(承前)自分がダメな人間、ゆるせない人間だという信念が根底にある人々がどのような現実にあいどのような経験をするか、というまた別の例です。
このような信念を持ってしまったとき、当然「だったら何とかダメじゃない人間、ゆるされる人間になろう」或いはそのヴァリエーションとして「良い人になろう」という次なる信念を抱く人々もいます。そしてそれが何ともおかしな方向に行ってしまうケースが多々あります。
すなわち、常に他人の要求に応えようとし、どんなに理不尽であろうが自分に不利益になろうが自分が望まないことであろうがそれらに従ってしまったり、頼まれてもいないのに面倒なことを引き受けてばかりいたり、いつも自分が一番損な役回りになったり、などということになるのです。
これが「犠牲者としてのあり方」につながります。自分を何らか犠牲にすることによって「ゆるされよう」としているかのごとくです。
しかし、基本的な信念が変わらない限りどんなに犠牲的な経験を積み重ねても貴方は依然として「ゆるされない」ままになってしまいます。どんなに相手の我が儘に屈して尽くしても大して感謝もされず、ひどい場合になると相手の失敗や不機嫌まであなたのせいにされてしまいます。そして、「どうしてこんなにしても報われずゆるされないんだろう?私は余程ダメな人間に違いない」などと自己否定・自己卑下という信念はますます深まり確固たるものになるばかり、という成行きになります。
なぜこんなことになるかというと、一番最初に「私はダメな人間、ゆるせない存在だ」というふうに自分のことを規定したのは他の誰でもない貴方自身だからであり、貴方自身がその規定・在り方を変えない限りどんな他者からも「ゆるされる」「認められる」という形での「解放」はもたらされるはずがないからです。
これが宗教的な信仰と合体してしまうとかなり厄介です。これらのなかには「犠牲的な行為をすればするほど救われる」と説くものもあるからです。
いずれにしろ、これらのケースの落とし穴はまず第一に上記の「勘違い」すなわち自分が勝手に思い込んだことなのに他者によって何とかしてもらえると考えている点です。これは文字通り「不可能」なこと、できない相談です。
くだらない例ですが、Aさんという人に散々な目に遭わされたのをBさんに尽くしたらすごく感謝してもらえて救われた、とその時は思えても今度はCさんからぞんざいな扱いを受ければまた「ゆるされず救われない」自分が戻ってしまうなどというケースを考えてみて下さい。結局本質的なあり方が変わらなければこういう経験はエンドレスに続くということがわかるでしょう。
第二には、「こうすればゆるされる、ダメな人間ではなくなる」と思える行動の基準が常に「その人の勝手な思い込み」から来ているということです。何故なら、そもそも初めの「自己否定・自己卑下」という信念=意識の刻印自体が原因・きっかけはどうあれその人の「勝手な思い込み」なので、それを何とかしようとする手段も当然同じようになってしまいます。
大体、他人に対して良くするということと自分を犠牲にするということとは全くイコールではないのですが、これらの人々はたいてい完全にその二つを混同しています。それ以外でもとにかく自分を痛めつけるようなことをして「自己否定・卑下」を帳消しにしようとする試みそのものが見当違いであり、それどころか逆効果だというほかありません。
潜在意識に自他の区別がないのだとすれば、「他人に良くする」=「自分に良くする」であり、「自分を犠牲にするつまりダメージを与える」=「他人にダメージを与える」ことになってしまいます。これでは自分を犠牲にしたところで実は全く「良いこと」をしていないのだから、「ダメじゃない良い人」になれる道理がありません。
ひどい人になると、認めてくれない相手に復讐するかのごとく?これでもかこれでもか、と自分を痛めつけ犠牲的な行為をするケースもあります。これは実は自分が自分に「復讐」しているのですが・・・
更に、こういうパターンは見ようによっては「徳を積んでいる」というふうに見えなくもないので敢えて改めるべきだと考えないで済んでしまっていることもあります。それどころか、犠牲者としての在り方を「変えよう・改めよう」とすること自体が「我が儘な望みなのではないか」「そんなことをしたらますますゆるされないダメ人間になるかも」と考えてしまう人もいるのです。
犠牲的な行為をすることそのものが常に「良くないこと」であるわけではありません。ここでもまた問題になるのはその根底となる「在り方」です。すなわち、根底にある信念が「否定・卑下」なのであればそこからくる行為が犠牲であれ攻撃であれ何であれ全てネガティブな本質によるものだということが重要なのです。
