6 癒しは確実なのか?
当たり前ですね。少なくとも「コース」の言っている真の癒しはいつだって絶対確実なものである。真実に出会えば幻想は消え失せるのが当たり前だからだ。なのに何故「結果が出ない」場合が、つまり現象に変化が見られない場合があるのだろうか?
これは2つに分類できる。一つは「正しく癒しがもたらされたにもかかわらず、結果が現象として現れない」ケース、もう一つは「そもそも正しい癒しが為されなかったために当然結果も出なかった」というケースである。
まず初めのケースについて考えてみよう。神に遣わされた教師が相手を完全なもの、つまり聖霊或いは神のひとり子だと見ることによって自分自身及び病人のマインドの中の間違いを正す、これが癒しなのだった。聖霊の眼から見れば既に間違いは正されている。自分自身においてゆるされあがなわれれば、あらゆるものがゆるされあがなわれる、何故ならここにおいてはあらゆるものが神において一つだから。これが癒しの本義なのだった。神の御心から派生するものは与えれば与えられる、与えたものは必ず受け取られるのだ。しかし、受け取った本人がそのことに気付かない場合もあるのである。受け取ったけど受け入れられない、自分あての宅配便が届いたけどそれに気づかず放置するとか気づいても「なんか怪しいものじゃないか」と恐れて開封しない、とかそんな感じである。
あるいは、テキスト篇にも出てきたが目覚めがあまりにも突然だとショックのあまりおかしくなってしまう危険がある。病人は今までずっと「神から離れてバラバラの自分」を信じて、その「神とも他の誰とも違うこの自分」の維持こそが「生きること」だと信じてきたのである。いきなりその「生きる意味」が実は嘘っぱちだったとされてしまったら、それが奪われてしまったらどうだろう?もちろん、それよりもっと素晴らしい価値や意味が代わりにもたらされるのでもあるが、その前に「今までの意味や価値を奪われる恐怖」があまりに強すぎると癒しは救いではなく脅威になってしまう。何故ならそれは今までの自分を殺すようなものだからだ。ここで無理やり癒しを受け入れさせると病人は本当に混乱して自滅行為に及ぶことさえある。ゆえに、癒しがすぐに受け入れられず結果が出ないのはある意味「安全のため」なのである。
いくら本人が「治りたい、癒されたい」と願い望んでいる「つもり」であっても本当にそうだとは限らないのだ。間違いや幻想を維持しつ病気や症状だけを「真の癒し」によって治すというのは無理な相談なのである。病人自身のこころの準備が十分に整うまで癒しの現象面での効果は留め置かれる。準備が整うのはいつなのか、現象面に反映されるのはいつなのか、それは教師にもわからない。何故ならこういう「神の御わざ」の前では「時間」など全く無意味だからである。従って、たとえいくら「時間が経過」したように見えても癒しの効果は全く薄れないのだ。神(の御心)は創造し続けているのであり、尽きることがない。治るまで定期的に通って施術を受けましょう、投薬しましょう、というのとはここが根本的に違うのだ。
癒しをもたらそうとしたけどダメだった。そのように見えたとしてもそこであなたが与えたものは確実に受け取られ、それによってあなたもますます多くを与えられたのだ。与えればそれだけ増える、豊富になるのが神の法則である。与えたけど結果が出なかったから無駄に終わった、ということは絶対にありえない。これが「この世的な治療」との大きな違いである。
だから、神から遣わされた教師は癒しが現象面においてどんな結果をもたらすかについては全く心配する必要がない。というより心配したり不安に思ったりしては「ならない」のである。これ、本当に効くかしら、癒しはもたらされるのかしら、と不安や疑いの気持ちを抱いていたら癒しは絶対にもたらされない!それ以前に彼らは与えることさえ十分にできないだろう。
