碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 154
第18章 その2
世界とは何か!言うまでもなく「あなたが知覚認識する外界」が「あなたにとっての世界」である。そして、いま私たちが「現実の世界」だと思っているものは実際には「ほんとうの現実」ではなく、それが歪められてスクリーンに映った像なのである。なぜ歪んだかと言えば、「歪めたい」と願ったからだ。そんな覚えはないかもしれないが、私たちがエゴに同化してしまえばどうしたって「攻撃にさらされ、傷つくのが当たり前」という世界を体現する羽目になるのである。
夜眠っている時に見る夢のことを考えてみてほしい。楽しいものであれ怖いものであれ、それらはたいてい「めちゃくちゃ」なものだ。時間も空間も登場人物も目が覚めている時の「現実」の中のものとは違う。ありえないことが平気で起こる。相当おかしい人でない限り、夢と現実を混同はしない。目が覚めれば「あ〜夢だったか」で終わる。そしてそのうち忘れてしまう。
夢の中では文字通り「目覚めているときの現実」が「仮想現実・幻想」に置き換わってしまっている。エゴは本当の現実に耐えられず、私たちは本当の現実を変えたがっている事実を示すよい例である。無意識という分裂したマインドの中にももちろんエゴは居座っているのだし、むしろ野放しになってさえいるのだ。普段は冷静な人でさえ夢の中では絶叫したりする。自分ではまったく望んでいないような怖い夢でさえ、実際には一種の「願望」なのである。
夢というのは「予知夢」なども含めて全て幻想である。予知される内容はこの世のあれこれに決まっているからだ。目の前にある現実でさえ本当は幻想だというのなら、いわんや夢など幻想の最たるものである。寝ているときに夢を見て、夢の中ではそれが現実だと思い込めるという現象は、「ある幻想をほかの幻想で置き換える」のであり、私たちが「自分の現実を作り出す」願望と能力を持つことを示しているのだ。目覚めているときの現実と夢を混同する人は、やっぱり「ある幻想をほかの幻想で置き換えている」わけだ。(私はたまに夢の中で「これは夢だ」とわかって、しかも「気に入らないストーリーだから巻き戻して作り直す」ということをしていたのだが、これをやると目覚めたときにすごく疲れた)。
あらゆる幻想の根底には恐怖がある。目の前の現実と寝ているときの夢とどちらが恐ろしいかはその時々によって違うだろうが、どちらにしても「幻想で幻想を置き換えている」のには変わりない。要は、私たちがエゴと同化したことによって「全ては一つであるという本当の現実」を恐れているところが原点である。本当の現実を恐ろしいと思ったことじたいがそもそも「幻想」なのだ。
さて、ここで目の前の現実を夢だと考えてみてほしい。夢の中の「外界」はあなたの「マインド(或いは無意識)」だ。これはわかりますね。夢の中の登場人物もあなたのマインドの中にあるものであって実際の彼らではない。彼らを「動かして」いるのはあなたのマインドである。しかし、夢の中であなたは彼らがあたかも「実際の彼ら」であるかのように反応している。それを疑いもしない。夢の中で彼らがあなたにひどいことをしようが、熱烈に愛してくれようが、それはあなたのマインドが作ったシナリオに過ぎない。もし本当に自分がそんなことをしているとわかったら、誰だって「相手を自分の思い通りに、まるで人形のように動かすなんて悪いことだ」「夢の中とはいえ相手を悪人にしてしまったなんて!」と罪悪感にまみれてしまうだろう。
しかし!!私たちは、実のところ目が覚めているときにもこれをやっているのである。本当の意味で真理に目覚めないから気づかない、通常の「目覚め」はある幻想からもう一つの幻想に移行しただけなのだ。先に書いた「原点」の部分すなわち「本当の現実は恐ろしいという思い込み」「本当の現実とは別の世界を作り出したいという願い」は残っているからである。
