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碧海 ユリカのコラム掲載。
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第100回「アイとオソレU」

(承前)愛も恐怖も、そこから派生するあらゆる感情は常に「今ここ」で生じており経験されるものです。また、それら全ての感情は何らかの「判断」に基づいて生じています。

目の前で何かが起きている、或いはそれを想像している、何かについて考えている、そういうときそれらの「現象」についてほんの一瞬・・・しかと認識できないくらいの短い瞬間ではあってもその「現象」が自分にとってどんなものであるか、という判断を私たちは下しているわけです。まあ、一種の価値判断と言ってもよいかもしれません。これは悪いもの、忌むべきもの、怒るべきもの、怖れるべきものだ、とか祝福すべきもの、感謝すべきものだ、とかそういうことを殆ど自動的に判断しているわけですね。これは「自動的」のように思えますが、完全に貴方の意志と無関係なのではありません。というもの、それらの判断を自動的に行なっているところの「意識」というのは明らかに何らかの「信念」が刻印されており、全ての判断はその信念に基づいてなされているのです。仮に、これを一つの「装置」だと考えてみましょう。ある装置に何らかの「現象」を放り込んでやるとそれぞれ「愛情」「憎しみ」「恐怖」などの感情が出てくると考えてください。人によってその装置に仕込まれている方程式が異なるようなものです。ある現象をこの装置に放り込めば「愛」が出てくるが、別の装置に入れれば「恐怖」が出てくる、或いは「平静さ」が出てくるなどの違いが生じるわけです。そしてその方程式というか公式のようなものこそがそれぞれの「信念」にあたります。ならば、この方程式の部分を変更させてやれば同じ現象に見舞われても出てくる感情も違ってくる、ということになります。つまり、「自動的」とはいってもそのおおもとに当たる「信念」の部分はその人次第でいかようにも変えることができるという事実を考えれば、「感情は意志に拠っている」と言えてしまうのです。

一体何を言いたいのか、というと「貴方は感情の奴隷ではない」「感情の奴隷になる必要はない」ということです。なんであれ、貴方の好まない感情に襲われてしまった場合であってもそれと一体化しない努力はできるはずです。一瞬はカーッときてしまったとしても、「あら、嫌な感情が来ちゃったわ」「いやなのよね〜これ」などというふうにちょっと距離をおいてみることはできると思います。というか、是非やってみていただきたいのです。これによってネガティブな感情に呑み込まれないようになれます。

スピリチュアルを標榜している教えの中にはよく「感情を抑えるな」とありますが、抑圧するのとコントロールするのとは違いますし、コントロールというのも正しい意味においては「解放する」「手放す」のと同じことなのです。呑み込まれず距離をおくことができれば手放すのはずっと容易になるでしょう。

さて、ネガティブな感情に呑み込まれてしまうときというのはたいてい目の前の事柄・現象から実にさまざまな思いを派生させてしまっているのです。ある一つのことが起きた、とする。ああ、もう駄目だ、きっとこうなる、絶対ああなる、私は惨めだ、などなど・・・この部分だけでもなくすことができれば、たとえ一瞬ネガティブな感情に襲われたとしてもそんなに苦しいことにはなりません。ひどい感情の波にさらわれているとき、というのは必然的に貴方が「今ここ」にいなくなっているのです。あらゆる感情は常に「今ここ」に発生するものなのですが、ネガティブなものに関してはもう絶対に「未来に対する怖れ」や「過去からの連想による怖れ」など、「今ここ」以外の要素に占領されています。つまり、感情自体は今ここで発生しているがその対象は「今ではない時間」や「ここではない・・どこか別の場所」にあるものばかりだったりするのです。今あの人は何をしているんだろう、と考えて不安になるとしたら、不安という感情は「今ここ」にあってもその対象は「別の場所にいる貴方以外の人」ですね。そしてそのことが不安をもたらすのも貴方の「判断」がそうだから、なのです。もっと極端に言ってしまえば「他ならぬ貴方が不安を求めている」のであって、だからこそ何かの現象からあたかも自動的に起こるがごとく不安が生じるのです。

ネガティブな感情に襲われがちなときは一つの現象からさまざまな「苦しみの種」が生れてしまいます。これに対して、愛や平和といった感情に支配されているときにはそんなことは起こらないし、冷静で理性的なときなら一つの事柄からホームズやミス・マープルのようにいろいろな事実が見える、ということも起こります。

なぜこういう違いが生じるのか、というと原則として愛は解放するものであり恐怖は呪縛するものだからです。恐怖に基づくすべてのネガティブな感情は、それがどんなものであれ貴方を縛りつけ不自由にします。時間や肉体、などもそれ自体が「制限的」なものですから、老いや死に対する恐怖というのもますます貴方を肉体や時間に縛り付けてしまう、というわけですね。

想像力、というのはどのような方向にも働くものですが、もしもそれが恐怖や不安や憎しみといったネガティブな感情を伴っていればそこで想像されたものは必然的に貴方を呪縛するでしょう。そしてネガティブな感情から解放された状態であれば、想像力を働かせる必要もない、「見通す力」「洞察力」というものが発動します。

ネガティブな感情に襲われたとき、「今ここ」に戻ってくるようにすると瞬時にして平静な気持ちになれるのですが、おかしいことに「こんなことが起きているのに何も感じないでいるのは変だ、間違っているような気がする」などと思ってわざわざネガティブな気持ちに逆戻りしてしまうというケースもあります。ああなったら、こうなったらどうしよう、とかああだったら、こうだったらどうしようなどと「どこか別の時間や場所」に自分を持っていかなければ恐怖や不安などというものは殆ど生じようがなくなります。

誰でもその奥底には本当の「愛」というものがあり、これまでの人生でほんの一瞬だったとしてもその「本来の愛」を経験したことがあるはずなのです。これがうまく思い起こせない人でも「本当に満ち足りた平和な瞬間」というのならできるでしょう。まず、これを今ここで味わってみてください。その状態をしっかり覚えて、今度ネガティブな感情に襲われたときにはその「愛や平和で満ち足りた状態」を持ってきて置き換えてみてください。これは効きます!何故なら、前回書いたように「愛と恐怖は同時には存在できない」からです。そういう満ち足りた状態をもってくれば不可避的に恐怖に派生するネガティブな感情は消失するのです。

でも、それじゃあ問題は解決してないでしょ?と思うかもしれませんが、これは話があべこべなのです。まずネガティブな感情から解放されていなくてはいかなる解決もありえません。常識的には「問題が解決しないとネガティブな感情から解放されない」と考えがちですが、そう考えるからなかなか解決しないのです。ずっと以前に「願掛け」のメカニズムについて書きましたが、要するにこういうことなのです。願掛けをして願い事をかなえてもらったからネガティブな感情がなくなる、のではなくて願掛けという行為によってネガティブな感情から解放されるからこそ、それが「問題の解決」という現象として外側に現れる、のです。

これらのことをよく理解していただければ毎日がかなり楽になると思います。(この項続く)

 
第99回「アイと怖れ」

これまで何度か書いてきたように、本質において愛と怖れとは全くの対立概念であり同時に存在することはできないものです。しかし、実際問題、というか日常レベルではこの両者は常に隣り合わせだったり表裏一体だったりするように見えます。そのことについて説明してみましょう。

まず、愛と怖れが同時に存在し得ない、ということを確認しておきましょう。何かに対して強い愛情があり、同時にそのことについて恐怖感がある、という場合であってもよくよく精査してみればその二つの感情が「全く同時に」存在することはない、とわかるはずです。30秒前は愛で満たされていたものが今は「ああなったらどうしよう」という恐怖にかられている、としてもそこには必ず時間差が生じているはずなのです。二つの相反する感情を同時に抱いてしまってその間で引き裂かれどうにもならない、という苦悩に陥っている人も多くいるわけですがそれとて「全く同時に」その二つの感情を味わっているわけではないことに注目してください。

スピリチュアルな或いは形而上的なものの見方をすれば、感情も含めてあらゆることが毎瞬新たに生じているのです。私はこの1週間、または1時間ずっとこういう気持できたわ、と思う人も多くいるでしょうが、それだって正確に言えば瞬間瞬間その気持が生じてきたことが続いただけであって、「まとまった一つの長い時間」というものではないのです。たった1分間の間に愛と憎しみと恐怖と悲しみと喜びを味わった、としてもそれぞれは独立して生じているはずです。このことをちゃんとつかんでおいて下さい。いくらそれらが「隣り合わせ」であったとしても相反する感情は「全く同時に並存する」ことはありえないのです!

誰かに対して「愛と憎しみがごちゃ混ぜになった気持でいる」ということはよく聞きますね。貴方にも経験があるかもしれません。これもある瞬間には愛を、別の瞬間には憎しみを抱いているということであって片方がもう片方を生み出しているとか、片方がもう片方に含まれているなどということはありえません。

同時に存在する、というのは誰かや何かのことを「愛したり憎んだり怖れたり」する、という意味ではありません。憎しみや恐怖が生じているときには必ず愛は消えています。くれぐれもここを間違えないようにしてください。

さて、全てのネガティブな感情はもともと「恐怖」に根ざしている、そして「恐怖」は愛の正反対物である、のにもかかわらず何故この両者はしょっちゅう隣り合わせになるのでしょうか?

その理由としてまず考えられるのが「愛しているものを失うことに対する恐怖」ですね。誰かを、何かを強く愛すれば愛するほどそれを失うのが怖くなる。これは誰もが抱く感情だと思います。誰かを好きになってもその人が振り向いてくれなかったら苦しい、ずっとこのままだったらと思うと怖ろしい、ということもよくありますね。

大切なものを失いたくない、というのはごく当たり前の心の動きなわけでしょう。失うことが怖いから愛することもできなくなってしまった、とか苦しむのがイヤだからあまり愛情を持たないようにしているなどというケースもありますし、失うことばかりに気をとられ愛がいつのまにか自分も相手も束縛する執着に変ってしまうことも少なくありません。極端な場合には、失うことの恐怖と苦しみを味わうくらいならそんなことになる前に自分から先に捨ててしまう!というような人さえいます。このことだけを考えても、「恐怖」が・・この場合は「失うことに対する恐怖」ですが・・・愛を破壊してしまうことがわかります。

どんなものであれ、いつかは貴方の手元からなくなるかもしれない。その可能性は絶対的にあるわけです。しかし、だからといってそのことを理由に「愛を失くす」必要もないのではないだろうか、とも言えるのです。今何かを愛することと、それを失うことを考えて恐怖に捉われること、とは全くの別物です。いくらその二つが連続して現れるとしてもやはり別物であることには変わりないのです。しかし、たいていの人は連続して起きるこの二つの現象を一緒くたにして捉えてしまいがちです。すると愛=恐怖=苦しいものだ、という公式が成り立ってしまうのです。これが「信念」となり、その人にとっての「真実」となり意識に刻印されたらどうなるでしょうか?その人にとって愛というのは必ず「苦しく辛いもの」になるのです。愛の喜び、というものもあるはずなのですがそれとて「この喜びを失うことになったら!」と思えばやっぱり恐怖や苦しみに結びついてしまうだけでしょう。

しかし、本質においてそれらは全くの別物なのです。愛が苦しみや恐怖と不可分に結びついているとしたらそれはただ貴方の意識において貴方が勝手にそう決めてしまっただけ、ということになります。

失うことの可能性を否定する、のではなくそれがあることは認めつつもそれはそれとして擱いておく、くらいなら誰でも意識すればできるのではないでしょうか?誰だって苦しかったり恐ろしかったりするよりは楽しいほうが良いのだし、だったらわざわざ嫌なほうに自分の意識をもっていく必要もありません。恐怖や苦しみが生じたらそれをちゃんと自覚して意識的に「愛」のほうに自分を持っていく。これはちょっと練習すれば習慣づけられます。その際のコツは先ほどから述べている「愛と恐怖は全くの別物だ」つまり「愛は苦しいものではない」という事実をハッキリ認識しておくことです。

非常によくきくせりふですが「愛しているから苦しいの」というのがありますね。これも「愛」が「苦しみ」をもたらしているとか「愛」が「苦しみ」の原因になっているとか、そういう意味で言っているのだとしたらやっぱりおかしいわけです。その苦しみの正体は何?ここをよく見てみなくてはなりません。

一方で、別に失う恐怖や不安などは一切ないけれど「あまりにも好き過ぎてシアワセ過ぎて苦しい」という人もいますよね。これは、日頃私たちがとても強い喜びや慈悲の感情、または強い一体感を味わうことに慣れていないからだろうと私は睨んでいます。(この項続く)

 
第98回「アイとクルシミ」

前回までのテーマで「苦しみ」をどう扱ったらよいか、についてちょこちょこと述べましたが、これは一度整理しておいたほうがよいみたいです。

「苦しみ」というのは、「苦労」とは少し違います。「苦労」していても・・・つまりハードな状況にあっても別にそれが「苦にならない」「辛かったり惨めだったり不安になったりしない」ということも十分にあるわけですし、逆に何不自由ない生活をしていてもその人の見方や感じ方一つでいくらでも苦しく不安な状態に陥ることが可能だからです。苦しみ、とはあくまでもその人のマインドの状態を表しているのです。

さて、「苦しみ」が別にどうしても必要なものではない、どんな状況にあっても別に苦しまなくてはならないということはない、とは前回に述べたことですがもっと大胆に言うとこうなります。「苦しみは全て自分自身が作り出したものである」。

これは、「自分のせいでこういう事態を招いたんでしょ」という意味での自業自得とは違います。苦しいなどという感情は他の全ての感情と同様、貴方以外の誰かや何かに強制されて生じるものではない以上、自覚はなくても貴方が自分で作り出したというしかないのです。この観点から見れば「あの人のせいでこんなに苦しく惨めだ」とか「どうして私はこんなに苦しまなくてはならないの」などという思いは「誤りだ」ということになります。だってどうしても苦しいのよ!というのはまあわかります。だからといってその苦しみに正当性があるとか必要性があるとは言えないのです。どうしても食べたいからといって別に必要でもないお菓子か何かをバンバン食べてしまうのと大して変わりないかもしれないようなものなのです。

更に、「苦しむことによって得があるのか」と考えてみた場合、これも「苦しみがきっかけになって自分を見つめ直し気づきが起きた」ということ以外には何も得るものがないのです。いくら苦しんだってそれで何かが解決するか、といえばまず100%解決しないのであって、本当に何とかしたいのなら苦しんだり辛がったりという感情は邪魔なだけなのです。どうしたらよいかをきちんと考えるとかそれこそ「オープンマインド」で、どこから入ってくるかわからない解決のヒントやサポートを受け容れる状態になるか、そういうふうになるためにはまず「苦しみ」などの感情を脇にどけておく必要があります。

たとえば貴方が真理の探究とかそれにつながる勉強などをしていて、どうにも理解できない壁にぶつかったとします。それこそウンウン唸って考えて思索してそれでもわからなくて「苦しい」というだけならこれは冒頭に述べた「苦労」で済むのですが、「これがわからない私は駄目だ、もう救われない、惨めだ、絶望だ」などと思って苦しむのならその苦しみは「不要で、邪魔にさえなる感情」ということになってしまいます。

また、変な話ですが「苦しむ」ということを愛情や思いやりと混同してしまっているケースもわりとよくありますね。これも前回「ヒーリングの原理」と絡めて少々述べましたが、「他人のことでこんなに苦しんでいるなんて思いやりがあって愛情深くてよい人だ」というのはかなり「ズレている」のです。ましてや、「あの人のことでこんなに苦しんで」あるいは「過去の自分の過ちについてこんなに苦しんで」いる、ということで「だから私は冷たい人じゃないんだわ」とか「こんなに苦しんだのだから赦してね」と思ってしまうのは世間では当たり前なのかもしれませんが、スピリチュアルな立場(というか本質的な考え方)からみると「勘違い」ということになるのです。ここはちょっと受け容れるのが難しいと思います。たとえば、犯罪の加害者が覚醒したような境地になってしまえば過去からも、いわゆる「罪悪感」というものからも解放されてしまいます。つまり、自分の過ちを認め反省し、被害者に対して心から申し訳ない、という気持はあっても「自分を責める気持」はもうないのです。罪悪感というのは本当に曲者で、単にこれが「自分を罰する」というほうだけに向いているうちはまだ良い(?)のですが、外部に投影されてしまうと「自分は駄目な人間だと思わせるアイツが悪いんだ」などということになり、他者に攻撃が向けられてしまうのです。つまり、矛先が自分に向くか他人に向けられるかの違いだけであって、罪悪感が強い人ほど攻撃性も強いわけです。何か悪いことをして罪悪感を抱いてしまうとそのためにますます攻撃性が強まり・・・という悪循環になります。本当に更生した人は自他ともに対しての攻撃性・破壊衝動から解放されているはずなので、当然罪悪感からも解放されていることになります。これが世間一般の基準から見ると「許せない」。「お前なんかもっと苦しむべきだ」と思われてしまうのです。

苦しみを愛情や思いやりと混同することが何故間違いなのか、ということの根拠となるのが「苦しみなどの感情は全て恐怖から生じている」という(これも以前書いたはずですが)原理です。考えてみて下さい。何かについて「苦しんでいる」というとき、それは必ず「こうなったらどうしよう」「ずっとこのままだったらどうしよう」というような不安や恐怖を伴っているはずなのです。逆に言えば、今どんなにひどい状況にあっても「こうなったらああなったら、駄目だったら、治らなかったら、死んじゃったらどうしよう」という気持が「全く」存在しなかったらおそらく貴方は苦しくないのです。苦しみは恐怖から生じる。恐怖のないところに苦しみはない。ところで、愛は恐怖とは全く相容れない状態です。この二つは絶対に両立しません。愛は万遍ない状態なので愛あるところに恐怖の入り込む余地はないのです。言ってみれば「光と闇」のような関係でしょう。(更に、本来「恐怖というのは全てエゴの産物であって真実在ではない」という原理すらあるのですが、これについては項を改めて説明するつもりです)。したがって、愛あるところに恐怖の産物である苦しみは存在しえない、と言えてしまうわけです。

ちょっと実験。いま現在、或いはこれから先に何か苦しいことが生じたならば、「私は一体何を苦しんでいるのか」についてなるべく具体的に書き出してみることをお勧めします。もし「お金がないから」と書いたとすると、「それがどうして苦しいのか」というふうにどんどん深く進めてみましょう。そうするとたいてい「〜なるのが怖いから」というところに行き着きます。

貴方が何かで苦しみ、その挙句に「何だ、これは苦しむ必要のないことだったのだ」と気づき理解したならば、それまでの苦しみは「苦しむことなど不要、無意味である」ことがわかるためのツールだったということにもなります。苦しみが不要であるということをわかるために苦しんだ、こういう逆説的なことは多々あります。

とにかく、くれぐれも「苦しみ」を美化・正当化しないように意識して気をつけていてください。

 
第97回「意味の意味 番外編」

このテーマの最初の項で「普通、人は苦しく辛い経験を通してのほうが気づきや学びを得やすいのだ」と述べました。また、その一方で「だからといって必ずしも苦しく辛い目にあわなくては気づきや学びを得られない、ということはない」とも。

ものごとには意味がある、という考え方になじんだ人にとっては特に「苦しいこと、辛いこと」の中に何らかの意味を見出したくなるものなのです。信仰を持っている人ならただ「どんなことでも神からの恩寵だ」から「喜んで受け取らなくてはならない」で済ませてしまえたりするのですが、スピリチュアル方面では一般的に「ワクワクするような状態」が良しとされているので、苦しく辛い思いを味わっているのは何かがおかしくなっている証拠だということになるのです。どこかで間違えたために宇宙や大いなる源泉などとの一体化ができなくなってしまった、自分がそれらから「分離した」ような状態になってしまったというわけですね。ここまでは全くその通りです。

実際に起きていることが何であれ、つまり生きるか死ぬかの重大事だろうと誰かからメールの返信が来ないというくらいのことであろうと、それに対して「辛く苦しい」思いをしているというそのこと自体が・・・そのような心の状態そのものが問題だ、というのです。

たとえば、貴方の大切な誰かが生きるか死ぬかの状態にあるとする。こういうときに平静でいられる人は少ないでしょう。不安や恐怖にかられ苦しくて仕方がない、と感じるのが当たり前だ、と思うでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?大切な人が危険な状態にあってもぜーんぜん気にならないわ、というのはさすがにおかしいでしょうが、愛を送ったり離れていても心を沿わせたりするのには別に恐怖や苦しみは必要ないはずです。それどころか、まずこちらが平穏な状態でいないと相手を癒すこともできない、いくら相手のことを思ってあげていても不安や心配からは決して癒しが起こることはない、というヒーリングの原理を考えれば「相手のことを大切に思えばこそ、自分は不安や恐怖から起きる感情、苦しみや辛さを持たないようにしよう」と思ったって何の不思議もないはずです。

自分の身内が大変なときにノンビリした顔をして平然と仕事をしていれば「冷たい人だ、人間じゃないわね」などと言われてしまうかもしれません。そういう人が目の前にいたら貴方もそう思ってしまうかもしれません。或いは、辛い思いをしている人と「一緒になって悲しんであげる」のが愛情や友情であると思ってしまうかもしれません。でもそれは違うのです。相手の状態に何の判断も批判も加えずにただ受け止めてあげる、というのならともかく、相手のネガティブな感情に同化するということは、それを正当化し倍増してしまう可能性が出てくるので下手をすると「助けているつもりで却って悪くしている」ことになってしまいます。病気で苦しんでいる人に対して貴方も一緒にのたうちまわってあげても癒しの効果はないでしょう。もっとよくないのが「あの人が憎い!」という人に対して「そうだ、そうだ、あの人はひどい人だ、貴方は正しい。」と同調してしまうようなケースです。人は誰しも否定されるよりは同調されるほうが気分がよいに決まっているので、こう言われれば「理解してもらえた」と感じて満足かもしれませんが、実は事態はより悪くなっているのです。

相手に思いやりや関心を持ってあげるというのは、相手のどんな部分も否定しないで受け容れるということなのですが、それは相手の間違いに「同調する」ということではないのです。

さて、たいていの人が苦しく辛い出来事に意味を求めるのは、無駄に苦しみたくないという気持からでしょう。何か意味があるのだったらまだ耐えられる、或いは頑張っていこうと思えるというわけですね。この苦しみに何の意味もないなんて耐えられない!

しかし!ここを一歩進めてみるとこうなります。この苦しみに何の意味もない、のだったらそもそも苦しむ意味がない、ということじゃないのか?つまり別に苦しまなくたっていいのじゃないか?

普通、人は自分のしていることが何かしら「重要なものだ」「正しいものだ」と思いたいのです。何故なら、自分に価値を認めたいから、どうでもいい無意味なこと、間違ったことばかりしている人間だとは思いたくないから、なのですが、これはまたしてもエゴなるものの餌食になりやすい落とし穴でもあるのです。

そんなことで悩む必要なんかないんじゃないの?と言われて「まあっ、失礼ね!何て鈍感な人なのかしら、普通こんな目にあったら苦しいに決まっているじゃない。」と怒りや失望を覚えるのは、「これで苦しんでいる私は正しいのだ、何故ならこれは私にとって苦しむ価値のある重要な問題なのだから」と思っているからかもしれません。ということは、貴方は意味づけをすることによって苦しみを正当化し、尚且つ苦しむこと=正しいこと、当然のこととしてそれを望んでさえいるのかもしれません。

ここで少々発想を変えてみることはできないものでしょうか?「これは本当に苦しむべきことなのだろうか」「私はとんでもなく無意味なことをしているのではないだろうか」「私は間違っているのではないだろうか」と自問することはできるでしょう。先に述べたように、人は本当にどうでもよいと思うこと、本当に無意味で価値がないと思うことはできないようになっているのです。この原理がエゴの餌食にならないためには、自分が間違っているという可能性は常にあるのだと認識し、間違いがあればそれを認めて手放すというプロセスが必要です。

一般的な価値観に基づけば「とんでもなく悲惨」とされるレベルのことに見舞われたとしても、いちいち意味づけなど必要とせず、苦しんだり辛がったりせず、ただ粛々と事に対処するという人も確かに存在するわけで、しかもそういう人々が別に宗教やスピリチュアルとは全く無縁の名もない「ただの人」だったりもするのです。それを考えると、宗教やスピリチュアルが別に何ら高尚なことでも進んだことでもなく、修行やワークをするのが偉いことでもないのだ、ただある意味で本当に「シンプル」な状態に至るためにわざわざこんなことをしなくてはならない私たちは余程病んでいるのかもしれないなあ、と感じたりします。だって、たいていの人にとって何かが起きたとき「悩み苦しむ」ことを選ぶほうが楽なのですから。

ですから、貴方がもしもスピリチュアルな考え方を学んだりワークをしたりして(しようとして)いらっしゃるのなら、自分が何か「特別なこと」「高尚なこと」をしているのだとは考えないほうが賢明だと思います。おそらく・・・というか絶対に、人は本当にその気になれば何の勉強もワークも修行もなしに、一瞬にしてこの「究極のシンプル」な状態に至れるはずなのです。何故なら、私たちは皆本来そういうふうにできていたはずだからです。それを私たちは複雑にしすぎてしまっている。複雑なワークなどは、却って「シンプルになるのはこんなに難しいのだ」という思い込みを作り出してしまっているのではないか、とすら感じることもあります。

言うまでもありませんが、この「究極シンプル」こそ「オープンマインド」であり「外的条件によらない絶対幸福」に直結するものです。

 
第96回「意味の意味W」

(承前)出来事や現象だけではなく感情や考えも含めて自分に生じる全てのことには何らかの意味があり、それを知り理解することが霊的な成長に、場合によっては現世的な成功にとっても有益である。と同時に、意味を知ろうとすること自体を目的にするのは誤りであり無益ですらある。ここまではおわかりいただけたでしょうか。

少し違った角度から説明してみましょう。貴方が何かを求めていたとします。スピリチュアルなものであれ現世的なものであれ、何か得たいものがありそれを得られていなかったとします。これは、「求めるものを得ることを妨害する何か」が貴方の中にあるということなのです。一見貴方の外側に存在するようであっても実は全て自分の中にある、もっというならばそれは例の「意識に刻印された信念」のようなものであるわけです。要するに、表面的な願望においては前に行こうとしているにもかかわらず、根底的な願望では後退しようとしているようなものであり、しかも根底にある願望のほうが支配的なので、結果的に前進はできなくなってしまうのですね。

ということは、貴方が前進して求めるものを得るためにはそれを妨害する何かがなくなればよい、その妨害要因から解放されればよい、それを捨てられればよいということになるでしょう。何かを得るためには別の何かを捨てなくてはならない、という考えもスピリチュアル系ではよく出てくるものですが、これは単に「邪魔なものーブロックという言葉で表されている場合もありますーを取り払え」ということであって別に「何かを諦めろ、犠牲を払え」という意味ではないのです。

たとえば、素晴らしいパートナーと素晴らしい関係を築きたいと思っていても根底に「私は価値がない」とか「親密な人間関係は傷つくから怖い」などという信念があるならば、この信念を捨てない限り貴方の願望は達成されないわけですね。

このブロックなるものは、信念や思い込み、価値観などとしてだけではなく当然それらを反映した「ありかた」「姿勢」として現れてきます。傷つくのが怖い、否定されるのがイヤということは「私は傷つき否定されるであろう」という信念がある、ということでありそれが「自分を守ろうとする、自分を閉ざす、武装する」という姿勢やありかたにつながります。スピリチュアルな勉強(探求?)やらワークやらによって自分の中の「ブロック」なる信念を見つけた、私はこうだったのか!とわかったとすればこれは大きな気づきです。が、これが真の気づきなのか「気づきもどき」なのか、は貴方の姿勢やありかたまで変容するかどうかによってわかります。ここまでわかったはずなのに相変わらず同じ問題でつまずいてしまう、求めているものがなかなか得られない、とすればそれら「理解」「気づき」と思われたものはまだまだ浅くて実存には及んでいないということになるのです。ここは大変難しいところで、沢山の人がここで苦労しています。

このあたりのプロセスで知らぬ間につまずきやすい「石ころ」の一つが「意味探し」なのです。先ほども述べたように、すべての気づきや変容は「邪魔なものを取り払う」「解放」と同じものなのですが、ものごとの意味に或いはそれを見出すことにこだわってしまうとまさにその「こだわり」そのものが新たなブロックになってしまうわけです。これはわかりますね。解放とこだわりはどう見ても反対物であり、何かにこだわっているうちはどんなものであれ解放はありえないからです。

何かうまくいかないことがあり、その現象や状況が何を意味するのか分からない、そういうとき助けになるのがあの「鏡現象」です。貴方が誰でもよい、他人に対して言及するその言葉に注目してください。批判だけでなく「こうすればいいのにね」という部分も含めて考えてみると、実はそのまま自分自身にあてはまってしまう!ということが結構あるものなのです。ジグソーパズルのピースを見つけるように、落としたコンタクトレンズを見つけるように意味を探そうとするのはあまりにも困難且つ労力の無駄、ひょっとするとピント外れの努力にもなりかねません。気づきや理解のヒントというのはもう本当にビックリするくらい身近なところにある場合が多いのです。誰かの相談に乗っているとき貴方のアドバイスの言葉はそのまま貴方自身に向けられるものかもしれません。ここでも「自他の別はない」という法則が適用されるのです。貴方には全く関係ない人のことであっても、それはあくまで「利害関係がない」というだけのことであって、貴方がその人のことについて何か強く感じるからには既にそれは他人事でなくなっているのです。

ただ、この鏡現象は以前にも述べたように「どこが鏡になっているのか」を見通すのがなかなか難しいようなのです。あの人って本当に馬鹿なのよね、と言うとき自分も馬鹿なのか?とか。このあたりは以前のコラムをご参照ください。

「意味」について、もう一つ注意点を挙げておきます。この出来事の意味は何ですか、この人とであった意味は何ですか、というご質問をなさる方は沢山いらっしゃいますが、それらの中にはまるでそういう「意味」というのが予め決められているように考えている方が結構あるのです。どこかに「意味」というものがあり、それを探さなくてはならない、と思ってしまう感じですね。しかし、私が見るに、例えば人と人との関係の「意味」というのはそう固定されたものであるとは限りません。関係性の中で意味ができてくるとか意味を作っていく場合も多いのです。また、せっかくの出来事や関係から気づきや解放のチャンスを全く得られずに終わってしまう場合もあります。これは専ら本人の意識の問題なのです。それこそオープンな姿勢で事に当たっていればどんな現象からでも何か気づきにつながる「意味」を引き出すことができます。

また、これら「意味」を「理由」や「目的」と混同してしまう方もわりあい見かけるので注意していただきたいと思います。この経験は、この関係は「何のために」あったのか?これは煎じ詰めて或いは非常に乱暴に言ってしまえば全て「貴方を古い信念から解放し成長させるため」という一言に尽きてしまうのです。意味、というのは「何を表しているのか」であり、ひいては「どう生かすか」につながるものです。意味・理由・目的をそれぞれ明確にしなくてはならない、などということはもちろん絶対にありません!かなり単純に考えてしまったほうが楽で間違いなかったりするのです。たとえば、「感謝の気持を忘れずに」いようと決心していたのにどう考えても頭にくる出来事が起こった、とすればこれはもう一種の「ワーク」が与えられたと考えるしかないでしょう。その程度でも十分なのです。

いずれにせよ、「意味」というのはあまり複雑に考えすぎないこと。単純に捉えておいたほうが余程間違いありません。

 
第95回「意味の意味V」

(承前)全てのことには意味がある、という考え方は別に間違っていません。しかし、全てのことに何が何でも意味を、しかも今すぐに見出そうとするのは不要なことだし場合によっては余計なことにもなります。

日常のちょっとしたこと、たとえば道で転んだとかお金を落としたとかそういう出来事については「浮き足立ってますよ、ちょっと落ち着きなさい」とか「何か手放したほうが良いものがあるんじゃないですか」などという意味があるものとして・・・というか貴方の今の意識状態を表しているものだとして受け止めることができます。

難しいのは、いくらやってもなかなかうまく行かないことがある時にそれが「今やるべきではない」のか「実はやりたくない」のか「やり方・考え方が間違っている」のか、などがなかなか自分ではうまく見極められないことです。こういうのはリーディングなど専門家に依頼するほうが楽で間違いないかもしれません。

また、ある出来事の意味がすぐにはわからない、ということもよくあります。そういうときには放っておいても構いません。何故なら、たとえ今すぐにその「意味」を知ったとしてもその時点では理解できなかったり受け容れられなかったりする場合もあるからです。というより、本来それら「意味」というのは象徴の一種ですから後から出てくるなどということはなく、常にその経験の中に含まれているわけです。現象それ自体だけではなく、その現象を貴方がどう受け止め捉えるかということも含めた「経験」が、実はそのまま貴方の意識の奥にある信念の刻印を象徴しているのです。意識が深まるにつれてそういうものを捉え受け容れることも自然にできるようになるので、それまでは放っておいても大丈夫だと思います。それに、とりあえず日々一生懸命やっているうちに思わぬ方向に進んでしまい、なるほどこういうことだったのかとわかる場合もあるのです。

むしろ、早くスッキリしたいと思うあまり無理やりに意味づけをして納得したふりをするほうが危険です。あの時はこういう意味だと思っていたけど、今考えるとそうじゃなかったなどという例も少なくありません。

要するに、出来事や経験の意味を考えることでアタマがいっぱいになってしまい他の事が手につかなくなる、という事態がよくないのです。これではあべこべー本末転倒になってしまいます。「この人と出会った意味は何だろう」とばかり考えていて、実際に会っている最中も上の空だったらどうなるでしょう?何故この病気になったのだろうとそればかり考えていて、意味がわかるまでは治療もできなかったらどうなるでしょう?

さて、特に注意すべきなのが「苦しい・辛い経験」についての意味づけです。前にも少し触れましたが、苦しみや辛さというのは必ずしも必要だというものではありません。にもかかわらず、どうしてもそれらの苦しさや辛さを正当化したり美化したりという意味づけをしたくなってしまう人もいるのです。この苦しみは私にとって必要なものであり、神の恵みである。私はこの苦しみによって浄化されている、とか自分が過去にしたことの報いとして今苦しんでいるのであり、この苦しみに耐えれば赦され浄化されるのだ、とか。貴方が過去にどんなことをしたのであれ、それは苦しみによっては解放されません。いくら苦しんでも本質的なことを・・・つまり自分がどのように間違っていたのかということを理解しない限りそれはただの苦しみで終わってしまうでしょう。

あるいは、それら苦しみ・辛さを正当化するような意味づけをする前に「自分は本当にこんなことで苦しむ必要があるのか、今私はこのことで大変辛く惨めな思いをしているけれど本当にそうするしかないのか?」と、「別の考え方があるのじゃないか」と見直してみることもできます。そこで貴方が何かに気づいたのならまさにそれが、気づきをもたらすことがその経験の意味だったということになるわけですね。

もう一つ注意すべきは、いわゆる「偶然」あるいは共時性(シンクロニシティ)についての意味づけです。意外な時間や場所で誰かにばったり会ったからといってイコール「その人と特別な縁がある」としてしまうのはあまりに短絡的です。そのときに何か相通じるものがあった、ということはできるでしょうがあまりにも過剰な意味づけをしてしまうとその思い込みにより貴方は非常に不自由になるでしょう。その偶然がうれしいものだったらただ「うれしいな」と感謝の気持を持つだけで十分なのです。そうすれば同じような嬉しい偶然がまたまた起きるかもしれません。とにかく、これまで私が見てきたところによれば、こういう偶然や共時性というのが常に何か重要な意味をもっているというわけでもなさそうなのです。どうしても気になるならこれもリーディングその他、専門の人に見てもらうことをお勧めします。

出来事についての意味づけというのは本来全て「気付きを促す」ためのものであり、こうしなくてはならないとかこうしてはならないなどという制限に貴方を閉じ込めるためのものではありません。また、それら「意味」というのも重層的なものなのであって、貴方の意識の段階に応じて見え方も違ってくるのです。ほんのちょっとしたことから非常に大きく深い気付きを得られることもあれば、大変な経験をしてもただ苦しみを正当化するだけで終わってしまうこともある。どういう意味を見出せるかということはどのレベルの気付きを得られるか、というのとイコールです。かといって意味づけそのものに熱心になりすぎるのは良くない、さきほども述べたとおりです。何故なら、意味を知るということは成長のための一つの助けに過ぎず、それ自体が目的にはなりえないからです。

最後に、どこかで読んだ話をご紹介します。ある人が病気になりました。何故そんな病気になったのか、その意味がわかれば治ると信じてあれこれ考えてみたもののどうしてもわからない。そんなとき天使が現れて「貴方の望みを一つだけかなえてあげましょう」と言いました。彼(女)はすかさず言いました。「何故こうなったのかその意味を教えてください!」

ああ、普通だったら「この病気を治してください」とか言いますよね・・。(この項続く)

 
第94回「意味の意味U」

(承前)前回ご説明したように、多少なりともスピリチュアルな方法論をかじった人やそうでなくてもいわゆる「目に見えない世界」を信じている人は苦しいことや辛いことに遭ったとき「この経験は何を意味しているのだろうか」と考えます。が、とても幸せで喜びに満たされているときには、「本当にこんなことがあっていいのかしら」と思うことはあっても「これは何を意味しているのだろうか」などと自問する人はまずいないでしょう。ですから、今回のテーマを論じていく際にも、どうしても主に「ネガティブな感情をもたらす経験」を扱うことになってしまいます。

やはり人は苦しく辛いこと、というのはどこかおかしい、正すべきことだと感じるのですね。そこで「おかしいのは世の中だ、相手だ、運命だ」と外側の何かを呪ったり責めたりして終わってしまうのでなく、自分の意識のどこかにおかしいところがあるはずだと内省していくのがスピリチュアルあるいは真に宗教的なあり方の第一歩なのです。

いくら目に見えない世界を信じていたとしても、何か嫌な経験をしてその意味を考えたときに「誰それの霊・怨念がとりついている」だけで終わってしまったのでは「あの人のせいよ」「世間が悪い」と考えるのと大して違わないものになります。たとえ本当にそうだったとしても貴方の中にそれらを引寄せる何かがなければ起こらない現象なのです。ですから、こういう場合であってもやはり「自分の中に何か間違っているところ、いわゆる悪いもの・低いものに同調するところがあるはずだ」と考えるしかないわけです。

何かの出来事の「意味」がわりあい単純に「このようにしなさい」「こちらに進みなさい」というメッセージになっていることもあります。これも、天や神や宇宙や守護霊のお告げだ、と思っても一向に構わないのですが、貴方の中のどこか深い部分、理屈ではわからない部分がそう望んでいることだと考えることもできますし私はむしろそう捉えたほうが間違いが少ないような気がしています。なぜならば、余程意識を鍛錬していないと私たちには「宇宙の声」と「エゴの声」との区別がつかないことが多いからです。大変卑近な例ではありますが、何かに関して「どうもぴんとこないのよね」「何だかやる気がしないのよね」と感じるとき、それが「貴方には合わないことだから今はしないほうがいい」というメッセージであることもあれば、単なる自分の怠慢な気持が出ているに過ぎないということもある、更にその怠慢さを「宇宙が・神が私にこれをするなと言っている」などという勝手な意味づけにより正当化してしまう場合もある、ということを考えてください。もっとも、宇宙なり神なり、そういう根源的な大きなものからのメッセージは実は常時私たちに与えられているようなのですが、悲しいかな私たちはその都度自分の聴きたいことしか聞こえず、自分が受け容れられることしか受け取れない、というふうにもできているのです。また、宇宙なり神なりの声が何らか「肉声」のような形で実際に聞こえてしまうという人が存在するのと同様に、自分自身のエゴの声が自分以外の何かの「肉声」として聞こえてしまう体質の人もいるという事実を考えてもこれらを区別するのはなかなか難しいことでしょう。

ですから、宇宙とつながった部分かエゴの部分かはわからないけれどとにかく何らか自分の意識の奥から出てきている自分の「願望」なのだと考えたほうがより正確になります。そして、私の知る限りにおいては、その「願望」あるいは「ガイダンス」がエゴ以外の部分、つまり大きな根源とつながった部分から出た場合に関しては自分自身驚くほど確信を持って進めることができ、尚且つわりあいにスムーズに実現してしまうことが多いのです。

そんなに多くはありませんが、まるで運命に導かれるごとくにあっという間にとんでもない泥沼に引き込まれていってしまうというケースもあります。こういう場合は、本人にその自覚はなくともやはりどこかでそういうものを望み求めていた、そういう願望がどこかにあったということにどうしてもなってしまうのです。また、自覚されない深い願望が何か別の意識体と共鳴して大きな動きを作り出すこともあります。よく、宇宙や守護霊やご先祖様が私にこういうことをさせたがって・・・ということを聴きますが、それだって当人の意識のどこかに同じ波動・同じ目的がなければ生じないのです。

また、こういう「出来事・経験の意味」を考えるときに単純に「因果応報」的観点ばかりを捉えてしまう人もありますが、それも「今私がこの人に苦しめられているのは前世で私がこの人を苦しめたからだ」などというのではちょっとどうか、という感じがします。因果応報は認められるにしても、それは何も前世まで持ち出さなくてもよいことです。今生で、それどころか今この瞬間において自分が与えたものが自分に返ってくるというだけの話であって、これは前回までのコラムでも繰り返し述べたことです。この「与える」というのがなかなか分かりにくいのかもしれませんが、これは別に「自分以外の誰か」他人に対して与える、という意味に限らないのです。というか、本来は潜在意識には自他の区別がない、というのを思い出してみてください。貴方が誰にしたことであれ、潜在意識においては貴方が貴方自身に対してしたのと同じことになってしまうのです。つまり誰かを憎んだのならそれは全く同時に自分自身にも向けられてしまうということになります。そして、自分の意識に刻印されたことが経験として外在化するのであれば、この場合は当然「憎しみ」を味わうような経験に自ら向かっていくということにもなってしまいます。

「私はいま自分が味わっているこんなことを与えた覚えなどない」と言いたいこともあると思います。そういうときは「こんな苦しい思い、辛い経験」というのが要するにどういう類のものなのか、ということをしっかり調べてみるべきです。即ち、「愛されない」「自分には価値がない」「報われない」「見放されている」などなど、実際に起こっている(ように見える)現象の奥にあるこのような骨組みにあたる部分こそが貴方が自分自身に与えていたものであり、そのことに気づきなさいというのがそれら「苦しい経験」の意味に他ならない、ということになるでしょう。

また、やはり何か苦しいことに見舞われたと思うとき「こういうことを苦しいと感じる必要はないのだ」というのが学び=意味だったりすることもあります。

これら「意味」というのはその真偽を証明することが普通はできないものなので、たとえ自分が勝手に「これはこういう意味があるのよ!」と思い込もうと思えば簡単に思い込めてしまう、という危険を常に孕んでいます。間違った意味づけほど恐ろしいものもないような気がしますが、スピリチュアル系に変に浸かってしまうとどんなことでもその都度「意味づけ」せずにはいられなくなる傾向もあり、下手をすると本質的な世界どころか妄想にまみれた世界を作ってしまいかねません。「意味」がわからないと、というかわかったと思えないと安心できない・・・という事態もありえます。これもちょっとマズイ、のです。(この項続く)

 
第93回「意味の意味T」

スピリチュアルな方法論において特徴的なものの一つに、ものごとやできごとについての「意味づけ」をするということがあります。

このできごと、この経験は私にとって何を意味しているのか?この人との出会いや関係は私にとって何を意味しているのか?