というわけで、これが「そもそも正しい癒しがなされない」場合なのである。与えなければ与えられないのだ。与えれば与えるほどますます豊富になるのは神(の御心)から生まれたものだけであり、それらを与えている時私たちは「あらゆるものと神において一つ」になっている。しかし、不安や疑いがあるうちはその「ひとつ」の状態になれないのだ。だから十分に与えられない。癒しの結果を期待しながら、エゴたる自分の思い通りのことが起こるのを期待しながら与える、というのではダメなのだ。あなたはそこに予め条件をつけることで制限を設けてしまった。これは明らかに「尽きることのない無限さ」という神の御心ではないものである。癒しがもたらされるための基本条件から外れてしまうのだ。
たとえば、恋愛などで「相手が自分の気持ちに応えてくれるなら、うまくいくならもうちょっと好きになってもいいかな、もうちょっと優しくしてもいいかな」みたいなことは良くあるが、癒しはこういう駆け引きとは全く無縁のものなのだ。ちょっと考えてみればわかると思うが、結果が出るかどうかを心配しつつあーだこーだとやり続けるのは大変不自由な状態ではないか。マインドは文字通り閉じてしまい、あなたは「自分の期待通りのことが起きるかどうか」という思いにとらわれてしまう。言い換えれば不安や疑いに囚われてしまうのだ。
「神においてひとつ」になっていれば他者が一切存在しないのだから疑いもありえない。疑い不安を抱くことのできる「自分」つまり「神から離れてバラバラの自分」を捨て去っていないと癒しはもたらされないだろう。つまり「必ず癒しはもたらされるのだ」と完全に信頼した状態になければならないのである。「教師のもつ特性」の項で述べられていたように「信頼」は本当に重要なのだ。与えれば受け取られますます与えられて豊富になるのだ、と全面的に信頼していなければ本当の意味で与え合うことなどできない。「コース」のいうシェア(分かち合い)とは、シェアすることによってそれぞれの持ち分が減るどころかますます増えるようなことなのだ。
神から遣わされた教師の役割は「癒しのもたらす結果を気に掛ける」ことではなくて「ただ与える」ことである。神の御心による賜物は実体のない何かではなく、確実に現象面で結果をもたらすだけの実在性を持っている。ゆえに、正しく与えられれば現象面にその結果が反映されないわけがないのである。即座に、かどうかわからないだけだ。
基本に立ち返って考えてみよう。癒しをもたらすのは「あなた」や「わたし」ではなく「聖霊」である。そして聖霊はあらゆる人の中にあって一つのものである。やや正確さを欠くがわかりやすく言えば「わたしの中の聖霊」が「あなたの中の聖霊」に神の御心による賜物を与えているのである。相手にないものを与えている、のではなく既にあるものを更に豊富にするために与え合っているのだ。そして、それによって病人のマインドに光が灯されるのだ。間違いが正され光が灯されたことにあなたが気づいても、当の病人はまだそれを受け入れられないかもしれない。が、必ず結果は現れるのだと心から信頼しよう。これを信頼しないのは「絶対普遍」の神(の御心)を信頼しないのと同じなので、そうすると癒しがもたらされなくなってしまう。
神(の御心)は無限に豊富であり、何一つ欠けることのないものだ。私たちは自分においてそれらを与えることによってますます豊富になる、ますます豊富になることによって完全である、それが神から受け継いだ「創造力」なのだ。
7 癒しは何度も繰り返しやるようなものなのか
これは大いに気になるところだと思う。癒しをもたらそうとしてみたのに何も起こらなかったという経験を持つ人は少なくないはずだ。じゃあ、癒しがもたらされるまで何度もしなくちゃならないのか?一度では治らないから何度か通院して下さいね、みたいなことなのだろうか?