そして、神によって造られたただ一つの「現実」を自分の思い通りに変えようという願いは、無意識にであれどうしても罪悪感を生じさせていることになる。罪悪感が強まるとともに恐怖や不安もまた強化されてしまう。
まとめると、まず私たちは「本当の現実は恐ろしい」と思い込んでいるためにその現実から逃れて別の現実を作り上げようとし、救われるために自分以外のところに特別な何か・誰かを求める。その特別な何か・誰かに自分のマインドの中のあれこれを投影しては一喜一憂するのである。
かといって「夢を見るのは一切やめよう」なんて思ってもなかなかその通りにはならない。そこでまた聖霊の登場なのである。聖霊は私たちの夢をも浄化し変容させて有効利用してくれるのだ。今までの私たちは「閉じたマインド」を守るために夢を利用してきたようなものだが、聖霊は夢を「目覚めるための助け」として使う。恐ろしい夢ではなく、楽しくハッピーな夢つまり「本当の現実」に限りなく近い夢を見ることができるようになる。
たとえば「特別な関係」も無理やりあなたから奪うなんてことはしないで、それを罪悪感と苦痛を生み出すものから喜びと自由をもたらすものに変容するわけだ。ただ、非常に逆説的なのだが、そうなるとこれはもはや「特別な人」でも「特別な関係」でもなくなるのである。家族などに代表されるように、この世における身体的・物理的な意味での特別性は残るかもしれないが、それ以上の意味において「特別」なことなどありえない。
ちょっと乱暴な言い方をさせていただくと、私たちの人間関係は全て「自然現象」のようになる感じなのだ。来る者は来させ、去る者は去らせる。どんな相手に対しても同じことをし、同じものを与えられる。たまたま「この世のご縁」で近い関係になればそれだけかかわる時間も頻度も長くわけだが、だからといって「より特別」というものではない。
当たり前のことだが、聖霊には愛と感謝の波動しかない。私たちの「特別な関係」に聖霊を招き入れれば或いはそれを聖霊に委ねれば、どんな関係にあるどんな人でも癒されるのだ。苦しい関係から解放されるとは、その相手と別れることだとは限らない。ただ別れたって解放されていないケースのほうが多いんじゃないかと思うくらいだ。正しい意味においての「解放」とは、幻想からの解放に他ならない。つまり罪悪感や苦痛から解き放たれて自由になるのだ。そしてそうなったとき私たちはもはや「特別な何か・誰か」など必要としなくなっているのである。言い方を変えれば、あらゆる人が「特別な人」になり、あらゆる関係が「特別な関係」になる。日々出会うあらゆる人があなたの「マスター」になる。そこには聖性があり、その関係を通してあなたも相手も癒され解放され救われるからである。私たちの関係の目的が「本当の現実から逃げる」ことではなく「本当の現実を受け入れる」ものに変容するからである。
ところが実際にそうなってみると、普段の現実とあまりにも違う、ちょっと考えられない事態であるため、また夢を現実だと思い込むことに慣れすぎているために私たちは「こんなことは夢なんじゃないか」と思ったりすることもあるし、またすぐ元に戻ってしまうこともある。が、それでもやはり私たちは次第に「夢から夢へ」ではなく「夢から現実へ」移行していくようになる。
(余談だが、本当に覚醒してしまった人は夢を一切見なくなるらしい。それどころか「休む」ことはあっても「眠る」ことがなくなるらしい。)
前にも書かれていたが、「コース」は「悪夢からいきなり叩き起こされると却ってパニックになる」ので「まず幸せな夢を見させて自然に目を覚まさせる」方法を推奨している。
この「幸せな夢」の状態こそが天国に至る手前の段階である「本当の世界」なのだ。これらは全て「神の御心のままに受け入れる」という意志から生じるものである。私たちの日常世界と夜見る夢がともに「別の現実を作り出そう」という、神の御心に反した願望から生じているのと対をなしている。両方とも「夢と現実に大差がない」点において共通しているわけだ。
