碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 30
第4章 その8
ただ在るものも実存も「存在そのもの」に依拠している。当たり前だ。存在に依拠しないものは「ない」=無だからだ。これに対してエゴは存在に依拠しないで存在できると思い込んでしまっているという点でまあ「ない」ようなもんなのである。
さて、「コース」によれば伝達=コミュニケーションと創造とは同義語なのである。何やら神性、つまり神のマインド=御心が捨象されて伝達されたものが私たちのマインドなのだ。同じことを私たちのスピリットも行うことができるのだが、それにはマインドが実存を超えて、つまり時空を超えて「ただ在るもの」になっていなくてはならない。ここで「ただ在るもの」をスピリットだ、と言っていないことに留意したい。
認識も表現もできないものを無理やり言葉で表現しているような記述は続く。できるだけ「具体的に」書き直してみよう。
実存的自己あるいは個別の現象としての自己にとって現実とは「私の現実」「あなたの現実」「100年前に生きていた誰かの現実」のように個別のものである。これはわかりますね。しかし、私たちは本来、時空を超えて常に今ここに存在する「ただ在るもの」「神と一つであるもの」なのだった。その「ただ在るもの」が、いまここにこうして居る「わたし」「あなた」において現象しているのである。100年前の、あるいは1000年前の別にあなたの過去世ではない誰かにおいても同様に現象していたのである。言い換えれば、一つであるところの「全て」が、全てを知るところの完璧な存在が、その都度今ここで「碧海ユリカ」などというものにおいて、また同時に全ての個体において現象しているのだ。にもかかわらず本質としての、絶対的一人称としてのわたくし、つまり「ただ在るもの」は常に神と一体であり時空を超えている。
これこそが私たちの本当の現実なのである。分かりましたでしょうか?だから現実は抽象的だ、と言ったのである。しかしある一線を越えてしまえば、むしろこういうものに対して現実感を覚えるほうが普通になる。さあ、ここで死ぬほど考えていただければエゴが消えて認識の果てに出られるかもしれませんよ。そうでない方は「わからなくても受け容れられなくても前に進め」である。
とにかく、この状況においてこそあらゆる「真実なるもの」との真のコミュニケーションが可能となる。「コース」はそれこそが創造というものだと言っているのだ。
さて、啓示とは神から私たちのマインドへの真の意志伝達であるが当然のことながら一方向的なものだ。なぜなら、今更改めて私たちが神に対して自らを顕現させる必要など全くないからである。また、啓示は前述されているように非常に個人的な直接経験なのでその内容を人にそのまま伝えることは不可能だ。しかし、啓示によって得られたもの=「私たちはエゴではない」ということを何らかの形で示すことはできる。神から私たちへの意志伝達が啓示なら、私たちのほうから神に対して何ができるのか?という問いに対する答えがこれなのだ。
非常に皮肉で逆説的なのだが、神とか本来の状態などといったもっとも普遍的なことを知るのは常に私たちのもっとも個人的な体験によって、私たち個々のマインドにおいてのみ可能なのだ。何故こういうことになるかと言えば、啓示される内容が具体的ではなく知覚・認識作用による伝達が不可能なものだからである。「皆さん、集まってください。大切な話があります」などということはできないのだ。会衆のうちの何人かが同時に啓示を受けることならあるが、その場合でも個々人の啓示の中身は異なっている。
「神をほめたたえよ」・・なるほど神は賛美されるべき存在ではあるが、神自身は別に私たちから「ああ神さま、貴方は何とスバラシイのでしょう」と言われることなど全く必要としていないし、そんなことされても認識できない。あらまあ、確かにそうである。いくらホサナと叫んでもダメだったのだ。真の意味で神を賛美したければ、私たちが真に兄弟姉妹の助けになるようなマインドになることだ。エゴなき姿を示すような、即ち神に造られたとおりの在り方で在ることだ。
第5章 その1