こういうことを知っておくのが何故重要且つ有用かというと、まず一つにはそれらの「意味」がわかっていればそれだけ早く学ぶことができる、霊的な成長を加速できるからですね。早く成長できればそれだけ無駄な苦労をしないで済むようにもなるのですから、これはスピリチュアルに限らず極めて現実的世俗的な側面から見ても有用なことになります。

もう一つには、たとえば辛く苦しい経験などはその意味がわからなければただ「早く終わって欲しい苦しみ」に過ぎないものになってしまうのですが、「こういう意味がある」とわかれば・・・つまり「こういうことを学ぶためにやっているのだよ」というのなら別に苦しまなくてもそれを学べば済む、ということになるのです。ただ無駄に苦しんでいる、不幸に陥っているのではなくこれも全て成長のために使えるツールなのだと考えることができます。

ところで、人は成長のためには苦しまなくてはならないのでしょうか?成長したり幸福になったりするためにはそれに見合う試練を受けなくてはならないのでしょうか?「これは私が成長するための試練だわ」という見方は非常に一般的ですし、人によっては「貴方が成長するためにご先祖様・守護霊・神etcが与えてくれた試練だ」という場合さえあります。というわけで試練をありたがく受け止め喜ぶべきだ、という考え方さえあるのです。私が今の段階において理解しうるところによれば、こういう考え方には一理あるが全面的に正しいとはいえないのです。

別に苦しまなくたって学べるし成長もできる。苦しい試練を受けなくてはならない、というのは古い考え方だ!これもスピリチュアルではおなじみの考え方です。私もこれには同感できます。何故なら「試練は必要なものだ」というのも一つの信念に過ぎないからです。しかし、情けないことにヒトというのは苦しい目にあわないと身にしみないことが多いのです。何とかなっているうちはいろいろな問題を見ないふりしてやり過ごせても、いざ自分の身に艱難辛苦が降りかかってくれば自分の来し方を振り返り省みないわけには行かなくなります。今までの私はどこか間違っていたのではないか、本当はこうじゃないのではないか?と自分を見つめる、正しく言えば自分の意識にある信念を精査してみることになるのです。こういう考え方、信念を持っていたからこんな経験をする羽目になったのだ、とわかれば必然的にそれを変更・アップデートしようというふうになりますね。

普通の人は苦しいことや辛いことが嫌いですから、何とか早くそれらから解放されたいと望むでしょう。その熱意とも言えるものが貴方の中の古い信念を見つけ出しそれを放棄して新しいステージに入るための気づきや理解を促す助けになるのです。

もちろん、喜びや愛や感謝によって学ぶということも十分可能でありそれどころかこちらのほうが学びとしては断然強力なのですが、これができるためにはまず自分自身がエゴから或いはネガティブなものから離れてオープンになっていなくてはならないわけですから、そのようになっていない状態の人が成長しようと思ったらどうしてもそのきっかけは「苦しい経験」になってしまうことが多くなるのだと思います。

また、成長するとき=意識が大きく変容するときというのは即ち今まで慣れ親しんだ信念の枠を抜け出すことに他なりませんから、その信念がいかに貴方を縛り苦しめてきたものであったとしても簡単に捨ててしまうことには抵抗や葛藤が生じます。もう使い物にならず却って邪魔になるだけのようなものでも長年なじんだものは手放しにくいのと同じです。この抵抗や葛藤が苦しく辛い、ということがあるのです。これが一見「試練」に思えるできごととして現れてくる場合も少なくありません。貴方は前に行こうとしているのにそれを阻むようなできごとに見舞われる、というようなとき、それは貴方の中の抵抗や葛藤が外在化しているのです。生みの苦しみ、みたいなものでしょうか?こういう現象を「神・天・宇宙に試されている」と解釈する人もいますが、私の理解としては神も天も宇宙も人を試したりはしません。さらに、悪い霊に邪魔されているという考え方は論外に近いと思います。悪い霊、というならばそれは貴方の中のエゴのことでしょう。いずれにしろ、これらの現象はただ貴方が貴方自身を試している、あくまでも貴方の中のことであると考えたほうがよいはずです。まあ、仮に「宇宙に試されている」という解釈をしたところで大勢に影響はありませんから良いのですが、要するにこの場合も抵抗や葛藤を手放せれば苦しむことも試練も消えてしまうのだとわかればよいのです。

あるいは、こういうケースもあります。よく考えれば別に苦しむ必要もないようなことで勝手に苦しんだり辛がったりしている人々も存在します。こういう場合は試練でも何でもありません。ただの誤認識、間違った思い込みです。たとえば貴方が「こうなって欲しい」と願っていることが今たまたま貴方の思い通りになっていない、というような場合それは単なる「不満」に過ぎないわけです。これが「どうしてこうなのだろう、どうしてああなってくれないのだろう、それは私が駄目な人間だからだろうか」とまで考えて苦しむのであれば、そこには自分に低い評価を与えたり罰したりしてしまう信念が絡んでいることがわかります。

いずれにしろ、「この苦しみには意味がある」というとき実はその苦しみ自体には何の意味もないのであって、苦しみを生じさせているものを見出しそこから解放されることにのみ意味があるのです。

また、他人から見れば試練に映るようなものでも本人にとってはただの努力でありプロセスであって別に辛くも苦しくもない、という例も当然あります。全てすべて当人がどう判断するかだけの問題なのです。大変なところを乗り越えるのに必ずしも苦しみは必要なく、その一方で全然大したことじゃない事態でも死ぬほど苦しむことは可能である。ですから、「こんなに苦しんだのだから報いがあるはずだ、当然それだけ幸せになれるはずだ」というのもあまり蓋然性がないわけです。重要なのは「必要なことを学んだか」どうかだけであって悩み苦しんだかどうか、ではないのです。(この項続く)

 
第92回「Giving 番外編」

これまでこのテーマについて述べてきたことの補足をいたします。

第二回の項で、「泥棒や詐欺にあっても怒ってはいけないのか」と書きましたが、こういう目にあったら普通は怒りますね。それは相手がこの世のルール・・・少なくとも貴方がこの世のルールだと信じているところの決まりごと・・を破り犯したからですね。信頼を裏切ったということもできます。もっともこれにもいろいろあって、例えばどこか治安の悪い外国の地でショルダーバッグのふたをあけたままで道を歩いていて財布を抜き取られてもおそらく誰も貴方に同情してくれないでしょう。その社会によって「常識」とされている決まりごとにもそれぞれ違いがあるからです。だから、ここでは一応その「常識・ルール」を共有している人々のあいだで起きること、に限定して述べられていると考えてください。

罪を憎んで人を憎まず、というのは非常に含蓄のある的を射た言い回しです。罪を憎む、というのはその行為を否定するということであり、貴方自身はにっくきその行為を決してやらないだろうということになります。そして相手を憎んでしまえばその気持は憎しみとして、つまりネガティブな感情として貴方の中に残り或いは刻印されてしまうために、この先どこかで貴方はまたその感情を再確認させられるような経験に見舞われる可能性が高くなるのです。他者に対する不信感や警戒心が増強されればそれは当然外部に投影され、それに呼応するような経験を呼び込んでしまいます。このあたりの仕組みについては散々しつこく説明してきましたのでおわかりになるでしょう。

要するに、怖いのはこれなのです。何か被害を受けたというそのこと自体よりも、またその事件によって失ったもの自体よりも、その経験によってネガティブな信念が貴方の意識に刻印されてしまうことのほうがずっと怖いことなのです。そのように将来にも悪い作用をもたらしかねない信念が刻印されてしまったのも私に被害を与えた憎いあの人のせいなのだ!と思うのは簡単ですが、これだとまさに「人を憎む」という状態になり、ますます未来は暗いものになってしまうのです。それに、同じ経験に見舞われてもそれに対してどんな感情を抱きどう捉えるかは人それぞれだ、という端的な事実を考えても「私をこんなネガティブにしたのはあの人よ」とは言えない、ということがわかりますね。

何かひどいことをされて、何かを非合法的に奪われて怒りを覚えるのは仕方のないことです。しかし、それを「相手に対する憎しみ」とか「私は運が悪いんだ、こういう目にあうのは当然のことで仕方ないのだ」などという因果応報的ネガティブな感情にまで発展させて自分の中に温存すれば一番損をするのは他ならぬ自分だ、ということになってしまうのです。これもまた「与えたものが返ってくる」原理からすれば、貴方が宇宙に向かって発しているこれらの感情や信念があなた自身に跳ね返ってくるのは避けられないことなのです。

貴方にひどいことをした相手はノウノウとしているのに悔しい!と思うかもしれません。しかし、そんなことはありえないのです。たとえ貴方からどう見えようとも「与えればそれを受け取ることになる」という原理は万人に適応されるので、当然貴方に何らかの害をもたらした人物も例外ではありません。そういうことをすれば本人が自覚していなかったとしても必ず意識のどこか奥底に罪悪感が刻印されます。というか、そもそも罪悪感が強い人ほどますますそれを強化するようなことをしてしまうのですが・・・とにかく、罪悪感が刻印されれば今度は当然「罰を怖れる」ということが出てくるのであり、その結果どこかで何らかの形で「罰だ」と感じられるような経験に見舞われるわけです。これを「天罰」という人もいるでしょう。ただ、天は罰を与えるものではありません。あくまで本人の意識の作用によって与えたものが跳ね返ってくるだけなのです。どこでどういう形で出るかはわからないし、それはその人の問題であってもはや貴方には関係ないのです。どこまでも相手を追いかけて不幸になるのを見届けよう、などとまあ思わないでしょうが思ってはなりません。それこそあなた自身がその考えによって不幸になるだけだからです。

ですから、相手がどう見えようとも一切関知しないのが賢明なあり方です。めったにいないとは思いますが、真に慈悲深い人ならば自分に害を与えた相手がその意識の作用によってどこかで「罰だ」と思われる経験に見舞われるだろう、そう考えて心を痛めるでしょうし相手のために祈りさえするかもしれません。

また、「与えたものを自分が受け取るのだ」という原理を知悉して実践している人・・即ちよいものだけを与えようとしている人々ならば当然の帰結としてそうそう非道な目にはあわないでしょう。たとえ周囲から見て「なんてひどいことでしょう」と思われる経験に見舞われても本人はあまり辛さや苦しさを感じないでしょう。全ては本人の意識の問題です。以前、幸せについてというコラムでも述べましたが、幸せとはあくまでも当人がそう感じるかどうかであって周囲からどう見えるかではないのです。周囲から幸せそうに見えることが幸せだ、と考えてしまう人も少なくないのですが、こういう考え方はいずれどこかで破綻してしまうでしょう。

さて、「よいもの」といえばまず「感謝」を思い浮かべることができますね。日頃から感謝することが多ければそれだけ感謝に値する経験を呼び込めるというわけですが、この感謝というのも専ら「あり方」「意識」の問題なのです。即ち、「心の中では全然ありがたいなどと思っていないのに相手に対してはにっこり笑って御礼を言う」というのでは駄目だということです。これは処世術としては有効ですが、スピリチュアルな原理の実践にはなっていないからです。もちろん、感謝の気持を態度に表すのは大事なことですが、たとえそれができなくても一人で感謝の祈りを捧げるだけでも良いのです。やってみればわかることですが、感謝の気持を抱きつつそれと全く同時に不幸でいるということは不可能なのです。感謝のあるところには必ず幸福感がともなうものです。感謝を捧げているとき貴方は宇宙に対して幸福を与えていることになりますので、当然「幸福」が跳ね返ってきているのですね。

こういう瞬間は誰にでもあるはずです。したがってその「瞬間」を毎日少しずつでも増やすように心がけてください。相変わらずエゴの暗躍で不幸の影が忍び寄ることもありますが、感謝=幸福感の習慣がついていれば不幸な気持は長続きしなくなるものです。いやあな感覚に見舞われてもわりあいすぐにリセットすることができるようにもなります。もちろん多少の・・或いはかなりの努力が必要かもしれませんがそれだけの価値はあります!是非お試しになってみてください。

 
第91回「Giving X」

(承前)もうひとつのタイプの「受け取り下手」というのは、いわゆる気前が良くて依存心の少ない人だということもできるかもしれません。確かにそう見ることもできます。しかし、それと同時にシェア下手であるということもできてしまうのです。

相手に何かしてあげるのが好き、別に見返りも求めていない、ただ受け取ってもらえればそれが幸せだしそのことだけで感謝できる。これは素晴らしいことです。が、その一方で相手から何かをしてもらったとき、評価されたりほめられたりしたとき、感謝されたとき・・・つまり自分にとって通常と反対の立場におかれたときにどうにも居心地が悪くなり、それらを素直に受け取ることがまるで「良くないこと」をしているかのごとくに感じられてしまうという人々も、割合としては少ないのですが存在するのです。ひょっとすると「スピリチュアルな生き方をしよう、周囲の人々に惜しみなく与えて感謝の気持を持とう」という決意固く実行に移しているうちにこのパターンに陥ってしまうこともあるかもしれません。スピリチュアルに限りませんが、何かの考え方をあまりにも教条的に捉えすぎると知らず知らずのうちに自分で「べき・べからず」を作ってしまうものです。たとえば「依存するのは良くない」「見返りのない愛でなければ価値がない」「感謝して与えなさい」などなどをあたかも「教義」のように捉えてしまうのですね。

たとえば、誰かが貴方にすごく良くしてくれているとします。頼みもしないのに毎日車で迎えに来てくれるとかランチをごちそうしてくれるような人がいるとしましょう。しかもその人は大変余裕のある人なので全然負担になっているふうもありません。だから貴方は相手に対して感謝していればよいのであって別段「悪い、申し訳ない」と思う必要がない状態だとします。しかし、貴方はこのまま行ったら相手に依存してしまうのではないか、と考え心配になります。だったら依存しないように・・つまり「してもらって当たり前だ」と思わないように注意すればよいだけなのに、「依存してしまうのが怖いから受け取るのもやめておく」「明日からはもう結構です、こんなことしないで下さい」になる。誰かにとてもほめられたり評価されたりしたとき、自分が傲慢になってしまうのが怖くてそれらの言葉を素直に受け取れない。お礼を頂いたり感謝されたりしても「見返りや感謝を求めていた自分」になりたくないから受け取れない。これらはどれも、相手の好きなようにさせてあげず、自分にとっての心地よさ、つまり私は謙虚でエゴのない良い人なのだと感じたいというエゴ的願望を優先しているのですから、謙虚なようでいて実は大変自己中心的な考え方ですね。また、見方を変えれば「感謝する・与えるというチャンスを相手から奪っている」とも言えます。与えたり感謝したりするのは素晴らしいことだ、と思って日々実践しているのなら、そういう素晴らしい経験をほかの人にもさせてあげたいと思うのが当然でしょう?

このタイプの人が、実は「自分は価値のない人間だ」という信念を奥深くに抱いていることも珍しくありません。私は価値のない罪深い人間だから見返りや感謝など求めずただ人に与えたい、それがありがたいのです、などという言葉を聴けば「まあ何て立派な方なのでしょう」と思う人もいるかもしれません。しかし、その一方で相手からの「与える」気持や行為を受け止める態勢にないならばその人は謙虚というより頑固で「閉じている」のに過ぎなくなってしまいます。

別に宗教の話をするつもりもないのですが、ある貧しい女性がなけなしのお金をはたいて得た香油を惜しみなくたっぷりとキリストの足に塗るという話が聖書にあります。弟子たちは、彼女の経済状態を考えれば「彼女の申し出を固辞するべきだ」と言いますが、キリストは喜んで彼女の厚意を受けるのです。ここで「貴方は貧しいのだからこんなことにお金を使わずとっておきなさい」などと言ったら彼女はどんなに傷ついたでしょう。感謝して受け取ることが彼女に対する愛情の表現だったわけです。

また、同じエゴ的願望でも違ったタイプがあります。与える、という立場或いは相手に対してより多くの貸しがあるという状態はどうしても「相手より上にいる」感じがするものです。そういう立場に自分をおくことが心地よいという人は当然相手から助けられたり何かしてもらったりするのは「立場の強さ」を失うことと同じですからあまりありがたくないわけです。

面白いもので、この「与える」を「奪われる、取られる」こととして認識してしまう「与え下手」の人にとっては、逆に相手から「出させる、何かをさせる」ということが自分の立場の強さを示すものになるのです。どちらにしても、「与える」「受け取る」ことと立場の優劣とを関連付けてしまっているという点では全く同じことになります。

Give&receiveということと「感謝」とは切り離せないものですから、ここで少し「感謝」について述べてみましょう。

スピリチュアル方面の教えではよく「どんなことが起きても感謝しなさい」とありますね。ここは少々説明を要すると思います。どんなひどいことに見舞われても感謝しなくてはいけないのか?失恋しても、浮気されても、お金を取られても、肉親が死んでも、災害にあってもそれでも感謝しなくてはいけないのか?

どんなことでも、まず貴方がそれに対して何らかの評価・判断・・つまりjudgmentを下してしまわない限りそれらは「素晴らしいこと」でもなければ「ひどいこと」でもありません。たいていの人はこの部分を無意識にかつオートマチックに処理してしまいます。一旦何かを「ひどいこと」と判断・認識してその上で「感謝する」というのはやっぱりどう考えてもおかしいことです。また、何か「ひどいこと」に見舞われたがその中からプラス面を見つけ出して感謝する、というのも処世術レベルでは「アリ」ではあるのですが、私の考えではこれもスピリチュアル的な意味とはちょっと違うような気がします。

どんなことが起きても、つまりガーンとかゲーッとか思うようなことが起きてもそれを「ひどいことだ!」と判断する一瞬前にすばやく「感謝します!」と言ってしまうこと。これが肝要です。

貴方が何らかの価値判断を加えなければどんなことにもそれ自体で「良い」「悪い」はないのです。そして価値判断を加える前に・・・本当に一瞬前になってしまうのですが、感謝を捧げれば普通ならどんどん落ち込んで不幸のスパイラルになるようなことであっても、逆にどんどん感謝に値するようなことが起きてくるのです。

もっと言えば、感謝すべき理由を見つける前にもう感謝してしまっておくような感じですね。そうすれば、その感謝の波動に沿って物事が動き出すというしくみになっているようです。

これはいろいろに応用できます。例えば貴方が誰か苦手な人と難しい話をしなくてはならないときなど普通なら気が重く何日も前からウンザリ憂鬱だったり、身構えて緊張したりするものですが、その人のことを考えながら「感謝、感謝」と心の中で唱えつつそういう意識になっておくと面白いことに拍子抜けするほどうまく運んでしまったりするのです。ここで注意していただきたいのは、いわゆる「よい結果をイメージして」その結果に対して感謝するのではないということです。プロセスや結果について具体的なイメージを持たないほうが却って望外の奇跡を呼ぶ可能性が高くなります。また、「こうすればいいことが起きるはずよっ」と力んでやると失敗しやすいので要注意。何故ならこういうふうに意識すればするほど「でも駄目だったらどうしよう」という不安が伴いやすいからです。

ともあれ、感謝というのはどうも習慣性が高いようなので日頃から小さなことでもマメに拾って感謝するようにしておけば、いざというときに楽にその意識状態に入れます。是非試して御覧になってみてください!

 
第90回「Giving W」

(承前)前回の最後で「受け取り下手」ということについて少し触れましたが、これにはなかなか深いものがあるので今回なるべく詳しく説明していくことにします。

一番よく見受けられる例が、いわゆる「抱え込んでしまう人」ですね。仕事でも何でも、よく考えれば別に頼まれたわけでもなければ強制されたわけでもないのに、自分で勝手にそう思い込んでギリギリの状態まで抱えてしまう。本人もとても大変で苦しいのに手放すことができないのです。もっとも、本人は「手放したいけどそれは不可能だ」と思い込んでいるわけですね。周囲からみれば「そんなの誰かに頼んだら?」「別に引き受けなくたっていいんじゃないの?」「いくらなんでもそこまでしなくてもいいんじゃないの?」と映るのですが、本人にとってはそうではないのです。こういうことは一般的には「責任感が強くて真面目」「他人の分まで引き受けてくれる気前の良い人」などというような美点とされますが、それはあくまでも表面だけを捉えた見方であってもしも本人が「辛くて苦しい」のならば、ましてや「どうして私がここまでしなくてはならないのか」「周囲が助けてくれない・無能だ・わかってくれない。私ばかりがひどい目にあう、損をしている」などと感じているのならば・・・つまりそのことによって本人が不幸になっているのならば、やはりどこかがおかしい、どこかで間違ってしまっているのです。たとえ多くのものを抱えて苦しくてもそれがただ「大変だ、ハードだ」という意味だけであって、別段怒りや惨めさや自己憐憫などのネガティブで不幸な感情を伴わないならば問題にはなりません。

抱え込んでしまう人、というのが何故受け取り下手なのか?この場合は「お願い下手」と言い換えても良いのかもしれませんが、要するに他者から何かを与えてもらうことが苦手という点では全く同じことになります。こういう人々はたいてい「他者からの評価」を強く求めているものです。たとえ自分では「そんなことはありません、別にほめられたくてやっているのではありません」と思うかもしれませんが、これは認めなくてはならないことです。何故ならこういうタイプは殆ど「自分はこんなにやっているのに報われない」と思っているからです。そして、ここが面白いのですが、「やっても認めてもらえないかもしれないならバカバカしいから、損なだけだからやらない」という「与え下手」と違って、認めてもらえていないと思うとますます意地になって(いるようにしか見えません)あれこれ一人で抱え込んでやるのです。もっとも誰かがその人に高い評価を与えてくれればくれたでますます張り切ってやるのでしょうが・・・この場合は「不幸な感情」はとりあえずなくなりますね。

こういう人は、「評価を与えてもらった」と自分が実感できること以外は受け止められないようなのです。つまり誰かが「大変ね、手伝ってあげましょうか」とか「そんなにしなくてもいいんですよ」と言ってくれてもそれを「受け取らない」のです。極端な場合になると、自分がそういう申し出を断っておきながら「誰も助けてくれない」と嘆いていたりします。こう指摘すると、彼らはだいたい「だってあの人に頼んでもどうせできないんですよ」と言ったりするのですが、「与えたものが自分に返ってくる」のだが「与えたところから直接返ってくるとは限らない」というのを思い出してください。誰かがサポートを申し出てくれたら、実際にその人は役に立たないからお断りするにしてもその気持だけ感謝とともに受け取っていれば、どこか別のところから本当に役に立つサポートが来るかもしれないのです。ところが、文字通りそもそも「受け取り下手」なわけですからそういう「気持」さえ受け取れないという事態が生じてしまうのです。

本人は「自分ひとりが頑張って皆が背を向けている」と感じているかもしれませんが、実は背を向けているのは他ならぬ自分自身だったりするのですね。

これは恋愛などの人間関係においてもみられる現象です。相手がその人なりの方法で愛情を投げてよこしてくれているのにそれに気づかない、受け取れない。自分が「こう言って欲しい、こうして欲しい」と期待するとおりのことが起こらなければ何もされていないのと同じになってしまうのです。自分はこんなにやっているのだ、と認めて欲しいという気持が高じて何というか一人歩きしてしまうような感じになります。

要するにこのタイプの「受け取り下手」「頼み下手」の人々というのは、実は他者からの評価を求めているのに自分がそれを自覚できていないところに問題があるのだと言ってよいでしょう。だからこそどんどん「独りよがりの世界」にはまり込んでしまうのです。これでもか、これでもかと頑張っても周囲にその頑張りが評価されていないように感じるならば、貴方はまさに「閉じてしまって」いるのです。あちこちで提供された、或いはされたかもしれないサポートに対して自分を閉ざしてしまっていたのです。

ところで、「陰徳を積む」という言い方がありますね。誰にも知られず隠れてよいことをすれば、それがいつかどこかで貴方のためになるでしょう、報われるでしょうということなのですが、それは人知れず、評価を求めずによいことをしているというその心の姿勢自体が貴方に跳ね返ってくるでしょう、ということであって「陰徳」として行なわれた一つ一つの行為自体が評価されるという意味では全くない、というより正反対なのです。

ここで述べた「受け取り下手」「頼み下手」の人々の勘違いによる不幸は何となくこれと通じるものがあるように感じます。評価が欲しいなら初めからそのように動けばよいのに、そんなもの自分は求めていませんという振りを自分自身に対してやっている・・・つまり一種の自己欺瞞があるのです。自己欺瞞と「平和・幸せ」というのはどう考えても共存できませんね。

いままで述べてきたタイプというのはいわゆる「感謝がしにくい」人々なので、その点においては「与え下手」と同じであり、この両者はネガポジのような関係にあります。

「感謝」というのはまさに与えた瞬間に受け取ることができる、必ず跳ね返ってくるものであり、その気になれば日常的に頻繁に経験できるものです。こういうことが積み重なれば自然に「感謝したりされたり」という現象が沢山生じるようにもなるわけで、つまり感謝する機会が少なければどうしたって「感謝に値する」現象も少なくなってしまうのです。そういうわけで「感謝していれば運が開ける」というのですね。

さて、上記のタイプとは別に「本当に与えるのが好き」だけど「受け取るのは苦手」というのもあります。彼らは、実に気前がよく親切で「人の喜ぶ顔が見たい」「相手のために何かしたい」と本気で思っており、別に感謝されたいとか評価されたいなどと思っているわけでもない。むしろ自分が相手に対して何かしてあげられることに感謝してしまうようなタイプも含まれます。見返りがないからといって不満を持つこともない。世に言う「できた人」ですよね。

しかし、こういう人たちの中にはいざ自分が「与えてもらう」立場におかれると途端にどぎまぎしてしまって居心地が悪くなり、相手の申し出を断るわけに行かなければ、つまり受け取らざるを得なかった場合には即座にお返しをしないではいられない・・・という人種があります。世間的には「ますます良い人」で済むかもしれませんが、スピリチュアルの立場から見るとこれはこれでちょっと問題なのです。(この項続く)

 
第89回「Giving V」

(承前)スピリチュアルな考え方、というのは前回お話したとおりこの世の常識的な考え方とは一見矛盾するものを多く含みます。しかし、だからといって今いる「ここ」とは別のどこかにスピリチュアルな世界が存在しているわけではありません。あくまでも「今ここ」においてこれまでとは別の考え方・見方をすることによって自分にとっての世界を変容させてしまおうということなのです。自分ひとりにとっての世界が変容したって世の中何も変わらないじゃないか、と思われるかもしれませんが、どんな大きな変化でも一人ひとりの意識からしか始まらないのです。

また、今回のテーマからは外れることですが、サイキックとスピリチュアルとは重なる部分もあるものの同一ではありません。サイキックな力を持ってはいてもスピリチュアルとは程遠い考え方をしている人々も多くいる一方で、全く平凡に暮らしているように見えても非常にスピリチュアルに生きている人々というのも存在するからです。

閑話休題。前回でも述べたように、スピリチュアルな考え方において「与える」ということにまつわるあれこれはいわゆる常識とは違うものに聞こえるでしょう。しかし、ちょっとそのつもりになってみれば「ああなるほど、確かにそうだ」と納得できる点も多いはずです。

原則的には「自分が与えたものが自分に跳ね返ってくる」「貴方は自分の与えたものを受け取ることになる」でした。貴方の日常的なあり方や考え方・ものの見方などは言ってみれば貴方が世界に対して与えているものであり、その結果貴方にとっては世界がそのような姿として受け取られる・・・ということにもなります。

さて、もっと現実的な話をしてみましょう。世間には与えるのが苦手、とか「嫌い」という人もいますね。いわゆる「ケチ」な人といってしまえばそれまでですが、何故そうなるかといえば単純に「損したくない」ということになるのだと思います。金品に限りません。愛情や行為などであっても「自分ばかりが相手に与えて何も返ってこなかったら悔しいし惨めだから」と思って出し惜しむのでしょう。このあたりの「からくり」についてはgivingの第一回で「返ってこなかったらそれはそもそも愛ではなかったのだ」ということの説明をしましたね。それだけではないのです。何かを与えたのに見返りがない、ということで怒ったり悔しがったりするのであれば、その人は実は「与えた」のではなく「欲しがった」のです。得たいものがあり、それを得る手段として「与えた」だけなのですからこれはもう「与える」こととは別物であり、言うなれば一種の「売買」です。Give & take だとするとgiveした結果のtake、ではなくてtakeを目的にしてgiveした、ということになります。相手の愛情や尊敬や感謝を得たいから、いい人だと思われたいからという目的で「与える」わけです。単純に相手のためを思って与えるのはtakeではないのでこれには当てはまらないでしょう。

それでは、「見返りがないとイヤだからあげない」という考えで出し惜しみをしている人は損していないわけだから豊かなのか?例えば、優しくしてあげても何も返ってこないからといって優しくするのを止めている人は幸せなのでしょうか?「優しくしたのにお礼も言われず邪険に扱われるよりはマシじゃないのか」という意見が圧倒的なのでしょうが、ここで注意していただきたいのはこれらが単に「より惨めではないほうを選んでいる」に過ぎないということです。つまり「傷ついたり損したりしたくないから優しくしません」という人も程度の差こそあれ(=ある、ように見えるだけですね。大して変わりません)惨めであるという点では同じなのではないでしょうか。

もっと言えば、「傷ついたり損したりしたくないから与えない」という発想をしてしまった時点でその人は既に惨めなのですね。何故なら、この時点で既に「傷つき損する」ことを想定できてしまっているからです。本当に優しい人や愛情深い人というのは、結果がどうのこうのではなく「そうするしかないから」優しく愛情深くしているのであって別に目的などないのですが、いわゆる「ケチな人」にとっては「何か魂胆があるに違いない」と見えてしまったりします。(これも鏡現象です!)あるいは、うっかり受け取ってしまったら何かお返しをしなくてはならないのではないか、と思ってしまったりもします。ということは、ケチな人=与え下手の人というのは「受け取り下手」でもあるような感じですね。「自分はけちのくせにあつかましい」というような人もいるでしょうが、えてしてこういう人々はモノや機会などは貪欲に受け取るものの「気持」のほうはあまり受け取っていないようです。だからこそ感謝もしない、ということが生じるのでしょう。

たとえば、自分のほうは相手に全く優しくせず「してもらい放題」という人もいるわけですが、当人に感謝も満足もないのだとしたらスピリチュアル的な見方では結局何も受け取っていないに等しいということになるのです。逆に、自分では大したことをしたつもりもないのにものすごく感謝されてしまった、という場合もあります。逆説的ですが、感謝されようという目的がなかったために「与えた」ということがストレートに伝わり自分にも跳ね返ってきたのです。こういうとき、居心地が悪くなりやたらに恐縮してしまう人も結構いるのですが、ここは素直に「相手が感謝してくれたことに感謝する」という受け取り方をするべきでしょう。

ところで、リーディングの現場で私が「この人に何をしてあげても無駄ですよ」などと言うこともあります。これはクライアントが「こうしてあげれば自分の望みが叶うのではないか」と考えている場合に限りますが、殆ど全ての人がこういう前提に立っているのが現実です。

さて、ケチな人=与え下手の人とは全く逆に「与えるのは大好きだけど受け取り下手」という人もいます。何かをしてもらってしまうと「お返しをするのがイヤ」という理由からではなくて「バツが悪い」「居心地が悪い」と感じてしまったり、むしろ「何が何でもすぐにお返しをしなくては落ち着かない」という気分になってしまったりする人たちですね。更に、受け取り下手の一種として「頼みごとができないタイプ」というのもあります。断られるのが怖くてできない、というのなら先ほどの「傷つきたくないから与えたくない」の別バージョンなのですが、それとは違うタイプがあるのです。これら受け取り下手の人々というのは概して「自分の弱みを見せたくない」「弱い立場になりたくない」「借りを作りたくない」とか「何かしてもらうのは情けないことだと思っている」などということが考え方の基本になっているようです。

私個人の経験で言うと、何かをしてあげたときに「ありがとう」と言わず「すみません」という人はどうもこういうタイプのような気がします。単に「すみません=感謝の言葉」という教育を受けただけなのかもしれませんが、すみませんと言われると何だかこちらも「私は何か謝られなくてはならないことをしたのだろうか」などと思ってしまったり、ということがありました。

とにかく「与えることは大好きだが受け取るのは苦手」「人を助けるのは大好きだが自分は頼みごとができない」というタイプは、一般的には「気前が良くて」「自立心があって」良い人だ、と前述の「ケチ」に比べれば大変評判が良いはずですが、スピリチュアル的にみればやはり不自由なのです。(この項続く)


 
第88回「GivingU」

(承前)スピリチュアルな考え方、というのは一言でいうと、この三次元の世界にありながらより本質的な高次元の意識を持って生きようというものです。私たちそれぞれの肉体の感覚器官で捉えられることが真実とは限らない、普遍的な真実というものは肉体の感覚を超えたところにあるのだが、通常はどうしてもこの目や耳で捉えた現象をエゴにまみれた意識で解釈してしまうのですね。ともあれ、そういうわけでスピリチュアルな考え方にはいくらそれが真実であってもこの世の常識とは一見矛盾するものが沢山含まれているのです。

その一つが「与える」ことにまつわるあれこれでしょう。スピリチュアルな考え方の根本にあるのが以前お話した「全てはひとつ」というものです。全てがひとつであり自他の区別がないのならば、与えることと受け取ることは同じものになってしまいます。貴方が自分に何かを与えたとしましょう。貴方は与えたのであり受け取ったのでもある、ということになりますね?自他の区別がないのならば、究極的にはわざわざ「与える」「受け取る」という概念すら意味を成さなくなるのだろうと思います。

しかるに、この世においては何かを与えればその人はそれを「失う」ことになっています。誰かに一万円あげれば貴方は一万円を自分のお財布から失うことになる、わけでしょう。それどころか、この世においては与えることが「くれてやる」「奪われる」かのように、また「受け取る」ことが「奪う」かのように捉えられているケースが少なくありません。私のみたところ、スピリチュアルな考え方において一般的にgive & takeではなくgive & receive という表現が一般的なようです。Give & takeだと、何かを与えた場合そのお返しに何かをもらって初めて「与えた」という行為が価値あるものとして成立するような印象を与えますね。しかし、繰り返し書いているようにスピリチュアルでは「本質的な愛」が中心にあるため「見返りを求めない」のが常識なのです。これはなかなか難しいことです。極端に言えば、泥棒や詐欺にあっても怒ってはいけないのか?ということになってしまいます。このあたりについては後述しますが、とにかくこの考え方によれば「与えても貴方は何も失わない」となるのです。

これはどういうことでしょう?スピリチュアルの考え方では「意識」が全てです。目に見える形あるもの、というのは実は「そのように見えそのような触感があるように思えている」だけであって、真の存在物ではない。それらは本当は「気」であり「エネルギー」であり、更に言えば「意識」の一種なのであって、それらがたまたまこの三次元空間においてはそのような「形」に見えているだけである、ということがまず一点。また、これも以前に述べましたが変化するものは全て普遍的な存在ではない、つまり真実在ではない、というのがもう一点のポイントです。これらは別にスピリチュアルに限らないもので、仏教などでも同じような考え方があると思います。そのような「真実在」ではないものなのだったら元々「ない」に等しいのだから失いようがない、というわけですね。

よく「誰かに気を送ったので疲れた」とか「エネルギーを与えたので消耗した」という人がいますが、これは「気」「エネルギー」を物質のごとくに捉えているからそうなるのです。更にそれらを自分の所有物、自分に所属する何かだと捉えているのです。真にスピリチュアルな世界には自他の区別がなく全てはひとつである、のならば所有だの所属だのということは生じようがありません。これらはそれぞれがバラバラに分離した存在であることを前提としたこの世の法則なのです。気だのエネルギーだの一見スピリチュアル風なことを言っていながら実際にはこの世の法則に従ってしまっていれば「与えればそれだけ失う、減る」という現象に見舞われるのも当然のことです。