真の癒しならそんなことはあり得ない。一度やれば完全な癒しがもたらされるはずであって、癒されたものをまた癒すなんてことは文字通り「ありえない」。真の癒しは繰り返しやるようなものではない。良い悪いの問題ではなく、ただ「そんなことやりようがないでしょ」ということなのだ。
ここでも前回と同様、二つのケースが考えられる。一つ目は「真の癒しがもたらされたが、現象面では明らかな結果が出ていない」場合、これは病人自身にその準備が整うにつれて現象面でも効果が出てくるので繰り返す必要はない。二つ目は「そもそも癒しをもたらすことに失敗した場合」であって、これは癒しがなかったわけだから繰り返すも何もない、次回以降が「初めて」ということになる。従ってどちらの場合も「繰り返しやるものではない」わけだ。
真の癒しとは文字通りの奇跡である。神から遣わされた教師は奇跡を働く者、奇跡の担い手でもあるのだ。もちろん、個人としての彼らが自らの力で奇跡をおこなうのではない。神のひとり子としての部分、つまり個人を捨て去ったところにある聖霊の部分が奇跡をおこなうのである。神から遣わされた教師は完全な信頼を持って「個としての自分」を捨て去り、聖霊に全てを委ねることができる。だからこそ「神から遣わされた教師」なのである。
しかし、やっぱり自分のしたことがうまく行ったかどうか気になるのが人情である。そしてこういう人情とはたいていエゴのものなのだ。うまく行っただろうか、どうして結果が出ないんだろうか、いつ良くなるんだろうか。そんな心配や気がかりに囚われてしまった「教師」はもはや神から遣わされた教師ではなくなっている。彼(女)は既に自分こそが癒しを必要とする「病人」にまで堕ちている。神に対する信頼を欠き、ゆえに神(の御心)による賜物の恩恵を受けられなくなってしまったのだ。
神から遣わされた教師は自分の身体を単なるツールとして、しかし神の御心を与え合うツールとして用いる。自分の身体は神の道具なのだ。そのような姿勢でいれば彼(女)は自らを癒しのためのチャネルにできるのだし、癒しは必ず成功するだろう。そこには何も邪魔するものがないからだ。言い換えれば、エゴとしての自分がないからだ。
もしも本当に聖霊に・・・つまり絶対に失敗するはずのない、絶対的に頼れる大いなる存在に全てを委ねていれば何も心配ないではないか。
癒しがもたらされるその時、病人の心身にどういう変化が起こるかは別として神から遣わされた教師はこの上ない感謝と喜びと平和など、つまりは愛に満たされるはずである。神において一つ。あるいは神の御心と一つになった状態である。変な話、病人のほうに変化がなくても自分自身はますます元気いっぱいになってしまったりするのである。与えれば与えられる、あたえたものはますます豊かになって受け取られるからである。この状態になったかどうか、これは「真の癒しがもたらされたかどうか」を確認する目安になると思う。
せっかくここまでうまくできたのに結果を気にして不安になったりすれば、愛はいっぺんに失われてしまう。不安とは恐怖であり、恐怖は憎しみを生じさせるのだった。見事に「神から離れてバラバラ状態」に逆戻りである。
言うまでもないことだが、奇跡の担い手である神から遣わされた教師は自分自身がまずゆるしとあがないを受け入れているべきなのだ。ゆるされあがなわれ、神において一つである神のひとり子なのだと心底信じ、その事実に信頼をおいていなくてはならないのである。まず自分において神からの賜物を受け取り、かつ受け入れること。本当に受け入れていればそれだけで十分なのだ。わざわざそれを「与えよう」なんて思わなくても、神からの賜物はその性質上自動的に与え合いますます豊かになるようになっているからだ。自分において受け入れればそれは「あらゆる人において受け入れた」のと同じことになる。何故ならこの「神からの賜物を受け入れる自分」とは「個としてのワタシ」なんかではなくて「神のひとり子たる、神においてあらゆるものと一つであるところの私」だからだ。言い換えれば、エゴが消えた状態でなくては神からの賜物を受け入れることなんかできないのだ。そしてエゴが消えた状態だからこそ聖霊が十全に働くことができる、それによって癒しも奇跡ももたらされるのだ。