真に助けになるようなマインドが具体的にできることの一つが「癒し」である。癒しとは簡単に言えば「幸せにすること」であり、祝福であり、壊れたり痛んだりしたマインドを本来の状態に向けて修復するものである。そこには聖霊の力が必要とされるので、この章の多くが聖霊についての記述となっている。
誠心誠意・心をこめて・一心にという状態にある時私たちは幸せなはずなのだ。なぜならこういう状態のとき恐怖はなくなっているからである。たまに「恐怖のあまり我を忘れて」頑張ってしまうこともあるかもしれないが、その時は我も恐怖も同時に忘れているはずである。
原文ではここにwholeheartedlyという言葉が使われている。神と一つのマインドにはなっていないまでも、エゴが影をひそめてマインド全てが同じ方向に統一され、即ち統合されている状態を示している。
特定の誰かから誰かに対して行われたとしても、癒しは同時に全然関係ない他の人にも作用をもたらす。どこかで誰かが慈悲深い思いを抱けば私たちにもその祝福は届けられているのだ。
癒す者の祈りとして「私が私自身を知るのと同じように、この兄弟のことを私に知らしめたまえ」という章句が書かれている。
さて、前にもちょっと書いたがここで初めて「コース」の語りとして「全てのものは思考・・考えである」という事実が明らかにされる。癒しもまた一つの「考え」であり、私も貴方も聖霊も全てが「考え」なのである。もう少し先に出てくるのだが、神でさえ「考え」なのだ。この「考え」とは「思い」でも「思想」でもないのだが、これがうまく理解できない方は「考え」をエネルギーや波動という言葉に置き換えてみればよい。あるいはイデーと言っても良い。ちなみに「引き寄せ」の原理もこれなのである。
物質は与えてしまえば手元から無くなり、分配すれば自分の手持ちはそれだけ減る。私たちはそのように認識している。しかし、考えは良いものも悪いものも分配することによって増大あるいは強化されるのである。基本的には、いわゆる「考えを広める」というのと同じことだ。スピリチュアルであれ、レジ袋廃止運動であれ、テロ思想であれ、私たちがそれを伝えた人が賛同してくれればそれら「考え」はその分だけ広がり強化されたことになる。ちなみに、私たちの「世界」というのも一つの考えなのである。この世界が確固たる実在だという考えを皆が信じているからこそ、世界はそのようにあるということだ。更に言えば、神だって「考え」であるところの自らを分配してやはり「考え」である私たちを創造したのである。
全てのものが考えであるのなら、当然「物質」と思われているものも実は「考え」なのだとわかる。となれば、物質を分け与えても本当は私たちから失われるものは何もない、ということになる。イエスキリストがパンと魚を割いて5千人に分け与えたのにまだ手元に残った、という奇跡を思い出して欲しい。これは非常に象徴的な話だったのである。
「考えは分配すれば強化される」というこの原理が聖霊を呼び込むための基礎を作るそうなので、しっかり理解してほしい。いくら聖霊が私たちのスピリットに宿っていても、私たちが望み、或いは同意しない限り聖霊の声は聞こえないし、キリストも私たちに聖霊を送ることはできないのである。「コース」は、この原理を次のような言葉で表現している。
「考えは、分配し分け与えることによって増大する。より多くの人が信じれば信じるだけその考えは強化される。あらゆるものは考えである。だったら、与えることがどうして失うことになるだろうか?」
聖霊は、癒し、慰め、導きを与えるものである。しかし聖霊は、直接知ができない私たちでも認識できるようにわかりやすい形に姿を変えて現れるという、まあ言ってみれば象徴的な役割を持っているので却って難しいこともある。象徴するものと象徴されるものは当然別物なので、いかようにも解釈できてしまうからだ。聖餐式の赤ワインはキリストの血の象徴だが、まさかこの赤ワインが本物のキリストの血であるわけもない。白い鳩は平和の象徴とされているが、別に白い鳩が平和それ自体なのではないわけだから人によっては白い鳩を見て「悲しい恋の思い出」をイメージしてしまうかもしれない。
