはいろいろな点において異なる他者とかかわれば、それがどんなに「好きな人」であったとしても「合わない部分」が出てくるのは避けられない。そこで対立が生じ、話し合おうが喧嘩しようが黙って我慢しようが、貴方の中にはどうしたって「怒り」が生じる。一見「悲しみ・苦しみ」のようなものでも実は「抑圧された怒り」だったりするのである。相手のために「我慢」するのは「自己犠牲」であり、「愛しているからこそ我慢するのよ、犠牲を払うのよ」などというふうに「美徳」だと解釈するのもまたエゴそのものなのである。本来、「犠牲」などというものは文字通り「ありえない」。これについては後述される。

リーディングのお客様でも「だったら我慢しますっ」とおっしゃる方が少なくないのだが、私は「いいえ、我慢ではダメです。いつか爆発します」とそのたびにご説明申し上げている。何かを「我慢」する、とは当然だがそれに先立って「我慢すべきいやなもの」があると判断し認識しているわけである。そこがダメなのだ。いやなものだ、という判断・認識そのものを変えなくてはダメなのだ。

我慢したり犠牲を払ったりすればそこには「抑圧された怒り」が残る。するとあなたは相手に罪悪感を感じさせようとする。私はあなたのためにこんなに我慢したんだ、犠牲を払ったんだ、だからあなたも同じようにしろ。もちろん、そこまであからさまでないものもある。わかってちょうだい、とか「感謝しろ」みたいなものはたいていコレである。「きちんと向き合って話し合いましょう」という比較的冷静な、あるいはスピリチュアルっぽいアプローチのように見えても、そして実際に言葉で相手を責めたりはしていなくても中身は大同小異だったりする。エゴは非常に巧妙なのである。この罪悪感を抱かせようという試みは実際には一種の「攻撃」に他ならないのだが、一見は「切実な愛の訴え」みたいな様相を呈したりする。愛しているから辛いんだ、苦しいんだ、あなたのせいだ。それ、愛なんかじゃないですよ。そんな「本当のこと」を言われたら大抵の人は怒り出すだけだろう。

怒りによって攻撃する者は誰でもますます多くの罪悪感を抱えることになる。どこに向けられたどんな形のものであれ、「攻撃」とは煎じ詰めれば全て「神と真理に対する攻撃」だったことを思い出してほしい。だから私たちは攻撃するたびに罪深くなってしまうのである。そして更にそれを相手に投影しなくてはならなくなる。相手にも同じような我慢と犠牲を求めたくなる。こうなるともう悪循環としか言いようがない。

もはや「赦し」どころではないのである。普通の意味合いの許し、つまり「貴方が悪いんだけど許してあげましょう」さえもできない場合が多い。許してしまったら自分の負けになるからだ。「コース」のいう「赦し」など、とんでもない話になってしまう。

エゴにとって「(人間)関係」とは常に「身体どうし」の関係である。セックスという意味ではありませんよ!身体によってかかわりあう、とは要するに「相手の言動を見たり聴いたり読んだりする」ことだ。私たちはよく「あの人が何を考えているのかわからない、知りたい」などというが、実は相手のマインドや考えなどには全然関心がないのだ!と「コース」は言っている。確かに、「相手の気持ちが知りたい」と思うのはそれが私たち自身にかかわる場合だけ、もっと言えば私たちの罪悪感にかかわる部分だけである。相手に罪悪感を抱かせやすくなれば私たちにとってその関係は「うまくいく」。一方、もはや自分の罪悪感を相手に投影できない状態になれば、それは「罪悪感からの解放」になるはずなのだがもちろんそうはならず、関係自体が終わってしまう。

私たちが通常「コミュニケーション」「人間関係」と見なしているものは、それほどまでに罪悪感と一体化しているのだ。もっともわかりやすい「証拠」は、ほぼあらゆる人間関係において、それが特別なものであればあるほど「苦しみと犠牲」が不可欠になっていることである。私たちにとって自分の苦しみを軽減する唯一の方法は「相手に罪悪感を抱かせる」ことなのだ。しかし、それでは結局自分の罪悪感=苦しみがますます大きくなってしまう。ここでもまた「与えたものを受け取る」原理が働くからである。人間関係には、組織には必ず「我慢」がつきものだ、これは「この世の常識」である。みんながそれぞれ好き勝手なことをし出したら間違いなくメチャクチャな混乱状態になるに決まっている。しかし、それは「エゴどうし」が一緒になり関係を持っているからそうなるだけであって、スピリットとしてかかわるのであれば絶対にそんな心配はありえないのだ。

とにかく「我慢」すれば必ず「怒り」が湧くものだ。本人が「頭にくる」と思っていようがいまいが関係ない。怒りは抑圧され覆い隠され美化され、いろいろな形をとって現れるからだ。愛しているからこそ怒りが湧く、そう思う人も多いだろうが実は怒りが湧いた時点で愛は消えている。その一方で愛の表現が怒りに見えることもある。これは前にも書いたがエゴの支配下にあるうちは絶対にできない、やろうと思ってできることではないので「私のこの怒りは愛の表現なのよ」とは考えないほうが安全である。

怒りが生じたのならあなたは「特別な関係」つまり「自分にとってエゴを強化するのに役立つような関係」を築いてしまったのだと思いなさい、そう「コース」は言っている。怒りはその中に既に「攻撃」を含んでおり、攻撃は罪悪感と地続きであることを思い出してほしい。苦しみ・我慢・忍耐・怒り・攻撃・罪悪感・・・こういったものが「特別な関係」の中には、というか誰か・何かと「特別な関係」を築いたあなたのマインドの中に渦巻いているのである。

先ほど書いたように、スピリットどうしならこの世の常識を超えた関係を築くことができる。言い換えれば「身体」どうしだからダメなのだ。「身体」としてかかわろうとするのがそもそもダメなのだ。自分を、あるいは相手を「身体」だと見なすこと自体が既に「神から離れてバラバラになった」という思い込みを強化してしまい、結果的には神に逆らい神に背くことにもなってしまう。つまり、身体としてかかわってしまったが最後、それだけで私たちは「罪深く」ならざるを得ない、罪悪感から免れなくなってしまう。

言うまでもなく、罪悪感は真のコミュニケーションを妨害し破壊するものなのだから、それがある限り愛にあふれた平和な関係を築くことなど不可能なのである。

私たちは通常、目の前にいる相手であれ遠くにいる相手であれ身体の知覚器官を使って相手とかかわりあう。そのことじたいは別に問題ない。身体そのものには意味がないのだからそれを「学びのための道具」として有効に使えと「コース」も言っている。しかし、学びのための道具どころか、今の私たちは身体器官に振り回されてしまっている。目に見え、耳で聴き、あるいは読む、それらを自分自身がおそらく自分を投影して判断した内容に振り回されてしまっている。淋しいから誰かとかかわりたいと思って関係を作っても、却って淋しさは増すばかりなのである。その「関係」がエゴを強化する方向に使われてしまえば当然のことながら「分離・分裂」もまた強化される。孤独になるのもまた当然のことなのだ。全てはひとつ、それを考えれば「一人では淋しい」と思うことじたいが既に間違っている。自分自身についての誤解がある。誤解から始まったようなものはろくでもないに決まっている。

何と、私たちが「かかわり」「コミュニケーション」だと思っていたものはむしろそれらを破壊する代物だったわけである。

第224回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 130・131

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 130

第15章 その5

マインドの中に「これはエゴだな」と思える考えが出てきたら、すかさず聖霊に委ねてしまおう。それをしないで「ああ、またエゴだ、どうしよう、私はやっぱりダメなんだわ」とクヨクヨしたり「こういうふうに考えてしまう原因を探ろう」などの自己流ワークに走ったりしていたのでは一向に学習が進まなくなってしまう。さっさと聖霊の助けを借りて一点の曇りもないきれいな心になれればよいのである。

聖霊は「聖なる瞬間」を「愛を教えるための仕掛け」として用いるが、エゴにとっては過去がその思考システムを学ぶための最大のツールになっている。あらゆる判断の基準は過去に学んだこと・過去に経験したことにある。これはすぐにわかることだろう。それどころか、現在の自分とは過去の集積物である、そんな感じにさえなっているのではないか。人生や性格の形成に大きく影響するといわれる過去生のカルマだのトラウマだの、そんなものも全て「過去の経験の記憶」、より正確に言えば「あなたが解釈した過去の記憶」である。それらが実は「思い込み」であり本当には存在しないものだ、ということは既に見てきた。

あらゆる「過去」が完全に消失したところにあるのが「聖なる瞬間」なのである。判断基準になるべき過去がすっかりなくなってしまうのだから私たちはもう何も判断できなくなる。少なくとも今までのようなやり方では判断できなくなるわけだ。これは私たちにとっていかにも不慣れであり、そのために大変な不安を生じる場合がある。まるで今まで自分が立っていた地面がなくなってしまうような感覚に襲われるのかもしれない。だからこそ聖なる瞬間を迎えるのが怖ろしいと感じる人も多いのである。

しかし、その状態にならないと癒しも奇跡も愛も、何ももたらされないのだ。これらを邪魔しているのは「過去を基準にしてなされる判断」=相手をありのままの姿として見ないこと、だからである。判断が全くできなくなったらメチャメチャになっちゃう!と怖れることはない。それどころか「聖なる瞬間」にはあらゆるものが愛で満たされるのだ。

さて、「コース」の常識は私たちにとっての「非常識」という事態にも慣れてきたのではないかと思うが、ああまたやってくれました!「特別な関係、特別な愛は救いをもたらさないどころか救いの妨げになる」「特定の相手を愛の対象として求めればエゴが強化され救われなくなる」のだそうだ。私はその辺の恋愛なんかには興味ないの、特別なソウルメイトを求めているのよ。すばらしいパートナーに巡り会って愛し合えば救われるに違いないわ!スピリチュアル方面に興味があればそう考える人も少なくないだろう。ここで「コース」はそんな願望を一気に粉砕してくれる。それこそ受け容れたくない、認めたくないと思うかもしれないがとにかくついてきてほしい。「コース」の記述はイヤになるほど筋が通っていて正しいものなのだ。心情を脇にどけて一緒に考えてみていただきたい。

あらゆる人が自分にとって平等の価値がある、なんてことは通常の生活においてはとてもじゃないが認められないし実際にありえない。自分に嫌がらせばかりするAさんと、とても良くしてくれるBさんと、尊敬できるCさんと、よく知らないDさん、好きでたまらないEさん、それぞれ違って当たり前じゃないか!と思っても無理はない。

ああ、しかしこれってやっぱり「神からの分離」の産物なんですよね。そもそも「別々の身体を持った別々の人間」が存在できるってことじたいが既に「分離の産物」であり、しかも「思い込みであり、実際にはありえない」ものでしたよね。あらゆる人が「神のひとり子」であり、全てが一つなのだからそこに序列など存在するわけもないのだった。そこに立ち返って考えれば、本質的な意味においては愛する家族もけさ駅でぶつかったおじさんも同じだけの価値があることになる。通常の生活ではとてもそう思えないだろうが、ああ通常の生活というのもまた「幻想の世界」の中のものなのだった。

「誰か特定の人が他の人たちよりも自分にとって価値がある」というのは実生活では当たり前に見える事実だが、どうしてこれが「当たり前」に見えるようになったのか、と言えばやっぱり「過去の経験からそのように学んだ」からなのだ。

それが「通常の生活」なのである。かといって「時間と空間」が存在することになっているこの世界で身体を持って生きている限り「かかわりを持つ人々」は限られてくるしそれぞれについて「かかわりを持つ時間の長さ」も異なってくる。そこまでは仕方がない。いわゆる「物理的」なことだからだ。しかし、霊的なレベルと物理的なレベルを混同するわけにもいかないではないか。霊的な意味でも「あの人は他の人たちと違うのよ」と思ってしまったら、それはどうしたって「一つであるはずの全てを分離した」ことになってしまうではないか!ついでに言えば、当たり前だが「全てがひとつであり完璧」である天国或いは神の国においては「特定の相手・関係」などというものは存在しない、というか存在できない。

更に!特別な相手を求めたり、誰か特定の人と特別な関係になりたいと望む、それ自体がもう「分離を積極的に肯定し、分離を促進している」ことになる。救いとは正反対の方向である。他の人たちとは違うあの人、私は彼にとって他の誰とも違う特別な存在なのよ、ああ二人だけの世界!ロマンチックな要素をいっさい取り除いてこれらを見てみれば確かに「すべてが一つ」どころではなく「排他的」だと言えてしまうではないか。あなたと私は一つなのよ〜、で済ませてしまってはいけない。「あなたと私」以外の人たちはどうなるんですか?

そのうえ!分離の産物であればそこにはもちろん「罪悪感」と「恐怖」という要素が必然的に入り込んでしまうのである。特別な関係を求めて分離を促進してしまえばこれまた必然的に罪悪感も恐怖も促進される。そして愛と恐怖は全く相容れないものであり、少しでも恐怖が混じればそれはもはや「本当の愛」とは言えない。とすると、これら「特別な関係」の基盤になっているところの「愛」とは「本当の愛」ではなく「不完全な愛」である。永遠不変のものではなく、ころころ変わる。5年前に永遠の愛を誓った相手が今では赤の他人以下である、なんてことも珍しくないではないか。そんな「不完全な愛」を基盤とするような関係だったら、本当の救いになるわけがない。むしろ余計な苦労が増えるだけである。そうでしょう?愛どころか執着まみれになっているのではないか?

まあ、普通に考えても「一人でいるのが寂しいから」という理由で誰かを求めておつきあいしてもうまくいかず、却って寂しさが募るというケースも少なくないのだが、たとえば「共に学んで成長するようなパートナーがほしい」という理由であれやっぱり「救われるために特別な人・特別な関係」を求めているのには変わりない。この人とこういうふうになれれば成長できる、あの人とこういう関係になれれば幸せになれる、そういう人が現れれば救われる、などなどこれらは全て「コース」に言わせれば「想像上のニーズ」であり、私たちはそんなどうしようもないニーズもどきに相手を合わせようとして苦しんでいるに過ぎないのであった。

この人とはダメだった、救われなかった、本当の愛じゃなかった。今度こそホンモノのパートナーを探すのよ!などと、またしても同じことを繰り返してしまう。「特別な人との特別な関係」が救いをもたらすのだと思い込み続けていればそうなる。しかし、あなたが救われなかったのは間違った相手を選んだからではない。求め方を間違え、更には相手に対する見方も接し方も含めて関係の用い方を間違えたのだ。

ここまでお読みになってショックを受けた方もあるかもしれない。しかし、安心していただきたい。「コース」は別に「人を好きになるな、恋愛するな、結婚するな」などと言っているわけではないのである。だいたい、親子であれパートナーであれ師弟であれ既に「特定の誰か」と何らかの「特別な関係」にある人についても、別に「そんな関係はぶち壊せ」などとは言わない。それどころか、何とありがたいことに聖霊は例によってそういうものも有効利用させてくれるのだそうだ。全てはひとつなのだから本来「特別・特定」ということ自体がありえないのに、従って特定の誰かと特別な関係だの特別な愛だの、そんなものはもともと存在すらしないのに私たちはエゴにダマされてそれらに救いを求めてしまった。それらは前回までに学んだ「小さいもの」なのに、そういうものがないと幸せになれないのだと思い込んでしまったのだ。

しかし、聖霊はそれら「エゴを強化してしまうもの」であっても浄化して「本当の愛」を学ぶための機会として再利用する、その方法を私たちに教えてくれる。あらゆる人間関係を、つまりすれちがうくらいの人についても憎みあっている人々についてもまったく同様に、それらを「愛を学ぶレッスン」に変えてくれるのである。

相手が、あるいは関係そのものが悪いから苦しむのではない。救いを求めるつもりだったのにエゴを強化してしまった私たちが間違っていたのだ。だから、それらについては聖霊に任せなさい、聖霊に委ねなさい。スピリチュアルふうに言えば「自力で何とかしようとせず、全て宇宙の流れに任せる」ということになるのだろうか。

でも、これがまた難しく感じるのだ。「執着を手放せ」とか「何とかしようと思わずに宇宙に任せろ」なんて、その通りにしてしまったらますます相手が離れていくんじゃないか、良い人と出会えなくなってしまうんじゃないか、そう思うんですね。しかし、これもまた「やる気」の問題なのだ。本当に何とかしたかったらそれだけ徹底的にやらねばイカンのです。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 131

第15章 その5

これもまた「スピリチュアルコラム」以来の繰り返しになるが、本来「愛」とは特定の何かに対して向けられるようなものではなく、満遍ない状態である。あなたが「愛」の状態にあれば、あなたが見るもの関わるもの全てが愛で満たされないわけにはいかなくなる。そういうものだ。恋愛感情などとは正反対のものだと言っても過言ではない。恋愛感情はいわば「愛の、この世における代用品」なのだが、愛に代用品などありえない。つまり恋愛感情は代用品としてさえ使えないような、それどころか本当の愛を破壊するようなシロモノなのだった。

あの人が一番大事、他の人たちとは違うのだと思うことは「分離」に他ならないと前回も書いたが、それだけではない。その時あなたはそれぞれに対して「自分にとってはこういう人だ」という判断を下してしまったのだ。言うまでもなくエゴによる判断である。

基本的にエゴはその時々の「好み」によって他人を分類する。本当に必要なのよ!と思っていたとしても良く見れば「そっちのほうが大事だと思うから」という単なる「好み」なのである。こっちがいいと思ったけどあっちのほうがもっと良さそうね。そんなこともしばしば起きる。

もちろん、ある人があなたに大きな気づきをもたらすきっかけを与えてくれた、ということは珍しくもない。例えば、たまたま乗ったタクシーの運転手さんの一言が人生を変えるほどの気づきをもたらしてくれることもある。だからといってその運転手さんを「運命の相手」だと思うだろうか?多分あなたはそういう「判断」をしないだろう。ただ感謝してその人との「偶然の出会い」を一生忘れずにはいるかもしれない。しかし、それが「たまたま」恋愛対象になりうる(と思える)異性だったりした日には「この人こそ運命の相手だわ!」などとトンチンカンな考えを起こして「愛の対象である特定の相手」にしてしまい「特別な関係」を求めたりする。そうなれば、もうエゴの思う壺である。

さて、私たちは何故愛(のようなもの?)を求め、愛し愛されるような関係をわざわざ求めるのか。こたえ=自分自身に愛が欠けているからである!正確に言えば「欠けていると思い込んで」いるからである。それを埋めてくれるようなものを自分の外に求める。ところが、自分に欠けているものは相手にも欠けている、なぜなら自分のマインドの中身は外部に投影されるからだ。結局「自分の中にはない愛を持っているはずの相手にも愛はなかった」となる。つまり「愛し愛されていると感じるためにはこうしてほしい、ああしてほしい」と思うことを相手がしてくれないので苦しむ羽目になるわけだが、その「こうしてほしい、ああしてほしい」というあれこれが「コース」の言う「想像上のニーズ」なのである。そんなものはもともと必要ないのに、すべては「私はあらゆるものを与えられた神のひとり子である」という事実を忘れたところから始まった間違いである。

もうガックリ、イヤになるくらい全てが「勘違い」でできているのだ。勘違いをわかったうえで楽しむならそれは当人の自由だが、それができないなら初めから考え直すしかないのである。

もっとも、「愛し愛されるパートナー」などを「それがないと人間失格」みたいまでに思って求めるのは、単に世の中の流行というかマスコミに煽られているせいもある。普通、マスコミはエゴに訴えエゴを煽る方法をとる。それが一番簡単で一番お金になるからだろう。

周囲の人々について「この人は特別」「あの人は良くしてくれたからいい人」「あの人は意地悪をしたから嫌い」などというのはまさに「過去の経験に基づく判断」と分類である。しかも、やはりその時々でころころ変わる。一方「聖なる瞬間」には判断の基準になるような過去が一切持ち込まれないのだった。となれば、毎日一緒にいる家族だろうが、さっきすれちがったオジサンだろうがあらゆる人があなたにとってはその都度「等価」になる。

過去を基準にした判断がなければ期待も執着も失望も何もない、まずこれなら誰でもわかると思う。毎度、卑近な例で恐縮だが、たとえば好きな相手が毎日メールをくれていたのにある時からそれがなくなった、せいぜい3日に一度になってしまったとなればたいていの人は不安になり場合によってはパニックになる。以前にも好きな人が突然去っていった経験があったりすれば、これもまた「過去を基準にした判断」が出てきて「この人も去っていこうとしているんだわ」とますます不安に駆られる。誰の人生・生活においてもこれと同じようなことが恋愛に限らずあらゆる領域で生じているはずだ。

「聖なる瞬間」には必然的に誰もが過去から解放されて「等価」になっており、そこには判断材料もなければ投影すべき罪悪感も恐怖もない。つまり私たちは誰についても「自分と同じ、神のひとり子」としてみることができる。少し前の回で書いたように、ここにおいてのみ「真に完璧なコミュニケーション」が可能なのだ。完璧なコミュニケーションができないのだったら「特定の相手と特別な関係」なんて一体何の意味があるのだろう!

人を見たら聖霊と思え、というのは繰り返し書いてきた。また、「毎日顔を突き合わせているような人でも、その都度『いま初めて出会った』つもりで接するように」と書いたことがある。これを今一度思い出していただきたい。

これこそが「特定の人との特別な関係」を聖霊が浄化して再利用する方法なのである。聖なる瞬間を使えば浄化も再利用も簡単にできる、というわけだ。

神には(というか本来の私たちも)「時間」というものがないのだから当然「過去」もない。私たちがいくら何度も生まれ変わって過去を積み重ねてきたからといって、そんなものは良くも悪くも一顧だにされない。というか、できないのだ。なぜなら、この世の時間にすれば何百年、何千年にも及ぶ時間と数え切れないほどの転生は全て「実在しない夢・幻」だからである。

私たちのあらゆる判断基準は過去生も含めて「過去の経験と記憶」にしかない。聖なる瞬間において聖霊はそれを全て取り去り、新たな基準をもたらしてくれる。聖霊による「新たな判断基準」とは、何とまあ「神」なのだった。もちろんこれは「真理」「愛」などと言い換えても全く差し支えない。神が基準ってどういうこと?これはまず「絶対不変」であり「時間が存在しない」わけだから、例の「人を見たら聖霊と思え」と同じことになる。過去を一切持ち込まず、初めて出会ったような気持ちで尚且つ「聖霊として」見るならば、誰に対してもそこにはいつも新鮮な喜びが満ち溢れるわけだ。

変化と時間とは表裏一体のものである。この愛や関係が変化するかも、と思うから恐怖がある。この世の時間から超越しているところの「聖なる瞬間」にはそれらがないのだ。そこではまず自分が愛に満たされてしまうので、愛もどき?を自分の外に求める必要がなくなる。求める代わりに与えるようになり、与えれば必ずそれ以上に受け取れるのだ。この状態にない限り、私たちは愛の意味など絶対にわからないままなのである。かといって「聖なる瞬間」を固定しておくことはできない。ステキ、これがずっと続いてほしいわと思ったら最後、聖なる瞬間は終わってしまうのだ。それはこの世的な意味で「連続する時間」ではないからである。

よく「神の愛」と「人の愛」という言い方を耳にするが、神の愛には限りがない。更にあらゆるものに対して全く平等に注がれる。あらゆるものは「一つ」なので、そこに何ら差異や区別が生じるわけもないのである。

この世における「特別な関係」については後の章でもっと詳しく教えてもらえるので、ここではとにかく「聖なる瞬間」を用いて浄化することだけを覚えればよいようだ。なぜなら、聖なる瞬間においては特別であれ何であれ「あらゆる関係」が「ひとつのもの」になってしまうからである。まあ、これは至極当たり前のことであって、あらゆる存在が「一つ」であればその中のあらゆる関係もまた「一つ」にならざるを得ない。そこには限りない愛が満ち溢れ、本当の愛はその性質上どんどん拡大されていき、限りなく与えられ且つ受け取られる。ここにおいてこそ奇跡がもたらされるのである。しかも、「全てはひとつ」なのだから、原理から言えばあらゆる奇跡が常に至るところであらゆる人に対してもたらされていることになる。たとえ私たちが気づいていなくても、である。しかし、それらを知覚認識することもまた奇跡のうちなのだ。

私たちがこの世で出会う人たちは限られている。世界の人口を考えるまでもなく、一生知り合うこともなく終わる人々の数のほうがずっと多いのだ。そういう意味では、出会う人たち全てが私たちにとって「特別な人」であると言える。私たちによって奇跡をもたらされるために聖霊が彼らを連れてきたのだ、と「コース」は言っている。人を見たら聖霊だと思え、と同じ意味である。

エゴに支配された私たちは「想像上の必要性」に駆られて愛(のようなもの)を求めてきた。が、いまや私たちにとって必要なものは愛(と平安)を与えることだけになったのだ。そこには如何なる矛盾も葛藤もありえない。

第223回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 128・129

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 128

第15章 その3

神を知る、真理を知るとは本来の自分を知ることに他ならない。そして、本来の自分とは「神から造られた、神とひとつである永遠にして普遍的な存在」であり、神と同様に「大いなる存在」でもある。従って、いずれは滅び変化していくようなこの世での「価値」を追い求めるのは私たちにふさわしいことではないし、そういったものを求めてあくせくしているとき私たちに平和はない。たとえ得られても本当に満足することはできない。

もしあなたが本当の満足と平和を求めるのだったら、小さいものを求めるのをやめなくてはならないのだ。あがないや救い、癒しや奇跡がほしかったら尚更である。また、そうでなくては「コース」のいう「役割」・・赦しと癒し・・を果たすこともできないのである。

というわけで、私たちには常に「自分とは何か、どういうものか」極言すれば「神のひとり子か否か」という問いが突きつけられているような状態なのだ。ここでもまた常に、瞬間ごとに「エゴか聖霊か」「エゴの人質か、神をもてなす者か」(hostage or host)の二者択一を迫られているのである。

「小さいもの」「大いなるもの」といってもこれはサイズの大小ではなく、あくまでも質の問題である。真に価値あるものこそが「大いなる」ものであり、絶対にして永遠・普遍であることがその成立条件なのであれば、たとえば「全世界を制覇する」などという壮大な野望もまた「小さいもの」に過ぎないとわかる。「巨大隕石が衝突して地球が滅亡したらどうしよう」という「壮大な」??恐怖も同様である。

ましてや、お金やら恋愛やらで思い悩み一喜一憂しているような状態なら、もう紛うことなく「小さいものを求めるな!」と一喝されて当然なのである。こんなものに惑わされ振り回される私ではない、だって私は神のひとり子なんだから!といつでも自分自身に喝を入れるようにしてほしいのだ。「コース」のいう「しっかり見張っていなさい」とはそういうことである。何かを得ようとして苦しい思いになってしまったら「これは本当に価値があるものなのか?神のひとり子である私にふさわしいものなのか」と自問しろ、といわれているようなものだ。私たちの日常生活の一コマそれぞれがみんな「私はこういうものだ」という「意志表明」になってしまっているという事実を忘れないでほしい。

もっとも「コース」も導き手である「聖霊」も私たちの意志に反して無理矢理押しつけることは絶対にしない。小さいものを求めるなと言ってもそれらを私たちから奪おうなどとはしないので安心していただきたい。別に「これをやってはいけない」と禁止されているわけでもないのである。ただ、もしもあなたが本気で救いやあがないを求め、本当の意味でスピリチュアルな生き方をしたいのなら「小さいもの」を求めてはいけない。これらは全く逆方向のものだからである。一方を選んでしまえばもう一方は捨てたことになるのだ。

そんなこと、とてもできない!と思うかもしれないが(「コース」も初めはキツイだろうと言ってくれている)せめて優先順位だけでも考え直すことはできないだろうか?いくら今ピンとこないからと言って、神や真理よりもお金や恋愛などがより自分にとっては重要だ、と思うのは「コース」学習云々以前にやっぱり間違っているのだ。そういうものをより優先してしまうということ自体、マインドが闇の中にどっぷり浸かっている証左なのである。要するに、エゴの言いなりになってしまっているわけだ。この状態は明らかに苦しいので誰だって救いを求める。エゴのままで救いを求めれば、それら「小さいもの」が手に入れば救われる、と思うことになってしまう。しかし、これではダメなのだ。というより無理なのだ。その状態から本当に救われたければそれらの価値そのものを見直さなくてはならない。

これについても今までと同様、自分だけでなく他人についても同じように考えることを要求されている。すなわち、誰かについてエゴで反応してしまったらそれは自分のことも相手のことも「小さいもの」だと見なしたことになるのだ。あるいは、「この人を自分の思い通りにしたい」などと考えるのも同じである。となると、この世の恋愛模様は殆どすべて「小さいもの」「本来の自分にはふさわしくなく、求める価値もないもの」であるとわかる。じゃあ誰かを好きになってはいけないんですかっ!それって自然なことなんじゃないんですかっ!と猛抗議なさる方もいると思うが、「するな」ではなくただ「実体を知れ」と言われているのだということをわかっていただきたい。

聖霊に従えば求めるものは与えられるのだった。今回のテーマについても、私たちが自分にふさわしくないものに拘泥することをやめ、大いなるものに照準を合わせていればまさにそれが、つまり神のひとり子にふさわしいような力や価値が与えられ、更にそれを裏づけするような現象が生じる。これもまた実際にそうなってみないとわからないことである。日常レベルのちょっとしたことからでも良いので是非試していただきたい。

求めるものは与えられる、というより繰り返しになるがそれらは既に私たちの中に手付かずの状態でちゃんとあるのだ。マインドの曇りが取れればそれがわかる。

私たちは「小さいもの」で満足するようには造られていない。実際、小さいものであるところのあれこれを求めている人々も「それらを得ることによって私はどうなりたいのか、それらを得ることによって何を求めているのか」を深く探っていけば実は「大いなるもの」を求めていたのだ、と気づくことになる。これも自分で試してみれば簡単にわかることである。つまり、そうと知らずに皆「大いなるもの」の代用品を求めているのだ。しかし、「小さいもの」は「大いなるもの」の代わりには絶対にならない、というかなれない。あれがほしい、あれさえあれば、と思っている人は最終的に自分が何を求めているのか今一度よく考えてみていただきたい。

小さいものばかりが満ち溢れ、それらを得ることが奨励されているようなこの世界の中でエゴの声に惑わされず正しい選択をする・・これもまた私たちの役割なのだ。

誰かを「聖霊」だと思って見てみる・・・即ち、過去の経験からくるあれこれの記憶や自分のマインドの中のあれこれの投影を一切拝して相手をありのままの姿で見るとき、それは相手を「完全無欠・純粋無垢である神のひとり子」だと見ることになる。当然その人は「神の大いなる力をもった大いなる存在」だということにもなる。それは、神の御心・神の力があなたの中の聖霊を通して相手に与えられることでもある。そして、あなたは自分が与えたものを受け取ることになるのだ。いつものとおりの原理である。

さて、「小さいものを求めるのはやめなさい」と言われても「はい、そうします」とはいかないのが人情だ。だって仕事がないと困るじゃない、この恋愛を諦めろっていうの?まあ、そう一足飛びにいかなくても構わない。「求めてはいけない」というのは別に「タブー・禁忌」の意味ではないのだ。それらは逆方向のこだわりを意味してしまう。「犠牲を払え」と言っているのでもない。だいたい、素晴らしいものと引き換えにどうでもいいものを捨てるのがどうして犠牲と言えるだろうか?どうでもいいものばかり求めて四苦八苦して素晴らしいものを忘れている今の私たちのほうがよっぽど「犠牲を払っている」と言えないだろうか?まあ、小さいものを求めたっていいけど、せめてそれが「小さいもの」であり「大いなるもの」の代用品にしてもかなりの粗悪品に過ぎないのだという認識くらいは持っておきたい。

たとえば「愛」である。これについては以前もちょっと出てきたが、大抵の人は「愛」がどういうものか知らない、というより忘れ果てている。そして愛を求めているつもりで本当は全く価値のないような(=実在しないような!)代用品ばかりを求めて苦しんでいる。逆に言えば、私たちは本来の姿を忘れ自己評価を限りなく下落させているために、本来の自分にふさわしい「大いなる愛」を求められなくなっているわけである。そこが少しでもわかれば、今まで求めていたあれこれは「どうでもいいもの」となり無に帰してしまうだろう。

聖なる瞬間とは私たちが自分の中のキリストに目覚め、その偉大さに目覚める瞬間でもある。罪悪感も恐怖もなくただ聖性とそこから派生する平安だけがある。平安!私たちが真に求めるものとは要するにこれではないのか。お金だ、地位だ名誉だ、パートナーだ、美しさだなどのあれこれを求めるのは、それが得られればすっかり安心して平安な状態に、つまり幸せになれると思っているからではないだろうか。

神の御心だけが私たちを完全に満足させてくれる。なぜならそこには「全て」があるからだ。自分が本当は何ものであるかわかってくれば、改めて求めるものなど何もないということもわかるようになる。全てはひとつ、なのだから価値あるあらゆるものは「ひとつ」であり満遍なく満ち溢れている。「コース」はそう言うけど私にはどうしてもあれが必要なの!などと、自分自身にとってのみ必要なもの、などあろうはずがないのである。

これさえ手に入れば、あれができれば救われる!と「自分で」考えることは全て「自己流の救済計画」である。これでは絶対に救われないのだ。エゴの推奨する「小さいもの」に惑わされてはイカン!救われるためには「神のご計画」に従う以外にないのである。「神のご計画」というと何だか「大予言」みたいなものを思い浮かべてしまいそうだが、これは全くそういうことではなくてただ「聖霊の導きによって本来の姿に戻る」、即ち「正しい道を進んでいけば誰でも神を或いは本来の自分を思い出すようにできている」、という消息をそのように表現しているだけである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 129

第15章 その4

さて、「コース」学習はたいそう手間隙のかかるものだと思われている。もっともこの本の厚さを見れば誰だってそう思うに違いない!「テキスト」だけで669ページ、一日一章読んでも1ヶ月、普通はもっと沢山の時間がかかるし「ワークブック」などは1年かけるようにできている。読むだけでも大変なのにそのうえ本当に実践するのはちょっと無理よね〜と思われたりもしているだろう。たとえば「聖なる瞬間」なんて一体いつになったら経験できるのかしら?来年かしら、もっとずっと先かしら?なんて思ってしまうかもしれない。

しかし!!!聖なる瞬間とは常に「いま」でしかないのだ。未来のいつか、などでは断じてありえない。私たちが望めば、つまり過去の自分を捨てる準備さえできればあらゆる瞬間が「聖なる瞬間」になるのだし、またそうでなくてはならないのである。

もっとも、あえてこの世の時間に換算すれば「昨日私は30分聖なる時間を経験しました」などということも言えなくないかもしれない。究極的には全ての時間が「聖なるもの」になるのであり、その地点においては既に時間が超越されていることになる。この世にいながらこの世にない時間を生きるようになる。たとえばキリストは既に「聖なる瞬間」だけに、即ち永遠の中に生きているわけだ。

聖なる瞬間にあるとき、私たちにはエゴがなく自分の中のキリストを受け容れている、つまりキリストに総称されるようなまさに「神のひとり子」になっているのである。

「聖なる瞬間」を経験するかどうか、またどれだけ経験するか、これは専ら私たちの「やる気」にのみかかっている。エゴに乗っ取られないようにマインドを見張り、「コース」のいろいろな教えを素直に実践していればそれだけ学びも早くなるのは当然のことだが、それもこれも全て私たちのやる気次第、聖霊の導きをどれだけ受けられるかについても同様、私たちのやる気次第なのである。「コース」の教えを学ぶのに時間は関係ない。その気になりさえすれば即座に学べてしまうようなものなのだ。なぜなら「コース」は真理に至る道を教えるものであり、真理はシンプルなものだからである。

ひとりでは学べない、これは何度も言われてきたことだし私なりに説明もしてきた。改めて言い方を変えて表現すれば「閉じたマインドでは学べません」ということになる。閉じたマインドのままでは「コース」をまともに読むことすらもできないだろう。言うまでもないことだが、聖なる瞬間にあればマインドは完全にオープンであり、またマインドが完全にオープンにならなければ聖なる瞬間が訪れることもない。

この「マインドがオープンであること」とはどういう状態なのか、ここで詳しく説明されている。

まず、聖なる瞬間において、つまり完全にマインドが開いた状態においてのみ真に完全なコミュニケーションが可能になる。このことは今までに何度となく繰り返されてきたものだ。この状態においてこそコミュニケーションの一つの形として癒しや奇跡が生じることを思い出してほしい。

オープンの逆は「閉じた」状態に決まっているのだが、閉じているとき私たちのマインドは何であれ個人的・私的な考えをその中に隠し持っている。こんなことを考えているなんて知られたくない、自分でも見たくない、そういうものを隠している状態だ。えーっ、でもそれって当たり前のことじゃないの?誰だって人に言えないようなことの一つや二つ心の中にあって当たり前じゃないの?確かに普通の常識では当たり前なのだが、私たちの常識は全て「コース」の常識と正反対なのである。

ものすごく乱暴に平たく言えば、うそをついたり隠し事をしたりしてはいけません、たとえ自分の心の中をすっかり見られてしまっても平気なようにしておきなさい、一点の曇りもないようなきれいな心でいなさい、ということになる。そんな!いつも崇高で善良なことばっかり考えられるわけないじゃない、絶対無理よ。そう思われるだろうが、エゴがない状態とはそういうものなんだから仕方ない。

だが、何と幸いなことに「コース」はそこまで要求していない。純粋無垢な心にしておけ、とは言わない、何故なら純粋無垢などなろうと思ってなれるものではないからだ。それはむしろ聖なる瞬間において与えられる状態だからだ。が「何らかの考えを隠し持とうとする」のだけはダメだ、やめなさいと言っている。ちょっとわかりにくいだろうか?

例えば「恋人がいない、お金がない、太っている、ハゲている」などということを非常に苦にしている人がいて、しかし人前ではそれなりにモテているふりをしたり、高価そうなものを身につけてみたり、さまざまな工夫をして体形をごまかしてみたりする。その人は「恋人がいない、〜がない」こと自体を隠したいのではない。「〜がない」のを自分自身が恥ずかしいと思っており、そのことを隠したいのだ。自分がそれらを苦にしているという考えを隠したいのだ。何らかの事実・事象そのものを隠したいのではなく、それについて自分が抱く「考え」を隠したいのだ。わかりますか?

「あいつをひどい目に遭わせてやりたい」などというのも、その考えを開陳するのが自分にとって良くないことだと思っているから表に出さない。「実は私ってこういうところがあるのよ」と告白したら、聞かされた相手は驚き呆れ自分から離れていくかもしれない、だから言わない。どんなひどいことを心で思っていてもそれがバレなければ、外に表現されなければ自分は悪人にも罪びとにもならないで済む、だから傷ついたりダメージを受けたりすることはない、罰を与えられることもない。つまり「良いことは表に出してもいいけど、都合の悪い考えは表に出さず隠していよう、そうすれば救われる」と思っているわけだ。

これが如何に馬鹿げているか、よくおわかりだろう。隠していれば少なくとも通常の人間関係ではトラブルを起こさなくて済むかもしれない。しかし「救い」とは「コース」学習に限らず宗教的・霊的なものである。どんなカミサマだって普通は全知全能なんだから、いくら隠したつもりでもあなたの心の中なんてハナからすっかりお見通しなんだよ。当たり前じゃないですか。神や聖霊に隠し事ができるとでも思うのだろうか?もちろん、できない。なのに私たちは「隠そう」とする。「隠せる」と思っているからだ。

ここが問題なのだ!別に自分の心の中のあれこれを残らず他人様に向かってぶちまけろ、なんて言う意味じゃない。私的な考えとは分裂したマインドに宿るものであり真理ではない、即ち「間違い」である。間違いを撒き散らしたってハタ迷惑なだけではないか。そうではなくて「隠そう」というマインドの姿勢が問題なのだ。隠そうとする姿勢は言うまでもなく「内向き」になっている。つまり「閉じて」いるわけだ。

だいたい私たちは恐怖や罪悪感があるからこそウソをついたり隠し事をしたりするものだが、そんなことをすれば普通に考えてもやましい気持ちになる、つまり新たに罪悪感を重ね、それによって更に恐怖が増すことになってしまう。ダメージを受けたくない、救われたいと思ったからやったのに、それによってますます救われなくなってしまうのだ。

あらゆる思考・考えはエネルギーだということを思い出してほしい。形のないエネルギーを自分ひとりが隠し持つなどできるわけがないのだ。何らかの考えを「私的に」持つことができる、そう考えること自体が既に正気の沙汰ではないのである。つくづく「コース」の常識は私たちの非常識であるのだが、心情や習慣に囚われず論理によって考えてみればどうしたって「コース」のほうが正しい。

ちょっとくらいならいいだろう、というのも当然許されない。一つでも隠そうとしていればそれは「すっかり閉じている」のと同じことになってしまうのだ。

学習者である私たちは日々失敗を繰り返しつつ学んでいくのだから、当然うっかりおかしな考えを抱く場合もあるだろう。そんな時はその考えに蓋をせず聖霊に委ねなさい。聖霊に渡してしまいなさい。どうやって?というのは例によって「感謝して手放す」のが今のところは最良だろう。その都度「浄化」すればよい、と考えて差し支えないと思う。オープンなマインドになっていれば聖なる瞬間は必ず訪れ、そこにおいて私たちのマインドは純粋無垢な姿になるのである。

認めたくない、見たくない、隠したいことが心にあるうちは聖なる瞬間が訪れない。真のコミュニケーションは不可能になり、従って奇跡も癒しもあがないももたらされない。これらを経験したいと思うなら常に自分のマインドを見張って「私は何か隠そうとしてないか、誤魔化そうとしていないだろうか」と自問し続けなくてはならない。本気で望むなら徹底的に厳しく監視していなくてはならないのである。

「コース」学習の成果は「何回テキストを読んだか、何回ワークをやったか」ではなく「どれくらい本気でやるか」にかかっているのである。今更なのだが、「コース」学習は「いいとこ取り」が全くできないようになっている。ためしにちょっとやってみよう、というのなら構わないのだが、「自分に必要なのはこの部分だけだわ」などと判断して「自己流」プログラムを組むことは絶対にできないし、してはいけない。「コース」序文にもちゃんとそう書いてある。「ワークブック」など、わからなくても受け容れられなくても飛ばさずに「全部やれ」となっている。

マインドをオープンにする、というのも結構覚悟が必要なことである。が、これは全ての基本とも言える部分なので是非頑張って取り組んでみていただきたい。

第222回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 126・127

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 126

第15章 その1

さて、再び時間についての考察と教えである。まずは「時間とは、私たちが分離の産物とし作り出した幻想であり、本当は存在しない」ことと「永遠とは、この世の時間軸上にあるのではなく、今この瞬間においてしか存在しない」ことだけを了解しておいていただきたい。

「どれくらい時間がかかるのか」これが私たちを悩ませることは非常に多い。たとえば3年という時間が長いのか短いのか、そんなこと人によっても違うし同じ人の中でも問題によって違う相対的なものに過ぎない。3年後に結婚するでしょうと言われて「そんなに先のことなんですか!」と泣き出すような方もいらっしゃるのだが、そんな人だってもしも病院で「余命3年」と言われれば「たった3年ですか」と泣くのだろうと思う。いつ頃こうなるとかこれくらい時間がかかる、などもリーディングの結果として私は提供しているが、それはまあお客様の需要に応じているに過ぎないのであって私自身はそれほど重要な要素だと考えていない。時期・時間などは当人の学びや成長の度合いに伴っていくらでも変わりうるからである。

(それにしても、いま現在おつきあいしている相手もいないのに「私はいつ結婚できますか」というご質問をなさる方が非常に多いのだが、「私は結婚するべきなのか」「したほうがいいのか」とお聞きになる方は皆無に近い。これが私には不思議でならない)

上記のような例だけをとってみても「時間」が極めて相対的なのは一目瞭然である。にもかかわらず私たちは時間に支配されて生きている。そもそも「過去・未来」などというものが「現在」以上に重要な意味を持っている(ように見える)、そのことじたいが既に「時間に囚われている」証左である。

以前にも書いたとおり、エゴは過去と未来を結びつけて現在を支配させ私たちが「今ここ」に生きることを妨害する。これに対して聖霊は「いま」と「常に」しか用いない。この2つだけが「永遠」につながるものだからである。

形あるものは全て変化する。そのスピードに違いがあるだけだ。1000年経っても全く同じ、科学的に分析しても時代が特定できないというものはあまり聞いたことがない。たとえば私たちの身体を考えてみれば良い。ある時期まではその変化が成長と呼ばれ、ある時期からは老化と呼ばれる。その変化を表す目安が年齢であり時間なのだ。これは「コース」以前の常識である。誕生日が巡ってくるから年を取る、なんて思っている方はまさかいないと思うが、もしも何もかもが一切変化しないようなところにいれば「時間」など全く不要に決まっている。暦とは惑星の運行に即して定められているわけだが、もし惑星が運行しなければ、あるいは惑星そのものも存在しなければ時間の尺度を決めることもできないではないか。

変化しなければ時間も存在しない。しかし、今の私たちは「幻想」から「本当の世界」への変化を望み、そのために学んでいる。だから、まだ時間の中にとどまっているのは当然なのである。それをどう用いるか、が重要なだけなのだ。「悪いことは続かない、あとはよくなるだけ」と言われれば嬉しいが、だったらまったく同じ原理として「よいことは続かない、あとは悪くなるだけ」とも言えてしまう。事実、苦労の末に安定を手にいれた人は、その安定が失われることを非常に怖れたりするのである。

私たちの身体は変化し続け、ついには死を迎えて白骨となり、更に土あるいは宇宙の塵に帰るのかどうかよく知らないが、とにかく普通に言えば肉体はなくなるのである。この「死」についても繰り返し語られているが、エゴの教えによれば「もっとも怖ろしいもの」つまり最大の恐怖の対象であり、同時に「人生の苦痛から私たちを解放してくれるもの」つまり願望の対象でもある。生きているのが苦しいからといって自殺するような人はこちらのパターンで、やっぱり完璧にエゴのいいなりになってしまっているのだ。死についてのこんな両極端な教えが共存すること、これは「分離」「分裂」を象徴している。これは弁証法でさえない。

生死に関するエゴの教えにはいろいろある。たとえば「死んだら地獄に落ちるよ」と責めさいなみ、死んだらどころか今ここで地獄の苦しみを味わわせる。「死ぬまではずっと苦しいままだよ、でも死んだら楽になるんだからいいじゃないか」とか「死んだらおしまいなんだから今のうちに楽しめ」「来世はすばらしくなるから今の人生はもうダメだけどいいじゃないか、諦めろ」などなど、あくまで「直線的な時間軸」上に全てがあり私たちはそこから抜けられないと言っているわけである。一見「魂の不滅性」を説いているような輪廻転生も、その都度「身体」として生まれ変わることを考えればやっぱりエゴ的な要素を免れない。罪深き存在であるうちは、即ち解消すべきカルマがあるうちは何回でも何百回でも生まれ変わるのが宿命だ!と、これがエゴ版「魂の不死」なのである。何と、これでは生きるも地獄、死んだ後も生まれ変わっても地獄、と言っているのと同じではないか。

こうして、エゴは私たちの学びのためにではなく私たちをその支配下におくために「時間」を利用するだけだ。過去の報いとして「いつか」=未来に終末が、破滅が、地獄がやってくる・・・・罪=罪悪感と懲罰という構図が基底にある。おまけに、ご丁寧なことに「救い」や「希望」までちらつかせてくれる。そして私たちはエゴの思考システムの中でそれらを虚しく求めては失望し続けるのである。

日本人である私たちには今ひとつピンと来ないだろうが、「コース」は一応キリスト教の枠組みを使って書かれているので「死んで地獄に落ちる」といえばこれはもう本当に怖ろしいものだと考えられる。しかし、もちろん「地獄」などというものは実在しない。罪悪感が投影されたものに過ぎない。地獄があるとしたらやっぱり「今ここ」においてのみである。今あなたが苦痛を味わっているのなら、あなたは「今ここで」地獄にいるのである。それと全く同じ意味において、罪悪感から解放されれば今ここであなたは天国にいることもできる。それが聖霊の教えである。

この世における時間で言えばほんの一瞬でよい、たった一秒でもいいからあらゆる苦痛・不満・心配や不安・恐怖などから「完全に」解放され、完全な平安を味わってみる。これはその気になれば本当に「今すぐここで」誰にでもできることなのだ!そして、「コース」いわくこれが「聖霊に捧げる聖なる瞬間」になる。どれくらい長い間お祈りすれば効果があるんですか、どれくらい瞑想すれば無我の境地に至れるんですか、など無意味な質問なのだ。奇跡を、あるいは癒しをもたらすには本当に「一瞬」で十分なのである。過去に一切関係なく、過去の影響を一切受けず、ただ手付かずの純粋なものとしてあるこの「現在」「今」という瞬間、それは常に私たちの前にあるはずなのだ。しかし私たちはそれこそ瞬時にその現在を過去で汚してしまうのだ。たとえば、心の中を感謝で満たしてみればその瞬間あなたは全ての苦痛や不安から解放され完全な平和のなかにいるだろう。そしてそのときあなたにとって時間は既に存在しなくなっている。「コース」は、聖霊がその「一瞬」を永遠と交換してくれる、という表現を用いてあらわしている。浄化されると言っても良いだろう。いっそ初めから聖霊などという概念を使わなくても十分にわかる事態だと思う。

今ここにあり、今ここにしかない「永遠」、永久に滅びることなく喜びに満ち溢れ時間を超越した「瞬間」が今ここにおいて永久に拡大されていく、これも「創造」のうちなのである。

幻想を抜け出して覚醒し本来の自分に戻るのにどれくらいの時間が必要だろうか?一生かかっても無理だわ、と思うかもしれないが、極端に言えば「時間は必要ありません」なのである。10年学ぼうが30年学ぼうが、別に「コース」もスピリチュアルも全然知らなかろうが、気づく時というのはいつでも「一瞬」なのだ。準備さえできればいつでも気づきは起きるのだし、言い換えればその手の「気づき」が起きるとき私たちは時間の枠外にいるのである。ああ、ここまで50年もかかって長かったわ〜なんて絶対に思わない!私はそう断言できる。もっとも「本来の状態に目覚める」気づきとは他ならぬ「時間の幻想性」に気づくことでもあるわけだから50年かかっていようが2週間だろうがそんなことは完全にどうでもよくなるのが当然だ。

気づきは一瞬だが、「コース」に言わせるとエゴの間違った教えを身につけるほうがずっと時間がかかるらしい。自然に逆らい本来のものとは正反対の自分を作り上げるわけだからそのほうがずっと難しいはずだ、と言うのだ。だから「コース」学習を難しいなどと思わないでほしい。

さあ、今すぐやってみましょう。あらゆるネガティブな要素から完全に解放された平和な状態に自分をおいてみましょう。そうすれば忘れられていたあなたの聖性が甦える。「コース」ふうに言えば「聖なる瞬間を聖霊に捧げればあなたは聖性を受け取ることになる」わけだ。

あとでゆっくり、落ち着いたらやるわ、じゃなくて今!今すぐここでやってください。それくらい絶対にできます。電車の中でも会議中でもいつでもできます!