与えるものが何であれ、それが実は「意識」からできているものだとするならば、前回お話した「愛の反射」と同じ現象が起こります。つまり、どんな「もの」を与えたとしても実際にはその背後にある「意識」を与えたことになるのですから、それが反射されて貴方に戻ってくる。ならば、与えても貴方は何も失うことはないでしょう、むしろ与えたことによって同じものを受け取ることになるでしょう。それは与えた「相手」から受け取るのではありません。あなた自身が与えたもの=意識がそのまま貴方に跳ね返されてくるのです。これは、例の鏡現象と非常に似ています。

もしも貴方がエゴ的な何かを相手に与えてしまったのなら、その相手が何らかの形で「本当の愛」を貴方に与えてくれていても、貴方が受け取るものは自分が発したものの照り返しだけになってしまうでしょう。

それでは、貴方がいくら素晴らしい意識によって何かを「与え」ても相手が極めてエゴ的な人物だったらどうなるのか?その人自身が発しているものが相手に反射するのならば・・・この場合は「逆噴射」みたいなイメージですね・・・貴方がいくら良い何かを与えてあげても無駄になるのか?まず、こういうことを考えること自体が「見返りがないと意味がない」的な発想なのですがそこはあえて無視して見てみましょう。「受け取る」というのはオープンな姿勢でないとできないことです。そして自分がオープンな姿勢でいれば相手もよりオープンになりやすいのでしたね。つまり、こちらが真にオープンな姿勢で与えることができればそれだけ受け取られる可能性も高くなる、ということになります。

ところで、受け取られたかどうかというのをどうやって判断するのでしょうか?ここがまた泣き所なのです。何故ならたいていの人は相手が自分の期待通りの反応をしたかどうかで「受け取られた」或いは「無視された」と判断してしまうからです。例えば貴方が誰かに何かをしてあげてお礼の言葉の一つもなかったらどう思いますか?本当は受け取られているのかもしれないにもかからわず「ひどい、無視された」とか「平気で私から奪っていった」「損したわ」などと思って落ち込んだり怒ったりするのではありませんか?オープンな姿勢を保つことができていればそういう感じ方はしないはずなのです。何しろ、貴方には自分の与えたものが跳ね返ってくるわけですから不平不満の生じようがありません。ここで不平不満や怒りを覚えるのならば、その一瞬前に貴方はオープンさを忘れエゴ的な何かを相手に与えてしまったことになります。

このあたりは本当に難しいというか面白いところです。ある瞬間、愛に満たされていたはずなのに次の瞬間にはもうエゴにまみれている、という事態は誰にでもしょっちゅう起こることです。これは「時間」のからくりにも関係しています。この世界では通常「時間」というのが何か連続したものであるように捉えられていますが、一瞬一瞬はつながっているように見えて実は独立して存在しているのです!えーっ、だったらせっかくいい感じの意識になれても一瞬で元に戻っちゃうってこと?まあその通りなのですね。しかし、落胆することはありません!一瞬一瞬が独立した存在であるからこそ、今の今まで不幸のどん底だった人が突然ハッピーになったり瀕死の重病人が回復したり・・・などという奇跡もありうるのです。

話を少し戻します。与えた結果については何も判断しないようにすることが大切なのです。何故なら貴方は貴方の意識に刻印された信念によって自分流の見方で解釈してしまうかもしれないからであり、鏡現象によって自分の信念が投影されてしまっているだけかもしれないからです。Aさんに対してしてあげたことの「見返り?」がBさんから返ってくる、ということも前回のコラム同様大いにありうることです。

ただ、こういう原則をある程度わかって実践していると面白いことが起こることも確かで、旅行代金用の5万円を入れた封筒を落とした30分後に5万円入った誰かの封筒を拾った、という人を私は実際に知っています。(警察に届けず旅行代金に使ってしまったそうですが・・・)

次回からはもう少し具体的なことについて説明いたします。(この項続く)

 
第87回「GivingT」

いわゆるスピリチュアル関連の考え方以外でも、さまざまな宗教や倫理的教えの中核にあるのはたいてい「愛」と「与えること」=「慈悲」というものです。愛の本質について述べるのはまたいつかの機会に、ということにして、今回は「与えること」をめぐるあれこれを考えていくつもりです。

ただ、その中でも前回の「全てはひとつ」同様に誤解され行き詰まりを招きやすい事項として「愛は、与えれば必ず返ってくる」というテーゼがありますので、ここだけは私に可能な範囲できっちり説明しておきたいと思います。

愛を与えれば必ず返ってくる?与えれば必ず受け取れる?そんな都合の良い話なんてあるのか。私はこれまで数え切れないくらい愛を与えてきたけど返ってこないことも沢山あった。嫌な人に好かれて迷惑したこともあったけど、与えられたら必ず返さなくちゃいけないのか?とか、

まあ、そうなのかもしれないけどそれって要するに理想論でしょ?現実は違うよね?とか、要するに愛についてのこの定義はまず一般的には「真実だ」と受け止められることがない、と言っても過言ではないでしょう。しかし、本質的な愛の定義から言ってこれはやはり真実なのです。それが何故かくのごとく「ウソに決まってるわよ」と思われる羽目になるのか?その理由、というか勘違いポイントは大きく分けて2点あります。

まず第一には、「愛を与えれば返ってくる」というのは「与えたその相手から直接」しかも「貴方が期待している内容や方法で」返ってくるわけではない、ということです。しかるに、たいていの人は「愛を与えれば返ってくる」というのを「誰かに良いことをしてあげたらその人からも良いことをしてもらえる」とか「誰かを好きになってそれを行為で示せば必ず相手に伝わり、相手からも愛される」などというふうに解釈してしまうのです。

以前にも少し書いたことがありますが、本来「愛」というのはある「状態」なのであり、それゆえに貴方の中に「ちょっとだけある」ということはありえないものです。少なくともその瞬間においては全面的に愛であるか、そうでないかのどちらかしかありません。つまり、貴方が「愛」というあり方・姿勢をしているかそうでないかのどちらかなのです。そして、言うまでもないことですが、愛を与えるためにはまず貴方がその瞬間「愛」というあり方をしていなくてはなりません。それが誰か特定の人にだけ向けられるように思えても、そのとき貴方は全面的に「愛」という状態・姿勢にあるので、その「愛」は四方八方満遍なくあらゆるものに向けられあらゆるものを照らしていることになるのです。そうして放射された「愛」が今度は反射される、貴方に向かって照り返されるのです。或いは、こういう喩えもできるかもしれません。貴方が花びらをたくさん投げたとしましょう。それはたった一つの方にだけ向かうことはなく、あちこちに飛び散るでしょう。そしてその一部は貴方の頭上から舞い降りてくるでしょう。そういうことなのです。そもそも「与える」というよりは、貴方が愛というあり方をしていれば特別何もしなくても愛は貴方から放射されるので、その照り返しがまさに「返ってくる」という現象を示しているのです。

もちろん、貴方が愛を与えたと思っているその当人から直接返ってくる、ということもあります。しかし、その本質からみて愛は見返りなど期待しないものなので、「この人から愛し返されたい」と望みながら発するものは、当然愛ではないのです。非常に逆説的ですが、全く意識せずただその姿勢でいることによって自分にも愛が返ってくるという現象が生じるわけです。なのに、多くの人がどうしても見返りを期待してしまう。しかも、自分にそうとハッキリ分かる形で、いやそれどころか自分が満足する形で与えられないとイヤなのです。仮に相手が貴方に愛を返してくれていたとしても、それが貴方の期待する形をとっていなければそうと認識すらできない、という状態です。こういうとき、実は貴方自身が既に愛という状態にはいない・・・つまり愛がない状態になっているのであり、その結果として「愛を認識できない」「愛を受け取れない」ことになってしまっています。そうです、まずは自分が「愛」という状態になければ与えることも受け取ることもできないのですね。

鑑定の現場でも、「この人は貴方にこんなことをしてくれているではないですか」と指摘しても全く納得せず、あーだこーだと難癖をつけて相手を非難する方がいらっしゃいます。こういう方々は「彼(女)のことがすごく好きなのだ」と自分では思っているのでしょうが、実際にはまずご自分自身が「愛がない」状態に陥っているわけです。

要するに、貴方が愛というあり方をしていればいろいろなところから同じ「愛」が反射されてくるのです。愛を与えれば返ってくるというのは本来こういう意味であり、またこういう意味でしかありません。

第二の勘違いポイントに移りましょう。以前ブログで書籍を紹介した「和尚」の言葉に、「愛を与えればそれは即座に返ってくる。もし返ってこなければ、それはそもそも愛ではなかったのだ」というものがあります。これは衝撃的です!

たとえば、「愛を与えれば必ず返ってくる」というのを最悪の形で誤解してしまうと「じゃあストーカーはどうなるのか、彼らはこのテーゼを信じて生きているということなのか」などという考えも生じそうなのですが、和尚の言葉は見事にこれに答えてくれています。即ち、彼らの思いは全く愛などではないわけです。おそらく極端にエゴ的なナルシシズムでしょう。

ここで確認のために言っておきますが、「愛」というのは「好き好き!」という気持とは違います。欲望や色恋などというのはおしなべてエゴの領域に属するものであり、それに対して愛はエゴがない状態でのみ可能なものなのですからー普通の人が四六時中エゴから離れているのは不可能に近い困難事ですが、瞬間的には十分可能です。そしてそういう瞬間にこそ、またそこにおいてのみ愛が生じることも可能になるのですーいわゆる「好き!I want you, I need you」などという事態とは全く違うものです。まずこの時点で勘違いをしてしまうともうどうしようもありません・・・・

これでもうおわかりになったでしょうか。愛を与えたつもりなのに即座に返ってこなかった、のなら貴方が与えたのは愛などではなかった。何かエゴ的なもの、欲望とか期待とか執着とかそんなようなもの、ミもフタもない言い方をしてしまえば「私の思い通りになってちょうだい」という要求だったのです。或いは、これもよくありがちなことですが「こんなに愛しているのに!」とかいって自分の苦しみや悲しみを相手にぶつけていてそのことを「愛を与えた、愛した」のだと思っているのならば、大間違いになってしまいます。これは要するに苦しみや悲しみを与えた(?)ことになってしまうので当然それらが倍加して返ってきても不思議ではないのです。

ここで述べたことは、「与えたものが戻ってくる」「与えることと受け取ることは同じである」というこれまたスピリチュアルにも宗教にも共通するテーゼの一現象です。次回からはこの「原則」についてできるだけ詳しく説明いたします。(この項続く)

 
第86回「全てはひとつ?」

いわゆるスピリチュアル関連の考え方以外でも、さまざまな宗教や倫理的教えの中核にあるのはたいてい「愛」と「与えること」=「慈悲」というものです。愛の本質について述べるのはまたいつかの機会に、ということにして、今回は「与えること」をめぐるあれこれを考えていくつもりです。

ただ、その中でも前回の「全てはひとつ」同様に誤解され行き詰まりを招きやすい事項として「愛は、与えれば必ず返ってくる」というテーゼがありますので、ここだけは私に可能な範囲できっちり説明しておきたいと思います。

愛を与えれば必ず返ってくる?与えれば必ず受け取れる?そんな都合の良い話なんてあるのか。私はこれまで数え切れないくらい愛を与えてきたけど返ってこないことも沢山あった。嫌な人に好かれて迷惑したこともあったけど、与えられたら必ず返さなくちゃいけないのか?とか、

まあ、そうなのかもしれないけどそれって要するに理想論でしょ?現実は違うよね?とか、要するに愛についてのこの定義はまず一般的には「真実だ」と受け止められることがない、と言っても過言ではないでしょう。しかし、本質的な愛の定義から言ってこれはやはり真実なのです。それが何故かくのごとく「ウソに決まってるわよ」と思われる羽目になるのか?その理由、というか勘違いポイントは大きく分けて2点あります。

まず第一には、「愛を与えれば返ってくる」というのは「与えたその相手から直接」しかも「貴方が期待している内容や方法で」返ってくるわけではない、ということです。しかるに、たいていの人は「愛を与えれば返ってくる」というのを「誰かに良いことをしてあげたらその人からも良いことをしてもらえる」とか「誰かを好きになってそれを行為で示せば必ず相手に伝わり、相手からも愛される」などというふうに解釈してしまうのです。

以前にも少し書いたことがありますが、本来「愛」というのはある「状態」なのであり、それゆえに貴方の中に「ちょっとだけある」ということはありえないものです。少なくともその瞬間においては全面的に愛であるか、そうでないかのどちらかしかありません。つまり、貴方が「愛」というあり方・姿勢をしているかそうでないかのどちらかなのです。そして、言うまでもないことですが、愛を与えるためにはまず貴方がその瞬間「愛」というあり方をしていなくてはなりません。それが誰か特定の人にだけ向けられるように思えても、そのとき貴方は全面的に「愛」という状態・姿勢にあるので、その「愛」は四方八方満遍なくあらゆるものに向けられあらゆるものを照らしていることになるのです。そうして放射された「愛」が今度は反射される、貴方に向かって照り返されるのです。或いは、こういう喩えもできるかもしれません。貴方が花びらをたくさん投げたとしましょう。それはたった一つの方にだけ向かうことはなく、あちこちに飛び散るでしょう。そしてその一部は貴方の頭上から舞い降りてくるでしょう。そういうことなのです。そもそも「与える」というよりは、貴方が愛というあり方をしていれば特別何もしなくても愛は貴方から放射されるので、その照り返しがまさに「返ってくる」という現象を示しているのです。

もちろん、貴方が愛を与えたと思っているその当人から直接返ってくる、ということもあります。しかし、その本質からみて愛は見返りなど期待しないものなので、「この人から愛し返されたい」と望みながら発するものは、当然愛ではないのです。非常に逆説的ですが、全く意識せずただその姿勢でいることによって自分にも愛が返ってくるという現象が生じるわけです。なのに、多くの人がどうしても見返りを期待してしまう。しかも、自分にそうとハッキリ分かる形で、いやそれどころか自分が満足する形で与えられないとイヤなのです。仮に相手が貴方に愛を返してくれていたとしても、それが貴方の期待する形をとっていなければそうと認識すらできない、という状態です。こういうとき、実は貴方自身が既に愛という状態にはいない・・・つまり愛がない状態になっているのであり、その結果として「愛を認識できない」「愛を受け取れない」ことになってしまっています。そうです、まずは自分が「愛」という状態になければ与えることも受け取ることもできないのですね。

鑑定の現場でも、「この人は貴方にこんなことをしてくれているではないですか」と指摘しても全く納得せず、あーだこーだと難癖をつけて相手を非難する方がいらっしゃいます。こういう方々は「彼(女)のことがすごく好きなのだ」と自分では思っているのでしょうが、実際にはまずご自分自身が「愛がない」状態に陥っているわけです。

要するに、貴方が愛というあり方をしていればいろいろなところから同じ「愛」が反射されてくるのです。愛を与えれば返ってくるというのは本来こういう意味であり、またこういう意味でしかありません。

第二の勘違いポイントに移りましょう。以前ブログで書籍を紹介した「和尚」の言葉に、「愛を与えればそれは即座に返ってくる。もし返ってこなければ、それはそもそも愛ではなかったのだ」というものがあります。これは衝撃的です!

たとえば、「愛を与えれば必ず返ってくる」というのを最悪の形で誤解してしまうと「じゃあストーカーはどうなるのか、彼らはこのテーゼを信じて生きているということなのか」などという考えも生じそうなのですが、和尚の言葉は見事にこれに答えてくれています。即ち、彼らの思いは全く愛などではないわけです。おそらく極端にエゴ的なナルシシズムでしょう。

ここで確認のために言っておきますが、「愛」というのは「好き好き!」という気持とは違います。欲望や色恋などというのはおしなべてエゴの領域に属するものであり、それに対して愛はエゴがない状態でのみ可能なものなのですからー普通の人が四六時中エゴから離れているのは不可能に近い困難事ですが、瞬間的には十分可能です。そしてそういう瞬間にこそ、またそこにおいてのみ愛が生じることも可能になるのですーいわゆる「好き!I want you, I need you」などという事態とは全く違うものです。まずこの時点で勘違いをしてしまうともうどうしようもありません・・・・

これでもうおわかりになったでしょうか。愛を与えたつもりなのに即座に返ってこなかった、のなら貴方が与えたのは愛などではなかった。何かエゴ的なもの、欲望とか期待とか執着とかそんなようなもの、ミもフタもない言い方をしてしまえば「私の思い通りになってちょうだい」という要求だったのです。或いは、これもよくありがちなことですが「こんなに愛しているのに!」とかいって自分の苦しみや悲しみを相手にぶつけていてそのことを「愛を与えた、愛した」のだと思っているのならば、大間違いになってしまいます。これは要するに苦しみや悲しみを与えた(?)ことになってしまうので当然それらが倍加して返ってきても不思議ではないのです。

ここで述べたことは、「与えたものが戻ってくる」「与えることと受け取ることは同じである」というこれまたスピリチュアルにも宗教にも共通するテーゼの一現象です。次回からはこの「原則」についてできるだけ詳しく説明いたします。(この項続く)

 
第85回「オープンマインド 番外編」

オープンであるということは文字通り360度に開けている、というようなものなので物事を見る際にも全方位的な見方ができることになります。閉じた状態では「この現象はこのようにしか捉えられない、解釈できない」といわゆるジャッジをしてしまうところを、開いた状態であればもっといろいろな方向から見ることができます。

たとえば、貴方にとってはいわれのない理由で誰かに攻撃されたり中傷されたりなどということが起こった場合、そういうことが起きた以上それは(相手による鏡現象であったとしても)相手にとっては何らか正当に見える理由があったのだということになりますね。相手にとっては正当に見える理由が貴方にとっては極めて不当である、こういうときに「相手がおかしい」とジャッジし批判するのはまあ簡単なことですが、これこそまさに閉じた状態なのです。私ならこういう見方・考え方をしないがこの人は違うのだなあ、と理解するだけで済む話であって、そこに正当か不当かという判断を持ち込もうとすればどうしても対立が起きてしまいます。すると通常の場合は自分の正当性を立証しよう、となるためにますます自分の考え方や立脚点にこだわるようになり、これまたますます閉じた状態になる、というわけです。

貴方にとっては面白くないことが起こった。このとき、せめて「今の自分にはこのような現象にしか見えないが、本当はどうかわからないのだ」と判断保留にして心を穏やかにしていれば、つまりオープンな状態にしていればひょんなことから意外な真相がわかったり思いがけない良い方向に導かれたりすることがあります。また、同じく「相手の考え方がどうにも自分にとっては不当に感じられる」としか思えない場合でも、そのようなジャッジを棚上げにしてただ「この人の考え方にはついていけない」とだけ考えておけばよいのです。

「どうしてあの人はああなんでしょう」「どうしてこんなことをするのでしょう」と人はよく言いますが、本当はどうしてああなのかこんななのか「分かって」いるのです。ただ、マインドの閉じた部分はそれを分かりたくないのでこういう言い方をしてしまう、というケースが非常に多く見受けられます。理解している、ということと同意する・是認するということを混同してしまっているからです。即ち、あの人があんなことをするのはこういう理由からである、こういう考え方の持ち主だからである、ということを「分かって」或いは「認めて」しまったら、まるで自分がそういう理由やら考え方やらを「正当なものだと認める」ことにつながると思ってしまうのですね。また、「理解できない」と言うことによって「私はあんな人とは違う種類の人間なのよ」と言いたいだけだ、という場合もあります。

とにかくオープンである、ということはそのまま「自由である」ことを意味します。ものごとを一定の方向にしか認識・解釈できないのならそれはその方向性において「制限されてしまっている」状態だということになりますね。また、ジャッジというのもある一つの結論による「制限」になるのです。

リーディングにおいて「これは私にとって良いことがどうか」というご質問に対しては、一応それがクライアントにとって多くの負担や困難をもたらすものかどうか、とか本人の希望する方向に沿ったものになるかどうかなどを基準にして「判断」しているわけですが、なかには難しいものもあります。私はそういうときには「この方向に行ったらこうなりあの方向に行ったらああなる」といった、当人の判断材料になるような情報のみを提供して、私個人の考えでは良し悪しの判断を敢えて下さないようにしています。

オープンさを妨害しネガティブさを強化するものとして「比較」というのが挙げられます。比較、というのはそれ自体善でも悪でもないニュートラルな方法に過ぎないのであり、研究や実験などにおいては必要不可欠なものなのですが、エゴの手にかかるとロクでもないものと化してしまいます。比較がなければ対立もなく、傲慢になることも落ち込むこともないはずなのです。現在貴方が悩んでいること、或いはこれまでも貴方を悩ませてきたことの中には殆ど常に必ずこの「比較」という要素が大きく作用しているに違いないのです。皆は、あの人たちはこうなのにどうして私はそうじゃないのか、という「他者との比較」、昔はああだったのにどうして今は・・・という「過去との比較」また、「こうであってほしい理想の状態」との比較・・・全て、「今の自分の状態は『それ』よりも劣っている」と感じるからこそ落ち込んだり腹を立てたりするのでしょう?まあ、この「比較」によって現在の自分のレベルを判断し、だからこそそれをモチベーションにして頑張る・・・という人もいるわけでこれなら別に問題はありません。この場合はうまく「比較による対立」を自分の中で昇華できているからです。しかし、一般的に見て、現在の自分と何かとを「比べる」癖のある人ほど悩んだり怒ったり落ち込んだりする傾向が激しいのです。

オープンであれば、自分と「何か」との違いは見えるけれどもそれが優劣の比較にはつながらないのです。スイカとブドウは見た目も味も違う、確かに人により好みはあるが両者の違いによって「優劣」は生じていないでしょう。ところが、エゴが暗躍するとここに「優劣」というジャッジが持ち込まれてしまうのです。単なる好みでさえ、「これを好む人はあれを好む人より優れている」などということになりかねません。

スピリチュアルを標榜し実践しようとしている人が、もっともスピリチュアルな考え方とは対極にあるはずのこの見方にハマってしまうケースもあります。「あの人は『見える』『感じる』からすごい、優れている」というものなどがそれです。ちょっと考えればわかることなのですが・・・・例えば視力が良い人は、視力が悪い人よりも優れているのでしょうか?視力において勝っているとはいえますが、トータルに見れば関係ないはずでしょう。また、「感じる」ことにおいて敏感な花粉症の人はそうでない人よりも優れているのでしょうか?こういう「能力」の多寡が、意識の進化・深化と混同されてその上競争や対立の材料になってしまっていることがあるのです。

本来は、無駄に複雑化し人工化された考え方や認識を本質的な「シンプルそのもの」に還元しようとするものであるはずの「スピリチュアル」がいつのまにか「特殊能力」を表すようになってしまっている感じがします。これではいくらワークを重ねても、今度は「スピリチュアル」という土俵の上でエゴが大活躍するだけ・・・スピリチュアルでエゴは引っ込むはずなのですが・・・・となり、まあ何をやっているんだか、軍事産業で大儲けした人が今度はエコ産業で大儲け、みたいなものですね。

心を開くとかマインドをオープンにする、などということは非常にありふれた言葉ですが、その意味するところ・それを本当に実践した場合にもたらされる恩恵は実に計り知れないのです。

 
第84回「オープンマインド Y」

(承前)いわゆる「奇跡」とか「シンクロニシティ」などというものは、大体全て本人が無自覚であっても心が開いた状態のときに起こるものです。より正確に言えば、「起こる」というよりも「実はそこに既にあること、起きていることを受け容れる」ことができる状態になっている、のです。

リーディングをしていても、こちらからみると本当にいつ実現してもおかしくないような事柄がなかなか起こらない時というのは、当人のマインドに何らか閉じた部分があるために「起こって当然」なはずのことを受け容れられていない、つまり当人からすれば「なかなか、或いは全然うまくいかない」という状態になっている場合が多いのです。この「閉じている」というのには、実際にはいろいろな出方があります。あまりにも悲観的になっている、焦って余裕をなくしている、自分なりのシナリオにこだわっている、自分や相手の状況が「こうである」と決め付けている、などなどですが、これらに共通するのは「当人の顕在意識で予測可能」である以外のことが生じるのを拒絶してしまっているという点です。

たとえば、常識では治癒するはずのない病気が治ってしまったとか消えてしまった、というのはもちろん本人が「絶対に治る」と強く信じ、その信念を心底から受け容れた結果なのですが、こういう場合「このようにして、このような経過をたどって治るのだ」などと決め付けてしまっていると、それ以外のプロセスが起こるのを拒絶しているのと同じ状態になってしまいます。

これは、少々理解しづらいことだと思うので簡単に読み飛ばして下さって構いませんが、スピリチュアルな、或いは形而上的な考え方では「全てがいまここに存在する」のです。時間も空間も度外視した「全て」が今ここに在る。私たちはたまたま肉体を持ってこういう形で3次元空間に生息していますが、実際には時間も空間もないような次元の存在様式があれこれあるわけで、そこまで考えれば何がどうなっていても不思議ではありません。貴方が起きてほしいと願っていること、起きてほしくないと怖れていること、全てが実は「常に」「いまここ」に存在しているのであって、貴方は毎瞬、その都度自分の信念に基づく選択によってそのなかのどれかを受け容れている・・つまり経験している、というのです。

ファンタジー的な喩えを用いれば、貴方の前には常に沢山のドアがあり、それらは既に開いていてそのうちのどれを選ぶかは実は全く貴方の自由である。しかし、貴方は「思い込み」によって生きているので、それらの「思い込み」に合致する一つか二つくらいのドアしか見えない、本当はそのほかにもいろいろあるのに、しかも目の前にあるのにそれらは全く目に入らないのです。貴方は、その都度行き当たりばったり、アトランダムにドアを選んでいるわけではありません。貴方の信念或いは思い込み・意識の癖などにより、常に一定の選択傾向があるのです。それ以外については「ある、ということにすら気づかない」。

ドアは既に開いているので、貴方がわざわざ探して行ってこじ開ける必要はありません。ただ、「こういうのもあったか」ということを受け容れればよいのですが、この「受容」というのはマインドの深い部分で、人によっては「ハート」「魂」とも呼ぶ部分でのみ起きることなのです。ということは・・・マインドをオープンにする・心を開くというのは「外に向かって」というよりもまず「内に向かって」なされなければならない、前回までに述べたように「自分において」開いていなくてはならない、ということがよくわかりますね。

そして、恐怖や不安があるときは必ず「閉じている」のですから、こういうときには奇跡などは起こりません。本人に受け入れ態勢がないからです。しかし、ほんの一瞬だけでもこれらの感情が消え、エゴが消えていればその瞬間に「奇跡」と思えるようなあれこれを受け容れる=経験することもできる、と言えます。そうと知らずに別のドアに入ってあらビックリ、となったりするのです。

以前、ブログでご紹介したオイゲン・ヘリゲル「弓と禅」(「禅と弓道」)の中にも、オープンマインド及びそれによる願望の現実化につながる極意が書かれています。即ち、弓を射る際には心を空にして的だけに集中しろ、それどころか「的と一体になれ」、それだけが重要なのであってどのように弓を引き、どのように矢を射るか、矢がどのように飛んでいって的に当たるか、ましてや「的に当てよう」などということは一切考える必要はないしまた考えるべきではない。

カント派観念論哲学者のヘリゲル教授は、「どのように構え、どの筋肉に力を入れればよいのか」「矢をどういうふうに飛ばしたらよく当たるのか」などということを教えてもらえるものだとばかり思っていたので大変困惑します。おまけに師匠は「貴方が射るのではない、『それ』が射るのです」などと言い出すのです。この「貴方」とはエゴのことであり、「それ」というのはまあ真我みたいなもののことでしょう。ヘリゲル教授は、真の集中とリラックスとは全く同じ状態であるということすらわかっていなかったようで「力を抜け」と言われただけでウソ〜何それ?「じゃあ筋肉はどうなるのか」と立ち往生してしまうくらいでしたから、「貴方が射るのではない」などと言われたときの狼狽振りは想像に余りあります。

弓を引いて矢を射て的に当てる、という能動的動作をするのではない。エゴであるところの自分をなくして的と一体になる、という姿勢だけできれば、後は起こることをそのまま受け容れればよいのである。要は、これだけなのです。

もう一つ、心を開いて受け容れる状態が非常に重要になるのは「祈り」においてです。これも、昨年初めの「願掛けについて」というテーマと重複してしまう部分もあるのですが、正確に言えば「祈り」というのは願掛けではないのです。願掛けとしての祈り、というのは「祈り」の中でも最低レベルに属するもののようです。本来の意味における「祈り」とは、ただ「受け容れる」という静かで平和な心の姿勢を作るためのものであり、これがなされたときに「祈りが届いた」と思える出来事が起こるのでしょう。つまり、祈りによって開かれた心が「奇跡」を受け容れたわけですね。

ですから、「祈り」というのも力をこめてやってはダメなのです。また、祈りによってメッセージを受け取ろうという方法もありますが、これも「神の・宇宙の・ハイヤーセルフのメッセージを受け取ろう受け取ろう!」と頑張って、受け入れ態勢のオープンさとはまるで逆の状態になってしまえば貴方のもとに来るものはせいぜいエゴからのメッセージ、ということになるでしょう。スピリチュアルにやっているつもりでこういう有様になってしまう人も結構いるので要注意です。雨乞いの儀式などでトランス状態になってエゴが消えれば「雨が降る」わけですが、トランス状態が必ずしもエゴの消失を伴うとも限らず、エゴが大暴れしていることによるトランスというのもあるのです。

何であれ、ある「考え」を受け容れたとき、それが現実となってあらわれます。そして、閉じた状態では閉じた考えしか受け容れることができません。開いていれば、貴方が自分のアタマでは思いもつかないような「考え」でも貴方の深い部分がそれを受け容れてくれて現実になるのです。

 
第83回「オープンマインド X」

(承前)前回までは主にコミュニケーションにおけるオープンマインド・心を開くことについて述べてきましたが、今回は人間や動物などのいきもの相手ではなくいわば「宇宙」を相手にしてマインドをオープンにする・心を開くということについてお話します。

実は、宇宙を相手にして心を開くというのは自分自身において開いているというのと全く同じことなのですが、その具体的方法やしくみにはずっと以前にこのコラムで扱った「願望の現実化」と通じる部分が多々あります。

たとえば貴方が何か解決を望んでいる問題があるとします。しかし解決方法がわからない、いろいろ試してみたもののどうもぱっとしない、というので困っているような場合にマインドをオープンにしておくと、どこからか努力無しに解決の糸口やチャンスが舞いこんでくることがあるのです。これは、簡単に言うと「一切の思い込みを持たずにどんなことでも受け容れる態勢でいる」ことであり、その問題の解決に関して自分なりのプランニングを一切捨ててみることでもあります。貴方が自分のアタマで考えたあれこれのプランが有効ではなかったからその問題は解決できずに残されているわけでしょう。自分ではいろいろな角度から考えてあらゆる方法を試してみたつもりでも、それはあくまで貴方自身が、エゴといって言いすぎなら「小さな自分」「大きな源とつながっていないところのマインド」において思いついたことなのですからどうしても限界があったりある方向にばかり偏っていたりするのは仕方ないことなのです。

まず、問題の解決方法云々より以前に、その問題がどういうものなのか、という認識のしかたが既に「貴方なり」になってしまっていることも多くあります。それどころか、見ようによっては貴方が「トラブルだ、大変だ」と思っているものが実は全然トラブルでも何でもない、ただ貴方がそう思い込んでいるだけだということすらあるのです。こういう場合、実はトラブルではないところに「解決するためのあれこれ」を持ち込むわけですから、結果的に事態はどんどんこじれてきて解決どころか「本当はトラブルではなかったはずの状況が貴方の『解決のための努力』によって攪拌され、却って現実的にもトラブルになってしまった」という現象も起こりかねません。

また、健康面の問題に思えたことが実は家庭の問題だった、などということもよく見かけます。

いずれにしろ、貴方を悩ませているあることが貴方にとっては「こういうトラブルだ」としか感じられない、しかしオープンな心で見渡してみると「実はこうだったんだ」ということがわかってくるのですね。思い込み、というのは、ある一つの考えで自分の見方が固定されてしまう状態ですからどう考えても「オープン・開く」ということとはかけ離れています。しかし困ったことに、思い込んでしまっている人というのは自分が「思い込みをしている」とは感じないのです。他人が、あるいはリーディングなどをする人が「本当はこうじゃないの、こうですよ」と言ってあげても「いえ、絶対違います!だってこれこれこういうことがあったし、ああいうこともあったし・・」などと自分の見方が正しいことを裏付ける根拠を示して断固抵抗するのですが、その根拠となっている事象じたいが既に偏った見方で認識されたものなのです。自分の「エゴ」の正しさ?に執着していればそれは「閉じきった状態」に他なりません。

ある人に嫌われてしまっていて何とかしたい、と思い込んでいるが実際にはそのある人の方こそ貴方から嫌われていると思っていて、だから貴方を避けたり不自然な態度をとったりしているのかもしれません。また、実際に嫌われているとして、その理由は貴方が思い込んでいるものとは全く別のことかもしれません。それを知らずに何とかしようと努力したって効果のあろうはずがないのです。

ここでもまた例の「選択」が重要になります。即ち、貴方は問題を解決したい・幸せになりたいのか、それとも自分の思い込みの正しさ(黒い白馬、みたいな言い方ですね)を証明したいのか?

ここです!マインドをオープンにしておくというのは「私が間違っているのかもしれない」という可能性も受け容れよう、という姿勢なのです。これはもっとも初歩的な部分です。

さて、ここまではOKだとしましょう。次に問題となるのは「自分でプランを立てすぎること」です。こうしたらああなるだろう、だから今のうちにこうしておこう、などというのは一般的にはごく当たり前のことであり誰しも日常的にしていることでもあり、また一見「冷静で合理的」とも思えるものですが、何かの問題がなかなか解決していない場合にはこういう「対策」が全く機能していない証左なのですから一旦自分の姿勢・あり方を修正しない限りいくら新しい対策を持ち出してもダメなのです。つまり貴方はオープンではない状態であり、その状態でいくら対策を講じたってモトが「閉じている」のだから壁にぶつかるのは当然だということですね。またこういう時は、知らぬ間に独りよがりになっていることが殆どです。相手の思惑や波長、ひいては運気や宇宙というようなものの波動を一切度外視し、自分のこれもまた「思い込み」だけで動いてしまっているのです。

貴方は、自分が抱えている問題(と思われるもの)が、こういう形でこういうプロセスでこういう結果になることが解決である、と自分で決めていてそのためにはああしなければ、こうしなければとあれこれ対策を立てるのです。しかし、本当は今の問題がなくなって楽になれば、ハッピーになればよいわけでしょう。極端に言えば前回のテーマ「心の平和」を得ることが本当の目的なわけです。

ここで二つのことが明らかになります。まず第一には、貴方の問題がどういう風にどういう形で解決するか、ということについては「思い込み」を持たず、一切オープンな態度でいることが大切である。ここで自分なりのシナリオを書いてしまっている人がとても多いのです。そして知らぬ間にその超個人的なシナリオにこだわってしまっているために、それ以外のより良い方法が見えなくなるのです。ひどい場合には目の前に示されても気づかないで通り過ぎたり打ち捨ててしまったりするのです。貴方のシナリオとは順序が違うかもしれない、舞台装置が違うかもしれない。しかし貴方が望む結果になるならそれでも良いはずですよね。たとえば貴方は「あの車が欲しい、そのためにはこれだけのお金が要る」と思っていても、別の形で車だけが手に入ることもあるかもしれないのです。素敵な恋人が欲しいから顔と身体をこんなふうに美しくしたい、と思っていても別に今の顔と身体のままで素敵な恋人ができたって良いわけでしょう。

あまりにも卑近かつ単純な例で恐縮ですが、高尚な例だとしたって本質は同じことです。また、貴方が今欲しいものを得られなかったり問題を解決できなかったりする理由はたいてい貴方が思っていることと違うのです。「私はこうだからうまく行かないのだ」と決め付けないこと。本当はああだからうまく行かないのだ、という気づきやアドバイスに対してオープンでいること。更に「こういう解決の仕方でなくてはイヤ」などと執着しないこと。極端な例ですが、自分が幸せになるためにはあの人が不幸にならなければならない、などと思っている方もあります。これだと「主語が存在しない潜在意識レベル」においては「幸せ」と「不幸」を同時に願うことになってしまいますのでどうにもならないのです。

「どんな形でもよい、どんなことでも受け容れますから、これがうまくいく方法を教えてください」と神にでも宇宙にでもご先祖にでも願ってみましょう。そして、心を平和な状態に保ち、目の前に来たものに誠意を持って対処していれば本当に自然によい方向に導かれます。

「これを達成するのは大変困難なことだ、いろいろな障害にあうに違いない」というのもまた思い込みという制限の一つです。これも「個人的シナリオ」なので、楽にできる方法が別にあってもわざわざ大変なほうを選んでしまうという結果に陥ることになります。

第二には、「願望の現実化」で述べたごとく「既にそれが手に入った状態・解決した状態」を味わって感謝の気持を抱くと貴方の願いは現実のものとなりやすい、のならばまずは「究極の目的」である「心の平和」を先に味わってしまえばよい、ということです。これについては今まで散々書いたので、ここでは「不安な気持はオープンマインドとは対極にあるものだ」とだけ述べておきます。

いずれにしろ、どういうことが起こってもー起こっているように見えてもー、それがたとえ一見は貴方の望みとは相反するようなものであってもそこであたふたせず「必ずよい結果になる」と信じて心穏やかに構えていれば良いのです。こういうときに動揺してあたふたするから、本来はなかったはずの「トラブル」や問題をあらたに作り出すことになってしまうのです。

次回も少々この続きをやってみます。(この項続く)

 
第82回「オープンマインド W」

(承前)心を開いて自分を発信するというのはどういうことか、どうしたらいいのか、についての続きです。

これまで述べてきたように「開く」というのはまず第一に「受け容れる」こと、それも自分の思い込みや期待を持たずにありのままの状態を否定も同意もせずに受け止めるということでした。この状態を保っていればそのほかのことは全く頓着しなくても自然に「心を開いて自分を発信する」ということが可能になります。ただ、これだけで話が終わってしまうと分かりづらくなるし誤解も生じやすくなるので少々例を挙げて説明してみましょう。

自分を表現したいとか自分を伝えたいという際に「分かってちょうだい!」と力んでしまったらそこで既にアウトなのです。こういう場合には往々にして相手の言うことを遮って自分が話すほうばかりに夢中になりがちです。これは、通常の人間関係における会話でなくてもさまざまな創作活動や表現活動についても言えることです。表現したい、伝えたいという思いが力みとなって前面に出てしまうと伝わるのはその力みの部分だけになってしまうのです。よく言われることだと思いますが、「自分の個性を表現したい」ということを意識しすぎるとその力みや自意識ばかりが出てしまうので、その結果みんなが似たようなものになってしまう、つまりみんなが同じように「個性を表現したい」と力んでいてそのことだけが発信されてしまえばやっていることはそれぞれバラバラであっても伝わるのは「個性を表現したいという力み」だけとなり、要するに無個性だということになってしまうわけです。

マインドをオープンにしていれば創作や表現にも自由さが増します。これも例のエゴが引っ込んでいることによるものです。以前お話したように、真我というのはみな大きな源の一部であり全てつながっているものなので、みな同じ一つのものですが、エゴはこれとは全く違った意味で「どの人においても同じような作用しかしない」ものなのです。そしてこれは非常に表層的な部分しか見ようとしないし見えないのです。エゴが引っ込んでいれば、大きな源に接触することができるようになり、更に真我にかかわる部分・誰もが共通してわかる普遍的な部分が働き、他の人たちもその部分で受け取るようになります。だからこそ強烈なアピールとして伝わるのです。そして、そういうときに人はそれを「個性的だ、彼(女)にしかないものだ」と感じることになっているようなのです。