復活したキリストもまた聖霊なのだが、キリストは自分が去ってしまっても他の聖霊を私たちに送ってくれると約束したのだ。それらはいつでも私たちの招きに応じて現れてくれることになっている。驚くかもしれないが、私たち自身が誰かに対して、或いは誰かが私たちに対して「聖霊」が顕現されたものとしての役割を果たすこともあるのだ。なぜなら、三位一体により聖霊と私たちとは本来ひとつのものだからである。
碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 31
第5章 その2
聖霊は、私たち全てのものに共通して宿る普遍的な霊感(inspiration)であり、同時に神の中にもあるものだ。更に聖霊は、認識が直接知に至るための橋渡しをしてくれるという役割も持っている。聖霊はスピリットに宿り、スピリットによる認識は限りなく直接知に近いものだからである。認識と直接知は質的に異なるので、連続しているわけではないがあるところまで来ればひとっ飛びなのである。非連続の連続、というべきようなものなのだ。
私たちに救いをもたらすための「あがない」も聖霊の力を借りて為されるものだった。ここでは、聖霊が私たちのスピリットと神との橋渡しをしてくれる。
さて、聖霊による癒しとはいかなるものであろうか?聖霊は、私たちに癒しなど必要なかった頃の姿を、また既に癒されたところの姿を見るのである。ここに時間があまり作用しないことは既に「奇跡」のところで見た。私たちの側では、エゴなど分離の産物を手放すことによって、神から分離してしまった状態を癒そうという決断をしなくてはならない。これにはそうしたいという意志が必要なのだが、神の御心に沿っているはずのこの意志は私たちの中に眠ったままのことはあってもなくなることはない。神は創造し続けている。神は絶えずその御心というか「考え」を私たちに送り続けている、すなわち創造し続けているからである。
聖霊は、私たちのマインドに喜びをもたらす呼び声、本来の住処に帰っていらっしゃいという呼び声でもある。つくづく、分離以前には呼び声なんて必要なかったのだ。
いや、考えてみると三位一体の神ということ自体が分離以前にはありえなかったのだ。私たちが自らを救われない状態に陥らせなければ、私たちを導くキリストも聖霊も私たちと同様に神とともにとどまっていただろうからである。
「コース」はここで少々寓話的な語り方をしている。即ち、私たちが神から分離してしまったと(思ったのと)同時に、そこから私たちを救うための聖霊を送り込んでくれたと言っている。これではまるで聖霊が私たちとは別の何かのように感じられるかもしれないが、あくまで一つのものである。一つのものの別の位相だと考えればよいと思う。
しかし、悲しいかな聖霊の呼び声はたいていエゴの声にかき消されてしまっている。というより、私たちがどちらの声を聴くか自分で選ばなくてはならないのだ。これには強い意志とやる気が必要だが、そうすればこの地上でさえ聖霊の声だけを聴いて生きていくこともできるのである。これは、人間でもあった頃のキリストが最後に学んだことであるらしい。
もともとの光を自らの闇で見えなくしてしまった私たちに新たな光をもたらしてくれるのも聖霊である。
ところで、聖霊はガイド=導き手であるのだが、神は導きなどしない。導きは神のものではないのである。だから、導きがほしければキリストに頼むしかない。そうすれば必要に応じて聖霊を呼び出してくれるだろうからである。つまり、私たちの中にある聖霊を、今の私たちにわかる形で顕してくれる、ということだ。
導くというのは常に選択や判断を伴う。正しい道と間違った道があればもちろん正しい道に導くわけだが、間違った道がありうるという点で既にこの世のものである。更に対立物がなければ選択はありえないので、選択もまたこの世のものである。ゆえに、導きは神のものではないのだ。
言うまでもないことだが、聖霊の選択は常に神の御心に沿ったものである。しかし、これも悲しいかな私たちはしょっちゅうエゴを自分たちのガイドにしてしまっている。ガイドというより道連れか。それも地獄へ道連れ、という感じである。
神は私たちの中にいる、という人もあるのだが「コース」はここで明白に「神は私たちの中にはいない」と語っている。そうではなくて私たちのほうが神の中にいるのであり神の一部なのだ。これも悲しいかな、私たちはそのことを忘れ去ってしまったので、もはや神との直接交流は不可能になった。神と私たちが断絶したからではなく、直接交流の手段がなくなってしまったのである。聖霊は、神と私たちとの間の伝令みたいな役割も担っている。もちろん、それにはまず私たちがエゴの声ではなく聖霊の声を選ばなくてはならないのだ。
