(承前)誰かとの特別な関係、及び誰か特別な人にとって自分も特別な存在でありたいということを求める人は昨今とても多くなっていると思います。これは特に異性との「ロマンティックな」関係を指すもので、男性よりも女性のほうがより強く抱く願望のようでもあります。
さて、このような願望は古今東西通じて「普遍的」に存在するものではありません。そんなことを考えもしないような時代や社会というのもあった(ある)はずです。そんな願望を抱くことが一般的ではない状況の中でもそのような「特別な関係」を得る人々、というのがいることもまた事実です。
こういうことはある程度、属している時代や文化の影響を受けるものです。ということは、「その程度のものだ」と言えることでもあるのです。
そのような関係に憧れる方も多いでしょうが(以前のコラム「ソウルメイト」をご参照下さい)、そういう方々に申し上げておきたいのは以下のことです。
まず、「特別な関係」があるかないか、自分が誰かにとって特別な存在であるか否か、ということと「自分の価値・評価」とは関連性がありません。前回までにも何度か言及していますが、このあたりを混同すると大変苦しいことになります。即ち「運命的なパートナーがいない私は何か欠陥があるのではないか、不幸なのではないか」とか「あの人から特別だと思ってもらえない私は駄目な、魅力のない人間なのではないか」などと考えてしまいがちになるのです。そういう相手や関係に憧れたりそれらを求めたりするのはまあ良しとしましょう。が、何故貴方はそれらを求めるのか?その理由をちゃんと考えたことがあるでしょうか?映画や小説やドラマに出てくる、あるいは歴史上のカップルなどを見て「いいなあ」と思ったり、またそれらメディアのあおりによって「いないとだめなのかも」などと強迫観念的に思ったり、などというケースが殆どなのではないか、という感じがします。そのような「特別な相手や関係」を何故求めるのか、というのを自分自身の問題として真剣に考えてみたことはあるでしょうか?
もっともそんなことを考えなくても自然な巡り会わせで相手が出てきたり関係が生じてしまったり、という場合もあるわけですが、なかなかそういう機会に恵まれず尚且つそのことで悩んでいるならば今一度ちゃんと考えてみて下さい。すると、そこからいろいろなことが見えてくるのです。
愛されたい、大切にされたい、と強く思っているならばそれは現在の貴方が「自分のことを大切にしておらず愛してもいない」かもしれないのです。価値を認められたい、評価されたいなどというのも全く同じように捉えることができます。
安定が欲しい、というのもまあ似たようなものです。それがたとえ「経済的な安定」だとしてもやっぱり同じことです。なぜならば、経済的に不安定な状態におかれていてもそれが即「精神的な不安的」につながるとは限らない、そういう状態でもあまり気にせずそれなりに楽しい気持ちで生きている人だってたくさんいるわけで、結局は「内的な安定、平和」を欲しているという点では上記の「愛されたい云々」のケースと何ら変わるところがないからです。自分が安定していない、つまり自分で自分を安定させられないからそれをしてくれる相手を求める、ということですよね。
また、「心から信頼できる人とつきあいたい」と思っているのに実際には全然違う相手が出てきてしまう、というのはやっぱり貴方の中に「信頼」というものが欠けているからなのです。自分というものを信じられない、自分の価値を信じられないから相手に対してそれを求めてしまう。自分でできないから「私を信頼させてちょうだい」と相手に求めることになってしまうのです。
このあたりのことをよく整理してみると、くだんの「願望」が単に貴方のエゴから来ているものに過ぎない場合も多々ある、ということがよく分かると思います。特別な関係、特別な相手というものにもいろいろあるでしょうが、普通皆さんが憧れるような「素晴らしい関係」というのは、一瞬でもエゴが消えているときにこそ現れるものなのです。
エゴから来た願望は貴方にとって危険でもあります。何故なら「私は特別な存在なのだ」と思わせてくれるような人間によって、簡単に騙されてしまうことだって十分にありうるからです。
スピリチュアルの世界では、よく「宇宙は完璧だ」といいます。宗教によっては「神のなされることは完璧だ」という場合もあります。この「完璧」というのは「貴方にとって何もかも嬉しいと思うことばかり」という意味では全然ありません。そうではなくて、求めたものが与えられる、自分が与えたものが戻ってくるというその原理が完璧に現実に反映され、現象として現れるという意味なのです。(本当はこれ以外にも大きな意味があるのですが、難解になるのでここでは触れません)
ということは、もしも貴方が自分のことを愛せず大切にもできずにいて「誰か特別な人に愛されたい、特別だと思われたい」と望んでいるならば、常に述べてきたように根底にあるほうの願望=意識の刻印・信念である「自分を愛せず大切にもできない」ということのほうが実現されてしまうのです。そういう思いを再確認されられるような相手や関係に「恵まれてしまう」わけですね。
これを逆転させるとこうなります。即ち、もしも「よい意味での」特別な相手や関係が欲しいのならまず自分自身が「そのような」状態になっておきましょう、ということです。自分が自分のことをちゃんと大切にして他人との比較無しに自分の価値を認め、他人からの評価を必要としないような状態になっていれば、また自分が自分のことを十分に信頼できる状態になっていればそのことが誰であれ相手との関係にも反映されるのです。
これを経ずに「特別な相手・関係」を求めてしまうと、ある意味で「特別な」ものが得られてもその相手との関係において全く想像もしていなかったような苦労をする羽目になることが結構多いのです。ただ、これは自分にとっての学びや変容の機会でもありますので、そのように捉えれば結果的に「愛したり大切にしたり信頼したり、価値を認めたり」ということが自分の中においても誰かとの関係においても可能になるでしょう。
本当に自分ながらどうしようもない、というような人間が誰か自分のことを全て受け容れてくれる人にめぐり合ってすっかり変わった、という例もあります。が、これもその当人が自覚はなくてもその準備ができていた、ということに他ならないのです。
これと逆に、自分をすっかり変えてくれるような相手にめぐり合っていながら自分の準備ができていないためにその機会をうまく生かせずに終わる、というものもあります。
結局「全て自分次第」ということになってしまうわけですが、だからといって「特別な相手や関係が欲しいから」必死になって努力する、というのはあまり実りがないようなのです。おそらくこれはその願望が「執着」になっているからでしょう。先に挙げたような「自助努力」みたいなものは、何かの目的があってもなくてもあなた自身にとって良いものであり同時に必要なものでもあるので、何かの結果を期待して行なうようなものではないのです。それ以上のことは「絶対他力」にしておいてあまり考えないほうが良いと思います。ちゃんと自分を整えておけばチャンスが来たときにうまく活かせる、それで十分ではないでしょうか。チャンスが来ないかもしれないのに努力なんかできない、と思うならば、チャンスは絶対来るのだと心底本気で信じきってみましょう。しかし、そんなふうに思ってしまう人は何かを心底本気で信じるなどということもなかなかできない、のですが・・・・。