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 127

第15章 その2

私たちは毎瞬・毎瞬生まれているのだという教えもある。和尚も確かそう言っていたと思う。過去の影響を一切受けず、従って罪悪感からも解放され自由になり、毎瞬ごとに新鮮かつ聖なる存在としてあるべきだし、あるはずだというものである。ここで言われているのもそれとほぼ同じことだと思う。

聖なる瞬間を聖霊に捧げるためには瞑想も祈りも不要である。というか、これはいつでもどこでもどんな状態にあってもできなくてはならないことなのだ。他人に対してはああだこうだと批判や攻撃を(心の中だけであっても)していて、瞑想中だけ「聖なる時間」を過ごすなどというのはもうお話にならないのである。誰かのことを考えているとき、誰かと一緒にいるときにこそ試してみてほしい。こう思われたい、こう思われたくない、何よあの人、おかしいんじゃないの?確か前はああ言ってたはずよね、などという「思い」を一切持たずに完全な平和な状態のままで接する。初めはほんの一瞬であっても構わない。人を見たら聖霊と思え!なのだから、誰に対してもそれが聖霊だと思って聖なる瞬間を捧げなくてはならないのだ。そうすれば聖霊があなたの聖性を甦らせあなたを解放してくれるのである。

あなたがエゴやそれに伴うあらゆる苦痛や制限から解放され、神から与えられた愛と平和と喜びを思い出すのにはこの世の時間にすれば「たった一瞬」で十分なのだ。このとき既にあなたは時間の枠外にいる。そしてこの「たった一瞬」にあらゆる癒しや奇跡をもたらす力が働くのである。

癒し・奇跡・あがないなどはいずれも「この世の私たち」だからこそ必要とするものなので「この世」においてもたらされるのだった。しかし、これらは同時に永遠を反映してもいるので、「この世にあってこの世でない」ような現象だと言っても良いと思う。

今更だが、自分がこの身体だったらいろいろな意味で時間に縛られることになる。身体はこの世のものであり変化するものだからである。しかし、自分が身体でなくスピリットだったらどうだろうか?スピリットは神の一部なので変化することなく、とうぜん時間の影響など受けるわけがない。聖なる瞬間にあるとき、私たちはスピリットとしての自分に戻っているのである。

その状態で得られる平安や喜びなどは時間の枠内のものではない。真理が不変で普遍なのと同じで、そこから派生する平安や喜びもまた永遠不変なのである。でもやっぱり続かなかったわよ、という人も当然いるだろう。それは、あなたのほうがこの世の時間の中に戻ってきてまたしてもスピリットを忘れてしまったからだ。

スピリットであれば神の力をそのまま与えられているわけだから、私たちは不安も疑いも恐怖も抱かずあらゆる奇跡や癒しをもたらすこともできるはずだ。当然のことだが、スピリットとしてあるとき私たちは無限の力を発揮できるのである。神は限りない力の源泉だからである。

この「聖なる瞬間」において私たちは過去の全てから解放される、ということは当然罪悪感も恐怖もない。これらが時間・・特に「過去」という時間と表裏一体の関係にあったことを思い出してほしい。そういう観点から見てもこの聖なる瞬間とは時間軸上の一点ではないのである。

時間を気にするな、と「コース」は言うが別に「出勤時間を守らなくて良い」「約束の時間など気にしなくて良い」などという意味ではない。こういうものは「この世の決まりごと」であり、その程度のものだと思って処理すれば良いのである。ここで言われているのはそういうことではない。

恐怖と時間は密接なかかわりがある。だいたい、不安や恐怖は「いつ、そうなるのか」という思いとセットになっている。待つのが辛い、あるいはあなたを待ち受ける(ように見える)災難や不幸が怖い、などなどである。時間を気にするな、とは「恐怖や不安を持つな」というのと同じことなのだ。

しかし、これも前に言われていたことだと思うが私たちは恐怖や不安を手放すことにさえ不安を覚えたりするのだ。あることが非常に心配だとして、その心配をいま止めてしまったら「油断」のような状態になって怖れていることが本当に起こるのではないか、と考える人は少なくない。いつも心配してないと不安なんです、と本気でおっしゃる方もいるくらいだ。いくらその気になったからといって、たった一瞬であってもそうそう簡単に全てのネガティブな思いなんて手放せるわけがないわ!と思う方もいるだろうが、やったことがないからわからないだけである。或いは、やるのが怖いからそういう言い訳をして引き延ばしているだけだ。

「そうなってみないとわからない」ことが多い「コース」の教えだが、その中でもこれはやる気になりさえすれば誰でもすぐにできるという比較的容易なものだ。しかも、いつでもどこでもできる、そういうことになっている。やってみれば必ずわかる。いつの間にかエゴに戻ってしまったとしてもその「聖なる瞬間」に味わった感覚はそう簡単に消えるものではない。ちょっと間違えたらいつでもそこに戻ればよい、ということもわかる。

誰かを見るとき、誰かのことを思うとき、誰かと向き合ったりすれ違ったりするとき、その人をどう判断しどんな感情を抱くか、これは前にも見たように私たちは「聖霊かエゴ」どちらかの知覚認識を選んでいる。エゴに従えば私たちは相手に自分のマインドの中のものを投影してしまうのだが、聖霊に従えば相手もまた聖霊として映ることになる。そのような存在として相手を捉えるとき、私たちはやはり「聖なる瞬間」にいることになる。「コース」学習に例外はない。なぜなら真理に例外はないからである。例外があるようなものを真理とは呼べないではないか。「コース」の実践においてももちろん例外は許されないので「相手にこんなことをされたらいくら何でも怒るわよ、傷つくわよ」なんてこともできないわけだ。そのように自分を正当化すればあなたはエゴの応援をしていることになってしまう。誰に対しても常に「聖霊によって解放された神のひとり子」と思うべきなのだ。そうすればあなたもまた同じように「聖霊によって解放された神のひとり子」になれるからである。ここでもまた「与えたものを受け取る」原理が働いている。

だから、しつこいようだがやってみて下さい。たった一瞬で良いのだが、本当に完全な平安の状態に身をおくことがポイントである。勇気を持って(なぜそんなことに勇気が要るのか、本当は不思議なのだが!)あらゆるネガティブな思いを完全に手放してみよう。手放したつもりが「あ〜手放しちゃった、いいのかしら」と思ってしまえばそこにはまだ「いいのかしら」という不安と疑念が残っていることになる。一瞬でいいから今までの自分を完全に捨てるのです!それについてあーだこーだと思いを抱く別の自分を登場させてはいけないのです!この練習を続けていれば「一つであること」という感覚が実感としてわかるようになる。底知れない神の力が自分の中にあることも実感できるようになる。

そんなとんでもないものがこの私の中にあるなんて絶対に信じられない!と思う人は多いだろうが、「コース」に言わせるとこれは「自分を卑小化」しているのだそうだ。キリスト教ではよく「小さきもの」という言葉が使われるが、これは謙虚なようでいて実は「間違っている」ことになるらしい。大いなる神に対して小さきものである私たち、ということなのだろうが、神とひとつであるならば私たちもまた「大いなるもの」であるはずだ。エゴのままで「オレは偉い、すごいんだ」と思ってしまったらただの誇大妄想だが、神と一つであり全てと一つである、という基盤に立った上での認識(なのだろうか?)であれば「私は大いなるものである」とは端的な事実に過ぎない。そこにはもはや自他の区別がない、ゆえに比較もない。私が大いなるものなら貴方も彼も彼女も誰も彼もみんな同じように「大いなるもの」に違いないのだから傲慢になどなりようもない。というかこの場合の「私」とは身体を持った個体としての私ではなく、絶対的普遍的な自己である。私の感覚ではハイヤーセルフですらない。もっと包括的なもの、宇宙大の自己である。わかりにくいかもしれないが、そこでは神が「私」と言おうが私が「私」と言おうがもはや違いなど存在しないのである。

私たちは自分を「小さいもの」にしてしまっている、これもまた「神からの分離」の挙句の勘違いの一つなのだが、「小さいもの」ばかり追い求めて満足しようとしている。自分の価値を過小評価している。これは日常世界でもよく経験することなのでお分かりだと思う。単に「自信がない」ということでさえ「自分を小さいものにして過小評価」の表れだと言える。自信を持って夢を追求しなさい、本気で望めば何でも叶うのだとスピリチュアル系の教えは説いている。

しかし、「コース」が言っているのはやっぱりそんなレベルのことではないのだった。いわく、「この世のものは全て小さい」。これまでの教えから見れば至極当然のことなのだが、変化したりいずれは滅びてしまうようなあれこれなど所詮「小さいもの」に過ぎない、というわけだ。そんなもので満足してはいけない、あなたにはふさわしくないのだから、と「コース」は言う。別に「世捨て人」になれ、と言っているわけではない。まあ、結果としてそうなっちゃったとしても当人は一向気にならない、そういう事態もあるのだがとにかくここでは「無位無冠の一文無し」を勧めているわけではない。そういう類のものはふんだんにあろうが、全くなかろうが本当に「どうでもいい」のだ、と言っているのである。

第221回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 124・125

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 124

第14章 その10

今までにも「コース」は、一人きりではあがないも救いも得ることはできないと繰り返し語ってきた。しかし、たとえばあなたがたった一人で無人島にいたとしてもあなたは一人きりではないのだ。さらに、物理的な意味で一人きりでいるときに真理に目覚めてしまうケースも多いのである。だから前回の最後にも書いたように「誰かと一緒にやらないとダメだ」というふうにはとらないでいただきたい。要するにこういうことだ。たとえば、あなたが山にこもって一人きりで大きな気づきを得て真理に目覚めたとする。そうしたら今度は山を降りて人々と関わらなくてはならないのだ。本当の意味でのあがないや救いは他の人たちとの関わりの中で「実践」してみるというプロセスを経なければ完了しない。生まれ変わり目覚めた自分、スピリットたる自分として新たに普通の生活をしてみる。そこで「何だ、こんな人たち全然ダメじゃないか」「私は特別だ」と思ってしまえばあなたはエゴに逆戻りしたのだ。

学ぶ、という言葉は「コース」においては「教える」こととワンセットになっている。私たちは教える = 示すことによって学ぶのである。そのためにはどうしても他人との関わりが不可欠だ。そういう意味において「ひとりきりでは学べない」と言われているのである。

更に、スピリットになってしまえばその定義からして「自分はみんなと違うバラバラの存在ではない」わけであるから孤立や引きこもりなどあり得ないのだし、そこで体現される愛や真理はやはりその性質上外に向かって放射されシェアされないわけにはいかない。つまり、目覚めてスピリットの部分で生きるということは取りも直さず「オープン」な姿勢で存在せざるを得ないわけである。自分が学んだことを言葉でみんなに伝えろとか交際範囲を広げろ、というのとも意味が、というか次元が違う。どこで何をしようともスピリットとしての在り方を保っていれば、イヤでも「オープン」になり愛や平和や解放を教え学ぶことになるのである。

従って「ともに学ぶ仲間」といっても「さあ、一緒にコースを学びましょう」とかいってメンバーを募ったりする必要はないのだ。あなたが日々接するあらゆる人々が全員「ともに学ぶ仲間」であり「教え学ぶ相手」になるのである。ここを勘違いしないようにしていただきたい。人を見たら聖霊と思え!なのである。常に、自分に対しても相手に対しても「愛か、愛を求める叫びか」だけを見れば良い。ここも注意が必要だ。いやなことがあったとき、それを「いやなこと」だと感じてしまった時点で相手ではなくあなたのほうが「愛を求めて」いるのだ、と認めるようにしなくてはならない。そして、そういう自分に気づかせてくれた相手に感謝しなくてはならないのである。これも慣れてしまえばそれほど難しいものではない。そうすれば特に意識しなくても奇跡は自然にもたらされる。

「コース」学習は、私たちが本来の自分を取り戻すためのものでもある。本来の自分としてのアイデンティティを回復するのだ。しかし、このアイデンティティという言葉、通常は「他の誰でもない、他でもないこの自分」というニュアンスで使われているのが厄介だ。「コース」における大文字のアイデンティティは「みんな神と一つであり、神のひとり子である」というものであって、その人特有の「個性」などは全く問題にならない。それどころか「あなたも私と同じですよ、神のひとり子なんですよ」というふうにシェアできてしまうようなものである。そのように教え示せば、つまりそういうふうに相手を見てやれば自分自身についても「本当にそうなんだな」と認めることができる。

知は力なり。これは「いろいろなことを知っていればいるほどその知識が力になる」という意味ではない。知恵、というのとも違う。少なくとも「コース」に即して考えれば、全くその意味ではない。知=真理=神なのだ。だからこそ「力」なのである。以前も書いたように、万巻の書を読みつくしたところで真理を知らなければ何にもならない。「コース」原書を 100 回読んで文章を全て暗記したところで癒しも奇跡も訪れないだろう。「されど、肉体は悲し」なのである。

知は力、であると全く同じ意味において神は力である。私たちの想像も及ばないような力なのだが(何しろ、難易度なしで奇跡をもたらす力なのだから!)、私たちはあまりにもわかっていないためにその辺に転がっているいろいろな「見せかけの強さ」に騙されてしまっている。そんなものには本質的な意味での力など全くないのだ。なぜならどれも「普遍性がなく」「永遠に続く保証もない」からである。神と一つであり神に似せて造られた私たちの中には神と同じ力があるのに、それを忘れてしまっている。「見せかけの強さ」のほうにより力があるものだ、という思い込みを身につけ、それらに怖れや憧れを抱いてしまっている。

間違った思い込みを身につけた、とは言い換えれば「学び間違えた」「間違ったことを学んだ」のである。そういう思い込みに自ら縛られて自分を「無力な存在」にしてしまっているのだ。それを一旦解体するのが「コース」学習なのである。

あがないと救いと解放は殆ど同意語である。間違った思い込み=間違った学びから解放されればそれは救いとなる。同時に、過去に学んだことが現在に作用しているわけだから、間違った学びからの解放は当然のごとく「過去からの解放」にもなり、以前に見たように過去から解放されれば罪悪感からも解放される。つまりこれがそのまま「あがない」になるのである。

「コース」や聖霊による学びを「光のレッスン」とすれば、私たちが生まれてこのかた身につけてきたものは「闇のレッスン」なのだそうだ。闇を闇だと認識することさえできず、闇の中を偽物の光で照らした「つもり」で探りつつ生きている。わかったつもり、知っているつもり、になっているだけで本当は何も知らずわかってもいないのだ。まず、ここをしっかり認めなくてはならない。

全てが一つにして完全無欠である本来の状態においては学びなど不要なのであった。そこにはもはや学ぶべきものなど何もないからである。従って、神に学びはなく私たちが直接神から学ぶこともできない。しかし、神と私たちの橋渡しにして導き手である聖霊は、神による光のレッスンを身につけている。私たちに教えるためである。そして、聖霊は常に私たちとともに私たちの中にあり、私たちと一つのものなのであった。ならば、聖霊による光のレッスン・教えを私たちが学べないわけがない。それどころか、既に聖霊が身につけているものなら私たちもまた身につけてしまっているはずである。私たちの学びはこれを思い出すためのものである。分裂したマインドである私たちにとって「コース学習」とは「不要なもの・目覚めや救いを妨害するもの」を落としていく過程だった。

すなわち、聖霊=スピリットとしての私たちは既に全てを学んでしまっている、というか学ぶ必要さえない存在である。が、今のこの「私たち」においては、間違った学びだけが身についている。そういう構造になっている。

先ほどもちょっと書いたが、もっともまずいのは「わかったつもり、知っているつもり」になることである。そうなってしまうと私たちはそれ以上学ぶことができなくなる。自ら必要性を覚えずにわざわざ「馴染みのないもの」を学ぼうとするだろうか?わかったつもりになればそこで成長は止まってしまうのだ。

簡単な見分け方がある。私たちが完全に平和な状態にあり、私たちが出会う全ての人々にもそれが伝わっているかどうか、私たちのことをちょっと考えるだけでもその人々が平和に包まれるかどうか。それが目安になるらしい。平和でないとは即ち神の御心に従っていないことでもあるからだ。

どんな人のことを思い浮かべても、その人は「神のひとり子」なのだと見て平和な気持ちになれるかどうか。まずはここからだ。与えるものを受取る、という原理を思い出してほしい。誰かが自分のことを考えて平和な気持ちになる、そのためにいわゆる「好かれる努力」などをするのはエゴなのだから、ここは間違いのないように注意してほしい。

それ以前に、「そんなことくらいわかってる、知ってるわよ」と思いながら依然として愛と平和に満たされていないのだったら、あなたは何もわかっていないし知ってもいないのだ。それを認めよう!もう、どんなに抵抗があっても、どうしてもここだけは認めよう!これこそが「無知の知」なのだ。己の無知を認めないのは「目覚めたくありません、解放されたくありません、救われたくありません」と言っているのと同じである。つまり頑なであり「閉じて」いる。スピリチュアルを学んでいると自認する人々に限ってこういう傾向に陥るケースが少なくないようなのだ。

簡単にまとめよう。本来の私たちは全てとひとつであり、全てを知っている。だから、正しく学べば絶対にその地点に到達できる。この確信を手放さず、その上で「いまの自分は何も知らない、わかってない」事実を認め、マインドを閉じないようにしておく。マインドが開いて余裕ができていれば聖霊の教え・メッセージを受取ることができるのだ。

 

 

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 125

第 14 章 その11

正しく学ぶとは「間違った学習」=闇のレッスンを拒絶することでもある。抵抗を覚えるならよく考えてみてほしい。もしも今あなたが苦しんでいるとして、それが「正しい判断の結果」として必然的にもたらされる苦痛だったらもう逃れる方法はないのだ。しかし、それが「間違った判断の結果」であればどうだろう?別の判断があり、苦痛以外の結論がある、これはあなたにとって救いにはならないだろうか?今まで学んできたこと、身につけてきたことの結果が不安や苦しみなのだったら、そんな学びは手放すのが当たり前ではないだろうか?その同じ種類の学びの中で救いを求めるからいつもうまくいかないのだ。

そこで、「コース」は次のようなアファメーションを用意してくれている。何か困ったことに直面したり不安になったりしたら次のように言いなさい。

「このことも含めて私は何もかも全然わかっていない。従って、このことにどう反応してよいのかもわからない。しかし、私自身の過去の経験や学びを参考にするのはやめよう。そんなものは私をどこにも導いてくれないのだから」

あのときもこうだったから今度もそうに違いない、あのときはこれで失敗したから今度はこうしてみよう、などといういわゆる「対策」を過去世も含めて今までの経験から捻り出すのは、一見賢明なようでいて実は極めて危険なのだ。そうしている自分が「過去の影響から解放されていないこの私」である以上、その同じ自分が状況を判断し対応を考える時点で既に知覚認識が歪んでしまっているはずだからだ。こういう例はリーディングでも多く見かける。

何かについて率直に対応しようとするならイヤでも上記のアファメーションのようにならざるを得ないのである。

「このことに対して私は怒りを抱くべきなのか?苦しむべきなのか?それが正しい反応なんだろうか?今までの経験では、こういうときに必ず怒り不安にいなっていた。でも、本当にそうなのだろうか?当たり前だと思ってたけど、考えてみたらよくわからないわ。」

こういう姿勢はスピリチュアル的表現を使えば「降参=明け渡し= surrender 」になる。判断能力があると思いこんでいる「この自分」を放棄する。投げ出してパニックになるとか自暴自棄になる、という意味ではない。それではエゴの思うつぼである。ここで聖霊の教えを得るためには、やっぱりいつものようにまず「感謝」だと思う。スピリチュアル方面では様々な「テクニック」があるかもしれないが、最終的には「感謝」「愛」の波動に包まれるという点で同じなのだったら何を用いても構わない。とにかく、まずは聖霊を受け入れるマインドになっていなくてはならない。

「あらゆる光の教えが既に用意され、聖霊が私のために学んでくれた、だから私もそれを教わり学ぶことができるのだ」このことに感謝してしまえばよいと思う。

物理的な意味で、つまり今ここにあなた以外の人が誰もいなくてもあなたは学び奇跡をもたらすことができる。聖霊がいつもあなたとともにあなたの中にいるからだ。しかし、スピリチュアルな意味で「ひとりきり」だったら私たちは何もできない。(もっとも、スピリチュアルな意味で一人きりというのは言葉の上でも矛盾している。そう思いこむのは可能だが、これは殆ど「年取った赤ん坊」「黒い白馬」くらいにあり得ない事態なのだ)。

何につけても私たちは本来ありえないようなことを「できる」と思い込み、本来は黙っていても自然に起こってしまうほど易しいことを「不可能だ」と思いこむ、そのように教育されそのような常識を身につけている。

そういう自分のままで奇跡などもたらせるわけがないのだ。絶対に不可能である。しかし、あなたは奇跡を、癒しをもたらしたくないのか?もしもそれらを生じさせたいと思うなら、今までの自分を手放す覚悟はどうしても必要なのだ。奇跡はほしいけど、これくらいは自分を残してもいいよね、なんてことは通用しないのだ。別にそうしたっていいけど、結局あなたの求める答えが得られなくなるだけだ。このあたりをウロウロしてなかなかスッパリできない人が非常に多いのではないか。たとえば、スピリチュアルな学びを志しながら「この世的」なあれこれの価値にこだわり「この世的」な願望実現を目指したりするとどちらも中途半端になってしまう。だって、今の自分を手放してしまったら大事なあれもこれもなくしちゃうかもしれないんでしょ?そんなのイヤだ!とみんなそう思うのだろう。でも、ちょっと考えてください。奇跡とはあらゆる問題を解決し、あらゆる苦痛や恐怖や試練からあなたを解放するものなんですよ。そもそも、そういうものを「奇跡」と呼ぶのでしたよね。今までの自分に中途半端にしがみついて奇跡をもたらせないなんて、もったいなくないですか?

奇跡もまた過去からの解放である。過去の間違いが現在に作用している、というのが私たちの身についた学び=闇のレッスンなのだ。私たちのあらゆる間違いは、聖霊においては既に正されてしまっている。だが、私たちにおいては自分のマインドがそれを受け入れた瞬間になって初めて正されるのである。そんなものは初めから存在しなかったのだ、とわかるのだ。聖霊の働きはすべて私たちのために、私たちの中にある。

ここには時間のトリックがある。時間もまた聖霊によって学びのために有効利用されるのだが、私たちも次第に聖霊のような時間のとらえ方・使い方ができるようになる。

だから、心のおしゃべりをやめて自分を手放し、導き手であり教師でもある聖霊に耳を傾け全てを委ねてみよう。そういう状態の中で奇跡はもたらされるのだ。

神による創造そのものが既に奇跡なのだ。そしてその奇跡は私たちが気づかなくても、いつも・いつまでも起こり続けており、私たちはいつも・いつまでもその一部なのである。従って、私たちには「分離・バラバラ」というものはないはずだ。全てはひとつ、というのは存在するもの全てにあてはまるのだが、まずは私たちのマインドからである。一人のマインドの中にいくつもの層から成る意識がある、なんてことは本来ありえないしあってはならないのだが、エゴはそういう事態を歓迎し嬉々として研究対象にするのである。そして「わかったつもり、知ったつもり」になり、闇の中に留まるのだ。

いま私に起きているように見えることもそれをどのように判断し対応すればよいのかも私は全然知らない、わからない。今まで習慣的にしてきた反応は全て間違っていた。これをしっかり自覚することだ。本当の学びも理解はそこからしか始まらない。そして理解と平和とはコインの表裏のような関係にあり、一方がなければもう一方もありえず、一方があれば必ずもう一方もあることになる。確かに、理解があれば争う必要はないものだ。私たちのマインドにおいても同様に、理解があれば平和な状態が保てるようになっている。

逆に言えば、前にも書いたように心が平和でないならそこには理解がない、つまり「わかってない、知らない」ことになるわけだ。

ずっと前に、私たちの学びにとって最大のモチベーションになるのは「平和な状態になること」つまり心の平安を得ることだ、と教えられたのを思い出してほしい。知っているつもり、わかっているつもり、というのはマインドを閉ざして聖霊を追い出している状態なので理解も平和も得られない。ええ〜?だって、知らない・わかってない状態なんて不安じゃない?と思うかもしれないが、それこそがエゴの考え方なのである。「私はわかってます」なんていう人には聖霊のメッセージどころか誰も何も教えてくれないものだ。「あっそ、アンタは随分えらいんだね。それじゃあどうぞご自由に」である。そんなこと、この世においてすらあてはまる原則ではないか。

私たちのマインドさえオープンな状態であれば聖霊は確実に教えることができる。もともと聖霊は私たちと一つのものであり、更には神とも一つのものなのだから通じ合えないはずはない。理解も平和も神の力・御心から生じるものであり、その一部であるスピリットの私たちにも本来「理解」が備わっているはずだ。そこに目覚めればイヤでも平和が訪れる、そういうふうになっているのである。

第220回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 122・123

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 122

第14章 その9

この連載のかなり初めの頃にも書いたことだが、私たちの潜在意識の奥深くには暗い闇があるとか私たちは心に闇を抱えているなどという人々がいる。それは全て「分裂したマインド」においてであって、エゴの目から見ればその暗闇の中には私たちを傷つけるようなドロドロの思考や記憶が渦巻いているのである。しかし、「コース」の教えに従えばそれらは全て「思い込みの幻想」に過ぎない。つまり「本当は存在しない」ものなのだ。従って、これらが私たちの解放やあがないを妨害することはない。救いやあがないを妨害しているのは、そういうものを私たちが「隠している」というその行為なのである。何かがブロックになっている、というのも正確に言えば間違いになる。私たちがそれらによって「ブロック」しなければ何も問題はなかったのだ。つまり「ブロックした」という行為じたいがブロックになっている、つまり解放を阻んでいるのだ。

だからこそ、前回書いたように「何もかも残らず、隠さずに聖霊に差し出しなさい」になるわけである。

罪悪感から解放され神の栄光に浴する、そして究極的には天国に至る。これはもう確実なことなのだ。「コース」は「神がそのように聖霊に約束したから」などと語っているが、神と聖霊とは本来ひとつのものであり、まあ言わんとする意味はわかるがこの表現はかなり比喩的なものだと考えたほうが良さそうだ。神が絶対なら、その一部でありしかも私たちのように分裂もしていないマインドである聖霊にも間違いがあるはずもない。

私たちがみな神の子であり神と一つであるなら、自分自身あるいは他人に対して思うこと為すこと全てが神に捧げる行為になるのであった。意識的にせよ無意識にせよ、私たちが神に「捧げた」あらゆるものの中でふさわしいものだけを神は受け容れる。神の子にふさわしいのなら神と一つであるところの神の子にもまたふさわしいものであるはずだ。そうして私たちと神とは与え合うことでコミュニケートし、そのようにして創造は続いているのである。作っちゃったらもう終わり、というのではなく創造それじたいに拡大という要素が含まれている。これは以前にも見たことだ。それが行われるのは「聖なる出会いの場」であり天国だと「コース」は言っている。そこでは何ものにも遮られることのない愛が常に行き交っている。これは要するに純粋なままのスピリットの部分を指しているのだろう。神との交流はスピリットでなければできないからである。私たちはそのことに気づいていない。が、一方でスピリットたる私たちはそのことを知っている。私たちのマインドの中のどこかにスピリットが住まっている、とまあそう思ったほうが当面はわかりやすいだろうが、実はそう考えられるのはマインドが分裂しているからなんですね、これが。

このあたり、原文は神だのキリスト教だのに馴染みのない方々はちょっと抵抗を覚えるかもしれないが、要するに本来の自己であるスピリットまたは純粋理性は真理であり真理を知り、存在の基底に触れつつ存在するものである、いくらそう思えなくても私たちは実際そういう存在なのだ、というようなことを言っているのだ。

聖なる出会いの場にいらっしゃい、つまりスピリットとして在りなさい。聖霊に導かれていればそうなれる。本来の自分=スピリットと一つになりなさい。分裂したマインドから統一されたマインドになりなさい。神あるところに私たちも在る。ここで私たちは真理とも出会うのだ。そうすれば真理は何ものにも代えがたい、代用のきかないものだということもわかる。そこから全てが創造された、その「一つであること」=「一性」とでも言えば良いのか、要するに存在そのものがそこにある。そこから出で来たったところの私たちにはイヤでも創造する力があり、気づかなくても現にそうしている。

神に造られたものは、その創造されたということにおいて必然的に神を知る。被造物に知られることによって創造は達成されると書いてあるが、これもまた分りにくいと思う。要するに、真理はあらゆる存在の中にあり、あらゆる存在によって知られるものであり、知られることによって真理の存在が明らかになる、というようなことなのだがこれでもまだわかりにくいか・・・。まあ、気にしないで構わず先に進んでください。

私たちはあがないによって聖別されるのではなく、もともと聖なるものとして造られた存在だ。あがないは一種の「回復」である。間違い、虚偽、エゴ、制限などという状態から真理、真実、神、永遠という状態への変容である。もう一度おさらいしておくと、真理の上に間違いを持ち込んだ場合、真理はただ見えなくなるだけだが、間違いの上に真理を持ち込めば間違いは駆逐され消失する。これが基本的な原理である。本来の状態においては「矛盾」ということがありえない。矛盾がないからこそ真理なのである。

相変わらずしつこいが、本当の現実とは不変にして普遍のものだ。不変かつ普遍だからこそ本当の現実だといえるのである。この「不変」というのをたとえば時間が止まり全てが凍りついたような「固定された不動の状態」と考えないようにしていただきたい。更に、本当の現実とは時間の経過や気分とともに或いは偶然によって変化していくようなものでもない。スピリチュアル系ではよく「偶然はない。全ては必然だ」などというが、そんなレベルのことでもない。なぜなら本当の現実とはそういう「この世の現象・経験」とは全然違う次元のものだからである。

真理はそれ自身の力によって私たちを解放する。つまり、私たちは真理を見失ったことによってのみ自分を架空の牢獄に閉じ込めているというわけだ。本来スピリットである私たち(のマインド)は、いくら分裂してエゴの支配下におかれていても神と一つである部分を失うことはない。そこを回復させるのがあがないなのである。私たちには神と同じ「聖性」があるのだ。この「聖性」=Holinessとはまあ神の別名だと思っていれば良い。

さて、この世に生きている間私たちは「曇りなき鏡」であるべきだ、と「コース」は言う。いわゆる「明鏡止水」ですね。鏡は良くも悪くもない、ただ映し出すだけである。何を映し出すか、それだけが問題である。曇っていれば歪んだ姿が映し出されてしまうが、曇りなき鏡であれば真実のみが映し出される。これが「正しく知覚認識する」ということだ。自分(あるいはエゴ)を捨ててただの曇りなき鏡になれば、そこに映し出された真実の姿は相手にもまた同じように認識される。そうして私たちは赦しやあがないを教え学ぶのである。

曇りなき鏡になればこの世においても天国を映し出すことができる。この地上は天国にも地獄にもなれるのだ。本当は完璧で愛すべき存在の兄弟姉妹もあなたという鏡が汚れて曇っていたら「イヤな奴」「ダメな人」「ひどい人」に映ってしまうだろう。世界は残酷で怖ろしいところだと映ってしまうだろう。「世界はあなたのマインドの反映である」とはこういうことでもあるのだ。

何かが正しく映し出され、ちゃんと見えるためには光が必要である。暗いところで鏡を見たって訳が分りませんよね。しかし、今の私たちがやっているのはそういうことなのである。汚れて曇った鏡を暗いところで見ていればそこに映る像はいろいろなものに見えてしまう。人により時によりいろいろな見え方・解釈が可能になってしまうのだ。正しく映し出されたものならそれ自身がそのまま映っているわけだから何の解釈も要らない。誰がいつ見ても、ただ「あ、あれだ」で済む話である。

知覚認識は直接知ではないので、真実はそのままの姿ではなく常に「反映されたもの」「マインドに映し出されたもの」として認識される。神も真理も聖性もそのまま知覚認識されるものではないが、それらが何らかの形を取って映し出されたものなら知覚認識できる。それが「幻想であるこの世」と「天国」の間にある「本当の世界」なのである。天国に至れば聖性は何かに反映されることなく直接知られるようになる。

まず自分が曇りなき鏡になって正しい像、聖性を表す像を映し出し、それを周囲の人々に見せてあげなさい。そうすれば彼らは癒され導かれるだろう。なぜなら彼らも自分のマインドの中に同じものを発見するからである。

この「聖性」はどんなものに対しても常に「癒し」の力を現す。癒しとは「間違いを正す」ことでもあった、それを思い出していただきたい。正しい像が映し出されれば自分が思い込んでいた歪んだ像は破棄される。これこそが癒しなのだ。

(このあたりの記述には神殿だの祭壇だのそういう比喩的な表現が続出するのだが、あまりそこに捉われなくて良いと思う。そういう表現のほうが気分が高揚して励まされる人なら問題ないが、普通の日本人にはちょっと無理があるかもしれないという気がする。)ついでに(聖霊もスピリットも本来は同じ一つのものである。が、聖霊は「神と私たちを繋ぐもの・媒介」の役割があるので、それが強調される場合には聖霊という言葉が使われている。聖霊によって私たちのマインドがスピリット主導に回復される、と考えても良い)。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 123

第14章 その10

「奇跡のコース」は難解ではないが、かといって読みやすいものでもない。ただその読みにくさは単に「不慣れ」だからなのであって、理解不能なことが書いてあるわけではない。良く読めば、この本には「犬が西向きゃ尾は東」みたいな、もうイヤになるくらい「当たり前のこと」だけしか書いてない、とわかるだろう。それが「当たり前」に思えないならそちらのほうがおかしいのだ。逆に言えば、どんなに読みづらくても分りにくくても「絶対にわかること」しか書いてないのだから本気で取り組めば絶対にわかる。その信念を手放さないでほしい。

さて、前回の続きである。時間というものが存在することになっているこの世においてさえも私たちは「永遠」をあるいは真理を今ここに感知し映し出し、あらゆる人々に見せてあげることができる。水の面に映った月は本当の月ではないが、それと一つになったとき私たちは本当の月を知ったことになる、そういう感じなのだ。

この世において聖性を最も強い形で映し出すのが「奇跡」なのである。奇跡はこの世においてのみ必要なものである一方で、この世のものではない。時間・空間・程度などあらゆる制限から自由であるという点において、奇跡などこの世ではありえない事態だからだ。そういう事態を私たちは「奇跡的」というではないか!

私たちはその気になれば数え切れないくらいの奇跡をもたらすことができるし、たった一つの奇跡のつもりが増殖して他のところにまで波及することもある。

奇跡には優劣がない。あの奇跡はスバラシイがこの奇跡は大したことない、などということがない。また難易度もない。前にも言ったがニキビを治すのもガンを治すのも同じなのである。どこかのヒーラーが「ニキビなら治せますけどガンはねえ」と言っても私たちはみな納得してしまうだろう。難易度がない、というのはかなり実感しづらいのである。

同じ程度でも「優劣」「重要度」などはまだわかりやすい。私たちの(分裂した)マインドには四六時中いろいろな考え・感情が去来している。どうでもいいような下らないものから重大なものまで取りとめもなく浮かんでは消えている。真理を映し出すようなものであれ、怒りや恨みであれ、きょうの夕食の献立であれ、誰かからメールが来ないというようなことであれ、それらは全く同じように浮かんでは消えるのである。心に浮かぶ時点においては優劣や重要度が存在していないのだ。

これに優劣をつけるのはやはり私たち(のマインド)なのである。浮かんでは消える考え全てに対していちいち同じように対応し囚われていては本当に気がおかしくなってしまう。私たちはとりあえずそれぞれの事情や都合に応じて、浮かんでは消える取り止めのない考えを整理し秩序立てているわけである。その中身はともかく・・たとえば赦しやあがないについての思いよりも「さっきのあの人の態度は何?」というほうが大事なこともあるだろうし・・この「秩序立てをする」「整理して順序をつける」ような機能が私たちのマインドにはあるのだ。この点において私たちのマインドはエゴではない、それ以上のものだということがわかる。なぜならエゴには秩序などというものがないからである。

しかし、上述したように真理を反映するような考えよりも自分の妄想のほうを上位にもってくるようなありさまになってしまうのは「どれが重要か」という判断を個々の分裂したマインドが行っているからだ。判断や解釈をするのは聖霊の役割であって個々の私たちではない、ということを思い出してほしい。「自分にとって重要かどうか」を問うときのその「自分」がエゴ的な分裂した自己であってはどうにもならない、何故ならば「間違い」を基準にしてしまっているからである。というわけで、この「秩序立ての機能」はエゴを制御するのにある程度は役立つ反面、私たち自身にも制限を加えてしまうものになっている。

心に浮かんでは消えるようなあれこれの思いやイメージを追いかけることなく、一切の判断もなしに、どれも同じようなものとしてただ去来するのを眺めるというワークがある。瞑想中に浮かぶ雑念に対してもこのやり方がよく用いられている。このワークは私もずっと昔にやっていたが、有益だったという印象がある。しかし、ここで「コース」が述べているのはそれ以上のもの、即ち私たちの側では一切の判断をせず、聖霊に判断させよ、というのである。

聖霊の判断とは、いかなる場合においても「真理か虚偽か」だけを見るという極めてシンプルなものである。以前、あらゆる感情は愛と恐怖の2つに分類できると述べられていた。そして愛以外のものは全て「愛を求める叫び・愛の要望」なのだった。愛や助けを求めているものにそれらを与える、それは間違いを正すことと同じなのである。そうして生じるのが奇跡なのだ。助けを求めれば助けが与えられる、というただそれだけのことなのである。今更いうまでもないが、奇跡を生じさせるのは個々の私たち自身ではなく「神と一つであるところの私たち」であり、また聖霊が私たちを通して働くのであって、その原動力は神の力である。奇跡がもたらされたとき、私たちは自分もまたその力につながっていることを知るのだ。そこには何の力みもなく儀式なども一切不要なのである。

分裂してしまったマインド、あるいはエゴに支配されてしまったマインドである私たちにはこのシンプルな分類「愛か、愛を求める叫びか」さえできなくなっている。たとえば、いわゆる恋愛感情の99%が愛ではなく「愛を求める叫び」である。ちょっと周囲を見渡せば、または自分の経験を振り返ればよくわかると思う。

おまけにそういう私たちには、自分を含めた周囲の人々の思いや言動についてもその「形式と内容」を混同するようになってしまった、と「コース」は言っている。「コース」に即して考えれば、実体のないものには内容もない。ということは、私たちの抱くあれこれの考えやそこから生じる発言には端から内容などあり得ないわけである。

前にも少し書いたことだが、たとえば相手の言葉そのものに反応するのは明らかに「形」しか見ていない、内容など見ていない状態だと言える。実際には内容なんか初めからないのだ、とは前回の最後で見たとおりだが、たいていの人々はこれを「形」でなく「内容」だと思い込んでしまう。そして一喜一憂するわけだ。ところが、私たちが通常経験するあれこれには「内容」なんかないんだ!そうである。

誰かがあなたに対して何かやったとする。それは常に愛か「愛と助けを求める叫び」かどちらかである。前者ならシェアすればよい。後者なら聖霊を介して求めるものを与え教えてあげればよい。内容とはそのどちらかしかないのだ。しかし、エゴにはそれが全くわからない。形があるものには当然内容もあるものだと思い込んでしまう。その「内容」とは間違った判断と歪んだ知覚認識によるものに決まっているので、もう初めから「無意味・無内容」なのである。

ところで、この厄介なエゴについてあれこれ研究して対策を練ろう!としないでほしい。それもまた全くの無意味なのだ。マインドの研究とエゴの研究とは別物だ。にもかかわらず、エゴに支配された私たちはマインドのエゴの部分をあれこれ分析し研究しては何かわかったような気になったりする。そして結局「何も変わっていない」ことに気づくのである。要するにエゴの自己満足にしかならないのだ。それによって私たちが変容することはない、と言ってよい。つまり、無意識だの潜在意識だの集合無意識なんかをいくら研究したってしょうがないというわけだ。

エゴによる分析や知識は、一つ一つを取り上げてみればそれなりに納得できても統合されたときに「だから、何なの?」になるようなものなのだ。エゴはどこまでいっても分離の産物なのである。従って、これも当然のことなのだが、エゴに支配されたマインドには正しくエゴを判断することさえできないのだ。ひとりきりで学ぶことの危険性がそこにはある。だからといって、エゴに支配された人たちが何人か集まって学んだとしてもやっぱりエゴのぶつかりあいになってしまう。

「コース」は、一人きりで学ぶことはできないと繰り返し言っているのだが、それを「グループ学習の勧め」だと解釈する必要はない。「コース」における「学び」という言葉の意味をよく考えてほしい。

第219回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 120・121

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 120

第14章 その7

「コース」に言われなくても、正しいやり方で、つまり「自分」というものを徹底的に排除したところでトコトン考えられ明らかになってしまったものにはもはや恐怖など入り込む余地がない。そういう意味においても本来は「知れば知るほど、明白になればなるほど怖くなくなる」はずなのだ。ただ、大抵の人はいろいろお忙しいのかそこまで考えたりはしないらしいのである。自分や自分の感情を排除して、しかし「他人事ではない自分のこと」として何かを考える、という習慣がない人が多いのかもしれない。

そもそも、本当に明らかな真理が隠されているように見え、実態もなければ意味も価値もないものが「明らかな真実」であるように見える、というのが今の私たちの知覚認識なのだった。そのような歪みがあるために、恐怖の正体を見ようとしなかったり見たつもりが全然見当違いだったり、という事態を招いているのだろう。たいていの人が自分の恐怖の正体を良く知っているつもりで実は全然知らないのだ。

さて、恐怖と愛とは全く相容れないものであり、恐怖のあるところに愛はなく愛があれば恐怖はありえないのだった。比喩的な言い方をすれば、愛=光を持ち込めば暗闇=恐怖は消えうせるのだ。その光は私たちの中に聖霊と共にある。むしろ、スピリットたる私たち自身が光そのものなのだ、と言っても良いかもしれない。愛によって駆逐されない恐怖はない。だからこそ愛=光=真理には強大な癒しの力があるわけだ。

恐怖=暗闇なら、ものすごく簡単に言えば「暗闇にいる間はどうしてよいかわからないから怖い」と考えてしまっても良いような気がする。光を持ち込めば状況がわかって対策も立てられるから怖くなくなる、のではない!光を持ち込めば「怖いものなど何もなかった」ことがわかるのだ。この違いはあまりにも大きい。

私たちが通常、恐怖に打ち勝ったり恐怖を避けたりするために考えるあれこれは全て「中から何かが出てこないかどうか警戒しつつ暗闇を見張る」ようなものであって、暗闇を消すものではない。見張っている限り暗闇は消えないし、それどころかこれでは却って「暗闇を守っている」ようなことになってしまう。しかし、暗闇が幻想であり実在しないものならば、暗闇を見張るあれこれもやっぱり幻想に過ぎない。それらには本来何の力もないのである。何かを「怖い」と思うとき私たちはそれが自分より強く自分を打ち負かすようなものだと思っているわけであって、つまりその何かに「力を与えてしまって」いることになる。逆に言えば、私たちが思い込みによってそれらに力を与えない限りそれらは存在すらしないのである。しかし、私たちはこうして「暗闇を守る」あれこれをなかなか手放せない。

以前から言われているように、「コース」の教えにおいては生に対して死があるとか罪深さに対して無垢がある、などといった「対立」的な構造が幻想であるとされている。これら両者はこの世においても「同時に存在」することのできないものであるが、同時でなければ両方とも「現実に存在すること」だと認められている。が、「コース」においては片方が実在するならもう一方は幻想であり実在しないものなのである。私たちの常識では生が死によって駆逐される、生よりも死の方が強いような感じになっているが、「コース」によればこれは全く逆なのだ。真理と幻想とどちらがより強力か、言うまでもないことだが真理に出会えば幻想は消失する道理なのである。もちろん、分裂したマインドの歪んだ知覚認識によって幻想の方をより強く信じることは可能だが、いくら信じ思い込んだからといって本当の現実が変わることもまたあり得ない。とにかく、本当の現実においては「対立概念」そのものがあり得ないのである。なかなか実感できないとは思うがとりあえず承知しておいていただきたい。

さて、私たちが勝手に作り出してしまった(と思い込んでいる)あれこれの状況や機能、たとえば身体、判断、否定、選択、決定力などなどを聖霊はただ否定するのではなく正しい」学びのツールとして有効に利用してくれるのだった。同じことを別の視点で、つまり光によって再解釈するわけである。驚くべきことに聖霊は「分離」まで解釈し直して有効利用してくれる。「分離」とは、まあそれ自体が本来はあり得ないものなのだが、とにかく「神からの分離、すべてである一つのものからの分離」という事態を指すものだとされてきた。私たちは一瞬たりとも神から離れたことはないしそんなことは端から不可能だ。しかし、私たちはそれを忘れ神とのパイプが切れたように感じている。私たちのマインドにはそう感じさせる部分があるのだ。聖霊はその部分を私たちから「切り離す」つまり「分離」してくれるそうなのである。簡単に言えば、マインドから間違いを分離してくれるわけなのだが、聖霊は私たちのマインドの中にありスピリットとほぼ同じものであることを考え合わせれば、何と!私たちのマインドは本来「自力で」正しいものを正しいと認識できる機能があることがわかる。純粋理性の純粋認識である。

このように、あらゆるものが聖霊の手にかかれば新たな光で照らされて聖なる目的のために役立つものとして利用されるのだ。だからこそ私たちはいつも「すべてを聖霊に委ねて」いなくてはならないのである。

私たちが勝手に作り出してしまった中でも最たるものの一つが、ああ何と、というかやっぱりというか、「言語」なのである!このブログの連載初回から「真理は言語によって表されない」と私もしつこく言っているわけだが、真理やら神やら本来の状態などなどは全て「言語以前」のものなのだ。私たちの学習もまた「言語以前」の状態を目指している。普通の人類史を見てみても人類の発祥とともに言語があったわけではないし、言語は使用されるようになってからもその都度必要に応じて変化し続けている。ここだけみても言語が絶対普遍のものではない、つまり神によるものではないことは端的に明らかである。私たちはもはや「言語」なしには一日も生活できず、そもそもこの「コース」さえ学べない、それくらい私たちのコミュニケーションは言語に依存しきっている。

しかし「コース」は、やっぱりというか言語はコミュニケーションツールどころかコミュニケーションを破壊するものだとまで言っている。私たちは自分が作り出した言語というものを理解していない、とも言う。自分で作ったものなら理解できそうな感じがするが、「コース」においては真に理解できるのは実在し意味のあるものだけなのだった。実在もせず従って意味をなさないものは初めから理解の対象にすらならない。そんな厄介な「言語」であってもやはり聖霊によるならば学びのためにうまく使えるようになる、と「コース」は言語によってそう語っている。もはや認識さえ言語によらずには不可能になってしまった私たちにとって聖霊の言葉で書かれた「コース」は本当に貴重である。

私たちが何かを本当に理解するとき、あるいは本当にコミュニケーションができたとき、それらは言葉を介したものではあっても言葉そのものによってはいないはずなのだ。書物であれ人間関係であれ本当の理解やコミュニケーションは確かに言語によって生じてはいない、これは実感できる。だからといってこの段階で「言葉は要らない」なんてことはもちろんできないわけで、だからこそ「聖霊に委ねて有効利用」なのである。

具体的にはどうしたらよいのか?聖霊に助けてもらうにはまず感謝、というのはもうご承知だろうが、ここではもう少し詳しく考えてみよう。まず聴いたり読んだりする言葉それじたいに反応しないという努力が大切である。リーディングの現場でも私はいつも口を酸っぱくしてうるさく言っている、「相手の言葉そのものに反応してはいけません」。言葉の裏に何があるか、そんなのはいくらでも詳しく読み取ることができるが、究極的には例の「愛と助けを求める叫び」に集約できる。それを忘れないように。また、自分から発する言葉についてはそれがいかなる意味においても「攻撃の道具」にならないように注意を払いたい。あからさまに相手を責め非難する言葉だけではなく、そこに罪悪感や恐怖・不安がからんでいればどんな言葉を使ったとしても「攻撃」的な臭いが漂ってしまうのである。芳香ならぬ毒ガスになってしまうのだ!私は仕事柄、実例をたくさん知っている。同じような優しい言葉でも「相手に嫌われたくなくて」使うのと、本当に相手のためを思って使うのとではもう全然違ってしまうのだ。端的にエゴと聖霊の違いだと言える。

とにかく口頭であれメールであれ言葉を発する際には、こう思われたくないとかああ思われたいとか悔しいとか思い知らせてやりたいとか(=わかってほしいの、の過激バージョンである)そういう「エゴ的な」気持ちを捨ててください。言っちゃ何だけどバカバカしいです。何よりもあなた自身にとってのダメージになります。こんなことを考えたりやったりして「暗闇を守って」はならないのです。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 121