夢の中で救いを得ようとするとどうなるか?更なる夢を見る羽目になる。もっと悪くなったように思えても、或いはちょっとましになったように思えても同じことだ。眠りはますます深くなってしまう。光を求めているつもりで気づかない間にどんどん深い闇の中に入り込んでしまうのと同じである。闇の中にとどまったままで、すなわち真理の光から目をそらしたままで救いを求めているうちは何をどうしたってダメなのだ。しかし、真理の光は見えなくなることはあっても失われることはない。しかもそれは私たちの中にあるのだ!見ないふりをすることはできるが失うことはない。真理は逃げも隠れもせず、常に今ここにある。
私たちはこんなに愛や癒しや救いを求めているにもかかわらず、どうしてもこの光=本当の現実を怖がってすくんでしまう癖がある。ちょっと光が見えても「これこそが真実だったのだ」という確信を持つことができず、怖気づいてしまうのだ。
恐怖や不安は闇の中にある、ように見える。実際には闇の中には何もない。逆に、恐怖や不安に襲われているとき私たちは闇の中にいるのだ。「過去に見聞きした経験を基準にして未来のことを恐れる」以外の恐怖はありえない。ここを本当によく考えてほしい。
闇から抜け出して光の中に入るためには、実は何の苦労も要らないのである。ただ勇気を出して目を開きさえすればよい。一瞬で済んでしまうことなのだ。幻想=闇の中で救いを求めてしまえば一生かかっても何度生まれ変わっても苦しい旅が続く。私たちは今までずっとそうしてきたため、救いを得るのはとてつもなく困難だと思い込んでいる。ゆえに「光を見つけるのは不可能なくらい大変な苦難の旅に違いない」と思ってしまうのだ。
本当の現実は恐ろしい、そう信じることは真理を求めつつ真理を恐れ、愛を求めつつ愛を恐れ、救いを求めつつ救いを恐れることに等しい。どちらを選ぶかは私たちの決断次第、馴染みがあるからといってそれが楽で自然な道なわけではないことにくれぐれも留意してほしい。
碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 155
第18章 その3
またしてもしつこく繰り返す。不安や恐怖や罪悪感に流されてしまうのは簡単なことだが、それは単に「今までそうして来たので癖になっている」からである。それらを抱えれば楽ではないし、苦しいに決まっている。何故なら本来の私たちにとってそれらが「自然なことではない、自然に逆らっている」状態だからである。感謝と平安に満たされていたほうが誰だって気分がいいはずだ。誰だって自然にしていれば楽だし自然に逆らっていれば苦痛ではないか!ただ、それが「自分の選択次第」だということが皆なかなか理解できない。自分に制御不能の何かがそれを阻んでいると思い込んでしまっているのである。自分が「怖い、どうしよう」と思わない限り、怖いものなど「実在」はしないのだ。また、以前「感情移入」についてもいろいろ教えられたが、相手の苦痛に感情移入すれば双方の闇をますます深くしてしまうことになる。ここはもう何度繰り返しても足りないのではないかと私は感じている。
私たちはひとりでいようが、誰と一緒にいようが常にキリストと或いは聖霊とともにいるのであり、神と神の賜物を受け入れているのである。言い換えれば、スピリットとして在りスピリットとして誰かとかかわることは誰にとっても可能であり、尚且つ却って自然なことなのである。その時にはあらゆる人間関係が世を照らす光になる。逆に、私たちが誰かに背を向ければそれはキリストに背を向けたことになってしまうのだ。
こういうことがよく理解できなくても全然構わない。所詮、今の私たちには何も理解などできないのだ。「そうなってみればわかる」のだから、まずは「そうなってみよう」と強く願い意志することが肝要である。