神からの賜物はやはりその性質上「消える・減る」などということは一切ありえない。また、それは与えられる一方であって取り上げられるようなこともありえない。取り上げられたように感じるとしたらそれはあなたがエゴに転んだだけなのだ。つまりあなたが間違いを犯してしまっただけなのだ。不安や疑いや無力感を覚えたときはいつも「間違っている、幻想の中にいる」に決まっている。そうとわかればすぐに正すことができる。
癒しがうまく行ったのかしら、あの人の具合はどうかしら、まだ症状が消えてないのね、どうしよう、気になるわ。これってちょっと見には愛情のようだが、愛と不安は相いれないことを思い出していただきたい。これは愛のように見えて単なる「神や聖霊に対する信頼の欠如」に過ぎないのだ。愛の対極は恐怖であり、恐怖は憎しみや攻撃につながる。ゆえに、病人の症状があまり変わらないように見えるからといってそれを気にかけ心配し続けるのは一種の憎しみと攻撃・・・神と、神のひとり子であるはずの自分に対する憎しみと攻撃・・・なのである。
もちろん神や聖霊の完全性や絶対性は信じているけど、それを自分がちゃんと受け入れられたかどうか不安なの、という人もいるだろうが、上述したようにその瞬間あなたが愛や感謝や平和や喜びに満たされていればちゃんと受け入れられていたのである。しかし、その後あなたは転んでしまったのだ。
そもそも「不安になる」「疑いを抱く」ことができるのはエゴしかいないではないか。神のひとり子たる本来の自己だったら不安も疑いもあり得ないではないか。疑いや不安を抱くならあなたはエゴに支配されてしまったのだ。常に変わらず完全に信頼しているからこそ、そしてその信頼の対象が絶対的に信頼に足るものだからこそ、神から遣わされた教師による癒しは確実なものになるのだ。癒すのは「この自分」ではない。この自分を通して絶対普遍の力が働くのだ。その時、個としての自分は消え失せている。
こういう不安や疑いの気持ちもいろいろ分類することができる。自分には力がないんじゃないかという恐怖、失敗して非難されたらどうしよう=傷つくことに対する恐怖、失敗して恥をかくことに対する恐怖、そもそも自分には適性がないんじゃないかという恐怖、うまくできなかったら申し訳ないという罪悪感、これはちょっと見には謙虚な姿勢のようだがやっぱり「神と神の御心を否定している」という点において傲慢なのである。しかしこんな分類には何の意味もない。これらは全て「間違い」だという点において全く同じものだからである。従ってどれも全く同じように正当化できないのだ。だいいち、ここに挙げたものはどれも病人のことなんか気遣っていない、気になるのは自分自身のことばかりではないか。普通に考えてもこれって完全にエゴですよね。
こういう間違いに陥っているとき、私たちは神と自分と病人をそれぞれ別のものとみなししてしまっている。自分も病人も神のひとり子だと認識しそこなってしまったのだ。つまり、本当の自己を見失い自分を偽ってしまったことになる。本当のあなたは神によって創造された神のひとり子なのだが、そのことを忘れてしまったのだ。
疑う、とは簡単に言えば「イエスかノーかわからない」ことであって「コース」流に言えば「イエスとノーを同時に求めてしまっている」状態でもある。あなたはいったいどちらを求めているのか?成功したい、でも失敗したらどうしよう。そう思う時あなたは成功と失敗を同時に求めてしまっているのである。ただ一つの方向にだけ目的を定めれば疑うことなど不可能になる。癒しがもたらされることだけを求めるならそこに疑いは生じえない。余計なことを考えずただ癒しだけに集中していれば疑いは生じえない。というより、そこには疑うことのできる「この自分=エゴ」が存在していないのだ。
8 どうしたら難易度を知覚認識しないでいられるのか?
難易度とは要するに「程度の違い」である。神から離れてバラバラである状態を維持するために作り出されたこの世は「違い=差異」がなければ成立しない。これはちょっと考えてもわかることだ。景色の違い、昼と夜の違い、色の違い、光のコントラスト、音のコントラスト、匂いや形状や大きさの違い、それらを知覚認識しなければ私たちは一日だって生活できない。今が何時かもわからず、AさんとBさんの区別も100円玉と1円玉の区別もつかない、テレビやラジオの音声もわからない、触っても形がわからず大きさもわからない、そんな生活が想像できるだろうか?