第14章 その8

さあ、あなたはいったい何を求めているのか?光か暗闇か、直接知か無知か、受難か救いか?私たちは本来の状態を回復すべく学んでいるわけだが、そうなればイヤでも虚構は駆逐され現実だけが残されることになる。しかしそれに先だって学びの方向とゴールを確認しておきたい。あなたは光を、真理を、あるいは救いや平和を求め目指しているのだろうか?もしそうなのだったら「コース」の教えに従っていれば間違いないのだが、そのために必要な努力を払う決心もしなくてはならない。わからなくても受け入れられなくてもやりたくなくても「まず、実際にやってみなさい」と「学習者用ワークブック」にも書いてある。毎日の生活の中のあらゆることが学習の機会になるし、またそうでなくてはならない。その際に当面しばらくの間は知覚認識作用をどのように使うか、ということが非常に重要なポイントになると思う。これまた「聖霊に従って見聞き判断する」のでしたね。「コース」学習がそれなりに進んできていてもやっぱり私たちは毎日間違いをしてしまうのだ。全くの初学者との違いは、おそらく自分が間違えてしまったときにすぐ「まちがえた!これは間違いだ」と気づくという点だろう。次第にどんな小さな間違いでも即座にそれと気づくようになる。間違いだと認めたくない、という気持ちなどとっくに捨て去っているのですぐに気づいてすぐに修正できる、こうしていれば真理を知るための途上にある障害物をすばやく除去できるわけだ。
真理などというものは本来「こんなに明らかなものをどうやったら無視できるのか」と不思議に思うくらいの明らかさをもって現れているので、しかも自分の中に自分とともにあるものなので実は探求も発見も何もあったものではないのだが、どうしてもそういう比喩的象徴的な表現が好まれるようだ。途上にある障害物とは「コース」の表現だが、これも正確に言うならば「知覚認識機能の歪み」とか「目の中の塵」「眼鏡の汚れと曇り」ぐらいなものだろう。
真理が知られてしまったら、私たちが今まで自分自身で作り出し確固たる現実だと思い込んでいたあらゆるものの虚構性があらわになり、たちまちそれらは消え失せざるを得なくなる。今まで「これが私だ」と思っていた自我さえもまた消え失せる。そんなものは実在しない、思い込みの産物に過ぎなかったからである。しかし、前にも書かれていたように私たちはこのような事態を怖れている。今のこの自分やこの人生に満足しているわけでもなく、苦痛や恐怖から解放されたいと思っているのに、そしてそれらは実は全て自分で作り出した虚構であるにもかかわらずそれを捨てるのを怖れている。言ってみれば真理を恐怖で覆い隠してしまっているのである。隠されていれば現実味を失うのも当然のことで、だから真理は私たちにとってもはや「リアル」ではなくなってしまったのだ。本当の現実よりも自分で作り出した妄想の虚構世界の方がずっとリアルだ、というのはもういわゆる狂人と変わりないくらい正気を失った状態ではないか。

あなたはちゃんと真理を知っているんですよ!といくら言われたってピンと来ないどころの話ではないだろう。しかし、「真理はあらゆるスピリットに知られているのだから自分にも知られているはずだ」という確信を手放さないでほしい。その意味内容はさっぱりわからなくてもよいが「そういうものなのだ」ということだけは了解しておいたほうがよいのである。

あなたにはちゃんとわかっているはずよ、と言われてそんなもの知らないわよ!知るわけないでしょ、というのが今の私たちの「現実」だったりするわけだが、実は「知らない、知るわけがない」と思っているというそのことじたいが既に「思い込み」なのである!!自分が神から造られた「ただひとつ」のものではなく「バラバラの個体」だという思い込みと同じで、要するに自分というものが全然わかっていない、自分に関してとんでもない思い違いをしているのだ。本当は「知らずにいる」などという事態そのものが不可能なのである。正確に言うなら「実は知っているのに知らないと思いこんでいる」というわけだ。

生と死、光と闇などに象徴されるところの「相容れない二つの対立概念」が両方とも現実だと思えてしまう、この事態こそが私たち(のマインド)の分離・分裂を表しているのである。どんなにエゴまみれの人でも「完全な闇」とか「完全な死」の中で生きているわけではない。どちらか一方しかないとわかっていれば恐怖はありえない。私たちは日常的にも希望と絶望の間を、幸せと惨めとの間を行ったり来たりしているではないか。これらが同じ数直線上の両端にあるようなものだと認識しているではないか。生と死でさえもそれを免れていない。そういう認識こそが恐怖を生むのである。今は幸せだけど明日はどうなるの?この苦しみはずっと続くのか?希望を抱いても叶わなかったらどうしよう?などというときは対立する二つのもの両方ともがありうる、現実のものであると考えているわけだ。

とにかく、これら対立概念は互いに否定しあうようなもの、本当に相容れないものなのだ。それがなかなかわからないのは私たちに「時間」の概念があるせいでもある。さっきは幸せだったけど今は不安で、なんてことは誰にとっても日常茶飯事だろう。時間差があるために全く矛盾する二つのものが両方とも現実に思えてしまうのだ。しかし、瞬間瞬間について考えればやっぱり私たちは常にどちらか一方だけを受け容れていることになる。

愛=光は闇=恐怖を駆逐する。そうはいっても別に光が闇に闘いを挑んで攻撃するわけではない。真理には自らを防御する必要がないからだ。だから私たちが真っ暗闇のマインドを必死で守っているうちは光も入ってこられない。恐怖や罪悪感があるうちは聖霊のメッセージも受け取れないのと同じ道理である。

私たちにとってはエゴや間違いから身を守るという形の防御だけが必要である。エゴや間違いを守るために防御していたのでは何にもならない。

そこで、「コース」いわく「自分の中の暗闇を残らず聖霊に差し出しなさい」。秘密にして抱えていないで聖霊に渡してしまいなさい、これは別に「実は私はこんなひどいことをしたんです」と打ち明けるということではない。間違いを間違いだと自分でハッキリ認めろと言っているのだ。実はこんなこと考えちゃってるんだけど、しょうがないわよね、私は悪くないわよね、なんて思ってはいけない。間違いは、それが間違いだと認めない限り正すこともできないのである。自分の何が間違っているのかわからない、という人は前のほうを読み返してほしい。もしあなたが苦しんだり怒ったり落ち込んだりしているのならそれは全て「間違い」の結果なのだ、ということを思い出してほしい。間違いを間違いだと認める、というのは普通に考えてもオープンな姿勢だと言える。そのオープンさによって光を招き入れることができるのだ。自分の間違いを認めれば後は聖霊がやってくれる、というのは言い換えれば純粋理性が正しく働くようになるのでもある。

とにかく、「自分の中の暗闇を隠さずに差し出す」というこれだけはあなたのほうでちゃんとやらないとダメだよ、と「コース」は言っている。でないと聖霊にも手の打ちようがないのである。クダランことばっかり考えていれば純粋理性の出る幕などない。

暗闇を聖霊に差し出すとどうなるか?光と闇は共存できない。光は闇を駆逐する。よって私たちの暗闇は駆逐され間違いは正され、ひいては知覚認識機能が正されるわけである。自分勝手な解釈で認識するのではなく、聖霊のあるいはスピリット=純粋理性の光に照らされた認識、これはもうそうなってみなくてはわからないのであるが、何を見ても聞いてもたいてい同じ認識結果に至るようになっているのである。「コース」はこれを「ただ一つの意味、ただ一つの感情、ただ一つの目的」にあらゆるものが溶け込むのだと表現している。結局、「ひとつであること」がわかるようになっているのである。

第218回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 118・119

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 118

第14章 その5

この世の知覚認識も感情も全て判断の結果なのであった。目の前のこれがあなたにはどう映るか? 私たちのマインドは殆ど無意識のうちにこういう判断を瞬時におこなっているのだ。判断・決断とは何も「さあ、これからどうしよう」というレベルのものにとどまらないのである。むしろ、日常の瑣末なあれこれについての判断に注意を払うほうが学びにはずっと効果的である。そのためには判断の結果である認識にまず注意を払うことだ。

そして、それら全ての判断を「自分で」やろうとせず聖霊に委ねなさい、と「コース」はまた言っている。だって、分裂したマインドである今の自分自身には本当に求めるものが何かさえわからないのだから!いちいち聖霊に決めてもらうなんて不自由だわ、と思うだろうか?とんでもない!それどころか、これこそが自由なのだ。おそらく今まで味わったことのない類の自由である。そして聖霊に委ねるやり方は何度も述べてきたのでもうご存知だろう。

そもそも「神から離れてみようかな」と自分で勝手に決めてみたことが全ての間違いの始まりだったわけだし、そうして例えば「潜在意識と顕在意識と無意識」なんかに分裂してしまったマインドに、あるいは歪みまくった知覚機能で正しい判断ができるわけもないのだった。この世に生きている間でさえ、「自分(のマインド)」で何かを判断したり決めたりすることなど私たちには不要だし、むしろ百害あって一利なしだと知るべきだ。前に述べられていたように「自分で」判断する・決めるということがそのまま「神に逆らい神を攻撃する」ことにつながり、その結果ますます罪悪感が堆積していくのであれば尚更である。自分に代わって聖霊に決めてもらうことに慣れれば、毎日生きていくのがどれほど簡単で間違いないものになることか!何でも努力なしに決めたり判断したり選んだりできる、というのは確かにとんでもなく楽なことである。「これはどうするべきか、うーん」と悩む必要が一切なくなるんですよ。だいたい、自力で決断・判断しようとする際にはそこに何らかの「判断材料」があるわけだが、その判断材料の選定からしてもうおかしくなっていたりする場合が少なくないのだ。自分にとって良いほうを選びたい。でもその「良い」ってどういうこと?それすらわからなくなっている人もいる。これはリーディングの現場でもよく遭遇することである。

聖霊に委ねて決めてもらう、これはスピリチュアル方面で「ハートがワクワクすることをせよ」などと言われることとまあ大体において同じようなものである。しかし、たとえばウツ状態になってしまったような人にこれは無理なのではないか。

聖霊に決めてもらうのが何故必要なのかといえば要するに私たちが罪悪感から解放されるためである。自分自身で何かやろうとしているうちは上記のような理由で罪悪感を免れないのだ。罪悪感から解放された状態は直接知に至るための必要条件なのである。裏から見れば、罪悪感があることじたい私たちが「神に似ていない」つまり「神から離れてしまっている」証左なのだから、主客合一という意味において神を「知る」ことなどできない相談なわけだ。私たちの、というより私たちというマインドは神の御心の一部でありそこには常に神がおわします。ところが私たちは罪悪感だの恐怖だのというヴェールを作ってしまったので真実が見えなくなった。神の一部でもあるようなマインドが本当に罪悪感だの恐怖だのそんなもので穢れているわけがない、そんなことは不可能だ。マインドに実際のブロックがあるわけではない、「ある」と思い込んでいるだけなのだ。しかし、思い込んでいるのもまたマインドの一部だ、ということが厄介なのである。マインドの間違いを、間違っているそのマインドで正せるわけがないではないか。だから聖霊に委ねるしかない、これは何度も書いてきたことだが実に重要なポイントである。

神と私たちとが本来は一つであることを考えれば、自分について間違った認識を持つなら神についても間違っていることになってしまう。私は罪深く取るに足りない存在だが神は偉大だ、などというのは「コース」の教えではない。神がどういう存在か、そして神の愛がどれほど注がれているか、そんなことは今こうして身体で生きているこの世の私たちには全く想像もつかない。だから考える必要はない。ただ、毎日どんな小さなことでも聖霊に従いつつ生きていこうと決め実践していればよいのである。

原書の序文にもあるとおり、「コース」は神や愛や真理を教えるものではない。そんなものは教えられないし学ぶこともできない。ただ、それらを知ることを阻んでいるあれこれをマインドから取り去るための教えであり学習コースなのだ。以前には「恐怖」があると聖霊のメッセージは受け取れないと書いてあったが今度は罪悪感の巻である。これがあるうちはあがないがなされない。まあ、あがないという言葉じたいが罪からの解放を表しているのだから当然と言えば当然である。でも結局恐怖も罪悪感も両方とも同じことなのだ。神以外のあれこれで曇ったマインドには聖霊の導きもわからず、癒しも奇跡もあがないも経験できない、ただそういうことなのである。

今更ながら確認しておきたいのだが、聖霊は私たちのマインドの中にあり私たちのマインドの一部なのである。外側にあるのではない。三位一体を思い出してほしい。そして私たちと神とのコミュニケーションはこの聖霊あるいはスピリットの部分でのみなされるのだ。これらは同質だからである。神との交流こそ本当の意味での「生」そのものである、と「コース」は語っている。これは私たちが存在する、存在しているということを別の言い方で表したものだ。神とのコミュニケーションがないものは存在しない、とは「コース」における「コミュニケーション」が「シェア」「創造」と同義語であることを思い出していただければわかると思う。

いずれにしろ、ふだん私たちはそんなことには全く気づかずそれでも存在し生きている。しかしそれでは「十分に生きている」とは言えないのである。

神は私たちに知られることを切望している、とは真理は万人に対して開かれているとか愛はその本質から分かち合われることを望んでいる、などと同じことだ。私たちが間違ってしまったことを悲しんで早く戻っておいでと待ち望んでいる、というわけではなく、言ってみればこれは神の自己愛みたいなものなのである。だから常に変わらずいつまでも切望するのだ。何だか感傷的な言葉に聞こえるが、互いに切望しあうというのは大変な喜びであるに違いないのでこういう表現を使うのもまあわかる。そういうふうに神とつながるところが、というかまあ本来一つなのではあるが、スピリットや聖霊の部分でありそこにだけ本当の現実があるのだ。

さて、それでも私たちはとりあえず「みんなそれぞれ違う」個人としてそれぞれの人生を生きている。それぞれの人生において別々の経験をしているわけで、当然ながらあがないや奇跡もその人なりの状況においてそれぞれ違った形で経験される。そういう意味で私たちはあがないにおいてそれぞれ「特別な」役割を担っている、と言われるのである。普通に生きていれば誰でも「特別な役割を担う」ことになってしまう、ただそれだけのことなので、「はっ!私は何をしたらいいんだろう?」などと考える必要はない。この世における私たちの務め・役割とは癒しでありあがないだ、と以前から繰り返されている通りなのである。更に、あがないのためにはまず罪悪感からの解放が必要なのだった。ということで、誰のいかなる人生においても聖霊のメッセージはただ一つ「神の子に罪はない」これだけなのだ。このメッセージもその都度それぞれの状況に即していろいろな形をとって学ばれ伝えられ示されることになる。どういう形であれそこで学び教え示すことはただ一つ「神の子に罪はない」というものだ。

この事実を私たちは教え示しかつ学んでいけばそれはそのままあがないにつながり、当然のことながら私たちは必ず幸せになる。神の計画とは、幸せになる・幸せでいる方法だけを私たちに教えることなのだ。

とにかく、ここで「罪悪感からの解放・無垢さを学び教えることこそがあがないである」のだからそれを「積極的な意志をもって行うことが私たちの使命なのだ」ということがいろいろな表現で繰り返されている。他人の中に見えるものはまず自分の中にある、誰かを無垢だと見ることによって自分だけではなく相手もまた解放してやれる、「コース」の原理はつねにこれである。

あがないにおいてこそ私たちは一つになれる、というのもまた当然で、あがないがなされているとき必然的にエゴも「個」としてのバラバラの自己も消えうせているわけだ。一つになる、ということを表面的に解釈して「あの人ともこの人ともお互いに同意しあう」などと考えないでいただきたい。そういうレベルの問題ではないのである。

誰だって苦痛から解放されたいはずではないか。だったら自分自身のことも他者のこと責めず非難せず落ち込まず、ただただ赦しを与え教えていくしかないのである。ここはもう頑張ってやるしかない。「この苦痛があるから落ち込んでいるんだ、順序が逆ではないか」と思う人は最初からもう一度読み直してください。ある経験があなたにとって苦痛をもたらすものかどうか決めるのはあなた自身を措いて他にないのですよ。

私たちそれぞれが、それぞれの人生の場面においてそれぞれの経験としてこの事実を学び教えていくのである。一見やり方は全然違っても目標は同じ「罪悪感からの解放」でありそれによって神の平安に至ることなのだ。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 119

第14章 その6

「コース」学習、つまり真理に至るための学びは正しく行えば失敗することがありえない、つまりゴールが保証されているものだ。「コース」に限らずいろいろな方法があるだろうが、学び教えるにあたって別に苦しみや試練にあう必要もない。努力はどうしても必要だが、ちょっと考え方を見直せば努力することじたいがとても楽しく感じられるようになる。自分ひとりが頑張っている、なんて思ってはいけない。いつも言われているように、こういう学習はあなた一人の力では絶対にできないものなのだ。そこにはどうしたって聖霊の力が働かなくてはならない。聖霊と神は一つなので、聖霊に従っているとき私たちは神の限りない力を得ていることにもなるのだ。神の力はそのままスピリットに受け継がれているわけだからもともと私たちに備わったものでもある。これは「個」としての自分から見れば「他力」だし、スピリットとしての自分から見れば「自力」になるんだろうな。

限りない力によっておこなうのだったら「とてもそんなことできません」なんて誰にも言えないではないか。確かに「コース」の教えの中には「そこまではちょっと無理」と思うものも出てくるだろうが、それでもせいぜいが「今の時点ではまだ無理」なのであって、その気になってできないことなど何一つないはずだ。この確信が大切なのである!今は十分にできなくても「絶対にできるはずだ!」と強く確信しつつ進むこと、これが「コース」学習には何より重要な姿勢だと私はそれこそ「確信」している。

神の力によって無垢さや平和を教え示せば、どんな人でもほんの少しでも何かは伝わるものなのだ。その人は抵抗するかもしれないし受け容れないかもしれない。しかし、その人(のエゴの部分)がどう受け止めようと、確かに何かが伝わるのだ。そしてそれが思わぬところに波及したりすることもある。それもまた奇跡の一つなのだろう。だから、是非試してみてほしい。

これは、あくまで「聖霊のメッセージ」を生身のあなたがやはり生身の誰かに対して生身ではない部分で伝達する、というような事態なのである。ここを間違えないように注意していただきたい。たとえば「私たちはみんな神の子なんだ、無垢なんだ、罪悪感なんて持たなくていいんだ」と「この私」が目の前の誰かに伝えたい!と思うこととは全然違う、似て非なるものなのである。これだと「この私」の思考内容を「その誰か」に伝える、という、「この世の生身の、個体としての人間どうしのやりとり」と何ら変わらないものになってしまうのだ。多くの人々がここで勘違いし、当然のように失敗して挫折してしまう。

正しい方法でなされるのなら、伝えることによって私たちは確実に学ぶことができ、そうして言わば「あがないの輪」が広がっていくのである。この輪の中にいれば私たちは絶対に平和で安全なのだ。本来、このあがないの輪から外れている人なんていないのだが、「気づき」という観点から見れば多くの人がそこに自分も含まれていることに気づいていない、そういうふうになる。また、たとえばあなたが誰かについて「あの人は嫌い、あの人はダメね」などと思ってしまえばあなたはその誰かもあなた自身をも「あがないの輪」の外に追い出したことになる。

「あがないの輪」とは「輪」として閉じているのものではなく、それこそ限りなく拡大していくようなものなのだ。創造とまったく同じ仕組みになっている。

あらゆる人の上に平和を!これはその人が平和でありますように、と祈ることではない。非難も心配も何もなく、ただ完璧で純粋無垢な存在、神に造られたままの存在として喜びと祝福をもってその人を見るということである。そうしているとき私たちもまた同じように平和な状態になっている。

自分自身がそのような状態にある時には、つまりスピリットとして在るときには別に「無垢さを教え伝えよう!」なんて力まなくても、何もしなくても或いは何をしていても平和や無垢さが伝播してしまうのだ。「芳香のように」伝わる、和尚ならそう言うかもしれない。くれぐれも芳香が毒ガスにならないように!なんて冗談だが、芳香が漂っていれば多くの人々が自分からあなたのところに近づいてくるだろう。聖らかさと平和に満ち安全なところならば誰だって惹きつけられるはずである。

キリストは「私と共に平和を教え示そう」と言っている。これはなかなか意味深なのだ。キリストの磔刑を思い出してほしい。以前詳しく書いたことがあるが、あれを「受難・磔刑」と見るか「罪のなさと平和を教えるもの」と見るか。まず、キリストを捕らえて磔刑にした人々は言わずもがなだが、あれを「受難。イエス様は罪深い私たちの罪をあがなうために私たちに代わって十字架にかかって下さった」と見てしまうのは自分の中に罪悪感や恐怖があるからだ。あれを受難と見るのはエゴだけだ!ここでキリストは「十字架の死はあがないとは何の関係もない!」とハッキリ語っている。復活こそがあがないを示しているのだ、とも言っている。十字架上で死んだだけでは誰もキリストの真の教えを理解できなかったが、復活したことで「魂の永遠」「救い」を多少なりとも教えられた。ごく普通に考えても、キリストが十字架上で死んで終わっていたらキリスト教はありえなかった。少なくとも世界的な宗教にはなりえなかった。

私たちが毎日の生活の中で感じること、他人に対する態度などは全て「神に捧げている」ものに他ならない。そんなつもりはない、そんな覚えはない、そう思うだろうがちょっと考えてみてほしい。私たちは本来自分も他人もない「ただ一つ」のものであり、更に私たちは本来「神の一部として造られた」のではなかったか。だったら、自分に対する態度も他人に対する態度もけっきょくは同じ「神に対する態度」になるではないか。これを肝に銘じておかなくてはならない。

逆に、感謝や平和や無垢さをもって自他に接すればそれらはやはり「神に捧げた」ことになり、そうすることによってますます自分のものになる。本来の創造とはそういう事態なのである。

私たち自身と目の前の(或いは心の中の)相手を「あがないの輪」の中に入れるか、締め出すか。私たちが誰かを見るたびに私たちはそういう選択をしていることになる。もちろん、私たちの務めは苦しんでいる人々の上に平和をもたらしてあがないの輪に引き入れることだ。

何も知らない赤ん坊が一番幸せだ、などと言う人もいるが、この世において私たちは成長するにつれてそれまでは知らなかった苦難や不幸や恐怖を知るようになる。世の中は知れば知るほど怖ろしい、あんなこともあるのか!こういうことが起こりつつあるのか!知らなかった、何て怖ろしいんだ。これがこの世の学びというものであり、「コース」に言わせれば「学ぶほどにますます不幸になる」わけだ。

「コース」における学びは全く逆であって、まず「本当のことがわかれば何も怖くないということがわかる」と来る。ここからしてこの世の学びとは逆である。本当のことなんか知りたくないわ、だって怖いもん。つまり「本当のこと」の意味内容さえも全く違うということになる。「コース」の言う「真理・真実」は認識不可能な絶対普遍のものだが、この世で言う「真実」とはたかだか一つの認識結果に過ぎない。たとえそれが「地球は丸い」という「絶対間違いない」ように思えることであっても、だ。それを踏まえて読んでいただきたい。

「コース」いわく、光の中、明白さの中に恐怖はありえない。恐怖は暗闇や無知の中にのみ存在しうる。万巻の書を読んで知識を得ていても真理を知らなければ無知なのだ。そして真理とはまず自分がスピリットとして生きることによって知られるものであり、スピリットであればあらゆる恐怖や罪悪感に無縁であるはずだ。だから、真理という光の中にいれば恐怖はありえない。そういう論理である。

恐怖の正体は、事物・事象そのものにあるのではなく(そんな実体は「ない」のだった!)それが「隠されている」ということにある。これもわかりにくいかもしれない。だってそうでしょう、病気でも天災でも失恋でも何でもいいが、何も隠されてなんかいないじゃない!明らかに怖いに決まっているじゃない!そう思うでしょう。

でもねえ、ちょっと考えてみて下さい。病気そのものが怖い、天災そのものが怖い、なんてことは実はないのです。それらによって自分がどうなるか?それらによって生じた事態は自分にとっていかなる意味があるのか?そういうことを考えるから怖いんじゃないですか?そして、そういうものは所詮あなたの「見方・解釈・判断」に過ぎないんじゃないですか?そしてそして、そのような見方・解釈・判断をしてしまうのは何故だと思いますか?そこまで考えたことがありますか?

第218回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 116・117

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 116

第14章 その3

前回の最後に書いたように私たち(のマインド)は毎瞬・毎瞬二者択一を強いられている。それは取りも直さず「幸せか不幸か」「自由か束縛か」「自分を罪深いと思っているかいないか」の選択でもあるので、その都度私たち(のマインド)はどちらかの状態にあることになる。自由で幸せで平和な状態になりたかったら「自分が」そちらを選ぶしかないのだが、大抵の人は「そんなことできません」と思ってしまう。エゴ優位の状態があまりにも強く固定されているために、そもそもそういう選択肢さえ存在せず「どうやったって不自由で不幸」でしかいられない、というふうに感じてしまうのだ。だからこそ「コース」は繰り返し「自分で決断しようとせず聖霊に委ねろ」と言っているのである。聖霊による決断とは実は私たちの中のスピリットによる決断と同じものなのだが、「コース」は「スピリットに決めさせなさい」とは言わない。

いずれにせよ、正しい決定を下せばその結果として平和や幸せが、或いは癒しや奇跡がもたらされるし、間違った決定を下せばやはり当然の帰結として惨めさ・怒り・不安などなどに見舞われることになる。与えるものを受け取る、という法則があるためである。

従って、「存在しないもの」を現実だと思ってはいけない、そのようにして「存在しないもの」に力を与えてはいけないのだ。なぜなら、ますます自分の作り出した幻想に囚われて不幸になってしまうからである。「本当に存在しないものにはいかなる力もない」これが私たちの学ぶべき教えであり、これがわかれば私たちは自分を苦しめるあれこれから解放されるのだ。

この教えは「罪悪感のないものは傷つかない」という形で実践に役立てられる。罪悪感がなければ恐怖もない、恐怖がなければ攻撃もないからである。今までにも何回か述べられてきたことだ。相手に何をされてもそれを攻撃だとみなさないで対応するという例のあれである。あなたが傷つかなければ相手に罪悪感を抱かせることもなく、自分は罪深いものだという思い込みから相手を解放することもできる。それによってあなたもますます解放される。これは相手にあがないを教えたのと同じことになるので、あなたもまたあがないをもたらされるのである。

実際にはその真逆のパターンが起こりやすい。何かひどいことをされ(たと思い込んで)て、ひどく落ち込み悲しんでみせて相手に罪悪感を抱かせ自分が優位に立つ、というこれはもう一種の攻撃である。覚えがある方もいらっしゃると思う。通常の人間関係においてかなり頻繁に見られることなのではないか。せいぜいが、「貴方はひどいことをしたけど許してあげてるの」とばかりにニッコリする、くらいではないか。しかし「許すべきこと」など初めから存在しないのだ。罪悪感のおおもとの原因が「勘違い・実は起こってもいないのにやってしまったと思い込んだこと」だとするならば、そこから派生するところのあらゆる罪悪感にもやっぱり根拠はないのだ。というよりそもそも神だけが全ての根拠であり、神にはないものなら根拠もなく実在もしないのだった。あがないとはまさにその事実を示すことなのだった。

根拠を持たないものはいかなるマインドにおいても実在しない。私にはないけどあの人にはまだあるみたいね、なんてこともありえない。ここになければどこにもない、ここにあるならあらゆるところにもある、そういうものなのだ。

根拠なきものを、つまり本当は存在しないものを「現実にあるもの」だと思う、それだけで神に逆らうのと同じことになってしまう。私たちは深い部分でそれに気づいている。だからこそ幻想を現実だと思い込むたびに罪悪感を積み重ねてしまうことになるのである。

私たちが個々人としてあれこれ考えたり決定したりする、そんなことが「可能だ」と思うことじたい間違いなのだ。あの人の言うことにも一理ある、とか極端な場合には人の数だけ真理がある、なんて言いぐさがまかり通ってしまうのは「この世」という幻想においてのみである。

聖霊に決定を下してもらうとは私たちがスピリットによって決定を下すことであった。スピリットは一つである。私のスピリット、あなたのスピリットなどと言えるようなものではない。ならば、たとえば「あなた」がスピリットによって何らかの決定を下しているとき、それはあらゆる人々の一見バラバラのマインドにある「ひとつの」スピリットもまた同じ決定を下している、ということになる。少々わかりにくいかもしれないが、スピリットというものの性質を考えればどうしてもそうなる。スピリットが正しいと決めたものは「ひとつである全て」にとって正しいのである。正確さを犠牲にして乱暴にわかりやすく言えば、私というスピリットが正しいと決めたものは世界中のあらゆる人々にとっても正しい決定だ、というふうになる。ま、当たり前だわね。だってスピリットによる認識は真理に決まっているんだし、真理は一つに決まっているんですからね。当たり前のことを言葉で説明しようとするとどうしてもクダクダしくなってしまう。

とにかく、そうして考え選択したことはおそらく一種の「創造」となり、全てのマインドに波及するわけだ。全てのマインドが本来ひとつのスピリットなのだからこれもまた当然なのだが、やはり考えただけでは実感しにくいと思う。だから、やってみてください。目の前で起きているあれこれを、また目の前の誰かをどう見るか、どう判断するか。それを聖霊あるいはスピリットによっておこなってみるのです。真のコミュニケーションはここからしか始まらない。

さて、私たちは何を求めているのか?「コース」がそう言うときの「私たち」とは「スピリットとしての本来の私たち」のことであるから、当然その本来の自分にふさわしいあれこれを求めるはずである。が、マインドが分裂した挙句エゴに支配されてしまったため今の「私たち」にはいったい何が自分にふさわしく、何を求めたらよいのかさえわからなくなった。だから、救われたいといいつつも救いをもたらさないようなものを求め、その結果傷ついてしまうのだ。罪悪感を持つこと、つまり「自分は罪深いものなのです」と信じることこそが救いをもたらす、という思い込みもある。しかし、本来の自分が望んでいないようなものは救いどころかダメージをもたらすだけなのである。だからこそ、聖霊に頼みなさい、ということになるのだ。自分で考えて望んだことなんて、たとえ死ぬほどの努力を払って手に入れられたとしてもどうせちっぽけなものに決まっている。本来のあなたにふさわしいもの、もっと素晴らしいものを求めなさい。そんなものを与えられる価値がこの自分にあるのか?個々の身体としての「あなた」には価値はない、というよりそんなもの「実は存在しない」のだが、スピリットとしてのあなたには絶対に変わることのない普遍的な価値がある。私たちは神の或いは神の御心の一部なのだから、神の御心によって与えられるあらゆるものを受け取ることができるのだ。

まあ、こういうことも全て罪悪感の有無にかかわっている。自分には価値がない、と思う人はまず絶対何らかの意味において自分は罪深いものだ、という罪悪感を抱いているに違いないからだ。

何が愛だ平和だ真理だ、そんなものオレには関係ねえよ、とばかりに自信満々でこの世的なあらゆるものを求めて求めて求めまくるような人もいるだろうが、そういう人だってその人なりの「幸せ」を求めている。だからこそ、その「幸せ」をもたらしてくれるようなあれこれを望み求めているわけだが、私に言わせればそういう人々は「幸せ」と「幸せの成立条件」とを混同している。「コース」に言わせれば「その程度のものでよく満足できますね」ということになってしまう。大欲は無欲に似たり、とは良く言ったものである。

これがあれば幸せ、あれがあれば救われる、などということを「自分で」考えて決めたりしてはいけない!エゴに支配された私たちには何もわかっちゃいないからである。何が間違いなのかさえわからなければ間違いを正すこともできないではないか。だから聖霊をガイドにして歩むしかないのだ。聖霊が何もかも教えてくれる、とはいいつつもただ口を開けて待っていれば何かありがたいものが現れて「あなた、これがあれば救われますよ」と教えてくれる、なんてことは多分ない。聖霊を求めてセミナーやワークショップに通いまくる必要もない。要するに、これまでの教え・・人を見たら聖霊と思え、とかどんなことがあっても感謝の念を抱き続ける、などの基本的なことを日々実践し続けていれば自然にわかってくるようなものなのだ。

もっとも、この「コース」自体が聖霊によって書かれたようなものなのだから、「コース」に従って学び実践していけばまず安心だ、とも言えそうである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 117

第14章 その4

聖書にも「裁くな」と書かれているとおり、私たちは自分自身についても他者についても「判断・評価・批判」などしてはいけないのである。何故ならば、私たちはみな神の御心の一部であり、その私たちを判断・評価すればそれはそのまま神を判断・評価してしまうことになるからである。あるいは、自分自身があたかも「全能の神」のごとくに振舞うことになるからである。これこそ冒涜というものだ。私たちが自分自身をあるいは誰かを判断・評価するたびにマインドのどこかがこの冒涜という罪を重ねたと思い込むようになってしまうのだ。

もちろん、繰り返されているように本当は罪などというものはありえない。そもそも私たちが神とは別の何かであり、バラバラの個体だと思い込んでいるからこそ「他者」というものが存在するようになったのだ。全てが一つならばそこに他者はいない。自他の区別もない。他者の存在自体が「間違い・勘違い」ならばそれをどうこうすることなど本当はできるわけもなかったのだ。

罪悪感の根本原因である「罪」など実際にはなかった、ここが全ての始まりである。私たちはいつも、いつまでも神の御心の一部として純粋かつ完璧な存在なのである。

しかし、とりあえずこの世で生きるためには認識機能がどうしても必要だし、認識するためにはまず何らかの判断を下さなくてはならない。これは前にも詳しく説明したことだ。黒い猫、が目に見えるためにはそれに先立ってマインドが「これは黒い猫だ」と判断しなくてはならないわけである。つまり、判断という機能なしにこの世で生きていくのは不可能なのだ。じゃあ、どうすれば?というわけでやっぱり聖霊なのだった。

聖霊に頼みなさい、「私のために判断を下してください」「私のために決めてください」、そうすれば為されるであろう。

なんて言われても、何も起こらなかったらどうするの?と思う人は多いだろう。ここで思い出してほしい。恐怖や罪悪感があるところには聖霊のメッセージは届かないのだった。だから!しつこくなるが常に自分のマインドを感謝の気持ちで満たすようにしてみてほしい。愛でも光でもいいのだが、それでは分りにくい人が多いと思う。何があっても感謝の気持ちを手放さなければ目の前の光景は今までと違うものになるはずだ。自分におきていることについても今までとは違う捉え方ができるはずだ。そして、それこそが聖霊による判断であり、その結果としての認識なのである。このような「聖霊の答え」はいつか得られるようなものではなく、その都度瞬時に且つ確実に与えられるものだ。私たちの目的はまず「認識機能を正す」ことだったではないか。聖霊の愛と叡智を学び、それを兄弟姉妹に示すことで彼らにも教えるのだ。前にも書いたとおり、聖霊の判断とはスピリットのそれでもあるので、あらゆる人に何らかの作用をもたらしてくれるのである。

一人きりで判断したり決めたりする、というのは言い換えれば閉じたマインドの中で考え認識する、ということである。閉じる、とはまず文字通り神に対して閉じているのであり、スピリットを締め出しているのでもある。閉じた状態では神とも、誰ともまともなコミュニケーションなど望むべくもないではないか。

何をすべきかよくわからないとき、まず自分の中の聖霊について考えこう言いなさい。

聖霊は私を導いてくれる。私が自分ではわからないやり方を聖霊は知っているからだ。聖霊は私に学んでほしいと思うことから私を遠ざけておいたりはしない。聖霊は、それが知る全てのことを私のために伝えてくれるに違いない。だから私は聖霊を信頼する。

さて、全ては一つである。既にお題目のようになってしまったこのフレーズだが、学ぶにつれてその深さがいや増してくる。たとえば「あがない」だが、これも以前に述べたように「私はあがなわれたがあの人はまだだ」なんてことは本来ありえないのである。あがないは「全てが一つ」であるようなマインドにおいてなされるのだから、ここでなされたことはあらゆるところでもなされている、そのようになる。

さて、「あがないにおけるあなたの役割は、自分が赦しを求めることではなく赦すこと、赦し方を学ぶことである」と、ここではこれだけわかれば十分なのだが、例によって「そうなってみなくてはわからない」ようなかなりわかりづらいことが延々と書いてある。

最終的には私たちは「天国に至る=神と一つであるような本来の姿に戻る」ようになっているのだが、別にそこまでいかなくても、つまりこの世にあって身体をもって生きていても直接知には至らなくてもできることはいろいろある。赦しもその一つである。

ちょっとおさらい、というか確認しておこう。このブログ連載の初回に「創造というのはその言葉の中に時間の観念が既に含まれている」と私は書いた。「コース」における創造とは時間を超越したものなので必然的にわかりづらくなる。「コース」もここにきてついに「創造について今わかる必要はない」などと言い出した。まあ、創造とは認識ではなく直接知と結びついているものなので、認識の段階に留まっているうちはわからなくて当然なのであった。

更に、神は私たちを自らの一部として自らに似せて創造した、神の御心を光に喩えると、その光が分かたれたものが私たちというスピリットなのである。つまり神の御心と私たちのマインドとは全く同質のものなのである。神が自らを与えてできたもの、それが私たち(というスピリット)なのだ。

私たちはよく「神と共にいる」などと言うが、「共にいる」のなら私と神とは別物だ、と言う意味になってしまう。そうではなくて私たちは神の一部であり、神の御心の中にいるのである。神が存在であり、私たちは存在しているのであり存在しないことなどできないのであれば、私たちが神(の御心)の外に出られるわけもないのである。

これは学んでわかるものではない。こういう真理を或いは愛を知ることができる状態に至るために、それに必要な条件を備えるために学ぶのである。まずは、「神と共にある」ところまで行ければよいのだ。

更に、真理あるいは本来の状態においては一部がそのまま全体なのであった。すると、何ということか、神の一部である私たちはそのまま神そのものである、そういうことになる。だからといって例えば「私は神だ」と私が言うときそれは「碧海ユリカは神である」などという意味では断じてない、のである。「私は神だ」というときの「私」とはもはやこの個人である誰それ、なんかではないのだ。これはもうわかりますね?もっとも、ここに至ってはもはや「私」とも「神」とも言う必要なんかないのだが。

よく「全知全能の神」というが、この「全知」とは「コース」に即して考えれば「神は何もかもご存知です」などという意味ではない。神においては主体も客体もなく、直接知が「何かを知る」という事態ではなく知るものも知られるものも一つであるような状態だ、ということを思い出してほしい。つまり神そのものが「知」なのである。この「知」という言葉、私が苦し紛れに「直接知」と訳してしまっているこの言葉、これが本当に言葉では表しにくい。ともかく神が「知」なら、その一部である私たちもまた同様なのだ。

神=真理とはそういうことなのだ。一つにして全てであり、そこに全てがありそれが全てであるようなものなのだから、当然認識することなどできない。その代わり、そうなってみれば隈なくわかる。

また更に「コース」は、神とは第一原因だとも言っている。そこから全てが生じたのだから当然といえば当然なのだが、この「第一」というのが時間軸とは全く関係ないことに注意してほしい。まず初めに神があってその次に私たちが、という順番でできているわけではないのだ。だったらわざわざ「第一」なんて言わなければいいのに、と思わなくもないのだが、とにかく「初めのものにして全てである」ということを分らせたいらしい。神が第一原因で私たちが第二、ということでは全然なくて、私たちは「第一原因」の一部だ、とも書いてある。

小難しくてよくわからなかったと思うが、とにかくそういうことを踏まえたうえで改めて「与えることは受け取ることである」「受け取るためにはまず与えなさい」という原理を考えてみたい。これも本来は時間軸を超越しているような事態なのである。だから時間的にはまず何かを受け取ったようなことがあってその後自分が与えた、というふうな場合もありうると思う。要は、受け取るのも与えるのもマインドが曇りなく開かれていないとできないことなのである。与えるマインドになっていなくては受け取ることもできない、そういう意味だと考えればわかりやすいのではないか。

私たちが誰かについて「この人は罪がない、無垢な存在だ」と見ればそれが相手にとっても自分にとってもあがないになる、というのはこの原理によるものだ。

第217回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 114・115

第14章 その1

神あるいは聖霊に論理があるように、エゴにもまたエゴの論理というものがある。一見は筋が通っているように思えるが本質的には意味がない、というのは「屁理屈」と同じことである。神の論理が真理と一つのものであるのに対して、エゴの論理は「神から離れたバラバラの状態」という間違いを、あるいは幻想の世界を正当化するためのものなので「筋が通っているようで実はメチャクチャ」だったり非常に複雑でわかりにくいものだったりするのである。「コース」を学ぶとはエゴの論理・エゴの思考システムを捨て去ることに他ならない。

私たちはその本性からして祝福された存在なのだが、そう言われても大抵の人は全くピンと来ないだろう。はあ?何それ、ってなもんである。祝福という言葉が日本語では「お祝い」のニュアンスが強いためにわかりにくいという理由もあると思うが、とにかくピンと来ない。が、何事も同じなのであって私たちが何かをあるいは誰かを祝福できればそれは自分の中に予め「祝福」があったから、つまり自分がまず祝福されていたからだ!ということになる。たとえば、奇跡がもたらされればそれは誰の目にも「祝福だ」と映るだろう。このように、本当の現実が確かにここにあるのだ、という事実を裏付けするようなものを経験していくことも学びのうちである。

直接知の段階に至っていない(至っていれば学びはもはや不要である!のだから)私たちには、神や真理がそのままボン!と現れてくれるような事態は起こらない。何かによって知る、言ってみれば「直接知」ならぬ「間接知」しかない。そうやって直接知に至るために必要な条件が整った状態に至る、これが学びの目的である。

更に、私たちは本来「神と同じように創造する」ために神によって創造された存在なのだが、本当の意味における「創造」とはちょっと言語道断な何かなのである。以前にも何度か触れたが、いわゆる「何かをつくる」こととは全くちがうものなのだ。もともとは生まれも死にもせず形もないスピリットによって形も区別も何もないところで行われることなのだから、今の私たちには本当の意味での創造などよくわからなくて当然なのである。だいたい、何かを「する」という行為も、見る・聞くなどの知覚経験も全て「直接」真理に至るとか創造するなどのものではなく、全て「間接的」にそれらにかかわるものでしかないのである。この世で身体によって為されること全てが、実は本来の状態からすれば「間接的」なやり方でしかないわけだ。このあたりはわかりにくいかもしれないが、今までの教えを踏まえて普通に論理で考えればどうしたってそういう結論にしかならないのだ。かなり驚くべきことなので、是非各自できちんと考えて驚いて下さい。腰を抜かすくらいでは済まないこと請け合いである。

聖霊の学びが真理や幸せに即ち天国に至るためのものであり、学べば学ぶほど平和で幸せになるのに対して、この世の学びは死に向かっているというか学ぶに従ってどんどん不幸になるような類のものである。だから、何も知らない生まれたばかりの赤ん坊が一番幸せだ、などといわれたりするわけだ。この世の学びとは、真理を忘れ、神や神に付随する愛や平和を忘れ、そこから遠く離れた世界で何とか生きていくために必要なものなのである。学ぶにつれて「私たちは神と別物、みんなバラバラの個人」「人生に苦労は付き物」あるいは「お金や地位や名誉やパートナーがいないと不幸だ」などという認識がいっそう固まるわけだ。そういう学びを身につければつけるほど私たちはいっそう囚われて不幸になる。まるで不幸になるために学んでいるようなものである。

それに対して、聖霊による学びは間違いなく幸せに至るためのものである。幸せになるための学びなら本来は「楽しく学べる」はずである。不慣れな教えのために初めは受け容れるのに多少難儀をしたとしても、苦しい思いをするのはエゴだけなのだ。スピリットの喜びはエゴの苦しみだ、ということを思い出してほしい。

「コース」は「こういうことを学べるあなたたちは幸せだね。だから楽しく学びましょうね」と言っている。混同されやすいことだが、努力と苦労とは別物である。エゴの楽しみとスピリットの楽しみも別物である。楽しく学びましょう、というのを誤解してエゴを楽しませてはならない。

この世に生きる私たちは何でも「間接経験」によらないと認識できない、というか認識じたいが既に間接経験なのである。が、聖霊は実は私たちに非常に直接的なメッセージを送ってくれているのだ。聖霊は、まず私たちが絶対に学べないようなもの、即ち本当の愛や光や真理を送っているのであり、それらに照らされた現象(当然、奇跡もその中に含まれる)を認識経験することにより私たちは「本当の現実」を垣間見るのである。つまりそれらは本当の現実を裏づけするものなのだ。

聖霊の教えを一言で表すと「真実は正しい」になるそうだ。正しいから真実なんだろう、当たり前じゃないのと思うかもしれないが、エゴにまみれた私たちにとっては真理が間違っていて自前の幻想世界が正しいものに映っているのである。先の「私たちは神と別物、バラバラの個人」とか「生まれてあれこれやって結局死ぬ存在」など、これが「真実」だとあなたは思うか?そう自問してみればよい。

さて、あなたはいま幸せでしょうか?それとも惨めでしょうか?惨めです、と答えた方は大いに結構です。では何故惨めだと思うのか、どうなれば幸せだと思えるのか、それを考えてみてください。幸せだ、と答えた方も良く考えてみてください。その幸せは何が根拠になっているのでしょう?根拠なくただ幸せ、と思える人は問題ありませんので次に進みましょう。根拠って、そうねえ、まあおうちもあるし不況だけどそこそこお金もあるし、大きな病気もしてないし、家族も健康だし、一応パートナーもいるし、だからまあ幸せだと思うわ、と答えた方!じゃあ、もしおうちを追い出されてお金がなくなって自分や家族が病気になったらその幸せはなくなっちゃうんですか?今の状態が永久に続く保証でもあるんですか?もし明日、不治の病を宣告されたら今の幸せはどうなりますか?

このあたりについてはまたまた手前味噌で恐縮だが、スピリチュアルコラム「シアワセになりたい!」というシリーズで詳しく説明していますのでご興味のある方はご笑覧ください。
http://ameblo.jp/eurekamoureuse/entry-10032094904.html

明日は壊れてしまうかもしれないような「幸せ」って何なの?そんなものに価値があるのか?しかし、悲しいかな、この世における「幸せ」とはせいぜいそんなものなのである。価値のある何かが自分のものとしてあるから幸せ、だけどそれらがなくなったら惨め。そして、それらはいつ目の前からなくなるかわからないような「はかない」ものだ。「コース」に言わせれば「本当には存在しないもの」「無」なのである。そんなものの有無を根拠にした幸せなんて!まるで惨めと隣り合わせのようなものじゃないですか?そんな頼りない幸せなんか本気で求める価値があるのか?それって惨めなことじゃないんですか?

そうなのだ。この世でこの世的な幸せを感じている人だってそういう意味ではやっぱり惨めなのである。自分がまだそのことを知らないだけだ。「裸の王様」という話があるが、まさにあの王様と同じ状態なのが自分でわかっていないのだ。曇りのない目で普通に見れば誰にだって一目瞭然のことが幾重にもねじくれたマインドにはわからない。真実と幻想の違い、真理と虚偽の違いなどこのうえなく明白なのに、間違った学びを身につけてしまった私たちにはそれがわからない。

さて、実在も永続もしないようなものを得て満足していていいんですか?あなたは永久に変わることのない完璧で絶対的な幸せがほしくありませんか?聖霊が教えてくれるのはそういう類の幸せである。

真実は正しい。その他のものは全てどうでもよい、ホンモノじゃないんだから実在もしない。あなたには区別がつかないだろうが、見分けることを覚えなくてはならない。その手助けを聖霊がしてくれる。あなたはどうでもいいもの、実際には存在しないようなものに信をおいてしまって自分自身を欺いているのだ(王様は裸なのに、ああ何とスバラシイお召し物に王冠!と言っているようなものです)。そんなものの代わりに聖霊を信じなさい。聖霊に信をおきなさい。そうすればあなたは欺かれることもなく、真理を見出すだろう。真理を理解すればあなたはそれを愛するようになるだろう。

エゴの思考システムをエゴ支配下にある私たちが自分で解体することなど絶対にできない。何かを正しいと思い込んでしまったマインドが、その何かの真偽について検証できるわけがないのである。わざわざ目隠しをして暗闇の中を歩くようなものだ。そこに必要なのは光なのに・・その光をもたらすのが聖霊なのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 115

第14章 その2

ものすごく卑近な例で恐縮だが、たとえばあなたにとって「なくてはならないもの、これがないと惨めで死にそうだと思うようなもの」を全く持たずに、しかもあなた以上にこのうえなく幸せに生きている人に出会ったとする。その人の幸せも見えずに「ああ、かわいそうに、あれもこれもないなんて、何て不幸な人なんだろう。私はこんなじゃなくて良かったわ」なんて思ったらもうかなり救いようがないのかもしれないが、まあたいていの場合はある程度以上のショックを受けるのではないだろうか。あなたよりはるかに惨めなはずの相手が崇高に見え、自分自身のほうこそ惨めに見えてくるのではないだろうか?どうしてこの人はこんなに幸せなのだろう?そう思うかもしれないし、一緒に幸せを分かち合えるかもしれない。相手から満ち溢れる光に貴方もまた満たされるからである。

聖霊の学びとは例えばこういうことなのだ。別にあなたが世間的に見て惨めな生活をしている必要はこれっぽっちもないが、とにかくあなたが愛と真理の光に満たされて幸せな状態でいればそれは周囲の人に何かを与えずにはおかないのである。あなたの周囲の人々はそうしてあれこれの囚われから解放されることもできる。あなたが別にそういうつもりでいなかったとしても、相手があなたから学んだその姿を見ればあなた自身も「そうなのか、そうなのだ」と教えられることになる。学ぶことは教えることであり、学びの結果はこうして認識されるようになるのだ。どうもこういうことは「教えよう、伝えよう」などと意識しないでただ普通に真摯に対応しているときのほうが起こりやすいような感じがする。

この世のものではない本当の幸せに触れたとき、自分がこれまで学んできたあれこれ、つまり「実在しないものに価値をおいてそれらを求め幸せになろうとする」ようなバカバカしい学びや教えが一瞬にして解体される。本当の幸せを感じればニセモノを求める考えは解体される。もちろん、またすぐに元に戻ってしまうこともあるのだが、一瞬の経験でもマインドのどこかには残る。これは大きなことである。

エゴの思考システムは私たちが必要に迫られて半ば無理やりでっち上げたようなものなので、どんなに真実らしく強固に見えていても私たちが信じるのを止めれば即座に消失してしまう。一方、聖霊やスピリットの思考システムは神とともに始まりの始まりからずっとあり続けるものなので、私たちが信じようが信じまいが、忘れ果てようが消えてなくなることはありえない。

今までの学びを捨てて学び直す、そのためには今まで「常識だ」と思ってきたことを何もかも一旦聖霊に委ねるのだ。と言われると、今まで大切だと思ってきたこと全てを失ってしまうのか!と思って怖ろしくなるかもしれないが、そういう意味ではない。もっとも、もはや何の価値も意味もないとわかってしまったら失うことを怖れなくなるし、だいたいもともと「ない」ものはそれ以上失いようもないのである。ただ、いきなりその地点を強要されることはありえないので心配せずに前に進んでほしい。

生きていくためには、幸せになるためには、あれもこれも必要だわ、あれがなくなったら困るからこうしておかなくちゃ、片時も安心できないわ、なんて思いつつ生きているのはかなり不自由なことではないか。そういうところから解放されたからといって何もかも失うわけではない。むしろ、必要なものはかならず無理なく与えられるようになる。

聖霊によって学ぶとは、私たちが自分で作り出したあらゆる幻想・間違いから私たちを解放するものでもある。前章にあったように、その解放を怖れている部分も私たちにはあるのだが、解放された自分がどう感じるかなど今の自分にはわかるわけがないのだから余計なことは考えずに前に進んでみてほしい。何しろ「真実は正しい」のである。この教えの前にすればあらゆる幻想・間違いはその本性を丸出しにして消えざるを得なくなる。以前、あらゆる過去を消し去って兄弟姉妹を見よ、と書かれていたが、ここでは同じことが「解放されたものとして彼らを見よ」などとなっている。いずれにせよ、相手を聖霊だと思って見よ、キリストのように見よ、と同じことである。

さて、この世の学びの特徴の一つに「恐怖や罪悪感を契機とする」ということがある。こんなことをしたら嫌われるでしょ、あんなことをしたら先生に怒られるでしょ、世間様に対してみっともないでしょ、これを覚えておかないと恥をかくわよ、などなど、まあ普通の教育というのはえてしてこんな感じなので学ぶほうも渋々ながら仕方なく、とか反抗したりとか、そういうふうになってしまう。「楽しく学びましょう」にはならないことが多い。しかし、聖霊の学びにおいては恐怖も罪悪感も邪魔になるだけだ。聖霊の学びは幸せに向かうものだが、罪悪感や恐怖は私たちをそこから遠ざけるものだからである。平和で幸せになりたいから学ぶ、あるいはただ真理を知りたいから学ぶ、それだけで十分なのだ。

本当に恐怖・不安・罪悪感がない状態にあるとき私たちはこの世からも時間からも解放されている。だが、大抵の人は誤解している。汚染物質のごとくに不安や恐怖や罪悪感を測る目盛りのようなものがあるとして、ああ今日は罪悪感度数35だから昨日より楽だ、とか不安度15にまで減った、みたいに、単に「程度の違い」の問題のように捉えてしまっている。そういうことではないのだ。恐怖も罪悪感も不安も「あるか、ないか」だけが問題なのであって、まあ学びとか生活のしやすさなどという観点からみれば大きいより小さいほうが良いのは確かだとしても、本質的にあるいは究極的には「ほんの少しでもある」状態と「罪悪感にまみれている状態」は同じものになってしまうのである。厳しいことだが論理的にはどうしてもそうなる。

だから、最終的にはその目盛りごと投げ捨てないとダメなのである。たとえばダイオキシン濃度を測る機械があるとして、常に目盛りがゼロを示し続けていればもう「ないも同然」にはなるのだが、「そういう物質は実は存在しませんでした、あれは間違いでした」となれば計測器自体が不要になる。この違い、実に重要なのだ。何かが「ある」と「ない」とはコインの表裏のような関係であり、「ある」の中に「ない」が含まれ「ない」の中に「ある」が含まれる、というのがこの世の弁証法的法則なのだが、それは「コース」の教えによれば「間違い・幻想」なのである。

しかし、学びの段階ではとりあえず恐怖や罪悪感の目盛りをできるだけ減らしゼロに保つようにする、という努力から始めるしかないのである。誰だってつい恐怖や罪悪感に引っ張られそうになるときがある。そうしたらこう思えと「コース」は言っている。

「私が経験することは全て自分のマインドの中のものが表に出た結果である。罪悪感がなければ怖れるべきものは何もない。あがないを受け容れればそれは現象となって現れる。私はそういう経験を選ぶ。あがないを拒絶した結果としてもたらされる経験は選ばない。自分には罪悪感がない、その事実を受け容れればそれは現象となって表わされ、人々に分かち合うこともできる。父なる神から与えられた平安を兄弟姉妹にもたらすことができるようにしてください」

さて、私たちは罪悪感(や恐怖)と折り合いをつけるというわけにはいかない。ちょっとくらいならまあ我慢できるし、あっても仕方ないかな、ではダメなのだ。よく考えてみてほしい、これは「私たちが作り出した思い込み」であり「本当には存在しないもの」なのですよ。以前から繰り返されているように私たちは毎瞬ごとに選択を余儀なくされている。エゴか聖霊か、受難か救済か、恐怖か愛か、闇か光か、マインドは常にどちらか一つだけを選ばなくてはならない。どちらも選ばないとか少しずつ選ぶなどということは絶対にできない!たとえば「半分死んで半分生きている」なんてことがありえますか?