変な喩えかもしれませんが、もしも腕前が同じようなものであれば「私はこんなに料理が上手いんだ、すごいでしょう」と言いたくて作った料理と、「ただ美味しいものを食べさせたいと思って」或いはそれすら考えずただ一生懸命につくった料理との違い、を考えてみてください。おそらく後者のほうが作った人の心というか本当の部分がより良く伝わっているはずでしょう。

通常の人間関係においても、例えば「私はこんなに貴方のことを考えているのよ、気を遣っているのよ、どうです?」とアピールしたくてやった行為というものはどこか胡散臭くて、されたほうは何となく居心地が悪くなるということがありますね。つまり、「こんなに私のことを気遣ってくれているのだ」という伝わり方をする代わりに「こんなに私のことを気遣っているとアピールしたいんだ」と伝わってしまう可能性が高いわけです。冷静に見ることができる人ならばここまで見通すことができ、その上で「ああ、そうなのか」と受け流すことができますが、そうでない場合はただ何となくイライラするだけになります。しかも、お互いにこれをやりあっている人たちというのも少なからずいるもので、こういう場合は当然のことながら双方が相手に対する不満を抱えておりそれを解消しようとしてますますお互いが「自己アピール」をぶつける・・・という悪循環に陥ったりもしてしまいます。

また、このように「自分をアピールしたくて」何かをする、つまり発信する場合はどうしてもそれに対する相手の反応を期待してしまいがちにもなります。相手が自分の期待するような反応をしてくれなければ「自分の気持が伝わらなかった、わかってもらえなかった」と思って落ち込み傷ついたり怒りがこみあげたりもするでしょう。

こういうときというのは、まさに前回述べたような「自分において閉じている」「自分の中に矛盾がある」という状態に陥っているのです。貴方が伝えたかったのは愛情なのか、それとも「愛情を持っていることを分かってほしいこの私」なのか。それが曖昧になったままで、或いはすり替えられていることに気づかぬままで発信しても、そもそも自分においてずれているのですからうまく伝わるわけがありません。要するに、「こういう自分をアピールしたい」などと自分が思っていることに気づかず、自分としてはひたすら愛情を伝えているつもりだというズレ、すり替えに気づかない限り貴方の苦しみは続くだろう、となってしまうのです。

それに、「相手の反応を期待する」というのは言い換えれば「このように反応するべきだと要求している」ことに他なりません。ここにおいて貴方は「こうでなくてはならない」という制限を設けてしまっているのです。制限、は文字通り「閉じている」ことであり結果としてここからみても「閉じながら発信している」という矛盾した状態に陥っていることが良くわかりますね。

もしも、ただ愛情を伝えたいだけならば特に「伝えよう」と意識してかからなくても自然に言動として現れるはずなのです。別に大げさな何かをしなくても、厳しい言葉を使ったとしても愛情は発動されます。

もちろん、相手によっては本人の鏡現象によりこちらの真意が歪んで伝わってしまうことも十分ありえます。そんなことは相手の問題なのだからほうっておけ、と言いたいところですがまあ実際にはそういうわけにも行かない場合も多いでしょう。

すると、こうなります。今まで述べてきたように、まず貴方がオープンな姿勢でいれば相手の本当の姿が分かる。この人はこういうときにこう受け取ってしまうのだ、などということが見えるわけですね。そうすれば、どうしても相手に貴方の真意を分かってもらわないと困る、という場面で「この人にはこれくらいしないとわからないだろう」「こういう言い方では誤解されるだろう」などということも分かってくるのです。スマイル一つでは全然足りなくて一日に何回もメールしないとダメだとか、単にこちらの意見を述べただけなのに否定されたと思い込んでしまう人だから注意しようとか、それぞれに戦略みたいなものができてくる、ということです。

スピリチュアルな方法論においては、そんな戦略など邪道であると教えるものもあるかもしれません。しかし、こういう「戦略」を考えて対処するのは自分がより得をするためとは限らず、相手に対する思いやりでもある、と私は思っています。

ともあれ、別にスピリチュアルでなくても通常の処世術としてもこの「心を開く・マインドをオープンにする」ことは有効ですので、是非ご自分なりに試してごらんになってみてください。また、これは以前のコラム「ディフェンス」とつながる部分が多いので合わせてお読みになるとより理解しやすくなると思います。

次回は、コミュニケーションの場以外でもこの「心を開く」という姿勢が如何に良い作用をもたらすか、についてお話いたします。(この項続く)

 
第81回「オープンマインド V」

(承前)心を開く、マインドをオープンにするということは外に向かうよりもまず「無心になって受け容れる」という態勢を示しているのです。自分から何かを発信することにばかり囚われていればそれはイコール相手の存在をシャットアウトしている状態になってしまうのですね。

さて、それでは心を開きマインドをオープンにして発信する、相手に何かを伝える場合にはどうしたらよいのでしょうか。

心を開けない、オープンになれないというのは別の言い方をすれば「素直になれない」とか「正直になれない」「ストレートに表現できない」などという状態でもあります。本当はこう言いたいのに勇気がなくて言えないとか、本当は嬉しいのに文句をつけてしまう、逆に悲しいのに平気な顔をしてしまう・・・などなど枚挙に暇がありません。皆さんも思い当たることがあると思います。

こうなってしまう原因の一つが、以前のコラムで述べた「自己防衛」です。自分が傷つかないように、みっともなくならないように、などという気持からーたとえ自覚していなくても、ですー自分の本心とは別の言動をしてしまうわけです。心を開くとかオープンになるなどというのは文字通り「無防備になる」のですから、防衛する姿勢をとりつつ心を開くというのは根本的に矛盾したものであり、不可能な状態である、と言えます。心を閉じた状態で相手に接すれば返ってくるのは鏡現象により「貴方に対して心を閉じた」ように見える相手の姿しかありません。そもそも「閉じつつ開く」「閉じつつ伝える」こと自体が不可能なのですから、それをすればするほど状況も貴方の心もますます混乱してくるのは明らかなことです。一生懸命相手に気持を伝えたつもりでも、貴方の姿勢が防衛態勢だったとしたら伝わるわけがないのです。相手がかなり勘の良い人なら「ああ、本当はこう言いたいんだな」とわかってくれますが、通常はそこまで相手に期待するのは無理というものです。貴方だって同じ事をされれば「フザケルな、甘ったれるな」と思うかもしれないでしょう。

まあ、世間には常識というものがあって、いくら率直な表現・ストレートな物言いが良いとは言っても「その洋服本当に似合わないわね」などと言ってしまうのは考えものなのですが、これも本当に信頼関係が成立している人どうしであれば別に気にならないこともありますし、こちらが心を開いた状態であれば相手に悪気があるかないかもわかります。そしてこういう物言いをされても特に腹も立たない、そういう言い方をする人なんだなあと思うだけで済むのです。

オープンになる、心を開くというのが「エゴを脇に退けた状態」である、と既に述べてありますが、エゴが引っ込んでいるのならば相手に対して攻撃や批判をしようという気持にもならないはずなのです。攻撃や批判というのは自己防衛の一種ですから完全にエゴの行為であり、心を開きオープンになった状態では生じ得ないことです。

ですから、「ストレートに率直に」攻撃や批判を行なうというのは「心を開く・マインドをオープンにする」こととは対極にあるものだ、とわかりますね。このあたりは誤解しやすいので注意してください。

むしろ、愛情を表現したいのに攻撃や批判になってしまう、というのがいわゆる「心を開けない、苦しい」人々の症状なのです。内容の如何を問わず、心を開きマインドをオープンにして表現し伝えるのは愛情から発するものしかありえないのです。

何故か、私たちは「愛情を表現する」lことに対して臆病になりがちなのです。愛情を素直に表すと傷つくとか、愛を求めると傷つくとか思い込んでいる人、極端に言えば「愛を怖れている」人がとても多いのです。このあたりはかなり重要なことなので項を改めて述べるつもりですが、ここではただ「心を開きマインドをオープンにする」とは怒りや怖れや攻撃などではなく「愛情」に関する表現のことなのだとだけ理解しておいてください。

スピリチュアル関係の方法では、「たとえネガティブなものでも感情を抑圧せずに素直に表現するのがよいことだ」と指導していることがよくあります。確かに「抑圧する」のは最悪なのです。それこそ文字通り「閉じた」状態だからです。本当は「ある」のに「ないふり」をしている状態では何をどうやったってオープンに伝えることはできるはずがないのです。しかし、だったら抑圧しないでネガティブな感情を野放し状態にしてもよいのか?となるとこれが上記の内容に重なりますね。貴方が本当にオープンな状態であれば、つまりまず自分において開いた状態であればネガティブな感情というのはたいていそこで消失する、或いは変容するのです。それでも「溜まったものが爆発したことによってお互い心を開き本当の気持を伝え合うことができる」ということは起こります。これは、当人がその場において完全に無防備な状態になれたからなのです。計算してできるようなことではありません。また、この類の爆発はどういう言動として表現されたものであっても「相手を攻撃し自分を守る」こととして発動されたものではないので、自分を守るために攻撃している「ネガティブの爆発」とは似て非なるもの、全く反対のものです。この区別がわからないままやみくもに「全ての感情を素直に表現するのがよいのだ」と思ってしまうのはかなり危険なことです。

また、相手に対してオープンになれない人はまず「自分において」オープンになっていないことが殆どです。つまり自分の中に矛盾がある、あるいは自分の本心が見えていないのです。たとえば、誰かと愛情ある良い関係になりたいのにアタマでは「相手に自分の非を認めさせ私の正しさを証明したい」になってしまっていたり、本当は相手を信じたいのにまるで「この人を信用してはいけない」という証拠を見つけたいかのごとく相手を疑って批判や攻撃を繰り返したり・・・などという事態です。これはもう、悲惨というより他はありません。まさに自分で自分の墓穴を掘っている状態なのです。

自分が本当はどうしたいのか?これをまずハッキリ見極めることが必要です。しかし、わかってしまえば拍子抜けするくらいシンプルなことがいろいろな煙幕によってぼかされてしまっていることも少なくありません。貴方が誰かと気まずい関係になってしまって苦しんでいるとき、貴方は相手に「私の苦しさをわかってほしい」と思うかもしれません。相手の本当の気持を知りたいと思うかもしれません。それも嘘ではないのでしょう。しかし、本当の本心はそこではないのでは?本当はただ「私をもっと愛して欲しい」とかそういうことなのではないか?

こういうあまりにもシンプルなことは案外というか却って見えづらいのです。しかし、ここがハッキリしていないときは自分の中において「オープンになっていない」ということになりますので、いくら貴方が自分の気持を素直に伝えたつもりでも何か釈然としないままになってしまったり場合によってはますます苦しい状態になってしまったりするのです。

最後に、言うのも気が引けるくらい当たり前のことなのですが、オープンになって自分を表現するというのは「雄弁になる」とか「大げさな表現をする」などということとは全く関係がありません。表情一つ変えず言葉少なであってもマインドはオープンである、ということだってあるのです。外観に誤魔化されてはいけません。(この項続く)

 
第80回「オープンマインド U」

(承前)心を開く、マインドをオープンにするというのは本質的にみて「発信する」よりも前に「無心になって聴く」ことである、と前回述べました。それでは、あなたは相手からどんなひどいことを言われてもただそれを受け容れなくてはならないのでしょうか?

まず、ここで理解しておいて欲しい重要なポイントは、この「聴く」というのは相手の発する言葉を聴くということではないのです。というよりも、貴方が本当に無心になって聴いてみようという姿勢になっているとき、貴方は相手の発する言葉の向こうにあるもの、あるいはその奥にあるものを聴いているのです。言い換えれば「言葉」ではなく相手の存在をまるごと聴いているということにもなります。

具体的に言うと、相手が何か話したり表現したりしている最中に、たとえ口に出さなくても何のエクスキューズも突っ込みも入れずにただ耳を傾けるわけです。例えば「ちょっと待って、それは違うわ」「あの時貴方はああいったじゃない!」「そうじゃなくて、私が言ったのはこういう意味よ」「私のことを侮辱しているの?」「そうそうそう、それでね私はね」などなど、特に感情的になっている場合にはたいていの人が「聴こう」というより「自分が話す番を待ちきれない」ような状態になりますね。こういうことを一切止めてみるのです。耳を傾ける、というよりも心を傾けるというほうが正確かもしれません。それこそ「向き合う」と言ってもよいでしょう。

このような姿勢でいると、相手の本当の状態がわかってくるのです。たとえば、口では貴方に対して罵詈雑言を浴びせているようでも実際にはそれらの言葉は自分自身に向けられた怒りや苛立ちであり、自己嫌悪の表れであったりすることもあるし、或いは貴方に対する愛情から出たものである場合もあります。一方、いくら美辞麗句を並べていても実は全て貴方を利用しようとする狡猾さの表れであるかもしれないし、不機嫌な態度も自分の気持をうまく表現できないもどかしさの現われであって別に貴方に対して機嫌を損ねているわけではないかもしれないのです。

これまでサンザン述べてきたように、通常私たちはどうしても「エゴ」の部分で人と向き合ってしまいます。すると、相手の態度をどのように受け止めるかーどのように聴きとり解釈するか、というのも必然的にエゴを通したものになるのです。すると、相手の言葉や態度は専ら受け手の意識に刻印された信念に沿ったものとして解釈されがちになります。自分に自信がなかったり自己卑下しがちだったりする人なら相手がそう意図していなくてもその言葉や態度は自分を批判したものとして受け取られてしまうでしょう。相手がただ愚痴を言っているだけでも自分が攻撃され否定されたように感じてしまうかもしれません。

この原理を他人に対して適応するのが「ただ無心になって聴く」ということになるのです。この姿勢になると必然的にエゴは引っ込むしかなくなります。エゴをなくそう!でもどうやって?と皆がそう思うのですが、このやりかたはシンプルで且つ比較的簡単なので大いに試してみる価値があると思います。

無心になって聴く、というのは相手に対して肯定も否定もしないことです。相手の言葉や態度そのものに対して「ごもっともでございます」と同意しなさい、という意味ではありません。そして当然のことながらー上記の繰り返しになりますがー自分の意見をかぶせない!これが最も大切なポイントです。

これは特に「相手が感情的にひどいことを言っている場合」に適応されるものですが、逆に相手が無口だったり黙り込んでしまっていたりする場合にはどうなるのか?

ひどい人になると、相手が黙っている分自分が喋りに喋り通してしまい、完全に一方通行になっているのに「話ができた」と思い込んでいたりすることもあります。相手が黙っているならそれをこちらもそのまま無心に受け止めてあげればよいのです。

沈黙を怖れる人は少なくありません。相手との間にぎくしゃくした空気が流れているような気がして気まずさを感じるからです。しかし、黙っているほうは別に貴方とのコミュニケーションを嫌がっているとは限りません。単に言葉が出てこないのかもしれないし静かな雰囲気を味わいたいのかもしれません。こういう時は「沈黙を共有する」くらいのつもりでいたほうがよいのです。見掛けだけではダメです。いくら黙っていても心の中で「どうして何も喋らないのよ、私のことが嫌いなの?何か言いたいことがあるならハッキリ言ってよ」などと独語していたのではエゴ丸出しの姿になってしまい、無心ではなくなるからです。

まあ、「会話がよどみなく流れることがマナーとして要求される社交の場」ではこういうわけには参りませんが、ここでは社交界の会話術について述べているのではないのです。

よく、相手の言葉を誤解してとんでもない反応をしてしまって失敗したという例がありますが、これも殆どが「無心になって最後まで耳を傾けなかった」結果の過ちである、と言えましょう。小さなレベルでもこれが繰り返されていればどんどん誤解が積み重なり、最終的には人間関係に大きな亀裂が生じてしまいます。

ともあれ、無心になって耳を傾ける・心を傾ける=エゴが引っ込む、という状態になればたとえどんなひどいことを言われていても貴方はエゴを通さずにそれらを受け止め理解することができるので、言葉や態度の裏に隠された相手の本当の姿がわかります。すると、不要な傷を負うこともなくなりますし、相手も次第に心を開いて本当の姿を見せてくることさえあるのです。

このときに注意しなくてはならない点が二、三あります。まず、「耳を傾けている」さいちゅうにエゴであるアタマを働かせて「あれはこういう意味かしら、ああいう意味かしら」などと考えていたのでは、肯定も否定もしないで黙って聴いていたとしても「心を開いて無心に」という状態にはなっていないのです。アタマの中のお喋りを一切止めなくては「無心」にはなりません。

また、たとえ相手に対して無心に耳を傾けることができたとしてもそれによって知ることになった相手の本当の状態に対してあーだ、こーだと批判したり文句を言ったりしたのではせっかく一度は引っ込んだエゴがまたしても登場!というわけで何もかも、とは言わなくても大半の努力がぶち壊しです。

また、数としては少ないかもしれませんが、「一見無心に耳を傾けている」なおかつ「相手の言動に対して肯定も否定もしていない」のだが実は全然違う、というケースとして「見かけだけは菩薩のごとくの態度だが実は何も聴いていない、心の中では相手の存在をシャットアウトしながら、つまり全然心を開いてはいない状態でただ静かに微笑んでいる」というものもあります。こういうタイプは良くも悪くも誤解を与えますね。ただ、貴方が「心を開いて耳を傾けてみよう」と思うときにこうならないように注意してください。

心を開く・マインドをオープンにするというのは発信するよりもまず忌憚なく受け容れることであり、それも相手の言動など表現に惑わされず相手の本質を否定も肯定もせずに受け容れることである、のですがそれでは「心を開いて」発信するというのはどういうことになるのか?これについては次回のコラムで説明いたします。(この項続く)

 
第79回「オープンマインドT」

人間関係や人生全体が円滑に流れていくため、あるいはもっと直截的に成功や幸せのためにはどうしたらよいか?ということについての殆ど全ての書籍やワークには必ず「心を開きなさい」という指示が見られます。これをスピリチュアル風に言うと「マインドをオープンにしなさい」となります。これは、実践できるかどうかを別にして「それはその通りだろう」と誰もが同意することでしょう。なかなか心を開けなくて苦しい、と悩んでいるかたもいらっしゃるでしょう。

心を開く、というのは簡単に言えば「自分を防衛しない」ということになります。反対に「心を閉ざしている状態」というのは自分の周囲に要塞を築いたり鎧を身にまとったりしているようなものでしょう。このあたりの説明は以前「ディフェンス」というテーマで詳述していますので省略しますが、要するに心=マインドというものは閉ざすよりも開くほうが良いに決まっている、というところまではまず異論がないものとしておきましょう。

さて、ところで「心を開く」「オープンなマインド」と聞いたときに貴方はどんなことをイメージしますか?何でも、たとえ自分に不利になることでも正直に話し隠し事をしない、感情をごまかさない、誰にでも分け隔てなく公平な態度で接する、偏見や先入観を持たない、などなどが挙げられるのではないかと思います。確かにこれらのことも「心を開いた状態」だからこそ生じる現象ではあります。しかし、殆どの人が「心を開く」と言ったときに「自分がオープンに自分自身のことを外側に向かって表現する」ようなイメージばかりを先行させてしまうのです。要するに自ら「発信する」ようなイメージを抱きがちなのです。

ここには少々注意が必要です。一見、オープンに即ち「心を開いて」あれこれ自分のことを話す人、公平な態度をとっているように思える人、というのが本当に心を開いているとは限らないのです。このような態度をとっていること自体が実は「自分を守るための防衛手段」になっている場合もあるからです。逆に言えば、無口な人がイコール「自分を閉ざしている」とも限りません。ですから、他人が「心を開いているかどうか」などということはあまり気にしないほうがよいのです。というより、そんな「判断」をすべきではない、それよりも「他人のことを判断せず、専ら自分の内面に目を向けましょう」。これが、この連載コラム全体を貫く基本的な考え方です。

心を開く、マインドをオープンにする、というときに最も大切な要素は「判断を加えずにただ聴く」「無心に耳を傾ける」ということなのです。極端な例を挙げれば、自分のことは何でもあけすけに話すのに他人の話は全く聞かない、というのは明らかに「オープンではない」わけですね。このように、自分にとって都合の悪いこと、聞きたくない・認めたくないことをシャットアウトするのが「閉ざす」というのはまだわかりやすいと思います。

また心ならぬ耳を閉ざすがごとくにシャットアウトするわけではなくても、「自分のことを分かってほしい」という願望があまりに強い人々の場合往々にしてこの「耳を傾ける」ことがしにくくなります。こういう人々は相手の話に耳を傾けるよりも自分のことをわかってもらおうとする欲求のほうがはるかに勝ってしまうので、相手が何を言わんとしているのかちゃんと把握しないままに自分のことをあれこれ喋りだしてしまうのですね。相手の言葉の細部にこだわって反応し、相手の間違い(に見えること)をいちいち訂正しようとするのもたいていこのタイプですが、これではその話の本質というものは全く取り逃がされてしまいます。

ところで、「自分のことをわかってほしい」という欲求は誰にでも多かれ少なかれあるものなのですが、これもまた例の「エゴ」なのです。エゴなきところにはそのような欲求は生じません。何故なら真我の部分には基本的に対立を生むような自他の区別が存在しないからです。他人が自分のことを認めてないように見えたからといってそれが「自分を否定された、理解してもらえなかった」という不満にはつながらないのです。もちろん、エゴが少ない人でも「相手が自分のことを理解していないな」と感じることは当然あるのですが、だからといってそれが別に「不満」にはならないのです。エゴのない、或いは少ない人ならばとちらかというと「相手を理解しよう」つまり「相手に対して無心に耳を傾けよう」と思うわけです。また、自分のことを分かってほしいという欲求が強い人ほど実はどこかに「私は理解されていない、わかってもらっていない」という強い思い込み・信念があるので・・・だからこそ「わかってほしい」と思うわけなのですが・・・その信念が常に現実に投影されてしまいます。その結果、相手の言動がいちいち「自分のことをわかってくれていない」もののように見えてしまうのです。

あなたは赤信号のときに道を渡りましたね、と言われたとする。言った相手は別に貴方を責めたり否定したりしてるわけではなく、むしろそこから貴方のいろいろな悩みや迷いに対する解決の糸口を与えようとしているのかもしれない。実際に貴方は赤信号のときに道を渡った。しかし、「理解されていない」という信念を持っている貴方には相手の言葉が自分を批判しようとしているものにしか聞こえない。すると、たとえばこうなります。「私が赤信号のときに横断したのはたった一度だけですよ」「あのときはまだ黄色信号だったんです」「渡ったことはあるけど半年前の話です」などなど。まあ、ありていな言い方をすれば単に「話の腰を折っている」のと大差ないかもしれませんが、相手の話の本質を聴きましょうという態度には程遠いということはわかりますね。おかしな信念がなければただ「確かに私は半年前にたった一度だけど、正確にはまだ黄色信号のときに渡り始めたのだけど、確かに赤信号のときに道を横断したわ」と認められるでしょう。

自分のことを分かってほしい、というのは「自分の正しさを証明したい」というのとほぼ同じです。以前のコラムで述べたように、自分の正しさにこだわるというのは必ず「自分の間違いを認められない」ことなのですから変化に対する拒絶であり、自己防衛でもあるのです。言うまでもなく全てエゴの作用ですね。

心を開く、マインドをオープンにするというのはイメージだけで言ってもエゴとは相反するものだろう、と容易に見当がつきますが、まことにまことにその通りだ!ということがこれでご理解いただけるかと思います。

聴くこと、耳を傾けることができない状態というのは即ち「受け入れない」という状態です。じゃあ、どんなことでも、どんなひどいことでも黙って聴かなきゃいけないの?受け容れなくちゃいけないの?そう考える方もいらっしゃるでしょう。これについては次回にご説明いたします。(この項続く)

 
第78回「ココロの平和 番外編」

貴方の幸せ、貴方の心の平和はどこまで行っても貴方自身の問題であり貴方の内面にしか存在しないものです。貴方がこれらのものを得ることを妨害し、それどころか上記のような認識を抱くことすら邪魔するのが例によってエゴなるものです。

エゴ、というのはこれも繰り返しになりますが、マインドの中の分裂した部分であり肉体を持って存在してしまった以上程度の差こそあれ誰にでもあるものです。これをなくしていくことが本当の意味でのスピリチュアルな成長であり、逆に言えばスピリチュアルな生き方をしていけば当然の成行きとしてエゴからの解放ということがなされます。

しかし、昨今の一見スピリチュアルなあれこれを眺めていると「これじゃあ却ってエゴを強化するだけなのではないか」としか思えないようなものも少なくありません。スピリチュアルに見えるあれこれの方法を使ってエゴの欲求を満たしていこうとするもの、即ち幸福を自分の外側に求め得ようとするものがかなりあるように見受けられます。これらを求めること自体がいけない、というのでは決してないのですが、それらが自分に幸福や平和をもたらす力を持っているのだと思い込んでしまうといつか必ず挫折してしまうことになるのです。

また、厄介なことに「私の幸せは自分の内面にあるのであって世俗的なあれこれなんかどうでもいいわ」と思うようになったところまでは良かったのだが、そうでない他の人々を見て「彼らはわかっていないダメな人たちだ。それに比べて私は本当に素晴らしい」などと考えたりすればこれはもうエゴ以外の何者でもありません。

いつも擬人化表現になってしまって恐縮なのですが、エゴというのは例えば憎しみ・羨望・比較・劣等感・嫉妬・欠乏感・不安・怒り・・・など恐怖に由来するあらゆるネガティブな感情を餌として肥え太っていくものであり、貴方の本当の幸福をどこまでも妨害する存在です。この妨害の仕方というのがまた巧妙で、貴方にとって本当は幸福でも何でもない、むしろ不幸をもたらすかもしれないようなものを「これがあったら幸福になれるよ」とか「これがなかったら貴方はずっと不幸だよ」などと囁いて貴方を間違った方向に導いたり、貴方の意識に光がもたらされるようなことが起こりかけると「騙されちゃいけないよ、こんなことあるわけないじゃないか」などと忠告のふりをして貴方を陥れたりするのです。つまり、貴方が本当の幸福を求めないように、それどころか本当の幸福とは何かということすらわからせないように仕組むわけです。

思うに、いわゆる「悪魔」というのはこのエゴを擬人化させ具現化させたものなのでしょう。おまけに、エゴは「偽者の神」まで作り出します。本人は熱心に信仰しているつもりが周囲から見るとエゴの権化みたいになっている、という例も結構あるものです。

エゴ、というと一般的には『エゴイスティック』という言葉から「自分勝手な人」というイメージが換気されるかもしれません。もちろん、セルフィッシュであることもエゴには違いありませんがそれだけではないのです。一見、正義感が強そうだったり親切そうだったりする人もいますし、或いは自信がなく気が弱い・・・というのも結局エゴのしわざなのですから「自分勝手」とは限りません。私はエゴイスティックじゃないからエゴが小さいはずよ!と思っているかたでも、もしもしょっちゅう悩みや苦しみや怒りなどに見舞われているのなら間違いなく貴方はエゴに「支配されて」しまっているのです。

面白い例があります。例えば「私は頭が良くて優秀なんだ」と自分で言う人がいたら、貴方はどう思いますか?これこそエゴの塊のような人だろう、と思うのではありませんか?ところがそうとは限らないのです。エゴが抜け落ちてしまっている人というのは自分が他人からどう見られようがどう思われようが一切気にしなくなります。すると皮肉なことにというか、結果として他人から見れば傲慢だと思われるような言動もしてしまうようになるのです。そして、それを「何て傲慢なの!」と不快に感じたり怒りを覚えたりするのであれば、その当人こそが例の鏡現象により実は傲慢な人なのだ、ということも言えてしまうのです。

このあたりの見極めは難しいでしょう。「私は優秀なんだ」と自ら言う人が本当に傲慢なことだってあるからです。しかし、どちらであったとしてもそれに対して怒りなどの感情的批判を覚える人は間違いなく「鏡現象」が適用されることになるのです。

話が少々脇道に逸れました。

エゴというのは厄介且つ怖ろしい存在に思えます。しかし、これは何というかうまく言えないのですが影のような存在であり、実体はないものなのです。光と闇、という喩えで言うならば、闇というのは「光の不在」であって「闇」という実体があるわけではない、光が持ち込まれれば闇は消えてしまう、というのと同じでいわゆる「目覚めていない状態」とも言えます。完全にエゴがない人、というのは即ち完全に覚醒している人なのでしょうが、そんな人は滅多にいるものではありません。いたとしても却って目立たないことが多いかもしれません。このあたりは以前ブログでご紹介した「禅の十牛図」に詳しく書かれています。

エゴには実体がないのだから実は怖るるに足らないのです。完全な覚醒を目指す必要もないと思いますが、エゴがなるべく出没しないように、してもすぐ消えるようにすることは大いに必要でしょう。光がもたらされれば闇は消えるのです。この場合の光、とは普遍的な意味での「愛」でも良いし、研ぎ澄まされた理性と感性でも良いのです。

この「理性」を「理屈」と勘違いし、更に「感性」を「感情」と勘違いした状態でスピリチュアルを目指したつもりになるとかなり悲惨なことになってしまいます。よく「アタマを使うな、感情を大切にしましょう」という人がいますが、この場合の「アタマ」とは実は「感情に左右されて判断力を失ったマインド」あるいは「エゴに侵食されたマインド」のことであり、真の意味での論理のことではありません。また、感情を大切にしましょうというのであらゆるネガティブな感情をじっくり味わってしまい、ますます不安定になってしまったという例もあります。

本当の意味での理性とは宇宙の論理(ロゴス)とつながるものであり、感性と表裏一体のものなのでエゴが強大な状態では正常に働くことができないのですが、逆に言えば理性や感性が働いてさえいればエゴは台頭できなくなるのです。

もしも貴方がこの項の冒頭の部分・・・「自分の幸せや心の平和は全て自分自身の問題だ」という文章が全く理解できない、とか強い抵抗を覚えるというのであればこれはやはり「エゴによる妨害を受けている」のに間違いありません。しかし、常に実践できないにしてもこの原理がわかっていないと本当の意味での幸せは訪れない、というか求めることすらできないのです。是非ここでじっくり考えて見て下さい。

 
第77回「ココロの平和 Y」

(承前)自分の心以外の全てのものは、貴方の心の平和や幸福に対しては直接の関係はないのである。貴方が何を求めているように見えようとも、実は貴方は「それらによって得られるはずだ」と思っている心の平和や幸福を求めているのである。これが前回までのおおざっぱな結論です。

ならば、私はこれから幸せになろう、変わろうというときに何故環境や人間関係や所有物を替えようとするのか、何故そういうことに意味があり有効なのか、についても説明いたしました。

本質的には、自分の心のありようを変えるのは他ならぬ自分以外にはないのだから貴方は誰の、或いは何の力も借りずに自分ひとりでこの場で心の状態を変えることができるはずなのです。しかし、実際には多くの人がこういうことに慣れていません。自分の外側にあるあれこれを変えてみようと考えるのも、まず先に自分の心の状態が変ってきているからでありそのことの表れなのですが、心が不安定なままだとこれがうまくできなくなり悪循環に陥ってしまうのです。

一般的に、方位というのは自然界に存在している気の状態に呼応するものです。そして人間も本質的には「気」あるいは「意識」であり、自然の一部であることを考えればその時々の自分の「気」=「波動」に即した動きをするのがもっとも無理のないあり方である、とわかります。風向きと同じ方向を向いていれば簡単に前に行かれるのに、逆らおうとすれば強烈な抵抗にあってしまうし、自分が水を欲しているときにカンカン照りの場所に行けば熱中症にかかってしまいますね。

心が安定しているときは「無理なく自然の流れに乗っている」ときである、とも言えるのであまりあれこれ考えなくても「何となくこのあたりがいいな」と感じた方位が鑑定上も「吉方位」となっている場合が多いのです。また、「このあたりに住みたい」という希望があるとして、「でも何となく今年は動きたくない」と思っている場合にも、実はやはり鑑定上も「今年のこの方位は凶方」となっていたりするわけです。

しかし、不安定な状態にあったりエゴ的発想に囚われていたりするとこのあたりの勘や判断がまるっきり働かなくなってしまうのです。

たとえば、例の「待てない!」状態に陥っている人など、別に急ぐ必要など何もないのに「早く引っ越さなくてはならない!」という思い込みに何故か囚われているので、自分の波動がどういう流れをしているかなど全く感じる余裕がなくなってしまいます。

あるいは、自分の波動に合っているかどうかよりも単なる利便性とかかっこよさなどを重視して動いてしまう人々もいます。というか、この場合も外的条件に囚われてしまって「自分の波動」などは全く感じることができなくなってしまっているのです。実は水を欲しているのにそのことを認識できず「熱さ」を「よいこと」と思い込んで動いてしまうようなものです。ということは、他ならぬ自分のことなのに肝心の自分自身を度外視して選び動こうとしているという状態になるわけで、本人は自分の利益のために動いているつもりが実際には逆のことをしているという、まあ徒労以上の悲惨な状態とも言えてしまいます。

つまり、安定した状態ならごく普通に動いても自然にいわゆる「よい方位」に惹かれるものなのに、不安定な状態のままで動こうとすると自分とは全く合わない方向の土地を「よい」と感じてしまったりするわけです。これは、たとえば不安定な状態にあるときにパートナーとして選んだ人が実は自分に全く合わない人だった、というのと全く同じ原理です。

でも、いくら「合わない」といわれても私はどうしてもこれが欲しいんだ、ここに行きたいんだ、という人もいるでしょう。そこです。これなのです。貴方は、心の平安や幸福が欲しいのか、それとも「これ」や「ここに住むこと」が欲しいのか。「これ」「ここに住むこと」が欲しいのは、それらが自分を幸福にしてくれると思っているからではないのか?そうではない、と知らされても尚且つそれらを求めてしまう、という状態を「執着」というのです。

まあ、こういうわけで、「今の自分の心が平和で安定しているという自信が持てない」ならば自分の好みや判断に頼らずにリーディングで「よい方位」を知った上で動いたほうが賢明だということになるのです。

ところが、いわゆる気学による「吉方位・凶方位」というのは絶対的なものではないのです。さまざまな理由により、一般的な方位の良し悪しが全くあてはまらなくなってしまったという人もいますし、また体質(というしか表現が見当たりません)によっては一般的な見方が効かないという人もいます。ですから、私の場合は方位盤だけでなく必ずカードで確認することにしています。

方位と同列に述べるのはおかしいと感じるかもしれませんが、昨今では一般的になったいわゆる「ヒーリングストーン」類についても似たような説明が可能です。

この石はこれに効く、こういう作用がある、と知ったから身につけるというのはちょっと、いや大いに疑問です。それらは全て貴方が、おそらく不安定な状態を何とかしようとして・・・言い換えれば不安定な心の状態において、「自分の波動はこれに合っているか」ということ即ち「肝心の自分自身」を度外視して選んだものに過ぎないからです。

本当は、貴方が自然に惹かれたものが今の貴方には一番合っているはずなのですが、心が不安定な状態だとその「自然に」ということができなくなるのです。その結果「あら、恋愛に効くの?だったら今彼とのことで悩んでいる私にはピッタリだわ」などと思ってトンチンカンなものを選んでしまったりします。こういう失敗を避けるためにはやはりリーディングなり何なりでちゃんと見てもらったほうが安全でしょう。

私の経験では、リーディングで「今の貴方にはこの色が良いですよ」と出た場合殆どの人が「えっ、私も今その色が気になっていたんです」とか「昨日その色の服を買ったばかりです」などという反応を示すのです。どんな色を、どんな石を身につければ自分はより良くなるだろうか?などということを考えずにごく自然に動けば難なく自分に合うものを選べてしまうものなのです。それを、本などで得た情報をそのまま鵜呑みにして「これが私を幸福にしてくれるはずだ」というアタマの、或いはエゴ的判断から選んでしまうのはどうもあまりうまく行かないようです。

また、「好み」というのも単なる「思い込み」と化してしまっている場合が多いので注意が必要です。「こういうのは嫌い、自分には合わない」と思い込んでしまっていればそれらが今の貴方の波動に合っていたとしてもそのことを認識できなくなります。

そして、方位にしろ石や色にしろ、それら自体が貴方を守ってくれたり幸福にしてくれたりする力を持っているわけではない、ということを肝に銘じておいて下さい。それらはやはり「外側にあるもの」であり「それら自体には別に特別な意味は無い」のです。それを選ぶ貴方の心のあり方が反映され、貴方の波動に一致したときに初めてそのことによって作用が生じるのだし、本来は幸せになったり心の平安を得たりするためにあれこれの助けを借りる必要などないのです。

私は決して唯物論者ではありません。ただ、心の状態を何とかするのに心以外の何かを持ってこなくてはならない、という考え方が本質的にはおかしいだろうと確信しているのに過ぎません。それに、このあたりがわかっていないと怪しげな「開運グッズ」に散財してしまう危険もあるではないですか。

とにかく、いつでも常に問題になるのは実は「自分の内側」でしかないのだ、とよくよく認識しておくことが大切なのです。

 
第76回「ココロの平和 X」

(承前)不安も恐怖もなく平和な精神状態でいること、あるいは幸福であることというのは外的条件には依らないものである。つまり、貴方が何をどれだけ所有しているか、どこでどのように生活しているか、などには何ら直接関連しないものである。それならば、仕事や住居や人間関係や身体状態などの「環境」を変える必要など常に一切生じないのではないか、という言説も成立しうるはずです。というか、原則的にはその通りなのです。しかし、実際にはリーディングでも「この仕事は変えたほうがよい」とか「転居したほうがよい」「この人とは別れたほうがよい」などの結果が出るわけです。これはいったいどういうことなのでしょうか?