従ってこの世においては「より大きいもの、より優ったもの、より美しいもの」などという比較が不可欠かつ不可避になる。知覚認識は比較と切っても切り離せないのだ。しかし、比較には厄介な問題がつきまとう。あれとこれとどっちがいいか決められないとか自分は誰かより劣っているのではないか、など心の平和を乱すような羽目に陥ることが多いからだ。身体の知覚器官によって認識している限り平和は得られないし本質も理解できない。その知覚認識はことごとく差異に基づくものであり、差異こそ「神から離れたバラバラの状態」を現実化しておくための幻想に他ならないのだ。あらゆるものが神においてひとつならばそこに差異などあるわけもない。
神から離れてバラバラである個としての自分、とその集合体から成る世界を現実のものにしておくために私たちはいろいろな機能や仕掛けを作り出してきた。自分や世界を維持するために良くも悪くもより重要だと思われるものは、より「現実らしく」感じられる。たとえばこの身体である。
幻想とは「実際にはウソであるものを本当だと思おうとする試み」である。本当=現実であってほしい、そうでなくては困ると思えば思うほどそれは強固な幻想になる。幻想の中で作り上げられたものは変化を免れず永続しない。ゆえに、このような作り上げるという機能は神による創造のパロディみたいなものであって、真の創造ではない。神によって造られたものなら決して変わることなく永続するはずだからだ。
神において一つである本来の状態=真理のほうがずっと良いと思うそうなものなのだが、それはエゴに支配された私たちにとって存在の根底を揺るがすような、つまり今までは確実なものに見えた世界を覆すような脅威になってしまったのだ。真理がなぜ脅威になったのか、その真の理由なんか私たちはとっくに忘れているのだが、とにかく「恐ろしい」ものからは目を逸らしたい。目を逸らしているために、「なかったこと」にするために私たちはその都度更なる幻想を作ってそこに逃げ込むのである。病気になったりするのもその一例だ。そうすれば「神ならぬ、無力な1個人」であるという思い込みがより現実らしくなる。真実=本当の現実よりも幻想のほうがより現実らしく感じられるなら、幻想の「勝ち」のようだが、この勝利もまた幻想なのだった。
とにかく、こういう幻想の世界の中では「わたし」と「あなた」は異なる身体と異なる人生を持った別々の存在であり、別々の利害を持ち、一方が得れば他方は失うようになるのである。
目の前をちょっと見回しただけでも、あるいは目を閉じて触っただけでも良い、形であれ色であれ重さであれあなたはあらゆる「差異」を知覚認識するだろう。しかし、これら「差異」はあなたの周囲に実在しているのではない。それ以前にまずあなたのマインドの中に「差異というものがある」という信念があり、それに従ってあなたが判断した結果なのである。知覚器官が認識するのに先立ってマインドが判断を下している、逆に言えば私たちは自分のマインドが判断したとおりに知覚認識しているのだった。更にその知覚認識されたものについてマインドは意味づけをする。これについてはテキスト篇にも何回か出てきたのでおわかりになると思うが、要するに何かを何かだとして知覚認識し、更に意味を付与し価値判断を行うのはマインドなのであって、その「何か」に予め意味や価値があるわけではないのだ。つまり、マインドが働かない限り目の前に札束があろうが馬鹿でかいダイヤモンドが転がっていようが意味も価値もないわけだし、目の前で火事が起きていてもその意味するところを判断しない限りあなたは恐怖を覚えないのである。
これも前に出てきたことだが、私たちは自分が見たいものだけを見る、見たいものしか見えないのだ。見たくないものばっかり見えるのよ、という人は単に不快でいるのが好きなだけだ。その前に、何かを「好ましい」と判断し別の何かを「イヤだ」と判断しているのはマインドなのだ。
