奇跡のコース 用語集 初めに
この用語集は本来「教師用マニュアル」の巻末についているものなのですが、こちらのミスでガイド解説が今になってしまいました。申し訳ありません!
さて、用語集といっても「簡単に説明」なんてされてないのである。そもそも「奇跡のコース」は、基本的には「自分を救い世界を救うべくマインドを変容させるための・知覚認識を正し浄化するための実践ガイド」なのであって、学術書ではないのだ。
だから、この本の中で使われている基本的な用語も厳密に定義づけられているわけではない。神、という語でさえ人によっていろいろな使われ方をしているではないか。キリスト教に詳しい人が「コース」を読んで「聖霊はそんなものじゃない!間違っている!」と思うことだってありうる。この本の用語や内容について論争するのは各人の勝手だが、そして論じようと思えばいくらでもそうできるだろうが、それでは「コース」の目的である救いもあがないも得られないだろう。用語や考え方が正しいか、間違っているかというのもまた「そう信じたいかどうか」に過ぎないのだ。正しいかどうか証明できるまでは「コース」を学べない、というのではあまりにバカバカしい。ただ「コース」を読み、学習する際には「コース」の語の用法に従えばいいだけのことではないか。
普遍的に絶対正しい神学、などというものは存在しない。これまでも存在したためしはないし、これからも存在しないだろう。しかし、真に目覚めた人々はその文化や宗教にかかわらずたいてい同じような経験をすることになっている。同じような気づきや認識に至るようになっている。それこそが「コース」の目指すところなのである。
いくつかの基本的な用語については、テキスト篇でもワークブックでも折に触れて何度も説明はされてきているのだ。一般的な使われ方とかなり違った使われ方をしている語が「コース」には結構ある。この用語集もあくまで「〜という語をコースではこういうふうに使っています」という説明であり、通常の意味での定義づけとは微妙に違う。それどころか、場合によっては「定義できません」とハッキリ書かれているものもある。いずれにせよ、内容をより理解しやすくするための用語解説なのであって、それ以上の意味はないのだ。
たとえば、「個人の意識」「自我」などは「神から離れてバラバラになったという思い込み」つまり「原罪」「おおもとの間違い」から生じたものなのであって、そんなものについていくら学ぼうが調べようが探求しようが何にもならない。「コース」が目指すのは「間違いを正す」ことであり、それは言い換えれば間違いを間違いだと認めて「だったら要りません」にすることである。間違いから生じたものは間違いに決まっている。そんなものをいくらどうこうしたところで間違いは正されない。むしろ、強化されてしまうだろう。
「コース」を学ぼうとする人は救われてもいないし目覚めてもいないし、知覚認識機能は歪んでいるし、まあたいてい自分を「個人・人間」と思っているはずである。そうでなければ「コース」を学ぶ必要がないからだ。ゆえに、「コース」は「目覚めていない、歪んだ知覚認識機能を持っている」人を対象にして書かれている。もちろん、正しい理性を使わなければ正しく読んで理解することはできないが、基本的には「わかってない人」のための本なのだ。言葉はシンボルに過ぎない。真理は、そして愛はシンボルによっては表せない。しかし、マインドを開いて正しく理性を使って読むならば、言葉によって表された以上のことがわかる。一方で、エゴのままで読めば言葉につかまってしまう。いちいち疑問を抱き、「本当にそうなの?」と疑いを抱いてストップしてしまう。マインドが開かれるにつれて、これらの疑問や疑いや自然に解消するのである。つまり「わかる」のだ。エゴが抱くいろいろな疑問に対して「コース」は答えを与えてくれる。これは「説明を与えられる」こととは限らない。ましてや、こじつけめいたことを言ってあなたを納得させようというものでもない。「コース」が与える答えとは、「理解できなくても受け入れられなくてもとにかく学びを進めていく」ことにより、マインドが正された結果として得られるものである。つまり、「わかるようになる」状態に導いてくれるわけなのだ。一番最初の序文にもあるとおり「コース」は真理を教えるものではない。そんなことは不可能だ。その代わりに「コース」はあなたのマインドを真理に、あるいは救いやあがないに向けようとする。この点において「コース」は徹頭徹尾一貫している。つまり、どこをどう読んでも同じことだけしか書いてない、これ以上ないくらいシンプルな本なのだ。結局は「救いをもたらすためにはゆるすしかない」に尽きる。この一言だけをあなたに理解させるために膨大な言葉を用いて説明してくれているのだ。