ものすごくシンプルなことなのだ。難しいと感じるとすればそれはただ慣れていないからに過ぎない。要するに、常に自分のマインドを見張って「幻想」が入り込まないように、「幻想」に飲み込まれないように注意すること。そして、やはり常に自分のマインドを感謝と平和で満たしておくこと(それを「コース」は「聖なるものでいよう、という願いだと言っており、更にその願いはとっくに叶えられてしまっていると言っている」。これだけなのだ。これは自分がそう決めさえすれば常に「今ここで」できることなのである。そんな場合じゃないのよっ!だって今はあれとこれが大変なんだから云々なんていうのは寝言に近い言い訳である。何故ならその「あれとこれが大変」と認識することじたいが幻想だからだ。
私たちの目的地(ゴール)は絶対確実なものである。そこに到達しようという意志を保ち続けさえすれば誰でも必ず到達できる、というか到達した暁には「何だ、初めからここにいたんじゃないか」とわかるようなものなのだ。
本来の状態には「願望」というものが存在しない。全てがあるところには願望など必要ないからである。願望とは分離の産物だ。「神から離れてバラバラになった」という勘違いに端を発するこの世界の私たちにしかないものだ。しかし、その「願望」もまた聖霊によって上記のように有効利用されれば「神の御心」と合致するものになり、救いに至る学びを助けてくれるものになる。
冒頭に書いたことと関連するのだが、私たちがキリストとともに歩みつつ誰かとかかわれば私たちはその相手を闇から救い出してやれる。これもまた「人を見たら聖霊と思え」と同じことである。
忘れてしまった人もいるかもしれないのでちょっとおさらいしておこう。スピリットとエゴは全く疎通ができないのである。相手を聖霊だと見る以上、私たちはスピリットとして存在しているのであり、そうなればイヤでも相手のエゴはそれこそ「相手にならない」のだ。自動的にスピリットどうしのかかわりにならざるを得ない。そこに私たちは光を持ち込んでしまったのだから闇は消えざるを得ないではないか。奇跡がもたらされるのはそういう時なのである。私たちを苦しめていた(ように見えた)あれこれが、「本当は存在しなかった」ことが知覚認識されるのは、幻想という闇に光が持ち込まれた結果として闇が消えてしまったからなのだ。
キリストや聖霊(あるいはスピリット)を心から信じれば、またその「あかし」として誰か兄弟姉妹を心から信じれば、私たちは聖霊やキリストに力を与えることになる。与えたものを受け取るという原理に従い、私たちはそれらの力を受け取ることができる。闇に光をもたらすこと、これこそが癒し・救いであり、またこれだけが私たちに与えられた役割なのである。既に目覚めつつある私たちはその光を持って人々の中に入っていき、彼らの闇を照らすのである。
どれだけ時間がかかるんだ、などと悩まないでほしい。悩むことじたい、あなたがまたしても幻想に落ちいってしまっている証左だ。そちらに気を取られないようくれぐれも注意してほしい。
私たちは何生にもわたってバラバラに生きていた。その過去はもはや「なかった」のだということが明らかになろうとしている。光に照らされれば今まで見えなかったものが見えるようになる。恐ろしいものが隠れているんじゃないかと思って目を凝らし「敵」を探しているとき、私たちは光をもたらしたつもりでますます深い闇の中に潜り込んでしまうのだ。そんなものは「ない」、本当に光が持ち込まれればそれがわかる。
私たちがあらゆる人々とともに天国に向かって歩む間中、天国からの或いは神からの光は一つ残らず私たちを照らし続ける。ものすごく比喩的な表現をゆるしていただければ、神の光はあまりにも強烈で明るいのでそれに照らされれば光以外の何も見えなくなってしまい、その光こそが真理であり神であり私たち自身でもある、そういう感じである。
聖霊に委ねるというときに「あれとこれをこうして下さいお願いします」なんて言ったらもうエゴが入ってきている危険がある。聖霊に委ねるときにはとにかく「邪魔をしない」に限る。すなわちただ「感謝と平和の波動」になる、そして「どんな幻想よりも聖なる瞬間のほうを選ぶ」と決める。これだけなのだ。そうすればすぐに結果が出る。信じられないだろうか?だとしたら、あなたは自分のあらゆる知覚認識とそれに伴う感情が専ら「自分がそう決めたから」という、自分の判断の結果であることについて自覚が足りないのだ。まずそれを認めよう。今からやろうとしていることはちょうどその裏返しなのだから、「自分で決めればそうなる」という部分だけは理解しておかないと難しくなってしまう。しかし、それ以上の理解は必要ない、というより聖霊のわざはそもそも私たちの理解を超えているのである。