目に限らず、身体の知覚器官は「差異=違い」によってしか認識できない。認識するとは言語でさえも、字の形や組み合わせや音の違いがなければ成立しえないではないか。そして、たとえば漢字を全く知らない人に「愛」という文字を見せても何が何だか全然わからない、おそらく文字として認識することもできないのであって、愛という文字は愛そのものではない。漢字を全く知らなければ「愛」を見て好ましいとも思わないし「苦悩」がイヤだとも思わないはずである。「死」という文字を見て「まあ、素敵な図形」と感じる人もいるかもしれない。
あらゆる意味づけや価値判断はマインドだけが行っているのである。知覚認識なしでは1分も生活できない以上、この世において知覚認識は必要不可欠なものではある。ここにリンゴとミカンがあるとして、あなたにはその区別はつく。が、リンゴのほうが偉いとか高いとか、ミカンのほうが好きだとか身体に良いとか、いや私はグレープフルーツのほうが好きだとか、そのような意味づけや価値判断を保留することくらいは問題なくできるんじゃないだろうか?この人の腕の傷はあの人の脚の傷より大きくて深い、だから何?ってなもんである。あの人の脚の傷のほうが早く治ることだってあり得るではないか。千円稼ぐのは簡単だが一千万円稼ぐのは難しい、というのはまあ常識なのだろうが、それだって結局は常識という名の思い込みである。つまり、マインドがそう決めているだけなのだ。そして、この世の常識や「過去のデータ」に縛られ囚われているうちは奇跡も癒しも不可能なのである。数字やら何やらによって「こういう場合はこうだ」と分類して判断する、それはいかにも「客観的」根拠があるように感じられるかもしれないが、分類も判断も何もかも全てマインドが決めたことではないか。そこには何一つ真に客観的なものなどないではないか。それを「客観的根拠だ」と思っているのもまたマインドではないか。言わでもがなの当たり前なことではあるが、私たちはマインドを離れては何もできないのだ。
ある時代における常識や「客観的根拠に基づいた間違いない判断」が、他の時代では全く通用しないものになってしまうことも少なくないのだ。私たちは常に見たいものしか見ず、その都度この世界や「個としての自分」を維持するのに必要なものを作り上げ続けてきたのである。
繰り返し言われているように、癒しに難易度は存在しない。病や症状がどんなにさまざまあるように見えても、それらは「幻想だ」という点で十羽一絡げにできるのである。幻覚で何が見えるか、は問題じゃない。幻聴で囁きが聞こえるか大声が聞こえるかも問題じゃない。現実を見聞きしているかしていないかだけが問題なのだ。何が恐怖の対象になっているのかも問題じゃない。放射能の恐怖もゴキブリの恐怖も同じなのであって、要はそこに恐怖があって愛がないことだけが問題なのだ。難易度が存在しないのは病に限ったことではなく、普通の常識ではとても不可能だと思えるようなことができてしまう「奇跡」にもまた難易度はない。
難易度が「ある」ということがあなたにとって現実であるかどうか、それが問題なのだ。「ある」と信じていればその通りになるだろう。私はこうなりたいけど、過去のデータによればそんなことができた人は殆どいないからダメだわ、と思えばそうなるだろう。そんなものは全てマインドが決めた幻想だ、と気づけばその幻想は消えるだろう。何故なら幻想はそれが幻想だと暴かれた時点で意味も「現実性」も失うからである。
癒しはまさにそれを行うものだ。幻想の中身は全く関係ない、ただそれらが等しく幻想なのだという事実を明らかにすることによってそれらは消えるしかなくなる。
難易度も程度も実在しないとわかった後でさえ、あなたの眼には「重病人」と「そうでもない人」の区別が映るだろう。が、あなたにとってその区別はもはや意味をなさない。両方とも等しく「実在しない=幻想」だ、とわかっているからだ。
本当の意味での区別はただ一つしかない、即ち「現実か幻想か」あるいは「真実か虚偽か」「聖霊かエゴか」と言っても同じである。
外界の中に見えるもの、知覚認識されるものは全てこの2つに分けられる。もちろん、「あらゆる差異がない」という究極の状態になってしまえばそれさえなくなるのだが、この世にいる以上それはさすがに無理だし、この世で生きている以上私たちにはまだゆるすべきもの、癒すべきものが沢山あるのだ。幻想は区別なく幻想だと見てしまうこと、これによって難易度は克服される。
9 生活面における変化は必要なのか?