エゴは自分が質問していることの意味さえわかっていない。それが問いとして成立しうるのか、問うとしてもどう問うべきなのか、そういうことさえわかっていない。その手の問いについては答えなどありえないのだ。ゆえに、あなたの抱く疑問について「コース」がいちいち答えてくれることはない。しかし、正しく読んでいれば必ず答えは得られる。というか、あなたは答えを見いだせる。言葉によってではなく、気づきによってである。
エゴの抱く疑問は無数にあるが、基本形は「起こるはずのないことが何に対して、どうやって起きたのでしょうか」である。時間も空間も個人も身体もみな実在しないのであれば、それらに関する問いなど無意味に決まっているではないか。
1 マインドとスピリット
マインドとは、スピリットがその創造力(エネルギー)を用いて実際に働くための主体・動作主体のようなものを意味している。神のマインドという場合には便宜的に「御心」と訳したのだが、マインドは心や意識という語ではうまく表せない。
スピリットとは、言ってみれば「神の御心から生じた考え=エネルギー」であり、神の御心が創造したもの、神の御心の一部である。これについてはもう「そうなってみなければわからない」ので、言葉で理解しようと思わないほうが良さそうだ。とにかく、「ひとつ」であるスピリットを「神のひとり子・キリスト」と言う。スピリットは一つに決まっているのだが、いまのところ私たちは「バラバラの個人」であり、それぞれのマインドがあってそこにスピリットがあるように見えている。だから、わざわざ「ひとつになる、ひとつである」という言い方をしなくてはならないのである。しかし、少なくとも「間違いを真実と思い込んだうえであれこれやる」のだけはやめなくてはならない。つまり「個人のマインド、個人の意識、自我」について云々するのは全くの無意味なのである。そんなものを延々と探っているうちは救いなどもたらされないだろう。もっとも、探っているうちに「こんなものはないんだ!」と気づければ別で、実際そういうこともあり得る。
とりあえず、今の私たちにはマインドの中にスピリットとエゴという二つの部分があるように見えているので、「コース」も便宜的にそのように書いている。実際にはエゴなど「ない」のだが、最初からそういってしまってはミもフタもない。
スピリットは、聖霊を通じて神との交流を保っている部分、神とひとつである部分だ。聖霊もスピリットも神(の御心)から生じたものだから、聖霊はスピリットのなかにある。あるいはスピリットと一緒にある。スピリットはエゴの存在(という言い方も変だが)を知らないが、聖霊にはエゴもそしてエゴがやっていることもちゃんと見えている。つまり、私たちが現実だと思い込んでいるところのいろいろな幻想を、聖霊は「幻想としてありのままに」見ているわけだ。
ところで、スピリットを「魂」と訳さなかったのは「コース」がsoulという語を敢えて用いていないからである。聖書の引用句でもない限りsoulという語がつかわれていないのは、soul=魂という語がかなり誤解を招きやすいためだ。ソウルメイトということばからもわかるように、私たちはたいてい「個人の魂」というものがあると思ってしまっている。苦しんでいる魂、救われない魂、なんて言い方も普通にされている。「コース」のいうスピリットは苦しんだり救われなかったりすることなどありえないのだ。ただ、soul=魂を「神そのもの」であり、生まれたり死んだりするものではなく永遠に不変不滅だと捉えるならば、それはスピリットと等しいものとなる。
スピリットじたいは「何もしない」のだ。少なくとも、通常私たちが考えているような意味においては「何もしない」。神もまた同様なのである。もちろん、神もスピリットも無限の力を持って創造し続けているわけだが、その「創造」という語じたい既に私たちが普段用いているような意味では用いられていないのだ。スピリットじたいは形も現象もない世界のものである。個人も人間もないところに在るものである。
マインドの中のもうひとつの部分であるエゴは、それじたいが幻想の産物であり、それゆえに次々と幻想を作り出す。何であれ、マインドが何かを作り出せるのはスピリットに神と同じく創造する力が宿っているからだ。しかし、エゴ主体になったマインドはその創造エネルギーを誤用してしまっている。神の御旨(=意志)に従っていればそれを反映したものだけが作られる(投影される)のだが、エゴ主体のマインドにおいて神の御旨=本来の自分の思い(=意志)は封じ込められてしまっている。というか、封じ込められたのと同じ状態になっている。スピリットは実在するものであり、無くなることは絶対にありえない。ゆえに、エゴが出てきたマインドというのは常に二つの方向に引き裂かれ、意志が統一されない状態となる。エゴが引っ込めば、マインドは神の御旨と同じただ一つの意志=思いだけを持った状態、統一され一貫した状態になる。完全に純粋な、混ざりものが一切ない状態であり、変化せず、程度の違いも対立概念も一切存在しない。