自分の了見で良かれと思うあれこれについてはこの際無視してほしい。何がどうなるかなど考えず、ただ聖霊を信頼して委ねるのだ。「望むことを具体的にありありと思い浮かべて云々」という凡俗な願望実現のハウツーと「コース」とはその出発点から違うのである。自分自身も含めて何もかもがあるがままにある、実はこれこそが奇跡の極意なのである。「コース」は繰り返し「奇跡はごく自然な現象である」と言っているではないか。何か特別なことをする必要はないのであって、ただひたすら「邪魔をしない」つまり「完全に委ねる」こと、そうしようという決心だけが必要なのだ。
委ねる、というのは本当に信頼していなければできないことだ。聖霊に委ねられないのならあなたは聖霊を信頼していない、つまり「自分よりはるかに賢くすばらしく力強い」存在だと思っていないことになる。これは「エゴの傲慢」である。
一方で、「聖なる瞬間なんて私にはとても無理よ」というのが「エゴの謙虚」であり、謙虚に見えて実際には傲慢なのである。聖なるものが自分にふさわしくないというのは「神に造られたまま、ありのまま」を否定することになり、自分が神とは別物だと思っている点において真理を否定したことになり、つまりは神をも否定したことになるからだ。
聖なる瞬間は自分で作り出すものではない。全てを聖霊に或いは神の御心に委ねれば自動的に与えられるものである。先に書いたように、委ねようという決心だけが必要なのだ。
神に何かしてもらうにはまずそれにふさわしく素晴らしい人間になっていなくてはならない!と思うのは間違っているそうだ。委ねるために必要なこと・・信頼、感謝、平和・・はしなくてはならないが、それは一瞬でできることである。何年もかけてとんでもない修行をする必要はないのだ。
ここでもまた私たちに必要なのは「邪魔をしない」「余計なことをしない」という、それだけなのである。必要なものは全て既に用意されてしまっているのだ。私たちがいくらわからなかろうが拒絶しようが何だろうが、あるものはあるがままにある。それは揺るがない。余計なことをして邪魔さえしなければ私たちにもそれが「わかる」ようになる。
それと同じ道理で、まず自分が素晴らしくなって奇跡を起こせるようにならないと他人のために奇跡を起こしたりして「教える」ことができない、まず自分があがなわれないと他人をあがなうこともできない、というのも間違いなのだ。教えることは学ぶことであり、教える者は学ぶ者でもある。あがないは同時になされる。そこに区別はありえない。
「聖なるものでいよう」と「聖なるものになろう」とは違う。前者は「ありのままでいよう」ということだが後者は「今の自分とは別の何かになろう」という意味合いがあるのはおわかりだと思う。今は凡俗なものですが努力して聖なるものになります、というのは一見謙虚だが「間違っている」=「真理・神の否定」=「真理・神への攻撃」になるので結局傲慢なのは上に述べたとおりである。あなたを聖なるものとして造ったのは神であってあなたではないのだ。浄化は「神によるありのまま」の自然なことであって、あなたが自分で浄化するのではないのだ。
で、こうなるのである。
「神を迎えることができる私は神にふさわしいものだ。私の中には神の住処があり、神はあるべきようにそれを造られた。私は神を迎えるために特別な用意などする必要はない。私には既に神を迎える用意ができている。神はそのことを私に思い出させ気づかせて下さるだろう。余計なことをしてその邪魔をしてはならない。私なりの流儀でやろうなどと思えば神の思し召しを受け取ることができなくなってしまうだろう」