本質がネガティブであれば、どんなことをしようが心をどう誤魔化そうが貴方の中にはネガティブな感情が隠されているのです。やはり自分の周囲やら運命やらを自分に敵対するものとして認識してしまうでしょう。そして「私には幸せになる資格がないんだ」などと思い込むようになり、その信念がそのような世界や現実を「鏡」としてもたらすのです。
ところで、ここまでの文章を読んで「でもあの人はいつも文句ばっかり言ってるけどいろいろ恵まれていて幸せだわ。不公平じゃないの?」などと思う人もいるかもしれませんが、その人は私が述べてきたことを全くわかっていません。
いいですか。
ある人の「現実」はあくまでその人にとっての「現実」なのです。他人からみてどのように映るかということは全然関係がないのです。貴方が誰かを見て「いやな性格なのに恵まれているのよね」と感じるなら、それはその「誰か」「の現実ではなくそう感じる「貴方」の現実ということになります。ある人の信念や姿勢がその人の「現実を作る」というのはそういうことです。他人からみても明らかにわかること、つまり人間関係でトラブルばかり起こしているとかしょっちゅう具合が悪くて寝込んでいるとかそういうことばかりとは限らないのです。他人からみれば地位にも収入にも家庭にも何の問題がないように見えても、本人がどういう経験をしている(と思い込んでいる)かはまた別のことなのです。会社には敵ばかりで一時も気を抜けず、1億円の資産があっても常にお金の不安が絶えず、家族のことも信用できないなどという有様かもしれません。それでしょっちゅう批判や愚痴が絶えないのかもしれません。
つまり、同じような現象に見舞われてもそれがどういう「経験」になるか、どういう「現実」として捉えられるか、は人によって異なるのです。
ですから、これらのことを考察するときには絶対に安易に他人と比較してはいけません!特に表面的なことだけを比較するのは最悪です。もしも他人のことを参考にしたいならその人の言動からその人の「あり方」を見て下さい。そして、それに対して批判的な気持が湧いたならひょっとして自分にも同じようなところがないかどうか目を皿のようにして見て下さい。これは「鏡現象」のところでも述べたことです。
それともう一つ補足します。「私はとても敏感なので他人の悪意などをすぐ察知してしまって辛い」などと言う人が時々いますが、もしそういうことでその人がしばしば悩み苦しんでいるのだとすればそれも「私は悪意という攻撃にさらされている」という一つの姿勢・あり方に過ぎません。敏感であることには何の問題もないのであって、そこで察知した悪意なり何なりに自分なりの意味づけをして「こだわる」ということが問題なのです。
渡辺淳一氏の「鈍感力」という本を私は読んでいませんが、これはおそらくそのあたりのことを論じたものなのではないかと思います。「鈍感力」というタイトルは多分に諧謔的なのですが、「鈍感」であることと「鈍感力がある」こととは全く違うのです。つまり、周囲の気を察知しようと思えばできるのだが、それを自分に対するダメージという「現実」として受け取るかどうか、それが「姿勢」なのです。
相手がたとえ本当に悪意を発していたとしてもそれはその人にとっての「現実」であり貴方まで一緒にその現実を共有する必要はない、ということです。「私は敏感なんだから」というのは自分が好ましくない現実を経験していることの免罪符にはならないのです。
その他、自己否定や自己卑下に続く信念が「特別でありたい、特別でなくてはならない」になっている人も見かけます。これもかなり苦しい。何故ならそれらの価値や評価を与えるのは常に「他人」であり、それもあくまでその人から見た「他人」なのです。自分が少しでも「何ら特別な存在ではない」と感じる経験をすればその都度「そんな自分をゆるせない」という自己否定が強化され、ますます過剰に「特別であること」にこだわるようになります。恋愛などで相手に期待しすぎるのはたいていこのタイプです。相手から「特別だ」と認めてもらうことによって「私はダメじゃない、ゆるされる存在」になれると思い込んでいる、というかそういう信念があるわけです。また、この信念=在り方が一人の人の中で「被害者」「犠牲者」というあり方と同時に生じていることもしばしばあります。
いずれにしろ、貴方を生きづらくしているのは自分に対するネガティブな信念が刻印されているからである、ということは明らかです。さて、それらはどうして生じたのでしょうか?