更に、ほんの少しでもエゴの側を選んでしまったらそれは「完全にエゴを選んだ」のと全く同じことになる、という厳しくも恐ろしい事実がある。これも当たり前のことだ。なぜならこれらの選択は取りも直さず「虚偽か真理か」の二者択一なのであり、少しでも虚偽が混じったものをもはや「真理」と呼ぶわけにいかないからである。そんなぁ、ちょっとくらいマケてくれてもいいじゃない、と思いたいだろうが、そんなことどうしたって無理な相談なのだ。

そして面白いことに、もしも闇(や恐怖や虚偽)を選んでしまえば私たちは光を怖れ、同時に闇までも怖れる羽目になる。なぜなら闇を現実のものにしてしまうからである。

第216回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 112・113

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 112

第13章 その12

前回の最後に書いたように、私たちは罪悪感の本当の原因を勘違いしている。更に、罪悪感はさまざまな形を取って(投影されて)現れる。このように罪悪感はその原因も現れ方も、巧みに「他のものにすり替えられて」しまうことが非常に多い。

「コース」はここで、例によってしつこいくらいに「マインドの外側を見ないで内側を見なさい」と繰り返している。マインドの、というところがミソである。つまり、自分に関することならば全て「内側」だと思ってしまう人が結構いるのだ。「自分の」身体も家庭も仕事も性格も運も全て「マインドの外側」のものだ、ということをよくわかっておいてほしい。それらに意味を与えているのはマインドに他ならないではないか!それがわからず、マインドの外側ばかりを見ているとき、私たちはやっぱり罪悪感にまみれていることになってしまう、そういう道理なのである。

あんなことしちゃった、どうしよう、そういうふうに「罪悪感」を抱くのなら、それはもともと貴方のマインドの中にその雛形があったからなのだ。「あんなこと」は本当の原因ではない。本来の自分を否定し神を否定したという思い込みこそがその雛形なのである。これを捨てない限り私たちは罪悪感からも恐怖からも解放されないのだ。

本当にこんなに悪いことをしたんだから罪悪感を抱いて当然よ!と思うことももちろんあるだろう。しかし「コース」に則れば、いかなる罪悪感も正当化できないのだ。なぜならば、そもそも私たちが罪を犯したと思っていること自体が「間違い・勘違いの思い込み」であり、間違いを正当化するわけにはいかないからである。無理やり正当化してしまえば、間違いに更なる間違いを重ねることになるだけだ。私たちは神の御心の一部であり、神の御心の中には間違いも罪悪感もありえない、ゆえに罪悪感にはいかなる根拠もないのである。

しかし、本当に人を虐待した・殺傷したなどという場合はどうなるのか?罪を犯したというのは思い込みであって本当は何も起こっていないのだから私は無実です、と主張できるものだろうか?何も起こってないもーん、と言ってしまえるものだろうか?「コース」を読んでいてこんな疑問を抱く人も少なくないと思う。人を殺しておいて「あれは夢です」と言われたら、たいていの人は「ふざけるな」と思うか精神鑑定送りかどちらかだろう。

誤解を怖れずにいえば、こういうこと全てが「夢」なのである。幻を現実だと思い込むという間違いを犯したからこそ生じたことなのだ。神の前では、というか本来の状態においてはやっぱり私たち全てが完全無欠で普遍的な、かつ永遠なる存在であることに変わりはない。しかし、この世においてはそういうわけにはいかないのである。この世を現実だと信じてやってしまったあれこれについてはこの世における裁きを受けなくてはならないわけだ。神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、とはそういうことではなかったか。

更に、そういう場合でさえ罪悪感は不要である。世間の人々は犯罪者に罪悪感を期待するだろう。が、本当に必要なのは「幻を現実だと思い込むという間違いを犯しました」という反省であって罪悪感ではないのだ。この違いは大きいのだがなかなか納得されないと思う。たいていの人々は自分の罪悪感を外部に投影するから犯罪者を責め、非難し、罪悪感を強要したがる、それだけの話なのである。ソクラテスの最期を見よ。

とにかく、罪悪感を抱えている限り愛はあり得ない。愛がなければ本当の関係も築けない。聖霊に従うときにはほんの一瞬であっても罪悪感は消えているから愛が顕れる。だからこそ癒しや奇跡がもたらされるのである。

愛は普遍的なものである。愛は感情だ、と「コース」は書いているが、私見では愛は感情というより一つの万遍ない状態だ、と思う。本当の愛はもちろん神の愛すなわち普遍的かつ絶対的な愛であり、本当に愛するとは神のように愛するということである。もちろん私たちにはそれができる。というより、本来そういうふうにしかできないはずなのである。なぜなら私たちは神に似せて造られているからだ。万遍ない状態なのであれば、そこには例外というものが存在し得ない。あの人だけを愛しているの、なんてことは絶対に絶対に死んでもあり得ないのである。愛でないものを、たとえば執着や所有欲や色ボケを愛だと思い込むのはやめましょう。あの人だけを愛しているの、と思うときあなたは誰のことも愛していない。自分のことも神も何も愛していない。正確に言うならば、本当は全てを神のごとくに愛しているのにそれに気づいていない状態なのだ。

「神の子を見よ。その純粋さを見て鎮まれ。静寂の中にその聖性を見よ。そしていかなる罪悪感も神の子には及ばなかったことについて父なる神に感謝を捧げよ」

純粋な愛を持って、というか自分を愛の状態に置いたうえで相手を見る。難しいと思うなら、これもやっぱり「感謝」を使ってみると良い。何の理由もなくていいから感謝の念でマインドを満たして相手を見てみる。そのとき私たちは罪悪感なしに相手と向き合っている、つまり幻想でないホンモノの関係を築いていることになるのだ。

誰しも自分にとって良くないこと、価値がないと思われるようなことはしないものだ。少なくとも本当にそうだとわかっていればしないはずだ。当たり前のようだが、これが大抵の人にはわからない。苦しいから止めたいのに止められない、などという。どんなに「本当はイヤなのに」と思っているつもりでも、別の選択をするよりは・・・つまり聖霊に従うよりはエゴに従うほうが何らかの理由で「より良い」「価値がある」と思い込んでいる、そのことがどうしてもわからない。というより認められない、認めたくない。

本来の私たちは神の性質をそのまま受け継いだスピリットであり一転の曇りもない愛に満ちた存在である。今の私たちはそれを「知らない」し、認められない。それならせめて「そうなのだ」と信じてみよう。本当かどうかわからなくてもとりあえずそうだと強く「思い込んで」みよう。そうだ、ということにして神に感謝してみよう。たとえイヤなことが起こっているように思えても、上記のような信念・思い込みを捨てずに保ち続けてみよう。助けを求めてもダメだったらどうしよう、なんて思わないで聖霊の助けは常にここにあるのだ、と信じ続けてみよう。

私たちは一人きりでは無力だが、一緒なら光輝くことができる、というのは「沢山の人が集まれば偉大なことができる」などという数の論理を意味するものではない。たった一人きりに見えても「全ては一つ、一つにして全てである神の子だ」という地点に立っていればあらゆるものを照らすことができる、そういう意味である。誇大妄想などではないのだ。そういうとき、私たちはもはや神によらないものを外部に投影したりしなくなっている。そうすれば私たちの身に起こる全てのこと、目に映る全てのこと、経験する全てのことが神のひとり子にふさわしいものになる。

罪悪感を直視するのは誰にとっても苦しいことなので、エゴは私たちに偽りの安心を得させるべく私たちの感覚を鈍らせる。「麻痺」というか「酩酊」というかつまり「覚醒」のちょうど正反対の状態になっているわけだ。以前にも述べたように「見ない振り」をしているだけになってしまっている。

この世には対立物がある、ということになっている。平和に対して争いがあり、幸せに対して不幸や惨めさがある、そういう構造になっている。争いを忘れていれば一見は平和で安心した状態が得られるのだが、平和を乱すものがどこかに存在すると信じている間は真の平和など得られないのである。私たちの平和を乱すものは、それが人でも会社でも世界でも運命でも何でも、私たちにとっては(仮想)敵なのだ。そして、その「敵」というものがあるという考えそれ自体がそもそも間違っているのである。

私は苛められているので何かやり返そうと思っています、という人に対して「そんなことはしないほうがいいですよ」と言うと「じゃあ、我慢します」になったりするのだが、それじゃあ全然ダメなのと同じようなものである。「我慢する」のは、それに先立って「いやなことが実在する」と認識しているからに他ならない。我慢、ではなくて、それが「いやなこと」でも何でもないのだと認識しなおさなくてはならないのだ。これは慣れてくればわりと簡単にできるようになる。

敵や争いなどというものは、あるいは平和を乱すもの、破壊するものなどは本来存在しない。なぜなら、私たちがそこから出で来たったところの神の御心の中には対立物そのものが存在しないからである。

私たちのマインドには「真実のもの」と「真実でないもの」が混在している。どちらがホンモノか、考えるまでもないのだが私たちには区別がつかなくなっている。それを選り分けるのが聖霊の仕事なのである。

「コース」はキリスト教に則って書かれているので、「悪は存在しない、善のみが真実だ」みたいな感じになるのだが、これが仏教か何かだったら「善も悪もない」というふうになるのではないか、そんな気がするがどちらにしろ「対立物がない」という点においては同じことである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 113

第13章 その13

本当の世界をも超えたところにある天国(というと何か妙なイメージがつきまとってしまうが、要するに私たちの本来の住処である。かといってそこは通常の意味での「空間」などではない)には、いかなる対立物もなく程度もない。普遍的かつ絶対的なもののみが存在するのであって、相対的ということ自体がありえない。

翻って、この世においては「価値は相対的」ということになっている。どんなに価値があると思われているものでも、人により、あるいは国や文化や時代によりその価値は変遷する。今ここで価値があると思われているものも1000年前のどこか遠くの地域では見向きもされなかったかもしれない。更に、ひとりの個人においてさえ一つのものの価値が時と場合によって変わりうる。10年前はあれが一番だと思ってたけど今はそうでもないのよね、なんて良くある話だ。

しかし、よく考えてみれば状況によってコロコロ変わるようなものが果たして「価値」などと言えるのだろうか?相対的である、というまさにそのことによって価値は目減りするような気がする。

天国において価値があるものは、どこまでいっても誰にとっても同じようにずっと変わらず価値があるのであって、「時には」とか「比較的」などということがありえないのだ。その価値は予め神によって確立されてしまっている、と「コース」はそういう書き方をしている。が、ここは単に「普遍的な真理」の普遍的・絶対的価値、というふうに捉えておいても良かろうと思う。別に神という言葉にこだわる必要はないからだ。

真理は真理であることによってその価値が確立されてしまっているのだが、「真理なんて全然役に立たないじゃないの」と思う人もいるだろう。それは、身体に象徴されるようなみんながバラバラの個人として存在する「この世」における損得、色欲・金銭欲・名誉欲を満たすのに役立つかどうか、という基準で考えてしまっているからである。絶望的なほどズレズレにズレている。

この世には本当に価値あるものなど一つもない、平和をもたらすものなんか一つもないと「コース」は語っているが、少し注意してほしい。その場合の「この世」とは別に空間的な意味合いのものではないのである。先に書いたように、身体として或いはバラバラの個人として生きつつあーだこーだと求めるようなあれこれには本当の価値なんかないんだよ、ということだ。とりあえず身体を持ってこの世にあっても自分が「神のひとり子」である、という自覚があれば本当に価値のあるもの・・つまり分かち合うほどに与えるほどに増えていくようなもの・・がわかるし、それを得ることももちろんできるのである。

但し、もともと「この世」とは私たちが神に背を向けて「平和」を失ったところから始まった、という事実も忘れてはならない。その発祥からして既に平和があり得ない状態なのである。

天国、つまり本来の状態においては、あらゆる「程度」というものがない、これは以前にも述べられていた。ここでは更に踏み込んで「あらゆる対比・ヴァリエーション」もないのだ、と書かれている。これはかなりビックリすることなのではないか。

たとえば、音楽や絵画は音の違い・色や形の違いによって創られるわけで、そこに「あらゆる違い・程度・対比」がなかったらこれらのものは存在できなくなってしまう。じゃあ天国に芸術はないの?そういう疑問が出てきても不思議はない。私も本当のところはわからない。しかし、おそらく今の私たちには全く想像もつかないようなとんでもなく美しいものがあるんだろうな、くらいは推測できる。文字通り「絵にも描けない美しさ」なんだろうな。この世のどんな音にも色にも表せないようなものなんだろうな。

閑話休題。本来はあり得ない「対比」「違い」も聖霊の手にかかれば「学びのためのツール」として有効利用できる。つまり、真実とそうでないもの、求めるべきものと避けるべきものを対比させて私たちに示してくれるのである。

聖霊は常に私たちを助け教えようとしている。たとえ私たちが全然気づかなくても、そんなものないんじゃないの?という猜疑心にまみれていても、聖霊の働きは変わることがない。そして、私たちが気づかなかろうが忘れ果てていようが「神の御心は既になされてしまっている」。これは要するに、神の御心は時の始まる前から常に変わっていない、というような意味である。そそっかしい人だと「ええっ、それじゃあ私の運命は既に決まっているの?」というふうに解釈してしまうかもしれないが、そういうことではない。

そうなってみればわかる、と言うしかないので例によって「構わず先に進んで」下さい。

さて、真理とは認識できるような何かではなかった。真理は知られるものである、そして直接知とはもはや知るものと知られるものの区別がない境地なのだった。とすれば、真理を知るとき私たちは真理によって知られているのでもあり、そこには私などというものは既になくただ真理だけがある、そんな感じになる。「コース」はこの事態を「あなたは真理の一部である」とか「真理は自らの意志によって自らに来たる」などと語っているが、要するにそういうことである。これもまた「わからなくても構わず先に進んで」下さい。ともかく、この境地に至ること、つまり今ここで天国に至ることこそ私たちが真に求めるべきものなのだ。そしてそれは必ずや与えられる。なぜなら神の御心だから、そしてそれは「既になされてしまっている」ものだから、である。

神の、そして神の一部である聖霊のすることに失敗はありえない。だから私たちは必ずや救われ天国に至るのだ、と書いてあるが、そもそも私たちは既に救われてしまっているとうか救われる必要など初めからないのである。なぜなら「神の御心は既になされている」からだ。つまり私たちには初めから神の平安が備わっているのだが、そのことを忘れてしょっちゅう不安でいっぱいになりおかしなところに救いを求めてしまうのだ。だが、よく考えてみればこれってすごいことではないか。だって、本当は「完全に平和・平安」な状態なんですよ。たとえ認識できなくても「そうなのだ」と信じ込むだけで結構嬉しくなる感じがしないだろうか。神が失敗することはありえない!そう信じるだけで十分だ、と「コース」は言っているが、だからこそ神の御心は常に変わらないままあり続けているのである。あなたのことだけはうっかり忘れちゃった、なんてことはありえないのだ。

以前にも教わったように、完全な平安をもって世界を見ることにより貴方の世界は平和になり、そのような世界を認識することによって自分の中に平安があったことに気づく、というようになっているのだ。

もっとも、救われていることに気づかないまま一生を終える人だって少なくないだろうとは思う。これって、銀行口座に何百億もの預金があるのを知らないで貧しさに喘いだまま、自分は貧しいのだと思い込んだまま一生を終える、というのと同じことのような気がする。気づかないとはいえ、あんまりですよね。ちょっと調べてみようと思えばわかるのに、と思いますよね。ひょっとして、という考えに至るのを邪魔しているあれこれを落としていくのが学びなのである。これと同じように、私たちもまた必要もないのにわざわざおかしなことばかり信じ込んで自分を不幸に追い込んでいるのである。それを「まとも」な状態に回復させてくれるのも聖霊のわざなのだし、私たちはそれを受け取れるような状態になっておくために学び努力しなくてはならないのだ。

真理はただそのまま知られればいいようなものだが、エゴは自らの保全のために私たちを真理から遠ざけておく。私たちにその代用品を次々に与えて誤魔化しているだけだ。そうしておけば、私たちは依然として不幸なままかもしれないが、自分が真理を求めつつ怖れているという事実に気づかないで済むのである。

一方、聖霊はもっと直接的なアプローチをする。神の手によるもの=ホンモノと私たちが作り出したもの=ニセモノとを選り分け、私たちが自ら作り出し自らを閉じ込めた牢獄のような幻想の世界から私たちを解放する。そうして私たちはごく自然に真理を受け入れられるようになるのだ。

第215回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 110・111

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 110

第13章 その10

今更いうまでもないことだが、もともとは神しか存在しなかった。この言い方に抵抗を覚えるなら「存在しか存在しない」と考えても良い。とにかくただ一つにしてその中に全てがあるような絶対不変のもの、いや「もの」という言葉は良くない、そういう「状態」だけがあったのである。そこに何もかもがあり何もかもが知られている。それを「コース」は神と呼び、聖霊もキリストも私たちもその一部であり、しかも一部がそのまま全体でもある、そのようになっている。

この「神」とも呼べる原初の状態は「思考」でもあるのだ。以前にも書いたように、一般的な感覚で「思考」だと捉えてしまうとわかりづらいだろうから、ここは思考=エネルギーだと考えても良い。つまり、聖霊もキリストも私たちも実は「神という思考=エネルギー」から成っているわけである。当然、いかなるマインドも思考であることには疑問の余地がない。

一人ひとりがバラバラの身体を持った個体としてこの世に生きている私たちが学習するにあたってわかりやすいように「コース」では、いちいち「神」「キリスト」「聖霊」「神の子」などという呼称を与えているわけだが、これらは全て一つのものである。ただ、それぞれが私たちに対して果たす役割によって呼称が異なるだけなのだ。「コース」は同じものを別の言い方で表現することも少なくない。たとえば、「キリストの(キリストによる)ヴィジョン」とは「正しい知覚認識」のことである。そのあたりを踏まえて読んでいかないと本当に何が何だかさっぱりわからない、という事態になってしまう。

いくらキリストのヴィジョンだといっても「認識」の領域である以上、やはりこれは現実をいっぺんに隈なく丸ごと知る=直接知にはならないのである。

いかなる認識もそれが認識である以上不完全なものにならざるを得ないのだが、それが本当に正しい認識であればあなたは本当の現実の一部を垣間見たことになる。そして本当の現実においては一部がそのまま全体なのだから、実はあなたはその瞬間全てを見たことにもなるわけである。本当は「個別の状況」などというものはないのだ。これはちょっと注意すれば日常生活でもハッキリ認めることができる事実である。だからこの道の先達はみんな「現象に惑わされるな」と口を酸っぱくしてしつこく言い続けているわけだ。

今更言うのもどうか、と思うような基本的なことだが、全ては一つ、私も貴方も彼も彼女も皆同じ、だからといってみんなが同じ顔かたちに見える、なんてことは絶対にあり得ない!まさかと思うが、そういうふうに捉えている方がいらしたら注意していただきたい。現象に惑わされるな!知覚経験に惑わされるな!その向こうに或いは奥にある本質において全てが同じだと言っているのだ。しかし、エゴに支配された私たちには本質など見えない。そんなものがあることにすら気づいていない。

本来の状態つまり天国だの神の領域などにはもはや「奇跡」の入る余地はない。これは既に何度も述べられてきた。しかし、この私たちからすれば神による創造こそが究極の奇跡みたいなもんなのである。その真髄は「一つにして永遠なり」というものだ。いや、これは全くその通りであって、別に「神」なんて言葉を知らなくても構わない。「存在」が存在し、全ては存在し、存在せずに存在することはできない、なんて奇跡以外の何ものでもない!なぜ、私はここにこうしているのだろう。存在しないのではなくて存在するのだろう。存在しないことはできない、なんて!ああ、これはもうクラクラするような驚愕の事実なのだ。それを思うたび私は今でも腰が抜けそうになる。

この世の私たちにもたらされる奇跡はそれぞれが個別のものである。昨日あの人に起こった奇跡と今日あなたに起こった奇跡とは内容において異なっているだろう。しかし、その真髄は全く同じ、どれも「あらゆる過去から解放された本来の状態」を思い出させるものだ、という点で全く同じなのだ。

神の創造とは乱暴に言えば神からの派生みたいなものである。ゆえに私たちには神の性質がそのまま受け継がれているわけだ。それを「コース」では「神の賜物だ」と言っている。正しく認識できるのも直接知ることができるのも、癒しも赦しもあがないも救いも、聖霊やキリストの存在も何もかもが神の賜物だ、ともちろんそのように考えて差し支えはない。要するにそのような全てが私たちにはもともと備わっているのだ、とだけわかれば良いと思う。これは相当ありがたいことではないか!別に努力して得たわけでもなく初めからこんな素晴らしいものが与えられていたとは、これはもう賜物としか言えないではないか。

奇跡や癒しはキリストあるいは聖霊を通してもたらされるので、これらは「キリストの賜物」だと言っても良いのだが、キリストの存在自体が神の賜物であることを考えればやっぱり何もかも神の賜物には違いない。こういうものはそれぞれ別々の何かであるわけがないのだ。

私たちが奇跡をもたらすとき、或いは「奇跡が起こるのを受け容れる」とき私たちは間違いなくキリストや聖霊と一つになっている。そうでなければ奇跡など生じるはずがないからだ。そして奇跡がもたらされるたびに私たちは本当の現実と波長が合うようになってくる。

どこで誰に奇跡を行えばよいのか、そんなことは聖霊に任せておけばよい。聖霊が私たちを正しく導いてくれるであろう。エゴの支配下にある私たちが「あの人に奇跡をもたらしてあげたいわ」なんて考えたってどうにもならないのである。その裏にエゴ的な願望が隠されているかもしれないではないか。そういうこともあるのでくれぐれも個人的な関心事に惑わされないよう注意したい。エゴは無知なので正しい判断など望むべくもない。スピリチュアル系の言い方だと「宇宙の流れに従っていればよい」というふうになる。この自分の即ちエゴ的な執着を捨てているほうが、普通の意味でも「良い出会い、良い経験」がもたらされやすいというのはスピリチュアルの世界では既に常識になっていると思う。

直接知とはもはや主体も客体もない状態だ、と前にも書いたのだが、そこにおいて私たちは知るものでもあり知られるものでもあり、そのどちらでもありどちらでもなく、その全てである・・・なんて言ったところでおそらくチンプンカンプンなのだろうとは承知の上だが、あえて言葉で表すとすればこういうふうな感じになる。全てが一つ、とはそういうことでもあるのだ。それを少しでもわかりたければ、まず兄弟姉妹=他人を自分自身だと思って見るようにしなさい。歪んだ知覚認識や自分のマインドの投影によって起きるあらゆる現象に惑わされず、この人は私でもあるのだと思ってしかも愛を持って見てみるのです。そんなことできない、と言ってはいけない。たいていの人はまず認めないと思うが、できないのではなくて「やりたくない」だけなのだ。やりたくなければ仕方ないが、できないということは絶対にありえない。

やればできるんだからやりましょう。これを続けているうちに貴方の世界は或いは世界認識は確実に変わる。時間の観念も変わる。そしてついには時間が消失し永劫という地点に至るのである。

創造主である神は「父なる神」とも呼ばれるが、「コース」でもこの「父」という言葉が頻繁に出てくる。別に母でも親でも何でも良いのだが単にキリスト教のタームに沿って「父」と言っているだけだ。神の性質がそっくりそのまま私たちに受け継がれるのが創造ならば、私たちもまた「父」あるいは創造主という資質を付与されていることになる。以前にも述べられていた通り、私たちが気づかなくても忘れ果てていてもスピリットは休みなく創造し続けている。そうやって創造されたものを見れば私たちは自らが創造主でもあると気づくことができる。もたらされた奇跡を見れば聖霊によってあがないがなされたと気づくことができるのと同じように、だ。

ある人にとっては「こんなの当たり前でしょ、見ればわかるじゃん」であることが別の誰かにとっては「見てもさっぱりわかりません」になってしまう、そんな事態は珍しくない。それと同様に、神にとっては(或いはスピリットたる私たちにとっては)明白すぎるほど明白な全てが、この地上の私たちにとっては「???」なことなのだ。目の前で奇跡が起きていたって「何これ?ぎゃああ、怖ろしい、私は気が狂ったのか」になってしまうかもしれない。だからこその「コース」学習なのだ。

私たちが地上でおこなう奇跡や癒しなどは全て神にとっては私たちが「神と一つである神の子」たる証し、裏づけなのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 111 

第13章 その11

改めて言うまでもないが、エゴの法則に従ってエゴの支配下にあるうちは神の光が私たちに届くことなどありえない。こうしているとき、私たちはそうと知らずに神も聖霊も自分から遠ざけ、それらに背を向けてしまっているからである。罪悪感にまみれながら神を求めたって何にもならないのである。これ、救いを求めているようで実際には罰を求めているようなものなのだ。

このあたり、罪悪感についての解説なのだが以前のものと殆ど重複しているので私の解説は以前の部分を参照していただくことにしてここでは割愛する。その代わりに要点を簡単にまとめつつ少々説明の補強をしておこう。それだけでも十分にしつこい。

まず、罪悪感は恐怖と同様にいろいろな形を取って現れる。罪悪感と恐怖と攻撃は三つ巴の関係にあるので、どれかが引っ込めばどれかが顔を出すようになるのだ。私には罪悪感なんてないわ、だって何も悪いことしてないもの、なんて人がいたとしてもその一方で不安や恐怖を感じたり、誰かに対して批判的な思いを抱いたり、自分に自信がなかったりすればそれらはやっぱり罪悪感の変形なのである。ここをよく理解しておいていただきたい。

また、罪悪感は「過去」と密接に結びついている。時間から解放されたマインドにはもはや罪悪感も恐怖も存在しない。あらゆる過去から私たちを解放するのが癒しであり救いなのであれば、罪悪感からの解放こそ癒しであり救いなのだ。罪を赦されるという意味ではないのでくれぐれも注意してほしい。実際には犯してもいない罪を犯したと思い込んで苦しんでいるのが私たちなのである。

たとえ心の中であっても他者を批判するとき(人とは限らない!世界でも社会でも運命でも何でも他者である)私たちは自分のマインドの中の罪悪感を投影しているのである。自分が悪いと思いたくないから、あの人が悪い!世界が悪い!社会が間違っている!運が悪い!と思うようにしているだけの話である。じゃあ、本当は自分が悪いのかというとそうではなくて、ただ「間違っている」だけなのだ。勘違いから生まれた幻想を本当の現実だと思い込んでいる、という間違いから抜けられないでいるだけなのである。

そこからまったくの自力で脱出することは不可能であり、必ず聖霊の助けが必要になる。真偽を選り分けるのは分裂したマインドには不可能だからである。

かなりよく見かけることなのだが、私たちは往々にして相手に罪悪感を抱かせようとする。これは間違いなく一種の攻撃なのだが、本人は攻撃だと思っていない。自分は正しいのだから当然なのだ、とか場合によっては「自分の気持ちを正直に言う」ことだと思い込んでいる。そして罪悪感を抱かせて相手を支配しようとするのだが、これも「私の気持ちをわかってもらう」ことだと思い込んだりしている。それがうまくいかないと、「ちゃんと向き合ってくれない相手が悪い」とますます批判的になる。ところが何のことはない、全て自分の中の罪悪感が作った幻を相手に格闘しているだけなのである。

私はこういうふうに思うんだけど本当にそうなのかしら?と自問できるくらいならまだ良いのだ。だが多くの人は自分の思い込みを疑いなく信じきってしまう。何でもそうだが、信を置けば置くほどその思い込みは強化される。聖霊は真理なのだから本来は別に信じる必要などないのだが、そんなものになじみのない私たちはやっぱり当面聖霊に信をおかないことにはどうにもならない。聖霊より自分の(歪んだ)知覚認識を信じているうちは癒しも奇跡も何も起こらないのである。しかし、聖霊を忠実に信じれば信じるほどその存在が私たちにとってリアルになってくる。

相対立する二つのものを同時に信じることはできない。つまり、私たちは自分自身を或いは兄弟姉妹を「罪深い、罰に値する存在」だと思うか「愛に満ちた、愛すべき存在」だと見るかのどちらかを常に選ぶことになる。どちらも選ばない、というのもまたマインドにはできないことなのである。

ここで、もしも私たちが誰かあるいは何か・・・つまり他者を批判するのなら、それは取りも直さず自分自身を「罪深い・罰に値する存在だ」と認定していることになってしまうのだ。そんなつもりはない、といっても通用しない。なぜなら本来全ては一つであり、他者に見えるものは自分のマインドの投影だという原則があるからだ。自分で自分をわざわざ不幸な目に遭わせたいですか?これってまともだと思いますか?少なくとも、幸せになりたい人がすることだと思いますか?しかし、私たちは愛や平和や幸せを求めているつもりでいながら、実際には「あの人が、世界が、社会が、運が悪いからうまくいかないんだ」などと思ってしまっているではないか!これってイワシを買おうとしてパン屋に行くのと同じくらい変なことなんですよ。「何かを批判する=自分を罰しようとしている」ことなのだ、とよくよく覚えておいていただきたい。かなりショッキングな事実であるが、事実なんだから仕方がない。そんなことないわよぉ、と抵抗するより理解して考えを改めたほうが賢明ではないか。自分を、いやエゴを守ってはならないのである。いや、別に守ったっていいけどそれじゃあ愛も平和も幸せもずっと得られなくなってしまうということをお忘れなく。

更にショッキングなことに、あなたが大変慈悲深くてもたった一人の誰かを、ただ一人の誰かのちょっとした部分を批判しただけでもうアウトなのである。全ては一つ、私たちはそれぞれが、ではなくてトータルで神の子なのだから、その一部を否定あるいは批判することはその「完全性」を否定するのと同じことになってしまうのだ。たった一瞬だけでもいい、あらゆる批判を手放さなければあがないはもたらされない。その一瞬に「あらゆるものの」完全性が回復されるのだ。

逆に言えば、他者を批判するのをやめれば私たちは罪悪感から解放される。批判したいけど我慢します、ではダメなのだ。このとき、批判や罪悪感は依然としてマインドの中に存在しているからである。批判したい気持ちになったらすかさず感謝に置き換える、とかそういうふうにすれば私たちは解放し解放されたことになる。

罪悪感(あるいは恐怖)が少しでも残っている限り、私たちの知覚認識は歪んでいる。私たちの目は曇っている。光を見ることができない。

だからといって、以前にも書いたとおり「罪悪感なんてイヤ〜」とかいって目を閉じ耳を塞いでみたってどうしようもない。自分のマインドの中をしっかり見るのだ!怖がらずにとことん見てみればそこにはあなたが怖れるようなものなど何もない、ということがわかる。事実、そうなのである。が、これも下手に(つまりエゴに従って)やってしまえば、まあ出るわ出るわ、抑圧された怒りやら過去(世)の傷やら何やらもうパンドラの箱状態になる。最後に「希望」なんか出てくるから却って始末が悪いくらいである。しかし「コース」に即して言えば、こんなものが見えてしまうならそれは私たちの目が曇り知覚認識が歪んでいる証拠なのである。真に目を開いてみれば闇ではなく光が見えるはずである。そこにあるのは完璧な純粋さだけなのだ。つまり、全てがあり何もない、そういう状態である。

自分には罪悪感がある、と自認している人も多いと思うが、それでも殆ど全ての人がその原因を誤解している。あのときのあれが、過去世のあれが、罪悪感の原因なのだと思っている、つまり実際に自分が「罪を犯した、悪いことをしてしまった」からこその罪悪感だと思ってしまっている。「コース」に照らして言えばこれは端的に間違っている。私たちの罪悪感の本当の根本原因は「神から離れてバラバラになってしまった」あるいは「本来の自分を見失って・殺してしまった」と「思い込んだ」ことなのだ。思い込んだだけであって、実際には何も起こっていないというのがポイントである。原罪は「なかった」のだ。

第214回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 108・109

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 108

第13章 その8

目の前に見えるあれこれ、これは本当の世界なんかじゃない!と否定しなさい。「コース」はそう言っている。光景だけではなく、何か嫌なことに遭遇するたびに「これは本当の現実じゃない!こんなことになるのは私の認識機能が歪んでいるに違いない」と思え、それが「嫌なこと」に映ってしまう自分の知覚認識機能が狂っているのだと思え、そういうことなのだ。ただ「こんなのウソよ!見たくない、認めたくないわ」という否定だけで終わってしまえば単なる現実逃避に過ぎない。両者の違いをよくわかっておいていただきたい。

現実逃避とは自分の間違いを正当化して幻想に逃げ込むことである。ここで言われているのはそれと正反対のことなのだ。この世界を捨て去って代わりに愛に満ちたホンモノの世界を手に入れたければ、まずは自分の間違いを認めることだ、と「コース」は言っている。

基本中の基本だが、私たちにとっての世界は私たち自身が作り上げたものである。これは「コース」学習以前の問題であり、ちょっと考えれば誰でもわかることなのだ。「コース」学習者なら更にその先がわかる。本当の世界が見えないのは自分自身についての誤解があるからだ。即ち、自分自身をどういう存在だと見るか?神に似せられて神によって造られたもの、全てがひとつであるような絶対不変の存在である神のひとり子だと見ていればその目に映る世界もそのようになる。見ている主体が真理と一つの存在なのだから見えている世界も当然それを映し出すものになる。神から離れてバラバラの無力で滅びゆく存在だと見ていればやっぱりその目に映る世界もそのようになる。もちろんそこには分離の産物である罪悪感も恐怖も投影されてしまっている。

要するに「何を現実だと思うか」ということに尽きるのである。私たちのマインドが現実だと見なさなかったこと、つまり虚偽だと見なしたことは知覚認識されないようにできているのだ。おまけに!聖霊によらず私たちが自分で行う判断では真理も本当の世界も何も捉えられないようになっているのだ。だからこそ「判断しないでありのままを見なさい」などと言われるのである。ありのまま、という言葉がまたクセモノで「エゴの目で見たありのまま」だったらもうお話にならない。

判断もされず従って認識もされなければ幻想の世界など瞬く間に消えてしまう。しかし、本当の世界やキリストは私たちが認識しようがしまいが常にここにある。どちらがより強力か、これだけでも明らかではないか。

強力なだけあって、幻想まみれの私たちでさえ時たまこれを垣間見ることがある。ただ見過ごしてしまうのだ。

今までと全く同じ場所にいて同じものに囲まれていたとしても私たちが聖霊やキリストに従っていさえすれば今ここで本当の世界を経験できる、そのようになっているのである。身体をもってこの世で幸せになるためには、この世にあってこの世にないようなあり方をしなくてはならない。そうすれば身体はこの世にあってもなお私たちはあらゆる苦しみから解放され、神の愛によって完全に守られる、つまりこの世にあってもこの世から解放された状態になるのである。

「コース」によると、ピリピ人への手紙第4章の「あなたの理解を超えた神の平和」は今や「あなたに理解できるもの」になったそうだ。過去には理解できなかったが、あるいは過去を持ち込んで判断しようとしてしまえば今もなお理解できないが、「今ここ」でならできる。

以前にも書かれていたが、悪い夢にうなされている人をいきなり叩き起こすのが良くないように、私たちもいきなり完全に目覚めてしまうと非常に混乱してしまうらしい。ゆえに「コース」は、同じ夢を見るのでも悪夢ではなく幸せな夢を見てそこから天国に至るという方法を薦めている。幻想の世界に生きるのが悪夢であれば、本当の世界に生きるとは幸せな夢を見ることでもあるのだ。この世は仮の宿、幻だとしてもすごく幸せで穏やかに生きられるのならそれに越したことはなかろう。それにはまず正しく認識する、分裂したマインド=エゴではなくスピリットとして認識することが不可欠なのであり、それには聖霊の助けが必要なのであった。そのような正しい認識は直接知への架け橋なのでもあった。

もはや認識が意味を成さないような本来の状態にあれば私たちは何も必要としない。全てが既に与えられているとハッキリ知っているからである。しかし、分離の副産物である「欠乏」を基盤としてできているこの世においては、私たちは不要なものまでほしがったりしてしまう。それどころか自分を苦しめるようなものまで求めたりしてしまうこともある。

エゴは「これを得れば救われるよ」と教えるので、私たちはつい騙されてあれこれを求めるようになる。しかしエゴは「幸せになるためにはそれを捨てなければならないよ」などといって結局は奪うのである。エゴにとっての救いは分離なのだから、救われるためには分かたれなくてはならない、そういうふうになってしまう。あるいは、実際に得たとしても何の救いにもならないようなものを求めさせたり、それを得たら得たで今度は執着させて苦しむようになったり、それではやっぱり足りなくて更に別のものを求めさせたり・・ともう本当にキリがないのだ。要するにエゴの教えによっては絶対に救われないようにできているのである。求めよ、されど見出すな!を思い出してほしい。

聖霊は神の一部だがその一方で「神と私たちとの媒介者」でもあるので、この世で身体をもって生きている私たちの事情もよくわかっている。ゆえに、とりあえずこの世で身体を使って癒しや奇跡を為しつつ幸せに生きるためにその都度私たちに必要なものが何なのか、ということもわかっている。そしてそういうものを必要に応じて与えてくれる存在なのである。何かを得ること、得たいと思うことじたいが間違っているわけではない。それが自分にとって何らかの救いをもたらすものだ、これがなければ生きていけないと思い込んでしまうことがまずいのだ。「コース」の原理に従って考えれば、本来は身体じゃないところの私たちは裸で飲まず食わずで生きることもできるはずである。が、実際にはなかなかそういうわけには行かないし「コース」だってそんなことを要求しているわけではない。

このあたりも誤解を生じやすいところである。何かを得たいと思うことじたいを「悪いこと」つまり「罪だ」と考えて否定してしまえば、それもまた一つのエゴであり「罪悪感=恐怖=攻撃」のスパイラルにどっぷり浸かるだけになる。

卑近な喩えで恐縮だが、たとえばブランド物をほしいと思うことじたいは別に問題ではないのだ。あらちょっとステキね、ほしいわ、で買ってしまっても別に何も変わりはしない。これさえ手に入れれば、こういうものを沢山持っていれば自分は素敵になって救われる!などと思ったら上記の「エゴの教え」に従ってしまうことになるだけだ。ブランド物に限らず、学歴、キャリア、地位、財産、家、ステキなパートナー、などなどいずれも同じことである。逆に「持たない」ことにこだわりすぎるのもそれによって救われると考えてやるのであればやっぱり同じ穴のムジナになってしまうのだ。

自分が持っているもの、あるいは得たいものに対して執着するのは明らかにエゴの仕業だが、かといって持っているものを粗末にすればよいというわけでもない。

本来の状態においては全てが与えられているのであればそこには「所有」の概念も当然だが存在しない。所有とは「みんなバラバラ、別の存在」だからこそ「これは私のもの、あれはあなたのもの」というように認識されることなのだし、だいいち厳密に考えればどんなものであれ本当の意味での所有など不可能なのだ。こういう状態であればそれは貴方のものだと認められますよ、という社会的取り決め=ルールのもとにのみ成立しているだけではないか。実際には不可能だからこそ、どこかでそうわかっているからこそ私たちは所有することにこだわってしまうのではないか。自分で買った商品なら間違いなく自分のものだ、と考えることさえ実は社会のルールに従っているのに過ぎない、ましてや誰かの愛情を自分のものにしたい!なんて、(よくあることではあっても)本当に正気の沙汰ではないのだ。

聖霊の導きに従えば、私たちは必要なものを必要なだけ間違いなく与えられ、欠乏に苦しむこともそれらに執着することもなくなるのである。本当の意味で「オープンな人」というのはたいていそのように生きているような気がする。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 109

第13章 その9

救われるためには文字通りの無一文でいなくてはならない、清貧と禁欲を守って生きなくてはならないなどと考えるのはエゴの仕業だったりするのである。聖霊は私たちが必要なものは何でも与えてくれるが、それは全て「借り物」のような感じなのであって、要するに今この世界でこの身体を持って過ごしている間だけ「癒し・あがない」という目的のために必要だから使わせてもらっているようなものなのである。そもそも身体だってそういうものなのだと考えても良いのかもしれない。聖霊の目的のために与えられるのであって、この世に私たち(のマインド)を縛り付けるために与えられるのではないのだ。

いろいろな宗教が「清貧」や「禁欲」を説いているのは、そういうふうにでもしておかないと私たちは簡単に目の前のあれこれに執着してしまって癒しや救いから遠のいてしまうからである。和尚もいろいろな講話で言っているのだが、たとえばセックス自体が悪いというのではない。それに執着したり、それを愛だと勘違いして依存したり、罪悪感にまみれたり、劣等感に襲われたり、などの状態に陥るのが良くない、というかセックスに間違った意味づけをしてしまうのがマズイだけなのである。予め「やってはいけない」という風にでもしておかないとこれらの問題から逃れられない人が多かったのであろう。しかし、一見は禁欲生活を送っていても頭の中はセックスのことでいっぱいだ、というのであれば何にもなっていないのである。間違った意味づけをして囚われている、という点ではたとえばセックス依存症の人と全く変わらないことになる。しつこく言うが、行為と本質とは別なのである。

閑話休題。スピリチュアル系の教えで「必要なものは宇宙が与えてくれますよ」というのは多分そのようなことを表しているのだと思う。必要じゃなかったら与えてくれないの?与えられなかったのは必要じゃなかったからなの?本当に必要かどうかどうやってわかるの?こういうことはスピリチュアルで願望現実化などに取り組んだ人が必ず抱く疑問なのではないか。

ああ、これも「そうなってみないとわからない」類のものだと思う。エゴあるいは分裂しているマインドには「これが必要かどうか」という正しい判断も認識もできないからである。本当に心を開いて聖霊に委ねていればおのずとわかる、としか言いようがない。少なくともエゴにとって必要なものを聖霊が与えてくれるとは思えない。

本当に必要なものは極めて自然に与えられるので、それを得るために危険なことをしたりとんでもなく無理な頑張りをしたりする必要もない。得たことによって罪悪感を抱く必要もない。

何かが手に入るまで死ぬほど心配したりやきもきしたりする人は少なくないが、変な話たとえば寝て待っていたって来るものは来る、のだから心配や焦りなどでエネルギーを消耗する必要はなかったわけだ。

このように「無駄なエネルギー」を使ってしまうから私たちの聖なる旅はたとえ正しい目的に向かうものであってもいたずらに困難に思えるものになるのである。それ以前に、エゴの教えにダマくらかされて益もないものを求め続けるという危険もある。だから、こういいなさい。

「聖霊が私をキリストの下に連れて行ってくれる。私が行くべき場所がその他にあるだろうか?キリストにおいて目覚める、私にとって必要なものがこれ以外にあるだろうか?」

聖霊に従っていれば安全だ、と信じてついていけば良いのだ。そんなものに従って本当に大丈夫なの?と思うのなら、じゃあいったい何に従えばもっと安全なのか?と考えてみてほしい。あらゆる不安や焦燥から解放されて平和な静寂のうちに私たちは歩み続けることができるのだ。

何はなくともまず心の平和である。これもスピリチュアルコラム「ココロの平和」に書いたことなのだが、エゴの教えは「まずあれを得られたら、これを得られたら心の平和も得られるよ」というものであり、もちろんそれは間違っている。事実はむしろ逆なのである。

心の平和とは、将来こうなったらああなったら得られるような何かではなくて、つねに「今ここ」においてのみ得られるものである。それこそが本来の自分自身に目覚めることであり、この世から解放されて救われることなのでもある。この世における平和とは常に「一時的」なものに過ぎない。平和を乱すものが存在する(と思い込まれている)からには、それがなくなっているときだけしか私たちの心も平和ではいられないのである。そんな類の平和に何か価値があるだろうか?常にそしていつまでも平和であるような心と交換してしまったほうが良くはないだろうか?

全ては一つである。現在あるものも過去にあったものも何もかもがあなたなのでもある。だからあらゆるものに感謝しなさい。

さて、癒しとは過去からの解放に他ならないのだった。今まで何度も書いてきたからもうお分かりだと思うが、これは「過去の経験から受けた傷を癒す」などというレベルではない。過去じたいが「実は存在しない」、それどころか「時間」そのものが既に幻想なのだ、ということを「知って」いるからこそ起きるレベルの解放なのである。そんなこと、エゴに支配された私たちにわかりますか?これはスピリットの部分あるいは純粋精神によらずには絶対に知りようがない事実、つまりいかなる認識もできない事実なのである。

だからこそ癒しはスピリットと一つでもある聖霊にしかできないのである。真に優れたヒーラーは自覚の有無にかかわらず聖霊に全てを委ねて、あるいはスピリットの部分で癒しをもたらしているのだ。その時ヒーラーはまさに「この世にあってこの世にない」状態になっている。

直接知と認識の違いについては以前にも出てきたが、認識はどんなに正しくカンペキなものであったとしても、直接知と共通点はあるものの、それが認識である以上どうしても部分的・暫定的にならざるを得ない。一つの認識が永遠に続くということもない。たとえいつも同じ結果になるとしても私たちはその都度何かについていちいち認識しなくてはならないのである。

直接知はもちろん言葉では説明不可能だが言ってみれば「その瞬間に全てがまるごと隈なくわかる」ようなものである。というかそこにはもはや認識するものとされるものとの区別が存在しないのだ。主客合一、といっても良いのだろうか。私が何かを知る、というのではない。「私」はその中に溶け込んでしまっているような状態である。「コース」の記述は下手をすると「あなたは全てを知っている」というふうに読めてしまうかもしれないがそういう意味では断じてないはずであって、「あなた」と「全て」とは同じものである。

認識の世界から直接知の世界へのステップは私たちの努力によってではなく「神によって」なされる、と以前にも書かれていた。カミサマがわざわざお出まし下さって杖を振る、とかそんなことではない。もともと神と一体で何もかもが明らかに知られていたところに戻るのはある意味もう一度神によって創造されるようなものなのである。だからこそこのような表現になる。

ここでも繰り返されているが、神との分離など本当は起こっていないのだ!人間も何もない、身体もない、この世界は歴史も含めて何もかもがただ「そのように見える・認識できる」だけであって、実在はしないのだ。言い方を変えれば「脳がそのように認識しているだけ」なのであり、脳=身体は分離の副産物であり、やはり実在しないものなのだ!それをハッキリ認められるようになることこそが救いなのである。さて、そんなことは「認識」できるものではない!