まずいきなり結論なのだが、変わる必要があるのはマインドだけである。ただ、マインドが変化すればそれに伴って生活面においてもいろいろな変化が生じることは少なくない。仕事を変えたり住む場所を変えたりすることもあるだろう。あまりにも大きな気づきに襲われてしまい、突如今までの人生を全て捨てて全く別の生き方をするような人も稀にはいる。が、別にそうしなくてはならないわけではない。これはあくまでもマインドにおける変化が反映されたものなのであって、マインドが変わらないままで環境だけをいくら変えたって意味がないのである。それこそある偶像から別の偶像へと移行するだけに過ぎないのだ。従って、たいていの場合は生活面における変化はもっと緩やかなものになる。
いまあなたがどこで何をしていようとも、それは偶然にそうなったのではなくてあなた自身が(無意識にでも)選んだ結果である。学びが進むとともにその選択はエゴではなく聖霊に従って為されることになる。それを「コース」は《救いのための》神のご計画と呼んでいる。
マインドが変わる・・いわゆる「内面的な変化」が起こればそれに伴って外面的な部分も変化するようになる。神から遣わされた新米教師はまずものごとに対する姿勢が変わる。これも教師としての訓練の一部分なのだ。そうすれば必ずそれは生活のいろいろな部分に反映する。
過去において間違った判断・選択をした結果が今のあなたであり、あなたの生活環境なのだ。とすれば、徐々にマインドが正されていく過程で過去の判断や選択の間違いにも気づき。それらを一つずつ正していくような感じになる。たとえば、お金に目がくらんで選んだ相手との結婚生活が最悪だったとか周囲の期待に応えるためだけに選んだ仕事が苦しくて仕方なかったという人などはそれらを手放すかもしれない。普通に考えても、価値観が変わってしまえば生活も変わるものだ。
とりわけ人間関係はかなり変わるだろう。そしてあなたはその変化に気付くだろう。周囲にいる人たちの顔ぶれが同じでもあなたとの関係は変化するはずだ。あなたのマインドが以前とは違うものを投影しているからである。そしてあなたはゆるすようになったからである。もちろん、つきあう人々の顔ぶれが変わってしまうこともある。
マインドにおける変化とは、簡単に言えば今までは「個としての自分=エゴ」が絶大な支配力を持っていたものが政権交代して「神において一つであるところの私=スピリット」が支配的になることを指す。そうするとあなたは段々に聖霊からのメッセージを聴くようになる。ここでは「神の声」と書いてあるが、神自身が声を発することはありえないのでもちろんこれは象徴的表現である。何かいわゆる「お告げ」みたいなものを想像する必要はない。(エゴではない)こころの声に従って動くのだ、とか宇宙に身を任せるなどと考えても差し支えない。エゴである「このワタシ」が考えることなど一つもないのだ。この世では「自分で考えて自分で判断して決める」のが成熟した大人の証みたいに思われているが、既にその「自分」はないのである。自分が取るべき行動についていちいち考えて決めなくて良いのだから、そして絶対に失敗することもないのだから、こんな楽でいいことはないだろうと思うのだが、この「聖霊に従って決める」のはなかなか難しく感じられる。訳の分からない者に身を任せて変なところに連れて行かれちゃうんじゃないかという恐怖や、今までの自分を否定されるような屈辱感、自分以外の何かになんか依存したくないという変なプライドなどが邪魔するのだ。というか、要するにエゴが邪魔をするのだ。しかし、学ぶにつれてだんだんにエゴの邪魔が少なくなり、聖霊のメッセージを受け入れやすくなってくるはずだ。そして、それに従って癒しをもたらすこともより容易くなってくるはずだ。
いずれにしろ、「コース」学習では「判断を手放すこと」が救いの必要条件とされているのである。