まず一つには、それらの「環境」が貴方にとって何かの象徴になってしまっているという場合があります。たとえば数年前の貴方は今よりずっと自己評価が低く否定的だったとします。そのときに選んだあれこれの環境というのはその時の貴方の状態にふさわしいものであり、いうなれば過去の貴方を象徴するものなのです。現在の貴方とは既に波長が合わなくなっているので、いうなれば小さくなった洋服に無理やり身体を押し込んでいるとか、とっくに電気洗濯機が普及していしかも買おうと思えば買うことができるのにわざわざ不便な思いをして手で洗濯をしているとか、そんな感じを表しているわけです。

ここで少々難しいのは、別にきつくなった洋服を着ようが電気の時代にわざわざ薪で火を起こそうが、それらはやはり「本質的には」心の平和や幸福とは何ら関係がない、ということです。これが問題になるのは専らそれらが「貴方にとって何かの象徴」となってしまっている場合だけなのです。ここに注意してください。

以前の貴方はただ自分に優しくしてくれる人をパートナーに選んでいてそれでうまく行っていたが、現在は衝突しても良いからもっと深いつながりを持てる人を求めるようになった、などというものもこのケースに含まれます。あるいは、方向が逆のように見えますが、以前は「これこそ自分にとっての価値だ」と信じて豪邸を手に入れ住んでいたものが、「こんなものは無駄である、私には必要ないし別に私を幸福にもしてくれない」という認識になり質素な暮らしに切替える、というのもそうです。

何かの象徴、と書きましたが、これはたいてい「過去の貴方の価値観の象徴」となるようです。なぜならば、価値観すなわち貴方が何に価値をおいているかというその「見方」は、とりもなおさず「あなた自身」を表しているからです。この「価値」というのは好き嫌いの意味ではないし、世間一般からみた評価とも関係ありません。たとえば「私は平和な人間関係が好きなのに」と思いながら喧嘩ばかりしている人、というのは「争い」だの「闘って勝つこと」だのに価値をおいていることになってしまうのです。また、世間一般からみて評価の高いほうを自分にとっての価値だとして選んでしまうならば、貴方にとっての「価値」というのは自分を度外視した「世間一般の評価」にある、ということができますし、それはそのまま「自分の本心」というものを極めて「低い価値」であると位置づけることにもなっています。

過去の価値観の象徴であるあれこれにしがみついているのはいかにも居心地が悪いはずです。通常、自分が変化すればそれに伴って自分の周囲のあれこれも自然に変化する、という方向に行くはずなのですが、自覚していなくても恐怖や不安の感情がある人はそれらのために更なる変化を起こすことに抵抗を覚え、変化しないで済むようなまたは変化など必要ないと思い込めるようなさまざまな口実を作り出します。たとえば、お金が、時間が、体力がない、とか今は周囲が大変な時期だから自分が動くわけに行かない、などなどいくらでも作り出せるのです。これらの「口実」を取り除いてみて実はそこに「変化に対する不安」があったのだ、と気づけばそこからはもうあと一歩です。何故ならここにおいて貴方は「環境を変えない」理由が単なる口実に過ぎないことに、他人や周囲のせいにはできないことに気づいたわけで、そうすれば後は自分次第ということになるからです。なあんだ、やろうと思えばできるんじゃない。しかし、変化に対する抵抗や恐怖がより強い人たちは「自分の気持次第」になってしまうほうがもっと怖いのです。このような場合は、「貴方はいったい何を怖れているのか」をしっかり見てみる必要がありますが、そんなものを見るのは更に恐怖だ!ったりするのです。断言しますが、こういうものはしっかり見てしまったほうがずっとずっと楽になります。

過去の価値観の象徴であるような環境は、過去の貴方にとっては心の平和をもたらしたかもしれないが今の貴方にとってはもう違う。だから変えたほうが良い、というケースと似ているような違うようなものとして挙げられるのは「混乱している時期に選んだものはたいていダメ」というまあ当然ともいえるケースです。

自分を見失っている時期・・・とても焦っていたり不安だったりしたときに目の前に現れたものに飛びついてしまう、ということがあるのです。こういうものは殆ど、貴方が本来求めていたものとは違っていたと分かる結果に終わります。また、自信を失って普段よりもずっと自己評価が低くなっている時期だと、普段ならAを選ぶはずなのにその時の自分によりふさわしいBを選んでしまったりすることもあります。これは最初のケースと重複します。

逆説的に聞こえますが、安定を求めて何かを選んでいるつもりなのに、不安や焦りから考え行動してしまうと却って安定からかけ離れたような環境に身をおくことになってしまうのです。安定した環境が得られれば心の平和や幸福が得られる、のではなく、まず先んじて「平和な心でいること」が大切なのはここでもわかります。だいたい、自分を見失っている状態の人がどうして自分にとってもっとも利益をもたらすものーbest interests-を選ぶことができるでしょうか?選ぶという以前にいったい何が自分にとって最も利益になるのか、ということすらわからなくなっているのです。

こういう時はまず間違いなく「自分以外の何かによって幸福や安定がもたらされる」のだ、という気持になってしまっているのです。これがまず第一の誤りです。それでも、通常の自分の価値観に沿った選び方をしているのであればまだしもなのですが、通常でない意識状態つまり自分を見失っている状態だとそれすらできなくなります。これが第二の誤りになります。

ダメなものを選んでしまってますます心が不安定になれば、このサイクルが繰り返される危険も出てきます。

「この環境は今の貴方には合わないので変えたほうがよい」という結果が出た場合でさえも、これは「新しい環境それ自体が貴方に幸福や安定をもたらすでしょう」という意味ではないのです。今の貴方が平和な状態でいるならば、つまり冷静な意識から動くならばおそらく確実に環境を変えることを選ぶであろう、ということがリーディング結果として出てくるという感じなのだと思います。

一般的に見て「より良い環境」というものは確かにあります。私はそれらを求めることを否定しているわけでは全くありません。否定も肯定も度外視して、ただそれら自体には本質的に貴方を幸福にしたり安定をもたらしたりする力はないのだ、と言いたいだけなのです。

さて、ここで疑問が湧いてきた方もいらっしゃるかもしれません。「だったら良い方位とか悪い方位、というのはいったい何なのだ?気のよい場所とか悪い場所、などと言うけど環境が内的な安定に関係ないのだったらそういうものも全て無意味なのではないか?」これは次回のコラムで説明いたします。(この項続く)

 
第75回「ココロの平和 W」

(承前)このコラムで扱うテーマはどれをとっても本質からみて必然的にそのほかの全てのものとつながるようになっている、言い換えればどのテーマでも究極的には同じことしか述べていない、のですが、今回の「心の平和」いわゆるpeace of mindはとりわけ全てのテーマに通底する重要なものです。

前回は、幸せについて述べた回のものと重ね合わせてみましたが、今回はやはり以前に扱った「在り方」との関わりを中心に考えていくつもりです。

前回までにしつこく書いたことを改めてまとめてみると、幸せとは心が平安で恐怖や不安から解放された状態であり、あくまでも内的なものであり、外的条件とは一切関係がない、従って外的状況にかかわらず貴方は常に平和な心でいること即ち幸せであることを自分の意思で選択できる、となります。ここまでは何となくであってもご理解いただけると思います。そりゃあ平和で幸せになりたいけど、あれがこうだからなれないの!と反論する方も多くいらっしゃると思いますが、何かを悩みだとか問題だと思い認識するのは常に自分自身でしかありえないのです。たとえば、貴方が誰かに対して「平和な心になりなさい」或いは「もっと悩み苦しみなさい」と命じたとして、そういうものは「スキップしなさい」とか「コーヒー入れてちょうだい」などという命令とは全く異質なものであり、「はい、そうします」と言ってその状態になることは不可能ですね。これは、わかりますね。「平和になれ」「もっと愛しなさい」「苦しみなさい」などという命令に対して「そうであるふり」をすることはできますが、貴方の心がそれに従って変化する、ということはありえません。誰かに命令される、という例は極端に聞こえるかもしれませんが、要するに貴方以外の何かが貴方の心を左右することはありえないと言いたいのです。しかし、実際には殆どの人が自分の心あるいは精神状態が自分以外の何ものかによって左右されている、支配されていると当然のように思っているのです。これは実は単なる信念、しかも間違った信念でしかないのですが、そういう方々にとってはあたかも真理のごとくに考えられてしまっています。

もちろん、貴方が何か本当に大切なもの、例えば肉親やそれに近いような存在を亡くしてしまったら悲しく淋しいのは当然のことです。しかし、これは「苦しむ、不安になる、恐怖やパニックに陥る」などというものとは違うのです。悲しみに暮れていても妙に穏やかで安らかな心持でいる、こともあります。この場合の悲しみというのは、何というか非常に純度の高い蒸留されたようなものなのだという感じがします。ところが、そこに「これから私はどうなるのか」「どうして私ばかりがこんな不幸な目にあうのか」「あの時私がああしていれば・・・」などの思いが入り込むと、これはもう不安であり恐怖であり、要するに穏やかさや安らかさは失われてしまっているのです。

外的状況が貴方の精神状態を決定するきっかけを作る、というなら百歩譲って認めましょう。しかし、それでもなお貴方の心の状態を決めるのは、或いは創るのは貴方以外のなにものでもありえないのです。これは本当に重要なことです。そんなのわからない、信じられない、と思うのはご自由ですが、そう考えるなら即ち「自分の精神状態に関する全ての決定権は自分自身にある」ということを否定するのなら、「潜在意識による願望実現」などというものもありえないということになってしまいます。この考え方を理解できない、肯定できないという人は自分の意識をコントロールしてより良い自分になるとかほしいものを手に入れるということなど不可能だ!と言っているわけです。潜在意識に何らか良いイメージをインプリントするというのは貴方の意識・心に対して貴方自身が決定を下せるのだと信じていなければできないことです。そのあたりをよく考えて見て下さい。意識を変えてもっと良くなりたい、幸せになりたい、という方は特にこの考えをしっかり理解なさるようにしてください。

さて、ここで扱っているのはあくまでも「心」「意識」という内的な事象であり、外的状況をどうにかしようということではありません。それは本質的なことではないし、もし本当に外的状況を何とかしたいと思うのならまず心・意識を何とかするしかないからです。心の平和、というのは完全に内的な状態なので、貴方が何をしているか、あるいはしていないかということにも一切関係がないのです。

たとえば、誰かとの関係において大変苦しんでいる人がその苦しみから解放されよう、執着を断とう、と考えたとします。この場合、その相手と別れるかどうか、というのはどちらでもよいことなのです。というか少なくとも二義的なものなのです。何故なら、貴方に苦しみをもたらしているのは「貴方以外のもの」つまりその相手でもなければ関係でもないのだから、執着を断ち苦しむのをやめるのは先ほど述べた原理に則れば「自分の意思で選択」できるのだし、そうした後に「執着の苦しみなく」関係を続けることが可能な場合もあるからです。あるいは逆に無理やり関係自体を断ち切っても貴方の苦しみは終わらず、あれこれの思いを引きずってますます執着が強まるだけだ、ということも十分ありうるでしょう。つまり「続けるか止めるか」という外的状況・行為は重要ではなく、どのような意識状態で、どのような在り方でいるのかということだけがキモなのです。これがまず先に来るのです。意識状態・在り方を選択・決定してみたところ「なあんだ、こんな関係やめよう」と全く自然に思えることもあるでしょうし、「どうして今までこんなふうにしてきたんだろう」と思って自然に接し方が変り、それによって関係のあり方も変るということもあるでしょう。

誰と一緒にいてもどこに住んでいてもどこで仕事をしていても、貴方は幸せや平和を得ることもできるし不安や恐怖や不満にまみれることもできるのです。それらの外的状況を変えなくては精神状態も安定しない、ということは基本的にないのです。それどころか、外的状況だけを変えたとしても貴方のあり方が変らなければどこでどうしていたって同じような不安に付きまとわれるだけになるでしょう。

繰り返しになりますが、貴方の内的なーということはつまり本質的なー平安や幸福を求めるために外的条件を求めてしまっては結局何も変らない、というのはこういうことでもあるのです。むしろ、あり方が変化すればそれに伴って外側のさまざまなことも自然に変化するに決まっているのです。このようにするなら、外的状況は「努力なしに」変化するのです。努力が必要なのは内的な部分、つまり意識状態やあり方を何とかするという点に関してだけです。そうです、「根拠無しに今すぐ不安を平和に置き換えろ」という部分についてだけは「そうしよう」という強い決意と努力が必要です。

しかし、実際には「この場所から離れたほうがよい、この人とは離れたほうがよい」というリーディング結果が出ることも良くあるのです。これらはどういうことを意味しているのでしょう?以下、次回に回します。(この項続く)

 
第74回「ココロの平和 V」

(承前)一切の不安や恐怖がなく、ココロが平和で満たされている状態、というのは言い換えれば幸福そのもの、という状態です。それが何日も何週間も持続するものであれ、数分で消えてしまうものであれ、とにかくその間は間違いなく幸福に包まれているのです。

そして、前回の最後で述べたように「不安や恐怖を取り去るには、何を措いてもそれを平和な気持に置き換えることである、解決のめどが立ったかどうかなどの根拠は必要ない」のであれば、このような「幸福そのもの」という状態が成立するための外的条件などというのはなくてよい、ということになりますね。

これは、昨年の「幸せになりたい」シリーズと重複することなのですが、スピリチュアルな生き方をしようと思っている人はもちろん、特にそうでない人々にとっても普遍的に重要なことなのであえてここで繰り返します。「幸せ」に外的条件は必ずしも要求されない、のではなく「幸せ」になるための外的条件など実は存在しないのです。この「外的条件」というのは端的に言うと心の中以外にある全てのものです。たとえばお金とか健康・美貌・地位・人気・頭脳や素晴らしいパートナーや家族或いはもっと細かく「こういう住居」「ああいう車」など物質的所有物も含まれますし、「世界平和」などといったものも外的条件のうちに入ります。何故なら、世界平和が実現することが貴方の幸福の必要条件であり、世界というのが貴方の外側にあるという認識を持つならば当然この条件は「心の外」にあることになるからです。せめて自分が世界の一部であるという認識があれば、あなたの平和なしに世界平和もありえない、とわかるのですが・・・。

ついでに言えば「愛」というのも微妙なのです。愛、とは明らかに普遍的な価値なのですが、もしも貴方が「愛とは、自分以外の誰か・何かから与えられるもの、自分の外側にあるもの、与えられなかったり奪われたりすることもあるもの」だと認識しているならば、やはり幸福になるために「愛」を求めるのも「外的条件」になってしまうのです。

多くの人々が洋の東西を問わず昔からこのようなものを求めてきたその理由は、これらが自分にとって幸福をもたらすものだと信じていたからであり、だからこそこれらに相当な「価値」を与えてきたのです。これらが本当に価値あるものなのかどうか、については疑いもせずただ「幸福になるためにはこれらが必要なのだ」と信じるからこそ求めることができるのです。当たり前ですね。いったいどこの誰が「価値がない」と思うようなものをわざわざ求めるでしょうか?

しかし、しかしです。人々はこのような「外的条件」によって自分が幸福になれると信じているが、その幸福とは煎じ詰めれば「不安も恐怖もなく、心が平和に満たされること」なのであれば、これらのものを手に入れさえすれば不安や恐怖がなくなる、と思っていることになります。ところが、これらは「失うこともある」という危険を伴うものばかりですね。となると、手に入れたはいいが今度は「それらを失うかもしれない不安や恐怖」が生じる可能性は非常に高くなってしまうのです。さあ、困ったことになりました。一旦は手にした幸福、つまり心の平和を維持したい、失いたくない!だったら更にあれもこれも必要かもしれない、とエンドレスにあくなき追求を繰り返す人も多いでしょう。または、「私はこれさえあれば幸せになれると思っていたけど違ったのだな、何かもっと普遍的な価値のあるものを探したい」と追求の方向性をチェンジする人もいます。そして宗教やらスピリチュアルやらの道に入ってきたりもします。しかし、注意しないとこういうものすら「外的条件」と化してしまう場合もあるのです。

それはさておき、多くの人々が犯す過ちがここにあります。即ち、自分ではあるものを求めているつもりで実際には別のものを求める行動に走るのです。幸せを求めているつもりでお金を、地位を、パートナーを求めてしまう。これだけでも十分に過ちであり「誤作動」に近いような結果に見舞われたりするのですが、更に悲惨なことには幸せを求めているつもりで不幸を求めてしまう場合です。これは、たとえば「幸せになるためにはお金が、或いはあの人から愛されることが必要だ」との認識からあれこれ頑張ってみるものの実際には自分の中で「お金」「誰かから愛されること」というのがしっかりした価値として認識されていないようなケースです。本気で「これが必要だ!」と信じ切れているならたとえそれが過ちであっても苦労の末にそれなりのところまでは行き着くのです。しかし、世間の常識とされていることや周囲の情報などに踊らされたりして「これが必要に違いない」と思うに至っただけであり本人自身が本当にそれらの価値を認めているわけではなく、そして更にそのことにすら気づいていない場合には、さきほど「ありえない」と述べたこと即ち「価値がないと思うようなものを必死で求める」状態になってしまうのです。本当は欲しくもない、或いは欲しいかどうかよく分からないようなものを求めるのですからうまく行くわけがないのです。

これは、親などから「こういう生き方がいいのだ、これが幸せなのだ」と教え込まれ、その価値を疑うことなくだからといって本当に信じているということもなくただ「そうしなくては」と思い込んで生きているような人にも見られる現象です。

とにかく、外的な条件とは全てあなた自身がそれに価値を与えなければ意味がないものばかりなのです。だってそうでしょう。家を持つことに何の価値も感じない人にとってみれば別に「家を所有していない」状態が不幸でも何でもないのですし、「世界平和?私には関係ないわ」とか「戦争に参加することが喜びだ!」という人には世界平和などあってもなくても関係ありません。健康だって「病気の一つや二つ当たり前だ」と思っている人と「ちょっとでも具合が悪いだけで不安と恐怖に襲われる」人がいるわけです。

そして、貴方が自分の外側にあると思うような何かに大きな価値を与え且つそれを求めるというのは、実は貴方が自分自身に価値がない或いは足りないと思っていてそれを補うための行為である場合も大いにあるのです。自分は完璧じゃない、価値が足りない人間だがあれさえ手に入れれば価値ある存在になれると思うのです。つまり、欠落感に由来する欲求ということになるのですが、これも破綻することが非常に多い。何故なら先ほど述べたのと同様、何かを得て欠落が埋まり自分の価値が高まったような気がしても今度はそれを失ってしまえばまたもとの「足りない、価値のない自分」に戻ってしまうのなら、「得られた何か」は本当には自分の一部になっておらず、貴方は本質的には何も変っていないということになるからです。

くだくだしく書き連ねたわりには単純な結論です。幸せとは、不安や恐怖から解放され心が平和に満たされた状態であり、それは貴方がその気になりさえすれば状況がどうであれ「今ここ」で得られるものである。それをマスターすることこそが大切なのであり、それなしにはどんなものをどれだけ得たとしても不安や恐怖がなくなる保証はありえない、のです。

誰しも、こんなときに何故こんなにも平和な心でいられるのだろうかと感じた経験があるでしょう。ところが多くの人がこういうとき「大変な状態なのに、問題が全然解決していないのに、こんな気持でいるのはおかしいわ」と思ってせっかくの幸せを自ら捨ててしまったりするのです。素直に感謝すればいいものを、そうすればミラクルが起きて本当に状況も変ってくるかもしれないものを、ああ勿体ない。

 
第73回「ココロの平和 U」

(承前)恐怖あるいは不安とは、何かしら貴方の大切なものを失うのではないかという思いである、と前回述べました。しかしここには「時間」のトリックみたいなものがあるのです。

恐怖や不安というのは正確に言えば常に将来、一瞬先であっても将来に関するものなのです。この先あれを失ったらどうしよう、とかまたは実際に何かを失ってしまった場合にはこの喪失の辛さや苦しみがいつまで続くのだろうか、私は永久に立ち直れないのではないだろうか、もう幸せを感じるようなことは起こらないのではないだろうか・・・とこれも将来に関する事柄となりますし、または今このときに自分の知らないところであれやこれや自分にダメージを与えることが起きているのではないか?というのもそれが将来ほんとうに「災難」や「損失」などとして自分に影響を与えるのではないか、と思っているからこその不安となっているのです。

ところで、このような不安を感じているのは常に「今」という瞬間なのです。今、があるからこそ「将来」とか「過去」なるものも存在する、というか「今」との対比においてしか「将来」も「過去」もありえないのです。となれば、不安を抱くということは「今」という瞬間を将来といういわば「想像上の時」のあれこれについての不安に費やしている、もっと言えば今このときを悪い想像によって奪われているという状態になるのです。

また、こういうことも言えます。不安或いは恐怖というのはたいてい常に何らか記憶やら情報やら「過去」に感じたり得たりしたものと関連があります。ああいうことがまた起こったらどうしよう、とかあんな映像を見たけれど私もああなったらどうしよう、とかあの人みたいになったらどうしよう、などというのは全てそれがたとえ一秒前であったとしても「過去」において貴方が見聞きした即ち何らかの形で「経験」したものに関連付けるからこそ、そこに恐怖や不安が生じるのです。

ということは、時間というものが常に「現在」だけであれば恐怖も不安も存在しようがないわけです。そして、以前にも述べたように過去や将来は「現在」においてしか存在しない、現在の貴方のココロの中にしか存在しないものです。いくら活字や映像で記録が残されていたとしてもそれを「過去に起こったことだ」と意識が認識しない限り、それらが「過去」を意味することにはならないでしょう。それら自体には何ら意味がないのです。フィクションを実録だと勘違いする、というケースだって十分に考えられるでしょう。

ともあれ、貴方が何かを感じているのは常に現在において、なのです。それならば、不安や恐怖を取り去り穏やかで平安な気持になるのも常に現在においてしかありません。しかるに、いろいろな恐怖や不安を抱えている人はどうしても「将来自分にとってひどいことが起こらない保証」みたいなものを求めがちです。言い換えれば、将来を何らか操作できれば(それに備えた対策をいま講じるということも含めて)安心できる、そうでなくては心配が治まらない、と思ったりするわけですが、不安や心配を感じるのも「現在」だし、安心や平和を感じるのもやはり「現在」なのです。

私たちにとっては、何か心配なことがあってそれが解決するまでは不安な気持が続き、解決して初めて安心できる、というのがまあ当たり前の常識になっています。しかし、これがたとえば約束の時間に間に合うだろうか、とか明日の大事な仕事がうまく行くだろうか、というような極めて短期間で結果が出てしまうような事柄ならばまだしも、そうでないものだったら貴方の抱えている不安や恐怖はいつまで続くのかすら見えないということになってしまいます。

リーディングでもこのような問題を抱えていらっしゃる方が非常に多く、いついつ頃になれば安定しますよ、などという結果を聞いてホッとしました、などとおっしゃっていただくのですが、中には「貴方の考え方や捉え方が変らない限りこの問題は続くでしょう」のような結果が出てしまう場合もあります。こういう方たちは、言ってみれば「自分の生きているこの世界は危険に満ちている」とか「私は常に悪いことに見舞われる」などという信念を持ってしまっているために、状況がどうあれいつもいつも不安や恐怖を抱えざるを得なくなるのです。

ひとつのことが解消しても、もぐら叩きのごとくにすぐ次の不安の種が出てきてしまうのです。というか種を拾う或いはわざわざ作り出してしまうというほうがより正確かもしれません。

こういうときにどうするか?先ほど述べたように、不安を抱くのも現在ならそれを取り去り平和な気持になるのも現在においてのみである、のですから、とにかく「それをする」しかないのです。

今から言うことは「何それ?」と思われるかもしれませんが、非常に非常に重要なことです。即ち、現在感じている不安を今すぐに平和な気持に置き換えなさい、解決のめどがたったかどうか、などの根拠は一切必要ない!これです。

なぜこんなことをするのか、できるのか、という根拠があるとすれば次のようなものです。不安や恐怖を抱き、それに囚われているということは自分自身を「攻撃」していることに他なりません。貴方が怖れていることが実際に起こって貴方にダメージを与える以前に、貴方が自分で自分に対して既にダメージを与えているのです。

これが良いことだと思いますか?損得という側面だけでみても明らかに「損」ですが、以前から述べているように「本当は自他の区別などないのだ」とすれば自分自身を攻撃するのは他者を攻撃するのと本質的には同じくらい「いけないこと」になるのです。

誰だってダメージを蒙りたくないのです。傷ついたり大切なものを失ったりするのはもちろん打撃に違いありませんが、その前に、というかそれらが本当に起こるかどうかもわからないうちに自分が自分にダメージを与えているというのは冷静に考えれば悪い冗談か愚かな過ちでしかありません。

貴方に不安を与えている「原因」、だと貴方が思っているものが何であっても、またそれらが消え去っていないようであってもそのことをエクスキューズにしてはいけません。何故なら、それら「原因」と思われているものは実は本当の原因ではないからです。貴方の中に「自分を不安に陥れて自分自身にダメージを与える傾向」というものがなければそれらは何ら貴方に対して作用を及ぼさないでしょう。貴方のものの捉え方、認識の仕方が変ってしまえばそれらも別に「不安の原因」などではなくなってしまうでしょう。

不安を今すぐ平和に置き換えることのもう一つの根拠として、いわゆる「奇跡」というか奇跡的な出来事というのは不安や恐怖に満ちた状態の人には訪れないのだからミラクルが欲しかったら不安はさっさと捨てなさい、ということも挙げられます。一瞬前まで不安だらけだったとしても、ほんの短時間でも平和で穏やかな気持に満たされたそのときにミラクルを受け容れる態勢ができるのです。

どうやったらできるのですか?というご質問が当然出てくると思いますが、これは本当にただ騙されたと思ってやってみるしかないのです。その際、誰に或いは何に対してというのでなくても良いから「ありがとうございます」など感謝の言葉を唱えてみるのは私や私の周囲の人々の経験からみても非常に効果があります。ただ「愛」「平和」などという単語を唱えてみるだけでも大丈夫でした。おそらく高い波動の言葉を唱える、というのが効くのだと思います。

是非是非、お試しになってみてください!(この項続く)

 
第72回「平安なココロ T」

「待てない!」「ディフェンス」の項で、これらの現象を生じさせる原因は「不安」にあるのだ、と述べました。これらに限らず、さまざまな悩みの根本にあるのは常に「不安」であるとも言うことができます。「待てない!」のところで、トラブル=問題というのは煎じ詰めれば皆同じである、即ち「欲しいものが得られない不満、得られないのではないかという不安」に尽きるのだと言いましたが、これも正体は不安とほぼ同一です。不安定な状態が、状況や人によって「怒り」に近くなれば「不満」として表れるということになるような感じです。

さて、今回はこの「不安」というものについて改めて見ていこうと思います。不安になったことが生れてこの方一度もない、などという人はいないはずですからこれは誰もが強い共感を持って考えることのできるテーマですね。

不安というのは恐怖と大体において同じものです。この二つはセットになっているともいえるし、恐怖が不安を生み出すということもできます。

考えてみましょう。もしも今あなたの全財産が千円ちょっとしかなかったとします。そういう状態が10年単位の長い期間続いて当たり前のことになっている人は別ですが、まあ通常はこれは不安な状態だと言えますね。明日は暮らしていけるだろうか、いつお金が入るだろうか、と思うから不安なのですが、これが「明日お金が尽きたら、食べるものも何もなくなったらどうなるのだろう」というのは考えるのも「恐ろしいこと」だったりするわけです。こうなったらああなったらどうしよう?という不安は要するに「こうなったりああなったり」するという貴方にとって怖ろしい状態を想定し、更にそれを受け容れたくないから生じるのです。

簡単なことですね。あの人に嫌われたらどうしよう?というのはあの人に嫌われるのが恐怖であるということだし、この話が潰れたらどうしよう、とか大地震がきたらどうしよう、などというのもそれぞれ「話が没になる」「大地震が来て大惨事になる」ことが恐怖だからこそ生じる不安なのです。ここまではまあ当たり前のこととして理解していただけると思います。

ところで、更に突き詰めてみるとどうなるでしょうか?無一文になる、誰かとの関係が破局する、災害に見舞われる、大病にかかる・・・ということが「何故」恐怖なのか?そんなの怖いに決まってるじゃないかと思うかもしれませんが、ここからが重要なのです。何故、これらのことが恐怖なのか?

まず第一に挙げられる理由としてそれらが「貴方にとって大切なものを奪うものである」ということ、つまりそれらによって貴方は大切なものを失ってしまう、そのことに対する恐怖です。ところが、「大切なもの」というのは人によって違ったりするものなので、結果として「何に対して恐怖或いは不安をもっとも感じるか」ということにおいても個人差が出てくるのです。天災は嬉しいことではないけれど、まあしょうがないじゃないかと初めから腹をくくれるような人もいるわけですし、自分の命を失うという「死」をさえそれほど怖れない人もいます。かといってこういう人々が全く恐怖も不安も抱かないかというとそうとは限らないのです。死ぬことは別に怖くないが死ぬほど蛇が怖い、とか例えばそういう人もいるわけです。何を失うのがもっとも恐ろしいか、という対象は何であっても本質は同じことです。それが形あるものであれ、名誉名声などの社会的なものであれ、自尊心や愛情などの内面的なものであれ、それらを失うことが怖いからこそ「そうなったどうしよう」という不安が出てくるのです。貴方にとって大切なもの、愛着があるものを失うというのはまるで貴方の一部、それも小さくない部分を失うということですから確かに恐怖を覚えるのも当然、と感じることでしょう。

次に考えられる理由は、一番目のものと重複する部分もあるのですが、それらのことが「自分に価値がなくなる」という感覚につながるということです。何かを大切であると思うことは即ちそれに価値をおく、ということに他なりませんが、更にその「何か」が自分自身の価値というもののシンボルになっている、というか自分が勝手にシンボルにしてしまっているということでもあるのです。例えば、お金に大きな価値をおいている人はお金を失うこと=自分の価値がなくなること、だからこそそれを怖れるわけでしょう?誰かとの関係が破局することを怖れる人は、その誰かを大切に思うあまり「その人に認めてもらうこと」が自分の価値になっていたりするのです。そういうものを失う、というのは「自分が価値ある存在である」と思える拠り所を失う、ということでもあるので場合によっては生命の死と同じくらいのダメージがあるのです。

さて、確かにこれら貴方にとって「大切なもの」を失うのは少なくとも嬉しいことではない。これは認められます。しかし、まだまだ次があるのです。大切なものを失って身を切られるように辛い、或いは自分の存在価値も理由も見出せなくなって苦しい、こういうとき貴方が本当に失っているものは実は「心の平安・平和」なのではないでしょうか?

あまりにも当たり前なので却っておかしなことのように聞こえるでしょうが、恐怖だのそれに付随する不安だのというものは結局「心の平和を失うこと」に対して生じるのです。ああなったらどうしよう、というのは「ああなったら」心の平安が奪われること確実だと思うからこそですし、心の平安が奪われるのではないか、と思うことで既にその瞬間心の平安を失っているのです。

うまく行かなかったらどうしよう、うまく行かなかったらパニックになるだろう、と思った既にそのとき貴方はパニックになったりしているわけで、何というかおかしなことに「最悪(と思える)なことが起きた場合にこうなるのではないか」という心の状態を今ここで先取りして経験してしまっているのです。そういうことが実際に起きたら案外それほどパニックにもならずに済んだりもするのですからこれは皮肉というか笑うに笑えないような現象なのです。或いは、もしも実際にある状況に見舞われてパニックを起こしたり苦悩したりするとしてもそれを前もって味わい苦しみや悲しみの先取りをしていたら、貴方は一度で済む苦しみをそれが起こってもいない時点から何度となく経験しなくてはならなくなるのです。悪いことが起きるのではないか、起きたらどうしようと恐怖や不安を味わって過ごした末にまさにその「悪いこと」に見舞われてしまった人と、そんな心配を一切しないで過ごしていたときに同じような「悪いこと」に遭遇した人とどちらがより不幸か?不安を感じるからこそ前もって対策を練っておいて助かった、というなら別です。こういう人は「冷静に対策を練る」という段階で既に不安や恐怖からは離れているのです。対策を立てて準備していたから大過なく済んだ、というのではないのです。理性を働かせたという時点で「不安」という感情に押し流されることを免れたのです。

それはともかく、恐怖や不安というものは人それぞれとはいえ何か特定の原因によって生じるものではないのです。そのような原因とされるあれこれは恐怖や不安のスイッチをいれるきっかけでしかありません。そのおおもとにあるのはもっと本質的なことなのです。(この項続く)

 
第71回「ディフェンス V」

(承前)傷つくのを怖れて自分を守る、ということは自分を閉ざし相手との間に壁を作るということに他ならないので却って傷つくような結果を招きやすい、というのが前回まで見たところです。今回は、貴方が親しくなりたいと思っている相手がこのタイプだったらどうするか、ということについて述べましょう。

まず第一に検証・確認しておかなくてはならないことがあります。それは例の「鏡現象」です。つまり、相手が自分を守って閉じている、と貴方が感じる場合特にそのことで頭に来るとかとても感情的に相手を批判してしまいたくなったりする場合、実はそれは貴方のほうが「自分を守って閉じている」、という現象なのだ、とこれは以前「誰の問題?誰が問題?」でかなりしつこく詳しく書いているのでまずはそちらをご参照下さい。貴方が自分を守るべく、傷つくまいとして自分を閉じてしまっていれば当然相手との間に壁ができます。ところが貴方はその壁を作ったのが実は自分自身なのだということに気づいていません。ただ壁の存在だけが見えるのです。するとこれまた当然のことながらその壁を作ったのは相手である!という結論を出してしまうのです。こういうケースでは、貴方が自分を守るための壁を取り払わない限り相手に対して何もできないしたとえ何かをしたとしても全く無意味になります。なぜなら、貴方が何かするとしたらそれはやはり「傷つくまいとして自分を守り」ながらやるに決まっているわけで、下手するとそれによって却って壁が堅固になってしまうことすらあります。そして貴方はそれを「相手が自分のことを強く拒絶した」と解釈して傷つく、というわけです。

こういうことは恋愛を初めとする人間関係で本当に、本当に多い現象なのです。自覚していなくても自分の中に攻撃性がある人にとっては相手の言動が自分に対する攻撃のように映ってしまいます。だから自己防衛のために自分も攻撃する。すると相手はそれを受けてこれまた自己防衛のために貴方を攻撃してくる・・・・というエンドレス状態になるのだ、とは前回述べた通りです。

相手に攻撃をやめて欲しかったらまず初めに貴方のほうが、たとえそれが自己防衛のためであったとしても、攻撃するのをやめなくてはならないのです。そのためには、相手の言動を「攻撃」だと受け取らないようにすること。これについても前回述べましたね。

ですから、相手に関して「この人は自分を守るべく閉じている」と感じたらまず「じゃあ私はどうなのか」と厳しい目でチェックして検証してみることが非常に大切なのです。「あの人を変えてあげたい、もっとオープンになってほしい」と思ったとしてもその貴方が「傷つかないように自分を守る」姿勢でいつづけたのではどうにもなりません。

たとえば、ある人が本当に「自己防衛のために閉じている」タイプだったとしても鏡現象というものが全く生じなければその部分は表に出にくいのです。わかりやすく言うと、自分と同様に閉じているAさんに対しては鏡現象により自分も同じ部分が出てしまうが、非常にオープンなBさんに対しては鏡現象が起こりえないので自分の「守りの姿勢」も喚起されないということです。とても気難しい人がある人に対してだけは素直になったり、或いは普段は温厚な人物として通っている人がある人に対してだけは何だか妙に意地悪だったり、という現象は珍しいものではないでしょう?