私たちの日常生活の中でも「本当の現実」を垣間見ることはできる。奇跡はその中でも非常に大きなものだが、見過ごしてしまうような一見小さなことでも本当の現実の断片(という言い方は適切ではないのだが)はどこにでも転がっているのだ。しかし、本当に目覚めるときにはそれらが全てつながってくる。変容とは質的な変化なので、私たちが「これとあれはこうつながるから、ああなってこうなって」などと無いアタマをひねっていくら考えてもできないものなのである。だから「コース」も「神しかできないことだ」と書いているのである。

第213回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 106・107

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 106

第13章 その6

恐怖はもちろん幻想なのだが、私たちはみなそれぞれ自分の幻想世界を持ちその中に住んで幻想を相手に一人であれこれ動き回っている。だからその世界は他の誰とも共有できない。しかし、もっとも根源的な恐怖は「神に或いは真理に逆らってしまった」罪悪感から来るものだし、一見全く違う恐怖も一皮剥けば大体同じ、たとえば「大事なものを奪われる」などという形に集約されることが多いように感じる。ただその発祥からして恐怖とは妄想に近い思い込みであり、普遍性も実体もないものだ、とだけわかっていれば良いと思う。

ともかく、本当に医学的な意味における「おかしい人」でなくても私たちはみな「非常に個人的な閉じられた世界」を作り出しその中で生きている。私たちが「他者」と思っているものも全て前回までに述べられたように「自分の影」みたいな実体のない存在である。同じ人が誰かにとっては「すごくいい人」なのに別の誰かにとっては「あんなにイヤらしいヤツはいない」、みたいなことは日常茶飯事である。こうして作り上げられた世界にはもちろん何の根拠も裏づけもないわけだ。

投影→認識の世界、こういう世界では他者とのコミュニケーションなど端から不可能である。私たちが通常コミュニケーションだと思っているのはたいてい「一人芝居」みたいなものなのだ。それをお互いにやっているのだから、もう何が何に何しているのか訳がわからない。だからこそ人間関係の問題は後を絶たないのである。

誰かを攻撃したところでそれが実は自分のマインドにあるものの投影ならば、攻撃は誰かに向けられているようで実際には自分に向けられているのである。公共の場で誰に向けるでもなくひたすら悪態をついている人を見かけたりするが、あれと全く同じことなのだ。やだ、変な人だわ、と思うかもしれないが私たちだってみんな同じことをしているのだ。それどころか、そういう人のほうが余程わかりやすいくらいなのだ。

分裂したマインドである私たちにとって、愛と恐怖はそれぞれ逆のもののように感じられている。私たちがもっとも恐れているのは愛だ、ということは既に見たし、執着や憎しみや不安などがあちこちで「愛」と呼ばれているのも今更驚くことではない。

しかし、この勘違いはやっぱり困ったことなのだ。なぜなら人は普通愛しているものに身を寄せたがり、恐れているものからは身を遠ざけたがるためである。愛のつもりで怖ろしいほうにどんどん近づいてしまうことになる。以前にもエゴが私たちに「虚しく愛を求めさせる」策略についての説明があったのを思い出してほしい。少なくない数の人々がこうして自ら危険な方向に突き進んでしまっている。そこで苦しむ羽目になっても「愛しているから辛いのだ」みたいに思うことができてしまう。

あるいは、こういうふうにもいえる。罪悪感に基づく恐怖はどこかで懲罰を望んでいるわけだから、いきおい罰だと思えるような苦しみをもたらすものに自ら近づく。初めからそうとわかって近づく人はいないから、やっぱり愛と恐怖を勘違いしたのだろう。

ともかく、閉じられた世界にいては神も聖霊もキリストも何も感じることができないし、他人を攻撃しているつもりで自分を攻撃しているのならそれは既にご存知の通り神や真理を攻撃してしまったのと同じことになるのだ。ただ、ありがたいことに神は攻撃など受け取らないしましてや罰も与えない。

自分の妄想世界から出て、本来は私たちと一つである兄弟姉妹に出会いなさい。これも前回の「聖なる出会い」と同じことである。誰かに対して少しでもネガティブな思いが出てきたら、それは自分のマインドの投影であり自分に向けられた攻撃なのだ、と考えるようにしてみてほしい。何がどのように投影されているか具体的に分析する必要はない。ただ幻想なのだ、ということだけわかれば良いのである。ここまではその気になれば誰でもできる。

神の愛や真理は光に喩えられるが、私たちは幻想あるいは妄想という暗闇の中にいる。別に本当に暗闇があるわけではなくて(それもまた幻想なのだった!)勝手に目を閉じているだけなのである。目を閉じて眠ってそれぞれ勝手な夢を見て、それが本当の世界だと思い込んでいるわけだ。目が覚めて目を開けてしまえばもう夢の中の光景は見えない。あれは夢であって現実ではなかった、とわかる。貴方の目に光がもたらされたからである。光があれば貴方の見るものはヴィジョンになる。逆に言えば、今までのものの見方で即ち歪んだままの知覚機能ではヴィジョンは得られない。ヴィジョンはいわゆる霊視とは違うものだと以前書いたことがあるが、普通は目に見えないものが見えた、というだけではヴィジョンにならないのである。ここはくれぐれも間違えないでいただきたい。ここで言われているのは「キリストのヴィジョン」である。つまりあらゆる恐怖から完全に解放され神と一つになった状態のマインドの目に映るものだ。これによって私たちは「本当の世界」を見ることができるようになり、確かにそうだという裏づけも経験できるようになる。たとえば奇跡がそれである。そして究極的には認識そのものが不要なポイントに至るのだ。

キリストの目で見るなんてそんなとんでもないことができるのか?これがとてつもないことに感じられるならキリストと共に見る、と思ってみよう。キリストはもともとスピリットとしての私たちと同じ神の子なのだから、私たちとて本当は同じことができてもおかしくないのである。日々、あらゆる人の中に罪なき神の子の姿を見るように努めてみよう。

聖霊とは光でありその中にキリストが姿を現しているのだそうだ。だから聖霊を見るものはキリストをも見ていることになる。そしてそれはあらゆる人のなかに見られるものなのだ。この世はこうして本当の世界に変容を遂げる。

曇りのない目で今ここにあるものだけを見る(あるいは聞く)、これはもちろんその都度私たちの意識を通して行われる。キリストが見てくれていたから私は全然わかりませんでした、などということはないのである。いくら本当の認識であってもそれが認識である以上は個々人の意識の中で行われるのだ。これはまあ当たり前のことである。

私たちは誰かを見るとき過去の経験を参考にすることが多い。全然別の人との間で起きたことを目の前の人にあてはめる、というだけではなく「この人はあの時こうだった、ああしたらこう反応してきた」とか「この人はいつもこうだから今回も同じだろう」などなど、これは私たちが日常的に、人間関係を円滑に進めるべくまあ処世術のような感じでやっていることである。しかしそれさえできない人が本当に多いのだ。これもスピリチュアルコラムで書いたことだが(「分かる?」のシリーズ)相手の内在論理を全く無視して自分のフィルターだけで判断・解釈してしまっているからだ。ところが、「コース」は当然もっとラディカルなので、過去の経験など一切忘れて今ここだけを見ろ、と言っている。つまり「いま初めて出会った人であるかのように、これまでの自分の過去の経験に照らし合わせて理解しようということもせず、ただひたすら虚心坦懐に」ということだ。

しかし、それでは不安だと感じる人も多いと思う。だって騙されちゃったらどうするの?過去にもサンザンな目にあってきたのにそれを忘れて接したらまた同じ目にあうんじゃないの?

結論から言うと、そういうことはないのである。なぜなら騙されたりひどい目にあったりなどと、つまり攻撃されるのはエゴだからであり、エゴなきマインドで接している限りはそんなことは起こりえない。だいたいにおいて人はどんなに警戒していてもそのつもりで見れば隙の一つや二つは必ずあるものだ。しかし、警戒心が全くない徹底的にオープンな状態というのは変な言い方だが「騙されるような隙」がない状態なのである。なぜならやっぱりエゴがないからである。だいたい、攻撃は全てもともと自分の中にあるものが投影されているだけだ、という原理を忘れないでいただきたい。誰かに攻撃されるとすればその前に貴方が自分をマインドレベルで攻撃していたはずなのである。エゴを捨てきれないならせめて内在論理くらいはちゃんと理解しておいたほうが良い、とこれは私見だがそう思う。でないとますます思い込みで人を見る傾向が強化されてしまうからである。

まあとにかく自分の過去であれ相手の過去であれ、それを基準に接するのは「今ここにいる私たち」ではなく「過去」を、しかも自分が勝手に解釈した過去を相手にしていることになる。当然奇跡も癒しも起こらない。これだけでも十分ではないか。奇跡や癒しがほしかったら過去を参考にするのを止めるしかないではないか。

過去とは幻想であり実体のないものなので、過去じたいが現在に影響を及ぼすことはありえないのである。あるとすれば私たちがどこかでそのように決めてしまったからに過ぎない。攻撃されるのではないかという恐怖があれば、一種の「防衛手段」として過去を参考にしたくなるのである。

 

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 107

第13章 その7

とにかく、過去に囚われるのは止めましょう。過去のあれこれを持ち歩くのはやめましょう。「コース」でなくてもそう教えるだろう。まるで暗闇を持ち歩いているようなものだからである。正しい道を行こうとするなら当然明かりを持っていくはずであり、暗闇を持っていけば道をあやまるに決まっているではないか。その暗闇の中にあるグチャグチャを考えれば、これは目隠しをして歩いているよりもっと悪い。

人を見たら聖霊と思え!キリストと思え!聖霊にもキリストにも過去などない。それらは神に造られたままの絶対不変の姿を保っている。あらゆる間違いから解放されており、当然罪なき存在である。そういうものとして他人を見ろ、と言われているわけである。そういうものどうしとして関わらない限り、真の意味でのコミュニケーションは成り立たないのだ。過去から解放されてこそ私たちは生まれ変わることができる。

まず、相手を神に造られたままの存在として、或いは聖霊として見てみる。すると相手はそのような存在として貴方の目に映る。そのように認識した貴方にとってその相手は「全てが一つ、愛すべき神の子」となり、そのように見た貴方もまた神の子であるという事実を体現するもの、証するもの、裏づけになるものとなる。ガックリくるほどシンプルなことだが、真理とはたいていシンプルなものなのだ。実際にやってみるしかないのである。ただし、ほんの少しでも過去=幻想が混じっていたらうまくいかない。先入観を持ってあるいは過去を持ち込んで相手を見れば、その相手は貴方にとって幻想=間違いを体現するものになってしまうのだ。相手が大変苦しんでいる、そのとき彼(女)はもちろんそのように見えてしまう貴方のほうもまた「私たちは神の一人子だ」という真理を忘れていることになる。

だいたい、過去―現在―未来という連続性などよく考えればあってないようなものなのである。「コース」に言われるまでもない、それぞれのものがそれ自体としては互いに影響しあう存在ではないのだ。過去が現在や未来に作用するとすればそれはマインドが過去の経験を抱え引きずっているからに過ぎない。過去世であれついさっきのことであれ、過去は私たちのマインドの中にしか存在しない。しかも私たちがそれぞれに解釈した形でしか存在しないのだ。未来も同様である。それがわかれば過去から未来に向かう連続性は崩壊する。

過去の経験を参考にして未来の計画を立てる、というのは一見賢明なようだがこれをやっていると奇跡が生じる余地はなくなる。未来に何が起きるかわからない、と言われると大抵の人は悪いほうに考えてしまうだろうが、もうその時点でアウトなのである。

奇跡あるいは癒しとは、自分や兄弟姉妹を「ありのまま」の姿として認識することによって実際にそのようになる、という現象であった。誰かが現在苦しんでいるとすればそれはいかなるやり方であれ過去の経験を現在に持ち込んでいるからに他ならない。その過去から解放してやるのが奇跡であり癒しなのだ。少し話が逸れるが、過去を解放しようとして過去に起きたことを振り返るのは余程注意しないと、つまりエゴの目で行なってしまうとたいてい効果がないか場合によっては逆効果になる。過去を積極的に現在に持ち込むことになるからである。例外として、過去に起きたことについていま感謝するのは取りも直さず「現在」において過去を癒し解放することになる。それがイヤな経験であればあるほどそうである。解放が起きるのも常に「今ここ」においてなのである。

誰かを自分のマインドにおいて解放してやればその人も私たちも同時に解放され癒される。これがなかなかピンと来ない人も多いと思う。誰かに対する自分の思い込みを捨てれば確かに自分は楽になるだろうが、別に相手は変わらないのでは?と普通はそう思えるからだ。しかし、原理から言えば奇跡はそういうふうにしか起きないのである。ものすごく通俗的な言い方をすれば「相手を変えようとしても無駄だ、まず自分が変われば相手も変わる」というふうにもなる。また「きょうの怒りを明日に持ち込むな」などという言い方もある。ちょっとムカついたり落ち込んだりするのは仕方ないとしても一晩寝たら全部忘れる、くらいになれればかなり違うと思う。

さて、時間軸的・直線的な連続性とは違う連続性が「今ここ」にはある。「今ここ」は「常に現在である」あるいは「常に永遠である」という点において連続しているのだ。当然のことながら「今ここ」は時間というものが出来上がる前からあるものだ。ところで、時間とは「神からの分離」の産物であった。ということは!今ここ、の状態だけであれば分離など起こりようがない。

しかし、つくづく本質的なことを言葉で表すのは難しい。というより殆ど不可能に近いものを感じる。たとえば「神を思い出すこと」「忘れてしまった真理を思い出すこと」が学びだと言われているわけだが、「思い出す」「忘れる」という言葉の中には既に時間性が含まれてしまっている。ああ、私はかつてこうだったのだ、と思い出すとき、それが真実のものであれば「でも、今はもう違う」と続くのではなく、かつてこうであり今も変わらずそうである、ということも一緒に分るようになっている。これまたそうなってみなければわからないことである。

時から解放された状態で相手を見るとは即ち時間の発生以前の存在、分離以前の存在であるスピリットとして相手を見ることでもある。聖霊として見るというのもこれと同じことだ。そして、それこそが癒しであり救いなのだ。なぜならこれは相手を「何一つ欠けるもののない完全な存在」として認識することだからである。そして、その「今ここ」においてのみ本当のコミュニケーションが可能になる。普段私たちがコミュニケーションだと思っているものは、他の誰かではなく自分の過去の亡霊を相手にあれこれやっているだけなのだった。

それと対照的に相手を完全なる神の子だと見ること、それこそが癒しである。その人が貴方にとって癒しを証しする存在になるわけだ。「コース」はこういう現象についていろいろな書き方をしている。私たちの中にある神からの或いは神という光を普段私たちは忘れている。が、聖霊の力を借りればその光で相手を照らすことができ、それによって私たちもその光の存在を確かに認めることができる。そういう光があるのだ、と気づき自覚できるようになってくる。そのように気づかせてくれたのはその相手であるという点においてその人は貴方にとって神の光・愛・平和などへの導き手になったのだ。

このような光はもちろんこの世のものではない。絶対不変で永遠に不滅なものだからである。例によって私たちはそんなものが自分の中で輝いていることなど忘れてしまっている。しかし、これまた例によってその光は忘れられることはあってもなくなることはなく、私たちが気づかないだけで常に今ここで私たちを照らしている。与えればそれ以上に受け取るというのが愛の法則だったことを思い出してほしい。私たちが眠りこけ悪夢にうなされているときでさえ、私たちのスピリットにおいてはこの法則が働き続けているのであり、キリストは私たちを守っていてくれている。私たちがそう意志しさえすればいつでもその事実に気づくことができるのだ。

さて、本当の世界とはどんなところなんだろう?形而上的な考え方や「コース」に慣れた人なら今更どんなもこんなもないだろうと思うかもしれないが、少なくとも今私たちが見ているようなものではない!ことだけは確かなのである。この世で目に見えるものは形あるもの、形あるものは必ず変化し最終的には土に返る。生きているものは全て死にゆく運命にある。平家物語の冒頭のような世界である。しかし、本当の世界はそんなものじゃない。じゃあどんなところなの?と言われても、「コース」も象徴的・詩的な書き方しかしていないのだ。これもそうなってみなければわからないことなのだが、少なくとも「言葉では形容できない」「絵にもかけない美しさ」みたいな感じだと捉えていればよいと思う。

本当の世界と幻想あるいはニセモノの世界を同時に見ることはできない。本当の世界が見える目に幻想の世界は映らない。逆もまたしかり、である。私たちはそれぞれ「見たいほうを」見ているのである。こんな悲惨な世の中見たくないわ、と思っているかもしれないがそれでもやっぱりそうなのである。幻想のほうにより価値をおいていなければそのような世界が目の前に立ち現れることはないからである。この世界には救いなどない。そんな力はない。本当の世界はもっとずっと力強く、求めさえすれば幻想の世界にどっぷり浸かった私たちにさえ影響力をもたらしてくれるのである。

第212回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 104・105

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 104

第13章その4

言うなれば私たちは神や真理に対抗して(?)、個としての自分を或いは世界を作り上げてきたのだ。自分で作り上げたものは概してタダで与えられたものより価値があるように感じられるものだ。そうそう簡単に手放してたまるもんですか、せっかく苦労して作ったんだから!今更「間違ってる」なんて言われても困るわよ。そう思うような場面は私たちの日常生活でも経験しているのではないか?こんなに苦労して手に入れたんだから、と思うとそれが良くないものだとわかってもなかなか手放す勇気が出なかったりするのではないか?構造としてはそれと同じなのである。

恐怖も罪悪感も攻撃も私たちが自ら作り出したものだが、愛は違う。愛は私たちが存在すると同時に与えられていたものだ。というより私たちがその一部として創造されたようなものである。いずれにしても私たちが自ら作り出したものではない。「コース」によれば、どんなひどいものであれ自分が作り出したもののほうが私たちにとっては受け容れやすいようなのだ。まあ、ただ「馴染みがある」というだけのことかもしれない。とにかく本来の愛をそのまま受け容れることはかなり難しくなってしまっているのである。

この世で私たちが何かを強く愛すればその分だけそれを失う恐怖も強くなってしまうものだ。そのとき既に愛はなくなってしまっている。愛と恐怖とは共存できないからである。ところで、私たちが恐れているのは「愛する対象」を失うことなのだが、愛する対象とは自分が作り出したものなのだ。つまり、自分の外側にある何か、自分とは別の何か、自分の力ではどうにもならない何かなのだが、以前から見てきたように全ては一つなのだからそんなものは存在しない。ここはなかなか超えられないポイントである。本当に「そうなってみないとわからない」ことだと思う。だって、現に目の前にある「これ」や「この人」が「本当には存在しないもの」だと確かに感じられますか?

しかし、ともかくも私たちは「全ては一つのもの」として開かれた状態で生きるよりも個として生きて死んでいくほうに価値をおいているらしいのである。死ぬなんてイヤだ!死なれるのもイヤだ!と誰だって思いそうなものだが、そう思うこと自体が既に「幻想を現実だと思い込んでいる」からなのだからどうしようもない。

私たちが作り出したあれこれの幻想(個としての私、とか他人とか世界とかとにかく殆ど全てのものである!)には確固たる基盤などない。定義により幻想とは存在基盤を持たないもののことを言うのだからまあこれは当然である。が、私たちはそういうあれこれに確固たる基盤がある、というこれまた幻想を抱いているのだ。だって、見えるじゃない!触れるじゃない!そう思うかもしれないが、ああ、そのような知覚認識そのものが既に「間違い」だ、と繰り返し言われているではないか。

どういうものであれ幻想は幻想に過ぎない。幻想がある限り何をやっても救われない。幻想の中であらゆる方法を試したところで苦しみから解放されることはない。

ところが、その苦しみもまた幻想なのだった。もう訳がわからなくなってきたかもしれないが、頑張っておつきあいいただきたい。あらゆるネガティブな感情をはじめとして「これはきっと幻想なのだろうなあ」と思えることが出てきたら、あるいはマインドの中に恐れや罪悪感を発見したら即!聖霊に委ねてしまいなさい。聖霊に前に全て差し出しなさい、と「コース」は言っているが、具体的にはどうすればよいのか?ここには何も書かれていない。が、これまでのことを思い出してみよう。幻想を見つけたら即!感謝してしまえばよいのである。何に対して何を、なんて考えなくてよいのだ。ただ祝福し感謝する。これだけでも聖霊は働いてくれるのだ。そうなれば私たちのもっとも根源的な恐れ・・愛の光に照らされたら何もかも失ってしまうのではないか、自分がなくなってしまうのではないか、という恐怖さえ洗い流してもらえるのである。もっともそういう恐怖があれば聖霊にお出ましいただくのも怖くてできないのではないか、という気がしないでもないが、まあ騙されたと思ってやってみてください、と言うしかない。

このように自分自身が癒されれば誰の中にも本当の姿を見ることができるようになる。その人自身は依然として自分を欺いていたとしても、つまり幻想まみれであったとしても、である。それが相手を幻想から解放してやることであり、また癒すことでもあるのだ。以前はまず相手に対する見方を変え、それによって自分自身も癒されるというやり方が紹介されていたが、このような変容は「自分において真理であることは誰においても真理である」というふうに同時に起きるのだから、どちらのやり方でも大して変わりはしない。

しかし、逆に言えば「あの人だけは許せない」とか「あの人のこういうところはおかしいのよね」とたった一人についても感じているうちは、つまり少しでも幻想が残っているうちはどこにおいても癒しなど起きようがないのである。癒しやあがないをもたらすような愛は「完全」なものだが、少しでも不純物が残っていれば「完全な愛」の状態ではなくなるからである。更に裏から言えば、たった一瞬でも全ての幻想から解放されればその瞬間に癒しは、奇跡は起きるのだ。

正しいマインドは「神から離れたバラバラ状態」など望まないしそれを得ることもない。私たちも初めはそうだった。だが「離れてみようかな」というありえない願望を抱いてしまったときに全ては変わり、平和は失われたのである。愛し愛される父なる神、がその瞬間から「怖ろしい神」になってしまった。これは繰り返し述べられていることである。

しかし、くれぐれも忘れてはいけない。私たちが平和でないのは私たち自身がそう望んだからであって神のせいではないのである。幻想という暗闇の中でいくら平和を探してもダメなのだ。神は真理以外のものを与えることはできない。いったん私たちに与えたものを奪うこともできない。私たちがいくら不幸を望んでそれが与えられたように見えたからといって、それは神の仕業ではないのだ。

再びしかし、私たちは本気で望めばいつでも幻想を超えて正気に返ることができる。そして今までの自分がどんなにおかしかったか気づくこともできる。そこに神の答えがあるのだ。

私たちは生まれて死んで土に帰る、というのがエゴの教えである。全てが完全に一つになり真理以外の何もない「天国」などエゴには理解できないし、理解できないものは私たちにとって恐怖になる。天国を忘れエゴまみれ辛酸まみれの地獄にいるほうがまだわかりやすいだけマシだ、などと思ったりする。もう何もかもイヤ、何もかもなくしたいなどと思って自殺する人は「全てが一つであり真理しかない」ような天国を求めて死ぬのだろうか?ま、とりあえず目先の苦しみから逃げたいだけなんでしょうね。しかし、エゴも苦しみもマインドの産物であるのだから身体をなくしたところで自動的に天国にいけるわけがない。こういうものは全て「気づき」の問題であり、更にエゴは身体がなくても生き延びるということを思い出してほしい。

普通の弁証法で考えれば生があるから死があり、死があるからこそ生があり、この両者はいわゆる絶対矛盾的自己同一の関係にある。が、「コース」は死によらずにただ「生」について考えてみろと言っている。

これまた普通の考え方では、私たち人間の運命は生まれて死にまた転生して死んで、というように時間軸に沿って繰り返されるものだとされる。が、「コース」の教えは私たちを文字通り時間軸から解放するものなのだ。過去世のカルマがどうの、という考え方も含めて私たちは本当に過去に囚われて生きている。エゴにとってもっとも重要なのは現在ではなく、過去という時間なのである。現在は、そして未来さえも過去に支配されてしまっている。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 105

第13章その5

エゴにとって現在=今ここ、とは過去と未来をつなぐだけにあるようなものであって、それ以上の意味はない。全ての思いや記憶から解放されて「今ここ」にだけ生きる、というのはスバラシイように聞こえるかもしれないが、その一方で何だか居心地が悪くて不安だったり怖かったりする人もいると思う。それくらい私たちは現在を生きるということに慣れていないのだ。

現在は過去と未来をつなぐためだけのもので、空っぽ・空白みたいに感じられるかもしれない。が、その空白は実は意味に満ちているのだ。

以前から述べている通り、私たちの知覚認識は判断・解釈の結果なのだが、その判断・解釈は過去の経験に基づいている。こうして私たちは常に過去を現在に持ち込んでしまっている。こうして、現在は「過去の痛みを再現する場所」にもなっている。あるいは「過去の痛みを未来に向かってつぎ込む」場所でもある。未来の自分(に起こりうるあれこれ)を現在の自分の基準で判断・評価してああだこうだと悩む方もリーディングにはいらっしゃるが、これは単純な論理で考えても全くおかしいことなのだ。

目の前の人の言動を過去の自分の経験に基づいて解釈してしまえば、当然間違いも起きることになる。嫌われているわけではないのに「きっと嫌がられているんだ」と思い込んだり、相手は別に何もしていないのに「裏切られているんだ」と思い込んだり、それによって相手を攻撃してしまったり、そういうことはもう日常茶飯事なのである。目の前の相手を聖霊だと見るどころか、そのままの姿で見ることさえできなくなっているのだ。リーディングで出てくる対人関係の問題も殆どこれが原因になっている。このあたりのことは以前のスピリチュアルコラム「分かる?」というシリーズで「内在論理」を軸にして詳しく説明したのだが、まあ簡単に言えば私たちは自分の基準でしか人を見ることができず、その基準とは過去の経験にもとづいてできたものなのだ。5年後、10年後の自分が今と同じ考え方をしている保証がありますか?これもまたエゴのなせるわざである。

とにかく、私たちは他人を相手にしているつもりで実は自分の過去を相手にしているだけなのであり、自分の過去の影に対してあれこれやっているだけだということになる。実際その通りなのだが、これは何と孤独な光景であることか!バカみたいじゃないの!

過去世のカルマが今生に影響している、というのは要するに「過去が未来を作る」という考え方であり、それこそがまさにエゴの考え方なのだ。既に変えることのできない過去が未来を決定付けている、この考え方によれば現在の自分は過去の結果だ、というふうにもなる。いうまでもなく「現在」は過去の時点では「未来」だったからだ。過去が未来に影響しない、と言っているわけではない。私たちがエゴに従っている以上は確かにそのようになってしまう。ここではその考え方じたいを、時間の捉え方じたいを再考しようというのである。

過去のことを全て忘れよう、と思ってできるものではないしそんなことをする必要もない。忘れたふりをするのが一番悪い。また、過去から学ぶというやり方も通常は有効だ。「コース」だって間違いを正すにはまずそれが間違いだと認める必要がある、と言っている。しかし過去から本当に学んだらその過去はそこで手放されるはずであって、そうなっていないのなら、たとえば過去の間違いをまた繰り返してしまうならあなたは過去から学んでおらず、相変わらずただエゴに支配されているだけだ、ということになるのである。あるいは、過去から学ぶにしてもエゴに従ってしまえば「間違った学び」を身につけるだけの結果になるのだ。たいていは警戒心が強くなって過剰防衛に走るようになる。

目の前の誰かを聖霊だと見ることまではできなくても、私たちの過去の傷や痛みを投影せずにまっさらな心で見ることができればそれだけでも人生はかなり楽になる。私がコラム「分かる?」で言いたかったのはこのことである。「コース」が言い続けているように、あらゆる人があがないや救いのチャンスをもたらしてくれるのだし、聖霊のメッセージの担い手にもなるのだが、私たちは自分の勝手な判断や解釈で相手を見ているために貴重なチャンスをつかむどころか気づくこともできなくなってしまっている。

過去の痛みや傷にこだわって後生大事に抱えているうちは過去から解放されえない。私だってイヤなんだけど、どうしても消えないのよ!と皆さんおっしゃるが、手放す覚悟と勇気がないだけなんじゃないですか?あるいは「エゴが邪魔している」のだと言い換えてもいいのだが、そうすると「私のせいじゃなくてエゴのせいなのだ」といって正当化する人が出てきてしまう。あらまあ、それじゃエゴを野放しにしているのはどこのどなたなんですか?

ここでもう一度以前に出てきた「聖なる出会い」を思い出していただきたい。いつ誰に会うときでも「今初めて出会った」つもりで、スピリットどうしとしてかかわるつもりで接するのだ。多くの人が、まず過去から解放されなければそんなことはできない、と思ってしまうのではないか?それは誤解です。実は逆なのである。このような日々の実践を続けていくうちに私たちは過去から解放される、というか確かにその瞬間には自分が過去から解放されていることがわかるのである。

聖霊は、時間軸を超えたスピリットとして相手と出会うことを教えてくれるが、誰と出会っても結局いつも自分の過去と出会うだけなのだ、というのがエゴの教えである。

聖霊にとって時間とは学習ツールとしての暫定的なものに過ぎない。以前にも書かれていたが、時間差があることによって間違いに気づいて正すという学びが可能になってもいるのだ。

過去が未来を作るのならば現在が未来を作ると言うこともできるはずなのだが、エゴはとにかく過去にこだわる。エゴは恐怖を最高の餌にするのだが、恐怖は罪悪感から生じるのであり、罪悪感は「過去に罪を犯しました」という点において過去とは切っても切れない関係にあるからだ。また、恐怖は未来に起きることに対して抱く感情なので、エゴにとって過去と未来は罪悪感と恐怖によって一直線につながっているわけだ。いっぽうで、現在が未来を作るという考え方はスピリチュアル方面でもおなじみだが、これを更に推し進めると「今ここ」に生きることによって私たちは過去からも未来からも解放され、未来もその都度ただの「今ここ」になる、つまり時間軸そのものから解放されていく、というふうな感じだろう。今ここ、とは「永遠」につながる唯一の時なのだ。繰り返して言うが、癒しもあがないも救いも全て未来のどこかで起きるのではなく常に「今ここ」でしか起こらない。

私たちが自分の役割をどう考えるのか、それはそのまま時間の観念をどう捉えるかにつながっている。生まれてあれこれやってサンザン苦しんで結局死んでまた同じことを繰り返して・・・と思っているならエゴの指示通りに時間を捉えていることになる。「コース」の教えどおり、この地上における役割は癒しだ!と思っていれば時間はあってないようなもの、少なくとも時間軸が絶対的なものではない、くらいのことはわかるはずだし、何よりも癒しが生じる「今ここ」だけが大切だ、とハッキリわかるはずなのだ。

時間なんて所詮私たちの捉え方一つでどうにでもなるものだ。なぜならそれ自体では何ら実体をもたないものだからである。

いうまでもないが、永遠は愛につながり時間は恐怖につながる。愛と恐怖とは絶対に相容れない二つのもの、もっとも根源的な感情であった。愛もこの世においてはいろいろな形を取って表現されると思うが、そこに満ちているもの・・内容は常に愛でしかない。一方、恐怖のほうはもう本当にヴァラエティ豊かというか実にいろいろな形に自分の姿を変えてしまうし、恐怖の内容も人それぞれである。人の数だけ恐怖がある、といってもおかしくはない。大体の人が非常に個人的な幻想に基づいて閉じられた自分の世界を持っているのである。

愛はシェアできるが恐怖はシェアされない、としょっちゅう「コース」は言っているが、集団に恐怖が伝播してパニックになる、という場合はどうなのか?少なくともシェアという言葉はそういうふうには使われていないのであるが、パニック状態の場合であってもそれぞれが自分のマインドの中にあるそれぞれの恐怖を感じているだけなのではないか、と思う。別に普遍的なものが伝播したわけではないのである。それぞれの内容は案外バラバラなのかもしれない。ただ共通しているのは「正気じゃない」という点だけである。

第211回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 102・103

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 102

第13章その2

私たちはどうしても「時間」というものから自由になりにくい。「時間」少なくともこの地上における時間とは一つの方向に直線的に流れるものであり、私たちの人生も過去世もその上にあることになる。こんなことをいまじっくり考える必要はないと思うが、少なくとも「過去から未来に向かって直線的に流れて」いる時間には支配されないものもある、実はそちらのほうが本当なのだ、とだけ覚えていてほしい。あるいは、この世においてさえ時は伸びたり縮んだりすることもある、というほうがわかりやすいかもしれない。

いずれにせよ、過去が未来に作用するというのも一つの思い込みに過ぎない。過去が未来に作用するためには、過去に経験した何かが「思い込み」となってマインドに根付いていなくてはならないからだ。言い方を変えれば私たちはそうして過去に執着してしまっている。それもたいてい悪いことだけに執着する。過去世に犯した間違いや罪が今生に影響を及ぼしてしまうのは、生まれも死にもせず存在し続けるマインドの中に罪悪感が残っているからだ。

間違いは罪ではない。罪ではないのなら罪悪感が生じる必要はない。ただの間違いなのだから正せばよい。ああ間違えた、これからは気をつけようと思うとき罪悪感は要らない。「コース」を真剣に学ぼうとする人はたいてい罪悪感についてもある程度自覚的なのではないかと思うのだが、一見自分には罪悪感がなさそうだからといって油断はできない。前回にも見たように、他のものに形を変えてしまうことが多いからだ。精神的にあまりにも弱い人は罪悪感に全く耐えられないので、とにかく徹底的に見ないふりをしてしまう。罪悪感を抱かずに間違いを正すのではなく、罪悪感を生じさせた(ように見える)間違いからも目を逸らすようになる。

とにかく、私たちは神に逆らってバラバラになったと思い込みそれを罪だと考えて罪悪感という牢獄に自らを閉じ込めるようになってしまった。そこからの解放こそが「救い」であり、それをもたらすのはやはり聖霊による「気づき」なのである。そして聖霊は私たちの中にいるのだから、私たちは自らのマインドの中に救い主を持っていることになる。だからこそ、その気になれば誰でもいまここで救われることが可能なのである。

罪悪感が懲罰の恐怖をもたらし、恐怖が防衛のための攻撃をもたらす。どれも「自分と相手は別々のもの」という認識がなければ生じ得ないという点で共通している。神なんか存在しない!そんなもの知らん!とばかりに神を攻撃している人は、実際には「自分の力が及ばないような強大な存在」があると思っていて尚且つ自分にやましいところがあるためにその強大な何かから罰を受けることをひどく怖れているのである。

罪悪感とそれに伴う恐怖から逃れようとして私たちは攻撃を始める。攻撃の対象は自分でも他者でも何でもよいのだが、ここで怖ろしくも重要なのは「攻撃」とは表面的にどんな形を取るのであれ実は本質的に「神や真理に対する攻撃」なのだ、ということだ。もちろん私たちはそのことに気づいていない。だが、マインドのどこかではわかっている。神や真理を攻撃するなんて普通に考えてもとんでもないことなので、罪悪感はますます強化されてしまう。

あがない・浄化などというものは全て「そんなものもともと必要なかったのだ」という気づきによって起きるのだった。ところがエゴの解釈だと浄化は「悪いものがまずあってそれを取り払う」というふうになる。エゴによる赦しが「実際に悪いことをしたのでそれを許す」であるのと全く同じ構図である。浄化については、実際に多くの人々がこのように考えてきたのだろうと思う。お祓いなども含めてまず「邪悪なもの」がそこにある、というのが前提になっているではないか。また、スピリチュアル方面ではたとえば病気を始め何らかの「試練」に見舞われると「これは浄化だ」と解釈したりすることが多い。しかし「コース」によれば、病気じたいが「神や真理に対する攻撃」なのだし、苦痛を伴うというそのこと自体が既に「神から離れて神を忘れている」のを意味する。つまり、これもやっぱり神や真理に対する攻撃である。受難はエゴのものなのだ、ということを思い出していただきたい。

何ということか!エゴ式の浄化とは結局「攻撃」によるものなのだ。何らかの苦しみと引き換えに罪なり毒素なりが浄化される、この考え方は非常になじみやすいものだが「コース」によれば勘違いもいいとこなのである。

もちろん、実際に発熱や出血などによって身体が浄化されるということはある。しかしそれはあくまで「身体」内の現象なのであり、しかも身体は分裂したマインドの産物である。従って、どちらかといえばあらゆる不調は私たちのマインドが自らの中に「「罪深さ」を認識しているからこそ生じることであり、一種の攻撃なのだと考えたほうがよさそうだ。そして「そんなことする必要はないんだよ、だって初めから罪なんかなかったんだから」と気づくことができれば、つまり「いま、現実のように見えていることは実はみんな幻想で、本当は何も起こっていないんだよ」とわかれば奇跡的な癒しが起きる。これこそが本当の浄化なのである。

全ては一つ・みな同じ、というのは「みな同じように罪深く死にゆく存在である」という意味ではない。その次元で捉えてはならないのである。全てが一つ、とはそれが丸ごと完全な状態にあることを意味する。どこか一箇所にでも「罪」があったらそれはもう「完全」ではなくなってしまう。私たちは完璧だけどあの人はだめね、ということはないのである。罪悪感から解放されたとき私たちは自分の中にもあらゆるものの中にもキリストを見ることができるのだ。キリストとは「神のひとり子」の象徴でもある。つまり、私たちはみな神のひとり子だ、という認識に至ることができるわけである。

さて、罪悪感が恐怖や攻撃を生じさせるのなら、罪悪感がなければ恐怖も攻撃もありえない、ということになる。攻撃がない、とは単に「攻撃的でない」との謂ではない。するにしろされるにしろ、「攻撃」というものの有効性を認めないということである。つまり罪悪感のない人は怖がることもなく傷つくこともない、そういうことになる。そもそもスピリットは丸ごと無傷の状態で永遠不変なのだから傷つくことがありえないのだった。罪、などという汚点がちょっとでもあればそれは「完全な状態からの変化」になってしまうのだから、罪もありえない。従って罪悪感もないわけである。スピリットの状態で生きていれば罪悪感も恐怖も攻撃もなしでいられる、文字通り「怖いものなし、無敵」の状態なのだ。

スピリットは生まれも死にもしないものだった。罪悪感から解放されれば、つまり自分が罪なきものだと知ればそれはそのまま自分が不死の存在だと知ることにつながる。死なない、というのは150歳になっても300歳になっても生き続けるという意味ではもちろんなくて、死が存在する時間軸の外に出られるということである。むろんそこには年齢などというものは初めから存在しない。身体がなければ年齢もない、当たり前ではないか!しつこいようだが、永遠・無限などというものは時間軸上にはないのである。

「コース」を読んでいて感じるのだが、この本はいわゆる「魂の不死・永遠性」を説いているのとは少し違うような気がするのだ。身体は滅びても魂は生き続ける、そういう考え方は別に珍しいものではない。スピリチュアル方面でも過去世だの転生だの、そのような考え方や見方は半ば常識になっている。しかし、それらもまた「一方向に直線的に流れる時間軸」上のものに過ぎないのだ。転生するという考え方じたいが既に「身体がある」「神と離れてバラバラの存在である」との思い込みから解放されていないことを表している。「コース」も過去世とか転生などというものはやはり幻想だと「教師用マニュアル」の中で述べている。魂が不死だとか永遠だなどというのはとにかく時間軸とは無関係なのである。

もちろん、時間軸上で表現しようと思えば「私は何年の何月何日にルルドで癒された」などと言うことも可能ではあるのだが、実際のところ癒しやあがないが生じるのは時間軸の外であり、常に今ここ、でしかないのだ。

 

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 103

第13章その3

まず、前回の内容の補足である。身体的な浄化現象とはたいてい発熱や出血など急性の症状として出ることが多く症状がどんなにひどくても本人は別に辛くないのが特徴のようである。体の不調や病気なら何でもかんでも浄化だと捉えるのはスピリットレベルではもちろん単なる身体内のレベルに限ってみてもやはり間違っている。

さて、自信のなさや自己否定・自己評価の低さなどが幸福や豊かさに対するいわゆる「ブロック」になっていることに気づいて何とかしようと、自分の潜在意識を探ったり前世を調べたりしても今ひとつスカッとしない、そういう人も多いだろうと思う。何故スカッとできないのか、その理由はこれら「ブロック」の正体が罪悪感であり、更にその原因が「神に逆らったこと」つまり「神と一つであるところの本来の自分を見失ったこと」であるという本質的なアプローチが欠けているからだ。また、原因になっている事柄そのものよりも自分がそれらを「ブロック」として使ってしまっていることのほうがより重要なのでもある。これはもっと後のほうで詳しく述べられる。

とにかく、本来の自分を見失った、なんていうのはまだマシな言い方で、「コース」によればここで私たちは「神の子」であるところの本来の自分を「永遠不変の存在」から「死すべき存在」にしてしまったことにより、いうなれば神の子を苦しめ抹殺しようとしているそうである。これはあまりにも怖ろしいことなので普段私たちの意識には昇ってこないようにうまく隠されている。だって、普段何気なくやっている批判や自己嫌悪や攻撃や、そういったあれこれが実は「自分を殺そうとする行為」に等しいだなんて、考えるだに怖ろしいではないか!

更に、エゴはスピリットを敵視し憎んでいるので、エゴと同一化してしまえば私たちもスピリット即ち「本来の自分」を憎むようになる。

逆に言えば、エゴはこの部分を「究極の秘密」として絶対に見せないようにしているのである。私たちが何気なくしていることが実は自分で自分の首を絞めているのだ、とわかってしまったら、そんなところに自己否定の根っこがあるとわかってしまったら、そしてその結果私たちが目覚めてしまったらエゴは消えるしかないからである。

確かに、エゴと自分を同一視したままでこのマインドの「暗闇」の部分にアプローチしたりすれば文字通り気が狂ってしまう危険があると思う。

前々回にも書いたことだし、それ以前の内容をお読みになっていればもう慣れてしまったかもしれないが、「コース」の教えはいわゆる通常の信仰からすれば神に対する冒涜のようにも思われる部分が多い。私たちは全く罪のない純粋無垢な存在だ!なんて神をも恐れぬ傲慢さだ!と思われるのだ。傲慢なあまり神の怒りを買うかもしれない!そんな考え方をしてしまって天罰があたったらどうしよう!そう思う人がいてもおかしくない。しかし、ハッキリ言ってもしもそんな神がいるとすればそれはあなたが作り出した偶像に過ぎないのである。私たちが求め、「コース」が教えてくれるものは幸せと平和だけなのだから安心して前に進んでみよう。

その幸せと平和に至るのにエゴが如何に妨害要因になっているか、私たちはもう十分に教えられたはずである。誰もが「エゴを手放したい」と本気で思っているに違いない。にもかかわらずなかなかそれができなくて困っている人が多いのではないか。どうしてできないのだろう?エゴが抵抗しているからだ、と以前「コース」は言っていた。だが、どうもそれだけではないようなのだ。

以前から述べられているように、恐怖や罪悪感があれば聖霊の声を聴くことができない。それらはあがないや癒しを妨げるものに間違いない。第一、誰だって恐怖や罪悪感などを抱えているのは苦しいに決まっているのだから、「コース」に言われるまでもなくそんなものは手放したいはずだ。なのにどうしてできないのか?

ここでまた「あら、びっくり」の展開になるのだが、「コース」によれば恐怖や罪悪感などは確かにいやなものではあるけれど、私たちが本当に怖れているのはそれらではないのだそうだ。(恐怖を怖れる、というのもおかしな言い方だが本当にそう書いてあるのだし、実際に誰しもそういう経験があるはずだ)。私たちのマインドは歪んでしまっているので、自分たちにとって本当に良くないもの=恐怖や罪悪感など=が「イヤではあるけど手放さなくてもすごくは困らない」程度のものに見えてしまっている。良くあることだが、わかっちゃいるけどやめられない、というのは実際にはわかっていない証拠なのである。例えば火の中にわざわざ手を突っ込む人がいますか?毒薬だと知っていてわざわざ飲む人がいますか?いないですよね。何故なら、危険だとわかっているからだ。

歪んでしまった私たちのマインドが真に怖れているのは「救い」そのものだ、と「コース」は言っている。「コース」の言う救いが、私たちを救うどころか滅ぼすもののように感じてしまうからだそうだ。もちろん、私たちが目覚めて救われればエゴは死滅してしまうのだから、私たちがエゴと自分を同一視している限り救いを怖れるのは当然だし、それについては以前にも語られていた。それを考慮して読めば、ここで言われているのは「エゴたる私」というより単に「神から離れて作り出された『個人』たる私」のことだろうと思う。エゴ発祥以前の分裂したマインド、と言ってもよいかもしれない。

救われて「全てが一つ」になってしまえば当然のごとく「個」は消滅する。「コース」に限らずスピリチュアル系のあれこれを学んでいてこの部分に抵抗を覚えた人も少なくないはずだ。だって、「この私」がなくなっちゃうなんて!いったいどうなるの?死ぬの?個性がなくなってのっぺらぼうみたいになるの?何だかわからないけど怖いよう!そう感じても不思議はないのだ。

だからぁ。そんなもの実際にそうなってみないとわからないのだから、とにかく構わずに前に進め!と「コース」は言い続けているのである。そうは言っているものの何と親切にもここでは私たちの「究極の怖れ」について詳しく解説してくれている。

分裂した私たちのマインド、個体としての私たちが最も見たくないもの、隠しておきたいもの、それは神から離れてしまった恐怖ではない。その奥にもっと怖いものが隠れているのを知らなければ恐怖の正体を見つめるのは実はそれほど難しくないのである。私たちがもっとも見たくないもの、それは神であり神の愛であり真理であり、または本来の私たちの姿なのだそうだ。確かに私たちは攻撃を恐れているが、それよりももっと愛を恐れているのだ。

要するに私たちはエゴの登場を待つまでもなく分離状態から解放されたくないと思っているのである。個としての私、なるものを保持したいと願っているのである。

以前にも書いたことだが、「愛」という状態は案外よくわからないものなのだ。恋愛感情を初めとした「この世の愛」にはそれを失うことに対する恐怖や執着、相手を自分の思い通りにしたいという攻撃性、或いは可愛さあまって憎さ百倍などなど、真理と表裏一体であるところの本当の愛とは似ても似つかない要素が多すぎる。それに比べて「憎い」という感情が理解できない、という人はおそらく一人もいないだろう。この世の私たちにとっては憎しみのほうが簡単なのである。

そのもっとも大いなる愛である神や真理は絶対不変であり、とてつもなく強く壮大なものである。私たちも本来はその一部なのだが、分裂してしまった私たちにはそれがわからない。それどころか、あまりに強大な存在を前にして自分がそこに吸い込まれた挙句に消えてなくなってしまうような気さえして(古来、本当に敬虔なキリスト教徒にとってはこれこそが至福だったわけだが!)怖気づくわけである。

一体感、というのは大体肯定的なものだと解釈されるが、何かと一体になるとは取りも直さず今のこの自分が消失することでもあるのだ。頭では一体感を求めているつもりで実際には恐れている、という人は少なくない。

個としての自分を守りたいと思うなら神とひとつになるなんて最も危険なことに違いない。が、有史以来私たちはずっとそう思ってきたのではないか?即ち、さまざまな外敵から個としての自分を守りぬくことこそ幸せだ、と信じてあらゆる努力をしてきたのではないか?