聖霊の声は私たちに何かを命令したり要求したり、あるいは私たちを打ちのめすようなものではない。それは私たちが本来どのようであったかをただ思い出させるだけなのだ。
聖霊を介した神との交感は私たちの内なる祭壇においてなされるのだが、スピリットでもあるこの祭壇の用意を整えるためには私たちがそこに愛なり情熱なりエネルギーなりを注がなくてはならないのである。聖餐式のために祭壇を整えることを「祭壇奉仕」と言うのだが、私たちは一体どんな祭壇に奉仕しているのだろうか?自分にとって「より良い」と思われるほうにエネルギーを注いでいるに違いない。要するにここでも「エゴか、聖霊か」ということなのだ。具体的に言えば、自分を守るかシェアするかということになる。
毎度のことながら、私たちは神の御旨に沿った選択をするのが良いのだし、どうしてよいか分からないときはキリストに聴けと「コース」は言う。何故神の御旨に沿うのが良いのかといえば、それが私たちを造っているものであり私たち本来の、つまり自らを完全なものだとするような意志と限りなく同じものだから、平たく言えば「もっとも自然」だからである。
「意志」の問題はもっと後で詳しく扱われるのだが、私たちは神の御心・御旨と自分の意志が同一になったときがもっとも自由なのだということだけ覚えておいてほしい。神の御旨に従うのを不自由と感じるならその時あなたはエゴになっている。なお、神の御旨に沿って決めるというのをわかりやすく言い換えると「インスピレーションに従う」となる。これなら、なるほどと感じられると思う。
常にこのような選択をすると決めなさい、そしてその決心そのものも兄弟姉妹に分け与えて広めなさい。キリストはそうも言っている。
スピリチュアル系でも「内なるガイド」という言葉を使うことがあるが、聖霊とほぼ同じものだろうと思う。私たちのスピリットには神の御心と同じマインドである聖霊が宿っているのだから常にそれを頼りにしていればよいのだし、どうしてもそれを見失ってしまったのならキリストに頼んで呼び出して(といっても自分の中にいるのだが)もらえばよいのである。でも、どうやって?それがこの「決心」なのである。とにかくまず心を決めるのだ。エゴではなくスピリットに、聖霊にあるいは神の御心に従おう、とまず決めるのだ。何か大きな判断で迷ったらまず「決心」をし、一旦それを忘れて身近なことでも何でも良いから、たとえばデータ入力でも食器洗いでも雑巾がけでも何でもよいから心をこめて一心不乱にやっていればエゴは消える。どうなるのかしら、ああなったらどうしよう、何もなかったらどうしよう、いつわかるのかしらなどと考えてしまったらその時貴方はエゴとともにいるわけで聖霊の声など絶対に聞こえなくなってしまう。むかし、どこかの横綱が「一意専心」とか言っていたがこれこそ「wholeheartedly」であり「integrated mind」なのである。
どのように動いたらよいのかなどと考える必要はない。前にも出てきたことだが、私たちが責任を持って決められるのは「考え」の部分だけなのである。行動はその結果もたらされたものに過ぎない。
聖霊の声を聴く、というのを目標にするのはよいのだが、私たちはどうしてもエゴ的な考えによって何でもやりたがる癖を持っているのが厄介だ。とにかくこれに関しては「時間」を忘れて取り組むことがとても大切なので注意していただきたい。
それに第一「聖霊の声」というのは別に何か「お告げ」がどこかから聞こえてくるようなものとは限らないのだ。どちらかというと「お告げ」みたいな形では来ないほうが多いと考えてよい。その都度、常識的な意味では根拠が無いにもかかわらず確信を持って神の御心に沿った正しい選択ができたならそれが「聖霊の声を聴いた」つまり「インスピレーションに従った」ことになるのである。
「目覚めよ」という呼び声は聖霊からくるものだ。私たちは眠り込んで自ら作り上げた悪夢を見ているから苦しいのである。安息は、眠りでなく目覚めている状態で得られるものなのだ。