ここまで理解していただければ、次のステップに進めます。相手が難しいタイプだった場合どうしたらよいか?もちろんリーディングにいらしていただければ相手の考え方や行動パターンを詳しく読み取って説明し、対処方法までアドバイスしますが、実はこんなことをしなくても対処できる非常に簡単な方法があるのです。それは端的に言えば相手を「本当は良い人なのだ、と見ること」です。但し、いくつか誤解を招きやすい点があるので注意が必要です。この場合の「良い人」というのはその人の心の深い部分、真我の部分を見てあげるということであって表面的なあれこれを数え上げるということではありません。あの人にはこういうところもああいうところもあるから良い人なのだろう、と見ることもできなくはないのですが、そうするとそれと同じやり方で「でもああいう嫌なところもこういうズルイところもあるし・・・」という風に簡単に裏返ってしまう危険性が高いのです。そうではなくて、この人は表面的にはこうだが、そしてその原因となっている心の傷だか闇だかもあるのかもしれないが、真我の部分においては誰もがそうであるように無垢なのである、という見方をすることが重要です。そしてその人の「嫌な部分」に見えるところ、攻撃しているように見えるところは、たとえそれが本当に攻撃であったとしても、これも以前に述べたように「攻撃=愛や助けを求める叫び」なのですから、そのようにみてあげればよいわけですね。貴方だって誰かに対して「私はこんなに苦しんでいるのよ!何とかして助けてちょうだい、もっと愛情をもってちょうだい」と思うときこそ相手に対して攻撃的になってしまうことがあるのではないでしょうか?誰でも身に覚えがあることと思います。ここを忘れないで下さい。

次なる注意点は「赦し」のところで書いたことと重なりますが、「相手を上から見るような同情はいけない」ということです。このようなアドバイスをする人もいるのですが、そしてそれがある程度効果的な場合もあるのですが、こういう姿勢でいるうちは一見攻撃が収まり怒りも消えたとしても相手との間の見えない壁はあまり崩れないのです。というより、今度は貴方が相手を自分より下に見る、という姿勢をとることによって相手との間に壁を作ってしまうことにもなるのです。

考えてみてください。「私は貴方を攻撃することもできるけれど、貴方は学びの足りない未熟で気の毒な人のようだから見逃してあげましょう」と、貴方が誰かからそう思われていたとしたらどんな気分ですか?これはスピリチュアルとは程遠い姿勢なのですが、自分自身が「スピリチュアルに学んでいる」と思っている方々の中にはスピリチュアルという考え方を知らなかったり理解しなかったりする人々に対してこういう姿勢をとってしまうことが往々にしてあるのです。

更なる注意点として挙げられること。これはあまりないことかもしれませんが、自分を攻撃してくるように或いは自分に対して無関心に見える相手、自分を評価してくれない相手に対してーこれも「相手から関心を持たれたい」「評価されたい」と思っている人にとっては一種の攻撃となるのですー「あの人は本当は私のことが好きなのよ」と思えという方法には全く効果がないので注意しましょう。こういうことは好き嫌いという問題とは全然次元が違うことなのです。相手を赦す、というときもちろんその相手のことを嫌うのは不可能になりますが、だからといって積極的に「好き」とも限らない。つまり好悪などという主観的感情は超越されるわけです。何故ならこれはエゴのものであるのに対して「赦し」というのはエゴの機能にはないものだからです。誰かが貴方のことを嫌っていたとして、それはその人のエゴの作用によるものなのですがそれに対して貴方もまたエゴによって反応すればエンドレスの闘いになります。エゴをもって接してくるひとに対してこちらは真我を見て接すれば相手のエゴは弱体化する、ということがあるのです。

相手が変わらないから私も変わらない、とか私は変わろうとしているのに相手が変わってくれないから私も変われない、というのは言い訳というか屁理屈みたいなものです。相手に変わって欲しいと思うならまず自分のことをよく見てみましょう、と同時に「相手に変ってもらう」ことを目的にしないようにしましょう。でないと、「待てない!」で述べたように、目標が達成されない焦りや怒りを招くことになってしまう危険が出てきます。これもしつこく書いていることですが、他人とはあくまで自分あっての他人でありそれ以外ではないのです。

 
第70回「ディフェンス U」

(承前)傷つくのを怖れて自分を守ろう、とすることが往々にして更に自分を傷つけ他者との距離を広げてしまうのです。ただ、この「守り方」にはいくつかのパターンがあります。

単に「自分の中に引きこもってしまう」というのがまず挙げられます。より端的には文字通り「引きこもり」ということになりますね。現代に特有なパターンとして「生身の人間とは関われないがネット上ではあれこれやっている」というのもありますが、見ているとこれはバーチャルとはいえかなり本気で攻撃しあったりしているので純粋に「自分の中にこもる」というのとは違うようです。ともあれ、他人と関わらないのだから他人によって傷つけられる機会も当然なくなるわけですが、これまた当然のことながら他人との間の壁は非常に強固なものになります。これも文字通り「孤独」となるのです。この状態が平和で幸せだ、という人もいますし、それが見ようによっては「孤独に強い」とか何か達観した人、というような印象を与えることすらあります。しかし、こういう人々が別に強靭なわけではありません。ただ一人でいるほうが楽だというだけであってまあ悪く言えば逃げているわけです。それに案外こういう人々に限って実は強烈に他者との関わりを求めている、ということもあるのです。求め方があまりにも強烈でそんなことがそうそう実現するわけもない、とわかっているから或いはそう思い込んでいるから初めから期待しない、という姿勢をとって自らを守っているのです。

しかし、上記のようなタイプは比較的少ないのです。リーディングにいらっしゃる方たちは「相手にはっきりものが言えない」という事態に陥っていることが非常に多いのですが、これもまさに自分を守っている態度に他なりません。相手に「こうして欲しい」と言って拒否されるのが怖いから何かとても持って回った言い方になってしまうのです。特に恋愛相談でよくあるのですが、例えば「会いたい」とハッキリ言えなくて「忙しいの?」とか「忙しいんでしょ」みたいな言い方をしてしまう。そこで相手が貴方の気持をうまく見抜いて「ああ、これは会いたがっているんだな」と理解したうえでその希望をかなえてくれるなら万々歳なのですが、そうなっていないから相談にいらっしゃるわけですね。相手はあくまで貴方の口から出た言葉に対して反応する。ところが貴方の言葉は貴方の本心を隠したものである。となると当然相手の反応は貴方の本当の問いや希望からは外れたものになります。貴方は、はぐらかされたような気持になり欲求不満や怒りを感じる。しかし、こうなったのはそもそも貴方が自分を守ろうとしてあいまいな態度をとったからなのです。極端な場合には、ただ相手が事実として「忙しい」と答えただけで「拒否された!私に会いたくないんだ」と思い込む、ということもあるのです。

また、相手に拒否されないようにされないように、と先回りしすぎて全く思いと逆のことをしてしまいこれまたかえって悩みが深くなるというケースもあります。

一方で、自分の思い通りにならないことが起きたときにこれでもか、これでもかと押し捲ったり相手を攻撃したりしてますます事態を悪化させてしまうというタイプの方もいらっしゃいます。これはかなり苦しいことですね。本人は自覚していないことが殆どなのですが、こういう方はこれでも自分を守っているつもりなのです。他人からみると逆のように見えるかもしれませんが、喩えていえば「武器を持って闘っている」のですからやはりそうして自分を守っている(つもり)なのです。自分が傷ついていることを素直に表現する、というのと「私がこんなに傷ついているのは貴方のせいだ」と思いつつ表現するというのとは全然違います。前者の場合は自分の気持をただ伝えることだけが目的でありいわば無防備なのに対して後者は「相手にこう反応して欲しい、それが当然だろう」と期待してしまっており、まるで正当防衛のための攻撃、という様相を呈するのです。

だいたい、傷つきたくないから自分を守るという行為は相手あってのもののようでいて実はすべて自分の独り相撲なのです。これは断言できます。なぜなら、相手にいくら悪意があろうがそしてそれがハッキリ表に出ていようが傷つかない人もいるのだし、相手に悪意がないどころか善意から何かをしてくれてもそれによって傷つく人もいる、という事実があるからです。スピリチュアル風に言えば「傷つくかどうか」を選択するのは常に自分自身である、となります。たとえ反射的にズキっと感じてしまっても一呼吸おいて認識と判断を改めれば感情も変わってくるのです。そもそも「悪意をもって攻撃する人」というのは、攻撃が必要であると思い込んでいる人なのですから、それを考えれば要するにそれだけ弱い人なのだとわかりますね。ならば、もしも本当に相手が貴方を攻撃している、とわかった場合であっても「この人は弱い人なのだ、怖がっているのだ、こういう表現しかできないのだ」と思えばよいのです。相手の言いなりになって屈するべきだ、と言っているのではありません。こういう、まあ一種の「愛情」あるいは思いやりを持って接すれば却って毅然とした態度がとれるはずなのです。

また、単に貴方の思い通りの反応が得られなかったというだけでそれを「攻撃」と捉えてしまうケースも多々あります。こういう時はたいてい貴方の中に貴方は自覚していなくても「攻撃性」というものがあるのです。だからこそそのような捉え方をしてしまう。そして貴方は自分を守るべく相手を攻撃してしまうでしょう。そうすれば相手も同じ事をしてくるかもしれません。こういうとき「どちらが先にしかけたか」などというのは問題ではありません。誰だって「相手が先にしかけた」と思うに決まっているからです。

少し違うケースとして、自分によくしてくれる相手にさえ、というか良くしてくれる相手にこそ反抗したり意地悪をしたりしてしまう、というものがあります。これはかなり昔「ハリネズミ症候群」とか何とかいう名称で呼ばれていたものです。自分をハリネズミのような状態にして、つまり武装してかかるのだが、武具である針があるために相手と密接になることができないうえ相手を傷つけてしまうのです。もちろん本人も孤独に陥ります。

いずれにしろ、鎧を身にまとったまま抱き合うことはできない、というか傷つくまいと構えながら愛に満ちた親しい関係を築くことはできません。自分を守りながらつまり武装しながら愛を求める、ということはできないのです。逆に言えば、愛を求めて尚且つ自分を守ろうとするならばますます愛を得られず傷つくでしょう、ということになります。

さて、それではもしも貴方が親しくなりたい、と思う相手がこのような「自分を守るタイプ」だった場合はどうしたらよいのでしょうか。(この項続く)

 
第69回「ディフェンス T」

人間関係、とりわけ私的な人間関係の悩みは殆ど全て「傷つきたくない」という気持から生じるものです。誰だって傷つきたくはない、それは当たり前のことですね。

一見、攻撃的でいつも人を傷つけているような人でもやはり自分は傷つきたくないのです。というより、それがイヤだから自分を防衛するために相手を攻撃してしまうだけなのです。つまり人間関係において攻撃するほうもされるほうも(これは実はかなり表面的な区別に過ぎないのです)結局

「傷つきたくない」という点では全く同じなのです。

ところで、傷つくとか傷つけるなどというのはあまりにも一般的な表現なので疑問に思うこともないでしょうが、これらの言葉は元々身体とか物体とか「形あるもの」に対して使われていたものであるはずです。それがいつのまにか形のない「心」に対して使われることが当たり前になってしまったのでしょう。心的外傷(トラウマ)という言葉も今では普通に、ごく軽く使われているほどですね。心が傷つく、というのを敢えて言い換えれば「嫌な思いをする」とか「怒り」「自信喪失」「自分を否定される」などということになると思います。こういうことは誰だって避けたい。だからたいていの人は常に何らかの自己防衛というのをしているのです。

この自己防衛、というのが実はもっとも厄介なもの、問題のもとになるものなのです。世の中で余計なストレスにあわないために最低限世間や社会の常識に合わせて、或いはあわせた振りをして生きていくのも一種の自己防衛ではありますが、これは「その程度のものだ」と認識していれば大した問題にはなりません。この程度のことで「自分を型にはめて無理をしている」などと感じてしまう人は、ずっと以前のコラムで書いた「べき」と「したい」とを混同してしまっているのでしょう。あなたはなるべくストレスなく、傷つかずに生活したいのか?だったらそのためのまあ便利な手段、方便として社会の常識みたいなものを使えばよいのです。ところがそういうものに自分を「合わせなくてはいけない!」と思い込んでしまっていればこれは窮屈だし不自由になるに決まっています。

まあ、ここで扱おうとしているのはそういうことではなくて人間関係の悩みを生じさせるような自己防衛についてのあれこれです。

まず第一にもっとも重要な「事実」として覚えておいていただきたいことは、「傷つく」部分というのは自我の中でも「エゴ」の部分だけだということです。この、自分が作り上げた矮小な「自己」の部分だけが傷つき得るところなのです。ですから、エゴが消失してしまった人や限りなく小さくなってしまっている人は傷つくことがなくなってくるのです。傷つくべき主体がなくなっているのですから、それ自体が不可能な事態になる、ということですね。鈍感になる、ということではありません。相手のために悲しんだりすることはあるでしょうが、たとえ他者の言動が本当に悪意に満ちていたものであったとしてもそれが「自分にーつまりエゴにー対する攻撃」というふうには認識されなくなるのです。先ほどエゴのことを「自分が作り上げた矮小な自己」と表現しましたが、このようなものが本当の強さを持っているわけがないわけで、ちょっと衝かれただけでもたちまち揺らぐのは当然です。ですからこれまた当然それを「守らなくては」という気持も強くなるのですが、エゴを守ろう、などとするのはこれまたエゴの作用に決まっているので、結果ますますエゴが強化される・・・言い換えれば「守るべき矮小な自己」が大きくなってしまうのです。この「強化」というのは強靭とかパワフルなどという意味ではありません。単に「肥大化する」ということであり、弱くて矮小な部分が肥大化してしまえば全体としてその人はより弱くて矮小なあり方をすることになるのです。もちろん、他者を攻撃するというのも防御のひとつであることを考えれば「攻撃」が生じるのもエゴの部分だけ、となります。

傷つきうるのはエゴだけだ、ということは守るべき部分もエゴだけ、ということですね。ここをまず抑えておいてください。

さて、傷つくのを避けるための自己防衛、というのは必ず「自分を閉ざす」ことにつながります。防衛手段として相手を攻撃する場合であっても同じことです。何故なら攻撃というのは相手を寄せ付けず受け容れないというものですからこれはどうみても「自分を開いている」ことにはなりません。自分ではそうと知らないままに「攻撃しなくてはいられないくらい弱い自分を人目に晒している」だけなのです。とにかく自分を閉ざしていることには変わりありません。つまり、自己防衛や自分を閉ざす手段にはいろいろなものがあって、一見「自己防衛」とわかりにくい場合もあるのです。傍目でみると「そんなことをしていたらますます問題が大きくなったり自分が傷ついたりするだろうに」「うまく行かせたいものをどうしてわざわざぶち壊すようなことをするの?」と思われる行為をしている人も少なくありません。どうしてこんなことになってしまうか、といえばそれこそが「エゴがエゴを守っている」からなのです。エゴ、というのは以前にも申し上げたように「本当の貴方」ではありません。エゴを擬人化するような書き方になってしまって恐縮ですが、わかりやすく言うとエゴは「本当の貴方、の幸せのためには何もしてくれない存在」であり、「貴方の不安や恐怖によって生きながらえている存在」なのですから、これが活躍すればするほど貴方自身は追い込まれ傷ついていくという道理になるのです。貴方のbest interestsに貢献することは一切ありえない、と断言して間違いありません。エゴによる防衛で一旦は窮地を脱したように思えても内心の不安は去ることがありません。ですから次々と襲ってくるように見える「敵」に対して次々と防衛手段を講じ、ついにはそもそも自分が何を守り何を得たかったのかすらわからなくなる、という状態にも陥ってしまうのです。

私は、「防衛」というものが全て悪いと言っているわけではありません。話をなるべくスムーズに気持ちよく進めるための工夫、というものも当然あるからです。しかし、エゴが高じるとそのあたりが冷静に考えられなくなってしまい、要するに「理性を失う」と同様の状態になってしまうためにわざわざこじれるようなやり方をとる、というわけなのです。「ちゃんと考えればわかるだろう」と思えるようなことが平気でできなくなってしまうのです。

例えば、相手を立てておけば簡単にまとまるはずの場面において、相手を立てる=自分が負ける、などと思って変な自己主張をしてしまったり、相手から責められるのが怖くて変な方向に逃げたためにますます相手から責められる材料を増やしてしまったり・・ということがあるのです。

肥大化したエゴと理性とは共存することがありません。理性がきちんと働いているときエゴは消えているか小さくなっています。誤解のないように付け加えますと、「理性」というのは個人のものではなく「宇宙の摂理」とつながっているものであり、いわゆる「アタマの理屈」とは全く別物です。また、理性と感性は表裏一体のものであり、理性の裏打ちのない感性などありえないのです。逆もまた真なり、です。理性を「理屈」あるいは「悟性」、感性を「感情」だと勘違いしている人もわりと多いようなので注意してください。

次回は、失敗しやすい自己防衛の具体的な例を挙げていくことにします。(この項続く)

 
第68回「待てない! オマケのオマケ編」

これまでの更に補足です。

前々回でしたか、全ての「問題」というのは、要するに「欲しいものが得られないという不満」に集約されるのだ、と書きました。これを少し応用すると、「欲しいものが得られないのではないか、という不安」となります。というかこれも実は前者に含まれていることなのですが、そのような理解の仕方ができなかったり思いつかなかったりする方もいらっしゃるみたいなので、ここで敢えて取り上げることにいたしました。

「欲しいものが得られないのではないか、という不安」とはつまり「将来に対する不安」ということでもありますね。現在の時点で得られていないことが将来も続くのではないか、という不安がまず一つあります。今の時点で「ない」ということも不満だがそれはまあ仕方がないとしよう。しかし、将来においても手に入らなかったらどうしよう!というものです。まとまるかどうか分からない商談とか契約ごと、誰かとの関係、お金や地位やその他の持ち物、健康、平和、或いは幸福や安心感というような心の状態、などなどその対象は人さまざまでしょうが、本質的には全く同じことです。そして、その不安から早く解放されたいあまりに「待てない!」状態に陥るわけです。かといって、それらが今すぐ手に入ることはない、ということもよくわかる。すると「それらがいつかは絶対手に入る、という保証」が欲しくて、それを得ることに対してこれまた「待てない!」という気持が沸き起こってしまいます。もちろん、これも「早く不安から解放されたい」気持からくるものだということには変わりありません。

不満も不安も元を正せば同じようなものです。というのもこれらは全て「恐怖」が変形したものだからです。将来の不安、というのは乱暴に言ってしまえば「不満の先取り」みたいなものであり、更に言えば「将来もこれが得られていないという状態を願望している」ともなってしまいます。

将来に対する不安、の中には、今は必要ないけど将来もこれがないままだったら困る、今はいいけど将来はどうなるかわからない、今は得られているけれど将来は失うかもしれない、というのもあります。この場合は専ら「大丈夫だという保証が欲しい」という形の「待てない!」が生じます。

ところで、「将来」というのは何なのでしょうか?将に来たらんとするもの、或いは「未来」なら未だ来たらぬもの、ということで「時間」というのを数直線のように左から右に向かって一方向に流れているものである、と仮定した場合、「現在」を基点としてその右側にあるとされる地点のこと、ではあります。しかし、実はそんなものは「ない」とも言えるのです。「将来」「未来」というのはあくまでも「今」という現在においてのみ言うことのできる概念であり言葉であるのです。「現在」なしの「将来」「未来」などというものは当然ですがありえません。今、「未来」と思っている時点もそのときになればそれが「現在」になるのです。つまり、未来だの将来だの、というものは「現在」においてしか存在しないものなのです。そしてそれを考え思うのは「意識」の働きなのですから、「将来」「未来」というのは「現在の貴方の意識の中にのみ存在する」ものだ、と言えてしまうわけです。

ということは!「将来の不安」というのも当然「現在の意識内」で起きていることなのであって、結局「貴方が『今』不安なのである」という、「現在における不安」だということになるのです。わかりますか?将来、という、今の時点で目に見えたり聞こえたり・・・となどという形で認識できない、貴方のコントロールの及ばない(と思われる)ことを不安に思う、というのはどこまでも「今の」貴方の心のなかで起きていることでしかありません。要するに、不安の対象がどんなものであれ、「今はいいんだけど将来が心配」というものであれ、それはどこまでいっても「今の貴方が不安なのだ」ということに他ならないのです。

このことからわかるように、常に「将来について心配している人」というのは単に「いつも不安を抱えている人」だ、ということであり、常に「現在」という瞬間を不安によって奪われている或いは犠牲にしているということになるのです。現在がどんな状態であれ、つまり何の問題もなく幸せそうな状態であれ、将来を憂えているということはとりもなおさず「現在において不安」ということになります。こういう場合「将来を何とかしよう」と考えるのは誤りです。現在の意識における「不安」をなくすこと、これをまず先にしておかないと一つの問題が何とかなったとしても次々に新たな「不安の種」が、その都度の「現在」において芽を出してくるだけだからです。たいていの人がこの順序を間違えてしまうのです。

私は別に「ノーテンキになれ」といっているわけではありません。もしも将来における何かが問題になりそうならば今のうちに手を打つに越したことはないからです。しかし、だからといってそこに「不安」が付きまとう必要はないわけです。別に不安と一緒にいなくても対策を練ったり準備をしたり、と言ったことは十分できるわけで、というかむしろ不安などないほうがずっとうまくできるに決まっているのです。これは、「思い悩む」と「考える」との違いに相当するものです。まともに「考えている」ときには「思い悩む」という状態には絶対にならない、というかそれはありえないことなのです。何故なら「思い悩む」というのはまずそれに先んじて不安という状態があるからであり、不安というのは感情的なことだからです。だって感情的という状態を保ちつつ理性で思考するということは不可能でしょう?

また、将来に対する不安というものがナンセンスになりがちな理由として次のことが挙げられます。例えば貴方が3年後、5年後、10年後のことを心配しているとしますね。しかし、その時点での貴方が今と同じ考え方や価値観を持っていると断言できますか?それこそ、そんな保証がありますか?貴方の周囲や世の中の変化に伴って貴方自身の意識も変わっているかもしれないではありませんか。今の貴方にとっての関心事が3年後、10年後にはもうどうでもよいことになっているかもしれないでしょう。もっと別のことに関心が移っているかもしれないでしょう。

リーディングで「先々こうなります」と言われて「そんなこと絶対にありえない」という反応をなさる方もいらっしゃいますが、それは自分の意識が変わる、ということが信じられないからです。

これは論理的なことなのです。3年後、10年後の貴方が今とまったく同じ意識だという保証がない以上、今の貴方の意識内だけでその頃のことをあれこれ考えたって仕方がない。まあ、だからこそリーディングの存在理由がある、とも言えるわけですね。これは現在の貴方の意識を超えたことも出てくるのですから。

私事で恐縮ですが、私がいわゆる「老後の不安」というものを持ったことがない、というか持ちたくても持てないのは上記の理由からです。別に自分の老後が悠々自適だと信じて安心しているというわけではありません。まあ気が向いたら自分でリーディングしてみるかもしれませんが、正直言って大して興味もないし、放ったらかしです。

さて、「保証」ということについて言えば、これもリーディングで出た答えを信用するならばそれはある程度の保証みたいなことではあるので、これが助けになるのであれば大いに活用してください。しかし、本当は保証など要らない、というくらい常に安心で平和な意識状態でいることが望ましいのです。身も蓋もないことを言ってしまえば、私の仕事の存在理由がなくなって私が失業するような状態が人類の一つの理想なのではないか、とまあ私は初めからそう思っていたりするわけです。

 
第67回「待てない! オマケ編」

今回のテーマ「待てない!」は、ありがたいことに非常に反響が大きかったので、いくつか補足をしておくことにいたしました。ご参考にして頂ければ幸いです。

「待つことを頑張ってはいけない」 待つ、ということはたいていの人にとって容易なことではない、あまり楽しくないことなのです。よい結果が見えている場合・・つまり「もういくつ寝るとお正月」みたいなことなら相手は逃げていくわけもないとはっきりわかっているのだから安心して尚且つ楽しみにして待つことができるのですが、よい結果になるという確信が持てないようなことだと何というか「今何もしないと相手が逃げてしまうのではないか」という不安や焦りが生じやすく、いてもたってもいられなくなったりするのですね。待つ、というのは少なくとも二つの側面があります。一つは「追わない」こと、もう一つは「それについて思い悩まないこと」です。要するに「執着しない」ということなのですが敢えて分けるとこうなります。

「追わない」というのは、別に相手が人間でなくても当てはまります。今すぐには実現しないことを今すぐ実現させようとする思いと行動全てが含まれるのです。思いと行動、と書いたことに注意してください。実際の行動に移さなくても心の中でそういう状態になってしまっているだけでもそれは「追って」いることになってしまうのです。これは昨年のコラム「何をしていても・・」で書いたことにつながりますが、行為よりも意識のほうが重要だという原則によるものです。「思い悩まない」というのは文字通りのことですから簡単にわかりますね。

追わず思い悩まずに待つ、というのはただ「待つ」ことよりも更に更に困難に感じるかもしれません。しかし、この二点を押さえておかないことにはどうしようもないのです。というか「待つ」ということの意味がなくなってしまうのです。

ただ「待ってください」というと、じゃあ頑張ります!とかもっと露骨に「じゃあ我慢します!」となる方もいらっしゃるのですが、これではダメなのです。我慢する、というのは当たり前ですが我慢するべきものがある状態なわけでしょう。つまり心の中ではずーっとそのことにこだわりそればかり考えていて、動きたい気持を抑えているのです。これは、動きには出ていないとはいえ意識の上では全然「待てていない」状態なのです。まあ、簡単に言えば前に行きたい気持と留まらなくてはいけない気持が葛藤しているということになりますが、葛藤と安心感とが共存することはありえないわけですから、当然「待つ」ことの効果も半減或いはゼロになってしまいます。

つまり、待つというのは頑張ることとは全然違うのであり、むしろ正反対のことなのだ、と理解しておく必要があるのです。

思い悩まない、というのは難しいかもしれませんね。この気持の切り替えには努力が必要ですので、この部分だけは「頑張る」という表現も使えるのでしょう。しかしこれも「思い悩んではいけない、いけない」と歯を食いしばって抑えつけるような頑張り方ではダメなのです。「考えても仕方ない、エイッ!やめよう」と、この部分だけ頑張ればそれで十分であり、それ以上は不要どころか余計なことです。

「待てない!気持になっているとき、実は貴方の求めていることに対する貴方の側の準備ができていない」ということも大いにあります。こうなりさえすれば、こういうチャンスにさえ恵まれれば・・・と思って焦りあれこれやっているときというのは、そのことだけで頭が一杯になりがちです。そういう時は何か肝心なことが抜けている場合が非常に多く、さらに本人がそのことに全く気づいていない場合が殆どです。まあこれも簡単に言えば、大体こういうとき誰もが「独りよがり」に陥ってしまっているわけなので冷静な目で全体を見通すことができなくなり、求めているものを得るために必要だったり大切だったりするポイントがつかめない。というかそんなものがあるということすら気がつかず、思い至らないという状態になるということなのです。こんな状態のままでいたら、もし突然めでたくも貴方が求めているものが目の前に来ても貴方はそれに対して何もできないでしょう。目の前にあるのに何もできず手に入れられないでしょう。そしてまたしても「次のチャンスはいつ?もう待てない!」という事態を繰り返すことになるでしょう。更にこれが極端になると、実は貴方の求めているものが手に入りそうなチャンスがきているのにそれがわからない!という事態にも陥ってしまいます。言うまでもなく不安や焦りとはエゴの作用なのですから、これらが大きくなればなるほどエゴが強まる、スピリチュアル風に言うとセンタリングできていない或いはグラウンディングできていないという状態尚且つ宇宙の波動とか源、といったものから外れた状態になるのですが、単に「冷静な判断力や洞察力を失った状態」といっても同じことです。また、エゴというのは分離した自己が極まったものなので、当然他者の波長と同調しにくくなり、完全に的を外したことばかりするようになってしまうケースさえあるのです。要するに、不安や焦りで頭がいっぱいになっているとチャンスの気配に対して鼻が利かなくなってしまう、といえばわかりやすいでしょうか。こういう人々は、何故かというか当然というか動くべきときに限って動かない!のです。

不安や焦りがない状態でいられれば、貴方が求めているものを得るために必要なこと、そのときになすべきことに導かれるものです。

どうしたら、不安や焦りをなくせるのですか?というご質問もよく受けるのですが、そんなものは百害あって一利なしだ、と本当に腑に落ちて理解していれば自然になくなっていきます。そのことについてはこのコラムで本当にしつこくしつこく書いてきたはすです。みんな、周囲の状況や他者を何とかしようということにばかりエネルギーを注いでしまっていて自分の意識を何とかするというところがお留守になっているのです。だって人間なんだからしょうがないじゃないですか!という方もいらっしゃるでしょう。では申し上げます。人間なんだからもっと理性を働かせましょう!

 
第66回「待てない! U」

(承前)欲しいものが得られなくて不安な状態に陥りやすく、またそれが激しい形で現れるというタイプの中には「コントロール」願望が強い人が多い、ということを前回の最後で述べました。ところが、コントロール願望が強い、ということは言い換えれば「自分の人生に起こる事柄が自分でコントロールできていないと思うと不安だ」ということであり、更に言うならば「自分でコントロールしていないと今にとんでもないことが起きるのではないか」と思っているということになります。要するに、こういう人々もまた「根底に不安がある」タイプの変種なのです。中途半端な状態というのは、一般的には心地よくないものだとされているわけですが、これも実はよく考えれば「何も起きていない状態」とあまり変わらないのです。求めるものはまだ得られていないけれど、だからといって失った・終わったとハッキリわかったわけではない、とか逆に何かが失われたり終わったりしてそれはもうしょうがないのだけれど先が見えない、とかそういう状態というのはその時点で何か悪いことが進行しているというのとは違います。ここで「不安」が生じる、というのはその先に待ち受けていることが自分にとって良くないこと・辛いことなのではないかと思ってしまうからですね。

こう考えてみるとかなりおかしなことに気がつきませんか?悪いこと・苦しいことが起きるのではないかと思って不安になるということはつまりそのようなことを「待ち受けている状態」に他ならないではありませんか!

ここでとんでもなくシンプルな事実を述べます。人々を悩ませている「問題」というのは、とても単純化してしまえば全て「求めるものが手に入らない不満」というただその一点に集約されてしまうのです。形や種類や程度はそれぞれ違っているように見えますが、要するにこれなのです。経済的なこと、愛情、健康などはもちろんのこと、自分のことでなくても誰か大切な人の身の上だとか世界平和だとかスピリチュアルな覚醒だとか、全て全て「得られないこと」がイヤで辛いわけですね。ということは、例えば何かを「得られない」状態におかれていてもそれが特に不満に感じられない人にとっては、それは「問題」とはならないのです。

「問題」にはなっていないけれどもやはりそれを求めたい、それが欲しい、というだけの状態にあれば比較的早く「得られる」というところに至れるようです。これが、よく「願望実現の法則」で言われている「既に願望が達成した状態になったとリアルに想像しなさい」ということなのです。そしてそういう結果になれば普通の人は感謝の気持が沸き起こるのだから「そうなったと思って今ここで感謝しなさい」ということになる。

「感謝」という状態と「得られない不満・不安」という状態とは相反するものであり共存することはできません。このシフトがうまくできればよい、ということになりますね。

さて、上記のことと重複しますが「得られない」という状態が普通の人々にとっては「不満」となりひいては「不安」にもつながる、或いは根底に不安が絶えないからこそ常に「得られない」状態におかれ不満も堪えなくなる、という事実があるとして、スピリチュアルな方法論においてはこの基本的な部分を変えてしまいましょう、というのが重要になっています。要するに、自分の外側にある(ように見える)世界をどうにかしようと考えるのをやめて自分の内側つまり意識を変えましょう、何故なら自分の外側にあるように見えるあれこれは全て自分の内側が反映されたものだからです、という考え方です。これが根本的原理となります。ここがわかっていないと非常に難しいことになってしまいます。

スピリチュアルな方法を使えば貴方の人生は思い通りになる!というような方法がいろいろ紹介されていますが、それらを「外側の世界をコントロールする」ツールだと思って実行してもうまく行かなかったり却って苦しくなったりするだけなのです。こういう方法論の中には、一般の人々にもわかりやすいようにかなり具体的なやり方を示してくれているものもありますが、それらのやり方を実践していくうちにまず「意識」が変容するのであって、だからこそ様々なよい変化が起きる、場合によっては「奇跡」と思われるようなことも起きるわけです。しかし、コントロール願望が強い人はどうしても結果を急ぎたくなるので、そのような重要な部分を疎かにしがちです。そして、自分のエゴを守ったままであれを実現したい、これが欲しいと懸命になるのです。

本当にこれらの方法を原則どおりに実践した場合、まず意識の根底に「安心感」「守られている」という感覚が刻印されるはずなのです。そうすると別に人生なり出来事なりをコントロールしようなどと思う必要がなくなり、またそう思わなくても、というかそう思わないからこそ自然に良い方向に導かれていくわけです。

そして、スピリチュアルな方法において何より重要なのは、外側にあるように見えるあれこれが得られたから幸せになったり心の平安が得られたりするのではなくむしろそういう「意識の状態」が先になくてはならないのだ、ということなのです。

なのに、自分の外側のあれこれを得るという目的だけのためにそのような世界に入ってみる人も多いのが実情でしょう。まあ、そんなものなのでしょうが何か根本的な部分でずれているような気がします。

また、こういう世界に入り込んだ人の特徴として、行き詰ったときに「宇宙は或いは神はいったい私に何をさせたいのだろうか」というふうに考えることが挙げられます。これは一見エゴをなくしているように思えますが要するにこれもまた「得られないこと」による不満や不安であることに変わりはないのです。スピリチュアル風にいうと、貴方のエゴによって神なり宇宙なりとのチャネルが不通になっている、となります。

さて、何かがどうしても行き詰っていて変わりたいのだけれどなかなか変われないというときのヒントになりそうなことを一つ挙げてみましょう。

貴方が何かを得たい、としましょう。これは別に「もの」とは限らず「仕事の発展」とか「誰かとのより深いコミットメント」などという「状態」も含みます。ところが、その一方で貴方には何か「失いたくない」と思っているものがあるのではないでしょうか?「この部分は今のままでいいの、いま何か変わったりすると大変になるから」という程度のことも含まれます。失いたくない、ということは言い換えれば「変わりたくない」ということでもあります。そうすると貴方はトータルで見て「変わりたくない」或いは「変わることに抵抗がある」という状態にいることになるわけです。とすると、貴方が欲しいと思っている「何か」を得るというのは「変化」に他ならないわけですからこれは当然実現しないのです。

誤解なさらないようにしてください。私は別に「Aを得るためにはBを失わなくてはならない」と言っているわけではありません。(そういう「信念」を持ってしまっている人もいるでしょうが・・)しかし何かを得るーつまり新たな状態になるというのは「変化する」ということを意味する以上、そのほかのことにおいても当然同時に「変化」は起こりうるのです。何故ならその過程で貴方の意識がまず変化することにより、貴方が関わっているあれこれもその作用を免れなくなるからです。しかし怖れることはありません。これによって貴方がとりたてて変化を望んでいなかった分野の事柄にも今の貴方には想像も及ばないような「良い」変化が訪れるかもしれないからです。ですから自分の心の中をよくよく探ってみてください。ある分野では変化を望みながら別の分野では「変化=失うかもしれない不安」という考え方になってしまっていないか?どこか一つでも「変化」ということが「失う恐怖」と結びついているならばまずそれを何とかしないとダメなのです。

最後に、しつこく言います。本来「スピリチュアル」な世界というのはこの世の価値とは別なところに価値を見出すものであり、この立場を取ることによって人生が楽になるのはともかくとして、この世の価値とされているあれこれが手に入ってしまうのはいわばオマケのようなものなのです。或いは「オマケのようなものだ」と認識することによってこそ手に入りやすくなる、というこれもまた逆説が成り立つのです。このあたりはかなり重要なことである、と私は感じます。

 
第65回「待てない! T」

これです。私のところに相談にいらっしゃる方々の悩みの殆どは、形も内容も様々ですが基本的にはこれなのです。

自分が求めているものをなるべく早く手に入れたい、自分の目標をなるべく早く達成したいと思うのは世の常人の常ですが、なかにはどうしてもそれなりに時間がかかるものがあるわけです。もちろん、貴方の意識の持ち方次第で所要時間を短縮できる場合もありますが、皮肉なことにこの場合に必要な意識の持ち方とは「時間がかかることを気にしない、焦らない、リラックスする」というものなのです。もとよりそれができていればこんな悩みが生じようもありません。このような逆説的法則を理解できればかなり楽になると思うのですが、なかなかそれができないという方も多いでしょう。

何か得たいものがあって、それが未だ手に入らないという状態の人はえてして不安になりがちです。そしてその不安から早く逃れたいと思うのです。つまり「早く手に入れたい、達成したい」と言ってはいても「待てない!」というのは実は本当にそれを得ることよりも「不安から逃れたい」というほうが主たる目標になってしまっている状態なのです。

以前のコラムで「相反する複数の願望がある場合、自分が『こうなりたい』と意識しているほうの願望が叶いにくい」というようなことを書きましたが、上記の状態がまさにこれです。あるものを手に入れたい、という願望と「この不安から早く逃れたい」という願望とは正確には同じものではありませんね。たとえば、求めるものがもう絶対に手に入らないことがハッキリして諦めざるを得なくなることにより自動的に「いつになったら手に入るのか」という不安からは、少なくとも一旦は逃れられるということも言えるのです。もっともこういう場合、たいていの人は「じゃあ、次のチャンスはいつ?それが見えないと不安で・・・」という風になってしまうので、Aが手に入らないのでは・・という不安からは逃れられてもすぐに次の不安に移行するだけ、という有様になってしまいます。

こういうとき、ベストなやり方はただ単に「あれが欲しい、こうなりたい」とだけ思うことです。得られなかったらどうしよう、どうすれば得られるだろう、いつになるのだろう、などということは一切考えないでただ願望を明らかにして後は安心していれば、貴方には想像も及ばないようなプロセスでそれが叶う方向に導かれる・・・・まあ、これが今話題の「シークレット」などに通底する原理というわけですね。このあたりのことは以前わりと詳しく書きましたので割愛いたします。

とにかく、こういう不安にとりつかれてしまうといったい自分が何を求めているのかわからなくなり、しかも尚悪いことには「自分がいったい何を求めているのかわからなくなっている」ことにすら気づかないという状態に陥ってしまいます。

卑近な例で恐縮ですが、好きな人にメールを出したがしばらく待っても返事がない。この「しばらく」というのは2,3日ではなくせいぜい2,3時間という方もいらっしゃいます。もう不安で不安で仕方がなくなる、そしてまたメールを出してしまう・・・ということを繰り返してますます相手に愛想を尽かされる、ということも実際にあるのです。返事が待てない!それはまあわかるとしましょう。しかし貴方は何を望んでいるのか?ただ「早く返事が欲しい」ではなくて、相手の人と親密になりたい、というのが本当の望みだったのではないのか?だってすぐに返事が来ないというのは私に気がないってことでしょ?と思うのなら尚のことそれ以上の行動は控えるべきである、と普通に考えればわかるはずなのです。もちろん、これは恋愛だけではなく商談を含めた人間関係全般について言えることですね。

リーディングの結果は一様ではないので、場合によっては「この相手には数回続けてメールを出さないと気持が伝わりません」と出ることもありえますが、比率としては圧倒的に少ないものです。

イエスかノーか今すぐ結論が欲しい、という方もいらっしゃいますし、先が見えないと前に進めない、という方もいらっしゃいます。ところが、「この時期にならないと結論が出ないでしょう」「この時期にならないと先が見えないでしょう」などという答えが出てしまうこともあるわけです。それが自分自身ではわからないので、どうしても苦しいことになります。今は出ようがない結論を今求める、というのはどう考えても不可能なのです。3ヵ月後ならイエスになるかもしれないことが今の時点ではノーである、ということも当然ありうるわけで、そうなると焦らずに待てば何とかなったであろうことをそうと知らずに自ら捨ててしまう、という結果になります。慌てる乞食はもらいが少ない、とはよく言ったもので、結論を急いだために可能性を捨ててしまっては元も子もありません。もっとも、中には「いついつ頃になればこうなるでしょう」という良い見通しが出ているのに、その兆候が「いま」見られないというだけの理由で全く安心が得られないという方もあります。目の前の現象を今の自分の理解の範囲内だけで解釈したり判断したりするのは無意味な上に下手をすると大変なリスクを伴います。これは「真実は怖ろしいか」というシリーズの中で触れたはずです。今の私にはこのように見えるが、本当はどうなのかどうなるのかわからない、とだけ思って放っておければよいのですが、「ああなったらこうなったらどうしよう、こうなるためにはどうしたらいいのだろう、こうやってみたけれど何だかぱっとしないみたい、どうのこうの」と、次々に不安が尽きなくなってしまうとこれはもう「先が見えない」どころか「自分が見えていない」状態に他ならず、当然の事ながら「相反する願望共存状態」にもなってしまうのであまり良い結果も期待できなくなるのです。

待てない不安、というのに襲われがちなタイプというのはまあせっかちだったりそれ以前に意識の根底に不安というものが刻印されていたりもするものですが、それ以外に自分の人生なり自分に起きる出来事なりをコントロールしたいという欲求の強い人にも多くみられます。自分の人生に起きることや人生計画が思い通りになっていないと感じるときに欲求不満に陥る、というだけなら誰にでも起こりうることですが、まあそういう時期もあるかな、仕方ないかななどと思って日々普通に過ごすことができなければ相当苦しいことになります。

こういうコントロール願望が強いタイプの人が「シークレット」やら「マーフィ」やらにハマることも多いのではないかと思います。一見スピリチュアルなあれこれ、の考え方や方法も一歩間違えると自他をコントロールする道具にされてしまったりするのです。

言うまでもなくコントロール願望の強い人というのはエゴが強いのです。となると、一体どういうことが起きるのか、は次回のコラムで述べます。(この項続く)

 
第64回「霊という存在 続編」

前回、「霊障」という言葉が出てきました。これも現在では人口に膾炙した感がありますが、要するに外から何か良からぬ霊が自分にとりついたために心身に不調をきたす、という現象のことです。とりつく霊もさまざまで、先祖系、土地や家に宿っているもの、動物を含めその辺を漂っているもの、生死に関係なく自分と何らかのつながりがある・あったもの・・・などなどです。

これは、実際に起こることではありますがかといって何かおどろおどろしい特別な現象だというものでもありません。

要は、あなたという存在が実は身体でなく意識であり、さまざまな霊もまた意識であるということにより「とりつく」というと聞こえが悪いだけで、自分から頼んだ覚えもないでしょうが何らかの交流が発生してしまう、ということなのです。意識の波動レベルで接点がなければ交流は発生せず、いくらとりつきたくてもとりつきようがありません。私の経験ではやはり疲れているときにくっついてきてしまうようです。

こういう現象に見舞われた場合の対処方法としては、あくまで対症療法ですが、以前ブログでご紹介したスマッジなども手軽で効果がありますし、エネルギーレベルの高そうな場所に行くのもよし、誰かに祓ってもらうのもよし、なのですが、法外な価格で「御祓い」などを頼む必要はないと思います。くれぐれも「霊感商法」的なものにひっかからないよう注意してください。

霊障と並んで耳にするものに「因縁」「カルマ」などというのもありますね。これは、まあ簡単に言うと今回の自分の人生と別のところのもの、自分が預り知らぬようなところから悪い影響を受けている現象、みたいなものです。先祖の誰かがこうしたから、過去生の誰かがああしたから今の自分がこうなのだ、というようなことになるのですが、これらは間違いでもないと同時に真実でもありません。

霊障も同じなのですが、時間や場所にかかわらず「全ては意識である」「全ては存在している」わけなのですから、場合によってはそこに何らかの交流が発生しても不思議ではないのです。

ところが!ここで面白いことがわかります。大体、何か良からぬもの・ネガティブなものを引きずっている意識というのは必然的に自分が身体であると思い込んでいるものだ、と以前述べました。ということはもしも貴方が「自分は身体ではない」と認識していれば、このような存在たちとは接点がなくなるので交流も生れず従って霊障も因縁も影響しなくなるのです。ちなみに「疲れている」というのはそれがいくら「神経疲れ」であっても自分を身体であると認識しているからこそ生じることなので、そこに接点が生れてしまうのです。

また、因縁などというのも何というかある現象を説明する一つの方法に過ぎないのであって、絶対的なものでは全くありません。同じ現象に見舞われた場合、ある人は「先祖の因縁だ」と言い、ある人は「7つあるはずの魂のうち2つがなくなっているからだ」と言い、ある人は「オーラが傷んでいる」と言い、ある人は「過去生のカルマだ」と言い、またある人は「家族関係や幼児体験に原因がある」と言い・・・・要するに文化によって異なる言語のようなものなのです。どれもそれなりに「言えてる」けれど、唯一絶対の説明ではありえない。どのやり方でも効果があるかもしれないが、唯一絶対に「これが効く!」というものもないと思います。私はこのようなことを「非科学的だ」とか言って否定するつもりは全くありません。ただ、こういう事柄はその人の属している文化の世界観によって捉え方や説明のしかたが違うだけだと思っていれば良いのではないでしょうか?