第210回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 100・101

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 100

第12章その8

知覚認識は判断の結果なのだった。その判断の仕方には2種類あって、ひとつは「自分がするもの」もう一つは「聖霊によるもの」である。いうまでもなく「自分で」するものはエゴの指図とどっこいどっこいであり、間違っていたり自分にダメージを与えたりする可能性が非常に高い。そもそも分裂したマインドである私たちには判断する機能などない、と「コース」は言っている。本当に正しい判断ができるのは聖霊だけである。

そのどちらに従うか、それを決めるのは私たちのこれまた「マインド」なのだ。しかも「自由意志」がある。これを誤用すれば「自由だからエゴに従ってもいいんでしょ」になるわけだ。

怖ろしいもの、いやなものが見えるそのマインドで自分の内面の奥深くを覗いてみればやっぱりおそろしいものやイヤなものが見えてしまうはずである。だから自分の内面を見つめるのは怖い、と感じるのだ。そこにいるのはキリストなのに、つまり本当の自分であるスピリットなのに、それがわからない。私たちは自分が作り出した幻想、実在しないあれこれを見てしまっているだけなのである。

真理を体現しよう!と本当に意志するなら私たちは自分の中にも外にもキリストを見るであろう。つまり、出会う人全てがキリストであり聖霊であり、私たちは聖霊がそこにいる!という証に囲まれている、というふうになる。

やっているつもりなのにうまくいかない、これは「ただそれだけを望む」ようにしていないからだ、と「コース」は言っている。愛を求めているつもりで、豊かさを求めているつもりでそれらと相反するものの存在を信じているのではやっぱりダメなのである。思い出していただきたい。真理には対立物が存在しないのだ。この世においては真理には虚偽、愛には憎しみ、豊かさには貧しさ、というような対立概念があるのは当然のこととされているが、それは「この世」だからなのだ。「コース」の教えは「この世にあってこの世を超える」ものなのだから、まず「対立物がない」という考えに慣れなくてはいけない。

まず自分のマインドを平和で満たせばそれが投影あるいは拡張されて外界にも現れるようになる。更にそれが周囲に及ぶようにもなる。これこそが私たちの使命なのだと「コース」は言う。これを忘れているとき私たちは自分にとって良くない判断を下していることになる。自分を傷つけ貶めるほうに向かってしまっている。何であれ、自分を攻撃し破壊するような考えがあるならそれは「本当の世界」を攻撃していることに他ならないのだから本当の世界など見えなくて当然なのである。

その破壊や攻撃の究極の形が死なのである。自分がこの身体であると思い込んでいれば、死んだら最後である。生に対して死がある、これはこの世の常識だ。しかし繰り返すが、スピリットである本来の私たちは生まれも死にもしない存在なのだ。

罪深いダメな自分、にとって死は最大の懲罰になる。罪悪感の強い人は懲罰を怖れている一方でそれを望んでもいる。そしてエゴは私たちの死を望んでいる。私たちが死んじゃったらエゴも死ぬんじゃないの?と思う方は前のほうを読み返していただきたい。マインドが覚醒すればエゴは死ぬが、身体が死んでもマインドの寄生物であるエゴは生き延びるのだ。おまけに、エゴを保全したまま死んで身体をなくしてしまえば学びのためのツールをなくすことになるのだから、もう学ぶこともできなくなるではないか!へんな話だが、そのへんをさまよっている霊が自力で自らを救うことができず、生きている者によって浄化・浄霊されなければどうにもならないのはこのためである。

死んで復讐したい、死んで名誉を守りたいなどというのは全てエゴの考えである。エゴは身体の死など怖がっていない。私たちが身体の死をおそれるのもエゴの仕業だが、要するにエゴは私たちを支配して「神からの分離」状態を保持し自分が安泰でいられれば何でも良いのである。

神は何ものにも欺かれないが私たちはエゴに騙されている。罪悪感を植えつけられた挙句に、死が神によって与えられるものだとさえ思い込む羽目になったりする。

キリストがハッキリ現れるようになったとき私たちにとって死はもはや存在しなくなり、永遠だけが見えるようになる、これは別にイエスキリストの姿が目の前に現れた!なんてことではなくても良いのであって、まあ簡単に言えば覚醒した意識にはもはや身体の生死など問題ではなくなる、というようなことである。

神の子は死ぬことなどできない、とこれも繰り返し述べられていることなのだが、ここではちょっと違う書き方になっている。文学的というか何というか、たとえ誰かが神の子を殺そうとしても神の子は神によって隠され守られる、相手の視界からは消えてしまうとか、そんなふうに書いてある。これはもう「そうなってみないとわからない」ことの典型なので、確かに自分が誰かに殺される瞬間このような経験をするかもしれないのだが、試してみようなどと考える慌て者が出てくるのではないかと少々心配になってしまう。

この世で価値があると思われているものはたいてい「実際には存在しない」ようなものばかりである。ないものに価値をおき、ないものを追い求める。何かを得て嬉しいと思っても実は何も得ていないのである。実際、そういう幸福感は長続きしないし、今度は「得たものを失う恐怖」に襲われたりするではないか。

よく「本当のことは目に見えない」「目に見えないものにこそ価値がある」などというが、それこそが知覚認識機能がゆがんでしまった証拠なのだ。実際には本当のこと=真実しか見えない、はずなのである。聖霊の目に映るのは真実のみであり、聖霊による知覚認識が私たちにもできるようになれば私たちの目にも真実しか映らなくなる。ところが、私たちの目には真実か虚構か、常にそのどちらか一方しか映らない。虚構の世界を実在のものだと思い込んでいるうちは「本当のことは目に見えない」というふうになってしまうのだ。

もっとも、この「本当のこと」あるいは「本当の世界」というのは私たちの外側にあるものではなくて私たちのマインドが投影されたものなのだった。従って、私たちは「世界」を自分の思うとおりに作りあげることができるのだし、自覚はなくても実際にそのようにしてきているのであって、つまり「世界」というのはその程度のものなのである。翻って「本当の世界」とか「真実」「本当の現実」などというものは絶対に揺らぐことのない普遍的なものであって、私たちがどうこうできるようなものではない。

誰でも、ふとした拍子に力が抜けたようなときマインドが無防備になる。エゴの支配から逃れる瞬間がある。私たちが忘れ果てていた神や本来の居場所を思い出すのはそのようなときなのだ。別に何かすごいものが目の前に現れたりお告げが聞こえたりするわけではなく、感覚として現れることが多いと思う。ああ、これだと気づく場合もあるし、ただ「ぼんやりしていた」とだけ認識してすぐに目の前の問題に舞い戻ってしまう場合もある。エゴにとってはこの上なく危険な瞬間であり、またエゴの支配に慣れている私たちにとっても何となく居心地の悪い感覚だったりもするからである。「コース」には「ただ一つの声があらゆる質問に対する答えを与えてくれる」などと書いてあるが、真理を垣間見るにはただ一つの声で十分だ、ということなのだ。この「声」というのがまた厄介なのだが、聖霊やら何やらのメッセージだのお告げだの、そういうサウンドみたいなものだと思わないほうが良い。これは沈黙や静寂という「声」なのだ。その静寂の中に、言葉で語りえない全てのことが語られるのだ。

神に与えられたもの以外は、それがどんなに価値あるものや怖ろしいものに感じられても実際には無力なのである。私たちに対して何の力も及ぼせない。本当に私たちが抵抗できないのは愛の力だけだ。愛=真理=神、どれに置き換えても構わない。それらはみな「全てが一つ」であることをそれ自身によって明らかにするものである。

私たちは誰でもそういうものを求めている。自分がそれらを失ってしまったと思い込んでいるからだ。そして、それらこそが本当の自分自身でもあるからだ。

 

 

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 101

第13章その1

ここでは再び「罪悪感」について詳しい考察がなされている。恐怖と罪悪感と攻撃は三つ巴の関係にあるとたびたび書いてきたが、もっとも根源的なものを一つ挙げるとすればそれは罪悪感である。罪悪感なしには恐怖も攻撃もありえない。恐怖がある限り聖霊の声は聞こえないと以前書かれていたが、事情は罪悪感においても全く同様なのである。罪悪感あるところに聖霊の声は聞こえず平和も愛もない。

このあたりで述べられる内容は殆ど全て以前の繰り返しなので早足でおさらいするだけにしておこう。

恐怖もそうなのだが、罪悪感と言うのはそれ以上にいろいろな形を取って現れる。生まれてこの方罪悪感など一度も抱いたことはない、という人はまずいないと思うが、現時点において「あなたには罪悪感がありますね」と言われてもピンと来ないこともあるだろう。私、別に悪いことなんてしてません!と怒りを覚えてしまうかもしれない。が、私にはあんなものはとても得られないわ、などという自信のなさ自己評価の低さとか他人と自分とを比較してしまうこととか、自分や他人に対して批判がましくなるとか、更に自己嫌悪・自己否定・落ち込み・不安などなど、これらは全て罪悪感が形を変えて現れたものなのである。「私ってダメね」ということが何故それほどまでにあなたを落ち込ませるのか?よく考えてみてほしい、「私はダメだ」ということはあなたにとって「罪」に等しい、それくらい「悪いこと」なのである。罪深いのなら当然罰が下される、と誰でも思う。だから恐怖や不安に襲われたり、あるいは攻撃的になって罰から身を守ろうとするわけである。罪悪感は恐怖と同様、分離の象徴である。たとえば自己否定や自己嫌悪・自己批判などを考えてみればわかるように、そこには「批判・否定する自分」と「される自分」がハッキリ分裂している。罪があれば罰がある、しかし罪悪感を抱くことによって日頃自分を罰するような経験をしていれば神からの罰は免れるかもしれない。エゴは私たちにそう教えることもあるのだ。このあたりの仕組みをよくよく理解しておいていただきたい。

というか、「コース」によればこの世界あるいは私たちの人生そのものがこういう仕組みによって成り立っているのである。つまり、私たちは痛みを通してこの世に生まれ出で、長ずるにつれて愛したり見捨てられたり、愛するものを失って喪失の苦しみや悲しみを知り、更に苦しんで死に至り、死んでやっと苦痛から解放される、というまるで「生まれてきたことや生きていることが罰である」ような様相になってしまっているわけだ。おまけに死が「苦痛の終わり」であると同時に「最大の罰」にもなっている、という訳の分からなさである。マインドという目に見えないものはまるで脳の一部であるかのように考えられているため、ちょっと脳つまり身体に損傷があればそのままマインドの力も損なわれるという事態まで生じてしまった。

こんな世界・こんな人生しかないのだったら「神は残酷だ」と思われても仕方がない。これ以上ひどい目にあわないようにカミサマの機嫌を取ろう、一生懸命信仰して真面目に生きよう、と考えるようになっても不思議ではない。それでもなお苦痛が残り悲惨な出来事に見舞われるなら「それが神の御心だから」と考えるか、或いは「神なんかもう知るか」になるか、「このカミサマが間違っていたのだ、あのカミサマだったら大丈夫だろう」みたいになるか。いずれにせよ、本当のところが分からない限り何をしたってダメなのである。

罪悪感があるのは罪を犯した(と思っている)からに違いないのだが、それはもう「私たちが神から離れた」という例の間違い=思い込みを措いて他にない。それをキリスト教では「原罪」というのであった。「私たちはお互いにバラバラの存在で、世界というものは自分の外側にあり、神は自分とは別のものである」と信じている限りにおいて私たちは罪悪感から免れていないのであり、自分の中にもまた他人においてもスピリット=神の子という姿を見ることもできないのである。

罪悪感を抱くというのはかなり苦しいものである。単なる不安や恐怖感よりもずっと耐えがたいものかもしれない。強い罪悪感を抱き自分を責め続けることなど私たちにはとても耐えられるものではない、とエゴもわかっているのだ。だからこそ罪悪感はマインドの外部に投影される。一見、罪悪感とは思えないようないろいろなもの、上記したようなあれこれに形を変えてしまうことによって、私たちは自分の罪悪感を「見なくて済む」ようになる。たとえば、私たちが他人を批判するのは自分の中に罪悪感があるからなのだが、自分ではまさかそんなこと思いつきもしないだろう。つまり罪悪感は投影によって隠されるわけである。ただしこれはあくまでも隠されただけであってなくなったわけではない。エゴは私たちの罪悪感を保持させたいのだ。そうすれば神との分離=全てバラバラの自己、という姿が保たれエゴじしんが安泰でいられるからだ。

身体を持ってこの世に生まれた以上誰でもが抱かざるを得ない根源的な罪悪感、そのおおもとは、おそらくキリスト教の枠組みを使わないでも説明できるはずなのだがあくまで「コース」に即して言えば、「神から離れた」という罪、神に逆らい或いは殺したという罪、それによって「神と一つである神のひとり子」である自らのスピリットまで抹殺してしまったという罪である。もちろんそんなことは実際には不可能だし本当には起こってもいないのだが、やってもいないことをやったと思い込んで罪悪感に苛まれるのは珍しくもないことである。自分の無実と潔白さがわかってしまえば一気に解放されるのであり、それこそが「あがない」なのだ。エゴはこれをもっとも怖れている。それ以前に、私たちが罪悪感の本当の原因を知ることも怖れている。これがわかってしまえば「そんなことしてない」と気づくのは時間の問題だからである。

だから、エゴは私たちのマインドの表面に上ってくる罪悪感を他のものにすり替える。投影だけではない。あれができなかったからだめだ、あのようになれない自分はだめだ、などとエゴ的理想を抱かせ挫折させておいて「だめな私」とか「うまくできなかった、相手の役に立てなかった」などと自分を責めさせる。このレベルの罪悪感なら別に珍しくもないがこれだけでも十分に苦しい。それ以上奥にあるものを見ようとはしなくなり、むしろ目を背けたくなるだろう。そうしておけば、私たちが本当の原因に気づくことはないのでエゴは安心できるのだ。

もう一つ、罪悪感を栄養にしているエゴからすれば罪悪感は良いものであるのだが、私たちにもそう思わせるように仕向けることがある。つまり、あんなことをしたのなら罪悪感を抱いて当然だわ、とか罪悪感を抱かないなんて神をも恐れぬ傲慢さだわ、などというふうに、あたかも罪悪感が美徳であるかのように思わせるのである。くれぐれもこんなものにダマされないでいただきたい。罪悪感と反省とは違うのである。罪悪感のない人こそ真に謙虚なのだ。なぜなら既に主張すべき自己が消失しているからである。

罪悪感が「時」と密接に結びついていることは既に見てきた。私たちがもし本当に社会的に裁かれるような「罪」を犯したとしても、それはあくまでこの世においての出来事、時間軸上の出来事、この世の中のどこかの「場所」でなされた出来事なのだ。一方で、スピリットたる私たちには時間も空間もない。だからこそ過去における罪もなく未来における罰もない、というふうになる。

引き寄せ的に考えても罪悪感が強ければあたかも「罰」に当たるような経験をする可能性が高いと言えるだろうが、「コース」は「過去」が「未来」に作用を及ぼすという考え自体が既に罪悪感の副産物であるかのように語っている。良いことを思えば良いことが起きる、というのはスピリチュアルの常識だろうし、そうでなくても「努力がいつか実を結ぶ」ということもあるではないか。これもまた過去が未来に作用を及ぼすものであるが、こういうものについてはどうなのだろう?と思う人もいるかもしれない。

良いことを思えば良いことが起きる、その究極の形が「奇跡」なのである。そして奇跡は時空を超えているのだから、「いま良いことを思えばいまここで起こる」ものでもある。原理としてはどうしてもそうなる。かといって「お金があるぞ!」と思った途端に空っぽだったお財布が一万円札でいっぱいになった、などということは普通あり得ないだろうし「パートナーがほしい」と思った途端あなたの部屋の真ん中にステキな人が立っていた、ということも普通はないだろう。いくら奇跡だといっても実現までにせめて一昼夜くらいは必要だろうと思う。だが、基本的に「奇跡」とは「過去が未来に作用して」起きるようなものではないのである。本当は常に「いまここで」起きている、のだがそれを私たちがハッキリ認識できるような形になるまでにはどうしても「時間」がかかったように見えるのだ。だからこそ、「引き寄せ」的な教えにはたいてい「いま既に実現してしまったつもりになれ」と書かれているのである。そして大抵の人が「そんなこと無理だわ」と挫折する。悪いことならばまだ起きていなくても既に起こっているかのようにリアルに感じられるからこそ恐怖や不安があれほどまでに強烈に生じるのに、良いことについてはどうして同じようにできないのか?考えてみれば不思議なことである。

第209回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 99・98

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 98 

第12章その6

前回にも書いたように「だって相手が先にやったんですよ」みたいなことで攻撃あるいは反撃を正当化するのは間違っているし馬鹿げてもいる。ここでハッキリしておきたいのだが、攻撃は常に「自分のマインド」において始まるものであり、自分のマインドが始点になっている。ゆえに攻撃を終わらせる=終点もまた自分のマインドの中にしかないのだ。そもそも何かを「攻撃だ」と認識したりしなかったりするのは自分のマインドに他ならないではないか!これは大変重要なことである。相手が先にやった!などと考える人は「相手が謝らないと終わらない」とも考える傾向があるが、始めるのも終わらせるのも全て自分であり相手がどうするかなど一切関係ないのである。

さて、「私は神に造られたとおりのものである」とはつまり「私は永遠不変にして完全なものである」という意味なのだから、当然傷つけられることも損なわれることもないとわかる。この事実を「知って」いれば全く問題ないのだが、そこまでいかなくてもせめて「信じて」いれば人生も人間関係もかなり劇的に変わる。何かされてその瞬間カッときたり傷ついたりすることはあっても「反撃」まで至る前に自分のマインドを回復させられれば、相手の攻撃をますます煽ることもエゴを強化することもしなくてすむようになるからだ。

さて、「コース」はもちろん他の全てのスピリチュアル本においても「愛」という言葉は多く出てくる。とにかく愛が大切だ、全ては愛だ、愛こそ本質だ、と繰り返し述べられているわけだが、ところで愛って何だかわかりますか?

巷に氾濫しているこの「愛」という言葉はだいたい「恋愛感情」「情念」「色ボケ」「執着」などと混同されてしまっていて、つまりかなり不当に扱われているので私も自分のスピリチュアルコラムでちゃんと扱うまではずっと「取り扱い注意ワード」にしてきたくらいである(碧海ユリカのスピリチュアルコラム20081112月掲載「アイとオソレ」http://ameblo.jp/eurekamoureuse/archive1-200812.html)。

 

エゴは愛を知らず、何か別のものを愛だと思い込む。ならばエゴに支配された私たちもまた愛を知らないのだ。愛って結局何なの?よくわからない、と思い困惑しながら「愛がどうの」と繰り返すスピリチュアル本や「コース」を読む人はまだ良いのだ。知らないくせに知っているつもりで、自分が愛だと思い込んでいる何かにあてはめて読んでしまう人も多いのではないか、と私は昔から危惧している。

「コース」もここにきて今更そういうことを言い出した。即ち、あなたがたは愛を知らない、あなたが自分で「愛」だと思っているものは本物ではなく無力であり信頼もできない。おまけに「分裂したマインドがほんものの愛を学ぶことはできない」ときた。だったらどうしたらいいのよ!とそれこそ暴れたくなるような気もするが、例によって「聖霊に助けてもらうしかない」のだそうだ。

ものすごく乱暴に言ってしまおう。とにかく「あらゆるものに対して常に感謝の気持ちを抱く」ことが重要なのである。ほんものの愛と感謝とは表裏一体のものであり、波動としては同じである。愛の波動になるためには感謝の念を抱けばよいのである。愛が何だかよくわからなくても感謝がわからない人はいないだろう。おそらくこちらのほうがずっと簡単でやりやすいと思う。

ところで、生身の人間から本当の愛を学ぶことができるか?イエスでありノーでもある。「コース」いわく、分裂したマインドは学ぶのも教えるのも下手くそなのである。いくら学び教えようとしたところで自己満足に終わるのが関の山である。だいたい「愛を知らない」ことじたいが学ぶ上で決定的なハンデになってしまっている。そういう人たちは「特別な教師」から特別なカリキュラムで学ぶしかないのだ。そして聖霊こそがその「特別な教師」なのだが、しかし前にも出てきたように聖霊とは「どこにでも姿を変えて現れる」ものだということを思い出してほしい。でないとまたどこかに「聖霊さま」を求めて右往左往しなくてはならなくなってしまう。私たちが誰か生身の人間との関係で本当の愛を学び癒しをもたらしたのであれば、そこには聖霊が働いていたのである。身体としての「誰か」からではなく、その人の中の聖霊あるいはスピリットが働いたのである。

個人の資質や能力は限られているし大抵は歪められているのに、それらを用いて学ぼうとするのは相当難しいことである。聖霊なら私たちが気づかないマインドの中の「無限」の部分にアプローチできるので、私たちの学びも無限なものになる。いくら学んでもキリがないってことじゃないですよ。どこまでも学べる、学びが必要ないところまで学べる、ということだ。

「コース」が「わからなくても先に進め」と言っているのはつまり「わかったつもりになるな」ということでもある。自分が愛を知らないのに誰かに愛を与えようなどとしてもダメなのだ。というか知らないものは求めることさえできないのだ。

聖霊はスピリットと同じものでもあるのだが、スピリットに働きかけて私たちが「本来は知っているのに忘れてしまったもの」を思い出させてくれる。これが「コース」における学びなのである。

エゴの学習カリキュラムは例によって「必ず失敗するように」できている。私たちは学べないか間違ったことを学ぶかのどちらかになる。一冊丸ごとウソしか書いていない教科書で勉強するようなものである。

私たちの周りには「学習ツール」が山のようにある。この身体も世界も人間関係も全てが教材なのだ。が、間違ったカリキュラムのもとではどんな教材も役に立たないし正しく使われることがない。学習ガイドとは普通「学びの助けになるもの、学びを容易にするもの」のはずだが、エゴ的カリキュラムのもとでは全て「学びを不可能にする」ためのものにされてしまうのだ。大きな気づきをもたらすような出来事が起きていても、エゴはそれを間違って解釈してしまうだろう。これは私たちの日常生活でもよくあることではないか。たとえばエゴなら「お財布を落とした」ことが「ああ、私は運が悪い。何か悪いことの前触れだわ」みたいになってしまったりする。こういうのは愛を学ぶためのカリキュラムではなく、自分を攻撃することを学ぶカリキュラムなのであり、「全ては一つ」ではなく「みんなバラバラ」であると学ぶカリキュラムなのである。私たちはずっとこんなカリキュラムに従って生きてきたのだ。エゴのカリキュラムというのは本当の意味での「一般化・普遍化」ができないようになっている。簡単に言えば、例外が沢山あるのだ。わたしの場合は違うのよね、今回は特別よね、これじゃあしょうがないわよね、みたいなことが沢山出てきてしまう。「コース」を学んでいくと(まあ「コース」でなくても本質的かつ論理的な見方を学べていれば同じであるが)状況がどんなに違って見えてもその裏にあるものは大体同じだなあ、ということが非常によくわかってくる。見た目に騙されないようになってくるのだ。要するにこうでしょ、というのがその都度はっきり見えるのであれこれ悩むことがなくなる。これは楽です。

さて、エゴのカリキュラムは「神からの分離・みんなバラバラ」を学ぶものだから当然「マインドの分裂」を維持するためのものでもある。なんたって「目標を達成しないことが目標です」みたいなものなのだ。しかし、こんな怖ろしくかつ馬鹿げたカリキュラムに従って生きていてもあまり幸せになれそうもないのだし現にそうなっていないのが今の私たちである。何か間違ってるんじゃないの?本当に求めるものを学んでいないんじゃないの?そう感じるのも当然なのだ。

だったらもうやめましょうよ。自分が何もわかっていないのだと認めて聖霊に身を任せましょう。いまの自分の頭で考えたってろくなものは出てこないんだから、あれこれ考えるのもやめましょう。そんなことして意味があるの?なんて言わないで「人を見たら聖霊と思え」を実践してみましょう。ひどい目にあったときこそ感謝の念で心を満たしてみましょう。もしも「やったけど効果がなかったわ」というのであれば、残念ですが(いや、幸運なことに?)やり方が不十分だったのです。ある意味で「バカになって」やるしかないようなものなのです。

聖霊による学びは神に至る道でもある。今までの教えを振り返りつつ、常に自分のマインドに注意を払っていればよい。あとは聖霊が全部用意してくれる。

 

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 99

第12章その7

「悪魔に魂を売り渡す」という言葉があるが、これは「その見返りに大変な利益を得る」こととセットになっている。でなければ誰が好きこのんで悪魔になど魂を売るだろうか。しかし、エゴはこれと同じようなことをしている。神という怖ろしい運命の支配者がいてあなたを翻弄しているのだが、自分に従えばそれを超えることができるんだよ、みたいな感じだと思う。これが宗教内エゴになると「世界は非常に怖ろしくまた貴方も大変罪深いのだが、自分に従えば幸せになれるんだよ」で、偶像を崇拝させることになるわけだ。

しかし、言うまでもなく魂は売り渡せるようなものではなくそれどころか無くすことじたい不可能なものである。が、忘れてしまうことはできる。魂よりも大切なものがあると信じているうちは魂の存在に気づくことができない。

そう言われても日々の生活の中であれやこれや心配事を抱えていれば今ひとつピンと来ない魂なんて構っていられないわよ!という人もいるだろう。が、ちょっと考えてみてほしい。そもそも魂の存在を忘れたからこそあれやこれやの心配事を抱える羽目になったのではなかろうか?魂と引き換えにできるほど価値のあるものなど存在しないのである。

この世界にも身体にもそれ自体としての価値など存在しない。いかなる意味であれそれらに意味や価値を与えるのは私たち(のマインド)なのだ。これは「コース」学習以前の問題であり、誰でもちょっと考えればわかることである。たとえばこの世界が実は自分の外側にある何かではなく、自分のマインドの中にあるもの或いは自分のマインドが投影されたものだとすれば、というか実際にそうなのだが、何もわざわざ自分の外側にあるあれこれを求める必要などないわけだ。でもここがなかなか実感できないんですよね。

だからこそ聖霊の登場なのである。聖霊は私たちのスピリットに働きかけて私たちが忘れてしまったいろいろなことを思い出させてくれる。おまけに聖霊とスピリットとは本来同じものなので、聖霊はつねに私たちの中にあり、私たちにとって大きな助けになり力になってくれるものである。私たちが意志さえすれば聖霊のように知覚認識させてくれるのだ。

このあたり、かなり象徴的と比喩的な表現ではあるが、まず聖霊が私たちをキリストのもとにつまり本来の自分というところに連れて行き、そこから今度は神=天国に至るのだということが長々と述べられている。せっかちな私など、ああまどろっこしいわねえと思ってしまう。簡単に言えば、まず知覚認識が正されて「本当の世界」に生きるようになり、それを更に推し進めていけばもはや認識もない直接知の領域に至る、ということである。キリストと聖霊とは別物ではなく、キリストも聖霊の一つであるとハッキリ書かれている。更に、キリストとは「神の子」の総称みたいなものだから、私たち一人ひとりの本来の自己はキリストと同じものなのである。だからこそ私たち皆が「神のひとり子」なのである。

このように、私たちが正しい学びによってキリスト=本来の自己に近づいてくるにつれ認識は聖性を帯びて直接知に近づき、愛はより純化されて主体と客体との区別もなくなる。どのような状況にあっても「これは特別だ、コースの学びは適用できない」などという事態はありえない。一見、全く違う状況に思えても結局起きていることの構造はいつも同じなのである。エゴのように「この場合はこうだが、その場合は別だ」などということがありえない。「コース」の学びは真に普遍的でどんな場合にも適用できるものなのだ。だからこそ「奇跡に難易度はない」ことにもなる。これもなかなか実感できないことだと思う。しかし、実際にそうなってみれば誰でもわかることでもある。

学びそのものは目に見えない。が、学んだ結果起きたことを見れば、ああ確かに学んだのだなということがわかる。奇跡とは学びを裏付けるもの、証してくれるものでもあり、学びが進むにつれて「特別なこと」ではなく「当たり前のこと」になってくる。まあそうなってしまえばもはや「奇跡」という言葉で表す必要もなくなるのだろうが。

世界は私たちひとりひとりのマインドと別物ではないので、私たちひとりひとりがそれぞれの学びによって「本当の世界」を回復する必要がある。全てがひとつ、自他の区別がないのであれば誰かが「本当の世界」をもたらしてくれてハッピーエンド、になっても良さそうだと思うかもしれないが、いつも言うようにこういうことは全て、本当に全て「気づき」の問題なのである。私の代わりにあなたが気づいてください、なんて不可能ではないか。気づきはいつだって自分(のマインド)にしか経験できない。こういうおかしな構造はもう仕方がないのである。あれこれ考えるよりやってみたほうが早いと思う。「コース」の内容には「そうなってみないと全くわからないが、そうなってみれば完全にわかる」ことが多いのだ。

さて、当たり前だが聖霊そのものは目に見えない。が、先に述べたように「起こったこと」を見ればそこに聖霊が働いていたとわかる、そういうふうになっている。私たちには聖霊がどこでどういう形で姿を現すかなど全くわからないのである。だから、「まず聖霊を呼び出そう、ああ聖霊様がきた、お願いします」などという事態を想像しないでいただきたい。たとえば感謝などで心を満たせばそれが即ち「聖霊に従っている」ことになるのだから、聖霊がどこにいて何をしてくれているかなどいちいち考える必要はないのだ。

「コース」によれば、この世における私たちの役割は「癒し」でありそれを共に行うのが聖霊なのだが、ここは「聖霊に働いてもらうにはまず癒しを行わなくてはならないが、その癒しがなされるためには聖霊の力が必要だ」というふうにも読めてしまいそうである。まずは、私たちの目的はあらゆる意味での「癒し」=間違いを正すことであり、それ以外のものではないのだ!と決めるのが重要なのだと思う。

マインドの中にあるものが外に現れるという法則は絶対なのだが、これは要するに「求めたものを見出す」と言い換えることもできる。私たちがマインドの中に招き入れたもの、あるいは求め望んだものを私たちは良かれ悪しかれ見出す羽目になる。逆にいえば、見出したものによって自分が何を求め望んでいたかがわかり、更に聖霊とエゴのどちらに従ったのかもわかるようにもなっている。ただ、エゴの支配下にあるうちはいったい自分が何を望んでいるのかいないのか、というそれさえも見えなくなるのである。喜びと苦しみの区別がつかなくなっている、というのは前にも出てきたがここでは更に「矛盾した二つのものを同時に望む」そして「そのことに気づいていない」のがエゴ支配下の分離したマインドが陥る事態なのだと述べられている。

たとえば、不幸というものの存在を信じつつ幸せを望むとか、苦しみや憎しみの存在を信じつつ愛を求めるとか、貧しさが存在すると信じつつ豊かさを求めるとか、いちいち挙げていたらきりがないがこれが私たちの通常の姿であることは間違いないだろう。分裂したマインドはこの矛盾に気づかず、自らがただ「幸せ」「愛」「豊かさ」だけを求めていると勘違いしてしまっている。二つの相反するものを同時に求めるのはまさに「分裂」に他ならない。

マインドというものはその都度つねに「投影」か「拡張・シェア」のどちらかを選ばなくてはならない、という絶対の法則がある。どちらも選ばないとか両方選ぶなどということは不可能なのである。更に、まず内側に見たものが今度は外界に見えるという法則もある。もしも「いやなもの、望んでもいないこと」が見えたなら私たちはそれらを「望み求めて」しまっていたことになる。頭ではこう望んだはずなのに深層の部分では違うことを望んでいるからそうなるのだ、というのは既に常識になっているかもしれないが、そもそも潜在意識と顕在意識、という言い方じたいが図らずもマインドが分裂しているという信念をものすごく明白に表してしまっているのだ。

マインドのどのレベルがどう働いているのか、それぞれの分裂したレベルのマインドどうしは全くわかっていない。というより分裂しているのでわかることなどできないのだ。ただし、これも「自分が見出したものによってわかる」ようになっている。

世界は自分のマインドが投影されたものである、ならば世界が自分とは別の何かのように見えているうちはマインドが分裂していることになる。しかし、私たちは通常「自分の内側」と「世界」がそれぞれ別のものだ、という信念によって自我の統合を保っているつもりになっているのだ。自分の意識の内外に区別がつかなくなった状態は、普通の意味では「発狂」に他ならないではないか。ただこのような場合においてはたいてい「外界からの攻撃」という思い込みが強くなるので、やっぱり「自分を攻撃する何か」が自分の外側にあるという認識が消えるわけではないようである。

第208回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 96・97

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 96

第12章その4

前回までに見たとおり、自分をエゴと同一化しているとき私たちは貧しい状態になるのである。自分を救うためにしているはずのことが実はエゴを救うためのあれこれになってしまうからである。救われるべきはエゴでなくマインドであり、それは愛と平和を通してのみなされる。一瞬たりともそれを忘れてはならん!貴方たちはすぐ貧しい者の仲間入りをしてしまうだろうから、と「コース」は言っている。全くその通りである。

そもそもエゴは神から離れたという「不足・欠落」から生じたものでもあるので、エゴと自分とを同一化すれば私たちはどうしたって「何か足りない、何か奪われている」という感覚に襲われるに決まっているのである。本当の自己愛がなくなってしまっている。あらゆるネガティブな感情や思いの根っこにはこの「エゴの自己同一化」がある。そのことに気づいていないから私たちはいつも見当違いな方向に解決を求めて右往左往するのである。「コース」によく出てくる「レベルの混同」がここでも問題になる。つまり、エゴを作り出しそれに支配されてしまっているのは自分自身のマインドに他ならないのに、その「内側」を何とかしようとしないで「外側」のあれこれをどうにかして救われようとするわけである。

このあたりに書かれていることは既に何度も繰り返されているので簡単にまとめると、要するに全てはマインドの中にあり、マインドの外側にあるように見えるものは全てマインドが作り出し外部に投影したものである。私たちのマインドの中にある「見たくないもの」は外部に投影されてそれが私たちにとっての「世界」になる。世界が自分の思うままにならない、世の中が或いは周囲の人が気に入らないからといってそれらを直接何とかすることは出来ない。何とかするべきはそれらを作り出した自分のマインドだけである。それ以外の方法で世界をコントロールすることはできない。なのに、私たちは自分と世界或いは他者が別個のものであり、更には「対立するもの」であるかのように認識してしまっている。

「神はそのひとり子を与えてくださったほどにこの世を愛してくださった」のだが、これも「コース」流に読めば「神は愛によって私たちを創造した」くらいの意味である。ところで神が愛しているのは「本当の世界」なのである。私たちが作り上げた幻想の世界など実在しないのだし、神は全然ご存知でなく関知するところでもないわけだから当然だ。神がこの世を愛しているならどうして悲惨なことが絶えないのか?に対する答えがこれである。悲惨なことは私たちのマインドの中にあり外界に投影されているだけなのだ。

形があり程度というものがあるこの世界で通用しているあらゆる法則は「コース」いわく「全く無意味なもの」であるらしい。確かに重力やら何やら、スピリットの世界では何の意味も持たないだろう。

そもそも「神に逆らって」(と思い込んで)自前で作ったつもりの世界など、文字通り「ありえない」のである。本当に神から離れることはありえない、これは以前にも書いたが「存在せずに存在する」ようなものだからだ。実は神から離れていない私たちは「神に逆らってみようかな」という願望を抱くことは出来ても実行はできない。しかるに、その「願望」によってでっち上げられた世界など、それを作り上げた私たち自身にもどうにもできないようなものになるのは必定なのだ。

で、ここに戻ってしまうのだが、それをどうにかしたいと思うなら「世界が作られた出発点」に立ち戻るしかないのだが、私たちのマインドこそがその出発点なのである。間違いも救いもマインドの中にあり、マインドに対して作用するのだ。

ところで、神が私たちを創造し、私たちが神から離れ、メチャクチャになったところに救い主キリストが送り込まれ死んで復活し、それから2000年以上後の時代の私たちはそう望めば聖霊の助けによって救われる、みたいにどうしても時間軸で捉えてしまいがちだと思うが実際には全然そうではないので一応注意していただきたい。「コース」もいろいろ語り方を工夫してくれているのだが、これが却ってややこしさを生んでしまう場合もある。「個人がそれぞれ生まれて死んでいくようなこの世界と引き換えに神が本当の世界を与えてくれる」などというのもうっかりすると「私とは別物である神という存在者が本当の世界なるものをどこかから出してきて与えてくれる」みたいに読まれてしまう。

「コース」によれば全く無意味なこの世の法則?のうちの最たるものが「生まれたものは死ぬ」ということではなかろうか?本当の世界に死は無い。不老長寿などという意味ではないのだ。そこには誕生すらない。生命の主体が「身体」ではないのだ。一つである全てがただ在り在り在るだけなのである。となれば、死を認めることじたいが神を否定するものになってしまう、というのが「コース」の論理だ。

救いはマインドに対してなされるものであり、またマインドにおいてなされるものでもある。私たちは日々私たちの側でできることをやり、あとは聖霊に委ねてお任せすればよい。つまり、癒しや救いを得られる条件を満たしていればあとは自動的に聖霊がしてくれるわけである。

さて、エゴはその発祥からして愛や真理を怖れているはずである。それらが出てくればエゴは消失するしかないからである。これも以前に見てきたことだ。何しろエゴの目的は「分離状態の保全」なのである。そのためなら何でもする。

しかし、ここが怖ろしいのだが、にもかかわらずエゴは私たちに愛を求めさせる。といってもエゴは愛なんて知らないのだから「愛みたいなもの」を巧妙なことに「救い」だとして求めさせるだけなのだが、とにかくそういうわけで私たちは愛を求める。恐怖や怒りが実は愛を求める叫びだ、というような深層のレベルでなくても多くの人が自覚的に愛を求めている。

が、エゴに支配されていれば当然何が愛だかさっぱりわからないのだから、愛を求めているつもりで全然違うものを求めてしまい不幸になったりする。それはエゴが「愛を絶対に見つけさせないように」しているからだ。求めよ、さらば与えられん。求めよ、さらば見出さん、ではない。「求めよ、しかし見出すな」なのである。それでいて私たちに希望を捨てさせない。だから私たちは懲りもせず愛を捜し求め続けるのである。それも、愛とは別の何か、まがい物の愛を求めてしまうのでたとえそれが手に入ったところでやっぱりダメなのだ。エゴの支配下にある限り私たちは愛を求めても絶対に見つけることも得ることもできない、という構造になっているのである。

「コース」は少々ややこしい書き方をしているが、要するに神から離れたと思い込んで愛を見失った私たちのマインドはやはり愛を求めてしまう。愛を見失ったマインドが作り出したエゴは愛によって消失してしまう。マインドの要求を満たすふりをして満たさせない、これこそがエゴの巧妙なやり方、サバイバルなのである。

となれば、エゴの支配下にある限り私たちには愛が見えない。目の前に愛があってもそれとはわからないのだ。「見出すな」というのはそういうことだ。これはあまりにもひどいことではないか。エゴに従っている限り、私たちは不毛な努力を続けた挙句にガッカリする羽目になるのである。

その一方で、聖霊なら「求めよ、さらば与えられん。求めよ、さらば見出さん」になる。聖霊は決して欺かないので、聖霊に従って愛を求めればそれは必ず得られるのである。さあ、あなたはどちらに従いたいですか?

この世は仮の住処、とはよく言ったもので、私たちが現実だと思い込んでいるこの世界、私たちがその一員だと思い込んでいるこの世界は私たちの住処ではない。迷える子羊となった(と思い込んでいる)私たちは本当の家に帰る旅の途中なのだ。その旅は、「青い鳥」の物語さながら「本当はずっと家にいたのだ、旅など必要なかったのだ」と私たちが気づくときに終わる。

 

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 97

第12章その5

今更言うまでもないことだが「真理を求める旅」とか「本当の自分を求める旅」などというときの旅とは象徴的な表現に過ぎない。別にどこかの聖地だのパワースポットだのそんなところに行く必要はない。今ここにいながらにしてできるものである。そもそも、それら「求める何か」が自分のマインド以外のどこかにある、と考えること自体が見当ハズレなのである。マインド以外のどこかに探そうとするなら必ず失敗することになる。あれさえあれば救われるとか、愛を与えてくれる誰かを探そう、ソウルメイトを探そう、みたいな企てはそういうわけで殆ど失敗に終わる。もっとも、おそろしいことにエゴもまたマインドの探求、潜在意識の探求などを求めたりするのだが、エゴのままでこんなことをしてみたところでどうにもならないのは既にお分かりだと思う。これもまた「求めよ、しかし見出すな」の原則を免れていないのである。

私たちの象徴的な旅つまり学びにおいては、聖霊が私たちを導いて本当の住処に連れて行ってくれることになっている。それが聖霊の使命なのである。そして、私たちもまた兄弟姉妹に対して同じことをする使命があるのだそうだ。これは、彼らをゆるし癒す、などというのを別の言い方で表現したものだろう。

ここでまた死について言及されているのだが、そもそも「コース」は肉体を「実在しないもの」だと規定しており、死とは通常肉体において生じる現象なので、それらを考え合わせれば「実在しないもの」=「ない」ものが死ねるはずもない。そして私たちは肉体ではないのだから、私たちもまた死ねるはずがない。そういうつもりでお読みいただければわかりやすいのではないかと思う。要するに、死が本当に何もかも無くすことだとすればそんなことはあり得ない、と言っているのである。無くなるようなものは、実は初めから存在していなかったのだ。何をどうしたってなくならないもの、それどころか変化さえしないものというのがあるのだ。そしてそれこそが本来の私たちの姿なのだ、というようなことである。

あがないを為せば救われる、というのは言い換えればあがないと引き換えに丸ごとの完全性を取り戻せる、と聞こえるかもしれない。が、もともと私たちは何の罪もなく何一つ欠けるもののない完全な存在なのであった。ただそれを忘れているだけなのだ。あがないもまた気づきなのである。

おかしな喩えだが、間違った投資をして全財産を失ったと思ったら実はとんでもなくスバラシイ財産が相続によって残されていたことがわかった、しかもその相続資産は増えることはあっても絶対に減ることのないものだった、と気づいたらどうするだろうか?「コース」が言っているのも結局そういうことなのである。死ぬようなもの、なくなるようなものに価値をおいてエネルギーを注ぎこんではならないのだ、いやそうしたって別にいいけど何にもならないのだ。

不変かつ永遠であるものは当然強い。ゆえに愛は強力である。強いもの、自分が強いとわかっている人は攻撃などする必要がない。弱い犬ほどよく吠える、とも言う。

ここでもう一度おさらいしておきたいのだが、「コース」における「攻撃」という語はかなり幅広い意味合いを持っている。ただ暴力をふるう、喧嘩を売るとか批判するというだけではなく、怒りも落ち込みも罪悪感も、心の中で誰かの批判をしただけでも、また自分が攻撃された!と思っただけでもそれらは全て「攻撃」だと見なされる。

バカにされた、怒りをぶつけられた、わかってもらえなかった、というのも「攻撃された」ことになるのだが、実はこれ、そう思うことによって自分が自分を攻撃しているのと同じなのである。更にこういうとき私たちは「反撃モード」になるのだが、反撃することによって「やられっぱなし」になることを避け、相手に勝たないまでも同等な位置に立とうとしているのである。

ここで起きているのはどういうことだろうか?まず、「やられた」「頭にきた」「口惜しい」などと思ってしまった時点で私たちは相手からの攻撃が「有効に作用した」と認識、いやそれどころか確信したわけである。更に、反撃して何とかしようとするならばそれも「反撃は有効である」と思っているからなのだ。

リーディングの現場でもよく耳にすることだが「だって相手が先にやったんですよっ!私は何もしてないのに!」と、こう考えてしまったらもうアウトなのである。攻撃するもされるも全て投影であるのなら、こちらが何もしてなくても相手が勝手に投影を行って攻撃してくることは大いにあるのだし、それをまた攻撃だと受け取ってしまえば今度はあなたが自分のマインドにあるものを投影したことになる、それだけの話ではないか。こんなことを云々するのは絶望的に不毛なのだ。「相手が先にやったんだ」と考えるのをまず完全に止めましょう。それは言い訳です。あなたは何のために、何を守ろうとして言い訳をしているのか?結局エゴを守ることにしかならないではないか。

そもそも「攻撃は有効である」という思い込みこそが問題なのだ。私たちが何かを攻撃するときには必ずそれによって「自分を守っている」つもりになっている。この自分とはエゴに決まっているのだが、とにかく攻撃とは「自分を守るために有効な手段」だと自覚はなくてもそう信じてしまっているのである。誰かが私たちを攻撃してくるのならそれはその誰かが自分(のエゴ)を守るためにしているわけだ。

さすがにウンザリしてしまう。だって守るべきエゴが実在しないのなら一体何が何に対して何しているというのだろうか?よくよく考えてみてほしい。本当にウンザリ、ガックリくるような事態である。私たちはいったい何をしているのだろうか?ああバカみたい、と思わないだろうか?これだけでも十分な理解になると思うのだが、やはりもう少し丁寧に説明してみよう。

まず、攻撃は自分を守るために本当に有効なのか?まあ、以前にも書いたように刃物を振り回してきた相手をやむなく蹴飛ばす、みたいな場合もあるにはあるのだが「行動からは本質が見えない」のでここではなるべく本質に沿って考えてみたい。

あなたが誰かにひどいことをされたとする。単に「わかってくれない」というレベルのことでも良い。やられっぱなしでいるのではあまりにも自分が惨めだ、とエゴの本能が動く。ひどい人だ、冷たい、スピリチュアルに目覚めていないんだわ!と心の中で批判つまり攻撃を始める。さあ、これで貴方は救われましたか?貴方は自分を守れましたか?

相手に怒りをぶつけたら逆切れされて反撃された。これでは自分というかエゴさえ守ったことにならない。相手に怒りをぶつけたら、あるいは泣きわめいて相手の罪悪感を煽ったら謝ってきた。エゴは満足するだろうが、それであなたは本当に自分を守れたか?貴方は救われたか?その瞬間は「スッキリした」かもしれない。が、たいていの場合結局何も変わっちゃいないのである。こういう攻撃が「成功」したかのように見えるとまず間違いなくエゴは肥大化してしまうのだ。あらゆる苦しみはエゴが生み出すものならば、エゴが肥大化すればあなたは別のところでますます苦しむことになるではないか。

攻撃が実は何の役にも立たないものであり、それどころかますます自分を苦しめるものだとわかれば、すぐには無理かもしれないが誰だって「そんなことやめよう」と思うだろう。

攻撃したって何も変わらない、これは「攻撃は有効ではない」という意味にとどまらない。攻撃しても本来の部分は一切影響を受けない、何も変わらないのだ。だったら攻撃されたって何も変わらないはずではないか。まさか、そんなはずはない!子供の頃にひどいことをされたトラウマで今でも苦しんでいる私はどうなるの!大昔に攻撃された経験で人生が変わってしまったのに、「何も変わらない」なんてどういうこと?