こんなものはこの世界においてはあり得ない。何故なら、この世界は「差異・対立」によってのみ認識可能なところだからである。ゆえに、この世界で・・いや、ゆるされた本当の世界であっても、「世界」のうちに在る限り、純粋にスピリットだけで生きることなど絶対に不可能なのだ。それだけでは世界に救いをもたらすことさえできないだろう。かといって、エゴが必要というのではない。だからこそ、聖霊なのだ。聖霊の知覚認識が必要なのだ。スピリットだけでは知覚認識ができないのだ。エゴの部分や幻想の部分も見えたうえで、それらをありのままに即ち「ウソ、間違いだ」と見抜くのは聖霊の部分なのだ。スピリットと一緒にいる聖霊、それも当然私たちのマインドの中に在る。スピリットと聖霊は「ひとつ」、ワンセットなのである。ただ、聖霊は「この世ならでは」の存在というか、私たちが神から離れてしまった(と思い込んだ)からこそ必要とされてあらわれたものなのだ。
マインドは、正しいか間違っているかのどちらかである。常にどちらかの状態に在る。常にエゴか聖霊か、妄想か理性か、を選んでいるわけだ。正しいマインドなら聖霊=純粋理性に耳を傾け世界にゆるしをもたらし、キリストのヴィジョン(あるいは聖霊の知覚認識)を通じて本当の世界を見ている。ここが知覚認識の行き止り、最終段階である。これ以上のものは知覚認識によってではなく直接知られるしかない。そこにおいて時間は消失し、あらゆる幻想が消滅する。この状態は努力や学びによって得られるものではない。神によって、あるいは自然の流れとしてもたらされるものである。しかし、そこに至るまでは学びによってマインドの準備を整えなくてはならない。
一方、間違ったマインドはエゴ主体であり、次々に幻想を作り出してはそれを現実だと思い込み、あちこちに罪が見えてしまい、怒りを正当化し、「わるいこと・いけないこと=罪」や病気や死が現実のものに見える。それがいわゆる「この世界」の在り方だ。正しいマインドが見る「本当の世界」もまた、形や現象がある(ように見える)という点において、更に知覚認識によって捉えられるという点においていまだ幻想・夢の域を出てはいない。たとえあなたがどんなことでも即座にゆるせるようになったとしても、ゆるすべきものが(一瞬でも)見えるうちはまだ夢の領域にとどまっているわけだ。スピリットならば人間の姿さえ認識できないだろう。人間の姿が見えるということは既に「間違いが見えてしまっている」のに他ならないからだ。だからダメだ、と言っているのではない。ただ、この点をわかっておかないとせっかくある程度目覚めたのにそこで勘違いして舞い上がってとんでもないことになる可能性がある。何でもゆるせる正しいマインド、というのはまだ本当の「ただひとつしかないマインド」ではないのだ。つまり、神の御心やキリストの御心そのものにはなっていないのだ。純粋にスピリットだけ、という状態ではないのだ。
この世界に本当の自由はない。この世界に残されたただ一つの自由は「選択の自由」だけである。即ち、私たちは常にエゴか聖霊か、恐怖か愛か、どちらか一つを好き勝手に?選べるわけだ。ワークなどには「神の御心を選びます」みたいな書き方がしてあるのだが、実のところ神の御心や御旨を「直接選ぶ」ことなどできない。それは知覚認識できないものだからである。しかし、選んだ「結果」は即座に知覚認識される。その自分の知覚認識を見て感謝したりゆるしたり、自分の間違った選択に気づいて正しく選び直したりするわけだ。ゆえに、神の御心を選び、神の御心に従うとすればそれは「聖霊を通して」でしかない。聖霊を介さずに、というのは直接知に他ならないのだが、直接知の段階になればもう知覚認識はできない。ゆるしさえ超えてしまった状態なのだ。このあたり、厳密に言えばそうなるというだけのことであって、普段は「神の御心に従います」「神の御心のままに過ごします」と思っていて構わない。
ところで、一般的によく使われている「意識」という語は「受容する」イメージである。聖霊であれ、エゴであれメッセージを受けとり、受け入れたり拒絶したりするところが「意識」なのである。そして、みなさんよく御存じのように、意識には「潜在意識」「無意識」「顕在意識」「集合無意識」などいろいろな層がある(とされている)が、どの層もそれぞぞれのレベルで知覚認識をおこなっているのであり、知覚認識の域を超えることはできないのだ。もっとも高度な意識なら「本当の世界」を受容できるだろう。そうなるべく意識を訓練づけることもできるだろう。が、このようにいくつかの層があり、訓練次第でいくらでも変容することができ、そして知覚認識の域にとどまっているという点において「意識」はやっぱりスピリットではないのだとわかる。「意識」は、神から離れてバラバラになったマインドにのみ生じたものだとわかる。つまり、どんな「意識」であれ、直接知に至ることはできないのである。