リーディングでもこのような問題にはしょっちゅう遭遇します。私はリーディングの現場では個人的な信条や信仰を一切排除していますので、あくまでもクライアントが一番受け容れやすくわかりやすい「言語」が出てくるのです。

それはともかく、上記のようなさまざまな現象はあたかも一方的に何かによって被害を蒙っているように捉えられがちですが、やはり「接点を持ってしまう」ような状態を自分が作らなければこういう現象も生じようがないのです。そこがわかっていないと常にビクビク「また何か憑くんじゃないか、あれが来るんじゃないか」と怖がりながら生活することになってしまい、結果としてそのネガティブな波動に釣り合うものが来てしまいます。

私などは、こういうものは通常の人間関係のあれこれとあまり区別する必要もないのじゃないかしらと感じているくらいです。違いといえば、通常の人間関係なら目で見えるし耳で聞こえるから「これはまずい」と注意したり避けたりしようもあるが、あちらは何せ普通は姿が見えたりしませんから気づかないうちにドーンとやられてしまっていた・・・ということくらいなのです。これは非常に大きな違いのように見えて実は大した違いではないのではないか?というのも、どちらもそこから身を守る方法は同じだから、つまり本当の自分はこの身体ではないと認識しつつ日々明るく平和に過ごすことしかないからです。こうしていれば誰かがいかなる方法で貴方に呪いをかけようとも一切の影響は生じません。

先ほど、「唯一絶対の効果的な方法、というのはない」と書きましたが、それがあるとすればやはり「赦し」であるようなのです。見たこともない自分は知らないような存在を赦すなどということは不可能ですが、そういうことではなくて日常生活でのあれこれにおいて「赦し」を実践していればその波動が貴方を支配するため、目に見えないあれこれも一緒に「赦して」しまっている結果になるようなのです。もしも貴方が「私は正しいのよ!なのにどうしてこういう目に遭うの」とばかり思っていれば、やはり「私は正しいのにどうしてこういう目に遭ったのだ」と思って彷徨っているあれこれのものどもに「取り憑かれて」しまうかもしれないではありませんか!

「赦し」とか「感謝」などという波動は想像以上にすごいもののようなのです。私は、未だこのコラムで「愛」というテーマを扱う勇気がないのですが、この「愛」というのも「赦し」や「感謝」と常にともにあるものだ、ということは確かです。

「私だって毎日明るく平和に過ごしたいけど、今のこの状況では無理なの」と思っている貴方は、意識の法則からいうと考え方があべこべです。「今のこの状況」を何とかしたいと思うならまず何としてでも「明るく平和な」意識でいるしかないのです。「そんなの無理だ」と文句を言いたくても、いったい誰に向かって言えるのですか?神様?守護霊?そうしたら「じゃあ、貴方だけは特例として認めてあげましょう」なんてことが、ああ起こるはずがありません!

 
第63回「霊という存在」

守護霊、地縛霊、先祖霊、生霊などなど、「霊」という言葉は非常に一般的になりました。しかし、そもそも「霊」とはどんなものでしょう?常々、一度整理しておいたほうが良いと思っていたので今回のテーマはこれにします。

霊、とは一言で表せば「肉体を持たない意識」のことです。魂と言ってしまってもよいのかもしれませんが、ここはもう少し広く捉えておいたほうが間違いないでしょう。普通、肉体を持たない存在というのは「以前は生命体として生きていたが現在は違う」ものなのでまあ乱暴に言えば死者の意識ということもできますね。肉体がなくなってしまっても存在の仕方が変わるだけであって、依然として「存在」はしているのです。これは、通常は肉眼では見ることができません。見える、という人々つまりいわゆる霊感が強い人や霊能者というのもいるわけですが、ヴィジョンでくるとは限らず感じたり聞こえたりという形で認識できることもあります。

ここで、ちょっとおかしいなと思った方はいらっしゃいませんか?そもそも霊には肉体がない、つまり形がないのにどうして「見る」ことができるのか?見えるからには何か姿かたちのようなものがあるはずではないか?私が現在知りうるところによると、これには大きく分けて二つのケースがあります。

一つは、霊自身が「自分にはまだ肉体がある」と錯覚してしまっている場合です。つまり死んで肉体を失ったのにそれでもまだ「自分=肉体」という思い込みから離れられないものたちです。こういう霊はたいていこの世に強い思い・執着を残していますので、まあネガティブな意識体であると言えますね。このような霊は、それ自身が自分であると思い込んでいる肉体として私たちの目に映るのです。

もう一つは、この世に或いは私たちに何らかのメッセージを伝えたり救いをもたらしたりしようとしている霊です。このタイプは、見る人にとってもっともわかりやすい形をとって現れます。例えば、なくなったはずの貴方の肉親が現れた、というときその人は既に肉体を失っていて意識体のみの存在になっているはずですから本来は「見える」わけがないのですが、「見えない存在」がうろうろしていては貴方にそれが何なのか、誰なのかわからず却って恐怖を与えるだけになる危険もあるでしょう。ですから、「ああ、おばあちゃんだ」などと貴方が安心してはっきり受け容れられる姿かたちをとって現れるわけです。

また、キリストとか聖母マリアとか、かなり昔の偉大な人物の霊が現れたという話もよくありますが、これらもまた見る人々がもっともなじみのあるわかりやすい姿かたちをとって現れます。もっとハッキリ言えば、本来の生前の姿をとって現れるとは限らないのです。例えば私たちは、キリストが実際にどんな容姿だったかを知りません。絵画などで見て知っているだけですね。もしもキリストが実際の生前の姿で現れたら誰もキリストだとわからないかもしれません。だったら絵画に描かれているような容姿をまとって現れたほうが間違いなく受け容れられる。実際の容姿がわからないような昔の人物でなくても、たとえばマザーテレサはこの世の生を終えてしまえば既にマザーテレサではないのですが、その姿で現れてくれれば「マザーテレサの霊だ」と誰でもわかるでしょう。

あるいは、貴方の過去生の人物の意識が貴方の前に霊として現れる、ということもまれにですがあるようです。転生する主体が既に貴方という肉体になっているのに、どうして?とおかしい感じもしますが、特殊な目的を持って出てくる場合に限ってはありうるようなのです。これは、霊というものが肉体でない以上、時間や空間など全ての制限から解放されていることによって可能になるのでしょう。

なくなった方の霊がどこかで見ていてくれる、と皆言いますが、どこか、というよりも場所など関係ないのです。Everywhere and anywhere and hereとでも言えばいいのでしょうか?時間も関係ので、同じ霊が同時に別々の場所に現れるということも全く問題なく可能なのです。あの世、という言い方がありますが、あの世というのがこの世と別の時空間として存在するわけではないのです。

ところが、先ほども述べたようにこの世に強い思いや執着を残したまま亡くなったような人々は、意識体だけの存在になってもまだ自分のことを肉体だと思い込んでいる、つまりさまざまな制限から解放されていないと思い込んでいて故にそのように存在しているという有様になっています。地縛霊というのはその最たるものですが、一般的に「霊障」と言われる現象をもたらすのはこれらの霊なのです。これらは必然的にネガティブなのでーたとえ善意からであっても心配や不安に囚われている霊はやはりネガティブですーネガティブな意識を持った人たちがキャッチしてしまいます。明るく幸せな気持で過ごしている人たちには近づくことができません。貴方が幸せに生きているのに心配して寄ってくる霊というのもあるのですが、貴方がネガティブな状態にならない限りその霊の存在を認識することはあっても霊障という現象は起こりません。安心させ慰めてあげれば去っていくか逆に貴方をサポートする役割にまわってくれます。人というのは死んで「ほとけさま」になったからといって急に霊格が上がって尊い意識になるわけではないので、やはり意識体としてあれこれの意思や想念を持つのですね。ちなみにもしもある人の意識が格段に覚醒に近づくことがあるとすればそれは死の直前です。周囲から見れば意識がなくなったように見えてもまだ本人は生きていて、どこかで何かを感じたり理解したりすることはできているのです。亡くなる直前に全てから解放された、というような人も少なくないのです。

霊というのは、成仏していようが覚醒していようが全て意識体としての存在なので、誰かの霊が現れたからといってその人が成仏していないとは限りません。

最後に「生霊」というものに触れておかなくてはなりません。これは読んで字のごとく「生きている人の意識」ですが、「霊」というからには肉体から離れて意識だけになっているわけです。想念と言っても良いでしょう。こういう現象が起きるというのは、どういう状況であれ余程執着の強い人だということになります。別に、生霊になって相手にとりついてやれ、という目的でやっているわけでもないのですが、無意識であればあるほどその想念も強く飛ぶというのが怖いところです。しかし、これも飛ばされたほうの相手が明るい気持でいれば何の影響も受けません。それどころかブーメラン現象で飛ばしたほうに跳ね返るとも言われています。人を呪わば穴二つということです。また、生霊というのは飛ばした本人も非常に消耗するものなので、当然運も下がりますますネガティブになる、というのがこれまた怖いところ。

これと似て非なるものもあります。現在生きている誰か、が目の前に現れるという点では同じですがそれが明らかに良い存在である場合もあるのです。誰か高僧が現れた、彼はまだ生きているのに?これは現在その高僧としてこの世に存在しているところの意識が来たわけです。覚醒したような人物なら自分≠肉体、ということをよくわかっているので当然その意識も物理的な制限を離れて自由にこのようなことができるのでしょう。(もっとも、実はこれは霊ではなく本人の思い込みに過ぎないということも大いにありえます)

いずれにしても「霊」というのをあまり特殊なものだと考えないほうが良いようです。存在の仕方が違うのだ、と思っていれば間違いありません。

 
第62回「本当のワタシ 番外編」

「私とは何か」という問題について様々な角度から考察してきたわけですが、何回か触れたように「ワタシ」だけではなく「貴方」も「彼(女)」もみんなそれぞれが自分のことを「私」と呼ぶからには、それぞれが「本当のワタシ」なるものを持っているということになります。そして、究極的にはその「真我」というものが自他の区別なく同じものである、突き詰めれば皆同じところに至ってしまう、というのなら、表面的にはそれぞれが独立分離した自我や身体である他人でも深い部分・根本の部分では貴方と同じものをもっているのだということにもなります。ということは、他人を攻撃したり批判したりするというのはそれが「自分とは別のものである」という認識があるからこそできるわけですから、これは分離した自我あるいはエゴの部分どうしでなされていることになります。

しかし、「本当の私」と「本当の貴方」とは同じ真我どうしであることを考えれば、「本当の私」は「本当の貴方」を批判したり攻撃したりすることはできないわけです。というか、もとより真我にそんなことをする性質はないのでした。それならば、日頃人間関係であーだこーだのトラブルを抱えている人々、というのは非常に表面的な差異にのみ囚われているということもできてしまうのです。確かにあの人にはどうみてもいやなところがある、しかしそれはあくまでその人のエゴの部分であり自分の真実が見えていないからそうなるのだ。鏡現象の捉え方に熟達するだけでも人間関係の悩みは激減し全く別の見方で世界を見ることができるようになりますが、更に先を行くなら今述べた点が重要なポイントになります。

即ち、表面的なことをまあ無視するのは難しいでしょうが少なくともあまり重く見ない、ということです。もしも貴方が「本当のワタシを分かってほしい」などと考えているならなおのこと相手の表面的なあれこれに拘泥するべきではありません。自分のことだけ深くみて頂戴、でも貴方のことは表面で判断しますというのではあまりにも不公平というものです。逆に、貴方の周囲に明らかにこういう立場をとっているように見える人がいたならば、ただ「ああ、この人はこう考えているからこうなるのだなあ」とだけ思っていればよろしい。それについてあーだこーだと批判するのなら貴方もまた相手の表面的な部分に囚われていることになってしまうからです。

エゴというのは全くもって厄介なものですが、この世に肉体を持って生まれ尚且つこの世に適応していく以上どうしても育っていかざるを得ないものなのです。それを如何に解体し手放していくか、というのがどうやらこの世に生を受けた目的の一つでもあるようなのです。人生の目的は幸せになることだ、という考えもありますがこれはエゴを手放すというのと全く同じことです。そうでなくては本当の幸せなどありえないからです。

とにかく、表面的現象にあまり拘泥しないようになると人間関係のトラブルは激減します。私はそうしているが相手が拘泥するからダメなのだ、だからトラブルが起きるのだ、というエクスキューズは先に述べた理由により却下されるでしょう。

初めのほうで「過去生と本当の自分とはあまり関係がない」と述べましたがそれについて少々補足をします。

過去生の自分というのはやはり肉体やエゴをもって存在していたものであり、要するに今の自分の別バージョンなわけですからそちらが「本来の姿」などという解釈は絶対にできないのです。また、過去生の自分が今の自分の「原因」である、とも言えません。じゃあその過去生の自分の原因は何なの?となるとそのまた過去生の自分だということになりこれは完全にエンドレスになってしまうからです。過去生というものを見るときに肉体その他の属性の部分は外してみるようにしなくてはあまり、というか全く意味がなくなってしまいます。どの時代にどういう身分・職業だったかなどということは実はどうでも良いのであって、どういう経験をし何を学びつつあったか、というあくまでスピリチュアルな内面的なものだけを見ないと過去生を今生に活用することなどできなくなります。カルマという言葉を使ってもよいのですが、そうすると過去生で人を殺したとか殺されたとかそういうことばかり想像してしまう方がいるので少々危険な感じがします。平和ボケの現代日本の基準で考えてはいけません。誰だって過去生に一度や二度は殺した殺されたという経験をしてないわけはないのであって、その表面的な経験が問題なのではないのです。例えば殺したくなかったのに殺さざるを得ず、その罪悪感がいまだに強く作用しているとか、逆に殺された恨みがあまりに強くてある状況のもとにおかれると同じ感情が異常に昂ぶってしまう、などせめてそれくらいの読み取り方をしないと本当に意味がないのです。

身分の高低などもあまり意味がありません。高い身分に生れた人生ではその立場でしか学べないことがあったのだろうし逆もまたしかり、なのであってその程度のことなのです。過去生の身分にこだわる人は、いわゆる「貴種流離譚」的ロマンを求めているに過ぎないような気もします。これはまあ少なからずみんな憧れることではありますが、そんなことをしていたらエゴが肥大化するだけで、本当の自分探しなどからは遠ざかる一方になってしまいます。

ともかく、過去生のことにおいて人種やら身分やらにこだわるということはとりもなおさず「肉体である自分」に時を超えてまでこだわっているということになります。本当の自分とは肉体と無関係なのですから、これではそこからどんどん遠ざかるのも当たり前でしょう。

来世の貴方が「過去生の私は日本でOLをしていて結婚して2人子供を生み平凡に暮らしました」といわれても「だから何なの」と思ってしまうでしょう。要するにそういうことなのです。

「あはれあはれこの世はさこそさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき」と詠んだ人もいますが、そりゃあいくら生まれ変わったって生老病死とそれに伴う現象からは逃れられません。しかし、その枠から抜け出して自他や世界を見ることもできる、みてみましょう、というのが真にスピリチュアルな姿勢なのです。

スピリット、というのはいろいろな訳し方があると思いますが、要するにマインドの中の「エゴではない部分」のことです。まあそれこそ「本当の自分」に限りなく近い部分ですね。つまり、本来はスピリチュアルな姿勢によってエゴ的欲望を実現させようなどということは根本的に無理があるわけです。しかし、エゴ的欲望から離れることによって却っていろいろなことがうまく運び実現するという逆説が成り立ったりもするのですね。ここが面白いところです。

ともあれ、自分というものをどう捉えるか、とはとりもなおさず他人のことをあるいは世界をどう捉えるかということにつながる重要な課題であります。

 
第61回「本当のワタシ W」

(承前)前回は魂の話をしましたので、それと対極に位置する身体の話をしないと不完全になってしまいますね。

これまで、「本当の自分」とは少なくとも肉体ではないものであると述べてきました。それでは、もし自分とはこの肉体のことである、と思った場合はどうなるのでしょうか?

私たちは、一応この世界或いはこの生において肉体を持って存在しています。生命体として存在しているということはとりあえず肉体を持ってここにいるということでもあるわけです。そして、そのように存在するということは個別の存在としてある、この世界・宇宙に二つとない存在としてあるということにもなります。つまり肉体というのは個別化の象徴のようなものなのです。

肉体としての存在だけを「自分だ」と思ってしまうと、この個別性というものにフォーカスすることになります。私と貴方とは違う、私と彼(女)とは違う存在である、或いは私とこの花は、猫は全然違うものだ、そのように「差異」にフォーカスして生きているとどうしても自他に関する問題にぶつかりやすくなるのです。

簡単に言うと「違うもの、別物」だから理解しがたい・溝があるという状態が起こりやすくなるのです。通じ合うとか交流しあうとかいわゆるコミュニケーションがとれない状態になってしまうのです。肉体が自他を隔てる一種の壁のような役割を果たしていることになりますね。

他人と自分とを比較して安心したり落ち込んだりコンプレックスを抱いたり、或いは「私のことをわかってくれない」とか「あの人のことが理解できない」などと思うのは実は大体全てここからきているようなのです。

もちろん、前回も述べたように魂にも個性はあるのですが、それでも魂には形がないのです。姿かたち即ち「見かけ」というものの有る無しというのはかなり大きな違いでしょう。単なる顔かたちだけではありません。性別というものもなくなってしまうわけです。よく異性のことはわからない、男って(女って)わからないよね〜という人がいますが、これも実は自分のことを「肉体である」と思っているからそうなるのです。そこを外してみるようにしていれば相手が男だろうが女だろうが子供だろうが老人だろうが、そんなことに惑わされることがなくなります。

そんなこと言ってたら自分と相手との違いがわからなくなって却って困るのではないか?と思われる人もいるでしょう。それが逆なのです。肉体という壁を取り払って他者を見られるようになると相手のことがより良く見えるようになるので、「ああこの人はこうなのか」と理解できるようになります。差異はあってもそれが理解を阻むものにはならず、却って理解を深めることにつながったりもするのです。

自分のことを肉体だと思い込んでいる人は当然他者のことも肉体だと思うことになります。このように肉体レベルで自他を認識していて尚且つそこに不可避的に差異が生じるのだということを知らないと、相手のことが全然見えないという最悪の状況に陥ります。これでは理解もコミュニケーションもあったものではありません。

皆が恋愛であれほど悩むのは、そこにどうしても肉体というものが大きく関わるからでしょう。恋愛に精神性を求めているとか魂のつながりが大切だとか言う人も大勢いますが、そういう人々で上記のような悩みを抱いているのなら実は当人自身が自分のことをこの肉体だと認識しているからだ、ということになってしまうわけです。自分自身が肉体というものに囚われていなければ精神性などとわざわざ意識する必要すらなくなるはずだからです。

翻って、肉体というものが個別性の象徴であり自他を隔てる壁であるならばそれは「自分を他者から守る砦」のように認識される場合もあります。他者と深く関わるのが怖い、などという人は他者と自分とが全く違うものだと非常に強く思っているわけですから当然「自分=肉体」であると思い込んでいる度合いも激しいことになります。そして、実際には肉体が防御のための砦などになるわけもないのです。だってもし本当にそういう役割を果たしているのなら、肉体があれば自分を守れるのですから他者と関わるのだって怖くないはずですよね。でも自分を守りたい!こういうときに病気になる、というケースがあります。病気などになって自由に動けなくなり他者との交流も制限されればイヤでも他者から自分を隔絶することになるので、それによって「自分を守る」ような状態が生じるのです。本人は「辛い、治りたい」と思っていてもその根底にこういう意識があればこの人にとって病気で不自由な状態というのは自分にある種の「利益」をもたらしているのですからなかなか回復しない、という結果につながったりもするわけです。

私はここで肉体を否定しているわけではありません。ただ、それが「(本当の)自分」だ、と思うとどうしてもいろいろな問題が生じやすくなる、つまり生きづらくなるのでちょっと考え直してみましょうと言っているだけなのです。そうしないとまさに「他者とは地獄である」という有様になってしまうのです。相手は人間に限ったことではありません。人間以外の生命体全てに関して当てはまることです。例えば貴方が何かの花を見るとき、ただ「ああチューリップか」と見るのとそこに没入して、我を忘れてみるのとでは味わい方が全然違いますよね。後者の場合、貴方と花は「形あるもの」どうしとしてではなく、もっとエッセンシャルなものどうしとして交流していることになるのです。いや、生命体だけに限ったことでもないかもしれません。

いずれにしろ、肉体に囚われないで精神あるいは魂として自分を認識し相手を見るならば、そこに差異は見えても比較による優劣などは生じないのですし、理解やコミュニケーションもずっと容易に深めることができます。

ところで、余談ですが昨今メールが一般的になり連絡を取るのは便利になった一方で「メールだと表情がわからないからうまく伝わらない」という声も聞きますね。しかし、むかし手紙の時代だった頃は文章によって実際に会って話す以上に深い交流が可能だったりもしたわけです。うんと昔など交通手段も発達していないのだから生涯一度も会うことなく手紙だけで終わったようなことも多々あったでしょうが、下手に会うよりずっと本質的で深い部分の交流ができたことは様々な人物の往復書簡などを読めばわかります。

これはいったいどういうことなのでしょうね?(この項続く)

 
第60回「本当のワタシ V」

(承前)前回は「本当の」本当の自分とは、ということで真我について少々述べました。

さて、「自分」というものを考えるとき避けて通れないのが「魂」という問題です。本当のワタシとは魂のことである、と言う人もいることでしょう。

しかし、そもそもこの「魂」とはいったい何なのか?これを正確に定義づけるのはさすがに困難を感じます。霊魂という言い方もあり、これと単なる「魂」とがいったいどう違うのか私にもよくわかりません。その相違を説明しているものもなくはないのですが、今ひとつ実存的には納得できないのです。生命体でない魂を「霊」と呼んでいるのかもしれないな、くらいは考えるのですが・・・ただ、魂というのは心とも精神とも意識とも多少は重なるが同一ではないものであり、それらのずっと深部にあるか或いはそれらより更に奥深いところにあるようなものであることは確かでしょう。私流に無理やり、かつラフに定義づけるとすればまずは「存在者の素」みたいなものでしょうか?生命存在かどうかは定かではありません。無機物にも魂が宿っているという考えもあり、今のところそれを否定できる確信がないからです。また、現在生命体として存在していない魂、というのも当然あるわけですが、逆に魂を持たない生命体というのはあり得ないのですから「生命体の素」と言って言えなくもないと感じます。

更に困ったことに、文化によっては「一人の人間が7つの魂を持っている」とか「13個持っているはずなのに3つなくなっているからその人は具合が悪くなっているのだ」などと言ったりしているようなのです。これは、どちらかというと「意識」に近いものなのではないか、という気がします。通常、一人の人間の意識というのはかなり様々に分離分裂しているもので、だからこそ「自分の知らない、未知の自分」などという現象も起きてくるのです。別に病気ではなくても意識の分離分裂の度合いが高く、それぞれがストレンジャーの状態であればあるほど問題が起きやすく日常生活にも支障をきたす、というのは容易に想像できます。

次に、魂を定義するとすれば「存在者の素」であり、輪廻転生の主体であるものだ、ということもできるでしょう。

魂と意識というのは同一ではなくても何らかつながりがあるはずで、そうでなければ過去生の経験の記憶を持って生まれ変わるということが説明できません。魂には形がありませんから当然性別やら人種やらもありません。転生する際にはその時々でどちらかの性別を選んで生れてきたり様々な地域に生れたりするものですよね。そして、にもかかわらずそれがその都度「私の」魂、ということになるわけです。

さて、その「私の魂」というのが本当の自分、なのでしょうか?性別でも人種でも「誰々の子であり親である」でもない、つまり肉体でもないものなのですからより「本来」に近いことは確からしい気がしますね。

しかし、前回も述べたように「エゴを持ち込んで転生するところのもの」は真我ではないのです。すると輪廻転生の主体たる「私の」魂、というものもそういう意味では「本当の私」ではない、ということになってしまいます。

つまり、「自己」における「真」と「エゴ」のありようがそのまま魂についてもあてはまるということになります。魂においても「私の」「貴方の」「彼(女)の」魂、という部分であれば、即ちインディヴィジュアルな魂というものである限りにおいて、やはりそれはどうしてもエゴ的なものにならざるを得ない、普遍的なものではなくなってしまうのです。

それでは「普遍的な魂」とはいったい何でしょう?これも同じです。宇宙なり神なり、創造の源であるような普遍的な存在の魂です。個々の魂はそこから分かたれてきたものなのでしょう。もとは皆同じで一つなのです。

それはそれとして、やはり魂たる「私」が通常の表層的な「私」というか普段私たちが「自分だ」と思い込んでいるよりも深い存在であることもまた確かです。これも無理やりな言い方かもしれませんが、今のこの「私」をこのような「私」たらしめているのが魂というものである。貴方は何故別段理由もなくあれに惹かれるのか、これを嫌うのか。あれは得意だがこれは苦手なのか。どうしても変えられない、生涯にわたって続くような「好み」や「傾向」、例えば色や音や形、思考方法、記憶の仕方、このようなことはどうやら魂がそういう傾向をもっているから、のようなのです。エゴが消失すればあれこれのこだわりはなくなるかもしれません。しかし、例えばエゴというものが全くない状態で創作している芸術家が何人かいるとして、彼らは全く同じものを創るでしょうか?やはりそれぞれに特徴的なやり方で独特の作品を創るに相違ありません。このあたりの差異、個性というものが元々は魂の個性から来ているのだということです。

エゴが消失しても悟りを開いて覚醒してしまっていても、個別の存在として在る以上どうしても残る個性というものがあるのです。既に真我と出会いそれと同化して生きてきても別に無個性になるわけではない、むしろどうしたってその人にしかないような、静かであっても強烈な個性が出てくるのです。どうやら、いわゆる「本当の自分探し」の人々は究極的にはこのようなところを求めているらしい、そんな感じもしてきます。

とすれば結局は一度この「自分」というものを捨てて或いは脇においてみなくてはならない、ということになってしまうのですね。自分探しのためには何かを得る、のではなくどんどん捨てていくというのが必要なのです。

 
第59回「本当のワタシ U」

(承前)今回のテーマで「本当の私」とか「自分探し」などと言われている事柄をいろいろな角度からあれこれ考えてみようとしているわけですが、前回の最後にも触れたようにそもそも「私」というのはどんなものなのだろうか?ということについてもう少し述べてみます。

皆、普通に自分のことを「私」と呼びますが、これは考えてみるとなかなか奥が深いことなのです。「私」と、これはまあ文法的に言ってしまえば一人称単数を表す人称代名詞なわけですが、これは実は全ての基本でありおおもとでもあるのです。

前にも書いたことですが「私という存在抜きでは他人の存在もあり得ない、つまり彼(女)や貴方などというものもあり得ない」のです。そして、わざわざ自分のことを「私」と認識したり呼んだりするのは「他者」の存在があるからです。あり得ないことですがもしも生れた瞬間から世界にたった一人だけ、の存在であるならばつまり他者というものが一切存在しないところにいるならば、何もわざわざ自分のことを区別して「私」と認識したりする必要も生じないのです。

こういう「私」とは、内容や人格のことではない。そういう見方をしてみると非常に面白いのです。

例えば、上記のことからもわかるように(というか日常的にも当たり前のことですが)あなたも彼(女)も憎いあの人も大好きなこの人も、神でさえも皆自分のことを「私」と呼ぶのです。当人ならばその都度それが「私」である。

ならばこういうことも言えます。

「私は何にでもなれるかもしれないが、『私』以外のものには決してなれない」

貴方が認知症になったり記憶喪失になったりして今までの自分のことをすべて忘れてしまったとしても、やはり自分のことは「私」だというでしょう。また、何らかの間違いか魔法で他人と入れ替わってしまったり全くの別人格になってしまったりしてもやはりそれはその都度「私」である。その日の気分でどの時代のどんな人物になれる、ということができたとしても、それもやはりその都度「私」である。そして、きっとその都度「私って何」などと考えるのかもしれませんね。

つまり「私が私であること」からは永遠に逃れられないのです。こういう現象は「私」以外のもの、つまり「あなた」「彼(女)」という人称代名詞ではありえないことです。みんな、「私って何」と考えるときに人格や内容というか属性のことばかりに夢中になってしまいますが、ちょっと視点を変えると「結局何をどうしたって私であることには変わりないじゃないの」というかなり大きな気づきにつながるのです。こういう気付きを得ると「本当の自分を探したい!」などと焦ってジタバタする、ということもなくなります。

ところで、本当の自分というものを社会的・対外的にではない形で求めている人々も大勢いますね。いわゆるスピリチュアルまわりの人々などはそういう傾向を持っているのではないでしょうか?こういう場合の「本当の自分を知って楽になった、使命に目覚めた」などという文句を社会的・対外的な「自分」のことだと勘違いしてしまう人もいるかもしれません。

社会的・対外的なものとは一切関係のない自分、いつどこにいても、それこそ貴方以外に誰も存在しない世界にいても変わらないところの「自分」というものはいったい何なのでしょうか?

これは、一般的に「エゴ的自己」に対するものとして「真我」などと呼ばれてもいます。普遍的な自己、といっても良いし仏教などで言うところの「父母未生以前本来の面目」というのもおそらくこれと同じものであると思います。要するに貴方が今の肉体を持ってこの世に生れる前から存在したところの「自己」、時間も場所も超越した自己、ということです。過去世とは関係ありません。どの人生においてもその都度「この世に生を受ける以前から存在した」という点に変わりはないからです。

さて、これはいったいどんなものでしょう?今まで述べてきたことからすると「生れる前からあった」のだからこの「真我」は肉体とは関係ないものであるとわかります。ということはつまり性別も年齢も人種も一切関係ないわけです。

そして、肉体というのは生れて死ぬものですが、この「真我」が肉体とは関係なく存在するものだとすると「生れたり死んだりするものでもない」となります。生まれもしなければ死にもしない、しかし存在はする。即ち「生死に拠らず存在する」ものである、ということができます。

さきほど「過去世とは関係ない」といいましたが、これは「真我というものがその都度いろいろな肉体を持って生まれ変わっている」のではない、ということでもあります。真我は常に存在するものですが、これは普遍的自己なのでエゴではありません。転生するたびに過去の人生の「自分」及びその癖や傷などを持ち越しているというのは即ちその自分が「エゴ的自己」だということです。真我であればそんなあれこれによって影響を受けて変化することはありません。何故なら普遍的なものは変質しないことによって普遍たりうるからです。

明らかなことですが、自分を主張しようとか「分かって欲しい」とか思うのは全て「エゴ」の自己です。真我にはそういう部分はありません。更に言ってしまえば、真我というのは宇宙なり神なり普遍的な存在と一つになっているものですから、自他の区別などなく従って自分を主張したり理解を求めたりする必要など生じるはずがないのです。

ハイアーセルフといわれているものもありますが、これは何だか自分に話しかけてくれたりなどと多分に人格的な要素が強いみたいなのでどうもこの「真我」とは違う気がします。真我というのは存在ではあるのだけれど、何というかもっと普遍的「状態」に近いものであると感じます。

つまり、「真我と出会う」「真我を知る」などというのはこの状態に至ることである、と言えるのです。ですから正確に言えば「見つける」というのとも少々違うのです。

「真我と出会うなんて、そんな難しいことすごい修業でもしない限りできっこない!」と思われるかもしれませんが、貴方も今までの人生で必ずー絶対保証しますーその状態に至ったことが、たとえそれぞれが非常に短い時間であったとしても、あるはずなのです。ただ、多くの人はその状態を「怖い」と思ったり抵抗を感じたりするのですぐもとの自分に戻ってしまうのです。これはエゴが抵抗しているのです。真我が出てくれば当然エゴは死にますから、エゴにしてみればそれは最大の恐怖でしょう。ですから真我と出会うだけなら無意識にでも多少は可能なのですが、それを維持するのはやはり難しいのです。このあたりの事情については去年の今頃ブログでご紹介した「究極の旅」という本に「真我と自我が出会って一体となりそれが日常の状態になる」までのプロセスが詳しく書かれています。

ところで、真我が宇宙であり神であるような存在と一つであるならば、真我であるところの「私」は神であり宇宙である、ともいえることになってしまいます。何だか怖ろしい!ですか?一歩間違えたら危ないような・・・「私は神だ」と言ってる人は真我なの?これを見分けるのは簡単です。エゴ的自己からそう言っている場合、「私だけが貴方たち凡人とは違う特別な神なのだ」になりますが、真我であれば「私は神だが、それと全く同じ資格において貴方も彼(女)も皆が神である」というふうになるからです。(この項続く)

 
第58回「本当のワタシ T」

いつだったか一時「本当の自分」「自分探し」というのがブームになっていたようですが今はどうなのでしょう?ブームは去ってもやはり一般的な関心事なのでしょうか?過去世などを知ろうとするのもこれと根っこは同じもののような気がします。

「本当の私」あるいは「私とは何か」を知りたい、と思うとき貴方はそれによって何を求めているのでしょうか?また、「貴方とは何ですか」と聞かれたとき貴方はどんなことをイメージするでしょうか?

ひょっとすると「私とは女(男)である」「日本人である」「妻(夫)である、母(父)親である」「これこれこういう性格・体質である」などなど、そういう事柄を列挙したくなるかもしれません。しかし、こういうものは全て貴方が「私」だと思っているものの「属性」に過ぎません。その証拠にまずこれらの属性全てをかき集めたら宇宙にただ一人しかいない、他でもないこの「貴方」というものが出来上がるでしょうか?また、それらの属性に何かしら変化が起きたら「本当の貴方」はどうなって、どこに行ってしまうのでしょうか?そんなものを「私」だと思ったりしているからそれらがちょっと崩れただけで簡単に「アイデンティティの危機」などということが起きるのです。私に言わせればこれらはアイデンティティですらない、そうだとしても極めて表層的なものに過ぎません。

「私にはこんな面があったのか」「実はこういうことを考えていたのか」「こんなことが得意だったのか」というのは確かに自分に関する発見・気づきではあります。前回のコラムでも述べたように、自分の本当の願望や怖れを正直に見つめ受け止めることは大切である、これも確かです。しかし、これらも厳密には「本当の自分」とは違うのです。なぜならやはりこういうものは変化するからです。昨日あるいは10年前に「私ってこうだわ」と確信していたものが今では違っている、ということは珍しくありません。ということは、今の貴方が「私ってこうだわ」と確信していても明日あるいは10年後にはそうでなくなっているかもしれないのです。そういうものが「本当の自分」であるわけがない。だって「本当の自分」というからにはそれは「真実の自分」であり、真実とは常に不変であるはずだからです。

また、一般的に「本当の自分」を知りたい、というのは自分にしかない・私が他でもないこの私であるところの、その「個性」を発見したいという意味でもあるようです。そうすれば自分にもっともふさわしい生き方がわかるのではないか、ということなのでしょう。

よく「本当の私を知ってほしい」などといいますが、これも上記のようなことー即ち「私が何を考えている、どんな人間であるかを知ってほしい」というくらいの意味であって、だからこそそう言えるわけです。ここでは「知ってほしい、理解して欲しい」にもっぱら力点が置かれています。明日になれば「理解して欲しい」内容が変わってしまうかもしれないのです。

さて、「宇宙にただひとつしかないこの自分」を端的に最もよく表しているのはその「身体」です。これは間違いありません。しかし、そんなことで納得できる人もいないでしょう。毎日自分を人前にさらしていればそれで満足なはずなのにそんな人はまずいないからです。DNAにしたって同じことです。貴方のDNA情報を公開して「これが私です」と言ったところでいったい何を言ったことになるのでしょうか?もしも貴方が「本当の自分を知って使命に目覚めたい」と考えているならこんなことが何かの役に立つのでしょうか?

「私とはすなわち脳である」と思っている人もいるかもしれません。しかし、当然ながら脳も肉体の一部です。脳を取り出して「これが私です」という人もいないでしょうし、そもそも「私が脳である」と思っている「私」はいったい何なのでしょう?

「私」が脳ではない、というのは以下のことからも説明できます。昨今「脳を若返らせる」「脳を鍛える」「脳に栄養を!」などという文句を頻繁に見かけますが、これらはまさに私が脳ではないということを端的に示しています。何故なら、脳を若返らせたり鍛えたり栄養を与えたりするその主体は「私」ではないですか!私=脳であれば、植木に水をやるように脳に栄養を与えることなどできないはずです。

「本当の私」が身体によって表されるものだ、というのでは全然満足できないのです。つまり、貴方はフィジカルなものでなくもっと意味的なもの、個性といいながら何かしら自分にしかない「価値」のようなものを見出したい、ということになりますね。

たとえば、今の自分が気に食わないとします。こんなの本当のワタシじゃないわ!と思い、それならばその「ワタシ」を見つけようとするわけです。

でも、ちょっと考えてみてください。

「こんなの本当のワタシじゃないわ!」と思っている「私」とは、いったいどの「私」なのでしょうか?何故「今の、こんなの」が「本当の」私じゃない、とわかるのでしょうか?

実はこれはデカルト式コギト我、の応用です。更に言えばこうなります。

「本当の私」とは「本当の私とは何か、と思っているこの私である」。要するに、いわゆる「我思う、ゆえに我あり」ですね。

私とは何であるか、と考えてもさっぱりわからない、しかし「私とは何であるか」と考えているこの自分が存在することだけは確かである!考えているのが「私」である!というこの気づきは、当人にとってみればそれこそ天地がひっくり返るほどの衝撃的なものです。ここが理解できれば自分の属性や性格・体質・嗜好などを「私だ」と思うことはできなくなります。社会的・対外的なあれこれに「本当の自分」を見出そうとする必要も理由もなくなります。貴方は相変わらず「ああなりたい」「こういう自分になりたい」と望み努力するかもしれない。しかし、そこには既に「本当の自分探し」などという視点はありません。

そして、本当の私というのが「本当の私とは何か」と思っているこの私である、とするならば、まさにその点において貴方も私も彼も彼女も誰も彼も「皆同じである」ということになってしまうのです。

なあんだ、そうか。とこのあたりを理解していれば何というか腹が据わって楽になります。もしも貴方がいわゆる「自分探し」をなさりたいのであれば、まずはこの点をしっかり掴んでおくことが重要です。そうすればあれやこれやを求めてさまよったり、何かにすがったりなどというおかしなことはまずしないで済むようになるからです。(この項続く)

 
第57回「真実は怖ろしいか W」

(承前)今回ご紹介する方法はかなりパワフルですがその分行なう際に抵抗を生じる可能性も高いものです。無理する必要はありません。ただ、こういうやり方もあるのだと何となく覚えていてくだされば何かに時に役立つのではないかと思います。

たとえば貴方に何か「失いたくないもの」や「得たいもの」があるとします。なぜそれらを「失いたくない」「得たい」と思うのか?