そう思う人も多いだろうが、またまたしつこく繰り返させていただくしかない。攻撃が作用するのはエゴの部分においてだけなのである。マインドの分裂した部分には確かに作用するだろうし影響も及ぼすだろう。が、スピリットの部分は「何も変わっちゃいない」のだ。傷つかない、傷つけることができないのが本来の私たちなのである。ここを本当に良く覚えておいてほしい。

更にトドメを刺してしまえば、癒し(ヒーリング)や奇跡とは「何も変わっちゃいない」という事実を思い出させることなのだ。攻撃が無力だなんてありえない!という思い込みを後生大事に守っているうちはいくら「トラウマを解放したい」と思ってワークやセミナーに通ってもうまくいかないのである。

傷つきやすい人、というのは何となく繊細なイメージがあるのか、「私って傷つきやすいの」と得意そうに言う人もいるのだろうが、何のことはない「私ってエゴがものすごく強いの」と言っているのと同じなのである。

第207回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 94・95

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 94

第12章その3

愛以外のものは全て恐怖であり、愛を求める叫びであるならば病もまた同様だ。健康を求める叫びは愛を求める叫びと同じなのである。逆に言えば、病んでいる人は自分を愛していないということになる。ゆえに、奇跡とはやはり愛を覆い隠している恐怖というヴェールを取り除き、愛という本来の姿に戻してやることなのだ。私たちが「間違い」によって否定してしまった真実を回復させるとは、言い換えれば否定されたものをもう一度否定して真実に戻すことでもある。奇跡をもたらす要因は愛であり、これはあらゆる人のマインドの中にあるものだが病んでいる人はそれが見えなくなっている。奇跡をおこなうとは、これを愛の光で照らし出し再び見えるようにすることである。

ここでもう一度、何が真実で何がそうでないか考えてほしい。愛が真実であることは疑いの余地がない。一方で愛を覆うヴェールだの霧だの、そういうものはどれほど分厚く見えても結局は真理ではない=幻想であり思い込みなのである。そうとわかればすぐに消えてしまうようなものなのに、こんなにも私たちの「現実」に影響を与えているのはひとえに私たちがその幻想=思い込みに力を与えているからなのだ。私たちのマインドの力は元々神から与えられたものなので非常に強力なのである。使い方を間違えるととんでもないことになってしまうのだ。

私たちがいくら忘れ果てていても真理は真理であり、その法則は不変である。全ては一つ、与えたものが受け取られる。ならば、誰かの中に真実でないものを見るとき私たちもまた真実を忘れているのであり、誰かに真実を思い出させる即ち癒しや奇跡をもたらすとき私たちもまた思い出しているのである。だから、癒せば癒されるのだ。物理的に誰かが目の前にいるかどうかは別として、奇跡も癒しもたった一人だけではできないものなのである。そもそも、誰かが病んでいる、傷んでいる、苦しんでいると見えるその限りにおいてそのように見ている私たちもまた病み、傷み、苦しんでいるのである。つまり知覚認識が歪んでいるのだ。これを癒す=正すことにより自分の歪みも相手のそれも同時に癒されるわけである。知覚認識が歪んでいないキリストは常に間違いなく癒しや奇跡をもたらすことができたのだ。

病が何であれ、治療法はただ一つしかない。神に対するキリストの愛である。神とキリストとは一つものであることを考えればこれはキリストの「自己愛」とも言える。エゴ愛ではない。自分を愛している人は病まないというときの愛は「エゴ愛」ではないのだ。

小さい子供が「これ何?怖いよう」と脅えている場合「それは本当はこういうものだから怖くないんだよ」と言ってやれば「あ、そうなの。なあんだ知らなかった」となり安心するだろう。しかし、私たちオトナの始末が悪いのは、自分はわかっている!わかっているから怖いんだ、と思い込んでいる点である。本当はこうなんだよと言われても、いや違う!怖ろしいことなんだ、これじゃあ怒って当然だ、落ち込んで当然なのだ!というふうになってしまう。この「わかっているつもり」というのは実に厄介なものなのだ。誰かにアドバイスをされても、自分の認識が歪んでいるかどうかなど疑うこともしないで自分の「認識」のほうを信じてしまう。

これこそが「エゴの自己防衛」なのである。端的に「閉じている」とも言える。自分が「こである」と信じ或いは思い込んでいるものを後生大事に守る。その思い込みが真実・現実であるというこれまた思い込みを絶対に手放そうとしない。言い方を変えれば自分の認識に逃げ込んで「恐怖(怒り、不安などなど)の正体」を見ようとしないのである。

ゆるしとは簡単に言えば、相手の間違いをなかったことにして見逃すことだ、と初めの頃に書いたことがある。自分のものであれ相手のものであれ、間違いを「見逃してやる」というのはその向こうに真実を見てやることだった。見てみぬふりをするとか目をそらすなどということではないのである。ここで言われているのもそれと同じようなことで、自分の中に恐怖や不安や怒りなどとにかく愛ではないものを見つけた場合、そこから目を逸らすな!そこに溺れたり正当化したりして自分の認識に逃げ込むな!忘れたふりをして楽になろうとするな!目を開いてしっかり見ろ!といっているのである。そして後は聖霊の判断に委ねればよいのだ。時としてこれには覚悟も勇気も必要である。が、それこそが「間違いを正したい、知覚認識を正したい」という強い意志なのだ。恐怖の正体をハッキリ知る以外に恐怖から本当に逃れる道はないのである。いずれにしろ、自分の中の恐怖その他を自分自身が誤魔化してしまっているうちは聖霊にもどうすることもできない。

コラムにも書いたことだが、恐怖その他の思いは事象そのものに対して生じることはなく、ある事象についてあれこれ予測することから生じる。そのあれこれの予測とは自分のマインドが作り出しているものに他ならない。

神から離れたと思い込んだ私たちにはエゴが生じた。エゴは愛や真理によって滅びてしまうのでそれらを怖れる。ゆえにエゴに支配された私たちもそうとは知らずに愛や真理を怖れるようになる。にもかかわらず、分裂したマインドのほかの部分はやはり本来の姿である愛を求める。もちろんエゴはそれを避けるように仕向ける。こういうおかしな構造ができていることも一応覚えておいていただきたい。

強い意志をもって恐怖の正体を見据えようとするとき、まず必要なのは一旦心を鎮めることだ。聖霊は平和なマインドにおいて働くからである。恐怖から逃れようとしてとりあえず気持ちを鎮めてそこで終わってしまうのでは全く不十分なのであって、気持ちを鎮めるのは聖霊の判断を待ち受けるためだということに注意してほしい。

私たちの本来の姿からすれば、愛を否定するより恐怖を否定するほうがはるかに楽なはずなのである。恐怖がない、という状態こそが真実であり真実は永遠不変で常に今ここにあるものだから、その気になりさえすれば誰でも確実にこの地点に至ることができるのである。おまけに、そのための助けも常に今ここにある。私たちがいくら見ないふりをしようが忘れ果てようが、キリストも聖霊も神も隠れることなく常に今ここにいるからである。更に、これもしつこいようだが私たちが求めるものは既に私たちの中にあるので得られないはずはないということも思い出してほしい。

私たちの目的は「救い」であり、それが神の御心でもあり、救いとは一種の気づきなのだった。私たちの使命は受難ではなくあがないなのである。キリストは身をもってそれを示してくれたのであり、キリストの復活において私たちも解放されると「コース」は述べているが、この場合「キリストの復活」を歴史上の出来事だと考えないでほしい。これもまた常に「今ここ」でなされていることなのだ。

さて、「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」という聖書の言葉をご存知の方も多いだろうと思う。これはある裕福な人が「自分は全ての教えを守ってきたのだが、このほかに何をしたら神の国に入れるだろうか」とイエスに尋ねたところ、「全財産を処分して貧しい人々に分け与えろ」と言われ意気消沈して帰っていったという記述に続いて弟子に語られた言葉である。

この部分を解説する前にひとこと、聖書における「貧しい」という言葉はなかなか難しいのである。「心の貧しい者はさいわいである、天国は彼らのものである」とも書いてある。上記の裕福な男の話からすると「物質的には貧しくても心は豊か」な人が良いのだと思われそうだが、何と「心貧しき者」が幸いだとは!このあたりを詳しく説明すると非常に長くなるので、ご興味のある方は私のブログに貼り付けてあるマイスター・エックハルトの著書などをお読みください。こちらも「コース」に負けず劣らず過激です。

幸いなことに「コース」における「貧しさ」とは文字通り「困窮していること」と解釈して良さそうである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 95

第12章その3

「コース」によれば「貧しい人」とは間違ったところにエネルギーを注いでいる人のことであるらしい。つまり、この世のあれこれ、真実ではない幻想のあれこれに価値をおいて生きている人のことだと言えるだろう。前回述べた「がっかりして帰っていった金持ちの男」の話も「コース」流に読み直すと、間違ったところにエネルギーを注ぐのをやめて真実なものにのみエネルギーを注げば神の国に入れる、というふうになるのだと思う。実際、いくら全財産を放棄したところでそれだけでは何にもならないのである。行為と思考が一致するとは限らないからだ。むしろ「こんなにも価値があって大切なものなのに放棄した私はエライ」なんて思ってしまったらこれはもう完全にエゴである。こういうことについてはずっと前にも書いたことがあるので覚えている方もいらっしゃるかもしれない。

貧しさとは欠乏に他ならないのだが、本当に欠乏しているものは何なのかもうお分かりだろう。言うまでもなく「愛」である。愛がないので困窮し愛を求めている人が「コース」における「貧しい人」なのである。

そんな人は掃いて捨てるほどいる。というより殆ど全員がそうなのではないか。私たちの誰一人例外ではないと思う。だからこそ、学びが必要なのである。誰かの中に貧しさを見るときそれは必ず自分の中にもある。そのことに気づき、これまでと同様に「与えたものが受け取られる」という原理に即して実践すれば素晴らしいワークになるのだ。

しかし、初めに断っておくがここで述べられることは読みようによってはかなり危険だ。「コース」が容赦なく過激なのにはもう慣れっこになっているのだが、それにしても一瞬ギョッとするようなことが書いてある。そのつもりでお読みいただきたい。

まず、私たち自身も含めてこの世の殆どの人が実は価値のないもの、本当には存在しないものに価値をおいてそれを得ることにエネルギーを注いでいるという事実を思い出してほしい。その上で、たとえば誰かが貴方の嫌がることを頼んできたり命令したりしたとする。当然貴方はキッパリであろうがやんわりだろうが拒絶するだろう。場合によっては「私がそんなことをするいわれはない」と抗議するだろう。さて、この事態はいったいどういうことなのか「コース」の教えをきいてみよう。

相手が貴方に頼んでくることは「本当には存在しない」ようなもの、価値のないもの、つまり「どうでもいいこと」に違いないのである。今すぐ1000万円くれ、今すぐ結婚してくれ、目の前の川に飛び込んでくれなどと言われたとしても「コース」に即して考えればいずれも「どうでもいいこと」になる。それはこの世の価値に過ぎないからである。しかし相手は「それを得ること」あるいは「あなたを自分に従わせること」こそが自分にとっての救いになると思い込んでいるのだ。これはその通りである。わが身を振り返ってよく考えてみてほしい。誰だって、どんなことだって相手に自分の望みをかなえてほしいと思うのは取りも直さず「救いを求めている」わけなのだ。

では、それに対して「昂然と拒絶する」あなたはどうなのだろう?そんなとんでもないお願いや命令に従わないでいる、ということが自分にとっての救いになるのである。それに従うか否か、が自分にとって「どうでもいいこと」ではなく「非常に重大なことだ」と信じているからである。

ということは!「とんでもないこと」を要求する相手はそれに価値があると思い込んでいるのである。これが間違っているとして、それに本気で反応する貴方もまた間違っていることになる。相手の間違いを現実と見て本気で反応してしまった時点であなたは相手のエゴに自分のエゴで反応してしまったのだ。この章に即して言えば、相手の間違いにあなたもまたエネルギーを注いでそれを強化してしまったということになる。

私たちは何にエネルギーを注いでいるのだろうか?それは常に「自分が救いだと思っていること」と関わってくる。今一度ちゃんと考えてみよう。いったい自分の中の「何を、どうやって」救いたいのか。

たとえば、何かで怒りをぶつけているならばそれはもちろんエゴなので、私たちは「怒りや攻撃」によって「エゴを」救おうとしているのであり、不安や心配があるならばやはり「エゴ」を不安や心配によって救おうとしている、そういうことになる。

「間違ったところにエネルギーを注ぐ」のが貧しさならば、これら全ては「愛以外のものによってエゴを救おうとして」つまりそのようにエネルギーを注いでいるわけだから、こんなことをしている時の私たちはどうしようもなく「貧しい」状態にあるのだ。

逆に言えば、これら「貧しい人々」はその貧しさを何とかしてほしい、すなわち愛がほしいと求めているのだが、それに対して私たちがいわゆる「マトモに」反応してしまえば愛を与えて相手を助けるどころか「間違った思い込みに同意」することによってそれを強化し、相手を更なる貧困に陥れる羽目になってしまうのだ。相手の真の要求を見逃したわけである。自分まで貧しくなってしまっては助けるどころの騒ぎではない。

ここまではよくわかる。相手のいうことをマトモに受け取ってはダメ、どんどん収拾がつかなくなりますよ、と私も毎日のように話しているからだ。どうでもいいことにいちいち反応するな、そんなのはエネルギーの無駄遣いだ。これは「コース」に言われるまでもない鉄則である。ただ、その「どうでもいいこと」が人によって違うのだ。ある人にとってはどうでもいいことが別の人にとっては自分の価値にかかわる大ごとだったりする。これは例によって「判断と認識」の問題なのである。まあ、人によって違うようなものは真理ではないのだから、まさにその点において「どうでもいいこと」に決まっているのだが。

ところが、何かとんでもないことを要求されたらそれがどんなことでもしてあげなさい、と「コース」は言っている。ひゃあ〜そんな!じゃあ「ちょっとあの人殺してきてよ」とか言われたらどうするのよ!とてもじゃないが、できない。だいたいそんなことしたって相手が愛に満たされて救われるとも思えない。ここの要点は「相手の要求をまともに受け止めず、その裏にある本当の要求、つまり愛を求めているのだと認めてそれを受け容れろ」ということだと思うが、なかなか過激な語り方である。いったいどういうことなのか、先を読んでみよう。

そもそも「とんでもないこと」を要求されていると思うこと自体「間違った知覚認識」なのである。何かをとんでもないことだと思うかそれともどうでもいいような取るに足りないことだと思うか、それは常に自分のマインドが決めるしかない例の「判断と認識」だからである。相手の要求が目を剥くようなとんでもないことに聞こえてしまう私たちの側に問題があるのだ。

真理に照らして考えた場合、全ては「真理であるか否か」「神のものであるか否か」しかない。それに則って「重要であるか、どうでもいいか」も決まる。真理でないことはどうでもいいことに決まっているではないか。どうでもいいことをしてあげる、というのは要するに何もしない、に等しいことなのではないか。

まともに受け止めて拒絶すれば私たちはエネルギーの無駄遣いどころか相手を否定し、ひいては自分自身も否定してますます貧しくなってしまう。通常のスピリチュアルなら「ハートが喜ばないようなことはハッキリ断って自分も相手も大切にしましょう。ハッキリ断れないのは自分に自信がないからです」などと言うところである。やはり「コース」は一味違う。凡俗なものとは論理の深さが全然違うのである。

さて、では本当の救いとは何に対してどのようになされるべきものなのだろうか?救われるのはマインド全体であり、それは平和あるいは愛を通してなされる。

ならば、一見とんでもないように聞こえることを要求されたら具体的にはどうすればよいのか?たとえば、あなたはただ黙って微笑むだけかもしれない。何事もなかったようにお天気の話をするかもしれない。何も言わずにお茶を出すかもしれない。あるいは黙って殴りつけるかもしれない。私たちがとるべき姿勢について「コース」は詳しく教えてくれているが、具体的にどんな行動を取ればよいかについては指示していない。おそらくそれはその時々で聖霊が教えてくれるということなのだろう。

第206回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 92・93

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 92

第12章 その1

真理・真実とは文字通り「本当のこと」なのでわざわざ「信じる」必要はない。たとえば「神を信じる」とは「神様が本当に存在するのかどうか知らないけど、とりあえず存在することにしよう」という意味に等しい。神が在る、と確かに知っているならばわざわざ「信じる」などと言うわけがないのである。このあたりの事情については以前スピリチュアルコラムの「信じるか?」というシリーズに詳しく書いたので、ご興味のある方はご参照ください。

信じる・思い込むなどという言葉を使うと却ってわかりづらくなるかもしれないのだが、とにかく今までもサンザンしつこく繰り返されてきたように、ただ「目で見て・耳で聞いて」という認識すら「そのように信じ・思い込んだ」結果に過ぎないのだ。つまり、知覚認識とは全て「判断・解釈」なのであり、私たちは常に「事象そのもの」ではなく「自分が判断・解釈したもの」に反応しているのである。事象そのものに対してはいかなる反応もできるわけがないのだ。しつこく繰り返されているだけあってこれは本当に本当に重要なポイントなので、しっかり覚えておいていただきたい。

「こうである」という判断・解釈すなわち知覚認識に対する反応としてまず「感情」が生じ次に「行為・行動」が生じる。ここまでが瞬時かつ一直線な人のことを「直情径行型」とか言ったりもする。或いは「むかついた」けどそれをそのまま出すわけにもイカンとこれまた「判断」して「顔はニッコリ」ということもある。「コース」によれば、これはマインドの統合性に対する攻撃、ということになるそうだ。

以前のスピリチュアルコラムにも書いたが「感情のコントロール」と「感情表現のコントロール」とは全く別物なのである。ここでは更に「感情のコントロール」など全然不十分だといわれているのであって、その感情が生じるところの判断、或いはその結果としての知覚認識が問題にされているのだ。

とにかく、私たちのこういう「反応」とは自分の判断・解釈が「正しいものだ」と信じるからこそ生じるのだ。よくよく考えてみてほしい。たとえば「むかついた」と感じるのは、相手が自分にむかつくようなことをした」と判断したからだ。逆に言えば、「むかついた」と感じたその瞬間に、「失礼なことをされた」という判断が現実として経験されるわけである。

このように「攻撃された」と判断・解釈しそれに反応してしまうとき、私たちは「間違いを現実にしてしまっている」のである。現実だと思うからこそ反応としての感情が湧いてくるのだ。夢の中で自分の足を踏んだ人に翌日会っても、別に怒りも口惜しさも感じないはずではないか。

あなたが「非難された」と感じて怒りを覚えても、実際には相手が善意からアドバイスをしてくれていた、とか相手自身が他のことでイライラしていただけだったなどということもある。しかし、あなたにとっては「攻撃された」という判断・解釈が「正しいもの」だったのだ。それに即した反応をすることによって間違いを現実にしてしまったのである。

それだけにとどまらない。本当に(という言葉を使うのはへんな感じだが、これは通常の意味において、である)「バカ、死ね」とか言われたり殴られたりしたとしても、それに対して怒りや悲しみという反応が生じたのなら、やっぱりあなたは間違いを現実にしてしまったことになる。相手の行為を「攻撃」だと認識した時点で間違いを犯したのだ。

攻撃じゃなかったら何なの?と思うだろうが、「コース」によれば「愛以外のものは全て助けと癒しを求める訴え」なのだそうだ。貴方に怒りを向ける人、暴言を吐く人、貴方を支配しようとする人、彼らは皆「愛を、そして助けと癒しを求めている」のであって貴方を攻撃しているのではないのである。聖霊はそのように判断・解釈するので私たちのマインドもそれに即した反応をするようになる。

このように、他者の行為もその動機も殆どすべて、エゴであれスピリットであれ貴方のマインドというフィルターを通してのみ認識されるのだ。言い換えれば貴方のマインドの中にあるものがそのまま相手に投影されて、そこに映し出されたものを貴方は改めて知覚認識しているだけなのである。

誰かの特定の行為について、100人が100人とも全く同じ見方をすることはないだろう。それぞれが自分のエゴを通して判断・解釈したものを知覚認識しているからである。同じ人が時間の経過と共に別の見方をするようになることも珍しくないではないか。自分のおかれた状況によってコロコロ変わるような「判断」など信頼できるわけがないはずなのに、私たちはその都度それを「正しい」と思うからこそそれに即した反応をしてしまうのだ。「コース」の言い方を借りれば、何らかの感情が生じるという形で反応したというそのことがそれに先立つ「判断・解釈」=知覚認識を正当化することに、つまり間違いを現実にしてしまったことになるわけだ。

貴方に対してなされる他者の愛なき言動は全て「助けと癒しを求める叫び」なのであれば、貴方はそんな人々に対して怒ったり傷ついたりすることができるだろうか?助けを求めて懇願している相手に攻撃的になれるものだろうか?愛を与え教える以外に何かすべきことがあるだろうか?

いや、これは本当に素晴らしい。これこそが聖霊による解釈であり認識なのである。ちょっと考えてみればわかることだが、貴方が誰かに対して怒りや非難の気持ちなどを抱いているときにはたいてい愛や優しさを求めているのではないだろうか?何かでイライラしているために全く関係のない相手にあたってしまったり、悪気はなくてもつい感じの悪い態度をとってしまったりするようなときも、要するに私たちは「今の私のこの気持ちを何とかしてよ」と思っているのではないか。

エゴによれば「あの人は怒っている」「あいつはダメだ、バカだ、ひどい奴だ」になってしまう認識が、聖霊なら「本当は愛に満たされていることを忘れてしまって助けや癒しを求めているんだな」となる。

もちろん、エゴによる認識とは自分のマインドの投影に他ならないのだから私たちの目に映り耳に聞こえるそれらは全て自分のマインドの中にある、のでもある。そのように考えればとにかく自分のマインドを何とかしようと思うだけになり、相手に対するネガティブな感情は消えてしまうものだ。が、この12章で紹介しているような考え方・やり方も非常に有効である。

たとえば、少し前に書いたように「自分の前に包丁を振りかざした屈強な男が現れて明らかに自分に向かっている」としたら、その人はこれまた明らかに「愛と助けと癒しを求めている」わけなので、貴方が咄嗟に応戦しても、つまり見た目の上では「戦う」ような形を取っているのであっても、マインドレベルでは愛や光を与えて癒すなどということも十分にありうるのである。本当にすごい人になると、黙って立っているだけで相手が包丁を引っ込めて大人しくなってしまうようなことさえある。

これは私見だが、こういう場合肝要なのは相手の「攻撃は有効だ」「攻撃というものが実在する」という思いを解放してやる、消去してやることなのではないか。とすれば単に「やられっぱなし」が良いわけでもないのだ。キリストの受難を形や現象面でのみ解釈してしまうとこのあたりが理解できなくなると思う。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 93

第12章 その2

とにかく相手の行動をどう認識するか?認識レベルで間違ってしまうと、私たちはその「間違った現実」というか「幻想」に対して反応することになり、ありのままの現実の中にいられなくなる。そういうとき、私たちは「自分で作り出した仮想現実」の中にいて、「自分が認識したもの」に反応していろいろな感情を抱いているだけなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、これは別に「貴方に意地悪をする人は実は貴方が大好きなんですよ」などと言っているのではない。本当に貴方のことが大嫌いで悪意を持って何かしかけてくるような人に対してさえも、いやそういう人に対してこそ、「ひどいことをされている」と認識してはならないのである。これは容易ではないと思う。「コース」も「やりたくないでしょうね」みたいなことを言っている。が、その「やりたくない」という気持ちさえ捨てれば誰でも容易に「ありのままの現実」を経験できるのである。これもまた善悪の問題などではないのだ。乱暴に言えば好みの問題なのだが、それが「幸せになりたいか、不幸なままでいたいか」ということであり、幸せでいたいのなら目先のプライドを捨てる勇気と覚悟がなくてはならないのである。

このような「ひどいことをされている」という思い込みがある限り、癒しは訪れない。私たちは自ら癒しのチャンスを捨ててしまっていることになる。助けや癒しを求める叫びを拒絶すれば、それはそのまま自分に対しての助けや癒しまで拒絶したことになってしまうからである。

さて、それでは「愛や助けや癒しを求める叫び」にはどのように対応すればよいのだろうか?これは非常に簡単なのだ。「感謝」です。これだけなのです。ものすごくいやなことがあったとき、とにかく何でもいいから、誰に・何に、ということなくただ「ありがとうございます」と心から唱えて浄化する、という方法が非常に有効であるのをご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、まあそれとほぼ同じ道理だと思う。

とにかく余計なことは考えずにまず感謝してしまうのだ。いくら何でもそれくらいならできるでしょう?感謝と愛とは表裏一体のものなので、自分のマインドを感謝で満たせば同時に愛で満たされることになる。愛はその性質上ひとりでに放射されていくものなので、当然相手にも送り届けられる。もっともその人が受け容れるかどうかは当人次第なのであるが、それでもしないよりはしたほうがずっと良いことは間違いない。

ものすごく極端に言うなら、何があってもいつも感謝していれば間違いないのである。私たちの知覚認識は時と場合によってころころ変わるが、真実あるいは本当の現実は常に変わることなく一定である。従ってそれに対する反応も一定なのはまあ当然といえば当然なのだ。

自分自身のことも自分ひとりではどうにも救えないような私たちが、自分なりのやりかたで誰かを助けようというのはエゴによってエゴを救おうというようなものだ。そんなことは所詮無理な相談なのだった。だからこそ聖霊に任せよう、そのためにはまず「感謝」なのである。

私たちの知覚認識は一瞬の判断・解釈によってなされるものだが、それらは大体において自分のマインドの中にあるものの投影である。これも以前から何度となく述べられてきたことだ。相手の中に見える「困ったもの」は自分の中にもある。それがどんな形を取っていようと、攻撃だろうと落ち込みだろうとそれがそのように見える限り自分の中にもあるのだ。しかし、前述したようにそれらはどんな形を取っていようとも全て「愛や助けや癒しを求めて」いるのだった。ならば、その都度いろいろに知覚認識している私たちもまた愛や助けや癒しを求めているのである。そのことをまず自覚しなくてはならない。そして、それらを聖霊に求めるのである。間違っても目の前の誰かに求めてはいけないのだ!みんなここを間違えて悲惨なことに陥ってしまうのである。

このあたりをまとめると以下のようになる。すなわち、相手の中に見えるものは自分の中にもある。攻撃と恐怖とは表裏一体、攻撃初め全てのネガティブな思いや感情は恐怖の変形である。また、「コース」における「攻撃」とは不快感や落ち込みまで含んでいるのであり、基本的には「神や真理に対する攻撃」の謂であった。ならば、たとえば相手の中に「攻撃性」を見ている貴方の中に「恐怖」がある場合、その両者は同じものだとわかる。

更に、あらゆる攻撃は「愛や助けや癒しを求める叫び」なのであった。攻撃と恐怖が同じものならば、恐怖その他もまた「愛や助けや癒しを求める叫び」なのである。恐怖と愛は共存できない。恐怖があるときに愛はない。しかし、恐怖は実在しないが愛は常に存在し、忘れられることはあってもなくなることはない。ならば、恐怖によって愛が見えなくなっているときでさえ、恐怖の裏側に愛は依然として存在していることになる。

つまり、恐怖とは「愛を覆い隠してしまうもの」なのである。これが恐怖の正体とも言える。以前、恐怖の正体とは私たちが神から離れてしまったと思い込んだことだ、とも書かれていたが、表現の仕方が違うだけで意味は同じである。神とは愛に他ならないからだ。

どんな形をとって表現されているのであれ、愛でないものは全て恐怖である。私たちが経験できる感情は煎じ詰めれば愛と恐怖の二つだけなのだ、と「コース」は言う。他は全てその変形に過ぎない。愛が真ならその否定から生じた恐怖は偽でしかない。まずここを確実に押さえておきたい。何かあったら「これは恐怖なのだ」とまず認めてそれをしっかり見据えるのだ。「これは正当な怒りだ、正義なんだ!」とか「これは愛なのよ恋なのよ」あるいは「心配して当然だ」などと誤魔化してはいけないのである。これらは全て「エゴの自己防衛」に過ぎない。その上で、恐怖=愛を求める叫びなのだ、と捉えてみれば恐怖を手放すには愛を与えるしかない、とわかるはずなのだ。恐怖というヴェールが私たちのマインドの目を覆ってしまったために愛が見えなくなっている。自分たちが作り出した幻想で目が曇ってしまい真理が見えなくなっているのと全く同じ道理である。

恐怖とは、深い喪失感の表れでもある。何しろ私たちは神を捨ててしまったと思い込んでいるのだから、その結果とてつもない喪失感に見舞われるのは当然と言えば当然だ。失ってしまったものは本来の自分であり、神でありまた愛である。ならばやはり失ったもの=愛を与えることこそ恐怖に対する根本的な処方箋なのだ。

愛と感謝は同じものだから、感謝していれば私たちは自他に対して愛を与えたことになる。私たちは与えるものを受け取ることになっているからである。やってみればわかると思うが、心から本気で「ありがとう」と言っているときに恐怖は存在しない。恐怖だけではない、恐怖に派生する全てのネガティブな思いがなくなった状態になる。

自分に生じる感情も、他人の中に見えるものも全て「愛か、愛でないか」のどちらかであり、愛でないものは「愛を求める叫び」なのだ、というこの原理を知っているだけでどれほど大きな助けになることか!きょうから早速日常生活の中で使ってみてほしい。「コース」が実用向けだと自認するだけのことはある。こういうことを日々おこなっているうちに、神から離れてバラバラという夢から次第に「全ては一つ」という現実への変容もなされるのだ。「奇跡」とは、いわばこれが瞬時に生じた事態なのである。

ところで、「助けを与える」「愛を与える」などというのはエゴにはできないことなのだ。よく陥る間違いなのだが、エゴのままで「助けてあげたい」「愛してあげるわ〜」みたいになってしまうと、もうとてもじゃないが目も当てられない悲惨な事態になる。これらは聖霊によって或いはスピリットたる私たちによって為されるものである。愛や助けを与えているとき、そこに「このワタシ」などというものはもはや存在しない。

 
第205回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 90・91

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」  90

第11章 その10

「本当の世界」は聖霊によって認識された現実である。ここにはまだ認識というものがある。直接知ではない。が、聖霊による認識は直接知への架け橋、直接知に至るための条件であり、本当の世界は「この世」から天国への架け橋である。
本来「ひとつ」であるところの神と私たちとを隔てるものは何もないはずなのに、私たちはそこにあらゆるものを放り込んでしまった。そうして作り出されたものが、つまり神と私たちとの間に立ちはだかっているものがいわゆる「世界」なのである。
個体としての身体を持ちつつ「本当の世界」で生きたいと思うなら、徹底的に「良きもの」だけを認識したい!聖霊やスピリットによって認識したい!そういう意志を強く持つことが必要になる。願望ではない。意志、という時そこには一種の覚悟みたいなものが生じるのである。
ともあれ、良きものも悪しきものも両方が現実だと見てしまうなら貴方はよきものと悪しきもの両方を「受け入れた」ことになり、それは「真実」と「虚構・間違い」の両方を現実だと思っているのと同じである。ところで、部分的に真実だという事態はありえないのであった。少しでも虚構が混じってしまえばそれは既に真実とはいえなくなる。その点において、良きものと悪しきもの両方を現実と見て受け容れているとき私たちは「本当の世界」でなく「幻影の世界」に生きていることになってしまうのだ。
エゴだってちゃんと「良きもの」を認識するのである。ただ、純粋にそれを受け容れることをせず、あれやこれやの判断を加えてまあ要するに「エゴ的」なものにしてしまう。おかげで私たちはどれが真実でどれが間違いなのかさえわからなくなってしまっている。以前にも出てきた「レベルの混同」もこういう現象の一つだと思う。貴方は、ある瞬間「真実の愛」を感じた、ところまでは良かったのだがエゴが介入して「これを手放したくない、ずっと続いてほしい」とか「これを与えてくれたあの人を手放したくない」と思ってしまったりするのである。この世的なものとこの世ならぬもの、滅びゆくものと永遠なるものを混同しているのだ。一瞬垣間見た本当の喜びと幸せを再び得たい、そう思って見当違いな方向の努力をしたりすることもある。
何かを「いやなこと」だと認識するというそこが既に間違っているのだ、と少し前に書いたと思うが、その同じ何かを「良きこと」として認識しなおすのがまずは第一歩である。これはゆるしであり浄化でもある。これが進んでくれば今までは「いやなこと」に思えたようなものが初めから「良きこと」だと感じられるようになる。そのとき私たちは聖霊あるいはスピリットによって知覚認識しているのである。
良きものを認識できても、それは「認識」であるという点において直接知とは質的に異なっている。が、冒頭に述べたようにこの段階を経ないと直接知には至れないのである。
「良きもの」だけを認識していけばその対立物=悪しきものなど本当は存在しないということがわかってくる。これはもうやってみないとどうしようもないのである。この世に邪悪なものは存在するか?といえばもちろん存在するのである。なぜならそれが「この世」だからである。神から離れた(と思い込んだ)私たちが、「みんなバラバラ」を証明するために作り出した或いはでっち上げた「この世」だからである。全てが一つ、ではなく対立物のある世界だからである。そこにとどまっていながら「邪悪なものはちゃんとあるじゃないか、不幸なことも悲惨なこともあるじゃないか、『コース』なんて所詮キレイごとだ!」と言うならどうぞご勝手に、である。でも、それであなたはどうするんですか?
邪悪なものがあるとすればそれは「エゴ」だけである。この世のあらゆる悲惨な出来事は全てエゴが引き起こしているからである。それを「悪魔」と呼ぶ人もいる。だが、前にも見たようにエゴ自体が実は「私たちのマインドに寄生している影」みたいな実体のないものなのであるから、やっぱり邪悪なものは実在しないと言ってしまってよいのである。
しかし、しかし、これほどまでに悲惨まみれの人類史を振り返るに、実在しないものを現実だと思い込むそのパワーが如何に強大か、ということもまたわかるのだ。というか、そのパワーこそがこの世界の歴史を作ってきたのである。エゴの思考システムの中にとどまっている限り、どんな革命が起こっても悲惨なことがなくならないのは当然なのである。
さて、本当の世界に生きるというのは言い換えれば本当の自分を知るということでもある。とんでもなく難しいことに思えるかもしれないが、そう思ってしまうこと自体が良く考えればおかしなことではないか。だってそうでしょう、本当の自分を知りたいとか本当の自分がわからない、なんてものすごく変なことじゃないですか?これらの願望はエゴのものでもあり、エゴは本当の自分なんか知らないのだからそのように思って当然なのだが、でもここがまさに語るに落ちているところなのだ。今の私が本当の自分じゃないってどうしてわかるのか?今のこの私のほかに「本当の自分」なるものがあるということが何故自明の事実になっているのか?このあたりをちゃんと考えないで見当違いの方向に自分探しをさせるのがエゴなのである。(スピリチュアルコラム「本当のワタシ」をご参照ください)
本当の自分探しをする人でも「本当の世界探し」はしないようである。が、これらは実は全く同じことなのだ。自分をどう見るか、は他人をあるいは世界をどう見るか、と同じことだからである。
真理がそうであるのと同様に、本当の世界も常に今ここに隠されることなく存在するのだが、知覚認識機能が歪んでしまった私たちにはわからない。たまに真理を垣間見ることがあっても大したものに思えぬまま通り過ぎてしまうのだ。私たちは自分で作り出したものと「創造したもの」の区別がつかなくなっている、と「コース」は述べている。この「(スピリットたる)自分が創造したもの」は例えば「神から与えられたもの」と言い換えてみるとわかりやすくなるかもしれない。それが神から与えられたものだとわからなければ、自分の力で何とかもっと獲得しようと間違った努力・不可能な努力をする羽目になる。
元からあるものは、常に・ずっとここにある。なくなることはない。従ってわざわざ求める必要もない。実は存在しないものは、あるように見えても「ない」。ないのだから求めても得ることはできない。要するにそういうことなのだ。このことを理解し、本当にあるものだけを現実だと見るというそのことが救済になるのである。だってそうすればもう無駄な努力も苦しみもなくて済むようになるではないか。本当は「ない」ようなものを求めて虚しくさまよう必要もなくなるではないか。それが救済でなくていったい何だろう。
私たちが本当の世界に生き、その「現実」だけが本当なのだとわかればもうこんな「コース」など不要になる。どうして今まであんなもの、こんなことを「本当の現実だ」などと思い込んでいたのか?と不思議に感じるだろう。いや、それどころか自分たちが今まで何をどのように感じたり見たりしていたか、というそれ自体をすっかり忘れ果ててしまうかもしれない。ちょうど私たちが真実を忘れてしまったのと同じようにだ。ここにおいて今までの「世界」は消失するのであり、認識すら消失してしまえばそこはもう「天国」である。
キリストは私たちに「幼子のようにあれ」と言った。アッシジの聖フランシスコみたいになれってことかしら?と思っていたのだが、どうやら少し違ったみたいである。小さな子供は自分が見聞きしていることが「わからない」ので「あれは何?これは何?」とひっきりなしに大人に尋ねる。つまり彼らは「自分にはわかっていない」という自覚があるのだ。しかし、私たちは見るもの聞くもの全て「これは●●だ」「あれは★★をしているのだ」というふうに、特別考えるでもなく知覚認識できてしまう。本当に一瞬のうちに判断を下してしまい、疑問すら感じない。が、その知覚認識がことごとく間違っているとなれば全て学び直さなくてはならないことになる。従って、まず「自分は何もわかっていないのだ」という自覚を持つこと、目の前にあるこれが実は何なのか本当にはわかっていないのだ、と自覚すること、そして聖霊に「あれは何?これは?」と尋ねて学び直すのだ。
ちょっと補足しておくと、「コース」において「理解(understand)」という語は専ら「意味のある事柄について、その意味を理解する」という使われ方をしている。ところが真理以外のものには意味などないのであった。つまり、意味をなさない幻想の世界のあれこれについては「理解」など初めから出来ない相談なのである。
認識が「学んで身につける」ものであるのに対して、「理解」はスピリットたる私たちが生来身につけているものだ。真理というただ一つの意味しかない世界においては「理解できない」ことなど存在するわけもないのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 91

第11章 その11

直接知が学びも経験も何も必要としない、文字通りダイレクトなものであるのに対して「知覚認識」とは学び覚えるものである。私たちはそのようにして育ってきたのだ。周囲の大人たちや社会・文化などなどをお手本にして「認識」の仕方を身につけてきた。まあ、それぞれが「エゴ」みたいなもんである。それが全て間違いだったというのなら、今度は聖霊を導き手として学び直すしかないのである。だいたい、正確に言うならばエゴはお手本にならないのだ。なぜなら、その時々の状況などによって認識の結果が違ってしまうのだから、よく考えてみればやっぱり信頼をおけるわけはなかったのだ。
聖霊から学ぶためには「学びたい」という確固たる意志があればよい。以前にも書いたことだが意志は願望とは全く異なるものであって、ある種の覚悟を必要とする。たとえば、今まで「本当のこと」「現実だ」と思っていたあれこれを「実は間違いだった」と認める勇気が要求されるわけである。皮肉なことに、絶望して失うものがもう何もなくなった人よりも「この世の幸せ」を満喫しているような人にとってのほうがこの「覚悟」は困難かもしれない。古来、大きな試練をきっかけに目覚める人が多いのはこのためである。
正しく知覚認識すれば、そこには怖れるべきものなど何もないということがわかる。他人とは自分に危害を加えるかもしれない存在、自分とは別の何か、という見方もしなくなる。そんな見方をして彼らを欺き、欺かれてはならない、と「コース」は言う。しかし、自分が恐怖から解放されたからといって出会う全ての人々があなたと同じようになるわけでもないのである。
たとえば、恐怖から解放された貴方の前に包丁を振りかざした屈強な男が現れた、などという場合はどうなるのだろう?彼は自分と一つである兄弟なのだから「やあ」とか言って握手でもすればいいのだろうか?キリストのように「一見やられっぱなし」になれ、といのだろうか?このあたりも「コース」学習者が疑問に感じたりつまずいたりする点だと思う。
多分「コース」は「応戦するな」とは言わないだろう。これは次回から扱う第12章で大体の説明がなされているのだが、何をもって応じるにしてもまず自分が「攻撃されている」という認識はなく、従って恐怖もないところから生じる行為に違いない。
閑話休題。知覚認識を過つとは一種の自己欺瞞である。そもそも「神によって造られ神と一体である私」という事実を忘れたからエゴが生じ、そこからあらゆる投影と外在化が生じ、その結果として間違った知覚経験が起こっているのだ。ところで、自己欺瞞が可能なのはその当人を措いて他にない。だとしたら真実を見るのも見ないのも専ら当人次第だということになる。神も、その一部である聖霊も欺いたり欺かれたりすることはあり得ない。ならば、覚悟さえ決めて「学ぼう」という意志を持てば、間違った方向に進む危険がなくなる。とはいっても、この「意志」ってちょっと気が緩むとすぐどこかに行ってしまうのだ。だから日々その意志を保つべく努力しなくてはならないのである。それが「コース」学習の実践なのだ。
だいたい、問題を作るのは私たちのほうに決まっているのである。神あるいは聖霊は、問題など何も作らずただ答えを与えてくれるだけである。彼らには「過つ」とか「見誤る」という機能がないのだ。だから、何か困ったことがあったら自問してみよう。
「私は問題がほしいのか、それとも答えがほしいのか?」
まあ、当然「答えがほしい」と思うはずなのだが、答えを求めたい!と決めただけでそれは得られるようになっているのだ、と「コース」は言う。なぜなら神や聖霊が与えるだろう答えは、神や聖霊と実は一体である私たち(というスピリット)の中に既にあるものだからである。
「コース」原書を読んだ人はこの本が長大な上に「具体例が殆どない」ので驚くだろう。いろいろなことが書いてあるけど、具体的に「こういうときはこうしろ」という指示が数多あるスピリチュアル本に比べて極端に少ないので「やりづらい」と思うかもしれない。が、「コース」は自ら「これは実践のための本である」と繰り返し述べている。どんな具体的な・個別的な問題であってもそれぞれに対して答えが与えられる、とも言っているが学習が進めば「個別の問題」など実はないのだということがわかってくる。一見全く関係のない種々雑多な問題でも一皮剥けばみな同じ、なのである。だから答えもそのようになる。
これも繰り返し書かれていることだが、聖霊に導きや答えを求めれば必ず与えられるのだ。それを受け取れないのは私たちが単に「気づかない」だけなのだ、と以前は語られていたのだが、今回はまた別の角度からその事情が説明されている。すなわち、私たちは自分が何を求めているのかわからなくなっているのである。その段階において既に混乱しているのだ。
聖霊に導きや答えを求めるというのはいわゆる「願望実現」とは全く次元を異にしている。あれがほしい、これを与えてください、というのではないのである。ただ「これは何ですか?これはどういうことですか?」と尋ねるだけなのだ。その部分の混乱がまず挙げられる。
もう一つは、キリスト教文化にどっぷり浸かっていない方々にはわかりにくいかもしれないが、あるいはスピリチュアルに馴染んだ方々にはわかりやすいかもしれないが、「何かを求めて与えられるためには、何かを捨てなくてはならない」という思い込みである。まあ、得てして「変化」とはそういうものであり、例えば「新しいものがほしければ古いものは捨てなくてはならない」とか「美しくなるためには醜い自分を捨てなくてはならない」ようなことはまあ当然なのだ。余談だが、ヘーゲル先生など「芽が出て花が咲く」のを「芽が否定されて花になる」と言っているくらいである。芽があるうちは花も咲かないではないか。しかし、これが恐怖になる。霊的に成長するためには何か大切なものを捨てなくてはならないのではないか?ならば、聖霊の導きを受けるのと引き換えに何かを奪われるのではないか?そう考えてしまうのである。
これまでも言われてきたように、恐怖があれば導きも奇跡も得られない。恐怖があれば目が曇ってしまうのだ。だから、聖霊が答えを与えてくれていてもそれがわからない、という事態が生じる。
しかし、その本質として神や聖霊には「奪う」などという機能はあり得ないのである。おまけに、彼らが与えるものとは実は私たちが元々持っているものであり、正確には「与える」というより「思い出させる」だけなのだ。彼らは何も奪わない。が、彼らの導きに従ったことにより私たち自身が「あれ、こんなものは要らなかったな」と気づいて自ら何かを手放すことはあると思う。実際に、何か大切なものを無くしたり奪われたりして苦しんだことが成長のきっかけになるケースは非常に多い。これは巻末の「教師用マニュアル」にも出てくる。しかし、それは別に神や聖霊の仕業ではないのだ!敬虔なキリスト教徒にはそういうことさえ「神の恩恵だ」と捉える人も多いので誤解を招きやすいのだが、どんなにひどい目にあってもますます性格が歪んでいくだけで全然目覚める方向に行かない人もいれば、大して苦しい目に遭わなくても成長することはできる。大切なものを奪われて苦しむ、というのは成長のためのせいぜい十分条件であって必要条件ではない。
だから安心して導きを、答えを求めればよいのである。求めて得られるものは元々自分の中にあるものだけだからだ。そして、自分の認識が変わることを怖れなければよいだけだからだ。
間違った認識によって他者=兄弟姉妹を見誤ってはいけない。それはあなた自身を見誤ることに他ならないからである。神あるいは聖霊は、そしてキリストは見誤るということがない。だからあなたもそのように兄弟姉妹を見て、そのように認識しなさい。それが癒しなのである。どんな人の中にも真理を見ることができるのだからそのようにしなさい。ありのままの現実だけを見るようにしなさい。それが「ほんとうの世界」であり、分離のないそこには病というものが存在しない。
神あるいは聖霊の「答え」の前にはいかなる問題も消えうせるのだ。これはちょっと慣れてくれば実感できると思う。問題が「解決」するのではなく、問題だと思っていたものがもはや「問題」ではなくなるのである。
愛こそが癒しである。自分自身を愛すれば癒される、のだがその「自分」とは「全てと一つであるような」ものなのだった。ならば、自分を愛することは全てのものを愛することに他ならない。癒しも同様である。が、これも誤読されれば「あの人の病気が治らないと私の病気も治らない」みたいなことになってしまう。癒しはマインドレベルでしか起こらない。病んでいる、と見るその認識が既に間違っているのである。
しつこいようだが、大変しつこいのが「コース」の特徴なので我慢していただきたい。自分の中に恐怖がなければ何をされても「攻撃」とは判断しないようになっている。これがまず一点。次に、全ての人を聖霊と見るならば、そして聖霊は神の一部であるならば、更に神には攻撃などありえないという事実を考えるならば、私たちは誰からも攻撃されなどされない、ということになってしまうのだ。攻撃というものがあるときそこに愛はない。愛がなければ癒しは不可能だ。とすれば、攻撃された、と判断・認識しているうちは癒しを経験できるわけもないのである。
またもやしつこく繰り返しておく。誰かの中に攻撃を見るならその人のみならず神をも見誤っていることになり、同時に自分自身をも見誤っていることになる。全ては一つ、という事実はかくも深いのだ。

 
第204回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 88・89

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 88

第11章 その8

何であれ、知覚認識されるものは自分のマインドの中にあるものが外界に投影された結果である。このことは以前かなり詳しく説明してあるのでここでは繰り返さないが、信念や思い込みが知覚認識を成り立たせているのなら、裏から言えば「全く知らないものは認識できない」ということになる。知らないものについては思い込みすら持つことはできないからである。
認識もできず直接知るしかないような真理についても同様で、今の私たちにはそれがどんなものなのか皆目見当もつかない。ただ、マインドのどこかで「そういうものが確かにある」ことをわかってはいてもそれを自覚はしていない。見たことも聴いたこともない何かを「信じる」という機能はエゴにもある。だが、ここで「コース」が言っているのは「救い」のことである。そんな、大いなる救いなんて見たこともきいたこともなくても、そういうものがあると信じればそれを見ることができるであろう。私たちは自分が信じるものを経験するようになっているのである。ならば、あなたは救いを信じるか受難を信じるか?
ざっとおさらいしておくと、私たちが知覚認識するものは全てそれに先立ってマインドの中に存在している。つまり、マインドが「現実だ」と信じ思い込んでいるものが、外界に投影され、それを私たちは見たり聞いたりして「経験」することになる。経験されれば「やっぱりそうだ、これが現実だ」という信念や思い込みは強化される。この信念や思い込みの部分を何とかすれば私たちの経験する現実も変わるのだ。「引き寄せの原理」を応用した成功哲学とはそういうことなのである。
しかし、多くの人が一生懸命いろいろ良いことを思い込もうと努力したにもかかわらず以前と変わらない「いやな目」に見舞われると「ほら、やっぱりダメじゃない、これが現実よ」というふうになってしまい、結局それまでの思い込みを強化するだけのことに終わったりするのである。ただやり方が不味かったか意志が不十分だっただけなのに。
つくづく難しいなあと思うのは、私たちのこの世界、私たちが現実だと思い込んでいるこの状況は全て「知覚認識」によって成り立っている点である。何せ「こうだ」と見え聞こえてしまったというそのこと自体が既に何かの判断の結果であり解釈なのだ。
直接知がいきなり、それこそ直接訪れることもないではないが、大抵の場合それに先立って様々な気づきが訪れるものである。その「気づき」もまた知覚認識の一つなのだ。あのように見え感じられていたものが「あれ?こうだったんじゃないの?」というふうに変化・変容する。あなたは今までとは違うふうに受け取ることになる。そして「ああ、本当はこうだったのか」と、それこそが気づきになるのである。「コース」ふうに言えば、エゴによる知覚認識から聖霊によるそれへと変容を遂げたということになる。これは毎日の生活の中の本当に瑣末なあれこれにおいて日常的に起きることであり、またそうでなくてはならないものである。一瞬にして全てが変わる、ということもないではないが、それを期待してワークやらセミナーやらに通うより日々の積み重ねを大事にしたほうがずっと効果的なのである。
聖霊による知覚認識とは、言い換えればキリストのマインドによって物事を解釈・判断するということでもある。エゴは抵抗して自分の見方に固執させるよう働きかけるだろうが、ちょっとでも経験してみればキリストによる解釈や判断のほうがずっと楽でハッピーだということはすぐにわかる。これに従って認識していれば私たちは疲れたり落ち込んだりすることもなくなる。
さて、ここでちょっとローバ心から申し上げたい。いやな目にあったとき、感情に流されてドーンと落ち込んだり自己嫌悪や自己憐憫に陥ってしまったりすれば当然エゴの思う壺である。ここまではもう簡単にお分かりだろうと思う。スピリチュアルな考え方を学べば「ネガティブな感情」が如何に不要で有害なものかもわかるようになる。すると、私たちはそれらネガティブな感情を一掃しよう、手放そう、というワークに走る。「コース」にもそれらは「間違いの結果であり、間違っているから苦しいのだ」とある。しかし、ここに落とし穴がある。くれぐれも誤読しないでいただきたい。いやな目にあいました、でもネガティブな気持ちを捨てることができました、では全然ダメなのである。
いやな目にあった、と思ったこと自体が、それ以前にそれを「いやな目」だと認識したこと自体がそもそも間違いなのである。正すべきはここなのだ。そこから生じるネガティブな感情だけをどうこうしたというのでは結局何の変容も起こらないままだ。せいぜいが「楽になった」くらいで、まあそれだけでも十分助けになったりもするのだが、本質的には何も変わっていない。感情なんて訪れては去る風のようなものなのだから、去らせたところで大したことにはならないのだ。
そうではなくて「いやな目」と思ったこと自体が間違いだったのだ、そのように受け取り解釈し、あるいは判断したことが間違いだったのだというふうにしなくてはダメなのだ。難しく感じるかもしれないが、それをしない限りスピリチュアルはただ楽になるための「逃げ場」に過ぎなくなってしまう。成長どころか後退を促すことになる。
で、話を元に戻すと、気づきというのは例えば「いやな目」と思えていた何かが実はそうではなかった、本当はこうだったのだと別の解釈ができるようになることでもある。ネガティブな感情に押し流されていればこういうこともできなくなるので、まずは心を落ち着けましょう、というのなら良いのだがそれで終わってしまっては不十分どころの話ではないのだ。
これをうんと通俗的に言うと、自分にとって耳が痛くなるようなことの中に本当に耳を傾けるべきことがある、一見厳しいお叱りの中にありがたい忠告が潜んでいる、という感じになる。「耳が痛い、いやだ、叱られた」と解釈するのはまぎれもなくエゴなので、そういうものを「聴きたくない、忘れたい」と思ってしまうのは聖霊でなくエゴに従うことになるわけだ。
このあたりを混同しないようにくれぐれも注意していただきたい。
「コース」だってどういうふうにでも誤読できてしまうのがちょっと怖ろしいなと思うのだが、わからないことを今の自分のマインドで無理やりわかろうとせず前に進み続けるとういうのが誤読を防ぐ一番の方法なのだろう。
「コース」は、或いは救いに至る道は険しくも苦しくもない、と再三書いてはあるが、それは単に難行苦行や犠牲を必要としないというだけの話であって、実際にエゴまみれのマインドを訓練し直していくためにはかなりの努力が必要だし、それは決して楽チンなものではない。知覚認識を変えるための日々の努力、なんて慣れてしまえばまた楽し、なのだが初心者にとってはかなり苦しいものだろうと思う。で、ここにもまた出てきます。自他の中に「神の御心でないようなものを見聞きしたら、そのとき貴方は自分自身も神も否定していることになる」のである。
キリストが「私は救いであり命である」というとき、それはそのまま私たちにも当てはまる。なぜならキリストも私たちも同じ神もひとり子だからである。キリストは十字架にかけられ殺されたが「救われた」から甦った、のではない。もともと救われていた、そのことを明確に知っていたからこそ磔刑なんて簡単に受け容れることができたのだ。磔刑など本来は必要ないものなのである。なのに私たちはいまだに自分自身をあるいは他の人たちを十字架にかけようとしている。つまり、苦しみを捨てられずにいるのである。
しかし、実際にはキリストにおいてだけでなく私たちにとっても救いなど「例外なく」とっくになされている。というより、そもそも初めから救いなど必要なかったのだとも言えるのだが、それに気づくことこそが救いなのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 89

第11章 その8

私たちのマインドの力を決して見くびってはならない。どのように用いるか、それによって全ての現実が決まるのである。本来そうであったようにマインドの力を神に返せば、それは何倍にもなって再び私たちに与えられる。一方で、自分たちが作り出したニセモノの神、あるいは何がしか「現実」と思い込んでいるものに力を与えれば私たちは自らその奴隷になってしまうのである。
ものすごく卑近な例をあげると、お金こそ全て!お金があれば何もかも解決して幸せ!と思っている人は「お金」を神にし「お金」に自分を支配する力を与えているのであり、「あの人に愛されなかったら死んでしまう」と思っている人はその相手を神にし、やはりその人に自分を支配する力を与えてしまっていることになる。実際には何ものもあなたを支配などできないし、あなたはいかなるものの奴隷になる必要もない。ただ、あなたが勝手にそうしているだけなのである。しかも、それは全てあなたのマインドの中だけで行われるものであり幻想に過ぎない。とは言うもののマインドの力はあまりにも強大なので、そう思い込めば本当にそうなってしまうのである。
「生老病死」こそ人生であり現実だ、と思い込んでいればやはりそうなる。生きている限り苦しみは避けられないと思い込んでも同様である。しかし、神の御心にそのようなものはない。神は私たちにいかなる苦しみも犠牲も課すことなく、一切何も強制しないのである。神と私たちとは支配ー被支配の関係にはないのだ。
とはいうものの、救いやら聖霊やらそういうものにはある種の強制力が備わっている。なぜならば、それらが私たちの本性であり自然な姿であるからだ。私たちは自分にとってより楽で自然なほうに流されるものである。ただ、今の私たちは「逆さまの世界」に生きているので、どうしてもエゴにとって楽で自然なほうに流されがちなだけなのだ。これを転換させるのはなかなか骨が折れるかもしれないが、あるところまでくればそれほど苦労しなくても本来の流れに乗るほうが楽だと感じられるようになる。今の私たちはまるで川を流れと逆方向に必死で上がっていこうとしているようなものなのだ。そのまま流されていくほうが自然で楽に決まっているではないか。しかし、上がろうとするのを止めるととんでもないことが起きるのではないか!などと思って怖くなってなかなか止められないだけなのだ。スピリチュアル系で「宇宙の流れに乗っていれば何もかもうまくいく」と言われるのはまさにこういうことなのである。
神も聖霊も無理やり私たちの方向性を変えようとはしない。私たちが「これでよかったんだ」と受け容れるかどうか、それだけなのである。そういうとき神は絶対に拒絶などしない。この人はいいけど貴方はダメだ、なんていうことはあり得ないのだ。それが神の本性なのである。そしてその本性はそっくりそのまま私たちにも与えられているのだから、私たちもまた自分の周囲のものに対して「あの人はいいけどこの人はダメ」などと思ったりするわけにはいかないのである。これは「人を裁くな」つまり「判断するな・批判するな」ということでもある。
まあ、大抵の人はこういうことをそれほど簡単にはできないわけだが、そのとき私たちは「眠っている」状態、つまり覚醒していない状態なのだ。「コース」を学び目覚めつつある私たちだが、完全に目覚める前の段階として「これは夢だと自覚する」状態がある。それさえも超えたところに本当の覚醒、あるいはキリスト意識の目覚めがある。そこに至ったとき私たちは一人きりで覚醒するのではない。かといって「さあ、みんなで一緒に覚醒しましょう」などということもない。完全に覚醒するというその中に「全ては一つである」ことの理解も含まれているのである。これはそうなってみないとわからないことなので、あまり深く考えずに前に進むことにしよう。
目覚めよという呼び声は聖霊によるものだ、と以前書かれていたが、そもそも聖霊もスピリットも同じ一つのものであることを考えれば、その呼び声はどこか他所からやってくるのではなく自分のマインドの中から出てくるものだということもまたわかるだろう。キリストは私たちの中に生きている、これを言い換えればマインドがどんなに分裂したように見えても私たちのスピリットはちゃんと生きているというふうになると思う。
そのキリストは、常にとんでもないような奇跡をなし続けてくれているのだが、思い込みの激しい私たちには受け取ることもそれどころか気づくこともできていない。受け取りたかったらどうすれば良いか?これも以前に書かれている。「まず、与えなさい」なのである。キリスト並みの大きな奇跡など私たちには為すすべもないのだが、多分これはそういうことではなくてキリストと同じ目で或いは耳で知覚認識することによって兄弟姉妹をゆるし、且つ癒し解放しなさいというような意味だと思う。そうすれば私たちもまた救われる。そういう意味において、あらゆる人々が私たちの救い主として存在してくれているのである。
ここでも繰り返されているように奇跡には大小もなく難易度もない。「神にはあらゆることが可能である」ならば、私たちにおいてもそうなのである。が、ここはやっぱり誤読されてしまいそうだ。エゴが思うような意味で「何でもできちゃうんだ」ではないのである。というか、エゴはそもそも「叶うことのない儚い願望を抱かせ、私たちに希望を与えつつ挫折させる」存在だから「あらゆることが可能ではない」にしておかなくては困るのだ。限界を設けるというそのことが既にエゴの作用なのである。あらゆることが可能、であるわけがないのだった。まあ、簡単に言えば「神の御心に叶うことなら何でも可能」ということなのだが、これも「叶わなかったから神の御心じゃなかったんだ」と短絡的に決め付けられるものでもない。
とにかくここで言われているのは、私たちは既に救われているのですよ、苦しみなど本当はないのですよ、という気づきを周囲の人々にもたらすべく身をもって教え示すことの大切さである。
さて、「コース」の基本的な教えとしてたびたび出てくることだが、私たちが「世界」あるいは「現実」だと思っているものはそのように「知覚認識」されているだけであって、実は幻影であり本当は存在しない。「コース」の言い方を借りると、この「幻想の世界」と「天国」との間に「本当の世界」というものがある。天国とは、もはや何も認識すべきものがなく全てが直接知られている状態であり、完全に覚醒している状態である。私たちは本来そこにいたのでありそこから来たのでもある。一方で「本当の世界」とは、完全に覚醒してはいないものの夢を現実だと思い込むことはなく、夢は夢だとハッキリわかっている状態、つまりエゴではなく聖霊による知覚認識ができている状態である。本当の世界にいるとき、私たちは身体を持ちつつこの世にあっても真に幸せな状態なのである。
たとえば、貴方が目の前にいる愛犬に心からの愛情と慈悲を抱いているとしよう。貴方は犬ではないのだし、貴方と犬はどう見てもとりあえず別物である。この点においてあなたは虚構の世界にいることになる。しかし、貴方のなかに生じた愛情は真実であり永遠という性質を持っている。この世においては何もかもが変化し滅びゆくことを免れないが、あなたのマインドに生じた愛や平和、喜びなどは既にこの世のものではない。
私たちが出会い関わる人々、つまり兄弟姉妹たちはこの世においてはどうしたってそれぞれ別個の存在なのである。そのように見るな、といっても別に同じ姿かたちに見えるわけでもない。全ては一つ、というのは形以前のスピリットの状態なのだから、そもそも姿かたちのことを言っているわけでもない。ただ、スピリットによって他人あるいは世界を見るならば、それらは貴方の目に今までとは全く違ったふうに映るようになるであろう。そうすれば当然ながら生じる感情も変わってくるだろう。間違いを投影しなければ間違った現実を経験することもない。
「本当の世界」とはそういうことである。「コース」だけでなく古今東西いろいろな人が同じことを言っている。私も以前コラムで書いたことがある。即ち、貴方にとっての世界・他者とは貴方の心によって作り出されたものなのである。

 
第203回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 86・87

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 86

第11章 その6

考えてみればエゴの仕組みやら正体やらというものについては前にもかなり詳しく述べられていたのだった。しかし、すぐにエゴの思考システムに舞い戻ってしまう私たちのために「コース」は繰り返ししつこく教えてくれているのである。そういうわけで、この項には以前の内容と重複するところが多い。

まず、エゴの目的は「神から離れてバラバラの分離状態を保持すること」だった。それがエゴの成立基盤だからである。この状態にある限り私たちは本当の幸せも喜びも得られず、常に何らかの不満や不安を抱えて生きることになる。つまりエゴの目的は「私たちに本当の幸せをもたらさないこと、そんなものがあるとさえ知らせないこと」でもある。

それでエゴは神を「私たちとは別の何か、得体の知れないもの」であり「私たちを支配し、私たちの思い通りの人生を送らせてくれないもの」のように定義している。もちろん神を否定しているようには見せないことも大いにある。カミサマを信じましょう、でないと罰が下ります。あなたがこんなに苦しむのはそれが御心だからです。そんなふうに思わせるわけだ。或いは、カミサマを信じていれば幸せになれます、カミサマが守ってくれますよなどと言うこともある。以前も書いたが神はエゴたる「人間」など守りようがないのである。もっとも、エゴはそもそも神なんか知らない、わかっちゃいないのである。神を忘れたところから生じた存在なのだから当然のことだ。

というわけで、エゴが「自由」といったらそれは下手すると「神からの自由」だったりするのである。そんなわけの分からないものに支配されていないで自由にやるんだ!ああせいこうせい、あれはダメだこれもイカン、なんていう小うるさいカミサマなんか構わないで自由にやろう、人間バンザイ!みたいになる。

これらの根本的な間違いは「そんなことできっこない、ありえない」ことを望んでいるという点である。ありえないことを求めれば当然うまくいかないので不満も怒りも絶えないし、まあたいていは不幸な結末になる。更に、それらは私たち本来の姿にとっては非常に不自然なものなのだ。二足歩行できることを知らないで毎日逆立ちで歩いているようなものかもしれない。だから疲れるしうまくいかないのである。

神なしで、全て自前で自由にやっていける!などと考えるのは「存在しないで存在する」とか「真空地帯で、自分で酸素を作って生きる」とか、それくらいとんでもないことなのだ。カミサマなんて、信仰なんて要らないわと本気で思うなら、それらは「コース」言うところの「ニセモノの神」つまりエゴが作り上げた偶像の神であるはずだ。

真実の神からの自由、そんなものはありえない。「コース」が語る神とは、存在そのものであり真理なのだ。そういうものから離れて「自由に」なるなど、それこそ考えることはできても現実にはありえないではないか。むしろ、神じたいが自由なのである。神からの自由ではなく、神の中にこそ自由がある。神はあらゆる限界から自由なのである。そういうものから「離れてバラバラに」なったマインドは、自由を捨てて自らに制限や限界を設けてしまったのだ。

ゆえに、本当の意味での自律性とは「神から離れて自分で」ではなく「神の中に」こそあるなのである。わかりにくいだろうか?神は「完全であり続ける」というその自律性によって私たちを創造したのであり、その際に神じしんの自律性もまた「完全なものとして造られ、完全であり続ける」という形で私たちに分かち与えられているわけだ。普通に考えると自律性と依存は相矛盾するものだが、まったく何にも依拠せずに存在することはできないということを思い出してみてほしい。

まあとにかくそんなエゴによる思考システムとは、幻想というよりもはや「まやかし」「目くらまし」みたいなものなのである。ただ、非常にもっともらしく巧妙にできていて、しかも常にバージョンアップされたりもしているので相当なしぶとさを持っている。

エゴは恐怖を餌にして生き延びているようなものである。私たちが恐怖や不安或いはそれと表裏の関係にある怒りや罪悪感を抱いているなら、「神と一体である本来の状態」ではない「分離状態」が保持されているわけだからエゴも安泰なのだ。これも散々述べられてきたことである。しかし、いくら恐怖が最大のご馳走だとは言っても、エゴは私たちに恐怖だけを与えるほどバカではない。もしそんなことをしたらいくら私たちが間抜けでも「エゴなんていやだ」と早々に気づいてしまうだろう。エゴの巧妙さというのは、常に恐怖と共に「救い」や「希望」に見えるものを私たちに与えておく点である。もちろんそれらは「そう見える」だけで実際には何の救いにも希望にもならないものばかりなのだ。

エゴはまず私たちに恐怖の正体を掴ませない。正体なんてもう考えるだけでも怖ろしいので暗闇の中に隠してあるようなイメージを抱かせる。そんなふうに「コース」は言うのだが、スピリチュアル以外でも精神分析などのセラピーで自分の中の恐怖の正体や原因を見つけ直面してみようというものも少なくない。しかし、エゴにとってはありがたいことにこの方法では絶対に恐怖の「本当の」正体はわからないのである。なぜなら、まず第一にこれが「分析」という手法だからである。分析とは言うまでもなく「個々に分けて観察・考察する」方法なので、「全てがひとつ」「全一性」という理解からはどんどん遠ざかってしまうのが普通なのだ。だいたい、分析というのは細部だけを調べて全体の調和を忘れるという危険に陥りがちな方法である。あらゆる分野においてそういう事例は見出せると思う。ちなみに、自分自身および事象の奥深くにどんどん入っていくような「内観」みたいなものは分析とは全く違う。

更に、こういうセラピーは「恐怖の正体というものが具体的に存在する」という前提に立っている。しかもそれがたいていは「幼児期の経験」などという「現象」を意味しているうえ、「コース」の基本的認識論に立ち返って考えればそもそも「恐怖をもたらすような経験」もマインドの投影に過ぎないのだから、精神分析的な「恐怖の正体であるような幼児期の原体験」の前にマインドの中に既にそれを投影するような思考があったということになる。とすれば、それら経験は恐怖の正体でも原因でもない。では、そんな経験を投影させてしまうような思考が真の原因であり正体なのか?といえばこれでもまだ不十分なのである。なぜそんな思考がマインドの中に入り込んでしまったのか、という疑問が更に残されるからである。

ところが、それに答えを与えてくれるのがこの「コース」なのである。「コース」の教えに基づけば、恐怖とは即ち「神から離れてしまったという思い込み」から来るもので「勘違い」であり「本当は存在しない、ただの思い込みに過ぎないもの」である。つまり恐怖の「正体」とは「実はそんなものありませんでした」ということになってしまうのだ。

恐怖という考えが予めマインドにあったからこそそれが投影されて「怖ろしい!」という認識や経験になるのだが、その考えこそが「神から離れてしまったという思い込み」なのである。私見だが、身体を持ってこの世に生まれるということはそれ自体において「神から離れてバラバラの個である」という思い込みが既にマインドの中にあるということ、あるいはマインドの中にあったからこそまたしても転生して身体を持つ羽目になったということなのではないか。身体をもって生まれた以上、どんな赤ん坊でさえも「神から離れてしまったという思い込みとそこから来る恐怖」をマインドの中に持っているのではないか。

これをキリスト教風に言えば「原罪」になる。が、既に見たように原罪だと思われているものも実は勘違いなのだった。

このように、恐怖の正体を知って克服したい、解放されたいと真摯に求める場合でさえもエゴの巧妙な策略により本当の正体など死んでもわからないような羽目に陥ってしまう危険が非常に高いのだ。

精神分析に限らない。宗教であれスピリチュアルであれ、一見あなたに救いをもたらしてくれるような何か、あらゆる何かが、神でさえも「エゴの策略の道具」になりうる。そのくらいエゴは巧妙でしぶといのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 87

第11章 その7

エゴはその巧妙さによって私たちに恐怖だけでなく、それを解消するように見える「救い」「希望」も与えている、というのを乱暴なたとえで表してみよう。私たちは非常に思い石の塊が入った袋を抱えて常に持ち歩いている。そんなものさっさと捨ててしまえば楽なのに、これがなくなったら恐ろしいことになるのではないかと思わされている。怖ろしくて袋の中身を確認することもできない。せいぜい外側から触ってあれこれ「分析」してみるくらいである。おまけに「これがいつかは金や宝石に変わることだってあるかもしれない」とも思わされている。が、実際には何の役にも立たず恐ろしくもないただの石に過ぎないのである。袋を開けて見てみればすぐにわかることなのだ。

エゴは私たちがこんなふうにして恐怖の正体を知ることを怖れている。恐怖はいろいろな形に姿を変えて表れるし、いろいろな形で経験されるものだが「本当は存在しない」という点でどれも同じなのである。神から離れてしまったという思い込みが恐怖をもたらすのであれば、恐怖がある限り私たちは神から離れた状態のままでいることになる。となれば、恐怖を抱くことの代償がどんなに大きいか、すぐわかるだろう。何らかの恐怖があれば私たちは愛も喜びも健康も豊かさも、要するに「自分にも与えられているはずの、神の性質である全てのもの」を失ってしまうのである。エゴが与える「希望」「救い」なんて全く役に立たない。エゴから与えられた以上、それらは結局全て「神から離れたバラバラの状態」を維持するためのものに決まっているからである。砂漠の蜃気楼のようなものだと思えば良い。おまけにそういうまやかしの救いや希望を求めて執着すればますます苦しくなる。そして新たな救いを求めてさまようことになるのである。

恐怖やそれに付随するあらゆるもの・・不安・怒り・不満・罪悪感などなど・・を抱くということはつまるところ神や真理を否定し攻撃するのと同じことになってしまうのだ。

以前、私たちには苦痛と喜びの区別がつかなくなっていると書かれていたが、何らかの攻撃によって愛や豊かさなどが得られると思い込んでしまうのも要するにそれと同じ種類の混乱なのである。だから、エゴの思考システムに従っている限り私たちは本当に求めるものが得られないことになる。それどころか、エゴに従って幸せを求めれば求めるほど恐怖が増幅されるというありさまになってしまうのである。

前回述べたとおり、分析という方法では「全ては一つ」「まるごと一つ」のようなトータルな理解はできないことになっている。禅の公案を考えてみればよくわかると思う。または、たとえば人間の脳の機能やら物質やらをひたすら分析・研究したって結局「いまここにこうして存在している」ことの意味や謎など何一つわからないままだ、ということを考えても良い。「身体として生存している」ことならともかく、「存在している」ことの意味など、分析や実験では全くわからないものなのだ。

聖霊はどんなものが目の前に来ても現象に惑わされずその向こうにある真実だけを見る、そういう知覚認識をする。一方でエゴはその思考システムに沿った形で知覚認識をする。そもそも「間違い」を基盤としたところから出発しているものなのだから、全ての間違いをあたかも「正しい現実」であるかのように認識してしまうのである。そうして自らの思考システムの整合性を保っているわけだ。

恐怖なり怒りなりが生じるときというのは何かしらきっかけがあるものだ。たとえば、あなたが「ムカついた」のはおそらく「攻撃された」と感じたからだろう。が、そもそもそれが「間違い」「勘違い」なのである。あなたの現実認識が間違っていた結果、ムカついてしまっただけなのだ。

人は自分の見たいものしか見えず、聴きたいことしか聞こえない。それがどんなに不愉快なものに思えてもそうなるのである。たとえば「みんなが自分を嫌っている」と思っていれば周囲の人々のあらゆる言動が全てあなたの目にはそのように映り、あなたの耳にはそのように聞こえるであろう。「あの人は私を裏切っている」と思っている場合も同様である。傍からみれば全然そんなことはなくても、当人にとっては「絶対そうよ!」なのである。見聞きするもの全て、つまり知覚経験の全てが自分の思い・信念を裏付けているように映るのである。これも以前書いたことだが、仮想現実を本当の現実と思い込んでいる「おかしい人」を思い浮かべればよくわかると思う。私たち誰もが多かれ少なかれこれと同じことをしているのである。

思い込みの激しい人、というのは時々見かけるが、私たちの世界、或いは宇宙も言ってみれば「神から離れてバラバラの存在が寄り集まってできたもの」という思い込みの産物なのだ。言い換えれば、私たちの目に映る宇宙は私たちが思い込みによって作り出したもの、マインド内の思い込みが外側に投影されたものに過ぎないということになる。

さて、思い込みの強い人々はたいてい自分の思い込みの内容をきちんと考えもしないで、というかそれができるくらいなら初めからそんな状態にはならないのだろうが、これが正しいのだ!ということをひたすら自他に向かって示そうとするものだ。それと同様に、私たちのマインドの中でもエゴの声は大きいのである。ほら見なさい、やっぱりこうじゃないの、わあわあぎゃあぎゃあ、という感じである。

一方で『コース』いわく、キリストや聖霊の声は「とても静か」というか殆ど沈黙に近いようなのだ。正しさをアピールする必要がないからである。もう、エゴに負けないくらい大きな声で話してくれないとわからないじゃない!と思うかもしれないが、だからこそ「聖霊の声を聴こう」という強い意志が必要になるわけなのだし、まずマインドの中の「おしゃべり」を止めて心静かにすることが必要にもなるわけなのだ。聖霊の声を聴きたかったら「ああだ、こうだ、どうしよう、何だろう」などと思うのを無理やりにでも一旦止めなくてはならない。

もしも誰かがあなたにいやなことを言うようであれば、それはあなたがキリストを通して話さず聴いていないからである。まあいわゆる鏡現象でもあるのだが、「コース」以外のスピリチュアル本にも同じようなことは書いてある。たとえば、誰か「いやな人」と思っていた相手のことを「この人は本当に素晴らしい人だ」と思いそう見るようにすると、相手があなたに対してだけは「良い人」になったり、あるいはあなたの近くから去っていったりするということが実際にあるのだ。誰のことも「あなたが作り出した間違った現実」の正当性を裏付ける存在にしてはならない。あなたが「他人」だと思っているあらゆる人の中にあなたを解放し救い出す力があるのだ、と「コース」は言っている。別にその人たちがあなたに何か具体的なことをしてくれるとは限らない。そういう意味ではない。

あなたが誰かについて「ひどいヤツだ」とか「この人は病んでいる」などと思うとき、つまりそのように知覚認識するとき、あなたの知覚機能は歪んでいる。エゴの思考システムに沿った知覚経験をしてしまっているのである。それを正す、つまり「この人も私と同じ神のひとり子であり、神がつくり給うたままの完全さを持っている」のだと認識しなおせば、まずあなたは自分の中のその人を解放したことになり、それによって自分自身もエゴの思考システムから解放されたことになるのだ。言い方を変えれば「その人によって解放された」となるわけである。このあたりの仕組みについては既に述べられているのでだいたいお分かりだと思う。

私たちが出会ったり見聞きしたりするあらゆる人、あらゆる事物、あらゆる現象が全て私たちを解放し救い出す力を持っている。これは本当にすごいことである。

 
第202回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 84・85

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 84

第11章 その4

癒しとはゆるし、解放でもあるのだがどれも一朝一夕にできるようになるものではない。やはり毎日の練習が必要なのだ。真摯な気持ちで続けていれば必ずエゴと聖霊の区別もつくようになる、即ち真に求めるものは何なのかがわかるようになるのである。

さて、神から離れてみんなバラバラの存在になった(と思い込んだ)というのは要するに神でもある自分自身を否定したのと同じことである。このとき私たちは同時に本来の状態における直接知、愛、喜び、豊かさなどなども全て否定してしまったわけだ。この「全て」というのがミソである。愛が全方向的或いは全的なものであるのと同様に、否定もまた全的なものにならざるを得ない。なぜならほんの少しでも何かを否定してしまったらそれは「全ては一つ、まるごと一つである状態」を崩したことになるからだ。全てが一つである状態が否定されて「みんなバラバラ」の状態になったのだ。一が否定されて多になった、ということもできる。とにかく全てが一つであるような本来の状態を少しでも崩してしまえば、それは結局「全てを否定した」ことに他ならなくなる。

要するに、ほんの少しの怒りや不満・不安などがあっても「完全な自分自身」ではなくなってしまうということだ。完全でないものは神ではなく、神から造られたままの「本来の私」でもない。完全な自分自身を否定してしまえば、本来の自分が求めるもの即ち自分が真に求めるものが何なのかわからなくなってしまう、という道理であるらしい。

つまりこういうことだ。ほんの少し(あるいは大いに)ネガティブな気持ちがあれば聖霊の声など届かない、というかそれが聖霊の声だということすら認識できない。しかし、それらネガティブな気持ちをちょっと脇において少しの間だけでも本当に真摯に癒しを求め、聖霊の助けがほしい!と意志すればそれは必ず実現される。

何故ならば、聖霊は常に私たちとともに、というか私たちの中にあるからだ。私たちのほうにメッセージを聴く用意がありさえすれば良い。エゴの声に耳を傾けているから、ネガティブな気持ちを野放しにしているから聖霊の声が聞こえないだけなのである。

エゴと聖霊、あなたはどちらを客として迎えたいですか?と「コース」は言うのだが、同じ客でもエゴは悪夢である。おまけに親切な顔してやってきて、客として迎えたつもりでいたところがこちらが人質にされてしまう。それに対して聖霊は「本当の現実」なのだ。悪夢は目覚めれば消えてしまうような幻想であり「本当には存在しないもの」だが、本当の現実なら見るか見ないかは別として常にここにある。

どちらを選ぶかは自由意志に任されているように見えるが、これが真の自由ではないことは既に述べた。真の自由には選択の余地がない、というおかしなことになっているのである。

究極的には、神から与えられた役割を知ってそれを果たすことの中にしか喜びも幸せもありえない。ここで「コース」は「神と共に在る」(to have Him)とは「神のごとくに在る」ことだ、と言っている。神のごとくに考え見聞きし行動するというわけである。とんでもないような感じがするが、スピリットとして生きるというのはそういうことだ。ものすごく卑近な言い方をすれば「インスピレーションに従って生きる」となるが、インスピレーションだと思ったものがエゴによる単なる思いつきだったりすることもままあるので注意していただきたい。「宇宙と調和してシンプルに生きる」というほうがまだ近いような気がする。

「ああ、疲れた、ウンザリ」と思うとき私たちは自分自身を傷つけているそうである。人間だったら誰だってちょっとはそうなるよね、と思いそうなものだが、どっこいスピリットはいわゆる「人間」ではないのである。少なくとも人体としての「ヒト」ではない。スピリットとして生きていれば疲れることもないのだろうか?少なくとも疲れにくくなる感じはする。確か和尚だったと思うが、本当に覚醒した人は身体を休めるために横たわることはあっても眠ることはないらしい。道具としての身体は時々そうやってメンテナンスをしなくてはならないがスピリットは不眠不休で大丈夫だということのようだ。しかし、「コース」はもっと過激なのである。何しろ「身体なんて本当は存在しない、存在しないものは疲れようもない、身体はマインドの投影なのだから疲れているとすればそれはマインドが疲れているのである、ところでスピリットは疲れを知らない、ということは疲れているマインドはエゴである」というふうになってしまう。そこまでに至ることはなかなか難しいに違いない。ここでは「疲れ、痛み、苦しみなどは神の御心ではない、それらは神のものではなく従ってスピリットたる私たちのものでもない」ということだけ覚えておけば良いと思う。

苦しいとき、疲れているときは聖霊に慰めを求めなさい、つまり癒しを求めなさい。疲れているその自分が自分の疲れを癒すことなどできるわけがないからである。そういうわけで、癒しとは常に「エゴであるこの自分」以外のところから与えられることになっている。

さて、ここで「神の御心は既になされている」という記述が出てくる。ここだけ読んでしまうと非常に誤読されやすい言葉だと思う。まず、「神の御心がいつなされたんだ?私には何も起きてないぞ」「じゃあ今こんなに苦しいのは神の御心だってことなの?」というふうに取る人がいるだろうし、更に「過去も未来も全て決まってしまっている」と解釈する人もいる。しかし、落ち着いてその先を読んでみてほしい。「なぜなら神の御心は常に真実だからである」「神の御心は私の意志である」。

まず、真実・真理なるものには時間が存在しないということを思い出してほしい。「コース」もその時々で神の御心がなされる、とかなされるだろうなどと時制を使い分けているが、そもそも神の御心の実現は時間の外側にあり、当然ながらこの世の外側にあることなのだ。また、私たちが神に似せて造られたことじたいが神の御心であるのなら確かにそれは既になされてしまっている。私たちには既に全てが与えられており、既に癒され救われてしまっているというか本当はそんなもの初めから必要ない状態だったのだし、今もそうなのだしこれからもずっとそうなのだ。こういうことはこれまでにも何回か述べてきたが、要するに同じことなのだ。神の御心は既になされてしまっている、私たちの意志が神の御心と同じものだとわかるとき、私たちはこのことにも気づくのである。これもまた気づきの問題なのだ。そうなってみないとわからない、キリストもそのようなことを言っている。

でもすごく難しくて大変そうじゃない?いや、困難なのではなく「なじみがない」だけなのだ。なじみがないから難しそうに感じるだけなのだ、そのように「コース」は言っている。神から離れたバラバラの存在として、この世で生きていくほうがずっと困難で苦しいのだよ、とも言っている。だから気づきなさい、目覚めなさい!となるのだが、それこそ「なじみがなくてどうしたらよいのか良くわかりません」になってしまう。というわけでやっぱり聖霊の助けが必要になるのだ。聖霊に道案内を頼みなさい、それが光の中で光を以って造られた貴方にはふさわしい、と「コース」は言っている。

道案内といっても別に迷路や悪路や険しい山道を進むのではないのだ。それは光に照らされた、間違いようのないまっすぐな一本道なのだが、私たちは時々(いや、しょっちゅう)エゴに目をくらまされて方向感覚が狂ってしまうのでその都度「こっちですよ」と教えてくれる道しるべが必要になるわけだ。或いは、エゴの目から見れば光に照らされた一本道が大変な悪路に見え、一方で私たちを決して幸せにしない道が安全な道に見えたりもする。

しかし、いくら私たちが道に迷い途方に暮れてさまよったとしてもそれは私たちが神の道から遠ざかったということにはならないのである。そのとき私たちはただ妄想の中にいるだけなのだ。私たちはどこにも行っていない。間違った方に向かってはるかかなたまで行ってしまう、ということはありえない。なぜなら本当は「神と一体」の状態から一歩も出ていない、出たことなど一度もないのだから、ただ「迷子の子羊」になってしまったと思い込んでいるだけなのだから。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 85

第11章 その5

神あるいは聖霊の声に従うのが難しいことはある。一見、エゴの甘い囁きのほうがはるかに常識的だし、自分を救ってくれるもののように思えるからだ。が、それでは暗闇から抜け出すことはできないし本当の幸せも喜びも知らないままになる。だからといって神や聖霊の声に「イヤイヤ従う」ということもまたできないのである。いくら抵抗を覚えようがイヤだなあと感じようが、従うからにはとにかく気持ちを切り替えて「喜んで受け容れよう、ありがたく受け取ろう」という姿勢でないとダメなのだ。そうでないと本当に従ったことにはならないのだし、第一「全てはひとつ、兄弟姉妹全てを自分と同じものとして受け容れる」状態ではなくなってしまう。

神や聖霊は何も強制しないものだが、私たち自身はエゴの誘惑を振り切るためにある程度は強制的にマインドに命令しなくてはならない。耳の痛いことを言われて「聴きたくない」と心を閉ざし、その結果「ネガティブな気持ちにならなくて済んだ」というのではお話にならないのだ。真実を見るのが怖くて幻想に逃げ込むとはまさにこういうことである。また、嫌いな人に対して感謝しろと言われて「じゃあするわよ、本当はイヤだけど。すればいいんでしょ」ではダメなのである。ここだけは頑張って100%ありがたく受け止めます、感謝しますというマインドになりきらなくてはダメなのである。自分に対してそれを強制するくらいでないとダメなのである。

スピリチュアルの方法論は「ワクワク楽しく」「苦しまずに楽々と」生きていれば、通常の努力ではあり得ないような奇跡に恵まれたスバラシイ人生が送れます、というように捉えられており、まあそれも間違いではないのだが注意しないと勘違いの元にはなる。やっぱり学びの過程では通常の努力や勇気も必要なのだ。いやなことはしなくていいというのが

「エゴにとっていやなことはしなくていい」であってはならない。逆さまになった思考システムをもう一度ひっくり返して元に戻す、これにはその都度それなりの勇気が必要だったりもする。今までの(間違った)自分を一旦否定しなくてはならないからである。あるいは、今までの間違いを一旦認めなくてはならないからでもある。和尚は「今ある貴方を死なせなさい」と言っている。これは怖ろしくまた屈辱的でもあるかもしれないが、ここはどうしても勇気を持って頑張らなくてはイカンのである。

「コース」も繰り返し言っている。よくよく注意しなさい、エゴが侵入しないように警戒して見張っていなさい。しかもエゴは手を変え品を変えいろいろな意匠を凝らして貴方を騙そうとしてくるのである。ならば、どうしたってかなりの努力が必要ではないか。

先にも書いたが、私たちは実は既に救われているので或いは間違いなんて本当は起きていないので今更救いなど必要としない。しかしそれはあくまでスピリットとしての私たちのことなのであり、今こうしてあれこれやって生きているこの私たちには救いがどんなものであるかさえわかっていない。ゆえにまずは「救い」を理解する必要がある。

「コース」は非常に簡潔な表現を用いている。すなわち「神のひとり子であることこそ貴方にとっての救いなのだ」。本来の私たちは神と同じ性質を付与されて造られている、そのことこそが救いとなる。癒しやゆるしや奇跡が起きれば私たちは救われる、そう思うだろうがそもそもそれらが起きることが可能なのは私たちが「神のひとり子」だからなのである。

言い方を変えれば、結局これも気づきの問題であり「私って本当はこうだったんだ!」という本当の現実に目覚めることこそが救いなのだ。現象としてのあれこれはそれに付随するものでしかない。このあたりの記述は今までに何回となく繰り返されている内容なので特に解説は必要ないと思うが、ポイントを挙げるとすればまず「神にないものは私にもない」「自他の区別、内外の区別はない」「神の法則はどんな場合にも適用される」などなどだろうか。自他・内外の区別がない、というのはたとえば誰かを責めればそれは自分を責めたのと同じなのだし、誰かが貴方から何かを奪ったように見えても実際にはそうではなくて、貴方から何かを奪えるのは貴方自身しかいない、外側で起きているように見えることはまず自分の内側で起きている、などということである。こんな目にあったのは相手が悪いんだ、私は何もしていない!と言うわけにはいかないのだ。言ったっていいけどエゴが喜ぶだけですよ、なのである。

「神の法則はどんな場合にも適用される」、あらゆる神の法則はもともと私たちを守るためのものなのである。だったら私たちが良からぬことを考えたり、その結果とんでもない不運な目にあったりするのは何故なのか?そうなる前に守ってくれることはできないの?これも前に出てきたとおり、まず第一に神はエゴたる私たちを守ることはできないからである。次に、たとえ神であっても、いや神だからこそ私たち神の子の「自由意志」を犯すわけにはいかないからである。また、神や聖霊には「望まぬものを強制する」性質がないからである。このように神の法則はいついかなるときでも一貫していて例外がない、だからこそ真に信頼できるものなのだ。失敗する前に気づかせて守ってほしいと思うなら、どうしても「エゴの侵入をゆるさないように絶え間なく警戒して」聖霊の声を聴けるようになっておくしかないのである。

さて、幻想はそれが幻想だとわかってしまえば消失する。同様に、間違いはまずそれを間違いだと認めなければ正すこともできない。しつこく書いているように、ここである程度の勇気が必要とされるのだ。自己否定には2種類あって、一つは本来の自分・神の子である自分を否定してエゴに支配されてしまうもの、もう一つは今までの間違った「自分」を否定して正しい認識に至るもの、くれぐれも混同しないようにしてほしい。

幻想も間違いも生まれてこの方全く知らずにきました、という人はまずいないだろうが、それらの中に埋没して生きてきた私たちとしてはそこから解放されるためにまず「本当はどういうものか」を知らなくてはならない。幽霊の正体見たり枯れ尾花、である。まずそれが枯れ尾花だということをしっかり見なくてはならない。目をつぶって「幽霊なんかじゃないわよ〜」と叫んだだけではダメみたいなのである。

つまり、真実を知るためにはまず真実を見えなくしている汚れや曇りに気づかなくてはならないわけだ。何しろ今までの私たちときたら自分という鏡が汚れて曇っていることにさえ気づいていなかったのだから。ここではとにかく静かな気持ちで虚心坦懐にエゴの正体や仕組みを知ってみようと「コース」は言っているのである。エゴがどう働いているのか、その力学を知ろう!とはいえ本当は存在しないものに力学も何もあったものではないのだ。そこには矛盾があるがまあ仕方ない。とにかくわかって手放せれば良い、これは癒しの別名なのである。

幽霊の正体を見る、つまりここで私たちは自分の恐怖の正体を直視することになる。これは怖ろしいのではないか?と心配することはない、だってちゃんと見ればただの枯れ尾花だとわかるのだから大丈夫。しかも私たちはもはや一人きりで立ち向かう必要もないのだ。聖霊と共に「明晰さ」という光を携えていくのである。光をもたらせば暗闇は消える。暗闇の中に潜んでいるに違いない!と思われていた怖ろしいものも、実は存在しませんでしたということがわかる。そう考えればなかなか面白い冒険であり探求になるはずだ。

まず第一に恐怖の正体を直視しそれが現実のものではないと知る。現実のものでないとわかればそれが実際には何の影響力も及ぼさないこともわかる。逆に言えば、何の作用も及ぼさないものは現実ではないのである。いいえ、十分な作用がもたらされているわ!と思う人も多いだろう。しかし、とにかくエゴには何の力もないというのが実態なのだ。ただ私たちが「ある」と思い込み、思い込んでいるからそれが外界に投影されて経験となり、あたかも現実のごとくになっている、途方もない現実感をもたらしているだけである。

「全ての力は神のものであり、神でないものはいかなる力も持たない」この真理を覚えておこう。

 
第201回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 82・83

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 82

第11章 その2

前回の最後で少し話が逸れてしまったが、基本的に「コース」において「ひとりきり」とは文字通り「孤立無援」に近いような事態を表している。で、ひとりきり=神から離れたバラバラの状態であるときの私たちは「永遠」からも切り離されている。逆に言えば仮想現実に生きているときは時間の枠内にとどまっているのである。

ところが、ところがである。よく考えてみてほしい、永遠とか永劫などというものは文字通り「終わりがない」「際限がない」のである。際限がないものから逃れることなどできるものだろうか!私たちは普段、自分が作り出した「永遠ではないもの」ばかりを見てそれを現実だと思って過ごしているからわからなくなっているだけなのだ。「永遠」であることから逃れられる人など誰もいやしない。どこかで一度は本当に完全な無になって消えてしまいたいのよね、というのこそ「完全に不可能」な望みなのである。これはもう素晴らしいことか悔しいことか良く分からないのだが、考えれば考えるほどそうなのであって、つまり今ここで例えば「碧海ユリカ」として現象しているところのそのおおもとの存在は生まれも死にもしない永遠のものなのだ。

初めもなく終わりもない、あらゆるもの全てがその中にあるような宇宙=神=存在、というものがあるとして、自分だけがその中に存在しないなどということが考えられるだろうか?あるいは、死んだらそこからも消え去り抜け出してしまうなどと考えられるだろうか?消えてしまうように見えるものでも実は「あり方」=エネルギーレベルが変化しただけであって実は消えていない、という考え方もあるが、多分「コース」はそういう考え方でなく「消えてしまうものなど実は初めからなかったのだ、あるように見えていただけで幻想だったのだ」と言うだろう。永遠なる存在だ、というのは「死んでも他の人の心の中で生きている」などというレベルの話ではない。だって貴方を覚えている人が全員死んじゃったらどうなるんですか?

ところで、「ワタシひとりがいなくなったって世界も宇宙も変わらないでしょ」とは誰もが一度は考えることではなかろうか?確かにその通りである。エゴであるところの誰か、というか誰かのエゴが消えたところで世界も宇宙も変わらないであろう。そもそも「初めからなかった」ものだからである。もっとも、あまりに強大すぎるエゴを持った誰かが消えれば世界は変わるということはあったかもしれない。しかし、スピリットたる誰かが消えれば、まあそんなことは絶対にあり得ないのだが、もしそんなことがあったら大変なのである。スピリットは神の一部であり本当の現実においては一部が全体でもあるので、一部が消えるということはすなわち「すべて消えてしまう」ということになる。

「コース」は、「神の御心の中には他の誰かと置き換えることができない貴方だけの場所がある」と語っており、まあそのように考えても良いのだが、これは一歩間違うと危ないような気もする。しかし、とりあえずこの世でこの身体で生きているということになっている間はそう考えたほうがわかりやすいのかもしれない。要するに、私たちは何ものにも替えがたい価値のある存在なのだということがわかればよいのである。「ワタシひとりくらい、いい加減に生きていたって誰も困らないだろう、カミサマも困らないだろう」などと考えないように、という意味合いもあると思う。

私たちが気づかなくても、スピリットであるところの私たちは創造し続けている、或いは拡大し続けている。以前にも述べられていたことだがここでまた繰り返されている。創造(拡大・シェア)は遮られることも止むこともない。これは「永遠不変」だからである。ゆえに、永遠不変でなく「時間」を作り出し時間の枠内にとどまっているマインドにはこのことが見えないのだ。

余談だが、「私はいつ覚醒しますか」という質問は誰にも答えられない。というよりそもそもその質問自体が全く意味をなさないものなのだ。なぜなら覚醒とは「時間」を超越するものだからである。以前「和尚」の講話を紹介したことがあるが、その中で「いつ覚醒するか」という質問に対して偉大なマスターがとんでもなく長大な年月を示していた。実はあれは具体的な年数なのでは全然なくて、単に「長い時間がかかる」ことの喩えでもなくて、要するに「答えられません」と言っているに等しいのである。質問した求道者が凡庸なので理解できなかったのだ。あの物語自体が「時間」の無意味さを表しているとも言える。覚醒とは常に「今ここ」でしか起こらないものなのだ。

私たちは「始まりと終わりとその途中」がある世界に生きている(と思っている)が、本当の現実には始まりも終わりもない。「コース」の教えを学んでいる私たちは「いつになったらあそこまで到達できるのか」などとしょっちゅう感じてしまうわけだが、他の勉強のように「来年までにエゴをなくそう」とか「2年以内に奇跡能力を身につけよう」なんてことが果たして可能なのかどうか?「コース」は「目標を明確にしろ」と言ってはいるが、それらは常に「今ここ」でなされるようなものであって「時間」で区切られるようなものではない。

永遠を見ない限り私たちは自らが創造したものを知ることはできない、そんなふうに書いてあるが、これは「時間に囚われているときには幸せも自由も喜びもない」ということを裏から述べているようなものである。「一つであること」の至福を感じているとき、私たちは言わば時間の外に出ているのだ。ふと我に(エゴに?)返ってそれをつなぎとめようとした途端に苦悩が始まる。時間を超越したものを時間の中に閉じ込めておくことなど不可能に決まっているからだ。それを通常の言葉で表すと「幸せな時間は続かない」などというふうになる。至福のような「スピリットの被造物」は、閉じ込めるのではなく与えシェアすることによってのみ維持あるいはますます増幅されるのである。

ここに「限りなさは貴方がいなければ意味がなく、貴方は神がいなければ意味がない」と書かれているが、これは簡単に言えば「神とは限りないものであり貴方は神の一部である」ということだ。

私たちは神に関しても投影を行ってしまう。つまり「神に見放された」などと思うなら、それはただ私たちのほうが神から離れてしまっている(と思っている)だけなのだ。

スピリットによって創造されたものなら必ず「限りなく永遠」なのであり、そこには必ず愛がある。神は愛であり、それゆえ神の一部であるスピリットもまた愛だからである。とうより、神は自らを分かつことで私たちを造ったのであるから私たち自身が神でもあるのだ。神の御心がそのまま私たちの意志になっているはずなのだが、悲しいかな私たちは何もかも忘れ果ててしまった。知っていたはずのことを否定してそのまま忘れてしまったので、今は「知らない」のと同じ事態になっている。だから私たちはいったい何を「意志」してよいかわからないでいるのである。

「コース」はここで論理的ではあるがかなりクダクダしい語り方をしている。簡単にまとめてみよう。たとえ「コース」の教えも神という概念も知らなかったとしても私たちが「完全な愛と喜びと平和」の中にあってそれを教え放射しているならば、それは「コース」の言うところの「神の御心=私たちの本来の意志を知っている」のと全く同じ状態なのである。いちいち「神の御心とは何か」を学んだりしなくても、何かの拍子にでもエゴが放下されればそのようになるのだ。

私たちが忘れてしまったものを聖霊は憶えているのだから聖霊に訊けと「コース」は言っているが、そのやり方は以前詳しく書いたとおりである。あらゆるものの中に聖霊がいる、そういうつもりであらゆる場面に対処すればよい。もっとも簡単なやり方は、いつでもどこでも誰にでも「感謝」の気持ちを抱くことである。どうしてこの人に感謝しなくてはならないの?そんな理由などなくて良いのだ。いや、むしろエゴ的な理由などないほうが良いのかもしれない。とにかく、ただ限りない感謝の気持ちを持つ、これだけだ。これならできるはずである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 83

第11章 その3

「コース」の教えを学んで幸せになりたいけれど、「どうしても感謝しなくてはならないんですかっ?」「私は間違ってないっ」などという気持ちになることもあると思う。これはつまり「聖霊の声が強制的なものに感じられる」というケースである。聖霊は私たちに何かを強制することなどありえないのだし、私たちが嫌がる或いは私たちのためにならないようなメッセージを送るはずもないのだ。それなのに「イヤだ、そんなこと」「するのが辛い」などと感じるのであれば、それはエゴの抵抗でもあり、同時にあなたじしん何が幸福で何が不幸なのかということさえわからなくなっているということでもある。更に言えば、聖霊の声=神の御心が何か「他者」のものであり、自分以外のどこかから来るものであると認識している証左だということにもなる。貴方は「自分を支配する他者」というものがいると思い込んでいるのだ。まあ、神の御心とか聖霊のメッセージなどという「言葉」もまたクセモノなのだ。ハートの思いとか魂の声とか言うほうがわかりやすいのかもしれないが、とにかくそれらはどこか宇宙のかなたからもたらされるようなものではなくて、既に自分の中にあるものだということだけ覚えておいてほしい。でないと、神の御心≠自分の意志、ということになってしまう。これは怖ろしい。神はその御心によってあなたを苦しめることもあるという考えは珍しくないが、これこそエゴの産物なのである。

神がその御心によって私たちを苦しめることはありえない。神において「苦しみ」というものは存在しない。私たちが苦しむのは神の御心を忘れてしまったからである。

ところで、エゴと聖霊を区別するにはそこに「限りない平和と喜びがあるかどうか」だと書かれていたのだが、上記のように聖霊の声が「強制的なもの、抵抗したくなるようなもの」である場合もありうるのならちょっと難しいことになりはしないか、と考える人もいるかもしれない。何しろエゴに支配された私たちは苦痛と喜びの区別がつかなくなってしまっているのだから、ああ楽しいわ嬉しいわと感じたからといって聖霊に従っているとは限らない、単に楽なほうに流されていることもありうるわけである。じじつ、こういうところでつまずいてしまう人も少なくないのだ。「いつでも絶対確実な区別方法」などというのがあるのだろうか?ないような気がする。とにかく、真面目に続けてみること!これしかないのである。そうしていれば、言葉ではうまく表せないがエゴと聖霊の区別は確かにわかるようになるはずだ。

神は生命である。神が自らに似せて私たちを造ったのなら私たちもまた生命である。眠ることはあっても死ぬことはない。神は不死であり、死ぬようなものならそもそも神ではない。従って神に似せられた私たちにも死は存在しない。

生命というと反射的に「身体」を連想してしまうかもしれない。ここがわかりにくければ単に「私たちはどこまでも存在するのであって、身体が消滅したからと言って存在しなくなることはありえない。」というふうに捉えておけばよい。ちなみに、ニーチェが死亡宣告を下したのは「偶像と化したユダヤ・キリスト教の神」であって「存在そのものである神」ではないのである。この人は、人間のエゴが作り出したニセモノの神とそれに対するニセモノの信仰を糾弾しまくっていただけだ。

とにかく、自分のマインドと別に「神の御心」なるものがある、という考え=思い込みはまったくの勘違いなのだ。全ての恐怖、全ての病はここから生じる。何か得体の知れないもの、思い通りにならないものが自分を支配し苦しめるという考えに直結するからである。上記の思い込みは、普段は私たちの意識に上ってこない。考えることさえ怖ろしい考えなので通常は意識の奥のほうに隠されているのである。そして、私たちはただ「人生はままならない、頑張っていても良くならない」などと思って過ごしているのだ。だが、こんな勘違いは真理の光にちょっと照らされただけで消えてしまうのである。

私たちは聖霊を信頼しなくてはならない。道義的な理由によってではなく、ただそれが私たちにとって絶対的な味方だからである。神の御心とは私たちに押し付けられるような何かではなく、私たちが本来持っている意志であり私たちを本当に幸せにするものなのだ。実際には「私はこう思うのだけど、これは神の御心なのだろうか」と思うような場面も珍しくないのだが、頭でアレコレ考えたってどうせエゴがのさばってしまうのだから意味がない。なぜならエゴは「究極の無知」だからである。こういうときの対処方法もいずれ出てくるのだが、とにかく恐怖や不安や罪悪感のない心で、なおかつ「自分は聖霊に従うのだ!」という強い意志を持ってしばらく過ごしてみれば自然にわかることも多いと思う。「コース」のワークブックを実践するのも効果的である。

ところで、神に苦しみとか病などというものがなく、私たちが神と同じように造られているのなら私たちにもまた苦しみや病はないはずである。別の言い方をすれば、神の御心と私たちの意志が同じならば、私たちに苦しみや病はないというふうになる。これがわかったときに癒しが起きるのだ。

さて、病とは身体のどこかが本来あるべき姿とは別の方向に向いてしまっているような状態なので、まさに「分離・分裂」が外在化したものだと言える。これを再び「完全なものにする、本来の姿に戻す」のが癒しなのであり、癒しとはまあ要するに例の「間違いを正す」ことなのだ。もちろん、「コース」は「癒されるのはマインドだけである」と言っている。身体はマインドが投影されて作り出されたものなのだから、マインドが癒されれば身体もまた癒されるのである。癒しが間違いを正すものであるならば、それは取りも直さず「思考システムを癒す」=逆転したエゴの思考システムからスピリットのそれへと変容させるということにもなる。それほどのものなのだ。だからこそ、癒しが如何に今の私たちにとって必要なものということを今一度わかっていただきたい。もっと言えばそれ以外の何ものも求めなくて良いくらいなのだ。知覚認識機能を正して直接知に至るのだってマインドが癒されない限り不可能だからだ。前に述べられていた「マインドの平和」も癒しの一種である。

「私たちは兄弟姉妹と共に神の御心の中に住まう」と「コース」にはあるが、これは「全ては一つであり、全てが神の御心から造られた」というのと同じことである。ここで「コース」は、ついにというか、「神とは宇宙である」と述べている。神それじしんが宇宙でもあるのだ、と。ここで違和感を覚える人もいるかもしれない。宇宙という言葉に何がしか科学的な響きを感じ、一方で神という語には非科学的な響きを感じてしまうなら違和感もやむなし、なのだがここで言われている宇宙はおそらく物理的宇宙の謂ではなさそうだ。

しかし、たとえあなたが物理的宇宙を思い浮かべたとしても「自分自身がその一部であって、そこから分離して存在することはできない」ということだけはわかるだろう。

「コース」は、神が私たちを創造したのであってその逆ではないという点において神≠神の子(私たち)という立場を崩さない。が、このあたりでもうしつこくしつこく書かれていることは、乱暴に言ってしまえば「私たちは神でもあるのだ」というのと同じとしか思えない。神はその一部を分かち与えて「ひとり子」である私たちを創造した、のであるが、神において一部とは全てと同じである。ならば、神は自らの全てをそのまま分かち与えて「ひとり子」を創造したとも言えるわけだ。カミサマの中のある部分が私たちの中にもある、のではなくて神が丸ごとワタシ、というようなものである。

こういうことはもちろんわかりづらいし、実感するのも難しい。が、それこそが「私たちは自らを知らずにいる、自分たちが何をしているのかもわからなくなっている」ということでもあるのだ。だからこそ「癒し」が必要とされるのである。

何を、誰を癒すかなどということは問題ではない。何故なら全ては一つだからだ。誰かを、或いは地球を癒したとしてもそれは「自分自身を」癒したのと同じことになるのだ。そういう意味で、癒しとは常に「自分自身を癒す」ものだと言える。逆に言えば、誰かを或いは何かを癒したのに自分自身は却って傷ついた、などということはありえないし、もしあったとすればそれはおそらく「魔術」であって「癒し」或いは「奇跡」ではなかった、ということになるのかもしれない。しかし、ここで「コース」は面白いことを言っている。他人に起きた癒しを見聞きしたならばその時はそれが自分自身にも起きているのだ、というふうに認識しなさいというのである。あの人、病気が治ったのよ、いいわねえ、私にも奇跡が起きないかしら、というのではなくてその奇跡を共に経験しているように思え、と言っているのだ。癒しや奇跡というのは必ずスピリットすなわち「全て一つであるようなわたくし」において起きるものである以上、あなたに起きた奇跡は私にも起きていると考えたところで何の問題もないわけだ。これは大変画期的なことではなかろうか。

   
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