それらを「失う」或いは「得る」ということは貴方にとって何を意味するのか?また、それらを「失わずにいること」「得られないこと」は貴方にとって何を意味するのか?可能な限り正直になって可能な限りたくさん列挙してみてください。そうしていくと、貴方が「失いたくない」「得たい」その何か自体が問題なのではなくて、その向こう或いは根底にある貴方の本当の怖れや願望、また貴方が世界を見るときの判断基準が姿を現してくるのです。

貴方が「今の仕事をやめてもっと良い仕事を得たい」と思っているとして、上記の手順を踏んであれこれやってみた結果、貴方は要するに「大切に扱われたい」「自分の価値を確認したい」と思っているとわかるかもしれません。

ということは、問題は「仕事」なのではなくて今の貴方が「私は大切に扱われていない、自分に価値がない感じがする」と感じていることにある、という結論になります。更に、そのように感じてしまうことは、とりもなおさず今の貴方が自分自身に対してそのような評価を下している、ということにもなってしまうのです。

これは認めたくないことかもしれませんね。自分自身に問題がある、とするよりも「仕事に問題がある」としておいたほうが一見は楽なのです。もちろん、実際に今の仕事がどうしようもないものでここに留まることが貴方にとって何の利益ももたらさない、という場合もあります。そういうときでさえ、「どこまでが自分自身の問題なのか」を見極めることができれば「この仕事自体が本当にどうしようもないのだ」ということも明確に見極めることができるのです。

そのあたりを曖昧にしてしまうと、どんな仕事についても結局同じような不満を抱くという繰り返しになるかもしれません。

あるいは「今の環境ではこうしたくてもできない」という不満がある場合、これもよくよく見てみれば本当は「しないで済む」口実を作っているだけだということもあるのです。忙しすぎて恋愛ができない、という人は本当はいま恋愛などしたくないのかもしれない、それによって今の生活が乱されたり自分の悩みが増えたりするのが怖いのかもしれないのです。そしてそれを自分で認めたくないから何かのせいにしているのかもしれない。恋人やパートナーに対して不平不満が絶えないくせに別れない、というのは「不平不満をぶつける(本人に直接訴えないにしても、です)矛先を確保しておきたい」だけかもしれません。

次に、他人でも会社でも世間でも「こうなって欲しい」「こうして欲しい」と思っているとき、そうなることによって結局あなたはどうなりたいのか、とこれも正直にできるだけたくさん列挙してみましょう。何故「そうして欲しい、こうなって欲しい」と思うのかだけでは不十分なのです。相手がそうしてくれたとき貴方は何を得られるのでしょうか?恋愛などで「彼(女)にもっと自由になってほしい」と思っているのが実は「もっと私に夢中になって欲しい」ということだったり、「社会に正義を!」というのが「そうすれば私がもっと評価されて良い生活ができる」と思っているからだったりすることも多々あります。

要するに、きれいごとでなく自分の願望や怖れを正直に認めておくことが大切だということなのです。こんなバカなことを考えるなんて恥ずかしい、そんな自分ではない!ということにしておきたいのが人情ですが、このあたりを明らかにしておかないと貴方自身の中に常に葛藤が起きていることになり、自分が望んでいることがとんでもないーつまり貴方にとって不都合な形で実現してしまったりするのです。

本当は自分のことをもっと好きになってほしい、優しくしてほしい、と望んでいるのに「思いやりをもってほしい」などとすり替えてしまっていると、「別れよう、お互いのためだ」と「思いやりの気持から」言われてしまったりするかもしれません。あるいは「貴方のことでこんなに苦しんでいるのをわかってほしい」とすり替えているなら「苦しめてしまっているなら別れよう」になるかもしれない。更に「私はこんなに苦しんでいるのだと皆にわかってほしい」と望んでいるのにそれを素直に認めずしたがって表現もできずにいれば、病気になってしまいそのことで「苦しんでいるとわかってもらえる」ことになってしまうかもしれません。そもそもその人が苦しんでいたのは「自分の価値をもっと認めてもらいたい」からだったかもしれません。ということはつまりほかならぬ自分が自分の価値を認めていなかった、ということですね。

ひっくり返していうとこういうことになります。つまり、貴方の身に起きたこと・起きていることは貴方がどこかで「自分にとってもっとも利益になる良いことだ」と判断し受け容れたことなのです。「意識が現実を作る」「潜在意識の願望」というのはこういうことでもあるのです。

「全然よいことなんかじゃないし利益になんかなっていないわよ!」と反論されるかもしれません。だとしたら貴方はどこかで間違えたのです。

不当な扱いをされて苦しんでいてもそのことによって貴方は「私は善人だ、良い人だ」と思えているかもしれません。自分のことをそのように思いたいから、そのように思えるような出来事を招いてしまったのかもしれないのです。「私は神に選ばれた特別な人間だ」と思いたい人は「だからこそ修行のために人の何倍も苦労する」と思えるような出来事を招き入れるかもしれません。

貴方は苦しみたかったわけではない。なのにどこかで「間違えて」それを自分にとって「よいこと」だと決めてしまっていたのです。

また、あることを望みながら「こんなことを望んでしまうのは罰当たりだ、許されない」と思っていれば罰が当たらず許されるためにその望みが叶わない、という結果にもなるでしょう。

要するに、自分の願望や怖れをたとえそれらがどんなに自己中心的で恥ずかしいものであってもきれいごとにすり替えず、また周囲や相手のせいにせずにきちんと整理してそれらを日頃からできるだけこまめに解放するよう努めていれば「とんでもない形で実現する」ということはなくなります。自分のなかにそういう「みっともない」ようなものがあるのを認めることはなかなか難しいことであり、抵抗も生じるでしょう。しかし、そこまでやる価値は十分にあるのです。

 
第56回「真実は怖ろしいか?V」

(承前)ある視点・見方を獲得してしまえば自分自身についての真実・事実も他人についてのそれらも別段区別はなく、全く同じようにみることができるものです。簡単に言うと、自分のことも自分以外のもののことも全て同じ平面上に並べてみるとか自分を他人のごとくに見るとかそんなことになるのでしょうが、これは通常なかなかできないことのようなのでここではあえてこの両者を分けてみました。

自分自身についてのあれこれの事実と自分以外についてのそれら、において差異があるとすれば次のようなことでしょう。つまり、自分以外のことについてだったら貴方がそれらに対する興味や利害・関係性を失ってしまえばそれらについての事実などももうどうでも良くなってしまいますが、自分自身に関することになるとそうはいかない、という点です。相手が変わろうが環境が変わろうが、自分自身についての真実・事実というのは「もう知りません」というわけにはいかないでしょう。

もっとも、「自分以外のことについてのあれこれ」というのも厳密に言えば全て「自分自身のこと」なのです。これは「貴方の意識が貴方にとっての現実を作る」とか「他者は鏡である」などの言い方で今までも説明してきましたが、今回は少し違った観点から述べてみましょう。

自分以外のもの(人間でも何でも)=他者、といっても、これらは実は常に自分の中にしか存在しないのです。そんなはずはない、自分の外側にあるじゃないか!と思うかもしれませんが、見たり触ったりできる「物質」としてはそのようであっても「貴方にとって何らかの意味を持つ存在」としては実は貴方の中にしか存在しません。

ちょっと考えて見て下さい。貴方にとって全く見ず知らずの他人、というのはいったいどんなものでしょうか?そんなものを貴方はただの一つも思い浮かべることができないはずなのです。貴方にとっては「存在しない」も同然の存在ということになります。貴方が普通「他者」と思っているものは全て既に何らかの関わりが生じているものだけなのです。直接会ったことがなくても構いません。名前しか知らない、或いは顔しか知らないなどというものでも構いませんがとにかく貴方が「他者」として認識するからにはそれは既に貴方にとって「全く見ず知らず」ではあり得なくなっているのです。

例えば、電車の中でたまたま前の座席にすわった全然知らない人、というのも貴方がその人を見てしまえば何らかのイメージや印象のようなものが貴方の中に生じ或いは取り込まれるわけですね。この時点でー3分後には下車して生涯再会することもなくそのまま忘れてしまったとしてもーその「他人」は貴方の中で一つの像になってしまっている。そして、その人をどう見るかどう感じるかはもっぱら貴方の(無意識の)やり方に沿ったものなのですから、何というか「貴方の見たその人」という像は「貴方という人のやり方」つまり貴方の真実みたいなものをそのまま体現してしまっている、ということにもなってしまうのです。

これを更に推し進めてみると「他者というのは常に自分にとっての他者、でしかない」というこれはもう確固たる「事実」が出てくるわけです。

単純なことです。「自分」というものがあるからこそ「他者」という概念が出てくる。「自分」なしの「他人」などというものはあり得ないでしょう。

ということは!

貴方が「他者」だと思っているものは実は全て自分の中にあるのであって自分と離れて存在しているのではない。物理的には離れていても意味的には貴方の中にしか存在しない。言い換えれば「他者」というのはいつでも「貴方が見た、貴方にとっての他者」でしかない、ということです。

となれば。

「他者」というのはこれまた常に「貴方の見方・感じ方」が投影され反映されたものでしかない!ということにもなってしまいます。つまり他者についての事実や真実を見る、ということはすなわち自分自身についての事実・真実を見るのと同じことになってしまうのです。

この点さえしっかり押さえておけば貴方はどんな環境にあってどんな人々と関わっていても、関わるというよりメディアなどで一方的に目にするだけであっても、それら全てから「自分自身についての真実・事実」を見ていくことが可能になります。

また、自分自身のことを他人のごとくに眺める、というのも重要なことです。今の貴方の様々な状態、というのが(当たり前ですが)そのまま「いまのあなた」なのです。他者については「現象をそのまま事実だと思ってはいけない」といいましたが、これは他者に関する「現象」を「あなた」のやりかたで見たり解釈したりするからダメなのであって、そうでないやり方すなわち「ある視点・見方」を通してならば現象がそのまま事実や真実を表してくれている場合も多々あるのです。

そして、たいていの人は今の自分の「現象」というか状態をそのまま認めたくないのです。他者については逆にそのまま(といっても貴方のやりかたで、ですが)受け取ってしまうくせに自分のこととなると「本当はこうじゃなくてああなのよ」と思いたい。そして「ああじゃなくてこう」なっている理由をやれ過去世がどうだったからとか運気がどうだからとかいろいろ並べ上げて自分を納得させようとしてしまいます。自分自身に関しては変に複雑な見方をしてどんどん混乱を極めてしまう、という傾向があるのです。

これはむしろ非常に単純な見方をしてしまったほうがスッキリわかることが多いのです。

あの人に対してこういうことを言ってしまいたい自分、にはそれを正当化できる様々な事情があると自分ではいくらでも思えるわけですが、周囲から見れば「要するにこういうことでしょ」の一言で済んでしまう、というケースもありますね。そんなことをズバッと指摘されればおそらく貴方は怒り抵抗するでしょう。そんなミもフタもないこと言わないでよ、と思うことでしょう。

しかし、実態はそんなものだったりするわけです。そういうシンプルな「結論」というか事実を自分自身に対して突きつけられることが大切。しかしそこで自分を批判したり落ち込んだりしたりするのはダメ。なぜならそこから逃げ出したくなるからです。

 
第55回「真実は怖ろしいか?U」

(承前)今回は「自分自身の真実」について述べるつもりでしたが、予定を変更して前回の続きというか補足のようなことを書いてみます。

一般的に、真実あるいは事実、というのはまずそれを認識する際に当人の価値判断や好みなどというものが一切排除される必要のあるものです。

一つの例を挙げてみましょう。かなり以前のことですが、アゴタ・クリストフという人の「悪童日記」という小説が流行りました。詳しい内容はあまり覚えていないのですが、この中で非常に印象に残った箇所があります。

主人公の双子が戦禍の地で生き延びるためにさまざまなルールを作ります。その中の一つが「事実だけを話す」ということ。あるおばさんがパンをくれた、とすると「おばさんがパンをくれた」というのだけが事実であって「このおばさんは優しい」「良い人だ」などと言ってはいけない、というのです。

少々極端に聴こえるかもしれませんが、まさにそういうことなのです。そのおばさんがパンをくれたのは彼女が優しかったり良い人だったりするからだとは限らない。ある状況のもとではパンをくれてもそうでないときは何もくれないかもしれない。そういうことはこの時点では「まだわからない」のだから判断できないのです。もしもこの時点で「おばさんは優しくてよい人だ」と決めてしまっていたら、そしてもしも次に会ったときには何もくれなかったとしたらどうでしょう?

どうして何もくれなかったのだろうか、本当は優しくないんだろうか、などと悩むか。

「本当は冷たい人なんだ」と判断を変更するか。

どちらも間違っています。正解があるとすれば「判断できない、わからない」ということだけでしょう。

更に、初めに「優しい」と判断してしまった段階で「だから自分はあのおばさんが好きだ」とまで決めてしまったらどうでしょう?何もくれなくなってもやはり好きなままでいられるのでしょうか?それとも自分によいことをしてくれるという状況のもとでだけ「好きだ」と思い、そうでなければ「好きではなく」なるのでしょうか?

とすると「あのおばさんが好きだ」というのは本人にとってさえ真実・事実ではないということになります。

どうでしょう?極端な例のように思えたかもしれませんが実際に日常の人間関係(恋愛も含めて)の中で皆さんが悩んでいるのも要するにこれと同じようなことなのではないでしょうか?

他人を信じるな、といっているのではありません。これについては以前「信じるか?」というテーマで述べましたので詳しいことは省きますが、要するに「どこまでが間違いのない事実か」を常に見定め、それ以外は「実はまだわからない」という態度がかなり重要だ、といいたいのです。

そのおばさんは、「パンをくれることもある」人だとしておくならそれは「事実」なので問題ありません。あるいは、「あの人は私に笑顔で接してくれる」というのでも構いません。しかし「だからよい人だ、私に好意を持っているのだ」などと初めから決め付けてしまうと、もしもその人がある時貴方に笑顔を向けなかったら貴方は混乱に陥るかもしれないのです。

「あの人は私が嫌いになったのか」「あれは作り笑いだったのか」などとあれこれ悩んでしまうかもしれません。

しかし、わからないのです。貴方のことが別に好きでもないのに作り笑いをしていただけかもしれないし、貴方のことが好きなのにたまたましかめ面をしただけかもしれない。全て貴方が初めに「判断」してしまったことからくる混乱であり相手には何の責任も落ち度もありません。

また、貴方に対してとてもよくしてくれる人がいるとします。それはその人が貴方に好意を持っているのか、何か魂胆があるのか、或いは別に特別「良くしてあげている」というつもりもなくただそういう人なのか?

単純かつ非常に端的な事実だけで「この人は信用できる」とわかることもありますが、それには一切の感情的判断が排除されていなくてはならないのです。

これはなかなか難しいことなので、ビジネスなどで人に関わる場合は「相手がどういう人で自分にどういう影響を与えるか、自分はどう接したらよいか」を知るためにリーディングを大いに活用してください。もちろん恋愛など個人的な問題でも同様なのですが、こちらに関しては当人の感情的判断があまりにも強く介入してしまうので注意が必要です。

たとえばリーディングで「将来はこうなる、本質はこうだ」と出ても目の前の現象に囚われ感情的になってしまうと混乱するのです。今、目の前の現象が貴方にとってどう映っていたとしてもそれが真実とは限らない、だからこそのリーディングなのに現象に囚われてオタオタしたり油断したりしてしまうことがあるわけです。

さて、それでは「自分自身の真実・自分自身に関する事実」というのはどうでしょう?

これは直接自分が見たり聞いたりすることはできないように感じますが、いつも私がしつこく言っている「自分の現実を作るのは自分自身である」ということを思い出して下さい。すなわち、貴方が見たり聞いたり感じたりしたと「思った」ことは全て貴方がそのような見方・聞き方・感じ方を選んで経験しているのです。そのような見方・聞き方・感じ方つまり経験をしているというまさにそのことが貴方の真実である、ということができます。相手が、状況がこうだからつまり周囲のせいで自分はこういう経験をしているのだ、ということではないのです。同じ状況に見舞われても別の人だったらまた別の経験になっているかもしれないのです。そしてやはりこれは他人や状況との関係において観察されるものです。(たとえ相手が目の前にいなくても、です!)

これらをちゃんと見るには、まずこれまで述べてきたような手順を実行して他人や周囲のことであれこれ心を煩わせたり余計なエネルギーを浪費するのを止めるのが重要です。何故なら「自分以外のこと」ばかり考えてしまっていれば「自分自身のこと」に心を向ける余裕がなくなるからです。リーディングでも「私は今どういう状態になっているのでしょう」と聞いてくる方は非常に少ないですが、私に言わせれば本当に大切なのはこちらのほうなのです。(この項続く)


 
第54回「真実は怖ろしいか?T」

あけましておめでとうございます。今年もとりあえず去年と同じようなスタイルでこのコラムを書くつもりですのでよろしくお願いいたします。

今年最初のテーマは「真実」ということをめぐるあれこれです。真実とは、簡単に言ってしまえば「本当のこと」という意味ですね。「真理」とは違います。こちらはもっと根源的かつ普遍的な概念なのでそれこそ言葉で表現することは不可能に近いのですが、真実のほうはいろいろなレベルがあってそれなりに表現することが可能なものです。「現実」と言い換えられるようにも感じられるがこの二つは別物です。むしろ「事実」というものに近いのではないか、と思います。

本当のことがわからない、というのはたいていの場合誰にとってもあまり心地よいものではありません。本当はどうなのか知りたい、と考えるのが普通のことで、リーディングで扱われるのも殆どがこれなのです。知りたくない、という人はリーディングに来ないはずですよね。

ある現象があって、貴方はそれを何通りにも解釈できるという場合その中のどれが「本当のこと」なのかわからなくて悩む、もちろん貴方の想像の及ばない結論が出ることもあるのですが、ともかく「いったいこれはどういうことなのでしょう、本当はどうなのでしょう」と質問してくるわけです。

そして「不都合な真実」ではないですが、貴方にとって必ずしも嬉しくない結論が出たとしてもそれが納得のいくものであれば受け容れるし、逆に肯定的な結論であっても納得できなければ受け容れられません。これらをよく調べていくと、どういうことが自分にとって「真実である」と受け容れやすく或いは受け容れがたいのか、という傾向が見えてきます。それだけでも例の「意識の刻印」のようなものが浮き彫りになってわかってくるのです。

こういう現象があるけれども真相はこうですよ、と言えるというのは当然ながら貴方の目に、というか心に映る現象がそのまま真実ではないという、まあ言ってみれば「常識」みたいなことが共有されているからです。もっとも、あるところまで行くと現象から真相が透けて見えるようにもなってくるのですが、それはあまり一般的に起こることではありません。

しかし、たとえ「こうですよ」と言っても「でもどうしても私にはそう感じられない」というケースもあります。結果としてどちらが「正しい」のか、はさておいてもこのように主張してしまうことがあまり望ましくないのには理由があります。すなわち、これまでもしつこく繰り返してきたように、貴方の心の目に映ること、貴方が「こうだ」と感じることは全て貴方の意識によってなされている・・・貴方の中の意識の刻印によってそのような感じ方・受け取り方をしてしまっているわけです。ですから、「このようにしか受け取れない自分の意識というのは何なのだろう」と自問してみたほうがよい。すると、「私の意識の姿勢・自分に対する信念はこうなっていたのか」という次の「真実」が見えてくるでしょう。

例えば、貴方が好意を抱いている誰かの貴方に対する態度が気になって「いったいあの人は私をどう思っているのだろう」と考えたとします。ここで「相手も貴方に好意を抱いていますよ」と言われた時、「ああそうなんだ」と素直に受け取れるなら良いのですが、「でもこういうことやああいうことがあった、だから私にはそう思えない」とあくまでそれを受け容れない人もいます。だったら自分の感覚を信じてください、と言うしかないのですがそれはそれで良いのです。

しかし、「私にはそう思えない」と言いながら「あの人は私を好きではない」というのも真実として受け容れたくない、という場合はどうなるでしょう?どちらも真実だと受け容れられない、ということはいったいどういうことなのでしょう?

上の例とは逆に、「その人は貴方のことを別に何とも思っていません」と言われても「ウソ―そんなのイヤだわ」と抵抗しつつ、しかしだからといって「あの人は私が好きなのだ」ということも真実として認められない、という場合でも同じことです。どちらも真実として受け容れられないのなら「真実など知りたくない」となっても不思議ではないのに、それでもまだ「本当のことが知りたい」と思い続けて悩んだりしているわけです。いったい何を望んでいるのでしょうか?

これは明らかに「願望」と「事実認識」とを混同しているのです。そして更に願望が分裂しているのです。

「こうであって欲しい」という願望と「事実=真実はこうだ」ということとは違っていても別に何の問題もないではありませんか。それは多少「何だ、面白くない」くらいは感じるかもしれませんが、それは感想みたいなものに過ぎません。事実あるいは真実がそうであるなら、私はこれからどのように考え動いたらよいのだろうか、となるのがまあマトモな姿勢であって、それらをごっちゃにしてあーだこーだと悩んでいたらそこから一歩も進むことができなくなってしまいます。

更に、さきほども言ったようにその願望自体が分裂していることも大きな問題です。これも以前に散々述べてきたことですが、自分では「好かれたい」と望んでいるつもりなのにどこか深いところの自己否定により「私が好かれるわけがない」「うまくいくわけがない」というような思い込み・信念があるとこれがマイナスの或いはネガティブな「願望」になってしまい、ますます混乱するというわけです。

自分にもこういう傾向がある、と気づいたならばとりあえず必要なのは「私は混乱しているのだ」と認めることであり「本当のことが知りたいなどと言って悩むのを止める」ということです。本当のことを言われたってどうせ受け容れられないのですからそんなことを望むのは馬鹿げているでしょう。そして、その上で「私は本当は何を望んでいるのか」を整理することです。「本当はこうなりたいけどどうせダメだわ」というのは要するに願望が分裂しているのですが、それでもどちらか選べと言われたら「こうなりたい」というほうを取るのが普通だと思います。そうしたらそれ一本に統一しましょう。自信がなかろうが不安だろうが、とにかくこうなりたいのだ、と素直に決めるだけでもかなりスッキリします。

そして「私にはこう見える、こう受け取れるけれども本当はどうかわからないのだし、まあいいか」という気持でいると不思議なことに却っていろいろなことが見えてきたりするものです。そしてその都度、その時点での事実認識と願望とを混同しないように意識していれば「悩んでグチャグチャ」という状態はなくなってきます。

初めのほうで「真実」は「現実」と別物だ、と書きましたが「現実」というのは貴方にとってのものであり全て貴方の意識によって作られるものであるのに対して「真実」や「事実」はそうではない。貴方がそう感じられず受け容れられなくてもそのようにあるものだ、ということなのです。貴方にとっての「現実」は貴方の理解のレベルによっても変わってくるのですが「真実」はそうではありません。貴方が理解できなくても受け容れられなくてもそのままそれとしてあることなのです。

ということは、貴方の状態によっては「真実」「事実」が本当にわからない、という場合も当然あるわけです。だからこそリーディングなどの助けを借りずに自分ひとりでやるときにはあくまでも「その時点で」可能な認識に過ぎないことになりますから、「今の私にはこう見える・こう受け取れるが本当のことはわからない」という姿勢・ジャッジしない判断保留の姿勢が重要になるのです。

ところで、よく「真実は人を自由にする」と言いますね。これは何故かというと、真実を受け容れられるということはイコール「どれも真実だと受け容れられなくて悩んでグチャグチャ」ではなくなる、そういう状態から解放されるからなのです。

今回述べてきたのは主に自分の外側にあるように見える「現象」と「真実・事実」との関係とそれらの処理の仕方ですが、より根源的で重要でありそれゆえにたいていの人が避けて通ってしまうのが「自分自身の真実」というものです。次回はこれを扱います。(この項続く)

 
第53回「伝わるということ」

一年間このコラムを書いてきたことは、私にとってこれまで考え認識したことをまとめるという意味でも大変有益でありまた楽しみでもありました。

もっとも初めの段階で思いついてはいたものの年内に扱いきれなかったテーマもいくつかあります。書こうと思っているうちに私自身新たな学びや気づきが始まってしまったために当初予定していた内容とはかなり違ってきているものは、それらを更に消化し実際に経験してみるまでは保留にすることにしたからです。

何であれ、普遍的であるようなことを伝えるのは私の乏しい文章力では決して容易ではありません。これは以前から感じていたことですが、それらは言葉によって伝わるものではないような気持がこのコラムを始めてからますます強くなりました。

何かを伝える際のツールとして言葉は必要不可欠とまでは言えないかもしれないが便利なものではあります。しかし、人は本当に「言葉」によってコミュニケートしているのか?

もちろん、全然知らない外国語によって意志の疎通をはかることは不可能なので、ここではお互いに理解している言語によってのコミュニケーションという場合に限定して述べます。

「右」と言われて「左」のことだと思ったり「1」と言って「3」をもってくる人は普通いないから、こういうのは問題ないでしょう。また「お腹がすいた」とか「暑い」とか、そういう言葉ならまだ良いのです。本当にそれだけを伝えようとしているのならそれで十二分なのです。しかし、そういうものであっても「お腹がすいた」といいながら実は別のことを訴えていたり、ものすごくわかりやすく喩えるなら「貴方なんか大嫌い」と言いながら実は「大好き」ということもあったり、そんなわけなので日常生活においてすら言葉をそのまま真正面から受け止めていたらコミュニケーションがスムーズにいかないケースがしばしばあるでしょう。

そもそも言葉、というのは何か「そのもの自体」を直接表すことはできず、言葉によって表現された途端にそれは虚構になってしまうのだということ。これは言葉に限らない、写真でも絵画でも何でもそのようなのです。いくらそっくりに映し出しているからといってそれは「それ自身」とは違うものなのです。それ自身ではないのだけれど、そこに映し出された「何か」が「それ自身にしかない何か」を表しているときに、「それ自身」を伝えることができたと言えるのでしょう。

言葉、というのはそれ以上に難しいところがあります。例えば貴方の目の前にネコがいるとする。それを「ネコがいる」と言ったら、これはただ一般化しただけであって「それ」自体ではなくなってしまうのです。それをいくら「ミケネコ」「雌」「体重何キロ」などとその性質を並べ立てていったところで「他の何者でもないまさにこれ」であるところのものを、それ自体をそのまま表すことはできない。

普通の人はそんなに面倒なことをいちいち考えずに生きていますが、実際にはこうなのです。

「愛とは何か」を言おうとすれば、「愛とはこうこうである」と愛の性質を並べ立てたり「こういうのは愛ではない」などと「愛でないもの」を並べ立てたりすることによって何となく「愛」というものを浮かびあがらせることはできますが、「愛」そのもの、を表すことはできません。

こうしてみると、語られ書かれたことが正確に伝わるというのはそれらが「実は皆どこかで知っている」普遍的なことだからであり、それが可能であるというまさにそのことがその普遍性の証左であるとも言えるような気がします。

そもそも、人は本当に言葉でコミュニケートしているのか?

言葉によって、ではなく言葉を「介して」ということか?つまり、

言葉によって伝え合っているようで、本当は言葉以外の「何か」が働いているのではないか?

だとすると、実はそちらのほうこそが重要なのではないか?

ここで私は別に「表情」や「声色」などのことを言っているのではありません。これは会話に限らず文章によるものにも及んでいるからです。だからこそますます不思議で、ますます悩ましいのです。

ただ、本当に重要なことの中には「この世の言葉」では言い表せないことが沢山ある。これだけはどうしても確かなようなのです。

そうはいいつつも、私の場合とりあえず言葉によって書き語るしかないのであって、このジレンマは時としてかなり苦しい。しかし、他に方法を思いつかないのだから日々奮励努力するしかないのであります。

ともあれ、一年間おつきあいありがとうございました。心より感謝を申し上げます。来年もよろしくお願い致します。

 
第52回「間違いのもと 番外編」

このテーマで述べてきたのは、自分に対するネガティブな意識の刻印あるいは信念が生じたのは様々なきっかけによるものだがいずれにしろ正統な根拠はない、つまり「間違ってそう思い込んでしまった」のであること及びそれらの刻印や信念を解体し消去するにはどうしたらよいか、ということ、おおまかに言ってその2点です。

そして間違った自己否定という信念を消去するためにはとにかく「他者を赦す」ことで自分をも赦すという方法がもっともシンプルでお金もかからずお薦めであるとしてご紹介してきたわけですが、それでもやっぱりこれはなかなか容易ではないのです。一度で全てうまくできる、などということはまず絶対にありませんので「ああ、またやっちゃった」と思ってもご安心下さい。

最終的には自分も他者も責めたり批判したりすることがなくなればよいわけですが、そこまで一足飛びに行くのが非常に困難に感じられると初めからやる気を失う・・・・という怖れもあります。

そこで、いくつかやりやすくするためのヒントをまとめてみました。

まず、他者(他人であれ、世間であれとにかく自分以外の何かです)を批判するということは普通なかなか止められません。それが感情的になってしまっている場合なら明らかに鏡現象なので気づきさえすれば反省もしやすいのですが、その区別がつきにくいときもありますしどう考えても相手が一方的に非常識でおかしい、ということもあるでしょう。

こういう場合、二つのケースが考えられます。相手が確かにおかしい、しかしそれに対してそんなにも感情的に批判したくなるのはひとえに相手が貴方の思い通りに、或いは貴方の期待通りに動いてくれなかったからではないか。相手の言動が貴方に向けられたものでなかったのならそんなにも批判したい気持にはならないのではないか?更に、それは本当に貴方に向けられたものなのか?まず、このあたりを整理してみて下さい。

例えば、世間やら政治家などに対する怒りや批判などは別にそれらの動きが直接貴方に向けられたものではないはずなのですから、「なるほどそんなものなのか」と呆れることはあっても別に躍起になって批判したり怒りを覚えたりする必要はないわけです。どうしてもそうなってしまう、というならそれはやはり貴方の中に自分自身に対する怒りや不満があって、それらを外に投影していると見るしかありません。つまり鏡現象です。

また、相手が自分の思い通りにならないということを「相手のおかしさ・非常識さ」のせいにするというのは明らかにすり替えです。貴方が批判し怒っているのは相手の過ちや欠陥のせいではなく、「自分の思い通りにしてくれない、自分にとって気に入らないことをした」という点に対してなのです。すると別に相手を批判する必要もなくなります。このあたりも鏡現象についての項で触れていますが、「なあんだ、私は要するにこういうことで怒っていたのか」と分かれば済む話です。つまり、それが本当に分かれば怒ることも批判することもできなくなるわけです。

ところで、上記のように「感情的」にではなくもっと冷静に分析するような形で他者を批判してしまう、というのは別に悪いこととはされていません。まるで批評家のように振舞うことによって自分を偉くみせようとか自分のアイデンティティ(?)を確立強化しようなどというトンチンカンな人もいますが、そこまでいかなければ日常的にごく普通に「あれってこうよね」みたいな会話で他者の批判はかならず出てきます。

これを全て止める、というのはおかしなことです。批判・判断しないという「形」だけを追求してみても何にもならないからです。

こういうときのポイントは次の二つです。まず、それらが単なる「非難」なのかそれとも愛情から出ているものなのかをチェックする。次に、自分が他者に対して何らかの批判をしてしまうとき、常にそれを「自分にも向けてみる」ことです。この習慣は大切です。

あの人ってこれこれこうなのよね、と思ったり言ったりするときに「実は私にもそういうところがあるかもしれない、今はそうじゃないけど条件が揃えば自分もそうなるかもしれない」という自戒として捉えてみれば、結構相手に対してもそれなりに思いやりの気持が生じるものです。

何故ならば、それが批判であれ何であれ話題に上るということは興味があるということに他ならないわけで、興味があるということは何らかそれが自分に関係するということを意味するからです。全く興味がないことならそもそも話題にしようと思わないし他人が喋っていても「ふーん」で終わらせてしまうでしょう?批判の対象が「自分に全く無関係である」と考えないことが重要です。

卑近な言い方をしてしまえば「他人の振りみて我が振り直せ」ということですね。

最後に、上記のどれにもあてはまらないケースとして(本当にどれにもあてはまらないのかを見極めるにはそれなりに精査が必要です!)明らかに相手が自分に対してとんでもない仕打ちをしてきた、というのがあります。どんなに怒っても相手を責めてもそりゃあ当然でしょう、というケースです。

しかし、やはり例外はないのです。ではこんなときはどう考えたらよいのでしょうか?

最近知り得たところによると、攻撃というのはもちろん「愛がない」から生じることなのですがそれは見方を変えれば「愛や助けを求める叫び」なのだ、ということがあるのです。自分にも他人にも言えることなのですが、「愛がない」→「愛を求めたいが求め方も知らない」という場合に攻撃してしまう、というふうに捉えることができるのです。

すると、貴方に対して攻撃をしかけてきた人はつまり「愛や助けを求めている」人だ、ということになります。このように捉えると「ヤラレタ!」という衝撃はあっても怒りや批判は最小限に抑えることができるようです。

この捉え方はもちろん自分に対しても適用できますし、大いにして欲しいところです。そもそも批判や怒りというのも攻撃の一種なわけですし、攻撃というのが防御のためであり、防御の根拠は恐怖である、ということを考えれば「怖れ」というのも「愛を求める叫び」と捉えることができます。そして恐怖がない人は攻撃することもあり得ません。

攻撃するということはその人に強い恐怖があり愛や助けを求めているのだ、と理解しておくのは貴方にとってそれこそ大変な「助け」になります。

一応断っておきますが、この場合の「愛」というのは間違っても恋愛感情のことではありません!また特定の相手から得られる特定の愛、のことでもありません。もっと広くて深い普遍的なものですので、念のため。

 
第51回「間違いのもと X」

(承前)ついさっきであっても遠い過去であっても(過去世も含めて)他人にされたことではなく、自分がしてしまったことによりーそれを他人に投影しないでー自分に対する怒りや自己嫌悪あるいは罪悪感に陥る場合ももちろんあります。「鏡現象」で述べたことを実践した結果、相手を責める気持はなくなったがその代わり自分が落ち込み、後悔や自責の念にかられることになる、などということも十分にあり得ます。これらのネガティブな感情はどのようにして手放せばよいのでしょうか?

これも基本的には前回までに述べた方法と同じでよいのです。つまり、「他者を責める代わりに自分を責めてしまう人」と同様に考えてよいわけです。一般的に見て「本当は相手から攻撃されたのにそれを自分のせいだと思い込む」ことと「実際に自分が相手にひどいことをしてしまった、その自覚がある」ということは全然違うように感じられるでしょうが、意識における受け取られ方だけを見ればそこに差はないのです。驚かれるかもしれませんが本当にそうなのです。強盗に入られて「私が運の悪いダメな人間だからだ」と思い込んで自分を責めることと自分が強盗に入ってしまったことで罪悪感に陥るのが「意識においては」差がない、などとは!この点は実に重要です。外的な「現象」と「意識における現実」はなんと言うか別物なのです。ここが理解できないと、或いはここにこだわっていると今まで述べてきた「赦し」を実践することはできません。意識の刻印を何とかしようとするならば、また「信念・姿勢」を変えたいと願うならば、「世界」なるものが自分の外側にあるのではなく、全て自分の内部にあるというつもりにならないと駄目なのです。

いずれにしろやるべきことは「他者を赦す」というか他者を責め批判する気持をなくすこと、そういう気持を抱いてしまってもなるべく早く打ち消すこと。これだけです。これを日常の習慣にすることだけが大切です。

それに、自分で自分を赦す、ということは非常に難しいのです。あのときの自分は本当に馬鹿だった、とか間違っているのは相手ではなく自分だった、などと客観視することまではそんなに難しくはありません。ある程度冷静になればできることだからです。しかしここから更に冷静に「反省」だけをして前に進むというのはそう容易ではありません。

それに、自分で自分を赦すとなると逆にどうしても甘くなってしまい「私は悪くなかったんだ、あんなことは忘れよう」などと安直に考えるのであれば、それは「手放し」ではなくただの現実逃避にもなりかねません。これでは、意識の根底で受け取ってしまっている後悔や自責の念などが抑圧されたことに過ぎないので却って始末が悪いということになってしまいます。周囲から「犯罪を犯したくせにヘラヘラして許せない」「あの人って本当に懲りないわね」と思われるのはこういうケースです。

ですから、自分が自分を赦す、というやり方は止めておきましょう。その代わり「他者」に対してそれをするのです。

繰り返し述べているように潜在意識に自他の区別はない、という原則がここでも生かされています。日々、他者を責める気持を無くしているうちに段々自分を責める気持も消去されていくのです。

たとえば。

これに熟達してくると何かいやな目にあっても、というか以前なら「いやな目にあった」と思うような出来事にあっても気にならなくなります。また、以前なら「攻撃された」と感じるようなことでもそれを何か別のメッセージとして受け取ることができるようになります。

大体、「攻撃された」と感じるということは、実は何であれ相手の言動を「攻撃」と解釈して受け取っているということに他ならないのです。つまり貴方の中に「攻撃」という概念が予め存在していることを意味します。

この「攻撃」の部分を「侮辱」とか「非難・中傷」などに置き換えて考えてみてください。いろいろ思い当たることがあるのではないでしょうか?

それらの概念が自分の中に全く存在しなくなる、というのも難しいことなのですがそれでも「相手はどうやら私を侮辱しているつもりらしいな」とただ光景を眺めるごとくに認識するだけで感情が全く動かない、それどころか「あの人も大変なんだなあ」などと感じるようになることは十分に可能です。

恋愛などで、自分が好きな相手が自分のことを嫌っているようだと感じてしまう場合など意識の根底に眠っていた自分に対するネガティブな感情が怒涛のように押し寄せて、落ち込んだり或いはそれらの感情を相手に投影して怒ったり批判したり・・・・などという人もよく見かけます。こういうとき「いーえ、これは私がネガティブだからそう見えているだけだわ。本当はあの人は私が好きなのよ。」などと思い込もうとするのは無理がある上にいま述べているやり方からすると全くズレています。これも初めは難しいのかもしれませんが、「私は嫌われているのかもしれないが、たとえそうだとしても相手が私に対してどういう気持を抱くかは100%相手の自由なのだから仕方ない。」と捉えられるようになるだけでもかなり違います。

こういうことを続けていると次第に貴方は心が乱されにくくなります。自他に対するネガティブな感情が消えていく、ということはそれらによって引き起こされ呼び込まれていた「ネガティブな経験」もしないで済むようになります。要するに基本的な認識の仕方が変わる、ということですね。「世界」というのは先ほども書いたように貴方の外側に貴方に関係なく存在するものではなく、貴方の認識そのものなのですから、当然「世界」も全く違ったものになることでしょう。

そして、このような認識の変化なしに願望の達成などあり得ません。ずっと以前に「何か願いをかけてもそのそばから不安を抱いていたりすれば願望は叶わないでしょう」と書いたことがありますが、願望を邪魔するようなネガティブな信念が消えればよいということですね。そして、面白いことにというか当然のごとく、このような認識ができるようになった状態の人はそうそうエゴ的な願望は抱かなくなります。そして「非エゴ的」な願望ほど叶いやすいのですから、これまた当然のごとくにこういう人が抱く願望は叶いやすくなります。

ついでにもう一つ。「あの人は、世界は間違っている!」と他者の過ちをことさら言い立て主張する、ということはそれら「過ち」に意識がフォーカスしているのです。ということは、つまり貴方は「過ち」を現実のものとして強く認めてしまっているということに他なりません。もっと言えば貴方はその「過ち」という現実を共有してしまっているわけです。そのようにではなく、「あれはあれなりにやっているのだ、仕方ないのだ」くらいに捉えるのがよいのです。まさか「あれは正しいのだ」とは感じられなくてもこれくらいならできるでしょう。そして間違っても「正してあげよう」などと思わないこと!思いやりと寛容さをもって眺め接しているだけで十二分なのです。その上で厳しい言葉を発するのならば、それは批判や非難ではなく「愛情」になります。

これは難しいかもしれません。しかし、スピリチュアルを標榜している人たちの中にはこの区別がついていない人も結構いるものなので注意が必要です。

   
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